神の時を望みつつ

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌194番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:ホセア書 14章2-3節 (旧約聖書1,420ページ)

14:2 イスラエルよ、立ち帰れ/あなたの神、主のもとへ。あなたは咎につまずき、悪の中にいる。
14:3 誓いの言葉を携え/主に立ち帰って言え。「すべての悪を取り去り/恵みをお与えください。この唇をもって誓ったことを果たします。

新約聖書:マルコによる福音書 11章12-14節 並びに 20-25節 (新約聖書84ページ)

◆いちじくの木を呪う
11:12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
11:13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
11:14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
◆枯れたいちじくの木の教訓
11:20 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
11:21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
11:25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
11:26 (†底本に節が欠落 異本訳)もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない。

《説教》『神の時を望みつつ』

本日の物語には、15節~19節の部分に別の物語が挟まれていますので、それは次週にまわし、今朝は、12節~14節と20節~25節の御言葉をご一緒に読むことにします。このような文章構成をサンドイッチ構造と言い、マルコ特有とも言えます。

時は主イエスの地上で生きられた最後の一週間です。その週初めの日曜日に、主イエスは子ろばに乗ってエルサレムに入られると、多くの群衆にナツメヤシの葉を敷いて熱狂的に迎えられました。主イエスがいちじくの木に近寄り、言葉をかけられたのは14節に「翌日」とあるので「エルサレム入城」の翌日 月曜日のことです。いちじくの木が枯れていたのは20節に「翌朝早く」となっていますので火曜日のことです。従って、このいちじく事件は、月曜日から火曜日にかけてということになります。十字架の金曜日が刻々と近づいており、「時」は切迫しています。この「時がない」ということを念頭に置かなければなりません。

本日の聖書箇所もまた、よく誤解される所です。少々ひねくれて読めば、次のように言えるかもしれません。「イエスは空腹になり、いちじくの実を求めたが未だ実はなっていなかった。そこで怒って、呪った。翌朝、いちじくの木は枯れた。そして『何でもこの通りになる』と言われた」ということです。

この時期は、過越の祭の直前、ユダヤの暦で“ニサン”と呼ばれる月の前半にあたり、私たちが通常使っている太陽暦で言えば三月から四月の初めにかけての季節です。いちじくの実が生るのは早いもので六月であり、13節で指摘されているように、この頃にいちじくの実がないことは当然です。そのため、主イエスの言われていることの方が無理であり、「怒りは勝手過ぎる」ということになってしまいます。そして、挙句の果て、「イエス様がこのような無理を言う筈はない」と言って、この物語を無視するようになってしまうのです。

既に、読んで来ましたように、マルコ福音書の大きな特徴は、主イエスの最後の一週間に重点を置いています。福音書の約40%が受難週の出来事で占められています。主イエス誕生のクリスマス物語を完全に省き、荒野の誘惑もバプテスマのヨハネからの洗礼をも簡単にしか記していないマルコ福音書。そして、全体のバランスから見れば異常とも思えるほどに最後の一週間に集中しているマルコが、「無視してもよいこと」を、この大切な受難週物語の途中に書く筈がありません。

しかも、この「いちじくの木を枯らした」という出来事は、マルコ福音書における主イエスの最後の奇跡であり、かつ主イエスの建設的でない破壊的な只一つの奇跡なのです。十字架の金曜日を目前にした主イエスの異常ともいえる行為で、マルコは何を言おうとしているのでしょうか。

始めの2節に、「イエスは空腹を覚えられた」と記されていますが、ここでの問題は、「イエスの空腹」とは思われません。何故なら、主イエスは、荒野における四〇日四〇夜の断食にも耐え、サタンの誘惑にも屈しなかった方です。また、この前の日はベタニヤ村のマルタとマリアの家に泊まっておられたと思われるので、その家を出たばかりのこの時、耐え難いほどの空腹であったとは思えません。

問題は弟子たちです。かつて、2章23節以下で、麦畑の中を通っておられたとき、弟子たちが「空腹であったので麦の穂を摘んで食べた」ということがありました。これは、当時の旅人には許されていたことでありましたが、弟子たちが「空腹という肉体的誘惑には弱かった」ということを示していると言えるでしょう。それ故に、主イエスが空腹を感じられたとき、空腹に弱い弟子たちのことを考えられたのでしょう。かつての麦畑と同じような状況で、弟子たちが何を考えているのか、主イエスには十分理解できたに相違ありません。

弟子たちの心は、主イエスが近寄られたいちじくの木に向けられていた筈です。そして、「実を実らせる奇蹟」を期待していながら、「今はやはり実のない季節なのだ」という失望、期待と失望が相まったことでしょう。主イエスは、弟子たちの期待と失望に対応して迫り来る「神の時」をお教えになったのです。

この主イエスの御言葉と御業が、単なる空腹のための怒りではなく、深く考えない弟子たちの心の弱さを利用してなされた御業であり、今や目前に迫る「神の時」の到来を告げる預言的・象徴的行為であるということに気づくならば、一切の疑問は解けて来る筈です。

旧新約聖書では、いちじくの木を「たとえ」として数多く用いています。ヨエル書1章7節では「神の民としてのイスラエル」として語られていますし、エレミヤ書8章13節では、「神の期待を裏切ったものとしてのイスラエル」が「実がならないいちじく」として表現されています。さらに新約でも、ルカ福音書13章6節以下では、主人の期待に応えず滅ぼされるものとして「実のならないいちじくの木」がたとえ話で教えられています。

主イエスは、最後の週の月曜日の朝、たまたまそこにあった「いちじくの木」を題材にして、神の御前におけるイスラエルの運命を、「眼に見えるたとえ話」として示されたのです。

