誰が救われるのか

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌74番
讃美歌122番
讃美歌497番

《聖書箇所》

旧約聖書:エレミア書 32章17-20節 (旧約聖書1,239ページ)

32:17 「ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたの御力の及ばない事は何一つありません。
32:18 あなたは恵みを幾千代に及ぼし、父祖の罪を子孫の身に報いられます。大いなる神、力ある神、その御名は万軍の主。
32:19 その謀は偉大であり、御業は力強い。あなたの目は人の歩みをすべて御覧になり、各人の道、行いの実りに応じて報いられます。
32:20 あなたはエジプトの国で現されたように今日に至るまで、イスラエルをはじめ全人類に対してしるしと奇跡を現し、今日のように御名があがめられるようにされました。

新約聖書:マルコによる福音書 10章23-31節 (新約聖書82ページ)

10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。
10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。
10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

《説教》『誰が救われるのか』

本日の物語に先立つ10章22節には、主イエスの御前にたくさんの財産をもった人が現れ、悲しみつつ去って行ったことが記されていました。永遠の生命を求めて御前に平伏しながら、御言葉に従うことが出来なかった人を見送りつつ、主イエスが弟子たちに語られたのが今日の聖書箇所です。この会話を通して、「神の国に入ること」即ち「救われる」ということが如何に困難なことであるか、ということを私たちは自覚しなければなりません。

「らくだが針の穴を通る」。実に極端なたとえであり、「不可能である」とさえ言われています。「救い」とは、このように本来有り得ない不思議な奇跡なのです。

神に逆らい、罪を背負い、なおそれを知らずに反逆者として滅びへの道を歩いていた私たちが、神の子とされ、永遠の生命を受けるということを、あらゆる奇跡に優る奇跡だと考えたことがあったでしょうか。絶対なる神、万物の主なる神、正義の神が救い上げるとは、「らくだが針の穴を通る」以上に不可能なことだと言われているのです。

多くの人々は、ここに語られた御言葉を、「財産のある者」「金持ち」のことであると考えますが、そうでしょうか。確かに、そう考える人は沢山います。所有物の全てを放棄し、世俗の富と無縁で生きようとした人は、古来、宗教を問わず大変多く知られています。

しかし、ここで語られる「難しさ」が「財産のある者・金持ちのことである」とするならば、それでは「貧しい者・貧乏人は神の国に入り易いのか」という反論が、成り立つでしょうが、神の国に入るのに、財産が問題になると言うのは釈然としません。

21節以下に記されていた主イエスの語られる財産問題はひとつの比喩でした。ここでも「財産のある者」「金持ち」という言葉を比喩として読まなければならないのです。マタイによる福音書 5章3節の有名な「山上の説教」で主イエスは「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と教えられました。

この「天の国」とは、今日の「神の国」のことです。そこに入る条件としての「貧しさ」とは、「心の貧しさ」のことなのです。しかも、主イエスが言われた「貧しさ」とは、「乏しさ」という程度ではなく、「物乞い」のことです。神の憐れみを「ほんのひとかけらでも頂かなければ、生きて行けない」と、必死の思いで、切実に求める人のことです。それが「心の貧しい者」のことなのです。

主イエスは、17節から22節で「ひとりの男」を例としてあげ、信仰に生きる人間の心構えをお話になったのです。それに対して28節でペトロが主イエスに直ちに反応して、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言い出しました。果たしてそうであったでしょうか。確かに、かつてペトロは魚をとる漁師で、ガリラヤ湖畔で主イエスによる大漁の奇跡に出会い、主イエスの導きに従い、「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」のでした。「舟も網も捨てた」ということは事実ですが、それは何時まで続いたのでしょうか。ヨハネによる福音書 21章2節以下に主イエスの復活の様子がかたられていますが、そこには、「その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに二人の弟子たちが一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。」とあり、弟子たちは、主イエスの十字架の後、再びガリラヤに帰り、元の漁師に戻ろうとしていたのであり、何も変わっていなかったのです。「捨てる」とは形式的なことではなく、復帰の余地のないものでなければならないのです。「具合が悪くなったら元に戻す」というのでは「捨てた」ことにはならず、それは、「一時、横に置いた」ということに過ぎません。

そこで主イエスは、29節以下で、「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の生命を受ける。」と言われました。

これは、「自分の生活を支える身近なもののすべてを捨てよ」と主は言われるのです。「身近なもののすべてを捨てる」。財産放棄か、家出か、出家か。洋の東西を問わず、このようなことをした人は数多くいます。釈迦やアッシジのフランチェスコ、また多くの隠者、修道士、聖者など、無一物となり世界を放浪した修行者たちはいくらもいます。

しかし、家族と別れること自体に何の意味があるのでしょうか。イエスは、決して「家族と別れよ」などとはおっしゃってはいません。それどころか、30節では、それらを「百倍受ける」と言われています。しかも、その百倍の恩寵は「後の世」ではなく、原文では「迫害の中で」と記されており、岩波訳では、「今この時期に、迫害の中にあっても」と『現在』を強調しています。「捨てる」とは、「手放すこと」「別れること」のみを意味するのではなく、価値の転換を意味すると考えるべきでしょう。「私の家族」という考えを捨て、「神の家族」になるのです。「私の財産」ではなく、「神の財産」となるのです。全てをキリスト中心に考える時、家族もまた信仰の同労者、神の国への旅を共にする者となり、与えられている豊かさは、その旅路を全うするための「神よりの賜物」と見ることが出来るでしょう。かくて、この世に属するものとして執着して来たすべてがその価値を失い、神の民としての生活がそこから始まるのです。

今までのお話が、主イエスが教えられた「永遠の生命に至る道」です。しかし、「問題はここからである」とも言えます。いったい誰がこのような生き方によって、永遠の生命を獲得出来るかということです。

私たちは、自分を知れば知るほど、この道が困難であり、この方法が、自分にとって「あまりにもかけ離れたもの」であると言わざるを得ないでしょう。現実に、主イエスの前から立ち去った豊かな財産を持つ男だけではなく、私たちもまた、「それでは、だれが救われるのだろうか」という26節の言葉を、弟子たちと共に呟かざるを得ません。

