互いに真実を語りなさい

聖書:申命記191519節, ペトロの手紙一 3814

 わたしたちは神の民に与えられた戒めを学んでいます。それは昔、旧約聖書に記されている神の民イスラエルに与えられましたが、今に至るまで、「神を愛し人を愛するとは、どういうことなのか」を教える神の言葉となっています。そして、「これを守る者は命を得る」と教えられているにも拘わらず、戒めを守ることができない人間の罪の現実をも指し示している。それが 十戒 であります。人は自分の力で戒めを守り、自分の力で命を得ることができない。すなわち、救いを得るに至らないのであります。

では、どうしたらよいのでしょうか。人は自分で救いを獲得することはできないけれども、神は人に救いの道を開いてくださいました。それはすなわち、ただ神の恵みによる救いです。神は御子を救い主、キリストとして世に遣わしてくださいました。人の力でできなかった罪の贖いを、真の神の子は、真の人の子として全人類の身代わりになって贖ってくださいました。そのことを信じた者は悔い改め、主の犠牲の死に結ばれた者となりました。主の死に結ばれたわたしたちは、主のご復活の命に結ばれて、教会の生きた肢とされたのです。教会とは、主イエスのご命令によって教えを宣べ伝える唯一の真の使徒的教会であると信じられています。

わたしたちは、自分の力で、聖書に与えられた十戒を守ることができない者でありますが、しかし、他方、キリストによって救いに招かれた喜ばしい者として、どのように生きたらよいかという課題が与えられているのです。それこそが、救われた者の感謝の生活であります。感謝の生活とはどのようなものであるか、という問いなのです。わたしたちクリスチャンは全世界の主の民であり、年齢、性別が違うだけでなく、様々な時代、様々な地域、様々な民族の特徴を持った主の民であります。「甲の肉は乙の毒」というほど、違いの方が際立って見えます。だから昔の戒めは今に通用しないと思っても不思議がないほどの多様性があるのです。

しかしながら、キリスト教徒の教会はいつの時代にも十戒を教え、十戒を学び、これを救われた者の感謝の生活の柱として来ました。わたしたちは、今までに第八戒まで学びました。今日は第九の戒めです。それは「あなたは、隣人について、偽証してはならない」です。今日は旧約聖書申命記19章を読みましたが、これはイスラエル共同体の中でどうしたら公平、公正な裁判が可能となるかを論じているのです。十戒の第九の戒めを見ると、隣人について偽証してはならない、というのですから、確かに裁判に関わっている戒めですから、日常とは違う裁判の被告人のために、あるいは原告のために、証人として立つ場合などが頭に浮かぶのではないでしょうか。19章15-19節をもう一度読みます。

「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。不法な証人が立って、相手の不正を証言するときは、係争中の両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない。裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」

「あなたは」と申命記が呼びかけているのは、裁判人に対してではありません。むしろ、裁判人を立てている信仰共同体に対して、祭司を立て、訴える者、訴えられる者を立て、証人を立てているこの信仰共同体全体に向かって、「あなたは、責任を持ちなさい」と命じられているのです。もし誰かを殺そうとして嘘の罪でその人を訴えた者がいるとしたら、その偽りの証人となった者は人を無実の罪で殺そうとしたのですから、その悪い企みの報いとして殺されなければならない、ということになります。昔の石打の刑というのも、わたしたちの目にはいかにも残虐な行為と思われますが、一人の死刑執行人が犯罪人を死なせるのではなく、みんなの責任でその人を死なせるという強い決意が共同体に迫られているのです。

このように裁判において偽証することは、共に生きる社会の中で無実の人の名誉を傷つけるだけでなく、誤った裁判を行う事になりますから、社会的な公正を破壊し、共同体を崩壊させる深刻な原因となります。ですから、強い決意をもって悪を取り除かなければならないと命じられているのです。申命記が書かれた時代は、そんなに古くはないと思われていますが、それでもも二千数百年は経過していると考えられますので、裁判の公平、公正さがこのように訴えられていることは、信仰者でなくても驚くべきことではないかと思います。わたしたちは神によって与えられていると信じるのですから、神の公平、公正を命じ給うその熱意を褒め称えずにはいられません。

