主は試練を受けたからこそ

聖書:詩編91篇1-2節, 14-16節, ヘブライ人への手紙2章10-18節

 私が17年間の務めを終える日が近いこの時、後任の先生方をお迎えする準備も進み、平安のうちに成宗教会を辞することができることは、何よりの喜びです。しかし、一方私の心には深い悲しみがあります。それは時代を超えて、また地域を超えて、すべての伝道者が共有している悲しみであります。その悲しみは、人は神さまを無視しているということです。神さまは豊かな世界を創造され、豊かに人々に与えてくださいました。しかし、人は豊かになって神さまを忘れてしまったのです。神さまは与えてくださる方、守ってくださる方、助けてくださる方です。その方を無視して生きている。人は自分の世界に夢中になっている。

先日、私は用事があって表参道に行きました。恐ろしいほど人が溢れていました。インスタグラムの中に入り込んだような風景。最新のファッションで颯爽と行き交う人、人、人です。思えば、その中には借金を抱えている人もいるのだろうと、わたしは思いました。病気を抱えている人もいるのでしょう。様々なトラブルを抱えている人もいるのでしょう。しかし、その活気の中に、その都会の研ぎ澄まされた雰囲気の中に呑み込まれて行く。そしてその中の一部となっているような錯覚が起こります。そしてまるですべてがノープロブラムのような錯覚が起こるのではないでしょうか。

しかし。誰もが真の神さまを無視している世界。神さまを失っている世界。神さまを礼拝しないで、神さまでない何かを拝んでいる世界に助けがあるのでしょうか。救いがあるのでしょうか。一方、私はこの17年間お見舞いに訪れた続けた所がありました。この教会の中にも、そして教会の外にも病気の人々がいます。施設に入居している人々がいます。その中で私が出かけて行ったのは、その人々が成宗の教会員やその家族だったからです。この社会では牧師の問安が理解されていない所もあり、施設によっては出入りするのに苦労することもありましたが、出かけて行って祈ることができました。一人の病人、施設に入居している人と教会からの訪問者が、一時ですが、共にいるとき、そこに生まれるのは神さまを無視しないです。

どんなに慎ましい病室。時には面会室さえない病院もあります。聖餐式を行うことも困難な世俗の場所なのですが、そこで祈るとき、イエスさまのお言葉が思い出されます。「二人、または三人がわたしの名によって集まるとき、わたしもそこにいるのである」とのお言葉が。そして、そのことが本当に実感されることがあります。そこは表参道とは違って、人々が行きたいと思わないところ、目を奪われるものもなく、ワクワクドキドキするものはないところです。しかし、主の御前で言葉を交わすその思いは明るくなり、しみじみと感謝が溢れて来る。そして讃美の歌も歌います。そして心からの願いを祈ります。笑顔で再会を祈って別れる。別れても主が共にいらしてくださると信じて委ねることができます。

今、私の心にある悲しみの理由は、本当に貧しい世界が広がっていることです。それは見た目の貧しさよりも、病気よりも、障害よりも、比べものにならないほどの貧しい世界です。それは、真の神さまを失っている世界。真の神さまを無視している世界。求めようともしない世界。それは目を覆うばかりの貧しさではないでしょうか。人が自分に夢中になっている。人が自分独りで生きられると思っている世界。一人で生きられない人は生きる価値がないと思っている世界は、神さまに激しく逆らっている。だから悲しいのです。

今日読んでいただいた詩編91篇1節と2節。「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ、主に申し上げよ『わたしの避けどころ、砦、わたしの神、より頼む方』と。」詩人は神さまがどのような方かを知っています。神さまは善良な人を助けることを喜びとしておられる。だから、神さまに従って悪から離れて生きたい、正しいことをしたいと願っているのに、困難に苦しむ人々は、神さまに全く頼りなさい。そしてそのことを心の奥に隠していないで、人々の前でも神さまに申し上げなさい、と勧めます。「主よ、あなたは『わたしの避けどころ、砦、わたしの神、より頼む方』ですと。」