空腹の弟子たちは、どれほど、たわわに実るいちじくの実の季節を望んだことでしょう。いちじくの木は、遠くから見てもすぐ分かるほどに青々としていたと記されています。それは、形ばかりが整っていても神の御心を満たすものを何も持たない人間の姿を表しているいると言えましょう。表面だけを飾るのは容易なことです。他人の眼に「どのように見えるか」ということだけを考え、献げるべきものを何も持たない人間の虚しさが、ここに表されているのです。ただ、いちじくの木にとって、それは未だ実りの季節ではなかったのです。自然の時に支配される植物としては当たり前のことと言えましょう。しかし、私たちは自分の生きる姿の中に、どのように「時」を見詰めているでしょうか。私たちもまた、「未だ、時がある」と考えているのではないでしょうか。「主なる神から人生の結実を求められるのは、未だ先のことだ」と考えてはいないでしょうか。しかし、神は、「時」を私たちに委ねては居られないのです。「時」を決定するのは主なる神です。神の長い忍耐を考える時、「未だ、その時ではありません」と言うことはできません。「時」に関して、私たちに何の弁明の余地もないということを、改めて知らなければなりません。14節で主イエスはいちじくの木に、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われたとあります。この「今」という時を無視して、神の御心を満たす機会は二度と巡っては来ません。20節でいちじくは枯れ、主イエスは、枯れたいちじくの木によって、神の時の中で用いられない滅びをここに示されたのです。

これに驚いた弟子たちに主イエスは22節以下で大胆な言葉をかけられます。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、その通りになる」。

万能の神に出来ないこと、不可能はありません。その神の万能を信じて人は神に祈ります。すると、万能の神は信じたその人が願ったどんな不可能なことも叶えてくださる。山に「動け」と願ったら、山は本当に動くのでしょうか。本当にそんなことがあるでしょうか。これこそが信仰であると言われ、逆に、それで躓いてしまう人がいます。確かに、信仰は神の絶対的な力を信じることであり、「神に不可能なことはない」ということを信じることです。しかしながら、信仰は、そこで止まってはなりません。「山が動く」という程度のことでびっくりしたり、躓いたりしてはなりません。大切なことは、その神の偉大な力、絶対的な意志が、「今、何に向けられているか」ということを考えることです。

世界の創造主が、今、何を目指しておられるのか、ということを考えなければ、「山が動く」ということは、単なる無知な思い込みと変わらなくなるでしょう。主イエスがここで言っておられることは、「山でも動くぞ」などということではありません。

先週の「主を迎える」と題してマルコ福音書11章1~11節で、主イエスが、何故「ろばの子」にお乗りになって、何をお示しになったかを思い出して下さい。

主イエスは、敢えて、乗るには適さない「小さなろばの子」を指定され、エルサレムの群衆の前に姿を表されました。

それはまさに、主イエスご自身がゼカリヤ書の「神の勝利を告げるメシア」であることを示す「眼に見えるしるし」でした。さらに、23節で主イエスが言われている「この山」とは、「オリーブの山」です。そして、主イエスがろばの子に乗ることによって、「思い出せ」と言われたゼカリヤ書14章4節(旧約聖書1,494ページ)には、このようなことが記されています。

その日、主は御足をもって
エルサレムの東にある
オリーブの山の上に立たれる。
オリーブ山は東と西に半分に裂け
非常に大きな谷ができる。
山の半分は北に退き、半分は南に退く。

ゼカリヤ書は、「オリーブの山が動く時こそ、終末である」と語って、その時が、世界の終わりであると告げているのです。罪の下に生きて来たすべての人が、自分の生きざまを主なる神の御前で総決算する「時」なのです。

もはや、「山が動くか動かないか」という程度の問題にとどまらず、「山」は神の御業を指し示す「しるし」であり、「山が動く」という表現によって、この世界に対する絶対の力と意志を持たれる主イエスが、「今こそ終末に臨む時なのだ」と言われているのです。

終末とは、神による決定的な「時の到来」です。その決定的な「時」を前にして、「未だその時期ではありません」などという呑気な言葉が許されないことを、主イエスは、この朝、いちじくの木の姿を通してお教えになったのです。

終末を見つめて生きる人間とは、何時でもその時を迎えられるように生きる人間のことです。主イエス・キリストに求められるその時こそ、「私たちが迎える最も重大な時である」のです。神に喜んで頂けるか、自ら滅び迎えるか、そのいずれかの道を選び取らなければならない時なのです。そして主イエスは、24節で「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」と言われ、続いて25節で「赦しの祈り」を教えられました。

常に終末を見据え、終末に備えて「終末的に生きる」とは、人として最も厳しい生き方です。たとえ、どんなに力を尽くしてもなお及ばないところの多いのが私たちの実情であり、限界です。「神の時」に相応しく生きられない弱さを認めざるを得ません。

それ故に、主イエスは「祈り」を教えて下さったのです。弱い者こそ祈らざるを得ないのです。「祈り」こそ、「時の中」を生きる者が、御心に相応しく示し得る唯一の姿なのです。

そのことを覚えるならば、主の祈りの素晴しさは明らかです。「御心の天になる如く、地にもなさせ給え」と祈り求めるならば、主イエス御自身が既に週末に必要な備えをしてくださっていることを、知ることが出来るのです。私たちの教会が「祈りの家」であるだけでなく、私たち一人ひとりが愛する者のために自分自身を「祈りの家」とするのです。お祈りを致しましょう。

主を迎える

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌234A
讃美歌452番

《聖書箇所》

旧約聖書:ゼカリア書 9篇9節 (旧約聖書1,489ページ)

9:9 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。

新約聖書:マルコによる福音書 11章1-11節 (新約聖書83ページ)

11:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
11:3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
11:4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
11:5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
11:6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
11:7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
11:8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
11:9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。
11:10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
11:11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

《説教》『主を迎える』

マルコによる福音書は四つの福音書の中で最も短く16章しかありません。今日から、その11章に入るわけですが、この11章から最後の16章にかけて記されているのは、主イエス・キリス トのご生涯の最後の一週間のことです。本日の聖書箇所には主イエスがエルサレムにお入りになったことが語られていますが、それは週の初めの日、日曜日のことだと考えられています。その日から始まる一週間の内に、主イエスは捕えられ、死刑の判決を受け、金曜日に十字架につけられて殺されるのです。そのことが15章まで語られており、最後の16章は、次の日曜日の朝の復活のことです。エルサレムに入ることから始まり、逮捕、裁判、十字架の死、そして埋葬に至るこの最後の一週間のことを「受難週」と呼びます。今日の11章はその受難週の始まりであり、マルコ福音書は、この一週間のことを語るのに全体の三分の一以上の分量を用いているのです。これまで読んできた、主イエスの教えや御業を語ってきた部分は、受難のことを語るための序文だった、ということです。私たちは本日から、マルコ福音書の最も大切な中心部分に 入って行くのです。

主イエスはいよいよ、ユダヤ人の信仰の中心地であるエルサレムに来られました。主イエスがエルサレムに到着なさったというのは特別な出来事です。マルコも これを特別なこととして語っています。

マルコ福音書が書かれた時代(紀元60年代)、教会は未だ小さなものでした。社会的な保護どころか、ユダヤ人社会からの批判を避けて地下墓地の片隅や屋根裏部屋などで密かに集会を行い、ローマ帝国の圧力を避けつつ、信仰を守り続ける極めて小さな群れでした。

さらローマ帝国のユダヤ迫害も強まり、ローマ帝国に対する絶望的な反抗であるユダヤ戦争によって、エルサレムは紀元70年の神殿崩壊に直面していました。ペトロやヤコブを初めとする使徒たちも次々と世を去り、教会が新しい世代の人々に託されて行く時代に、「この苦難の中でキリスト者が生き残る唯一の武器はこれである」と書かれたのが、マルコによる福音書でした。

マルコは、イエスの最後の一週間を、「キリストに従う者に勝利を保証するもの」として語っていることは、言うまでもありません。聖書が語ることは、この世から逃避することではなく、この世の中を強く生きて行くために、神が与えて下さった「希望の信仰」なのです。

マルコの描く主イエスの最後の一週間は、ちょっと不思議な書き出しで始まります。「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。『向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい』」。 主イエスの一行は、この時、ベタニアから出発したので、これから行く「向こうの村」とは、ベトファゲのことでしょう。今、主イエスは、エリコ街道を登りきり、反対側のエルサレムを眼下に見下ろす地点に出ようとしているところでした。

これから行く先の村のことを、どうして主イエスは詳しく知っておられるのでしょうか。「これまでも何度か来られていたので知っていた」とは言えても、「今日、ロバの子が繋がれている」ということがお分かりになったのでしょうか。これについて、さまざまな説明がなされています。ある人はイエスの不思議な予知能力について説明しようとしますし、またある人は、予めなされていた「打ち合わせであった」とも言います。

ここで主イエスはろばの子に乗られた、これが極めて重要なことなのです。「ろばの子に乗る御姿」そのものが大切であり、主が示された「眼に見えるしるし」と言うべきでしょう。主イエスは、御自身のためにではなく、すべての人々のためにろばの子に乗られたのです。8節から「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も『ホサナ』と叫んだ」とあります。「ホサナ」とは「救い給え」という意味です。ここに記されている「自分の服を道に敷く」とは、王国時代以来の支配者に対する服従のしるしです。また、「葉の付いた枝で歓迎する」とありますが、ヨハネ福音書12章13節ではこの枝がなつめやしの枝であったと記しています。この聖書箇所を旧約聖書に見ると、かつて、シリアとの戦いに勝利し、マカベア王朝の基礎を築いたシモン・マカベウスがエルサレム入城の際、民衆が同じなつめやしの枝をかざして迎えた故事が想い起させられます。そこで、ヨハネ福音書12章15節の指摘に従って先程司会者に読んで頂いたゼカリヤ書9章9節をもう一度見てみましょう。

娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。    ゼカリヤ書 9章9節

本日のマルコ福音書11章3節で主イエスは御自身を初めて「主」と呼ばれました。主イエスは、ろばの子に乗ることによって、「神によって遣わされた平和の主である」ことを、宣言されたのです。そしてそれは、すべての人々が、真実の救いを見ることが出来るようになることを意味しているのです。

今や、「時」は、父なる神の御計画の頂点である十字架に近づいているのです。神の長い忍耐の後、人間を苦しめるサタンを完全に滅ぼす「時」が近づいたのです。主イエスが大勢の巡礼者に混じって目立たず静かにエルサレムに入られなかったのは、「時の到来」を、ここに決定的に示されるためだったのです。

エルサレム入城をゼカリヤの預言と結びつけて、新しい時代の到来として明らかにしたのです。今、イエス御自身によって成し遂げられることのすべてを、人々に分かるように、敢えてろばの子に乗ってお示しになったのです。

ろばの子に乗ったメシアは、確かに平和の主です。戦場を駆ける猛々しい戦士は強靭な馬に乗るのであり、小さなろば、ましてろばの子に乗って闘う騎士はいません。ゼカリヤ書が記しているのはこのことであり、主イエスは「この姿を見よ」と告げているのです。

