みこころを思え

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌 6番
讃美歌352番
讃美歌79番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 28章20-22節 (旧約聖書46ページ)

28:20 ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、
28:21 無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、
28:22 わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」

新約聖書:マルコによる福音書 7章1-13節 (新約聖書74ページ)

7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』
7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
7:9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。
7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。
7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。
7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

《説教》『みこころを思え』

今日まで、マルコによる福音書を連続して、ご一緒にお読みして来ましたが、今日から7章に入ります。最初の1節に「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった」とあります。ファリサイ派と律法学者とは基本的に同じと考えてよいでしょう。旧約聖書に記されている神様の掟である律法を研究し、それを人一倍厳格に守り実践するという生活を送っていた人々です。そして彼らは一般の人々に、日々の生活の中で律法を守って生きることを具体的に教えていたのです。イスラエルの人々が、主なる神の民として相応しく、律法を守って生活するように指導していくことが彼らの働きでした。そういう人々が何人か、エルサレムから主イエスのもとに来たのです。主イエスが今活動しておられるのはガリラヤ地方です。ユダヤの北の方、ガリラヤ湖の周辺のこの地は、エルサレムからは100Km以上の距離がある「田舎」です。その田舎であるガリラヤにイエスという男が現れ、神の国の福音を宣べ伝え、癒しの奇跡を行い、多くの人々が彼の周りに集まっていることを伝え聞いたエルサレムのファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエスの語っていることと、行っていることを調べ、それが律法に適ったものかを確かめるためにやって来たのです。そのような時、主イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしているところを、たまたま見たのでした。食事の場にまで居合わせたということは、彼らは、これまでも主イエスと行動を共にしていたとみることが出来ます。主イエスと行動を共にし、御言葉を繰り返し聞きながら、何一つ自分の内に留めることなく、過ちを見出すことのみを考えていたのが、このファリサイ派の人々や律法学者たちでした。

この時の弟子たちの行動が、何故、ファリサイ派の人々にとって非難すべきことと思われたのかを、当時のユダヤの習慣を知らない人々のために、マルコはわざわざ3節と4節で説明をしています。そこには、「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人々の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台などを洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」とあります。これは聖書に記されているユダヤ人が守っていた「律法」ではなく、いわゆる「昔からの習慣」でした。

ここで「汚(けが)れ」と訳されている言葉についてですが、日本語の「ヨゴレ」と「ケガレ」とを明確に区別しておかなければなりません。特に注意しなければならないことは、「手を洗う」ということが、衛生上のことではなく、大切な宗教儀式であったということです。ユダヤ人の「手洗い」は、「汚(よご)れたから洗う」のではなく、厳密に言えば、「穢(けが)れたから潔める」ということなのです。2節に用いられている「汚(けが)れ(コイノス)」というギリシャ語の言葉は、「聖なる(ハギオス)]という言葉に対称する言葉です。「ヨゴレ」の問題ではなく、「ケガレ」の問題なのです。一言で言えば、「ケガレ」とは「神に近づくことが出来ない状態」と定義することが出来るでしょう。旧約聖書はこの「ケガレ」について数多くの戒めを記しており、それぞれに大切なことが決められていますが、全ての律法に共通する精神、それは「イスラエル民族を守る」ということでした。

イスラエルは小さく弱い民族でした。周辺の民族の中に埋没してしまう危険性が常にありました。特に周辺の諸民族は全て偶像礼拝をしています。ですから、彼らとの同化は信仰を失う危険を招く恐れが強かったと言えるでしょう。それ故に、旧約聖書をもって、イスラエル民族と他の民族を明確に分け、異民族から分け隔てる「分離の思想」というものが確立されていったのです。小さく弱いイスラエル民族を周囲の偶像礼拝から守るにはどうしたらよいのか。神様が教えられた方法は、危険から引き離すこと、危険に近寄らないこと、即ち「分離すること」でした。砂漠の民、遊牧の民として、質素で厳しい生活に耐えて来たイスラエルの民にとっては、地中海文明の覇者であるローマ帝国の下での都市生活は大きな誘惑でした。このため、神様は異民族との「分離」を御命じになったのです。神の民の歴史の中で「分離」が重要な主題となり、そしてヘブライ語の「分離(コーデシュ)」という言葉が旧約聖書の「聖」「聖い」という意味に用いられるようになりました。逆に言えば、私たちが聖書から用いる「聖」という言葉は、本来「分離する」「引き離す」という意味の言葉なのです。

それ故に、イスラエルは自分たちを自ら「分離された民族」、同じ意味で「聖なる民族」と呼び、他の民族と交わることを、「聖」の反対語を用いて「ケガレ」と呼びました。不潔なものや不衛生なものに触れたので「ヨゴレタ」というのではありません。偶像礼拝などによって、自分たちの信仰が危険に晒されることを、そこに感じたからです。ですから、ここで議論となった「手を洗う」という行為は、自分たちの信仰の純粋性を偶像礼拝の危険から守るという具体的な行動を表す言葉でした。

5節でファリサイ派の人々や律法学者たちは「なぜ手を洗わないのか」と非難しました。しかし彼らは、「それでは、なぜ、手を洗うのか」という問いが、改めて主イエスから返されたことを見落としているのです。「今や、手を洗わなくても良い時代が来た」という主イエスの大切なメッセージを聞き漏らしているのです。