申命記で取り上げられたものは公正な裁判のための偽証の禁止であります。しかし、そういう公の裁判でのことが守られるためには、ごく身近な人と人との関係の中で偽りが取り除かれなければなりません。ですから、偽証してはならないということは、家族、隣人、教会、地域社会について命じられている戒めです。今日の新約聖書は、ペトロの手紙一、3章です。8節。「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」わたしたちはそれぞれの個性あふれる人間であり、異なった様々な意見を持つ自由が与えられているのですが、ところが度を超すと、些細なことでも自分と相手が違うと気に入らないと思い、受け入れられないとなり、嫌悪感を持つことは大きな問題であります。

だからこそ、一人一人、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くような心遣いが勧められています。心を一つにするとはそういうことであります。そして兄弟を愛し、と言われていますのは、天の神さまを「天にまします我らの父」と呼び奉るわたしたちだからこそ、共に神の子とされた兄弟姉妹を愛する愛が与えられているのです。また、「憐れみ深く」と言われているのは、神さまが慈愛に満ちた方であるからです。神さまが憐れみ深い方であるからこそ、兄弟姉妹を救い、その人たちの悲惨さを少しでも和らげ、またその人たちの弱さを支えるようにと、教えているのです。

これらの勧めを実行するために無くてはならないものは何でしょうか。それは謙虚であることです。人と人との心がバラバラになる大きな原因の一つは、傲慢であり気位の高さであります。自分を人より一段と高い者とするならば、そのために隣人たちを低く見るようになり、非常に問題です。そんなことがあってはならないのですが、実際はこの世の価値観が、基準が教会の中にもどんどんと入って来ます。わたしたちはこの世の価値に全く影響されないということはほとんど不可能です。何かの職業に就くためには勉強して試験をパスしなければなりません。また病気になると仕事をすることが難しいので、健康を保持しなければなりません。また家とか何かを買うためには、たくさんのお金が必要です。このようなことが沢山あり、わたしたちは苦労して来たし、またこれからもこの世の価値に関わりなく生きることはできません。

しかし、成宗教会の78年にわたる歴史を振り返ったとき、貧しい時代を生きた人々の言葉が思い起こされます。食べる物が乏しかった頃、牧師先生が畑で作ったホウレン草を分けてくださった、とか。コーヒーを入れてくださった、とか。売らなければならなかった石鹸をママ先生が買ってくださった、とか、本当に小さなことに対する感謝を忘れないでいる方々がいるのです。私の仕えた教会の17年では、そんな感謝は一つも生まれませんでした。感謝というのは、自分が貧しいからこそ生まれるものだと思います。

一方、今の時代にも貧しさはあります。それは健康の貧しさ、特に年を取っていろいろできないことが増える。病気にもかかる、ということで、わたしたちは貧しくなります。すると本当に小さな事にも感謝が生れます。なかなか礼拝が守れなくなった方の所に伺うと、それは喜ばしい出来事になります。何を話すか、世間話では終わりません。このわざわざ出かけて行くこと。わざわざ迎えるために待っていること。その両方がイエスさまの教会を思っているからです。教会の主が会わせてくださる交わりです。すると感謝が生れます。両方とも、主の御前に謙虚にならないではいられないからです。9節。

「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」わたしたちは神さまの慈しみを受けて生きているのですから、兄弟姉妹にも慈しみをもって交わるのですが、そのためには多くのことに耐え、また多くのことを支えていかなければなりません。時には思いがけなく意地悪な人々がいてわたしたちは腹立たしくなるのですが、その悪口、侮辱にも忍耐するように勧められています。それではやられっ放しで良くないと世の人々は思うことですが、わたしたちは悪に悪をもって立ち向かわないことが、神さまに仕える者の広い心であると教えられます。それは神さまが良い人々ばかりでなく、悪い人々の上にも雨を降らせ、太陽の恵みを注いでくださる広いお心の持ち主だからです。

