主が教えて下さったとおり

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌301番
讃美歌502番

《聖書箇所》

旧約聖書:ダニエル書 7章13-14節 (旧約聖書1,393ページ)

7:13 夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
7:14 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。

新約聖書:マルコによる福音書 8章31-33節 (新約聖書77ページ)

8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

《説教》『主が教えて下さったとおり』

私たちキリスト者の信仰の中心は、「主イエス・キリストの十字架による贖いと復活」を信じることです。

本日の聖書箇所は、「受難の予告」と呼ばれ、ここで初めて「十字架と復活」という主イエスのこの世での最終目的を弟子たちに明かされるのです。主イエスが自ら教えて下さった「福音」を受け入れるために何が必要であるのか、聖書はそれをここに語るのです。

キリスト信仰とは、「キリストと私」という「神と人の一対一の関係」でなければならないということです。「キリストと私」という関係は、他のあらゆるこの世的なものの介入を否定するものです。たとえ、親子、兄弟、夫婦だけでなく牧師でさえ、「キリストと私」という関係の中に入って来ることは出来ないのです。一人ひとりが主イエス・キリストの御前に立ち、自分の生きる姿を明らかにしなければなりません。

このような意味から考えれば、一人ひとりの心の中にある主イエス・キリストの御姿は千差万別です。全ての者は、キリストとそれぞれ独自な関係を形作るからです。先週の29節に記されていた「ペトロの告白」は、「イエスとペトロ」の関係を、ペトロ自身の言葉によって明らかにした「信仰告白」でした。

このように、信仰とは極めて個人的なものでありながら、その反面、最も重要なことは、信仰とは「教会によって伝えられたものである」ということなのです。これを、「信仰の公同性」と言います。

主イエス・キリストとの関係は、確かに、個人によって様々な「あり方」が可能です。しかし、「ナザレのイエスとは、どのような御方であるのか」ということに関しては、全てのキリスト者が「ひとつの告白」の下に立たなければなりません。

先程も触れた29節では、ペトロは主イエスの問いかけに対し、「あなたはメシアです」という初めての信仰告白をしました。この告白は、キリストの御前にただ一人で立つときの中心となる軸というべきものです。

しかし、ここでペトロが語った「あなたはメシアです」という言葉は、未だペトロ個人の心の中だけの問題であり、ペトロ個人の判断に過ぎませんでした。つまり、主イエスとペトロの私的関係に過ぎなかったということです。「あなたこそメシア・キリストです」という個人の告白と、そのキリストが「どのようなお方であるのか」という普遍的な内容とは、比較してみれば、「信仰の個人性と信仰の共同性・普遍性」ということです。それが、今、ここにおいて、主イエス御自身によって明らかにされて行くのです。

31節以下には、「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話になった。」とあります。これこそが、2000年に亘って世界の教会が伝えて来たことの根本であり、全てのキリスト者の告白が一致すべきものです。

この教えが、ペトロの告白に引き続いて、「イエス御自身によってなされた」ということが大切なのです。「あなたこそメシア・キリストです」という信仰告白は、あたかも一人の信仰者の判断によるものと考えられがちですが、その告白の内容は、「主イエスから与えられたものである」ということなのです。教会が伝えて来たものとは、主イエス御自身が教えられたことであり、教会の務めは、その告白を、絶えることなく、正しく伝えることです。31節の、「人の子は必ず多くの苦しみを受け」とありますが、主イエスは御自分のことを語られる時、「わたし」とは言わず「人の子」という表現をとることが普通でした。「人の子」とは、旧約以来、特別な意味を持っている言葉でした。先程お読みした旧約聖書、ダニエル書7章13節には「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り…」とありました。このダニエル書によれば、「人の子」とは、神の権力をもってこの世を支配する「栄光のメシア」と考えられて来ました。主イエスの時代、紀元一世紀のイスラエルの人々は、殆ど例外なく、この「栄光のメシア」が来られることを期待していたと言えます。何故かと言えば、

① ローマ帝国の占領下にある惨めさという政治的な苦しみ。

② ローマ帝国とヘロデ王家の二重支配によって搾取される経済的な苦痛。

③ 救いを失い、形式ばかりに拘る神殿宗教になったユダヤ教への信仰的な虚しさ。

これらの時代的危機の中で、神の偉大な力によって一気に世界を覆すメシアを求める気持ちになるのは、無理もないことでした。それが、ダニエル書に語られている「政治的・栄光のメシア」でした。

しかしながら、主イエスは、このような期待を抱いている人々の考えも及ばない、根本的な解決・徹底的な救いを用意して来られたのです。何故なら、たとえローマ軍を追い払い、ヘロデ・アンティパスを打ち倒し、世界がどのように変わったとしても、そこに生きる人間が神に背を向けた姿勢をとり続ける限り、楽園の回復は決してあり得ないからです。人間が背負う「神に対する反逆の罪」は、如何なる人間の努力によっても解消されることは有り得ません。日常生活の苦しみ、現実的な社会生活の苦しみにあえぐ人々は自分自身の罪を見つめることがありませんでした。このような、誰一人として考えもしなかった「救いの実現」のために、誰一人として考えもしなかった方法で、ただ一人、その道を行かれる主イエス・キリストの姿を、ここに見なければならないのです。

また、主イエスは、31節で、「必ず多くの苦しみを受け」と、ここで「必ず」と言われました。「必ず」と訳されているギリシャ語は「デイ」という言葉です。この言葉は、「神の絶対的な定め」「避けることの出来ない神の必然性」を表す言葉で、「決定的に定められて変わらない神の御計画」であることを示しています。これを「信仰のデイである」と強調される先輩牧師がいます。十字架と復活、それが父なる神の絶対的な決意であるということなのです。もはや、人間が関与すべき余地のないところで神の御子の御業が進められて行くのであり、人間の犯した罪が、神の独り子の死に於いて徹底的な裁きへと向かうのです。

「あなたは、メシアです」という告白は、このような罪の中に生きて来た「自分自身への完全な否定」を意味するものであるということが、ここで告げられているのです。

そして、その最終的な結論が主イエスの「復活」です。「復活を欠落させた信仰告白」が如何に無意味なものであるのかは、もはや明らかでしょう。

何故なら、キリストの十字架は、罪の裁き・神の怒りの表れであり、もし十字架がその後に復活を伴わなかったならば、父なる神の御心は「怒りによる裁き」で終わることになってしまうからです。それ故に、復活は、怒りから赦しへの偉大な大逆転なのです。もはや明らかなように、先程から注目して来た「必ず」という神の決意を表す言葉「デイ」は、この「復活する」というところにまでかかっているのです。神の正義による裁きとは、人間の罪を余すところなく暴き出し、それを御子の十字架という究極的なかたちで遂行されました。まさに徹底的な仕方で「裁き」が為されたのです。

