神のものは神に

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌10番
讃美歌68番
讃美歌338番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 1章26-27節 (旧約聖書2ページ)

1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

新約聖書:マルコによる福音書 12章13-17節 (新約聖書86ページ)

12:13 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。
12:14 彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
12:15 イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」
12:16 彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、
12:17 イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。

《説教》『神のものは神に』

先週から受難節に入りました。主イエスの十字架の受難日は今年は4月15日ですが、それまで1ヶ月ほどあります。

今私たちが礼拝において読み進めているマルコによる福音書12章に語られているのはまさに主イエスの最後の一週間、受難週における出来事です。主イエスを殺してしまおうと思っている人々が、言葉尻を捕えて陥れ、訴える口実を得ようとしていろいろなことを語りかけて来たのです。13節に「さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。」とあります。人々とは11章27節以来、主イエスの陥れようとしている祭司長、律法学者、長老たちです。

もともと、この時代、ファリサイ派とヘロデ派は犬猿の仲でした。

ヘロデ派はローマ帝国の支配を受容しています。ローマ帝国の植民地でありながらガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスによる直接支配がユダヤ全土に及ぶことを認めていました。言わば現実派であり、支配するローマ帝国への納税も当然受け入れていました。

他方、ファリサイ派は伝統的な律法第一主義です。「神にのみ従え」という神の直接的支配を夢見るユダヤ民族主義が基本的主張であり、神殿税と呼ばれる神にささげる献金には大賛成ですが、ローマ帝国への納税には反対でした。

ファリサイ派は、ヘロデ派を信仰を虚しくする世俗主義として憎み、ヘロデ派はファリサイ派を現実を無視する原理主義として批判していたのです。それなのに両者が、主イエスを陥れるために相談し、協力しているのです。

彼らは、何のためにお互いの争いを超えてまで協力しているのでしょうか。

ファリサイ派にとっても、ヘロデ派にとっても、主イエスを陥れることによって得るものは何もありません。彼らはただ、「これまでの自分の生き方を否定される」ことを嫌がり自分の立場をそのまま保っていたいと思っているのです。彼らは、古いものを打ち砕き、新しい御国をイスラエルにもたらそうとしている神の御子を拒否します。すべての者を福音のうちに包み込もうとする神の御手から必死に逃れようとする人間、それがここに現れた人々なのです。彼らは主イエスに、「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」と問いかけました。彼らは、神の御子を陥れることが出来ると思ったのです。「言葉じりをとらえる」とは「狩人が獲物を捕らえる」という意味で、単純なあげ足取りではなく、イエスを罠に掛けようとしたのです。

これが、ファリサイ派が考えに考えた末の質問でした。その初めに心ならずも語られている、イエスに対する儀礼上の褒め言葉は、皮肉にもまことに正しいものでありでありました。主イエスこそ真実な方であり、人の言葉に惑わされる方ではなく、人の顔を見て差別される方でもなく、聖書に基づいて神が示された正しい道を教える唯一の方です。

彼らが主イエスに話しかけた14節前半は、「言葉としては」まことに立派なものでした。しかし同時に、人の語る言葉は、心を規定するものであることを知らねばなれません。言葉は、語る人自身の人格を表すのです。そして言葉の醜さは、同時に、人格の醜さをさらけ出してしまいます。

彼らは、主イエスに対してまさに最高の賛辞をもって語り掛けましたが、神の御子が自分たちの本心を見抜いておられないと、思い込んでいたのではないでしょうか。

私たちは、主イエス・キリストに対する信仰告白を公にしています。主なる神への絶対的な服従を、聖霊の導きとキリストの執り成しによって告白しています。しかし、自分が言葉に出した信仰告白と、私たち自身の心と行動とが、何処まで一致しているでしょうか。私たちは、人の心を覗き見ることは出来ません。偽りの言葉を区別することは困難です。しかし、主なる神はそれを見抜くことが出来るのです。

神を偽ることは出来ません。それ故に、「最も美しい言葉が、最も醜い心を表してしまう」ことになってしまうのです。

ファリサイ派は、自分たちの言葉が、自分自身の醜さを既に暴露していることにも気づかず、彼らなりに練りに練った難問を、神の御子を陥れる罠として用意したのです。

古代世界では、支配者が課す税は、圧制による搾取とも考えられ、問題があったことも確かです。しかし、ここでの問題はそういうことではなく、ローマ帝国の税金は、ユダヤ人にとって、生活上の負担や苦しみであるという以上に、信仰上の問題でした。

14節にある「税金:ケーンソス」とは、所得税や物品税のようなものではなく「人頭税」のことです。人頭税とは、市民・国民の義務、国家に所属する証しであり、一人年額1デナリ、労働者一日分の給料に当たる金額でした。金額的には大して大きなものではありませんが、ユダヤ人の国家意識は、あくまでも神が支配する神制国家であり、彼らは、主なる神への信仰の証しとして、年額半シェケル、デナリオンに換算すればローマ帝国の人頭税の二倍に相当する金額を、イスラエル神殿へ納めていました。それがユダヤ人としてのアイデンティティであり、信仰確認でした。

ローマ帝国の人頭税は、ローマ帝国の支配権・王権を認めることになり、神の神聖性を犯すとユダヤ人は考えていたのです。それ故に、ここに提出された問題は、「税金を納めるべきか反対すべきか」という搾取に対する抵抗というような政治・社会的問題ではなく、純粋に信仰上の問題であったのです。