31節で主イエスは、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われました。地上における先と後という順序がそのまま後の世、神の国における順序となるわけではない、ということです。マタイによる福音書21章31節では「先の者」とは祭司長や民の長老たちを指し、「後の者」とは徴税人や娼婦のような罪人を示していました。ルカによる福音書13章30節では「先の人」とはユダヤ人を、「後の人」とは異邦人を示していました。それは、神の救いが人間の功績によって得られるのではなく、ただ神の恵みによってのみ与えられることが示されています。人間の功績、どれだけ立派な善い行いをしたのかと問えば、そこには先と後という順序、序列が生まれます。しかし、その順序は神の国、神による救いにおいては何の関わりもありません。むしろ神は、恵みを際立たせるためにしばしば、後のものを先に、先のものを後になさるのです。今先頭を走っている者が真っ先に救いにあずかるわけではないし、今はまだ神の恵みを拒んでいる者が、何でもおできになる神の力によって、先に救いにあずかっていくことも起るのです。私たちの救いは、私たちの努力や功績によってではなくて、ただ神の恵みによって、主イエス・キリストの十字架の死と復活において示された神の全能の力によって与えられるのです。

自分が先に救われて洗礼を受けているといった自尊心にしがみつくことをやめて、神の恵みに身を委ねていくなら、私たちはこのような後先の逆転を受け入れることができます。そこには、お互いの地上の富を比べ合い、それによって順序、序列をつけ、どちらが先か後かと競い合い、誇って人を見下したり、劣等感にさいなまれて人を妬んだりすることから解放されて、天の富、神様の恵みに依り頼み、その恵みによってお互いに与えられている賜物を喜び合い、生かし合い、お互いに仕え合っていくような、百倍千倍も豊かな人間関係が与えられていくのです。

お祈りを致しましょう。

御心の中を生きよ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌120番
讃美歌205番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 5篇12節 (旧約聖書838ページ)

5:12 あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い
とこしえに喜び歌います。
御名を愛する者はあなたに守られ
あなたによって喜び誇ります。

新約聖書:マルコによる福音書 10章13-16節 (新約聖書81ページ)

10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

《説教》『御心の中を生きよ』

今日の、マルコによる福音書が語るところは、主イエスの十字架の待つエルサレムへの旅の途上です。

ガリラヤにおける活動も終わり、神が定められた十字架の時が近づいたことを悟られた主イエスは、弟子たちを連れ、エルサレムへ向けて足を速められていました。マルコは、その旅の途中で起きたこのエピソードを語るのです。

主イエスに敵対する人々の憎しみを含んだ行動は一層強まり、十字架の苦難が必然となったこの段階で、主イエスのもとに子供を連れて来るということは、周囲の人々の眼を意識するならば、この親たちにとって大胆な行為であったと言えるでしょう。ところが、そんな思いでやって来た人々を、弟子たちは「叱った」というのです。

これは、いったい何を意味しているのでしょうか。子供を連れて来た親たちに向かって「うるさい」と言って叱りつけたのでしょうか。聖書から具体的なことはよく分かりません。

これまで、主イエスが御言葉を語るときには、大人に混じって常に子供たちも集っていたと思われます。例えば、使徒言行録9章36節以下では、主イエスは傍にいた子供を抱き上げて説教の材料にしていますし、マタイ福音書14章21節で「五つのパンの奇跡」を行った時、そこに「子供がいた」ことが記されています。そして、初代の教会では、「家族全員、即ち子供連れで礼拝に出席する」ことが原則になっていました。「子供はうるさいから」と言って排除する考え方は、初めから聖書にはありません。むしろ「子供が共に居る方が正常な姿である」と言うべきでしょう。

それでは、何故、弟子たちは人々を叱ったのでしょうか。彼らは、「主イエスのために」集まって来た人々を押し止めたとも考えられています。

ある人は、この頃の「イエスの疲れ」を指摘します。また、次から次に主イエスに「あまりにも多くのことが求められている」とも言われ、追い迫る律法学者たちの憎しみの中で「大きな緊張を余儀なくされていた」ことも示唆されています。

これまでの長い旅と、その途中で繰り返されて来た反対者たちとの論争。そして今、十字架のエルサレムへ向かう主イエスの決然とした姿勢。このような状況の中で、弟子たちが主イエスを「しばらく、そっとしておいてあげたい」と考えたとしても少しも不思議はないでしょう。お傍に仕える弟子としての責任からこのように判断したとしても、それは当然の心遣いであったと見ることも出来ます。弟子たちは、恐らく、そう考えて子供連れて来た親たちを叱ったと思われます。

しかしながら、ここで主イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」

イエスの憤りは大変珍しいことです。聖書の中で「イエスの憤り」が記されているところはほんの僅かであり、エルサレム神殿における「宮潔め」以外、直ちに思い起こすのも困難なほどです。しかも、「憤る」と訳されている言葉「avganakte,w (アガナクテオー)」が主イエスに用いられているのはここだけです。

さらにまた、弟子たちに語られた「来させなさい」「妨げてはならない」とは、いずれも、はっきりとした命令文であり、彼らのとった態度を「たしなめる」という程度のものもではなく、彼らの判断をはっきりと否定されています。子供たちを追い出そうとする弟子たちに対し、「追い出さなくても良い」とおっしゃっておられるのではなく、むしろ、追い出そうとしている弟子たちに対して、イエスは「激しく怒っておられる」のです。何故、主は、これ程までに怒られるのでしょうか。弟子たちの姿の何処に、これほどの主イエスの憤りを買うものがあったのでしょうか。

それは、「主イエスのもとに近づこうとする人を妨げた」からなのです。主の御前に出る人を妨害することは、主の最も嫌われることでした。たとえそれが、如何に主イエスのためであったとしても、なお、主の御許に近づく人々を止めてはならないのです。十字架へ向かう主イエスからすれば、神の御前に出る機会を奪うサタンの業以外の何ものでもありませんでした。主イエスの憤りの背後には、弟子たちに追い出された人々への強い愛があることを見なければなりません。