しかし同時に、悪に対して怒られる神の正義は、御子の死に続く「復活」に於いて、愛と結ばれるのです。

「死んだ者が甦る」という、まさにあり得ない奇跡によって、今や、愛が、赦しの愛が、罪を糾弾する正義に代わって、私たちの前に示されたのです。主イエス・キリストは、「あなたこそメシアです」というペトロの言葉に対して、父なる神の変わることのない永遠の御計画である信仰の本質を、ペトロに初めてお与えになったのです。

ところが、32節後半に「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」とあります。これは一体なんでしょうか。ペトロの「いさめる」とは、元来、ギリシャ語で「叱る」という意味であり、強い否定・反対を表す言葉です。このペトロの言葉は、キリスト者として生きる私たちに重大な警告を与えていると言えましょう。何故なら、彼は、今、主イエスが明らかにされた「信ずべきことがら」を、自分の考えによって変えようとしているからです。ガリラヤ湖の漁師であったペトロも、当時の人々の常として、「栄光のメシア」を期待していたのでした。民族の誇りを回復し、現実の生活を良くしてくれるメシア・救い主、それが忘れられなかったのです。栄光のメシアを期待している者の心は、「罪の身代わりとして苦しむメシア」を受け入れることが出来ません。自分の思いによって神の御計画を歪めようとする人間の新たな罪がここにある、と言えるでしょう。何故ペトロは、この神の御業に気付くことが出来なかったのでしょうか。それは、ペトロが、主イエスが語られた神の御計画から「復活」を聞き漏らしていたからに他なりません。「苦難のメシア」から「栄光のメシア」への転換こそ、「復活」です。神の愛と力があらゆるものに勝り、御心が余すところなく示されるのが「キリストの復活」です。ペトロは、最後の勝利である復活の力に気付きませんでした。それ故に、「惨めな死を遂げられる栄光のメシア」など考えたくなかったのでしょう。

おおよそ、キリストの復活を信じない人は、全てこのペトロと同じであり、主イエス・キリストから「サタン」と呼ばれ、退けられるのです。何故なら、「復活」は、キリスト御自身が私たちに与えて下さった福音の根本です。キリスト御自身が教えて下さった信仰を、人間が勝手に変えてしまうことは許されないからです。「あなたはメシアです」という信仰告白は、キリストの復活の上に立たなければなりません。

私たちは、キリストが教えて下さったとおり、主イエスが御自身の身体で「復活」の確かさを示して下さったとおり、この喜びのメッセージを受け取るものでありましょう。この主イエスの受難予告は、受難だけの予告ではなく、私たちの救われるべき完成の時が近づいたという「喜びの予告」であるからです。

お祈りを致します。

思い出

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌23番
讃美歌138番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 7章9-11節 (旧約聖書1,071ページ)

7:9 エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」
7:10 主は更にアハズに向かって言われた。
7:11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」

新約聖書:マルコによる福音書 8章11-21節 (新約聖書76ページ)

8:11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。
8:12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」
8:13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。
8:15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。
8:16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。
8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、
8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

《説教》『思い出』

先週、ご一緒に読んだ「四千人の給食」の行われた場所は、ユダヤ人が住むガリラヤではなく、異邦人の住む土地でした。主イエスは、ユダヤ人に追われる様に弟子たちと共にダルマヌタ地方に来られました。

このダルマヌタ地方とは何処なのか、聖書では、このマルコ福音書の、この箇所にたった1回しか出て来ないのでハッキリとは分かりませんが、並行聖書箇所のマタイ福音書ではマガダン地方となっていることなどからガリラヤ湖西岸のマグダラの辺りではないかといった説が有力なようです。

ここに来られた主イエスの周りに、またまたファリサイ派の人々が現れました。彼らはここでも主イエスを陥れるために議論を仕掛けて来たのでした。

彼らは主イエスを試そうとして「天からのしるし」を求めたと書かれています。「天からのしるし」とは、「神による直接の証明」を示せということです。

彼らは、主イエスが各地で驚くべき御業・奇蹟をされたことを聞き、また、その出来事に出会って来た筈です。

しかし、それでも満足していませんでした。神の御子の大いなる御業に接し、その出来事を聞かされながら、それが信じられないのです。それは、自分自身の目で見て満足出来れば、自分たちの判断によって、「神を承認しよう」ということ、人間が神の上に立つということです。

既に、ご一緒に読んで来ましたように、五千人の人々に食事を与え、四千人の空腹を癒したパンの奇跡こそ、「神の国の食卓を表す」ということを私たちは学んで来ました。そこには神の御子の偉大な御業が現わされていました。

しかし、ファリサイ派の人々は、それらの出来事を何ひとつ正しく受け止めようとはしませんでした。深い知識と十分な経験を持ちながら、彼らは自分たちの持つ硬い殻を破れず、何も悟ることが出来なかったのです。

自分を虚しく出来ない人にとって、神の御業は全く無意味であることが、ここに示されたと言えます。「この世のものでないこと」に出会っていながら、なお自分の判断で理解しようとする人々。その人々は、たとえ「しるし」を示されても、それが「しるし」であることに気付かないのです。

主イエスの嘆きは、このような人間の愚かさに対するものでした。

「しるし」がないのではなく、無数に示された「しるし」を見ない「人間の惨めさ」への嘆きがここにあると言えるでしょう。

主イエスは「しるしがない」と言っておられるのではなく、神の御業を見ようともしない人間を悲しまれているのです。

主イエスは、ファリサイ派の人たちに背を向けられました。議論の相手になろうともせず、彼らの求めに応えようともせず、彼らを見捨てて去って行かれました。神の独り子を眼の前にしながら、なおそこに何も見ようとしなかった人々への「天からのしるし」は、もはや神の直接的な御手が下される終末の時を待つ以外ないからです。そして、そのような人々は、舟に乗って去る神の御子を「ただ岸辺で見送るだけ」なのです。

そして、このすぐ後、ガリラヤ湖を渡る舟の中で、主イエスと弟子たちとの間に交わされた会話こそ、私たちが心して聞かなければならないことなのです。

15節に、主イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められたとあります。

この時代、微生物はおろか、微生物の働きである「発酵」や「腐敗」についての原理は知る由もありませんでした。「パン種」とは、焼く前のイースト菌の入った生パンの一片を、次のパンを作るときに、新しいパン生地に加えて発酵させて、次のパンを作るときに用いていたことを現わしているのです。

ところで、皆さんは、微生物の働きである「発酵」と「腐敗」の違いをご存知でしょうか。実は「発酵」と「腐敗」は微生物による有機物の分解でまったく同じ働きを表わす言葉です。

「発酵」と「腐敗」の違いは、私たち人間の役に立つものが「発酵」で、役に立たないものが「腐敗」と呼ばれているだけです。

「発酵」と「腐敗」することはまったく同じであり、「パン種」とは作ろうとするパンに次々に微生物の働きが移って行くことです。このため、聖書では、この「パン種」という言葉は「腐敗」や「伝染」という悪い意味でも用いられました。ここに語られている「ファリサイ派のパン種」とは、悪い影響をもたらし、真実を歪める偽りの信仰という意味として理解出来ます。彼らは、外から見た目には、信仰には熱心であり、敬虔でありました。しかし内実は、自分を第一とし、神を「二の次」とする者として批判せざるを得ません。