神さまは何よりもわたしたちの告白を喜んでくださいます。そうではないでしょうか。その告白を聞いた人々が、わたしたちが神さまから助けられるのを確かに見、また聞いて、彼らもまた神さまを信頼するようになることを、神さまは望んでおられるからです。神さまは私たちの告白をお聞きになって、こう言われると詩人は申します。「彼はわたしを慕う者だから彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知るものだから、彼を高く上げよう」と。そのためにはわたしたちは見かけではなく、真実に神さまを愛し、敬い、信頼する者でなければなりません。

また、「彼はわたしの名を知るものだから」と言われるからには、わたしたちは神さまとはどのような方であるかについて、日々学び、知るように努めなければならないと思います。こうした真実の信仰、そして真実の学びが、わたしたちの日常生活で行われた上で、神さまはわたしたちの祈りを待っておられるのです。「彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え、苦難の襲うとき、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう。」何よりも、わたしたちは神さまに呼び求める必要があるのです。すなわち、わたしたちは神さまを知っているとしても、また神さまを愛していると思っていても、実際、試練に見舞われたときに、わたしたちは神を呼び求めないということが、実際あるのではないでしょうか。わたしたちは突然の悩みに遭った時に、祈りより先にあれこれと思い煩ってしまうとか、または神さまの御心を求めるよりも、自分の願望が先立ってしまうと、試練の時に「助けてください」と、呼び求めることができないのではないでしょうか。真にわたしたちには、信仰者でありながら多くの落とし穴があることに気づいて愕然とするのです。

今日のカテキズムは主の祈りの第六番目の求めについて学びます。その求めは「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪よりお救いください」です。誘惑、試みとは何でしょうか。それは、わたしたちを神さまから背かせ、引き離そうとするあらゆる力を意味しています。それは、犯罪のようなものばかりではありません。たとえば人の物を盗むとか、他人の結婚生活を破壊するというような目に見える分かりやすいものばかりではないのです。神さまを忘れ、自分中心に生きることから起こって来るあらゆるものが誘惑となります。東京のブランドの地域の話をしましたが、目を奪われ、心を失った結果、現実の自分が見えなくなり、現実の隣人も見えなくなることは恐ろしいことです。何が善で何が悪かも次第に見失ってしまうでしょう。

そのようなわたしたちの弱さに悪魔は付け入って、神さまから離れさせようと攻め立てる、それが誘惑です。しかし神さまはそのようなわたしたちを救うことを御自分のお心とされました。そして御子イエスさまによってその救いのご計画を実現なさったのです。今日はヘブライ人への手紙2章を読んでいただきました。その10節で、御子が数々の苦しみに遭うことを良しとされ、それによって完全な者とされたと書かれています。完全な者とは、罪人の罪を贖うための務めを行うことが完全にできる者ということなのです。その内容は17節をご覧ください。

「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」ここで、「憐れみ深い」という言葉は、イエスさまが「人々の弱さを自分のものとして引き受けることができる」という意味です。イエスさまは神の子であり、父なる神と一つの心で従っておられますから、罪とは関係のない方なのですが、神さまから離れ去っていたために罪に苦しむわたしたちのために、その罪を引き受けて苦しんでくださいました。18節。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」

天の父なる神さまはこのような方を救い主として、わたしたちにお与えくださいました。

12節から13節にかけての旧約聖書の引用が三つあります。その一つは詩編22:23です。これは、ダビデが出会った試練の時と、そこから救われた時の神への賛美です。そこには、「わたしの兄弟たちに知らせたい」との熱意が歌われています。また第二は、サムエル記下のダビデの感謝の歌です。「わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。わたしを逃れさせ、わたしに勝利を与え、不法から救ってくださる方」と歌います。そして第三はイザヤ8:17-18「わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。見よ、わたしと、主がわたしに委ねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である。」「主がわたしに委ねられた子ら」とはだれでしょうか。それは救い主によって神さまが救いに入れられることを望んでおられる信仰者のことに他なりません。