さらに、ここに連れて来られた子供と親の姿の中に、「人間本来のあるべき姿」も見なければなりません。家庭は、主の御心を表すべく造られて行くのです。

家庭が御心によるものであるならば、その家庭に生み出されてきたものは、「全て神の意志の下にある」と考えるのが当然です。よく、子供は夫婦の愛の結晶であると言われますが、それに間違いはありません。しかし、結婚に対する神の導きを信じる者は、その結婚の実りのひとつである子供の誕生も、当然、神よりの賜物と受けとめるべきなのです。

子供についての親のエゴイズムは、常にこの信仰から離れた所から生じるのです。旧約以来、結婚への招きは「子供を与える」という約束と結び付けられており、信仰者の家庭に産まれた子供たちは、産まれた瞬間から「神の国に所属している」と考えるべきです。それ故に、子供を主の御前に連れて行くことは親の義務であり、責任であると言えるでしょう。御心に応える正しい家庭生活はそこから始まります。神の国とは、このような生活を送る者の国であり、主イエスの祝福を受けなくては「家庭の祝福はありえない」ということこそ、信仰に生きる者の家庭なのです。

主イエスは、私たち小さな者の幸福のために、何時・如何なる時も御心を傾けて下さり、妨げる者を叱りつけてまで顧みて下さるのです。

主イエスは15節で、「子供のように神の国を受け入れる人」と言われました。「子供のように」とはどういうことでしょうか。子供のように純真な、汚れを知らない、ということでしょうか。そうではありません。子供は純真であり、汚れを知らないという考え方は聖書にはありません。今日、子供たちの間で起っている陰湿ないじめの問題一つを取っても、子供には罪や汚れがないというのは大人の勝手な願望に過ぎないことが分かります。子供は子供なりに罪を持っているのです。

主イエスが「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃったのも、決して子供を理想化して言っておられるのではありません。ここには「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とあります。「子供のように神の国を受け入れる」というのは、積極的な行為として語られているのではなくて、与えられたものをただ受ける、という受動的なことなのです。ここに出て来る子供たちは、親たちに連れて来られた者です。子供たちは、自分の意志で主イエスのもとに来たのではありません。子供たち自身が自分で主イエスの祝福を求めているのではないし、主イエスが宣べ伝えておられる神の国を自ら受け入れ、それを信じて来ているのではないのです。子供たちは、親に連れて来られるままに主イエスのもとに来たのです。そして主イエスが受け入れ、祝福して下さるなら彼らは祝福を受けるし、そうでないなら祝福を受けずに帰ることになるのです。子供たちは主イエスの祝福を全く受動的に、ただ受けるのみです。自分は良い行いをしています、これだけの正しさ、立派さを持っています、これだけのものを神様にお捧げし、奉仕しています、だから祝福して下さいなどと要求してもいません。主イエスはそのような子供たちを喜んで迎え入れて下さり、彼らを抱き上げ、手を置いて祝福して下さるのです。親たちは、主イエスに触れてもらって祝福をいただこうとして子供たちを連れて来たのです。それは神社で七五三のお祝いをするのと変わらない思いだったでしょう。主イエスは、子供たち一人一人をご自分の腕に抱き上げて下さった、それぞれの全身を、それぞれの人生の全体を、み手の内に置いて、祝福して下さったのです。

ここで子供とは、与えられたものを素直に受け入れる見本とも言える存在なのです。主イエスは、子供が親にすがりつくように、人は神に「すがりついて」生きるべきだとおっしゃっているのです。一切の自己主張、自己満足を排し、ただ神の庇護の下に生きる道を求める者、それこそが神の国に生きる人間の姿なのです。そして、そのような生き方を実現したのが御子イエスの生涯でした。

家族そろって主イエスの祝福を求めて来た人々を、何故、叱り退けるのか。神の喜びは何処にあると考えているのか。全ての人々を招く御心を妨げることが、いったい誰に許されるのか。誰に出来るのか。主イエスの憤りは、ここにあったのです。それは、御前に出る私たちを、他の何者にも代えがたく思って下さるキリストの愛そのものでした。その愛が、今も私たちに注がれているのです。私たちも、ただひたすらに主の御心の中を生きて行きましょう。

主イエス・キリストの眼差しが、私たちを神の国の民とされようと今も見詰め続けて下さっていることを感謝すべきでしょう。ここにこそ、神の子としての平安があるのです。

お祈りを致します。

祝福の下に

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌115番
讃美歌280番
讃美歌444番

《聖書箇所》

旧約聖書:箴言 30章18-19節 (旧約聖書1,031ページ)

30:18 わたしにとって、驚くべきことが三つ/知りえぬことが四つ。
30:19 天にある鷲の道/岩の上の蛇の道/大海の中の船の道/男がおとめに向かう道。

新約聖書:マルコによる福音書 10章1-12節 (新約聖書80ページ)

10:1 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。
10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
10:10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。
10:11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。
10:12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

《説教》『祝福の下に』

主イエスは、「ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた」とあります。「ユダヤ地方」とは、エルサレムを中心とする地域です。また「ヨルダン川の向こう側」というのはペレアと呼ばれている地域のことです。

ペレアのことが、ここに出てくるのは何故でしょうか。当時ペレアは、ガリラヤ地方と同じく、ヘロデ・アンティパスが支配していました。エルサレムを中心とするユダヤは、ローマ帝国が直接治めており、その総督がポンティオ・ピラトだったわけですが、ガリラヤとペレアは、ローマの監督の下で、ヘロデが治めていたのです。このペレアで、ヘロデの支配下で、この問答が行われたことに大きな意味があるのです。というのは、本日の主題は、2節に「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか」という問いが記されているように、離婚、離縁のことなのですが、この問題は、ヘロデの支配の下では触れてはならないタブーとされていたからです。その事情はこのマルコ福音書第6章14節以下に語られていました。ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻であったヘロディアを、フィリポと別れさせて結婚したのです。そのことを厳しく批判したのが、洗礼者ヨハネでした。彼は「兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と言ったのです。そのために彼はヘロデに捕えられ、ついには首を切られてしまいました。ヘロデの支配下で公にこの問題に触れることは、このように死を招きかねないことだったのです。そのペレアで、ファリサイ派の人々が主イエスのもとに来て、「イエスを試そうとして」、この質問をしました。それは、単に主イエスの律法についての知識を試そうとしたということではなくて、ヘロデの支配下で敢えてこのことを問うことによって、主イエスを危機に陥れようとしているのです。主イエスがもしも、妻を離縁することはいけない、と答えるなら、洗礼者ヨハネと同じ運命をたどることになります。逆に、場合によっては離縁してもよいのだ、と答えるなら、主イエスは洗礼者ヨハネとは違って身を守るために律法を守らず、ヘロデを批判することを避けた、ということになります。主イエスを陥れ、返答次第では殺してしまうことができると思ったのです。