「神を求める」と言いながら、実は、神の名を借りて自分の立場を守っていたのがこの人々の特徴でした。彼らが示す信仰者の姿は、真実の自分を隠し、偽りの姿で惑わせる巧妙な偽装に過ぎませんでした。

ファリサイ派の人々に対する主イエスの厳しい批判は、マタイによる福音書23章1節以下の小見出し「律法学者とファリサイ派の人々を非難する」に詳しく記されています。後でお読み頂けると幸いです。また、15節にある「ヘロデのパン種」とは、当時の社会に存在していた「ヘロデ党」と呼ばれる政治的団体に代表される「この世中心主義」のことです。現実主義であり、「自分の生活が第一、神は第二」という世俗主義のことです。富の豊かさと社会的地位や権力を求める人間、それらに眼を奪われる人間。それがこの「ヘロデのパン種」に譬えられるタイプの人間です。

この二つの「パン種」という言葉によって表れされるのは、自分の考え、自分の生活を第一にする人間のことであり、神の御業に出会っても、何も見えない人とも言えます。自分の要求が満足させられるか否か、ただそれだけを求める人は、結局、「そこでは何も見なかった」のと同じことになってしまいます。

幸福を与えるために来られた神の御子に見捨てられ、舟に乗って遠ざかるキリストを岸で見送る虚しさ、これが神を第二とする人間の特徴と言えましょう。

私たちも、ファリサイ派の人々ほど極端ではないかもしれません。ヘロデ党の人々ほど世俗的ではないと言えるかもしれません。しかし、私たちの心の中に、自己中心主義の小さなかけらが一つもないと言えるでしょうか。

神の御業に目隠しをしてしまう力を秘めたものが、心の片隅にこびり付いていないでしょうか。このような自己中心主義の危険にさらされていることが、ファリサイ派の人々やヘロデ党の人々だけの問題でないことは、この舟の中に主イエスと共にいる弟子たちの姿を見れば明らかです。

14節に、「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。」とあります。弟子たちは弁当を持って来ることを忘れたのです。この時、彼ら全体でパンを「ひとつ」しか持っていませんでした。ですから、主イエスの御言葉を聞きながら、一番の心配事として、「パンがひとつしかない」ということに心を痛めていたというのです。余りにも馬鹿馬鹿しい勘違いだと笑う人がいるかもしれません。実に愚かなことだと私たちも思います。

しかしこれこそ、「常に、自分を第一」と考えさせる、あの「パン種」の仕業なのです。

主イエスはそれに気づいて言われました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」。弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを裂いたときには、集めたパン屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と弟子たちは答えました。主イエスは、何を言おうとされているのでしょうか。

五つのパンで五千人。七つのパンで四千人。「そこまで言うならば、ひとつのパンでも十分だったのではないか」と思うなら、その人もまた、この弟子たちを笑う資格はないでしょう。ここで問題になっていることは何でしょうか。

「僅かひとつのパン」で、「どうして全員が食事をすることが出来るか」ということでしょうか。

17節から18節の主イエスの言われた「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」 主イエスとしては珍しく強い言葉です、一言で言えば、「愚か者!」ということでしょう。まさに厳しい叱責であり、強烈な批判です。主イエスの御業をしっかりと見詰めておらず、そこで示された恩寵の素晴しさを思い出すことも出来ない愚かさが、ここに指摘されているのです。

あの「五千人の給食」と「四千人の給食」で「思い出さなければならないこと」とは何でしょうか。

あの時の飢えは、単なる肉体的な飢えではありませんでした。あの時の満腹は、単なる肉体的な満腹ではありませんでした。主イエスと共にいることで「時」を忘れ、主イエスご自身が解散させるまで離れようとしなかった人々。空腹を忘れ、飢えを忘れ、寒さを忘れ、家に帰るべき時間を忘れた人々。その人々に、主イエスは何をもって報いたでしょうか。その人々は、何を携えて家に帰って行ったのでしょうか。これらの「パンの奇跡」こそ、神の国の恵みの先取りであり、キリストと共にいることの喜びにすべてをささげ、飢えも寒さもあらゆる不安からも解放されたのが、あの時の人々の姿でした。まさしく、「神の国」が実現し、「キリストと共にある豊かさ」が全ての人々を満たしていました。たとえそれが、僅かなひと時であったとは言え、「来るべき神の国」を、主はあの奇跡によって示されたのでした。それにも拘らず、何故、弟子たちは「そのこと」を思い出さなかったのでしょう。主イエスは言われました。「まだ悟らないのか」(21)、「もう分かったであろう」ということです。「あの出来事を思い出したであろう」ということです。

私たちの信仰も、この主イエスの御言葉を正しく思い出すことにかかっているのです。

弟子たちは、「パンがひとつしかない」ということしか考えていませんでした。聖書は、「ひとつのパン」ということから「何を思い出せ」と言っているのでしょうか。それは、新約聖書312ページ、コリントの信徒への手紙第一 10章16節の中頃から17節に、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」とあります。

ここの「ひとつ」とは、ひとつ・ふたつと数える数字の「イチ」“ひとつ”ではなく、「掛け替えのない」“ひとつ:ファースト”ということなのです。主イエス・キリストこそ「生命のパン」であり、私たちの新しい生命のための「唯一のパン」なのです。

そして主イエス・キリストは、パンである「御自身のからだ」によって数知れない多くの人々を養われるのであり、この「偉大なパン」を、何よりも大切なものとしなければならないのです。

「たったひとつの生命のパン」、それこそ、主イエス・キリストと私たちを結ぶ信仰の絆なのです。その力を持つものこそが、「天からのしるしとしてのパン」なのです。

あの時、舟の中で弟子たちは、「パンがひとつしかない」と言って心配しました。しかし私たちは、「ここにひとつのパンがある!」ということを喜ぶべきなのです。

ガリラヤ湖に浮かぶ小さな舟。主イエス・キリストを中心とする舟の中の人々。それこそ、教会の姿を示しています。自己中心的、人間主義的な考えから自由になれないファリサイ派の人々やヘロデ派の人々から、主イエス・キリスト御自身が引き離して「湖の上に分け隔てられた群れ」こそ、教会の姿に他なりません。しかし、その教会の中にあっても、私たちは自分自身の力によって、自らの歩みを確かなものにしようとします。主イエス・キリストの十字架による罪の赦しを自分のものと悟ることが出来ず、聖書は赦しを語っているのに、自分で自分を裁いたり、隣人の過ちを裁いてしまうこともあります。

