主は試練を受けたからこそ

聖書:詩編91篇1-2節, 14-16節, ヘブライ人への手紙2章10-18節

 私が17年間の務めを終える日が近いこの時、後任の先生方をお迎えする準備も進み、平安のうちに成宗教会を辞することができることは、何よりの喜びです。しかし、一方私の心には深い悲しみがあります。それは時代を超えて、また地域を超えて、すべての伝道者が共有している悲しみであります。その悲しみは、人は神さまを無視しているということです。神さまは豊かな世界を創造され、豊かに人々に与えてくださいました。しかし、人は豊かになって神さまを忘れてしまったのです。神さまは与えてくださる方、守ってくださる方、助けてくださる方です。その方を無視して生きている。人は自分の世界に夢中になっている。

先日、私は用事があって表参道に行きました。恐ろしいほど人が溢れていました。インスタグラムの中に入り込んだような風景。最新のファッションで颯爽と行き交う人、人、人です。思えば、その中には借金を抱えている人もいるのだろうと、わたしは思いました。病気を抱えている人もいるのでしょう。様々なトラブルを抱えている人もいるのでしょう。しかし、その活気の中に、その都会の研ぎ澄まされた雰囲気の中に呑み込まれて行く。そしてその中の一部となっているような錯覚が起こります。そしてまるですべてがノープロブラムのような錯覚が起こるのではないでしょうか。

しかし。誰もが真の神さまを無視している世界。神さまを失っている世界。神さまを礼拝しないで、神さまでない何かを拝んでいる世界に助けがあるのでしょうか。救いがあるのでしょうか。一方、私はこの17年間お見舞いに訪れた続けた所がありました。この教会の中にも、そして教会の外にも病気の人々がいます。施設に入居している人々がいます。その中で私が出かけて行ったのは、その人々が成宗の教会員やその家族だったからです。この社会では牧師の問安が理解されていない所もあり、施設によっては出入りするのに苦労することもありましたが、出かけて行って祈ることができました。一人の病人、施設に入居している人と教会からの訪問者が、一時ですが、共にいるとき、そこに生まれるのは神さまを無視しないです。

どんなに慎ましい病室。時には面会室さえない病院もあります。聖餐式を行うことも困難な世俗の場所なのですが、そこで祈るとき、イエスさまのお言葉が思い出されます。「二人、または三人がわたしの名によって集まるとき、わたしもそこにいるのである」とのお言葉が。そして、そのことが本当に実感されることがあります。そこは表参道とは違って、人々が行きたいと思わないところ、目を奪われるものもなく、ワクワクドキドキするものはないところです。しかし、主の御前で言葉を交わすその思いは明るくなり、しみじみと感謝が溢れて来る。そして讃美の歌も歌います。そして心からの願いを祈ります。笑顔で再会を祈って別れる。別れても主が共にいらしてくださると信じて委ねることができます。

今、私の心にある悲しみの理由は、本当に貧しい世界が広がっていることです。それは見た目の貧しさよりも、病気よりも、障害よりも、比べものにならないほどの貧しい世界です。それは、真の神さまを失っている世界。真の神さまを無視している世界。求めようともしない世界。それは目を覆うばかりの貧しさではないでしょうか。人が自分に夢中になっている。人が自分独りで生きられると思っている世界。一人で生きられない人は生きる価値がないと思っている世界は、神さまに激しく逆らっている。だから悲しいのです。

今日読んでいただいた詩編91篇1節と2節。「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ、主に申し上げよ『わたしの避けどころ、砦、わたしの神、より頼む方』と。」詩人は神さまがどのような方かを知っています。神さまは善良な人を助けることを喜びとしておられる。だから、神さまに従って悪から離れて生きたい、正しいことをしたいと願っているのに、困難に苦しむ人々は、神さまに全く頼りなさい。そしてそのことを心の奥に隠していないで、人々の前でも神さまに申し上げなさい、と勧めます。「主よ、あなたは『わたしの避けどころ、砦、わたしの神、より頼む方』ですと。」