ダビデによって指し示された救い主、イエスさまは、信じる者を兄弟と呼んで下さり、神の子らと呼んでくださいます。そしてわたしたちに先立って試練を受け、十字架の死にも打ち勝って、神さまの命へとわたしたちを招いてくださいました。18節をもう一度読みましょう。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」キリストのわたしたちへの熱意は天の父と同じ。キリストの神さまへの信頼は、神さまと一つ心。そしてキリストの忍耐、わたしたちが奇跡的に救われることを待ち望む忍耐は、わたしたちばかりでなく、まだ信仰を持つに至らない人々への希望です。ヘブライ人の手紙によって、神さまは御自分がどんなに恵み深い方であるかを証ししていることでしょうか。

私がこの教会で働いたことは本当に僅かな実りでしかありませんが、多くの人々が救いに入れられる日まで、私は伝道者として遣わされた者の悲しみと痛みを忘れることはなく、祈り続けなければならないでしょう。今年度の教会標語を思い出してください。それは週報の表紙に掲げられています。(エフェソの信徒への手紙第3章18-19節)「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」

わたしたちは成宗教会に連なり、この教会を建てるために祈って参りました。先週の主の日の朝に完成したばかりの成宗教会の記念誌が届きました。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解することが、この小さな群れの歴史を振り返る記念誌の中でも、なされることは本当にうれしいことです。時は移り、人は変りますが、わたしたちはイエス・キリストの変ることのない愛をささやかにでも証しして生き、証しして、次の世代に受け継がれる信仰共同体のために祈りましょう。

今日のカテキズム問62は、「主の祈りは何を第六に求めていますか」でした。そしてそれに対する答は、「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪よりお救いください」です。わたしたちを神さまから引き離そうとするあらゆる力から守ってくださるようにと、心から願うのです。祈ります。

 

主なる父なる神さま

主のご苦難に表された、あなたの大きな愛、罪ある者をも悔い改めさせ、立ち帰って救いに入れられることを望まれるその熱意を思い、心からの感謝を捧げます。

本当にあなたに忠実でありたいと思いながら、なすべき善は行わず、なすべきでない悪を行う惨めな者であったことを深く懺悔いたします。この至らなさのために躓いた兄弟姉妹も少なくなかったと思いますが、どうかあなたの慈しみによってその人々を癒してください。皆共にキリストの執り成しをいただいて罪赦され、御言葉に従う礼拝の生活に立ち帰るようにお導きをお願い致します。

今週は東日本連合長老会の行事が二つございます。月曜日の教師歓送迎会、また木曜日の長老・執事研修会の上に、どうぞ聖霊の豊かな恵みが注がれますように。奉仕する先生方、を祝してください。また、その後行われる教会会議があなたの恵みのご支配と導きのうちに行われますように。

成宗教会に務めを与えられ赴任の準備をされている藤野雄大先生、美樹先生の上にあなたの導き、お支えが豊かにございますように。教会の多くの兄姉が高齢になり、礼拝に参加できない状況をあなたはご存知です。どうか主にある交わり、御言葉の糧をすべての人々が分かち合うことができますように道を開いてください。また、教会を建てるために、特に礼拝の奉仕を担っている方々を励ましてください。小さな奉仕でも担うために、必要な健康などを整えてください。主に喜んで捧げることができますように、聖霊の助けをお与えください。何よりも教会の主の恵みによってすべてが備えられ、導かれますように、すべてを、希望を持って待ち望む群れとなりますように。

どうか、教会員一人一人が、家族に対してあなたが与えられた祈りの務めを思い見、救いのために祈り続けることができますように。病床にある方々、悩みにある方々を顧みて、あなたの恵みによって癒し、守り導いてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