神の戦いは、神の子イエス御自身のほかに何も必要としないのです。剣も槍もそして馬も必要ではありません。神の御子は、御言葉によって数々の悪霊を滅ぼされるのです。ろばの子に乗られた主の御心は、神の御業実現のために来られた「メシア・救い主である」ことの宣言と共に、この世の力の無意味さを教えておられるのです。

救われる者の見るべきものは、ただ御子キリスト・イエスのみであり、その他の全ては何の意味も持たないのです。私たちを罪の中に閉じ込め、神に背を向けさせ、偽りの生活の中に導いたサタンとの最終的対決は、このように始まり、神の勝利は、このように実現するのです。

この時の主イエスを迎えた人々の喜びの叫びが、明確な信仰的自覚に基づいたものでないことは明らかですが、少なくとも、その時の人々は、ろばの子に乗られた御姿を見て、ゼカリヤの預言を思い出し「ナザレのイエスがメシアである」ことを教えられ、それを喜ぶことが出来たのです。

それ故に、私たちもまた、歓声を上げている人々の姿こそ、主イエス・キリストが望んでおられる人間の姿であることに気付かなければなりません。そして、この喜びの叫びが消えてなくならないように、常に主を慕い求め、祈り求めなければならないのです。

「あの時のエルサレムの群衆は間違っていた」と言って、ただ批判しているだけの人は、結局、「ろばの子に乗った救い主」を迎えることさえ出来ず、群衆以下と言えましょう。

信仰とは、評論家になることではなく、幼な子になって信じることです。素朴かつ単純に、「ホサナ、今、救いたまえ」と叫ぶことです。何よりも先ず、キリスト・イエスの前に敷く上着を脱ぐべきです。そして、歓声を上げる群衆を遠くから眺めるのではなく、その中に入り、彼らと共に、今、世に来られた神の御子を迎えるべきです。

主イエスは、それを喜んで下さり、御国への招きの御手を差し伸べて下さるのです。

お祈りを致します。

道端の人

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌196番
讃美歌420番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 42章18-19節 (旧約聖書1,129ページ)

42:18 耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。
42:19 わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。

新約聖書:マルコによる福音書 10章46-52節 (新約聖書83ページ)

10:46 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
10:47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
10:48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
10:49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
10:50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
10:51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
10:52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

《説教》『道端の人』

エリコの町の外れで、盲目の物乞いバルティマイが主イエスに出会いました。エリコはエルサレムへ向かう街道の基点であり、サマリヤを避け、ヨルダン渓谷へ迂回したガリラヤ地方の人々が通る、最後の大きな町でした。この日も、過ぎ越しの祭りのためにエルサレムへ向かう巡礼たちで混み合っていたことでしょう。盲目の物乞いバルティマイがその町外れにいたのです。

盲目のバルティマイにとって、「エリコからエルサレムへ向かう巡礼者たちの喜び」は無縁なものでした。何故なら、この時代のユダヤ人社会では、身体の障害は神の怒りを受けた罪の結果として考えられていたからです。

ユダヤ人にとって大前提である「幸福は神からの祝福の賜物」とする信仰、それは間違いではありません。しかし、その反面、不幸は神の怒り、罰と考えられてしまい、不運や重い病気、肉体の障害などは、何らかの罪により神の怒りを買った結果とされたのです。

それ故に、道端にうずくまる物乞いは、神の怒りを受けた者と見なされ、「神の御前に出ることが許されない」と諦めざるを得なかったのです。

大勢の人々が神の御前に出る喜びに満たされてエルサレムへの巡礼の道を行くとき、「神に退けられた」と自覚せざるを得なかったバルティマイは、何時も、その道端で、希望に満たされて去って行く人々の足音を羨ましく聞くだけでした。

バルティマイは、眼が見えないという障害によって、いわれなき差別を受け、「祝福の外に置かれた」と思い込んでいたのです。私たちもまた、信仰を得て救われる以前は、肉体の眼の不自由さに囚われたバルティマイ同様、思い込みの中に置かれ、見るべきものを正しく見極めることが出来なかったのではないでしょうか。

神を正しく見ることをしない人間。キリストの愛に気づかない人間は、自分の前に開かれている道が「神の国への道」であり、それが、「自分の行くべき道である」と見ることができないのです。

バルティマイは物乞いでありました。分かり易く言えば乞食です。彼は、まともな人間として生きていく希望すら失われ、働くことも出来ず、一日中、人々の憐れみを求めてうずくまる「道端の人」として過ごすだけでした。

エリコの町の外れ、路傍に座るバルティマイ。「道端の人」として過ごすものと諦めているバルティマイ。そこに、救いを願いつつ無為の時を過ごす人間の悲しさを見ることができます。

バルティマイの耳には、大勢の人々が喜びつつ神の都へ向かう巡礼の足音に混じって、その先頭に立つのがナザレのイエスであることを聞いたのです。その瞬間、彼は主イエスを「ダビデの子」と大声で呼び、憐れみを求めて叫びを上げました。

「ダビデの子」とは、伝統的に「救い主」という意味です。しかし、このマルコ福音書においては、主イエスに従う者の誰もが口にしなかった思い切った呼び名でした。弟子たちの誰もがこれまで口にしなかった「ダビデの子・救い主」という言葉を、この時、バルティマイは叫んだのです。

勿論、彼は深い意味で「救い主」と告白したわけではありません。罪とか贖いなどという信仰の深みを理解していたとは到底思えません。「救い」という言葉も、その場の苦しみからの脱出という程度だったと言えましょう。

それは、彼が自分の姿をよく知っていたからです。自分を物乞いであると自覚していたからです。物乞いをし、憐れみを求めて生きる惨めさを身にしみて感じていたからでしょう。逆に、自分の惨めさ、恥ずかしさに気付かない人は、決してこのように主イエスを求めることはない、とも言えるかもしれません。現在の生活に何とか満足している人は、必死に主イエスを求めることはありません。