主イエスは5節で、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と言っておられます。旧約聖書には確かに離縁についての教えがあります。申命記24章1節には、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」とあります。これがファリサイ派の人々が考えていた答えでした。確かに、ここには離婚の許可が記されています。そして、これを根拠にして、ユダヤ人社会では離婚が認められていました。

離婚が絶対的に禁じられているのではありませんでしたが、それは、人間の心が頑固だから、神様に背き逆らう罪に捕えられているからだと言われているのです。向かい合って共に生きていく努力を誠実にしていっても、それぞれが持っている頑固さ、罪や弱さのゆえに、どうしても共に生きることができなくなることもあります。互いに反目し合いながら形だけ夫婦であるという状態によって、お互いの罪がますます大きくなり、傷つけ合うことがエスカレートしてしまうということも起るでしょう。そのような場合に、より大きな罪や不幸を避けるために、離婚という選択肢もある、離婚した方がよいという場合もある、それが私たちプロテスタント教会の聖書の読み方です。ですからそれは、離婚が許されているか否かというような単純な、表面的な問題ではないのです。

ここで、ファリサイ派の人々が敢えてこの問題を主イエスへの「試み」として用いたという背景には、当時、この御言葉の解釈を巡って二つの立場があったからです。申命記の離婚理由には「恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったとき」と記されています。そこで、「恥ずべきこととは何か」ということを明らかにする必要が生じました。

当時のユダヤ教の律法学者には二つの学派がありました。シャンマイ派とヒルレル派です。「恥ずべきこと」の定義に関し、シャンマイ派は、「夫婦間の恥ずべきこととは姦淫の問題である」として、「恥ずべきこと」を「不品行」に限定しました。「性的関係の乱れが生じた場合、離婚は許される」としたのです。ただし、「恥ずべきこと」が、申命記では「妻に」と限定されているため、離婚の条件である「不品行」も「妻にのみ適用される」という不公平がありました。

一方、ヒルレル派は、「恥ずべきこと」の内容を、「妻として恥ずべきことの全て」と極めて広範に考えました。その結果、料理、容貌、態度などの全てが、「恥ずべきこと」として定義されたのです。やがて、「恥ずべきこと」よりも、それに続く「気に入らなくなったとき」という言葉のほうに重点が移り、有名なラビ・アキバという学者は「自分の妻よりも美しい女がいた場合にも適用される」とまで言ったと伝えられています。実に勝手なことだと笑われるかもしれませんが、人間とは、本来、勝手な者なのです。男と女は対等ではないと人格的に差別されていた社会で、この二つの立場のうち、どちらの解釈を人々が喜んだかは言うまでもないでしょう。そして人々は、自分たちに都合のよい解釈をしてくれるものに従いました。

今、主イエスに質問をしたファリサイ派の人々は、拡大的解釈を採ったヒルレル派であると思われます。大衆の人気を背景にして主イエスに挑戦して来たのです。しかしながら、このような大衆の人気、支持を得たという背後に、大きな危機があることに気づかないのが、何時の時代にもいる社会に迎合する(ポピュリズム)世俗的宗教者の惨めさです。そこでは、律法を神の御言葉として成り立たせている信仰の本質が見失われているのです。信仰とは神への服従です。御言葉への忠誠です。御言葉への服従と忠誠とは、御言葉が表す御心への臣従に他なりません。

律法を、神の御心の本質から、人間の都合に合わせて解釈し利用する人間の醜さがここにあります。その姿は、かつてのユダヤ人だけではないところに、この問題の根深さがあります。人間の要求、社会の要望に対し、「開かれた教会」などという美名を用いて、聖書の御言葉を自分たちの利益のために利用しようとする思惑は、どの時代にも決してなくならないのです。何よりも心すべきことは、御言葉に接する時、常に「神の御前に立つ畏れを持ち、御心を窺わなければならない」ということです。

5節で主イエスは、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」と言われました。ファリサイ派の人々は、主イエスが律法を否定することを期待していたのですが、主イエスは、御自身こそ律法の真の意味を明らかにする者であることを、ここに示されたのです。律法とは、罪の下にある人間の生き方を導くものであり、律法は、決して永遠・絶対的なものではなく、使徒パウロの表現によれば律法は、「人を福音に導く養育係」に過ぎません。

律法は、主イエス・キリストによって救いの御業が完成される時まで、罪の中にある人間を守り導くものです。言わば、不完全な人間に「それ以上の過ちを犯させないための保護措置」と言えるでしょう。それ故に、主イエスは、申命記の離婚規定について、「あなたたちの心が頑固なので、モーセはこのような掟を書いたのだ」と言われたのです。ここで「頑固」と訳されているギリシャ語の「sklhrokardi,an:スケーロカルディアン」とは、決して「頑固」という人間の性格を表す言葉ではありません。これは「干からびた心」という意味であり、「愛が消えうせて、干からびてしまった状態の心」のことです。文語訳は「汝らの心、無情により」と訳しています。名訳です。

愛が消え失せて干からびてしまった心。それは、もはや神が喜ばれる心でないのは当然でしょう。それ故に、モーセの規定は、むしろ、瑞々しい愛を失った人間に対する「告発と裁き」であったと考えるべきでしょう。いたわりを忘れ、互いに傷つけ合う「あなたがたの心の何処に愛があるのか」ということです。