我らを兄弟と呼ぶために

イザヤ7章10-14節, ヘブライ人への手紙2章10-18節

昨日は子供の日でしたので、ある俳優の方が、子どもたちを祝福するメッセージをラジオで語っていました。子どもたちよ、失敗を恐れず、勇敢に生きなさいと。そして私も85歳だが、もう少し頑張って楽しく仕事に打ち込み、それからあの世とやらに行くつもりだと。この方は一人の人間として、高齢者として、誠実に精いっぱい愛情を込めて語っていることだと感じました。しかし人が人に語ることとしては、これ以上のことは言えないと思います。

わたしたちは2018年度の教会標語を掲げました。それは週報の表紙に書かれています。(エフェソの信徒への手紙第3章18-19節)「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」

キリストの愛とは、キリストの内に表された神の愛を指しています。それはわたしたちの生きる土台となるものです。私たちの信仰の学びは「神とはどなたであるか?」を知ることから始まりました。この学びを続けることは、人の言葉ではなく、神の言葉を求めることです。人の励ましではなく、神の励ましを受けることによって、わたしたちは、これからあの世とやらに至る道ではなく、救いに至る道をしっかりと歩むことができるのです。

そこで、本日の使徒信条の学びは、使徒信条に「主は聖霊によって宿り、おとめマリヤから生まれ」と告白されていることについてです。これはどういうことでしょうか。答は、結論から言えば、イエスさまが、罪を別にすればわたしたちと同じ人間になってくださったということです。ここにこそ、神の愛が真っ先に人間に向けられていることが表されているのです。神は御自分に似せて人間を創造されました。ところが人は罪の支配を受けて以来、死を恐れるようになりました。アダムとエヴァは神との約束を破って、食べてはならないと言われた木の実を食べました。するとその直後、二人が取った行動は神の前にありのままの自分の姿を見せることではなく、神から自分の身を隠すことだったのです。

こうして人間は、光の源である神から身を隠すようになって以来、闇に支配されることになりました。闇を恐れ、死を恐れながら、しかし神に立ち帰ることができないのです。では、これに対して、神はどうされたでしょうか。神は人間の創造者であります。人間を造り人間に目標を与えられました。その目標とは、神の交わりに生きることです。神は、罪のためにその目標を失っている人間を御覧になりました。そこで悲惨な人間のために行動し給うたのです。それはまさに神にふさわしいことでありました。

今日のヘブライ人への手紙2章10節。「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。」ここで、「彼らの救いの創始者」と言われるのは、イエス・キリストその方です。創始者というより、救いに導く方という方がふさわしいと思います。わたしたち人間を神の子とするために、神の独り子をお遣わしになるほど、神は世を愛されたことを、わたしたちは繰り返し思うのです。神の御子である救い主も(11節には人を聖なる者とする方)、また私たち救われる者(聖なる者とされる人たちと言われています)も、その源は一つ、キリストは神から出た方であり、私たちは神に造られたものだからです。

神は人間を(しかも罪のために悲惨な状態に陥っている人間を)どんなに愛しておられることでしょうか。それで、御子であるイエスさまは、わたしたちを兄弟と呼ぶことを恥ずかしいと思われないのです。よく子供たちがいたずらをしたり、悪いことをすると、親は叱って、「こんな子はうちの子じゃない!」と言います。そりゃ、親にして見たら恥ずかしいと思うことがあるのです。しかし、神様はどうでしょう。恥ずかしいようなことをしでかす人間を、何とか救おうとなさるのであります。

それでイエスさまも、恥さらしのとんでもない人間を兄弟姉妹と呼ぶことを厭わないで、12節。「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と言い、また、「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。12節の引用は詩編22篇23節です。この詩人は、人から虫けらのように言われ、人間の屑と蔑まれるわたしを、主は救ってくださったと証ししています。だから私はこのことを兄弟たちに証ししたい。それはそれを知って、多くの人々が救われるようにと願うからです。