信仰の恵みを理解出来ず、目があっても見ない、耳があっても聞かない者のためにこそ、主イエス・キリストが十字架上で苦しまれているのです。私たちは、その主イエス・キリストの十字架の御苦しみが私たちのためであると理解できたとき、その一つのパンによって赦され、救われた者として歩むようになれるのです。

主イエス・キリストが十字架で苦しまれつつ自らの御体を裂かれたことを思い、その恵みが自分たち教会のためであり、共に信仰に生きる主イエス・キリストの家族のためだったと感謝できる時、救われてその恵みに生かされる者となっていくのです。

お祈りを致しましょう。

生命のパン

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌15番
讃美歌142番
讃美歌000番

《聖書箇所》

旧約聖書:列王記 下 4章42-44節 (旧約聖書583ページ)

4:42 一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人のもとに持って来た。神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、
4:43 召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」
4:44 召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。

新約聖書:マルコによる福音書 8章1-10節 (新約聖書76ページ)

◆四千人に食べ物を与える
8:1 そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
8:2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。
8:3 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」
8:4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」
8:5 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。
8:6 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
8:7 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。
8:8 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。
8:9 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。
8:10 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。

《説教》『生命のパン』

皆さんと御一緒に読んできたマルコによる福音書は本日から、8章に入ります。

1節の初めに「そのころ、また」とあります。「そのころ」とは直訳では「その直後」という言葉で、「前の物語のすぐ後」といった意味です。続く、「また」とあるギリシャ語は「パリン」という言葉ですが、これは「再び」という意味です。何故「再び」と言われているのでしょうか。それは、ここに語られる「パンの奇跡」が、既に6章30節以下で行われた「五千人の給食」と同じような奇蹟であるからでしょうか。

確かに本日の、「四千人の給食」物語は、6章の「五千人の給食」と非常に良く似ています。違いと言えば、6章が「五つのパンと二匹の魚」であり、本日の箇所は「七つのパンと少しの魚」ということくらいで、その他は似たようなものです。

そこで多くの人々は、この二つの物語は実際には同じものであったが、伝えられている間にパンの数が変わり、マルコは別々の物語として記録したのであろう、と考えるのです。

確かに、よく似ていることは事実です。しかし、ただ「似ているだけ」では、すぐそばに二つの物語を置く必要はなさそうです。マルコは、ここに「キリストの恵みに接する人間の傲慢さ」があると言っているのです。

私たちは、奇跡物語に出会うと「こんな奇跡はある筈はない」と思い、二度続けて出てくると「二度も起こる筈はない」と思うでしょう。それは、神の恵みの御業を、なるべく小さなものに、人間が合理的に理解できるものにしようとするのではないでしょうか。神の御業を人間の理解できるものにしようとする滑稽な努力が、この8章1節以下の物語の独立性を否定しようとしているのです。この奇跡は、繰り返される必要のないものなのでしょうか。

もし、本当に「渇きに耐えかねた動物が、谷川の水を求めて険しい崖を下るような思い」で、神の恵みの御業を求めているのであるならば、再び示されたこの奇跡を「増し加えられた恩寵」として喜ぶべきです。むしろ、「まだこのほかにも沢山行われた筈だ」と考えたくなるのではないでしょうか。

主イエス・キリストと共におり、キリストが自ら祝福して下さったパンを受け取ることこそ、神の国に生きる者の願いなら、この奇跡は、「繰り返されるべき恩寵の御業であった」と言うべきではないでしょうか。そして、現在の私たちが聖餐式で受ける恵みこそ、このパンの奇跡の繰り返しに他なりません。再び行われたこの奇跡は、「キリストと共にある時、何時も与えられる恵みのしるし」として受け止めるべきです。

奇跡の行われた、この場所は、ユダヤ人が住むガリラヤではなく、既に述べたように異邦人の住む土地でした。ですから、これらの二つの奇跡を単純に区別するならば、6章30節以下はガリラヤで行われた「ユダヤ人に対する恵み」、今日の8章1節以下は、主イエスがユダヤ人に追われて行った先で行われた「異邦人に対する奇跡」と言うことも出来ます。そう考える時、この奇跡が単なる繰り返しというものではなく、神の国が、ユダヤ人の境を越えて、神の民とは見做されていなかった異邦人のところまで広がっていることを示している、と見ることが出来るでしょう。

2節で「群衆がかわいそうだ。」と主イエスは言われました。ここが6章30節以下と決定的に異なるところです。この時まで救いから外されてきた異邦人、私たち日本人を含め、神の国の食卓に着くことが出来るようになったのは、この主イエス・キリストの憐れみに基づくものであるということを忘れてはなりません。

私たちも異邦人でした。罪の中にありながら、罪とは何であるかを知らず、神の国を求めることさえも知らなかった私たちが、今、このように教会に招かれ、恵みのパンを受け、永遠の生命を約束される神の国の民となったのは、このキリストの憐れみによるものです。

「群衆がかわいそうだ」と言われたキリストの御言葉が全ての人々の運命を変えて行くのです。「かわいそうである」と訳されている「スプラグコニゾマイ」という言葉は本来、ユダヤ人が感情の宿ると考えていた「腸(はらわた)」という言葉から派生した意味の言葉であり、別の岩波訳聖書では「腸(はらわた)のちぎれる想いがする」と訳しています。まさに心の想いが充満した状態を表して、単なる「かわいそう」という日本語の訳では人間の惨めさを見詰める主イエスの御心を表現するにはまことに不十分と言えましょう。御前に集まる人間の惨めさに対する主イエスの心からの思いが、この御言葉によって示されているからです。

主イエスは、彼らの何を見てそれほど心を揺り動かされたのでしょうか。全ての者を神の御国へ導く救い主キリストの御言葉は、何に基づいて語られているのでしょうか。

2節で主イエスは、「食べ物がない」と言われています。空腹が直接のキッカケであったことは確かです。しかし、単なる飢えがそれ程の問題になり得たでしょうか。家に帰れば食料はあり、ただ「今、この場に食べ物がない」というだけのことです。その程度の空腹に対し、「神の御子が心からの思いをもって憐れんだ」というのは少々大袈裟で、変ではないでしょうか。飢えにも様々なものがあり、求めるものも様々です。そして共通することは「飢えとは我慢できないものである」ということです。一切れのパンのために牢獄に繋がれる人もあり、創世記25章のイサクの長男エサウが空腹のために煮豆で長子の権利を弟ヤコブに譲ってしまうのは旧約聖書の有名な物語です。これは決して絵空事ではなく、人は飢えを満たすために生きているとも言えるでしょう。古い話ですが、昭和二〇年代前半、敗戦後の日本ではアメリカからの援助を期待してクリスマスには各地の教会は満員になり、教会の前には貧しい人々で列ができたと聞きました。しかし、社会が豊かになった時、人々は教会から離れました。

