謙遜な神様

CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌19番
讃美歌183番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 45章23-25節 (旧約聖書1,137ページ)・

45:23 わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば/その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみ/すべての舌は誓いを立て
45:24 恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。主に対して怒りを燃やした者はことごとく/主に服し、恥を受ける。
45:25 イスラエルの子孫はすべて/主によって、正しい者とされて誇る。

新約聖書:フィリピの信徒への手紙 2章6-11節 (新約聖書363ページ)

2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえ

《説教》『謙遜な神様』

今日は「新型コロナウィルス感染症による緊急事態宣言」が解除されましたが、東京は引き続いて「まん延防止等重点措置」となってしまい、折角大変久し振りに礼拝堂に集い、教会学校の生徒さんや父母の方々を含めて教会学校との合同礼拝を守ることが、今日は出来ませんでしたが、ライブ配信を通しても、豊かな御言葉に出会えますことを感謝します。また、早く皆様と一堂に揃って礼拝・賛美の時が与えられます様、祈り願います。

今日の聖書箇所は、使徒パウロがキリスト・イエスの本当のお姿をフィリピ教会の信徒だけでなく私たちに熱く語られた『キリスト賛歌』と呼ばれているところです。

私たちは自分自身を省みる時、へりくだることは全く苦手な者であると言えるでしょう。とりわけ自分が目上であったり、自分が優位な立場にある相手に対しては、とてもへりくだることなどできません。そのような私たちに向かって、パウロは、少し前の5節から、へりくだることの大切さを語っているのです。そこには、「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」とあります。パウロは、信仰者がへりくだることの根拠は、キリスト・イエスのへりくだりにあると言うのです。「へりくだる」とは、自分で何か努力して、自分が頑張ってするのではなく、ただキリストを見つめることだと言うのです。

キリストを見つめるとは、キリストをお手本にして、その素晴らしい生き方を見倣うのではありません。キリストを見つめるとは、キリストを自らの救い主と受け入れ、キリストに救われ、キリストご自身の思いを、周りの人々に対して生かすことです。それは、私たちが自分の力で成し遂げられることではなく、キリストに救われた者が、その救いの恵みに感謝して行く時に自然と生まれてくることなのです。

キリスト信仰者が見つめるべき主イエスのお姿は6節から8節に記されています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で表れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。ここは、パウロ以前の初代教会時代で謳われていたキリスト讃歌として知られていました。その当時の教会でどのような礼拝讃美が行われていたか、また、パウロがこのキリスト讃歌にどのように手を加えたかなどが、大変よく研究されてきた聖書箇所と言えます。

ここには、キリストがどのようなお方かが明確に示されています。教会は、ここに記されているキリストのお姿に触れて、讃美を歌わずにはいられなかったのです。ここで先ず、キリストが神の身分であったとあります。キリストは神と等しい方、神ご自身であったのです。しかし、それに固執せず、拘らずに、神の身分を捨てて、人間と同じ者になられたのです。キリスト・イエスとは、神でありながら人となられた方なのです。この世界を創られた創造主である神は、ご自身が造られた被造物である人間と同じではないと私たちは考えます。しかし、主イエスとは、創造主である神ご自身が人となられたのです。創造主なる神、父なる神が、人であるキリスト・イエスとなって世界に来て下さったのです。それも、ただ神が人となったというだけでなく、へりくだって、十字架の死に至るまで従順だったとあるのです。

主イエスが、人間となって、力強い御言葉を語り、人々を癒し、素晴らしい生き方の見本を見せたと言っているのではありません。「十字架の死」にまで従順だったというのです。ここに「十字架の死」という言葉が出てきます。聖書は主イエスが十字架刑によって死なれたことを記しますが、聖書の中でキリストの死を「十字架の死」と言う概念をもって示すのは、今日のこの箇所だけです。十字架刑は、当時のローマ帝国で、最も重い刑罰でした。しかし、ここでの「十字架の死」とは、神様の裁きとしての死のことです。

私たちは、死と聞くと、私たちがいずれ迎える肉体の滅びとしての死を考えます。しかし、聖書は死にもっともっと深い意味を込めているのです。エデンの園から追われた人間は神様から離れて、神様ではなく自分自身が、自分の主人として生きてしまいます。そのように神様から離れることを罪と呼びます。その罪に支配された人間が受けなくてはいけない神の裁きが「十字架の死」なのです。

その十字架の死をキリストが受けて下さったというのです。本来、罪人である人間が受けなくてはならなかった神の裁きとしての死を、人間の姿をとって世に来て下さった神である主イエスが受けて下さった。その刑罰を受けることを、抵抗することもなく、それが人間を救おうとする神の御心である「十字架の死」を受けて下さったのです。私たちすべての人間の行き着く「滅びとしての死」、人間が罪人である以上、避けることが出来ないものを、罪の無い主イエスが受けて下さった。そのように考えると、十字架において主イエスは、人間以上に人間の姿をとって下さったと言っても良いでしょう。罪人が行き着く悲惨な死が、主イエスの十字架の死にあるからです。この出来事こそ、キリストの「へりくだり」ということなのです。ここに、私たちが見つめるべき、へりくだることの原型と言うべきものがあるのです。それは、私たち人間の謙遜などとは全く異なるものであり、キリストの救いにあずかることなしには生まれて来ないものなのです。