ですから、申命記24章の規定は、「離縁状があれば離婚してもよい」ということに目的があったのではなく、当時の社会においてモーセの本心は「勝手に離婚することは許されない」と、女性を守ることに目的があったことも明らかです。

聖書が教える創造の信仰によれば、結婚とは、神によって造られ、選び出された「差し向かいとなる人」との巡り合いであり、差し向かいになり、互いに心と心とが響きあう相手との結合なのです。

私たちは、今日のファリサイ派の人々やその時代の人々のように、離婚を自分勝手なものと考えていないとしても、現在の自分の結婚生活が、この「神の摂理」に基づいているか否かを問われているのです。それ故に、本日の問題は、「離婚、是か非か」ということではなく、「あなたは今の生活は神の御心に適うものか」という、主イエスからの問いとして受け止めなければなりません。

「死後もなお夫婦であり続けるか否か」といった神学問題は別にしても、死を越え、死の先でも「夫婦一体でありたい」と願う時、単なる人間的感情を越えた「キリスト者としての家庭」こそが信仰の原点であることを忘れてはなりません。

この離婚についての主イエスの教え、いやむしろ結婚、夫婦とは何かという教えが、主イエスのエルサレムへの歩み、十字架の苦しみと死とに向けての歩みが始められる場面にあることに注意しなければなりません。

夫婦が互いに向かい合い、共に生きていく間には、人間の頑固さ、罪や弱さのゆえに様々な問題が生じ、傷つけ合うことが起きます。夫婦が共に生きることも、主イエスの十字架の死による罪の赦しの恵みによって支えられているのです。主イエスによる罪の赦しがなければ、夫婦の関係も、助け合うよりもむしろ傷つけ合うことが多いものとなってしまうでしょう。

主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みの中でこそ私たちは、お互いに向かい合い、赦し合いながら共に生きていくための努力をしていくことができるのです。そしてそれは夫婦の関係においてのみでなく、私たちの人間関係の全てに通じることです。頑固さに捕えられており、罪と弱さを負って生きている私たちは、主イエス・キリストの十字架による赦しの中にあって、隣人としっかりと向かい合い、良い関係を築いていけるのです。

今から始まる新しい日々を、この信仰の自覚から始めようではありませんか。

お祈りを致しましょう。

潔められた者

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌67番
讃美歌239番
讃美歌365番

《聖書箇所》

旧約聖書:レビ記 2章13節 (旧約聖書857ページ)

  • 2:13 穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。

新約聖書:マルコによる福音書 9章38-50節 (新約聖書80ページ)

9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
9:44 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
9:46 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。
9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

《説教》『潔められた者』

本日朗読されたマルコによる福音書9章38節から50節は、主によって語られた短い御言葉を集めたものと思われます。マタイ福音書における山上の説教と同じように、マルコ福音書では代表的な箇所ですが、このような教えを読む時も、これまで述べて来た「聖書を読む基本」から外れてはなりません。「一日一言」というような処世訓や格言集などと混同してはならないということです。ここで語られていることは、「神の御業であり福音である」ということを信仰の目を通して認識しなければなりません。

今日の38節で、弟子のヨハネが主イエスに、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」と言ったとあります。

ペトロを初めとする十二人の弟子たちが主イエスと行動を共にしていましたが、主イエスがまだ生きて宣教をされていたこの時代、既に、主イエスや弟子たちと別行動を取る者も居たようです。バプテスマのヨハネの弟子たちは、ヨハネの死後、主イエスの弟子たちとは別に、独自に神の国を宣べ伝えていたということはよく知られていますし、さらにまた、数々の人々が福音に関わるような行動をしていたようです。

主イエスは、ガリラヤのいたるところで福音を伝え、神の御心を語りました。多くの人々が主イエスの後を追いかけ、何度も何度も説教を聞いたことでしょう。当然、その中には、ペトロを初めとする十二弟子以上に理解力に優れた者もいた筈です。主イエスから聞いたことを、他の人々に語った人もいたでしょう。そして、驚くべきことには、主イエスの御言葉を伝える時、主イエスと同じような「力ある業が為されることもあった」というのです。

ここで、ヨハネが指摘し、非難している者たちが、主イエスの真似をしていた偽メシアであったと考える必要はありません。後に使徒言行録に現れる魔術師シモンは、奇跡を行う力を金で買おうとして失敗しましたが(使徒言行録8章9節以下)、ここに現れた人はそのような者ではなく、もっと素直に福音を宣べ伝えていたと思われます。

ヨハネの言った「お名前を使って」とは「名前を騙る」という悪い意味で読まれるかもしれませんが、そうではありません。古代の魔術師たちは秘密の神の名を呼ぶことによって、その神の力を利用すると考えられていました。魔術師の呪文とは「秘密の神名」のことです。ですから、「名前を使った」とは「権威によって」という意味であり、現実に行われた「悪霊の追放」が、主イエスの権威を背後に持っていることを証明しているとも言えます。

このヨハネの言葉、ギリシャ語の「エン トー オノマティ ソー」を訳すと、正しくは「あなたの名によって」であり、「利用して」ではなく、「あなたの権威によって」の意味であり、「イエス・キリストへの信仰によって」と言い換えることも出来ます。「やめさせてはならない」という主イエスの容認の言葉は、この権威を意識されているとも言えましょう。

ここで私たちは、「キリストを信じる者は、語る言葉そのものが権威を持つ」ということを教えられるのです。それこそが「信仰の力」なのです。ヨハネはその信仰の奥義を理解していなかったのです。

主イエスは、その「信仰の力」を教えられているのです。むしろ、主イエスの御心は、福音が弟子たちだけのものではなく、この後、福音が世界の至るところに広がって行くことを望んでおられるのです。マタイ福音書最後の28章の大宣教命令が、このことを明白に裏付けています。

そしてさらにそれだけではなく、主イエスの「やめさせてはならない」と言われた積極的な承認の背景には、人々に対する信頼がありました。まず知らされることは、キリスト者は「主の信頼を受けて生きている」ということです。

それが39節の主イエスが言われた「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」との、ヨハネに対する言葉ではないでしょうか。