この時、主イエスが「納めよ」と言えば、民衆は世俗主義であるとして主イエスを見棄てるでしょう。ファリサイ派はそれをローマ帝国支配への迎合として宣伝します。反対に、「納めるな」と言えば、ヘロデ派は反政府主義者として主イエスを捕らえる口実とするでしょう。

どちらにしても主イエスを陥れる名案だと、ファリサイ派と反目し合うヘロデ派が、共に自分たちの主義主張を捨ててまで団結し、神に逆らう人間としての結論でした。主イエスは、彼らの下心を見抜いて、「デナリオン銀貨には、誰の肖像と銘があるか」と問われました。デナリオン銀貨は当時のローマ帝国内の基本的貨幣です。そして、デナリオン銀貨を初めとするローマの貨幣には、すべて表面に皇帝の肖像が浮き彫りにされていました。

古代社会において、貨幣に刻まれた肖像は、それを用いる者への主権・支配権を表すものでした。国際的な条約などはなく、また現在のような銀行制度もない時代です。貨幣の発行は、皇帝または国王の支配権を明らかにするものであり、肖像が刻まれた貨幣を使用する者は、そこに刻まれた皇帝の支配権を認めるものでした。古代世界では貨幣の通用する範囲が支配地域でした。「これは誰の肖像か」と主イエスが尋ね、「皇帝のものです」と彼らが答えた時、ローマ帝国の支配を彼らが認めていたことを意味しているのです。

彼らは、ユダヤ人の自主独立や信仰の純粋さを語って来ました。しかし実際は、後にローマ総督ピラトに訴え、主イエスの十字架刑を要求したように、ローマ帝国の支配を容認しており、必要に応じてそれを利用し、国家の権力を信仰の上においていたのです。国家の恩恵を受けているのなら、その義務も負っている筈です。権利を主張する以上、義務もまた果たすべきです。これが主イエスの考えでした。主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。この「返しなさい」とは、「支払うべきものを支払う」という意味です。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という御言葉は、よく政教分離ということで誤解されることがあります。「信仰と政治は別のものだ」という意味で、この言葉が格言のように利用されます。

しかし、主イエスは「政治や経済はこの世に属し、霊的な部分は神に属する」と言っておられるのではありません。「この世の支配者もまた、神の支配の下にある」ということを明確にしておられるのです。

17節の最後に「彼らはイエスの答えに驚き入った」と記されています。私たちは、ここで「なるほど流石見事に答えられた」と感心して終わってはなりません。

「神のものは神に」とは、どのようなことでしようか。ここに信仰の大切なことを表されているのです。では、何故、「税金を納めよ」と言われたのでしょうか。

デナリオン銀貨には皇帝の肖像が刻んであります。それを使用するということは、ローマ皇帝の支配権を認めていることになります。国家への税金支払いは主権国家への義務だからです。

それでは、「神に返すべきもの」とは何でしょうか。16節で「肖像」と訳されている「エイコーン」という言葉は、通常は「姿」「かたち」と訳されます。

余計は話ですが、この「エイコーン」という言葉はギリシャ正教の聖なる絵画「イコン」となり、英語で「icon:アイコン」となって私たちが普段スマホやパソコンでお馴染みの世界語となっています。

話を戻して、ここで、主イエスは「皇帝の“姿・かたち”が刻まれているものは皇帝のものであり、皇帝に返せ」と言われました。ですから「神のもの…」とは、「神のかたちが刻まれているものは神のものであり、神に返せ」ということになるでしょう。「神のかたち」とは何でしょうか。それは、司式者に先程お読み頂いた旧約聖書創世記1章26節~27節にある「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって人を創造された。男と女に創造された。」を思い出すとすぐに分かります。

地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むもの、神がお創りになったこの世界のすべては神のものなのです。私たちが神に返すべきものとは、私たちの生活の中の限られた部分や物ではなくて、その全てなのです。地上にあるもので、神のものでないものなどありません。「神のものは神に返しなさい」というみ言葉は、この世において、あるいは私たちの人生において、「神のもの」である領域を限定して、そこにおいてのみ神に従いなさいと言っているのではないのです。この世の全ては神のものなのです。全てを神にお返しすることによってこそ、神のものを神に返して生きることができるのです。

 

「神のもの」とは、神の似姿を刻まれて創造された私たち人間です。神は私たち人間にご自身の肖像を、似姿を刻みつけて、「あなたは私のものだ」と言っておられるのです。私たちは神の似姿を刻まれた神のものとして生きているのです。「神のもの」とはこの世界の全てですが、私たち人間に限って言えば、私たち自身こそ、神に返されるべき「神のもの」なのです。

私たち自身が、神の主権をこの世において顕すものなのです。私たちは、「神のかたち」に造られ、罪によって、一時、本来の姿を失っていましたが、キリストの福音によって、「神のかたち」に倣う新しいものに改めて造りかえられたのです。神の御前に、造られた者としての正しい姿を示すことが求められているのです。そしてその神様が、何処までも私たちから離れることなく、愛され導かれていることを、私たちは常に覚えるべきです。御子キリストは、御前にひれ伏す私たちに対し、「あなたは神のもの・私のもの」と、おっしゃっているのです。

お祈りを致しましょう。