神さまは何よりもわたしたちの告白を喜んでくださいます。そうではないでしょうか。その告白を聞いた人々が、わたしたちが神さまから助けられるのを確かに見、また聞いて、彼らもまた神さまを信頼するようになることを、神さまは望んでおられるからです。神さまは私たちの告白をお聞きになって、こう言われると詩人は申します。「彼はわたしを慕う者だから彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知るものだから、彼を高く上げよう」と。そのためにはわたしたちは見かけではなく、真実に神さまを愛し、敬い、信頼する者でなければなりません。

また、「彼はわたしの名を知るものだから」と言われるからには、わたしたちは神さまとはどのような方であるかについて、日々学び、知るように努めなければならないと思います。こうした真実の信仰、そして真実の学びが、わたしたちの日常生活で行われた上で、神さまはわたしたちの祈りを待っておられるのです。「彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え、苦難の襲うとき、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう。」何よりも、わたしたちは神さまに呼び求める必要があるのです。すなわち、わたしたちは神さまを知っているとしても、また神さまを愛していると思っていても、実際、試練に見舞われたときに、わたしたちは神を呼び求めないということが、実際あるのではないでしょうか。わたしたちは突然の悩みに遭った時に、祈りより先にあれこれと思い煩ってしまうとか、または神さまの御心を求めるよりも、自分の願望が先立ってしまうと、試練の時に「助けてください」と、呼び求めることができないのではないでしょうか。真にわたしたちには、信仰者でありながら多くの落とし穴があることに気づいて愕然とするのです。

今日のカテキズムは主の祈りの第六番目の求めについて学びます。その求めは「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪よりお救いください」です。誘惑、試みとは何でしょうか。それは、わたしたちを神さまから背かせ、引き離そうとするあらゆる力を意味しています。それは、犯罪のようなものばかりではありません。たとえば人の物を盗むとか、他人の結婚生活を破壊するというような目に見える分かりやすいものばかりではないのです。神さまを忘れ、自分中心に生きることから起こって来るあらゆるものが誘惑となります。東京のブランドの地域の話をしましたが、目を奪われ、心を失った結果、現実の自分が見えなくなり、現実の隣人も見えなくなることは恐ろしいことです。何が善で何が悪かも次第に見失ってしまうでしょう。

そのようなわたしたちの弱さに悪魔は付け入って、神さまから離れさせようと攻め立てる、それが誘惑です。しかし神さまはそのようなわたしたちを救うことを御自分のお心とされました。そして御子イエスさまによってその救いのご計画を実現なさったのです。今日はヘブライ人への手紙2章を読んでいただきました。その10節で、御子が数々の苦しみに遭うことを良しとされ、それによって完全な者とされたと書かれています。完全な者とは、罪人の罪を贖うための務めを行うことが完全にできる者ということなのです。その内容は17節をご覧ください。

「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」ここで、「憐れみ深い」という言葉は、イエスさまが「人々の弱さを自分のものとして引き受けることができる」という意味です。イエスさまは神の子であり、父なる神と一つの心で従っておられますから、罪とは関係のない方なのですが、神さまから離れ去っていたために罪に苦しむわたしたちのために、その罪を引き受けて苦しんでくださいました。18節。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」

天の父なる神さまはこのような方を救い主として、わたしたちにお与えくださいました。

12節から13節にかけての旧約聖書の引用が三つあります。その一つは詩編22:23です。これは、ダビデが出会った試練の時と、そこから救われた時の神への賛美です。そこには、「わたしの兄弟たちに知らせたい」との熱意が歌われています。また第二は、サムエル記下のダビデの感謝の歌です。「わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。わたしを逃れさせ、わたしに勝利を与え、不法から救ってくださる方」と歌います。そして第三はイザヤ8:17-18「わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。見よ、わたしと、主がわたしに委ねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である。」「主がわたしに委ねられた子ら」とはだれでしょうか。それは救い主によって神さまが救いに入れられることを望んでおられる信仰者のことに他なりません。