ナザレのイエスを救い主キリストと告白する者、その告白の言葉によって神の栄光を明らかに示した者は、決して裏切ることはないということを、主イエスご自身が語られているのです。何と素晴しい宣言でしょう。

多くの聖書注解者たちは、ここで「主イエスは寛容を教えられた」と言いますが、これは「寛容」などという生易しいものではありません。十字架を意識した主イエスが、御自分の死後を託す人々への信頼を語っているのです。私たちは、このキリストの信頼に包まれていることを強く意識すべきです。

続いて主イエスはヨハネに「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」と、ここで「ひとりの人」を大切にすることを教えておられます。それは、単なるヒューマニズムにとどまるものではありません。重要な言葉がここにあります。それは41節の「キリストの弟子」という言葉と42節の「わたしを信じる者」という言葉です。弟子たちに、キリスト者として行うこと、キリスト者として受けること、すべてがキリストの愛の中を生きることだと教えておられるのです。ひとりの信仰者を愛することは、主イエス・キリストを愛することです。ひとりの信仰者を傷つけることは、主イエス・キリストを傷つけることです。人類という同じ種類の生物として、人間愛、ヒューマニズムをもって受け容れることではなく、「キリストを愛すること」が行いの基本なのです。御子キリストがその人のために生命を捨てられたことを知るならば、その人の生命が、キリストにとって「かけがえのないものである」ことを知るのです。

私たちの社会でも、恩義を知る者は、受けた恩に報いるために「恩人の愚かな息子をも見捨てない」ということがあります。私たちは、私たちのために十字架につかれたキリストの愛を知らされているのです。その愛の大きさを知るが故に、キリストが愛された人々を、キリストへの信仰の表れとして愛するのです。言わば、主イエス・キリストが「全ての人々の後見人である」とも言えるでしょう。そして私たちは、このように、隣人を愛するだけではなく、この大きな愛に「自分も守られている」ということを教えられるのです。

42節以下には、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるならば、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるならば、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。」と極めて長く厳しい言葉が連ねられています。

「片手」「片足」「片目」、全ては自分の大切なものの象徴であり、捨てるに捨てられないものです。ここに記されていることは、古代オリエントで広く知られていた「目には目を歯には歯を」という『同害報復法』で知られていますが、「片手」「片足」「片目」を失うことは、大切なものを代償とするという原理であり、現代のイスラム社会でも身近なたとえです。

しかし、主イエスは、「自分にとって大切なものであっても切り捨てよ」と言われていますが、この御言葉の中心は、勿論、「切り捨てること」にあるのではなく、「生命に入れ」「神の国に入れ」と言うことです。むしろ、「失うべからざる大切なもの」という意味でとらえておくべきでしょう。私たちにとって、片手、片足、片眼を失うことには耐え難いことであり、如何に罪を犯したといっても、それを切り取ることはしません。

しかし、御子キリストは、私たちのために生命を捨てられたのです。十字架の上で殺されました。私たちの魂を救うために、「何を犠牲にしても悔いはない」というキリストの御心を、この厳しい言葉から読み取ることが出来るでしょうか。私たちは、この御心に包まれているのです。

本日の結論とも言える言葉が49節から「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」とあります。

さっと読むと、何となく良く分かったと思える言葉ですが、「火で塩味を付けられる」とは何でしょうか。

かつて、旧約の時代、神殿で献げられる生贄の動物は、塩をかけて潔めてから献げられました。それを「契約の塩」と言います。本日の旧約聖書レビ記2章13節がそれにあたります。祭壇に供えられる動物は、塩の潔めによって、「聖なるもの」として神に献げるに相応しいものになると考えられていました。塩は、「潔めの塩」の意味を持ちます。また、「火」も、穢れを消滅させる「潔めの火」として尊ばれていました。

ですから、「人は皆、火で塩味を付けられる」とは、「神の潔めを受けている」ということなのです。私たちは皆、「イエス・キリストの贖いによって潔められた者」として、自分を神の御前に差し出しているということです。

本来、私たちの誰が、自分を「神の御前に差し出すのに相応しい」と思っていたでしょう。むしろ、恥ずかしくて、アダムやエバのように、木の陰に隠れたいところです。しかし主イエスは、もはやそんな心配が不要なことを宣言しておられるのです。

何故なら、私たちは、「契約の塩、潔めの火としてのキリストの血」によって潔められたからであり、キリストの贖いの御業によって、私たちの弱さ・愚かさに拘わらず、「聖なるもの」に造り変えられたからなのです。

私たち相互の交わりにおける平安は、この神に受け容れられたことから生じます。私たちは、もはや「神の国から弾き出される」ような者ではありません。人生の一番大切なときに、「お前には用がない」と言って締め出される者でもありません。父なる神が受け容れてくださる保証を、御子キリストが与えてくださったのです。この「神の受け容れ」を主は「平和」と表現しています。聖書は、ここをヘブル語で「シャーローム」と記しています。

「シャーローム」とは、政治的概念としての「戦いのない状態・平和」ではなく、「和合」「充満」を意味し、「欠けるところのない満たされた平安」を表す言葉です。このような状態は、神によって与えられるものでしかなく、神と共に生きる世界にのみ存在するものと言えるでしょう。神によって受け容れられた姿、それを真実の平安と言うのです。

キリストを信じる小さな者をつまづかせる者になるのではなく、自分自身の内に潔めの塩をもって、自分の家族を始め、一人でも多くの方々と共にキリストの十字架に救われ、互いに平和に過ごしたいものです。

お祈りを致します。

仕えて生きる

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌20番
讃美歌194番
讃美歌453番

《聖書箇所》

旧約聖書:コヘレトの言葉 3章1-8節 (旧約聖書1,036ページ)

3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
3:2 生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
3:3 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
3:4 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
3:5 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
3:6 求める時、失う時/保つ時、放つ時
3:7 裂く時、縫う時/黙する時、語る時
3:8 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。

新約聖書:マルコによる福音書 9章33-37節 (新約聖書79ページ)