また13節後半には、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」が引用されています。ヘブライ人への手紙の著者は、これをキリストの言葉として私たちに聞かせているのです。ヨハネ福音書10章11節(186頁)に、主イエスは言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われた主の御言葉を思い出します。

そこで主イエスは、私たちを救いに招き、兄弟姉妹と呼ぶために、何をしてくださったでしょうか。私たちに目に見える姿で現れ、私たちの耳が聞くことのできる言葉を語るために、主はどうなさったでしょうか。主は謙って、私たちの世界に現れてくださいました。すなわち、主は血と肉を備えられたのです。血と肉とは地上の命のことです。血と肉とは、やがては死すべき人間を表します。私たちは皆、地上に血と肉をもって生きているので、私たちを救おうとなさるお方もまた、御自身に血と肉を備えられました。

今日の旧約聖書イザヤ7章11節「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」インマヌエル、すなわち、「神、我らと共にいまし給う」です。イザヤ書に登場するユダ王国の王アハズとその国民はイスラエル王国の滅亡の危機、大国アッシリアの攻撃の脅威にさらされ、風に震える木の葉のように動揺していたと言われます。その時、預言者イザヤは「主の救いを信じなさい」とアハズ王を励ましたのです。

ここに鋭く問われているのは、王と民の信仰であり、またわたしたち教会の民の信仰なのです。神に対して自己を完全に委ねること。そうすれば、どんな危機に直面したとしても、わたしたちは神の真実に堅く信頼して立つことができるのです。しかし、もし王にこのように委ね切ることがなく、かえって神が在さないかのように恐れおののくなら、王も民もその安全は確かに脅かされるだろうとイザヤは警告します。イスラエルの民は信仰においてのみ成り立っているからです。なぜなら、イスラエルは神の選びによって生まれたのでありますから、神に全面的に信頼している限りにおいてのみ、存続するのです。だから、もし信じることができなければ、イスラエルの王も貴族も神の民も消滅するでしょう。

イスラエルの不信仰。すなわち神に招かれ、その民とされながら、神に信頼し委ね切ることができない。そのイスラエルのために、イザヤは預言しました「主御自ら、あなたたちにしるしを与えられる」と。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と。こうして、神の御子、すべてを超越した存在であるイエスさまが、地上に生まれられました。このことによって、主はすべての人間と共通する存在であることを、御自分に受け入れたのであります。14節~15節を読みます。

「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらの者を備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」イエス・キリストは肉を裂き、血を流して我らの贖いとなってくださったことを思います。すなわち、わたしたちを死から解放するためにご自分を犠牲として捧げ、罪を断罪してくださいました。この目的のためにも、主は肉体を取ってくださったのです。

そして、わたしたちに、信じたくても信じることができず、信じ続けることがなお難しい人間のために、目に見える存在として、耳で聞くことのできる存在として、また不信仰なトマスと同じく、触ってみなければ信じない人間のためにも、地上にただ一度いらしてくださって、神の愛がどのようなものであるかを明らかにしてくださいました。この目的のためにも、救い主は限りある血と肉とを人間となってくださいました。

人々は神を知ることを真剣に求めない人でも、天使や悪魔に興味のある人は多いと思います。姿形まで想像して絵や彫像を造ったりします。彼らが霊的存在であることも興味が惹かれる理由の一つであると思います。お化け、幽霊とか、ハリーポッターなどの世界に登場する霊が好まれるところを見ると、どうも変幻自在であるとか、神出鬼没という存在が人間の憧れなのかもしれません。しかし、神の愛は人間に注がれている、ということを、最もユニークに表現しているのは、ヘブライ人への手紙ではないかと私は思います。16節に「確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫たちを助けられるのです。」とあるからです。