バルティマイが主イエスを呼び求めて叫んだとき周囲の人々は、彼を叱って黙らせようとしました。それは彼らにとって、バルティマイのような者は仲間に数えられるべき者ではなく、相手にすべきではないと思っていたからにほかなりません。彼は、当時の人々からは、まともな人間扱いされない者でした。ですから、ナザレの主イエスから声をかけて貰うことなど、有り得ないと思われていた筈です。

誰も自分の声を聞いてくれない。誰も自分を慰めてはくれない。誰もこの惨めな状態から救い出してくれない。「ナザレのイエス以外に望みを託す方はいない」と考えたのでしょう。それがこのときのバルティマイの叫びでした。

 

主イエス・キリストを求める者には、「この切実さがなければならない」と言うべきでしょう。主イエス・キリストこそが望みを託せる唯一の方であり、「この方を見過ごしてしまっては取り返しのつかないことになる」というバルティマイの追い詰められた必死の思いでした。

また、この「ダビデの子」という称号は、「ユダヤ人の王としてのメシア」を表す言葉でもあり、この時代のローマ帝国の支配下にあっては、ユダヤ民族主義を表す危険な表現でもありました。後に、ゴルゴタの丘で十字架に架けられた主イエスの罪状に「ユダヤ人の王」と書かれたことは良く知られています。その危険な言葉を大声で叫ぶバルティマイを人々は慌てて黙らせようとした、と見ることも出来るでしょう。

主イエス・キリストは、彼の必死に叫び求める声に足を止められたのです。その叫びは、御自身がローマ帝国への叛旗と思われ立場を悪くするようなものであったにも拘らず、彼の「告白」を「よし」とされました。52節で「あなたの信仰があなたを救った」と言われているのは、この意味が含まれていると考えるべきでしょう。

49節で主イエスは、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。これを「キリストからの呼び出し」と言います。「救い」とは、この「呼び出し」の御言葉から始まるのです。そして、人々はバルティマイを呼んで、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と、ありますが、ここは直訳すれば「喜べ、立て、彼が、お前を呼んでいる」という言葉です。

人々は、バルティマイに、先ず、「喜べ」と告げました。「キリストの呼び出し」は「喜びの時」なのです。そしてその喜びは、「立ち上がる時の告知」なのです。

何時までも自分の場所に固執して、これまでの生き方を頑固に守り続けて行こうとするのではなく、新しい生き方を始める時なのです。神の国へ向かう人々をただ見送るだけのバルティマイの人生が、自分もその道を行く仲間に加わった時に変わったのです。50節に彼は「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」とあります。

これこそが救われる人間の姿ではないでしょうか。「上着を捨てた」とは何を表しているでしようか。

バルティマイは乞食でした。路傍で憐れみを求める乞食にとって、「上着」とは全財産のことです。家も持たない乞食は、常にありったけのものを身に着けています。特に長い上着は、寒さを防ぐための必需品であり、寝るときには貴重な布団でもあります。どんなに汚れようとも、決して捨てることのないものです。

それをバルティマイは「捨てた」というのです。最も大事なものを「捨てた」のです。これは彼にとって決定的な変化であり、大きな決断でした。主イエスに呼び出された時、「主に呼び出された」というそのことだけで、バルティマイは「生きる不安を捨てた」とも言えるでしょう。これこそがまさに、過去の生き方の全てと訣別し、「道端の人」から「共に道を行く人」への転換を鮮烈に現しているのです。

51節で主イエスは、彼に「何をしてほしいのか」と言われました。彼は、「目が見えるようになりたいのです」と言いました。バルティマイの求めを知りながら、主イエスは尋ねたのです。必死に呼びかけ求める者の苦しみを御存知ない筈はありません。知っていながら、あえて尋ねているのです。呼び出された者は、御前で告白することが必要なのです。

パウロはローマの信徒への手紙10章10節で、「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と記しています。救いを求める願いは、常に繰り返し、主の御前に差し出されなければなりません。バルティマイは正直に、自分の最も切実な問題、直面している苦しみを差し出し訴えました。

バルティマイの願いは、ただ一つ盲目からの解放でした。それ以上のことを考えてはいなかったでしょう。しかし、盲目のバルティマイを見詰められた主イエスの眼差しは、それ以上のものを見ていたのです。

52節で主イエスは、彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。何が彼の「信仰」であったのでしようか。

ここで言われた「信仰」とは、キリストの御前で相応しい姿を示すことと言えましょう。更に「なお道を進まれるイエスに従った」と記されていますが、これは「直ちにイエスに従った」と読めます。主イエス・キリストの御言葉によって、真実に価値あるものに眼が開かれた人間は、まさに、その時から、共にその道を行くのです。

これは、バルティマイが肉体的に視力を回復したに留まらず、魂の救済に至ったことを現わしています。この変化は、「主イエスの呼び出し」から始まっているのです。大切にしていた上着を脱ぎ捨て、主イエス・キリストに従ったバルティマイ、これこそが、私たちの目指す救われた者の姿です。私たちは、望みを失った「道端の人」ではないのです。

御子イエス・キリストは、共に歩むようにと、私たちを呼び出されたのです。真実の喜びが待つ永遠の世界、天のエルサレム、神の国への道は、「呼びかけられ、呼び出された私たち」のために用意されているのです。

愛するご家族共々、この豊かな「救い」の中を歩んで参りましょう。

お祈りを致します。

主に導かれて

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌2番
讃美歌243番
讃美歌520番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 51章22節 (旧約聖書1,148ページ)