9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

《説教》『仕えて生きる』

主イエスと弟子たちはカファルナウムにやって来ました。ガリラヤ湖のほとりにあるカファルナウムは、ペトロの家がある町であり、イエスが宣教の生涯を始められた記念の場所でもあります。

しかし今、このカファルナウムは、旅の目的地ではなく、「旅の通過点」に過ぎませんでした。主イエスの眼は、しっかりとエルサレムへ向けられ、父なる神の御心に従い、全ての人間の罪の贖いを実現するため、十字架を生涯の目標として定められていたからです。

33節の「家に着いた」とは、恐らくペトロの家でしょう。彼の家は、イエスが最初の説教を行ったカファルナウムの会堂のすぐ前にあり、ペトロの義理の母の熱病を主が癒されて以来、活動の拠点として用いられていたようです。

それ故に、「その家に着いた」ということは、ペトロにとって生家であり、また、元来この町の漁師であったペトロの弟アンデレや、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ兄弟たちにとっても、懐かしい心安らぐ場所であったと言えるでしょう。

久し振りに故郷へ帰って来た思いに満たされている弟子たち。その町も棄てて行かれようとする主イエス。この意識の差が、まさに喜劇的であり、悲劇的なかたちでここに記されているのです。

「途中で何を議論していたのか」。イエスは弟子たちにこうお尋ねになりました。彼らが何を話していたのかは、すぐ次の34節で明らかにされていますが、先ず、この「途中」という言葉に注目する必要があります。

文語訳聖書では、ここを文学的に「道すがら」と訳しています。「汝ら、道すがら、何を論ぜしか」。素晴しい訳文です。主と共に歩む旅が私たちの人生であるならば、私たちもまた、この「主と共に歩む旅の道すがら、何を語るのか」を問題にすべきでしょう。ですから、「何を議論していたのか」は少々大袈裟で、「語り合い」と言うほうが適切でしょう。「主と共に歩む人生の道すがら、何を語るのか」。それが今日、改めて考えるべき問題です。

フイリポ・カイサリアからエルサレムへ、主イエスは十字架への道を歩んでおられるのです。生まれ故郷を棄て、親しい人々と会うこともせず、ただひたすらに、父なる神の救いの御計画実現のために尽くされようとしているのです。

主イエスの受難に向かわれる道すがら、共に歩む弟子たちはは何を語り、何を思うべきでましょうか。

私たちもまた、「キリストと共に生きるとき」、自分が何処へ向かって歩んでいるのか、何処へ導かれているのかを、改めて見詰めるべきです。そして、自分の歩むべき道が行き着くところを正しく見極めた時、初めて、この人生の道すがら「主の弟子として何を語るべきか」ということを知るのです。

主イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになると、弟子たちは「黙っていた。」とあります。

弟子たちは黙っていました。主イエスの問いに答えられませんでした。主イエスの問いかけに対し、沈黙する人間に、「正しい生き方をしている者は一人もいない」と言ってよいでしょう。

例えば、今年1月10日に「怒る主イエス」と題して、マルコ3章1節から御言葉を聞きました。お読みします。

3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。

3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。

3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。

3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。

キリストの問い掛けに「彼らは黙っていた。」とあります。キリストの御言葉を、正面から受け止めようとしない姿。都合の悪いことには答えない「頑なさ」。その時、その人の心の中には何があるのでしょうか。

主イエスの問いかけに沈黙する時、いや、沈黙せざるを得ない時、それは、自分の心への警戒警報であると言えます。何故、答えることが出来なかったのでしょうか。何故、沈黙してしまったのでしょうか。弟子たちは、決して口数の少ない人間ではありませんでした。あの厳粛な最後の晩餐の席上でも、いろいろなことを語り続け、主イエスにたしなめらるような人々でした。

しかしながら、それでもなお、「何を話していたのか」と尋ねられた時、「黙ってしまった」ということは、彼ら自らが問題点を暴露してしまったと言うべきではないでしょうか。

何故なら、その「おしゃべり」の内容が、主イエスには言えないようなものであったからです。主イエスと共にその道を歩きながら、「主イエスを抜きにした話に熱中していた」というのです。

私たちの日毎の歩みでも、現に慎むべきことは、主イエス・キリストを抜きにした「おしゃべり」です。「主の御前で言えないような話」はしないことです。互いの「おしゃべり」には熱心だが、キリストとの対話は拒否してしまう人間。それが弟子たちの姿であったということは、驚くべきことではありますが、信仰に生きていないときは、誰でも、そうなる恐れがあるのではないでしょうか。

さらに恐るべきことは、主イエスに分からないように話し合っていたつもりのことが、全て、実は「イエスには分かっている」ということです。それは35節からもあきらかです。「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と、あります。弟子たちが、沈黙によって心の中に覆い隠したつもりのことを、主イエスの方から話題にされました。「分からないから」尋ねたのではなく、「知っていながら」問いかけたのです。

エデンの園の物語を思い出してください。あの時、御言葉に背いたアダムとエバは、主なる神がお帰りになったことを知り、木の陰に隠れました。その時、主なる神は「あなたは何処にいるのか」と言われました。全能の神に木の陰にいるアダムが分からない筈はありません、すべてを御存知でありながら、アダムに自分の罪を告白して出て来ることを期待しておられたのです。誰が、主なる神の眼差しから自分を隠すことが出来るでしょうか。誰が、主イエス・キリストに聞かれないように内緒話をすることが出来るでしょうか。主なる神は、全てを見通しておられる方です。

語り合っていたことは、「誰がいちばん偉いか」ということでした。「いちばん偉い」とは、「おおいなる者」という意味です。「最も大切な役目を果たす者」のことです。

このこと自体、決して悪いものでないことは、主イエス御自身、「いちばん先になる方法」を教えておられることで明らかです。むしろ、よく言われる「無気力なキリスト者」になってはならないのであり、誰でも「上を望む心」「向上心」を持たなければなりません。