今日の聖書箇所の直前の3節で、パウロは、教会の人々にへりくだることを勧める際に、「何事も利己心や虚栄心から」しないようにと語っています。これは、キリストが自分に固執せずにむしろ自分を無にしたというその姿勢が私たちの中に生じる時にはじめて、「利己心」とか「虚栄心」によって振る舞わないという姿勢が取れるというのです。「利己心」というのは、自分の利益のみを求めて行動することです。「虚栄心」とは、自分に栄光が帰されること、人から評価されることを求める思いです。これらのことは、私たち人間の感情においては、ごく自然なものと言って良いかもしれません。「利己心」や「虚栄心」は全ての人間の本質と言っても良いでしょう。私たちは、いつも自分が高められることを求めています。周囲の人々に正当に評価されたいと思いますし、自分が見下されることは耐えられないものです。

そのような私たちにとって、自らの振る舞い全てが、いつしか、自分が高められるということを求めて行われるようになってしまうのです。そこで、個人の業績だったり、学歴だったり、財産だったり自分に栄光を帰してくれるものを求め、それに依り頼んで歩むようになるのです。6節の「固執しようとは思わず」とある「固執する」とは「略奪する」という意味の言葉です、従ってここは「奪い取ろうとは思わず」という意味です。私たちは、本来、自分の身分を高めるために必要なものを獲得しようとします。時には奪い取るようにして獲得し、そして、そのようにして得たものにしがみつき、それを離したくないと思います。固執すると言うのは、しがみつき、離れないことです。自分が人々から誉められ、あがめられることを求めるようになるのです。しかし、私たちがキリストに救われた時に、生きる歩みの中に、自分に固執せず、自分を無にする歩み、言い替えれば、利己心や虚栄心から解放された歩みが生まれていくのです。

大切なことは、キリストのへりくだり、従順の極みである「十字架の死」とは、模範を示すためのものではないのです。「十字架の死」はへりくだりの模範の極みとも言えますが、それ以上に、人間の救いの出来事そのものなのです。このことが忘れられると、キリストの十字架を模範とすることのみが、ただ、私たちの行動を規定するものとなります。例えば、主イエスのお姿から、道徳の規範のみを倣おうとすることが起こります。偉大な教えを説き、人々に良い行いの模範となって下さった主イエスに倣うと言うことのみが強調されてしまいます。主イエスに倣って、少しでも清く正しい歩みをして行こうとするのです。そこからは、周囲の人々の振る舞いを見て、裁くということが起こります。それどころか、主イエスを偉大な革命家のように捉え、主イエスの姿に倣って、その意志を実現するための活動に奔走すると言うこともあるでしょう。そこでは、自分の身近にある社会問題に取り組むことが、キリストに従うことになってしまいます。主イエスを、道徳の教師や、政治的な指導者として考えてしまうとするならば、それは誤りです。そのような時には、キリストを語ることを通して、キリストにかたどった人間の主義主張や倫理観が説かれていくのです。それは、いつしか、それを行い、あるいは、その価値に従うことがキリスト者の務めであるかのように捉えられ、周囲の人々を自分が行っている特定の活動や、特定の価値観に巻き込んでいくことになるでしょう。そこには、本当に、へりくだり、他人を敬い、その賜物を尊重する歩みは生まれて来ません。それは、キリストのへりくだりの中にある、罪の赦しに生かされることが見失われているからです。しかし、ここでは、「キリストのへりくだり」だけを言っているのではありません。今日の後半部の9節には、「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。キリストが十字架に至るまでの従順を貫いたが故に天におられる神様のもとに高く挙げられたと言うのです。このことは、何を意味しているでしょうか。

信仰者の原型となるキリストのへりくだりが語られ、それに続いて、キリストが天に高く挙げられる「キリストの高挙」が語られているのです。ここもそのように考えると、キリストのようにへりくだる歩みをした者は、キリストのように高く挙げられるのだと思ってしまうのではないでしょうか。しかし、ここは、従順を貫くことができた者は、そのご褒美としてキリストのように天に挙げてもらえると言うことではありません。このことは10節と11節では、「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストが主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」とあり、またまた、ちょっと理解しにくい話とも思われます。「天上」、「地上」、「地下」、と言われている通り、全ての被造物を含めた、この世界のあらゆるものが、イエスを主として、真に神を讃えるようになるために高く挙げられたと言われているのです。主なる神がキリストに全世界を支配する主権者としての地位を与えた、キリストは神の身分でありながらへりくだったのです。これは、私たちが「イエス・キリストは主である」と告白して、神をたたえつつ歩むことだけでしか、本当にへりくだった者となれないと言っているのです。

私たちは、この世にあって生きている限り、自分が評価されることに拘り続ける者です。何事も利己心や虚栄心から行ってしまう者です。他人のために尽くそうとする時でさえ、又、様々な奉仕に携わる時でさえ、利己心や虚栄心が潜んでいると言えましょう。困難な中にある人々のための活動も、社会の中で虐げられている人々のための奉仕も、自分の業績を評価されることのために行うのであれば、それは方向違いと言えるでしょう。

私たちは、先ず、「イエスの御名にひざまずき」、「『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえ」なければならないのです。主イエスこそが、私たちのためにへりくだって十字架の死を死んで下さったのです。ただ、主イエスのへりくだりに示された救いにあずかることを通してのみ、私たちは、自分に固執せずに、利己心や虚栄心からではなく、キリストを証しするための、愛の業に励むことが出来るのです。

今週も、神を讃美しつつ、新しい歩みを始めたいと思います。お祈りを致します。

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