だから祝福を祈りなさいと勧められます。祝福は他人の繁栄を祈ることです。わたしたちは、侮辱されてもそれに報復しないだけでなく、善を為すことによって悪を乗り越えなければならないと教えられています。そしてそれは、相手の利益のためではありません。わたしたちがクリスチャンとされたのは、神さまの祝福を受け継ぐためだからです。だからこそ、悪に悪をもって報いては、神さまの祝福を断ってしまうことになるのです。10節。

「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」神さまは残酷な人や、裏切る人々を祝福することを欲してはおられません。そうではなく、善良な人々と善い行いのある人々に臨み給うことを欲しておられるのです。だからこそわたしたちは人の悪口を言ったり、人を侮辱したりすることのないようにしなさいと命じられています。また表裏のある人間、人をだます人間とならないように、舌が犯す罪、悪徳から身を守らなくてはなりません。更に、積極的に努めるべきことは、人を傷つけないこと、だれにも害を与えないこと、そして、すべての人に善くするように配慮を怠らないことです。

平和を願い、追い求めよと力強く勧められています。平和はただ争いが無く何もしなくても良い状態ではありません。ボーっとして居たら平和はわたしたちからいつの間にか逃げて行くかもしれません。ですから常に平和を追いかけて探し出さなければならない。平和とはそのように心配りすべきものであることを教えています。12節。「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」わたしたちは困難に直面するとき、まるで主は自分をお忘れになったかのように動揺することが多い者です。しかし、主は適切な時期に我々を救うために、わたしたちを見ておられます。主なる神様はわたしたちの保証人で保護者なのです。

ですから主の喜んでくださることを行っている時にも思いがけない困難、苦難に遭うことがあっても、どのような時にも人を恐れず、神さまだけを恐れて、わたしたちは互いに真実を語る者となりましょう。どんな時にも神を畏れて他人に悪を為すことなく、間違いにも不正にも耐えることが勧められています。カテキズム問49 第九戒は何ですか。その答は、「あなたは、隣人について、偽証してはならない」です。偽りや嘘や悪口を語って人を悲しませたり、困らせたりしてはいけないということです。わたしたちはイエスさまによって真実を語る者とされているからです。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

尊き御名を褒め称えます。今日の礼拝、わたしたちを一週間の旅路から、御前に引き返し、感謝と讃美を捧げる者とさせていただきました。

今日の御言葉の糧を感謝します。第九戒は偽証を禁じる戒めでした。偽証に先立つ小さな嘘、隣人に対する悪意、高慢な心をわたしたちから取り去ってください。あなたの前に低くされ、あなたの恵みを知る者とさせられたことを感謝します。互いに主のものとされ、イエスさまの生きた御体の肢とされたわたしたち、助け合って良い実を結ぶことができますように切に祈ります。今日の礼拝後に行われるバザーの行事をどうかあなたの恵みの下においてください。あなたの祝福を受け継ぐものにふさわしく、この働きを通して兄弟姉妹を祝福し、またバザーを機会に教会を訪れる地域の方々にあなたの祝福をお与えください。どうか思いがけない困難をも乗り越え、怪我無く事故無く行われますよう、最後まで御手の内にお導きください。

また、今週のわたしたちの歩みも御言葉に従うものとなりますように。来週は永眠者記念の聖餐礼拝を守ります。またどうぞ、あなたの豊かな顧みがそれぞれの生活の上に注がれますように。牧師後任の人事に伴う準備をあなたの御手によってお導きください。また東日本連合長老会の働き、日本基督教団の将来に向かう取り組みの上に御心を行ってください。わたしたちの限りある力が豊かに用いられ、あなたのご栄光を現わすために勤しむ者となりますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

