生きる目標

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌23番
讃美歌191番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 22章1-14節 (旧約聖書31ページ)

22:1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、
22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
22:3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
22:4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、
22:5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
22:6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
22:9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
22:10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、
22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

新約聖書:マルコによる福音書 9章30-32節 (新約聖書79ページ)

9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

《説教》『生きる目標』

本日の聖書箇所は、主イエスご自身による二回目の受難の予告です。マルコによる福音書は、受難予告を三度も繰り返すことによって、何を語ろうとしているのでしょうか。

最初は8章31節でした。その時、主イエスがはっきりと語られたことに対して弟子たちは何も分からず、かえって「サタン、引き下がれ」と叱責される始末でした。二回目が本日の聖書箇所で、ここでは、最後の32節で、「この言葉が分からず、怖くて尋ねられなかった」と記されています。三回目は10章32節以下で、予告が最も詳しく語られたにも拘わらず、先頭に立ってエルサレムへ向かう主イエスの毅然たるお姿に、弟子たちは、「驚き、恐れた」とあります。十字架へ向かわれる主イエスの凄まじい気迫に圧倒されている弟子たちがそこに描かれています。

主イエスと弟子たち一行は、これまでユダヤ人居住地の北の外れフィリポ・カイサリアに居ました。ペトロの信仰告白がなされ、山上の変貌という大いなる出来事が起こったのもここでした。しかしこれから、主イエスは一気に南のエルサレムへ向かって進まれるのです。「そこを去って、ガリラヤを通って行った」とは、「通り過ぎて行った」の意味です。エルサレムへ向かう主イエスの視線には、もはやガリラヤはなかったのです。

ガリラヤは、主イエスがお育ちになったところであり、親しい人々が沢山おり、福音を語られた最初の場所、力ある業を最も多く為されたところでした。そして、弟子たちの殆どはガリラヤ出身であり、一行にとって、懐かしい故郷でした。

しかし今、主イエスはそこを通り過ぎて行かれたのです。主イエスを必要とする人々がもういなくなったのでしょうか。主イエスは、ガリラヤ地方に対する愛着を捨ててしまわれたのでしょうか。

確かに、反対者たちの妨害活動は次第に激しくなって来ました。しかし、遥か北のフィリポ・カイサリア地方でさえ、噂を聞いて多くの人が集まったことを考えると、ガリラヤの人々は益々主イエスを求めていた筈です。素晴しい御言葉、力ある御業を追い求めて、人々はなおも集まって来たに違いありません。これらの人々に対する主イエスの愛と憐れみが「冷めてしまった」などということは全く考えられないことです。

それでは、何故、主イエスは、この愛すべき故郷ガリラヤを通り過ぎて行かれるのでしょうか。

 

私たちの人生にも、さまざまな状況があります。自分を受け入れてくれる温かい場もあれば、まったく顧みられない場もあります。それどころか、「あなたには居て欲しくない」といった苛酷な場さえあるでしょう。様々な場で、私たちは生き続けます。そして、その幾つもの場の中で、自分に最も適合した場を選び取ろうとするでしょう。

自分を受け容れてくれる場、自分の能力を活かせる場、快適に過ごせる場を、生涯の働きの場として「選び取ろう」と考えます。もちろん、そのような場に恵まれるかどうかはまったく別な問題ですが、私たちの「願い」であることに間違いありません。職業を転々と変えたり、職場の不満を呟き続ける人々、その様な人々は、大抵「私には向いていない」「私には合っていない」と言います。

しかしながら、主イエスは、今、御自分に最も適した働きの場に背を向けられました。幼い時代を過ごしたナザレを除いて、他の殆どの場所で、常に大勢の群衆に囲まれ歓迎され続けていました。この華やかな時代を「ガリラヤの春」と呼ぶことが出来ます。それにも拘わらず、その場を棄てられたのです。30節に、「人に気づかれるのを好まなかった」とあります。誰にも会おうとはされなかったのです。

領主ヘロデの迫害から逃れるため足を速めていたのでもありません。共に歩む弟子たちが、口を挟むことさえためらう程の厳しい御顔で前方を見詰めておられたのは、御自身に与えられた生涯の目標をはっきりと見詰めておられたからです。もはやガリラヤに「留まるべきではない」と見極めておられたからに他なりません。

人生において、目的と手段を混同してはならないことは言うまでもありません。私たちの日毎の生活の全ては、目的を達成するための手段です。毎日繰り返される生きる努力は、今与えられている生命の日々に於いて「何を明らかに示し得るか」というための手段であり、目的に至る一段階に過ぎません。生活が目的そのものではなく、日常の生活は、主が与えて下さった人生の究極的目標を実行して行くための場なのです。ですから、そこで大切なことは、その状況が「如何に自分に合っているか」ということではなく、また「どれほど受け容れられているか」ということでもなく、キリスト者にとって、「私は何を為すべく生かされているのか」ということを考えるべきです。

 

皆さんは、アルベルト・シュヴァイツァーという人について良く御存知でしょう。アフリカで医療と伝道に生きノーベル平和賞を受賞した彼は20世紀の偉人として児童向けの偉人伝には必ず登場します。彼は、神学者としても第一級の学者でした。特に大著である「イエス伝研究史」は、現在でも新約学を学ぶ者に必読の書物です。また、音楽家としても第一級の才能を持つ人で、特にバッハ演奏家としてヨーロッパでは有名でした。