51:22 あなたの主なる神/御自分の民の訴えを取り上げられる主は/こう言われる。見よ、よろめかす杯をあなたの手から取り去ろう。わたしの憤りの大杯を/あなたは再び飲むことはない。

新約聖書:マルコによる福音書 10章35-45節 (新約聖書82ページ)

◆ヤコブとヨハネの願い

10:35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
10:36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
10:37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
10:38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
10:39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
10:40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
10:41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

《説教》『主に導かれて』

今日の聖書箇所も主イエスが弟子たちの先頭に決然と立って、エルサレムへの旅、十字架の待つ旅の途上での出来事です。場所は明らかではありませんが、次回お話する46節ではエリコに着いていますので、ヨルダン渓谷の東側、ペレアの地方を南へ下っている頃と思われます。その道すがら、弟子たちの中心をなしているゼベダイの子ヤコブとヨハネが、主イエスに自分たちの心の中にあることを伝えたのです。

人が「共に生きる」とは、相手のことを考え、相手の心を想うということが大切です。自分と共に生きる人が、何を目指しているのか、また自分が何を求められているのか、それを考え、相手に対する配慮をもって接するのが「共に生きる」ということです。自分の要求のみ、自分の期待のみを優先させ、相手が自分に合わせてくれることだけを要求するならば、それはもはや、「共に生きる姿」ではありません。

キリスト者の人生は「キリストと共に生きる」ことです。共に歩むキリストが「何を見詰めておられるのか」を考えず、自分の一方的な思い込み、勝手な期待だけを押し付けて行くならば、人生の大切な時に、主と訣別しなければならないということも起こるのです。かつては主と共に生きる道を選びながら、何時の間にか主から離れ一人で生きるようになってしまった多くの人々を思い起こすとき、「主と共に歩む」ことの難しさを知らされます。

私たちが常に志すべきことは、「キリストと共に生きる」ということです。神の国を目指して世の旅路を歩むとき、それは、私たちが一人の人間として、自分の責任で「自分の人生を引き受ける」ということではなく、「共に歩まれるキリスト」にすべてをお委ねし、キリスト・イエスの御心に適う「生き方」をしなければなりません。

自分の人生を、「キリストと共に生きる」という絶対条件で考える時、人生の目的はもとより、私たちのあらゆる判断・努力も、また、決して自分ひとりの心から出るものではないことを、自覚するということです。

ヤコブとヨハネが主イエスに願ったのは「神の国における栄光」でした。この願いを持ったのは、この二人だけではなく、他の弟子たちも同じでした。他の十人の弟子たちは、41節にあるように自分たちが出し抜かれたと思って怒ったのでしょう。

この旅の目的について、45節で主イエスは「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と言っておられます。

主イエスは、「私の命を献げるためだ」と言われ、「そのためにこの旅を行くのだ」とはっきりと言明されました。主なる神に対する反逆の罪を、身代わりとなって負うことを決心されてのことでした。罪の代償としての刑罰、十字架に架けられる決意を明らかにされました。この御言葉は「キリストと共に生きる者のすべてを決定している」と言わなければなりません。

キリスト者の生命は、贖われた生命です。神の御子の犠牲によって罪の下から救い出された新しい価値を持つものとして、私たちは生きています。キリストの愛は、私たちのすべての思いに先立ち、キリストの御業は、私たちのあらゆる行為に先立っているのです。

弟子たちは、主イエスがもたらすものが「栄光の国」であると信じていました。現在の苦しい旅も、やがて実現する喜びの日のためであると考えていたのです。彼らは、その日に栄光ある地位に就くことを期待していたのです。

神の国における栄光を求めるということ自体は、間違いではないどころか、求めなければならないことです。キリストに従う者は、この世における栄光ではなく、「神の国」での栄光と誉れを求める者でなければなりません。「天に宝を積む」とはこのことなのです。

弟子たちが主イエスにお願いしたこと自体が間違っていたのではありません。お願いをした彼らの心の中に、「大切な何かが欠けていた」ことが問題なのです。それは、自分自身の罪の認識の欠如であり、罪の自覚がないゆえの「恐れ」の欠如でした。

この旅の目的地エルサレムで主イエスと共に二人の犯罪者が十字架に架けられ、一人は主イエスを罵りましたが、もう一人の男は「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったとルカ福音書23章にあります。この恐れおののきつつ憐れみを求める犯罪人の姿に対して、栄光を求める弟子たちの姿には、なんと隔たりがあることでしょう。自分が罪の中にあることを自覚するならば、神の国における栄光を当然の権利として要求することは、誰にも出来ない筈です。主イエスは、その弟子たちに「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と言われたのです。

38節にある「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか。」とは、弟子たちへの問い掛けであると共に、主イエス御自身の強い決意を示すものです。

「わたしの杯」とは、父なる神より与えられた使命のことであり、「わたしのバプテスマ」とは、ここでは文字通りの洗礼という意味ではなく、ご自分の使命達成のために受けなければならない「苦難」のことです。主イエスは、「わたしはその使命を受けた」と言われ、「わたしはその苦しみを受ける」と言われているのです。

そしてそのみ言葉に続いて、「あなたがたもそれを受けることが出来るか」と、責任ある人間としての生き方を、ここに改めて問われているのです。私たちの生涯の道も、今、主イエスのこの問い掛けに「如何に応えるか」ということにかかっていると言うべきでしょう。

弟子たちは「できます」と明確に答えました。この言葉は、本質を悟らぬ軽はずみなものであったと言うことも出来るでしょう。深く考えず、勢いで答えてしまったと思われます。

しかしそれでもなお、主イエスはその無知な答えを受け入れて下さっており、彼らを退けることなく、「あなたがたはわたしの道を辿るであろう」とおっしゃって下さったのです。