葬られ、陰府にくだられた主

聖書:詩編139篇1-10節, ペトロの手紙一 3章18-19節

 6月を迎えました。わたしたち、それぞれの生活の中から、呼び集められこうして主の日の礼拝を捧げることが許され、真に感謝です。わたしたちは小さな群れといつも言うのですが、礼拝に出席できるわたしたちの内に家族があり、いろいろな出来事があります。結婚式という人生の一大行事を祝う一方、地上から去って行く家族を見送るという送別の儀式もあります。人生の初めから終わりまで、神様の祝福の許にしっかりと歩みたいと切に願います。

教会にわたしたちが集められているのは、この目的のためです。ここに恵みがあり、祝福がある。ここに救いがあるから、感謝がある。わたしたちを集められているのは、恵み、祝福、救い、感謝をわたしたちに証しさせてくださる神様がおられるからです。わたしたちの地上の命は、数十年です。よほど長命な人でも120年も生きることはほとんど期待できません。けれども教会は二千年も続いています。この世界が滅びる時が来るまで、地上の教会は世界に建ち続けるでしょう。教会はキリストが建ててくださったからです。教会とは、実は目に見える建物のことではありません。キリストに呼び集められた人々の群れのこと。つまり、わたしたちも集められていますから教会です。ただし、自分でここに来たのだけれども、本当は違うと知っているなら。自分でここに来たのだけれども、本当はイエスさまが今日もわたしを呼んでくださったのだと信じるならば、わたしたちも教会なのです。

ですから、わたしたちは教会に呼び集めてくださった方を知りたいと思います。招集者であるイエス・キリストを、キリストが説き明かしてくださった天の父を聖霊の神の助けによって、理解することができますように。理解して喜びに溢れますように。

さて、わたしたちはカテキズム(信仰問答)によって使徒信条を学んでいます。使徒信条は教会が代々にわたって告白して来た信仰の内容であります。わたしたちは先週、イエス・キリストが十字架に付けられたという告白を学びました。主は十字架の苦難を御自分の務めとして受けられたのです。その務めとは、わたしたちが罪のために呪われたその呪いを、わたしたちに代わって引き受けられること。そうすることで、今度は御自身の持っておられる祝福をわたしたちにお与えになることでした。

人間と人間との間で行うトレード、取引、交換では、考えられません。人間と人間との間では必ず、良いものと良いものとを交換します。お互いに損がないように、得するためです。ところが主は御自分の持つ最も良いものを、人間の持つ最も悪いものと取り換えてくださった。これこそ、神の御心。これこそ、神の業なのです。

そして、本日は「十字架につけられ」の次に来る「死んで葬られ、よみにくだり」とはどういうことか、について考えましょう。イエス・キリストは十字架の苦難を負われて、その結果、本当に死んでしまわれました。植物学者の牧野富太郎という人は長命でしたが、90代の時亡くなったので、家の者が集まって葬儀の相談をしていると、死んだと思われていた本人が、「世間が騒がしいようだねえ」と言って起きて来たという話がありました。しかし、イエスさまの場合は、決して仮に一時的に死んだとかいうことではなく、本当に、わたしたちが経験する死を御自身で経験されたのです。

イエスさまの十字架の死について記録している四つの福音書には、アリマタヤのヨセフというエルサレムの有力な議員のことが書かれています。彼は、イエスさまが十字架で息を引き取られた後、出て来てイエスさまのご遺体を引き取り、亜麻布で包み、新しい自分の墓に納めたということです。さて、それでは「陰府にくだり」とはどういうことでしょうか。当時の聖書の時代の人々の考えを表しています。まず、天には神様が住んでおられます。次に人間は生きている間は地上に住んでいますが、死んだ人は陰府の国に行くのだという考えであります。