弟子たちは、「誰が一番偉いか」と議論していたというのですが、それは、誰が一番身分が高いかとか、誰が一番金持ちか、というような話ではありません。彼らは、誰が主イエスに一番仕えているか、弟子としての務めを最も忠実に果たしているのは誰か、ということを競い合っていた筈です。例えばペトロは、「自分こそ、一番先にイエス様に呼ばれて弟子になった者だ。自分は誰よりも長くイエス様に従い、仕えている」と主張したことでしょう。それに対して他の弟子たちも、「イエス様に従い仕える思いなら自分だって決して負けてはいない」と反論したことでしょう。そのように彼らは、主イエス・キリストに仕えることにおいて、一番素晴らしい弟子になろうとしていた筈です。それと同じことは教会においてもしばしば起ります。教会で自分の意見ばかりを主張してそれに固執し、人を自分に従わせようとするようなタイプの人はあまり好まれません。むしろ身を低くして神様と隣人とに仕えていくような人が尊敬されます。それは主イエスの教えからして当然のことですが、しかしそこにはともすれば、自分はいかに謙遜に奉仕をしているか、ということにおいて人よりも先になろうとする、という競い合いが起ります。「誰が一番偉いか」と議論していた弟子たちの思いは私たちの中にもあります。ですから弟子たちに対して語られた主イエスのみ言葉は、私たちに対するみ言葉でもあるのです。

それを、主イエスの御前では言えないのは何故でしょうか。ひとことで言ってしまえば、弟子たちの話し合いの内容が、神中心ではなく、人間中心、自己中心的であったのです。神との対話を「祈り」と言います。「祈り」から離れた姿、「祈り」を必要としない事柄、これら全ては、神なき人間の姿であり、人間主義として否定されなければならないのです。

しかも、弟子たちは、それを自覚して、恥ずかしくて言えなかったのです。既に見て来たように、御言葉に答えられない沈黙は、しばしば主の叱責を受けざるを得ません。弟子たちが競い合っていた「偉さ」とは何でしょうか。この論点をもう少し深く理解しておくことは大切です。

ここで主イエスは、あえて「いちばん先になる方法」を教えられました。「いちばん先」と訳されているギリシャ語の“プロートス”とは、文語訳聖書では「かしら」、新改訳聖書では「ひとの先に立つ」、翻訳に忠実な岩波訳聖書では「筆頭の者」と訳されている、時間的に早いという意味を含めて英語の“First”と言う言葉に当たります。

主イエスは、「いちばん先」となることを否定しているのではなく、むしろ、「それを望め」と言われています。大切なことは、「何がいちばん先なのか」ということを知ることでです。

主イエス・キリストの福音を信じる者の最大の希望は、罪赦されて「永遠の生命」を受けることであり、「神の国」に迎えられることです。

罪を自覚する意識が強ければ強いほど、神の国を求める願いは強くなります。そして罪の恐ろしさを知る者は、決して罪の世界に長く留まりたいとは思わないでしょう。

私たちもまた、神が「生きよ」と言われる限り、生き続けるのです。その歩みの全て、その努力の全ては、招かれている「神の国に於ける喜び」が目標なのです。キリスト者は、この希望を明らかにする者です。そして、その希望を持つ者は、必然的に、「いちばん先になりたい」と思い、神の国に最初に入りたいと願う筈です。

「いちばん先になりたいと思わない人」は、自分が今生きている世界の価値のなさを自覚していない人であり、キリストが招いて下さる神の国の素晴しさを、理解出来てない人と言えるでしょう。

しかし、主イエス・キリストは、その願いを強く持つ人ほど、結果として、「いちばん後になる」と言っておられます。

「いちばん後になる」とは何でしょうか。これは、決して、「最後で結構です」というような遠慮がちで謙虚なものではないのです。むしろ、願いを強く持つ人ほど、自分から「後になる」と思うでしょう。「いちばん後になる」というところに重点があるのではなく、「仕える者になる」ということが大切なのです。主に招かれた者にとって、人生の目標は明らかです。

もし、神の国に入ることが最も大切な願いとなっているならば、「自分ひとりだけ入れば良い」とは、誰も思わないでしょう。自分が愛している人々と、「なんとか一緒にそこへ行きたい」と願うのではないでしょうか。

山に登る時、自分だけ頂上を目指し、足の弱い人を置いて行く登山者がいるでしょうか。疲れた人を励まし、登頂を断念しようとしている人に、頂上の素晴しさを語って力づけるのではないでしょうか。そして、なんとか一緒に到達の喜びを味わおうと、荷物を持ち、手を引き、後ろから押し上げるのです。強い人ほど、後ろから上がることになります。

それと同じように、「共に神の国に入りたい」という熱心さが、結果として、「いちばん後ろになる」のであり、御心を受けて「人に仕える」という姿が、そこに表されるのです。

身体に障害のある人々など社会的弱者は、この社会では一人前の権利を認められているとは言えません。しかし、神の国では、そのような差別はありません。つまり、神の救いの御業の対象は、人間の差別を超えるものであり、神の愛が「全ての人間に向けられている」のです。

従って、信仰の熱心さは、「一人でも救いから漏れることは耐えられない」という気持ちとなって出てくるでしょう。もちろん、その「救い」の成果は、私たちの手によって決定するものではありません。父なる神の御心を想い、十字架への道を歩み続けた主イエス・キリストの御姿を思い返すならば、「一人でも多くの方々と共にその道を行こう」と思うのではないでしょうか。共に生きる人を思わず、自分だけの誇りを求めることは有り得ません。

弟子たちが議論していた「誰が一番偉いか」とは、「すべての人を救いたい」とのキリストの御心忘れていることであり、主イエスは、信仰の本来の姿を弟子たち、私たちに教えたかったのです。

主イエスの愛に包まれた人生の喜びを覚える時、神の国に向かって生きる人生の意味を知る時、その時こそ、御子キリストを遣わされた神の喜びに仕えて行く人生を確認することが出来るのです。

私たちキリスト者は、人生の旅路が決して孤独ではないことを知っています。そして、人生が、「孤独の旅ではない」ことを知り、一人でも多くの「共に信仰の旅路を歩む人」を望むのです。

その希望に満たされて歩むこと、それが、イエス・キリストの問いかけに、正しく答える人間の生き方です。

お祈りを致します。