主イエスが群衆を見て「腸(はらわた)を揺り動かされた」のは、単に空腹であったからではなく、「その飢えとは何であるのか」ということを見透されたからなのです。「もう三日もわたしと一緒にいる」。即ち、群衆の空腹は「キリストと共にいた」ということから起こったのです。「主を追い求めた結果」として気付かされた「飢え」とは空腹とは違う飢えだったのです。

キリストと共にいて初めて覚える「飢え」とは何でしょうか。そこで気付く飢えとは、肉体の飢えではなく、日頃は忘れていた「魂の貧しさ」だったのです。敢えて言えば、主の御言葉を追い求め続けたことが「魂の飢えを呼び覚ました」ということなのです。そして、「三日の日々、主の御許に留まった」ということは、そのために空腹になったということを説明するのではなく、魂の飢えの満たされることを願って「食べることを忘れた」と言うべきでしよう。

ユダヤ人にとって「穢れた者」であり「豚」とまで蔑まれた異邦人を、主イエスはその御言葉によって、神の国の民に変えて行ったのです。

主イエスの下に集まった多くの異邦人が「初めから特別に熱心であった」とは考えられません。彼らもほかの場合と同じように、「有名なナザレのイエスを見てみたい」という興味本位であったり、或いは「病気を治して欲しい」という自己中心的な理由であったかも知れません。しかし、集まった理由は様々であっても、そこで語られた主イエスの御言葉が、彼らに「時」を忘れさせたのです。

これは、私たち自身のことを考えれば明らかでしょう。多くの場合、教会へ足を踏み入れるきっかけは、極めて世俗的な理由によるものです。私たちは、決して信仰のエリートではありませんし、特別な熱心さを初めから持っていたわけでもありません。ただ、ふと足を踏み入れた教会で聞いた御言葉が、そこで初めて知った聖書に記された主イエス・キリストのお姿が、何故か、心を捉えて離さなかった、ということなのです。

「もう三日もわたしと一緒にいるのに」と主イエスは言われました。御言葉に捉えられて、初めて魂の飢えを知った者に、主イエス・キリストは生命のパンを与えて下さるのです。

4節には、「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」と弟子たちが言いました。場所は荒野です。パンを手に入れることが出来る場所ではありません。

自分自身で自分の飢えを満たすことは不可能だと気付かされる時、丁度、荒野の真ん中で途方にくれている弟子たちのように自分に絶望する時、キリストの手が差し伸べられていることを知るのです。神の御恵み「恩寵」とは、人間の努力の虚しさの彼方にあるものなのです。

5節から8節にあるように、主イエスはわずかに持ち合わせのあった7つのパンで四千人を満腹させる奇跡を行われました。この奇跡に何を見なければならないのかは、明らかです。「七つのパンで四千人の人が満腹した」ということは驚くことではないのです。この世に来られた独り子なる神が、「七つのパンで四千人を養った」からといって、不思議に思う必要はまったくないのです。

しかしながら、このことに躓く人が沢山います。「そんなことは不可能だ」と言い、「幼稚な作り話だ」と笑い捨てる人もいるでしょう。しかし、もしこの恵みを受けている群衆の中に自分がいることを考えるならば、どうでしょうか。「七つのパンで四千人を養うこと」と「私の罪を赦すこと」の、どちらが容易だと思いますか。

「本当の奇跡」とは、罪の中に苦しんで来た人間が「御言葉に捉えられる」ということです。神に背を向けて生きて来た人間が、「神の国に迎え入れられる」ということです。そしてなお、御言葉を十分に理解できない異邦人のためにも、主イエス・キリストの祝福が与えられたということです。

この時、神の国の食卓を示す奇跡に「七つのパン」が用いられました。この数は、たまたま弟子たちが持っていた数であったのかもしれません。しかし、聖書が教えることは、「七は聖なる数である」ということです。聖書はしばしば象徴によって恵みの真理を語ることを思い出してください。

ということは、この食事が、神の子キリストによって与えられる「聖なる食事である」ということを、「七つの」という言葉によって暗示しているのだということが出来るでしょう。キリストが与えて下さるパンは、単なる肉体の飢えをその場限りで満たすものではなく、永遠に連なる神の国の豊かさを、人間の魂に与えて下さっているのです。

さらに、「感謝の祈りを唱えてこれを裂き」と記されていますが、これは新約聖書314ページのコリントの信徒への手紙第一 11章24節でパウロが語る、「主の晩餐の制定」の言葉と全く同じです。そして、この6節の「感謝する」と訳されている言葉「ユーカリステオー」から「聖餐:ユーカリスティア」という言葉が生れました。主イエス・キリストの顧みによって与えられた聖なる食事、それこそ、驚くべき奇跡の始まりであり、今や、主の御許に集まった異邦人の群れの中に、「新しい神の民が誕生した」ということが、ここに宣言されているのです。

8節には、その四千人の人々を主イエスが解散させられたとあります。人々は主イエスから離れ、それぞれ自分の家に帰って行きました。神の御子と共に居り、御言葉を親しく聞いていた場から、再び現実の生活の場へと戻って行きました。そしてそれが、この時の主イエスの目的であったのです。

主イエス・キリストが与えて下さる生命のパンは、御言葉を聞いた人々が新しい力に満たされ、生活の場へ戻って行くためのものなのです。これこそが教会に許された聖餐の意味です。罪と戦い、永遠の御国へ向かう魂の旅路を支える生命のパンは、主の憐れみよって備えられているのです。

新約聖書176ページ、ヨハネによる福音書 6章35節の主イエスの言われた御言葉をお読みします。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことはない。」

主イエス・キリストは、魂の飢えを満たし、この世の日々を喜びのうちに全うするために、御自身を「新しい生命のパン」として、私たちに差し出されているのです。御言葉に捉えられ、キリストと共に喜ぶ者に、主イエス・キリストは、今もなお繰り返し「生命のパン」を与えて下さっています。

私たちが弱りきってしまわないために、与えられた御言葉を確かなものとして生活の中に持ち帰ることが出来るために、永遠の生命に至る長い道のりを歩き通すことが出来るために、主イエス・キリストは、今日も恵みの御手を差し伸べ、私たちに「生命のパン」を与えて下さり、この世の生活を支えて下さっているのです。

未だその「生命のパン」の味を知らないお一人でも多くの方々、ご家族の上に「救いの素晴しさ」を知ってほしいと祈り願い続けます。

お祈りを致します。

神のわざの素晴しさ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌166番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 35章5-6節 (旧約聖書1,116ページ)

35:5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。
35:6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。

新約聖書:マルコによる福音書 7章31-37節 (新約聖書75ページ)

7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
7:37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

《説教》『神のわざの素晴しさ』

先々週ご一緒に読んだ「シリア・フェニキアの女」の話と、本日の「デカポリスの耳が聞こえず舌の回らない男の物語」は、それぞれが全く異なって独立している様に見えますが、よく読んでみると、その二つの物語を結合している信仰的な背景があることが見えて来ると言えましょう。