マルコによる福音書に記された主イエスの最初の御言葉は何であったでしょうか。それは1章15節の「時は満ちた」でした。準備の時は終わり、遂に御業の完成の時が来たのです。マルコ福音書はこのことを宣言しているのです。

他の民族との接触を避け、自分たちの立場を「分離」して固く守る時代は終わったのです。主イエス・キリストの到来は、これまで「分離すること」で守られて来たイスラエル民族が、今や遂に、全ての人々のために、神の御業の証し人として出て行く「時の始まり」でした。

主イエス・キリストの宣言はこのことでした。そして、調べに来たファリサイ派の人々や律法学者たちもこの御言葉を聴き、その「しるし」を見た筈でした。それにも拘らず、単なる習慣上の形式に囚われ、律法が目指して来たことを見落とし、弟子たちのあら捜しをして、主イエスを陥れることしか考えていませんでした。既に述べたとおり、「手を洗う」ということは、確かにユダヤ人にとって、分離され保護されている自分たちの姿を確認することでした。さらに主イエスは具体的な例を挙げ、ファリサイ派によって代表されている人間の罪を指摘するのです。9節以下で、「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対し何もしないで済むのだ』」と言われました。ここで「コルバン」とは、ここに説明されているように、「神様への献げもの」という意味です。この時代のイスラエルでは、神様への献げものは絶対視されていました。人間は神様より与えられたものを受けているのであり、「その最初のものは神様にお返しするべきである」とされ、十分の一を先ず神様に献げ、残りの十分の九で生活すべきことが聖書に記され、固く守られて来ました(創世記28章22節、レビ記27章30節、申命記14章22節、アモス書4章4節、ルカ福音書18章12節)。「コルバン」とはこの「神様への献げもの」のことであり、ひとたび「コルバン」と宣告すれば、それは、如何なることがあっても自分の生活のために用いることは許されません。そのため、「コルバン」という言葉は「聖別」という意味にもなり、「完全な献身」をも表しました。ですから、この「コルバン」という言葉も「手を洗う」ことと同じく、信仰を守るために「自分自身の決断を表明する宣言」でもあったと言うべきでしょう。

人は、お金など持っていれば使いたくなります。それは人間共通の心理であり、欲望に限界はありません。そのため、この時代の人々は「コルバン」と自ら宣言することによって、自分の欲望を抑えたのです。しかし、それが悪用され、親を養わない理由として「献げものをしなければならないから」と言う人間が続出したというのです。神様への誓いは絶対的であり、取り消し不可能です。そのため、親を養う義務を放棄するとき、人は「コルバン」を悪用しました。さらにまた、借金の催促が来た時も、「この金はコルバンです」と言えば、その場の督促を逃れることも出来ました。

このような人々は、何よりも神様への献げものを優先しているようであり、一見、神様中心の生活を送っているように見えますが、実は、それを利用して自分の義務を免れようとしているに過ぎません。神様が与えた律法の精神を悪用した形式主義の醜さがここにありました。

既に見て来ましたように、「手を洗う」ということは、「信仰の純粋性を守る」ということであり、「コルバン」とは「神への感謝を忘れるな」ということでした。何のために守るのか。何のためにそれを行うのか。手段は目的に従うものに過ぎません。ファリサイ派は、主イエスの欠点を探し出そうとする愚かな努力の結果、かえって自分たちの生きる姿の虚しさを露呈してしまったのです。主イエスは、彼らに対して、8節では「あなたたちは神の掟を捨てた」と言い、13節では、「神の言葉を無にしている」と非難しておられます。御心は私たちを冷たい戒めの中に閉じ込めることではなく、福音の光の中で真実の自由を喜ぶことにあります。

主イエス・キリストの到来によって「時は満ちた」のです。戒めによって守られる時代は終わったのです。主イエス・キリストの来臨は、新しい時代の始まりを告げています。律法によってではなく福音によって、裁きによってではなく赦しの宣言によって生きる、新しい『自由の時代』です。「コルバン」という信仰的な言葉を、自分の欲望の隠れ蓑としてしまうような「偽善」から解放されるためには、私たち自身がコルバンとなること、神様への供えものとなることが必要なのです。

主イエス・キリストは、この私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。父なる神はこのようにして、私たちの罪を赦し、清くも正しくもない私たちをご自分のものとして下さっているのです。「自分は自分のものだ」と言い張っている私たちに、神様は、「私は独り子の命を与えてまであなたの罪を赦し、あなたを私のものとした。あなたはもう私のものだ。それゆえにあなたは神の民の一人として、私の愛の中で生きることができるのだ」と語りかけて下さっているのです。

私たちの信仰はもはや、自分が神様の前に正しく清い者であろうと努力することではありません。神様が、独り子主イエス・キリストによってこの私たちを愛して下さり、ご自分のものとして下さっている、それゆえに私は神様のもの、コルバンとされている、そのことを受け入れて生きることが私たちの信仰です。その信仰に生きることによって私たちは、昔の人の言い伝えから、人の評価を気にすることから解放され、自由になれるのです。

お祈りを致しましょう。

<<< 祈  祷 >>>