主イエスの十字架の後、ゼベダイの子ヤコブは、使徒の中の最初の殉教者としてヘロデ・アグリッパに剣で殺され、ペトロはローマで逆さ十字架に付けられました。アンデレはギリシアでX字型の十字架で処刑され、マタイは火刑にされ、フィリポは逆さ吊りで殺されたと伝えられています。

弟子たちの運命は、確かに、主イエスが言われた通りでした。しかしそれは、彼らが「出来ます」と答えた結果ではなく、彼らの無知にも拘らず、主イエスが彼らをその道へ導いて下さったからなのです。

主イエスが、39節で「あなたがたは飲み、受けることになる」と言われたのは、単なる将来の漠然とした可能性を意味するものではなく、「必ずそうなる」という主イエス御自身の強い意志をそこに見るべきです。それは、「お前たちを苦難へ導く」という破滅への預言ではなく、神の国への道を「決して踏み外させない」という深い顧みによる「保護と導き」と言うべきものです。

私たちは、自分の意志で歩むとき、行くべき道を誤りますが、キリストの意志が私たちを正しい道に導き、私たちの願いを永遠の御計画の中で実現して下さることを、弟子たちのこの後の生涯から学ぶことが出来るでしょう。

41節からヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた他の十人の弟子たちに、主イエスは「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」と言われました。恐らく、弟子たちは、口々に自分たちの決心を明らかにしたのだと思われます。その言葉を聞いた主イエスが、「偉くなりたい」「一番上に立ちたい」という弟子たちの願いそのものを「決して否定してはおられない」ということは、まさに注目すべき点でしょう。

「キリストの右に座りたい」という願いは、決して間違いではないのです。文語訳聖書では、「いちばん上」というところを、「かしら」と訳しています。ですから、むしろ私たちは、この主の御言葉を、「偉くなれ、かしらとなれ」という「勧め」として聞くべきです。キリストに従う者は、一生懸命に無我夢中で働くのです。休むことなく、倦むことなく、神の喜ばれることを目指し走り続けるのです。その結果は、神の国で用意されているまったく新しい永遠に価値ある冠を手にすることになるでしょう。

確かに主イエスは「仕える者になれ」と言われ、「僕(しもべ)になれ」と言われました。この「僕」(ドゥーロス)とは「奴隷」という意味です。奴隷は主人の心のままに生きるのであり、主人の言葉が、その人の生涯を形作ります。

神に仕え、キリスト・イエスの僕となることこそ、偉くなり、かしらとなる道なのです。

キリスト・イエスは、私たちを神の国の末席に繋ぎ止めるために十字架に架けられたのではなく、御自身と共に、栄光を受けさせるために、私たちの罪の身代わりになられたのです。

この主の御心を想い、人生の旅路を共に歩んで下さるキリスト・イエスに感謝しつつ、信仰者としての生涯を共々に全うしようではありませんか。お祈りを致します。

信仰の勇者

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌124番
讃美歌352番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 50章6節 (旧約聖書1,145ページ)

50:6 打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。

新約聖書:マルコによる福音書 10章32-34節 (新約聖書82ページ)

10:32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
10:33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
10:34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

《説教》『信仰の勇者』

2022年、明けましておめでとうございます。新型コロナ感染症の世界的流行の煽りで主日礼拝を自粛し、共に集まることが出来なくなり、Youtubeライブ配信など普段とは違った形で礼拝に参加して頂くことの多かった2020年と2021年でしたが、新型コロナ感染症も新しくオミクロン株の世界的再流行が懸念されているも、日本では現在感染流行は下火となって、皆様と共にやっと迎えることが出来た初めてのお正月となりました。

2020年10月第1週から、連続してご一緒に読んできたマルコによる福音書連続講解も本日で49回目で、余すところ30回ほどで、いよいよ主イエスの十字架への道を迎え、終盤の核心部へ入って来ました。

主イエスと弟子たちは十字架の待つエルサレムへの途上にありました。ユダヤ人にとって最も重要な過ぎ越しの祭が間近に迫っており、国中の人々だけではなく、世界中に散らばっていたユダヤの人々も、「自分がイスラエルの一員である」という自覚を新たにするために、続々とエルサレムへ向かっている時でした。

主イエスの弟子たちのなかにも、「過ぎ越しの祭のための巡礼」と思っていた者がいたことでしょう。その一行の先頭に主イエスが立っておられました。しかし、聖書は、弟子たちがこの時「驚き、恐れた」と記しています。何が「驚くべきこと」であり、何を「恐れた」のでしょうか。今歩んでいるこの旅が、普通の巡礼と違っていることを、彼らは何故、感じたのでしょうか。今朝、先ず私たちが注目しなければならないのはこのことです。

エルサレムへの道を辿るイエスの御姿を仰ぐ時、その旅を共にし、同じ道を行く人々の中に自分を置いて、そこで何が起こるのかをしっかりと見極めなければなりません。聖書は「イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」(32節)と記しているからです。

私たちもまた、主イエスに従ってこの世の旅路を歩いている者であり、先立たれる主イエスに、何処までも付き従うことを告白している者です。地上のエルサレムへ向かった弟子たちのように、今、私たちは天のエルサレムへの旅を、主と共に歩んでいます。その旅の途上で、私たちは、どのように主イエスを見つめているのでしょうか。あの時、弟子たちが感じた「驚きと恐れ」、それが、今、私たちの心にあるでしょうか。

私たちは聖書を読み続けていると、何時の間にか、主イエスの御姿が頭の中にイメージされます。キリスト者は誰でも、「私のイエス像」と呼ぶべきものを自分の心の中に持っている者なのです。