31節に、「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」とあります。

これは驚くべき距離です。また、その経路は異常なものとしか言い様がありません。時間の関係から今日はご一緒にこの経路を辿ることはしませんが、地図を見ながらこの聖書箇所を読まれた方は、予想外の方向へ向かって歩まれるイエスのお姿を見出すでしょう。例えば、熱海へ行くのに日光街道を辿るようなものです。そこである人は、「マルコが地理を間違えた」と言い、またある人は「現在伝わっている聖書の文章が間違っているのではないのか」と考えてみたりします。そうでもしなければ説明し難い真に不思議な旅だということです。

この旅が、目的を持った旅ではなく、7章の初めから語られて来ましたように、主イエスがユダヤ人の憎しみに追われ、更にまた追われて行った先々で隠れることも出来ず、次々と留まるところを移して行かざるを得なかった結果であると考えられるのです。それ故に、この旅の道順は不自然で、常識では考えられないコースを辿っているのですが、大切なことは、この異常さを「地理の問題に終わらせてはならない」ということです。

何故なら、ここに明らかにされた「本当に異常なこと」とは、この旅の経路ではなく、神の御子をこのように追い回した「人間の罪・そのもの」に見るべきだからです。この世に来られた神の独り子を、居所を定められぬ程に追い詰める憎しみこそ、神の秩序を乱した人間の罪の姿に他ならないからです。

この旅の経路が常識では有り得ないものであると言う前に、神の御子を十字架へまで追いやった人間の罪を、「まともには考えられない程に神の秩序を逸脱したもの」と認めなければならないのです。

31節に、「ガリラヤ湖へやって来られた」とあるのは、「ガリラヤ地方」ではなく「ガリラヤ湖畔」と思われます。また、8章10節では「舟に乗っている」ので、湖の東岸と考えるのが妥当でしょう。いずれにしても、この長い旅からガリラヤへ戻るのは次の8章に入ってからですので、この物語の場所は未だ異邦人の地域と思われます。ユダヤ人たちから異邦人として差別されていた人々は、皮肉なことに、神に愛されている筈のユダヤ人自身の罪により、「思いもかけず、神の御子に巡りあった」ということなのです。

そこで人々は「耳が聞こえず、舌の回らない人を」イエスの御前に連れて来て「手を置いてくださるように」と願いました。「手を置く」とは、明らかに癒しの奇跡を求めていることを表しています。この男の苦しみの解決は「耳が聞こえるようになること」でした。言葉の不自由さは耳が聞こえないことから生じているからです。そして人々は、有名なナザレのイエスなら「耳を治すことが出来るであろう」と考えたのでした。

「そこでイエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。」と、ここに書かれています。

実に不思議なことをなさっているのですが、当時の人は「唾」に「病気を癒す力があると信じていた」のです。イエス・キリストは、常にその時代の人々の考え方の中に身をおいて行動なさる方なのです。

従って、ここで大切なことは、「唾をつける」ということではありません。それはただ、不幸な人自身が「今、自分が癒されている」ということを実感として味わうことが出来るための、「キリストによる特別な配慮」と言えましょう。

さらに注目すべきは、この時、イエスがこの男を「群衆の中から連れ出した」ということであり、文字通りには、「彼一人を引き離した」ということでした。

二千年前のこの時代、魔術師と呼ばれた者達が不思議な業を行い、人々を驚かせていました。例えば新約聖書228ページ、使徒言行録 8章9節~10節には「この町には以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さい者から大きな者に至るまで皆、『この人こそ偉大なものといわれる神の力だ』と言って注目していた。」とあります。

また、同じ使徒言行録には、キプロスでパウロが魔術師を追放したということが記されており、エフェソでも各地を巡り歩く祈祷師たちがいたことも記されています。彼らは、自分たちの力を誇示するために何時も大勢の人々を集め、その人々を観客として不思議な業を行っていたのです。

それに反し、イエス・キリストは、御自分の力をことさら人々に示すことをなさらず、不幸な障害を持つ彼一人を御業の対象とされたのでした。

主イエスは魔術師でもなければ祈祷師でもありません。主イエスは大勢の人々の喝采を得ようとして御業を行われたのではありません。ですから単なる見物人は無意味でありました。主イエスは神を見失って生きる人間を苦しみや悲しみから救うためにやって来られた独り子なる神です。

ですから、主イエス・キリストと救われる者との関係は常に一対一なのです。主に苦しみを訴え、主が招いて下さる者だけが顧みを受け、神の恵みの下に立つのです。「キリストが私を呼んでおられる」ということに気付いた者だけがキリストとの交わりに入るのであり、その声を「私への呼びかけ」として聴かない者は、その関係が結ばれないのです。

私たちは、いったいどちらでしょうか。この男の友人たちは確かに彼をイエスの下に連れて来ました。「この不幸な男にはナザレのイエスが必要だ」と考えたのでしょう。しかし、そのイエスが「自分たちにも必要である」と考えていたでしょうか。

さらに、主イエスは御自分を必要とする人間をどう御覧になるでしょうか。34節には「天を仰いだ」と記されています。主イエスは先ず「天を仰いだ」のです。「天」に御顔を向けられたのです。「天」とは言うまでもなく「父なる神」のことです。「上を向いた」のではなく、「父なる神を仰いだ」のであり、「救いは神より来る」ということをハッキリと示されたのです。

旧約聖書968ページ、詩編121編1節と2節にこのように記されています。

121:1 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
121:2 わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。

主イエス・キリストは、救いを求める全ての者に「救いの根拠」を示されたのです。「救いは天地を造られた主のもとから来る」のです。

続いて、主イエスは「深く息をついた」と聖書は記しています。深呼吸されたのではありません。「深く息をつく」と訳されている言葉は、「苦痛や嘆きの感情が言葉にならず、聞き取れぬ程の音声となって出ること」と辞書にありますので、「深い息」と言うより「うめき」と訳し、理解すべきでしよう。

主イエスは、全てを顧みられる父なる神の御心を「うめき」によって示されたのです。「うめき」は、この不幸な男に対する愛の豊かさと言えましょう。一人の苦しむ人間に対する激しいまでの慈しみです。そしてこれこそが、主イエス・キリストが私たちに接して下さるお姿なのです。

主イエスは、私たちをこれ程までに大切に扱って下さるのです。一人の人間の苦しみに対し、この世の片隅で誰にも相手にされずに生きて来た一人の人間の苦しむ姿に対して、神の御子は、心からの慈しみをもって接して下さり、そして「エッファタ」と言われたのです。

主イエスが「うめき」と共に叫ばれた「エッファタ」という御言葉は、決して不思議な力を持つ呪文ではなく、「開け」という意味です。そしてこの短い言葉の中に、マルコは全ての人間を救われるキリストの決断を見たのではないでしょうか。それがこの御言葉を敢えてギリシア語に翻訳せず、イエスが語られたままのアラム語で書きとめた理由でした。「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになった」とあります。