陰府の国は、死者が陰のように無為に不活発に過ごすところです。しかし、ルカの福音書16章19節以下では、陰府はもっと大変なところとして描かれています。それは乞食のラザロと金持ちの物語です。ラザロは乞食でできものだらけの一生を終えて天国に迎えられたのに対して、金持ちは贅沢三昧の一生を終えて、陰府に落ちて苦しみ苛まされるという物語です。仏教でもそうではないかと思うのですが、地獄の恐ろしさを描き出す目的は、地上の生涯を悪から離れ善を行うように勧めるためであるかもしれません。しかし、自分で考えても、自分は陰府に落ちないという自信と確信を持つことができるでしょうか。親しい人々が地上を去って行き、見送った後はどうしているのだろうか、と思うことも多いと思いますが、何しろ、地上に生きている者には決して見えない世界であります。

そこで、教会は告白してきました。主イエス・キリストは陰府にくだり給うたと。キリストは、わたしたち人間と全く同じ死を経験されました。そして人間が行かなければならなかった死後の世界まで降りられたということなのです。わたしたちは皆罪あるものであります。そのためにわたしたちが自分自分で引き受けなければならない死を御自身で経験されました。その目的は何でしょうか。

それは、イエス・キリストの救いの恵みが届かない所はどこにもないということです。天にも地上にも、そして死者の住むという陰府にも、キリストによって神の御支配がもたらされたということなのです。ペトロの手紙一3章18節を読みます。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」

このことは、一度本当に死んだイエスさまが、その全人格において復活され、聖霊として今も生きて働き続けてくださることを意味します。わたしたちは聖霊降臨日の礼拝を守りました。ご復活のキリストはその御体をもって昇天されましたが、今も聖霊によってわたしたちを励まし、慰め、働き続けておられます。しかし他方、主は、わたしたちの生きている地上だけでなく、死者が住むという陰府にまで降ってくださいました。そして、そこで行き場を失い、神様から最も離れたところでさ迷い続けている人々を憐れみ、その魂にまで伝道されたのでした。わたしたちは、このことから教えられるのです。イエスさまは陰府にくだってくださるほど、どこまでもわたしたちを救おうと決めておられるのだと。

ですから、十字架に死んで葬られ、陰府に降られたイエスさまを、教会は真に神の子と告白するのです。このようなことは人間にできることではなく、神の子であったからこそ、人間のために、しかも罪ある人間のために死なれたのではないでしょうか。「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」この聖書箇所はペトロの手紙の中でも最も解釈が難しいところで、たくさんの説が唱えられた所であります。まず一つの解釈は、18~22節は洗礼時に歌うキリスト賛歌である。洗礼の意味が21節に述べられています。キリストは正しい方であるのに、正しくない者のために苦しまれたと語られ、その目的はわたしたちを神のもとへ導くためです。だからわたしたちの受ける洗礼はキリストの正しさを受けるため、キリストの苦難をいただき、キリストの正しい良心を願い求めるために、洗礼を受けるのだと教えられているのです。

一番多い解釈は、18-19節を、主の死と葬りそして復活との間において、キリストが経験されたことを言い表しているとする説です。すなわち主が肉において殺された後に、霊においては生かされ、信条が語るように、地獄または陰府に、すなわち死者の住む所に降り、獄にとらわれている霊どものところで宣べ伝えてくださったのだ、という説です。

この他にもいろいろあるのですが、カトリック教会は長い歴史の中で、死者のためのミサを伴う煉獄の教理や功徳の教理を作り出しました。わたしたちの親しい人々が何とか救われるようにと願う気持ちは尊いものだと思います。しかし、愛する人々の救いが他の人々の業によって達成されると教えることが、神様に許されることでしょうか。ルターの宗教改革の発端となったのは、カトリックが献金集めの手段に贖宥状を売り出したことだと言われています。煉獄で苦しんでいる死者の霊がその献金によって天国に入れられると謳ったのでした。その他、教会の業を伴う機械的手段によって獄にとらわれている霊どもを助けることが可能だと教えたのです。