その「私のイエス像」に、ひとつの修正を加える必要があることを、今日、教えられるのです。

聖書時代の人々のエルサレム巡礼は、楽しい旅であったようです。家族全員の旅であり、親しい家族とグループを作り、先頭に立つ者が詩編の一節を唱えると、後に続く者がその詩を続けて唱えて行きます。人々は詩編を歌い、神の祝福を全身に受け止めながら、旅を続けて行きました。

そのような巡礼者の群れの中で、主イエスに従う者だけが、このとき「恐れ」を感じていたということは、主イエスと共に行く旅が他の人々と違って、決して楽しいとは言い難い旅であったことを告げているのです。

勿論、この時の弟子たちは、まだ主イエスが目指されていることを全く理解していませんでした。しかし、弟子たちが何も分からなかったにも拘わらず、人間がいつか忘れてしまったものを、主イエスはひとりで引き受け、ひとりで担おうとされているのです。「それを見て」と聖書が記している内容は明らかではありませんが、その毅然とした決断の御姿が弟子たちを驚かせ、恐れさせたのでしょう。

私たちはこの時の弟子たちと違って、既に、知識として主イエス・キリストの十字架と復活を教えられています。十字架と復活がもたらす永遠の生命を、キリストからの賜物として約束されています。

しかし、このような福音を知らされてはいても、なお、自分の信仰の確かさを求めるためには、エルサレムへ向かう主イエスの傍らに、私たちは何時も立ち戻らなければならないのです。

御子イエスが示された恐ろしいまでの決断の強さは、それ故に、私たちを捕らえる罪の力の強さを示して余りあるものと言えます。

十字架が待っているエルサレムへ先立って進まれる主イエスの姿を、神の御子のこの世におけるすべての行動の原因に私たち自身がなっていることを、「恐れ」をもって自覚しなければならないのです。

33節で初めて主イエスご自身が「エルサレムへ行く」という言葉を語られました。具体的な地名が明確に示されました。主イエスが目指すエルサレムは、人々が巡礼に行く楽しいエルサレムではなく、十字架が待つ受難のエルサレムです。エルサレムを目指す人々と、意味も目的もまったく違うエルサレムが見えて来ました。旅の目的地、そこにおける結末、それを主イエスは明らかに告げられたのです。この時、イエスが「弟子たちを恐れさせた」のは、受難のエルサレムを見つめる決断の厳しさであったでしょう。

それ故に、この御言葉は、御自分が果たすべく定められている使命の確認であり、同時に、すべての者へ向けてのメシアとしての宣言なのでした。

今、主イエスは、驚き恐れる弟子たちに対し、御自分の受ける苦しみをはっきりと告げられました。この予告は、8章31節、9章31節に続いて三回目です。私たちは、この三回にわたって繰り返された予告を、何と聴くべきなのでしょうか。

形式的には、御自身の身にこれから起ころうとしていることであり、弟子たちがそれを悟らなかったので三度も繰り返されたと見ることは可能でしょう。物分りの悪い弟子たちへの配慮ということになるでしよう。しかし、それだけなら、私たちは既に「そのいきさつ」をよく知っています。

それでは、私たちに「驚き」は無関係なのでしょうか。三度が一度でも十分だったと言えるのでしょうか。

現在の私たちに対し、この「三度の予告」は、単なる「無知な者への告知」という以上の「何かを意味している」のではないでしょうか。

福音書には主イエスが三度繰り返す場面が何度も出てきます。ヨハネ福音書は21章15節以下に十字架に死んで復活された主イエスによる、ペトロに対する三度の問い掛けを記しています。

十字架の死と復活という想像を絶する出来事に直面して、混乱の只中にあるペトロに対し、甦りのキリストは、「三度」にわたって「わたしを愛しているか」と問い質しました。人間の愛は常にキリストの愛によって触発されるものであり、キリストへの応答であるのです。主イエスが「三度」にわたって愛の応答を求めたということは、ペトロに対する不信感の現れではなく、主イエスの方から「三度にわたって愛の宣言がなされた」のです。「三度」とは、単なる繰り返しではなく、人間の救済への御心の深さとして受け止めるべきなのです。

さらに大切なことは、エルサレムへの旅の途上で主イエスが語られたことは、「受難の予告」と言われていますが、苦しみの予告を繰り返しておらるのではなく、甦りの予告をされているのです。主イエスは十字架の苦しみで終わらず、甦りを明らかに語られています。主イエスが繰り返し語っていることは、復活に至る父なる神の御心でした。「受難の予告」と呼ばれていても、「苦しみの予告」というだけのことではなく、甦りによって完成される「神の愛」が示されているのです。

私たちの魂への神の配慮・愛の顧みが、十字架と復活への道を実現させたのであり、それ故に、十字架と復活の予告は、未来に起こる出来事を「あらかじめ知らせた」というものではなく、父なる神が「如何に私たちを愛されているか」ということを、繰り返し告げる愛の宣言なのです。

それ故に、本日朗読された33節以下の御言葉は、私たちの救いのために、「これほどの痛みがあってもなお厭わぬ」という神の御子の覚悟です。

主は、かくも私たちを愛されました。私たちは、神の独り子が、御自身の生命と引き換えにすべての愛を注ぎ込んで誕生させた「新しい人間」なのです。そして愛された私たちは、その愛に応えることによって、初めて一人前の人間になり得ると言えます。

主イエス・キリストは、三度にわたって「わたしはこれほどまでにあなたがたを愛しているのだ」と語られました。その徹底した愛の顧みの中に私たちは置かれているのであり、私たちを掴んで離さないキリストの愛が、永遠の御国へ導いて下さるのです。

この御心に包まれた生涯の道を、共に救われた喜びをもってご一緒に歩み続けようではありませんか!

お祈りを致します。