ダビデによって指し示された救い主、イエスさまは、信じる者を兄弟と呼んで下さり、神の子らと呼んでくださいます。そしてわたしたちに先立って試練を受け、十字架の死にも打ち勝って、神さまの命へとわたしたちを招いてくださいました。18節をもう一度読みましょう。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」キリストのわたしたちへの熱意は天の父と同じ。キリストの神さまへの信頼は、神さまと一つ心。そしてキリストの忍耐、わたしたちが奇跡的に救われることを待ち望む忍耐は、わたしたちばかりでなく、まだ信仰を持つに至らない人々への希望です。ヘブライ人の手紙によって、神さまは御自分がどんなに恵み深い方であるかを証ししていることでしょうか。

私がこの教会で働いたことは本当に僅かな実りでしかありませんが、多くの人々が救いに入れられる日まで、私は伝道者として遣わされた者の悲しみと痛みを忘れることはなく、祈り続けなければならないでしょう。今年度の教会標語を思い出してください。それは週報の表紙に掲げられています。(エフェソの信徒への手紙第3章18-19節)「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」

わたしたちは成宗教会に連なり、この教会を建てるために祈って参りました。先週の主の日の朝に完成したばかりの成宗教会の記念誌が届きました。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解することが、この小さな群れの歴史を振り返る記念誌の中でも、なされることは本当にうれしいことです。時は移り、人は変りますが、わたしたちはイエス・キリストの変ることのない愛をささやかにでも証しして生き、証しして、次の世代に受け継がれる信仰共同体のために祈りましょう。

今日のカテキズム問62は、「主の祈りは何を第六に求めていますか」でした。そしてそれに対する答は、「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪よりお救いください」です。わたしたちを神さまから引き離そうとするあらゆる力から守ってくださるようにと、心から願うのです。祈ります。

 

主なる父なる神さま

主のご苦難に表された、あなたの大きな愛、罪ある者をも悔い改めさせ、立ち帰って救いに入れられることを望まれるその熱意を思い、心からの感謝を捧げます。

本当にあなたに忠実でありたいと思いながら、なすべき善は行わず、なすべきでない悪を行う惨めな者であったことを深く懺悔いたします。この至らなさのために躓いた兄弟姉妹も少なくなかったと思いますが、どうかあなたの慈しみによってその人々を癒してください。皆共にキリストの執り成しをいただいて罪赦され、御言葉に従う礼拝の生活に立ち帰るようにお導きをお願い致します。

今週は東日本連合長老会の行事が二つございます。月曜日の教師歓送迎会、また木曜日の長老・執事研修会の上に、どうぞ聖霊の豊かな恵みが注がれますように。奉仕する先生方、を祝してください。また、その後行われる教会会議があなたの恵みのご支配と導きのうちに行われますように。

成宗教会に務めを与えられ赴任の準備をされている藤野雄大先生、美樹先生の上にあなたの導き、お支えが豊かにございますように。教会の多くの兄姉が高齢になり、礼拝に参加できない状況をあなたはご存知です。どうか主にある交わり、御言葉の糧をすべての人々が分かち合うことができますように道を開いてください。また、教会を建てるために、特に礼拝の奉仕を担っている方々を励ましてください。小さな奉仕でも担うために、必要な健康などを整えてください。主に喜んで捧げることができますように、聖霊の助けをお与えください。何よりも教会の主の恵みによってすべてが備えられ、導かれますように、すべてを、希望を持って待ち望む群れとなりますように。

どうか、教会員一人一人が、家族に対してあなたが与えられた祈りの務めを思い見、救いのために祈り続けることができますように。病床にある方々、悩みにある方々を顧みて、あなたの恵みによって癒し、守り導いてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。