わたしたちが、地上でお別れした愛する人々について思う時に、何よりも大切なことは、神の御前に謙って、慈しみを行ってくださる主の恵みにすがることです。人のことでも自分のことでもお金を積んだり、良い業を積んだり、具体的に何かをすれば、必ず救われると考えることこそ、神に背くことになるのではないでしょうか。なぜなら、キリストが世に遣わされたのは、神の慈しみ、神の恵みによる救いの道を開くためだったからです。これこれのことをすれば確実だ、というのは単に人間のこの世における営みに過ぎません。そしてこの世の営みが素晴らしい成果を上げているように見えるのは、ただただ、神がそれをお許しくださり、祝福してくださっているからに他なりません。それを忘れて誇り高ぶるからこそ、突然すべてが覆されるようなことが起こるのです。

業を誇る者は業によって救われようとします。そして恵み深い神を信頼せず、無視するのです。今日の詩編139篇を読みましょう。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上においていてくださる。」わたしたちの主はこのようなお方なのです。神とはこのようなお方でないはずがありましょうか。一体この方から離れて、この方のご存じないところで好き勝手に生きるなどということが可能でしょうか。

「その驚くべき知識はわたしを超え、あまりに高くて到達できない。どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。8 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしを捕らえてくださる。」わたしたちの神はこのようなお方。背こうとする者にとっては恐ろしい支配者です。しかし、信頼し頼り行く私たちにはどんなにありがたく、感謝すべき方であることか、陰府にまで降って虜を解放し、ご自分と共に天に昇ってくださる方。御自分の命と結んでくださる方なのです。

一方、繰り返して申しますが、自分の業に頼る者は、絶えず神の御支配以外のもの、律法の支配に縛られる危険にさらされています。スポーツにはスポーツのルールがあります。ルール、法を守って法の支配の下に頑張っているはずが、いつの間にか理不尽な罪の支配に苦しめられ、行く道を歪めれらてしまうということが、社会では横行しています。教会といえども、罪の支配に歪められないという保証はありません。しかし、わたしたちを呼び集めてくださる方を信じて、私たちはここにいます。私たちはみ言葉を聞き、信仰を言い表しましょう。私たちは主イエス・キリスト、十字架に付けられ、死にて、葬られ、陰府にくだられた方を告白しましょう。

最後に黙示録1:17-18を読みます。453上。「わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。『恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。』」

 

主イエス・キリストの父なる神様

尊き御名を賛美いたします。4月の教会総会が終わり、教会は新しく長老の姉妹を加えられました。また、5月には東日本連合長老会の会議が行われ、西東京教区の総会が行われました。非常に困難を極めている諸教会の歩みは、私たちの社会全体の困難を反映しております。いつもどうしたらよいのか、と方法を捜し求める私たちですが、あなたの御言葉を聴く時に、いつでもどこにでも、いまし給う方、頼り行く者を決してお見捨てにならない方を改めて見上げることが許され、真に感謝に絶えません。

どうか、私たちが絶えずあなたに道を尋ね伺い、祈り求める教会でありますように。弱い者、貧しい者、無力な者をも、決してお見捨てにならず、むしろ喜んで御業を表して、あなたの慈しみの大きさ、死ぬ者も生かすほどの偉大な力を明らかにしてくださるように祈り願います。 若い人々が少ない日本社会ですが、どうか勇気と知恵をお与えください。前代未聞の社会状況にこそ、イエス・キリストの計り知れない恵みが働きますように。どうか、救い主キリストを告白する信仰をお与えください。私たちの家族に、友人に、社会に。そのためにこそ、主よ、私たちがいる場所にいつもいらしてご栄光を表してください。

本日行われる長老会議を祝し、あなたの御心によって導いてください。また、来週の花の日に例年教会学校が行っている訪問行事を今年も導いてください。また、全国連合長老会の会議が来週行われます。どうか成宗教会について行われる人事の上にあなたの恵みの御支配がございますように。

今日もこの礼拝に参加できなかったすべての兄弟姉妹のために祈ります。どうぞ主の豊かな顧みをお与えください。再び礼拝を守ることができますように道を開いてください。

今日、これから主の晩餐に与ります。

すべてを感謝し御手に委ねて、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。