この男の耳は聞こえるようになり、話をすることが出来るようになりました。そしてこの奇跡は、私たちにおいても、現実のものとなっているのです。

私たちの罪とは何処にあるのでしょうか。それは、私たちの心の耳が御言葉に対して閉じられている処にあるのです。罪が心の耳を塞ぎ、御言葉を聞くことが出来ないようにしているのです。そしてサタンが、さらに数々の誘惑の言葉を耳元でささやき続けるために、いっそう御言葉から遠ざけられるのです。

肉体の耳の不自由な人が言葉を正しく語れないように、神の御言葉に対して心の耳を閉じている者に、「まともな言葉」が語れる筈はありません。それ故に、この世界は「まともではない言葉」ばかりが満ち満ちているのです。そしてその「まともではない言葉」が人間の心を傷つけて行くのです。

教会の中でさえ、呼びかけられる神の御声に対して心の耳を塞ぐならば、その人の語る言葉は単なる自己主張であり、人間のわがままであり、神の栄光を表す「まともな言葉」ではなくなってしまうでしょう。

神の国に生きる者の原則は、「私は何をしたいのか」「私に何が出来るのか」を考えることではなく、「キリストが、教会を通して、私に何を言われようとしておられるのか」を考えることでなければなりません。

この世界の歩みを正すものは何でしょうか。それはここに記されたキリストの御言葉のみです。「エッファタ」という御言葉によって私たちの耳が開かれ、御言葉を正しく聞くことが出来るようになったことこそが、「神様に造られた本来の人間」に立ち戻る第一歩なのです。

最後の36節から37節に、「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。『この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。』」とあります。「この方のなさったことはすべて、すばらしい」。この群衆の驚きは何であったのでしょうか。奇跡に対する驚きでしょうか。ここの「すっかり驚いた」とは変な日本語ですが、この言葉は、「雷にでも打たれたように、びっくり仰天して肝をつぶす」という意味であると辞書にあります。

マルコ福音書は、ここで何を語りたいのでしょうか。それほど人々が驚いたということを報告したいのでしょうか。しかし、先ほども触れましたように、この癒しの御業は人の眼を避けて行われた「隠された御業」であり、群衆の驚きを招くことに御心があったのではなかった筈です。マルコ福音書が語ることは、今、この出来事を「福音として聴く私たち」に、「驚け」と言っているのです。御子の御業の中に示された「神の御心に驚け」ということです。

旧約聖書2ページ、創世記1章31節は、天地創造の完成について、こう記しています。「神は御造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」

この「極めて良かった」。これが私たちの世界の本来の姿でした。

旧約聖書との関係を考えるならば、マルコによる福音書は、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という言葉を、単なる「人々の驚き」という側面から見るのではなく、かつて損なわれた神の創造の秩序が「ここに回復された」ということを告げているのです。神の創造の秩序「すべてを良しとされた」あの世界が、今、主イエス・キリストの愛によって、ここに回復されたということなのです。

ナザレのイエスこそメシア・キリストであり、罪の中で苦しむ者に「かつての幸福を取り戻して下さる方である」とマルコ福音書は語っています。

主イエス・キリストは、「失われた楽園の生活、神と共に生きる平和が回復された」という宣言を、罪の深みに沈む人間の心の耳を開いて「聴くことが出来るように」してくださったのです。

今、私たちの耳は、あの「エッファタ」という御言葉によって既に開かれ、御言葉を正しく聴き、御言葉をもとに語ることの出来る人間に造りかえられていくのです。

福音から遠く離れた異邦人さえも天の御国の交わりへ導くこと、それが御心であり、私たちはその中に生かされているのです。

お祈りを致します。

恩寵

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌122番
讃美歌420番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 56章6-7節 (旧約聖書1,154ページ)

56:6 また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら
56:7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

新約聖書:マルコによる福音書 7章24-30節 (新約聖書75ページ)

7:24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。
7:25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。
7:26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。
7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
7:28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
7:29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

《説教》『恩寵』

本日の聖書箇所、7章24節以下には、主イエスが人々から身を隠すように、「ティルスの地方」に行かれたことが語られています。この新共同訳聖書の後ろにある緑色の地図の「6.新約時代のパレスチナ」というのを見ていただきますと、地中海沿岸を北にずっと上って行ったフェニキア地方にティルスという町があります。ここはユダヤ人の国ではなくて異邦人の地です。主イエスは「だれにも知られたくないと思っておられた」と24節にあるように、ユダヤ人たちの目を避けて、ゆっくり弟子たちと語り合い、交わるためにこの地に逃れて来られたのです。それなのに「人々に気づかれてしまった」とあります。これは「隠れていることが出来なかった」と読むべきでしょう。主イエスの評判がこのティルスの町にまで伝わっており「隠れようとしても隠れられなかった」のです。
そこに、一人の女性が訪ねて来ました。26節によれば「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」とあります。ユダヤ人ではなくてギリシア人、つまり異邦人です。