神は、限りある肉体をもって、地上に限定されて生きている人間を愛しておられます。ちょうど、植物が雨が降っても雨宿りもできず、日照りの時も川に移動することもできずに、一つところに根を下ろしたら、その場でいつの日にも一生懸命生きていくより他はないように、神は、私たちが日々の困難に耐えて精一杯生きてこそ、美しいと見給うのではないでしょうか。その所で、その時において、造り主を見上げ、その愛が造られた者に注がれていることを信じ、この神を私たちに教えてくださった救い主をほめたたえる命を今日も生きたいと願います。

植物の例えを出しましたが、私たちは空の鳥、野の花より価値あるものであると教えてくださったのも、また救い主イエス・キリストであります。私たちは神の形に造られた者。空の鳥、野の花を手本に生きるのではありません。それを造られ、守られる恵み深い神に立ち帰り、神をほめたたえるために、私たちは罪の赦しに結ばれなければならないのです。自然にそれができたのでは決してない。神を離れ、さ迷い出て苦しむ私たちのために、私たちと神との間に立ってくださり、壊れた関係を回復してくださるために、神の御前において憐れみ深い大祭司となってくださいました。憐れみ深い神の御心を表してくださいました。同時に忠実な大祭司となってくださいました。それは、神に対して忠実な人間の本当の姿を表してくださったということなのです。

御自身は神に忠実であり、神に全く背いておられないのに、試練を受けて苦しまれたのは、神に背いて試練を受けていた人たちを助けるためでした。これほどの愛をいただいているのは、天使ではないのです。限りある私たちなのです。この喜ばしい言葉を、神の恵みの言葉として聞きましょう。目に見える私たちは小さな群れ、しかし、主はこの群れを愛して、その証しを沢山残してくださいました。見ようと願うなら見ることができます。聞こうと願うなら聞くことができます。礼拝の民として、とどまることを願うなら、あなたがた自身、主の愛が注がれた者としての生涯を証しすることになるでしょう。

主がそのことを喜び助けられるからです。祈ります。

 

御在天の父なる神様

尊き救いの御名をほめたたえます。あなたは罪ある者の罪を憎み、それを決して見逃されない方です。しかしあなたは罪ある者を憐れみ、イエス・キリストにおいて、その愛の広さ、高さ、長さ、深さを表してくださいました。どうか、私たち地上の生涯の間に、その愛を少しでも多く知ることができ、知って喜び、感謝し、讃美礼拝の中に、あなたの御許に召される日まで、歩ませてください。

あなたの御心はまた、御子によって示された計り知れない愛を、地上に在って、主の兄弟姉妹とされた教会の方々と、共に分かち合うことにあると知りました。どうか、あなたの御心を全く知らずに、または信じられず、主にゆだねることができずに、不安の日々を生きている多くの人々に、主と共に生きる幸いを知らせてください。主が聖霊を送って共におらせてくださることを切に願います。20日にはペンテコステ礼拝を守ります。どうか私たちを清めて、聖霊の住み給うにふさわしいものとしてください。

多くの方々が高齢になっております。それぞれのご家庭をあなたの恵みの御支配のある所としてください。平安と必要な助けが日々与えられますように。また同様に、独り暮らしの方、ご病気の方、どうぞあなたのお守りと顧みが豊かにございますように。来週は墓前礼拝を予定しております。どうか、このために出かける旅路をあなたの恵みのうちにお守りください。感謝の礼拝を捧げることができますように。

本日は、長老会議が開かれます。どうぞ、来年度の主任担任教師の交代に向けて長老会を導いてください。すべての教会員が心を一つにして備えることができますように。また、教師ばかりでなく、長老、信徒についても新しい奉仕者が与えられますように切に祈ります。また、東日本連合長老会の交わり、その働きがあなたの御心にかなったものとなり、共に主の体の教会を建てて行くために、諸教会と心を合わせて進むことができますように、助け導いてください。善き働きのために奉仕する諸教会の教師、長老、信徒の皆様のご健康が祝されますように祈ります。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。