先週の「けがれ」と題した説教で、主イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わないことを律法学者たちが責めたことについてお話ししました。これは主イエス御自身による新しい時代の始まりを告げるものであり、もはや、全ての人間が一切の差別もなく、神の御前で「赦しの御言葉を聴く時が来た」という宣言でした。
しかし、これが、逆に律法を堅く守る伝統的なユダヤ人の憎しみと拒絶を生み出しました。何故なら、ナザレのイエスの評判は既にこの異邦人の地にまで響いており、大勢の人々が集まって来たからです。25節から「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」とあります。これまでと同じような、病気の癒しを求める物語とよく似ています。確かに、幾度も繰り返されて来たお姿です。しかしながら、今ここで、マルコ福音書は、これまでとは決定的に異なる「何か」を語ろうとしています。「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」と記されています。この女性はユダヤ人ではなく、異邦人のギリシア人だったのです。汚れた霊によって、この女性とその娘、そして家族全体が、大きな苦しみを負っていたことは確かです。そういう苦しみ悲しみをかかえていたからこそ彼女は、ユダヤ人たちの間で病気を癒し、悪霊を追い出しておられる力ある主イエスがこの町に来ていることを「すぐに聞きつけ」やって来たのです。彼女は主イエスのもとに来るとその足もとにひれ伏して、娘から悪霊を追い出してくださいと頼みました。これは随分大胆なことです。主イエスの足もとにひれ伏して願うことが大胆なのではなくて、異邦人である彼女が、ユダヤ人である主イエスにこのように救いを願うことがまことに大胆なことなのです。
ユダヤ人と異邦人の間には、私たちにはちょっと想像できないような深い隔たりがありました。それは主にユダヤ人側が、異邦人を汚れた者として付き合おうとしなかったこと、それがユダヤ人と異邦人との「分離」であると先週お話ししました。そのことから両者の間には基本的に敵意があったのです。だから、異邦人であるこの女性が、ユダヤ人である主イエスに救いを願うことは普通はあり得ないし、そもそも願ったとしても聞き入れられる筈はない、というのが当時の常識だったのです。彼女はそのことをよく知りながら、それでも主イエスに救いを求めました。それが彼女の大胆さでした。
遠い昔、父なる神は多くの人々の中からアブラハムを選び出されました。そして、アブラハムに連なるイスラエル民族を神の民として定め、歴史の中で守り続けられました。長い時の後に、イスラエル民族の中に、神の御子が「人として」お生まれになりました。これはただ、「恩寵」と言う以外、説明のしようがない出来事です。何故なら、何の優位も誉れもない「イスラエル民族の一人」として神の御子を迎えることが出来たからです。
しかし、その結果はどうであったでしょう。彼らは、世に来られた神の御子キリストを追い払ってしまったのです。神の御心に背を向け、自分たちの思いの中に閉じこもり、福音を自ら遠ざけてしまったのが、この時代のユダヤ人でした。
そして今、遠く離れた異教の地ティルスの町で、「神の選びの外に置かれたと見做されて来た異邦人の女が、キリストの足下にひれ伏した」という場面を語るマルコ福音書は何を伝えようとしているか。
ユダヤ人たちは、神から与えられた律法を自分たちの生き方の基準にして来ました。しかし、長い時の中で御心を忘れ、「神の民として生きよ」という律法本来の目的を忘れて、自分たちの社会生活を正当化するために利用し続けたのです。それ故に、今、その律法が「本来の役目を取り戻す時が来た」という、まさに歴史的な瞬間に遭遇しても、自分たちのこれ迄の生き方を守るために、新しい時の到来を告げる神の御子の言葉を聞かず、イスラエルの地での宣教を拒否したのです。
しかしながら、そこに予想外の出来事が生じました。神に選ばれたユダヤ人が追い出した御子キリストの前に、異邦人の女性、ユダヤ人から見れば救いの外に置かれ、哀れな民族と蔑まれて来た異邦人の女性が、「ひれ伏した」というのです。ユダヤ人の頑なさは、この世に来られた御子キリストを追い払って、かえって皮肉にも、福音を求める人間、キリストを求める人間を、新たに異邦人の中から生み出す結果となったのです。それが、27節にある主イエスの『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。』との御言葉です。このたとえでは、「子供たち」はイスラエルを表し、「子犬」が異邦人を表しています。ユダヤ人が異邦人を「犬」と呼んで軽蔑していたことは事実であり、そのため「イエスもそのような差別をするのか」と非難する人があります。ここでは、主イエスは異邦人を差別しておられるのではありません。長い歴史を貫く神の愛の確かさを語られたのです。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」。この言葉の中に父なる神の御心の実現に仕える主イエスの姿が示されていると言えるでしょう。かつて主なる神は、救いを実現するために、あらゆる人々の中からユダヤ人を選ばれたのであり、それが歴史を貫く神の御業でありました。
しかしユダヤ人は、選ばれた恩寵を、いつの間にか「恩寵として受け止めること」を忘れたのです。愛されたことに感謝を忘れる時、神の民は「神の民としての最も大切なあり方」を失ってしまいました。イスラエルの民は、「この世に来られた御子に導かれ、神の国に入る人々の先頭に立つ」という使命を捨ててしまったのです。

神の御子を追い出して福音を自ら締め出したユダヤ人。その現実にも拘らず、「選ばれた民を見詰める御心は変わっていない」と主イエスはこの譬えで言われているのです。ここが大切なところです。主イエスは、ティルスという遠く国境の彼方に追われながらも、そこで明らかにしたのは、御自身が選び出した者、即ち、ユダヤ人への変わることのない神の愛でした。神の愛は、何処までも愛する者への愛を変えない永遠の愛です。
それ故に、「まず、子供たち(イスラエル)のために」という「初めの愛」の神の御心を想う時、その愛を拒否する人間の罪が、更に、明らかにされて来ます。28節には、「女は答えて言った。『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。』」。
この女性は、主イエスの御言葉を正しく受け止め、御心に相応しく答えました。28節の女性の言葉は、原文では「主よ」という言葉の後ろに「そのとおりです」という意味のギリシャ語の「カイ」という言葉が記されています。この言葉は地味な言葉で、新共同訳聖書では省略されてしまっていますが、内容的には極めて重要であり、口語訳では「主よ、お言葉どおりです」と訳されています。彼女は、「主よ、お言葉どおりです」と御前にひれ伏した上で、憐れみを求めているのです。
27節で主イエスが言われたのは、今見て来たように、先ずユダヤ人への愛でした。病気に苦しむ幼い娘を抱えた女性を前にして、キリストは、父なる神が選ばれたユダヤ人への愛を、まず明らかにされたのです。病気で苦しむ娘を持つ親の気持ちを考えれば、冷たい仕打ちと思われるかもしれません。眼の前で助けを求める者を差し置いて、ユダヤ人のことを思っているからです。
しかし、驚くべきことは、その主イエスに対する女性の態度です。彼女は、それでもなお、「主よ、そのとおりです」と御心に服従し、自分の立場をへりくだっています。神への祈りは、「主よ、お言葉のとおりです」という「キリストへのまったき服従」の後に初めて意味を持つのです。この女性の告白した神の御心への服従こそ、本来、ユダヤ人が告白すべきことであった筈です。ユダヤ人は、その告白をするための民族として選ばれていたからです。
しかし、そのユダヤ人が御言葉に背を向け、異邦人の女がユダヤ人に代わって御心への服従を告白しているということこそ、実は、新しい神の民、新しいイスラエルの誕生が、ここに暗示されているのです
そして29節から30節で、主イエスは言われました。「『それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出て行ってしまった。』女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出て行ってしまっていた。」とあります。
奇跡は起こりました。そしてそこで起こった奇跡とは、「娘の病気が治った」という「出来事」だけではなく、「まず、ユダヤ人に」という「神の救いの御計画」に等しく異邦人も加えられたのです。神の恵みの御業が、等しく異邦人へも向けられたのです。マルコ福音書が告げるのは、29節の「それほど言うなら」という主イエスの御言葉が異邦人にも向けられるのだという大きな転換の出来事なのです。
キリストの愛に分け隔てはないのです。ただ、キリストを受け入れる者だけが、その愛を「驚くべき奇跡」として喜ぶことが出来るのです。救われた喜びを十分に受け止めることが出来るのです。
今、私たちは福音のもとにいます。救いの御業の中にあります。
私たちを憐れまれるキリストの愛が、私たち異邦人にも注がれたという事実を忘れてはなりません。ただ、キリストの愛に基く恩寵によってのみ、私たちは生きているのです。
悪霊から解放された娘を見詰める女性の喜びが、今、私たちの心にも甦って来るでしよう。その驚きと喜び、そして感謝を共有するのがキリスト者という者の姿なのです。
この素晴らしい救いの喜びを、教会の皆様共々に、お一人でも多くの方々と共にしようではありませんか。
お祈りを致します。

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