しかし彼は、その栄光を捨て去りました。アフリカに赴き、一病院の院長として働きました。それを、「必ずしも成功とは言えない」と批評する者も居ます。或いはそうであったかもしれません。しかしそれは、キリストの福音を聴いた一人の人間としての彼の決断でした。彼もまた、御心に従って、この世的には自分の能力を最も評価されると思われる場を、自分から棄てた人間でした。そして御心に従う人生には、このような決断が、常に有り得るのです。

 

キリスト者にとっては、自分の生活がどうか、自分の気持ちがどうか、というだけではなく、「主なる神が、今、私に何を命じられているのか」を考えることこそが大切なのです。そして、御言葉を真正面から受け止めた時、それまで最も快適であった場が、実は「通り過ぎるべき場」であったことに気づくのです。

31節で、主イエスは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」とハッキリと語られました。

主イエスの眼差しは、周囲の人々への愛と憐れみに満ちていました。その御業で示された、「真実の愛に生きること」「苦しむ人々への徹底した憐れみとしての癒し」「虐げられ、疎外されている人々の仲間になること」、その全ては、御子キリストが、自らの行いで示されたことでした。

しかし、主イエスが示された愛の御業は御子キリストの本当の目的ではありませんでした。神の独り子が栄光の御姿を棄て、自ら人として世に来られた目的は、罪の中に苦しむ者を救出するために、贖いの御業を実現することでした。それだけが、御子がこの世に来られた目的であり、弟子たちとの旅の途上で語り続けて来られたことはこのことであったのです。

今、主イエスが、父なる神より託されたこの使命を全うするために、御自身のこの世に於ける最大の目標へ向かわれるために、敢えて、愛する人々、主イエスを必要としている人々を残されるという厳しい決断を、ここに見なければなりません。

32節には、弟子たちはこの言葉が分からなかったが、「怖くて尋ねられなかった。」とあります。

何が怖かったのでしょうか。直前に、「この言葉が分からなかった」と記されています。弟子たちは、十字架へ赴かれる神の独り子の使命を悟ることもなく、受難の必然性など考えてもいませんでした。弟子たちは、「コトの本質」を全く理解していなかったと言うべきなのです。とするならば、この時の弟子たちの「怖くて尋ねられなかった」原因は、エルサレムへ向かわれるう「主イエスの御姿そのものにあった」、と見ることが出来ます。

神に従う決断は、神の命に服してモリヤの山で息子イサクを献げるアブラハムにも見られます。自分の生涯のすべて、生き甲斐のすべて、人生のすべてをそこに賭けるのです。「愛する人々」と「愛する場」に訣別を告げる決断は、決して簡単なものでは有り得ません。

エルサレムへ向かわれる主イエスの毅然とした御姿は、弟子たちの眼には、このアブラハムの姿のように見えたのではないでしょうか。他の何者も介入することを許さない決断の厳しさを、そこに見た筈です。

受難予告を聞かされた弟子たちの沈黙は、この主イエスの決断に「ついて行けなかった」ことを示しています。弟子たちと主イエスとの間には、超えることの出来ない大きな隔たりが存在していました。

その隔たりとは何でしょうか。それは、人間が「何に仕えているか」ということによって決まるのです。

「自分の生涯の目標を何に向けているか」という違いが、人と人との隔たりを造るのです。そして私たちはその人の目標へ向けての決断が理解出来ない時、「私はもうこれ以上あなたについて行けない」と呟くのです。

弟子たちが抱く主イエスへの期待が、彼ら自身の「この世的関心にしかなかった」ということは、これまで繰り返し学んで来た通りです。弟子たちは、主イエスの「十字架の贖いの御業」を考えも付きませんでした。彼らは、この世に於ける名誉と誇りを求めていました。彼らなりの「栄光のメシア」と言ってもよいでしょう。そして「栄光のメシア」は、主イエスの下に集まって来た全ての人々の期待でもありました。主イエスもそのことは知っておられたでしょう。人々の求めが何であるのかを、十分知っておられたに違いありません。

しかし、主イエスは決して弟子たちや多くの群衆の求めに妥協されませんでした。何故なら、主イエス・キリストは、「従うべき方は、どなたであるか」ということを、はっきりと認識しておられたからです。

受難予告は、既に8章31節でも記されていました。十字架と復活は、単なる未来のひとつの可能性として語られたのではなく、『そうなることに決まっており、それ以外ではあり得ない』という「神の御心の必然」、信仰のdei/:デイであるのです。それ故に、人々にではなく、父なる神に仕える道の厳しさを、主イエスはここに示しておられると理解すべきでしょう。

 

今、私たちは、このような主イエス・キリストの御姿を見るとき、私たちもまた、自分の生きる道筋を見極めることの重要性を、教えられるのではないでしょうか。主に従う旅の途上に自分を見出さなければなりません。主と共にその道を行く時、神の御子が生涯を賭けて獲得して下さった永遠の生命を、生きる目標として選び取るのです。

周りの人々にではなく、自分の心にでもなく、ただ神の御心にのみ仕えて行く生涯が、主イエス・キリストによって開かれていることをここに確信すべきです。御心を悟らない人々が恐れるような、毅然とした生き方が、キリスト者には必要であり、可能なのです。その生き方は、キリスト者でない人々には理解できない生き方とも言えましょう。

私たちは、この世界に永遠に留まるものでもなければ、墓石の下で終わるものでもありません。御子キリストによって罪が贖われ、神の御許に於いて永遠の生命を生きるべく、召されて行くのです。

「救われた者」として、棄て去るべきものに心惑わされることなく、通り過ぎる場に心囚われることなく、主によって備えられた一筋の信仰の道を、ただ、ひたすらに歩むべきです。

そして何より、家族を始め、自分の愛する周りの人々から捨て去られる人々が出ないように、共に「救われた道を歩む者」として「永遠の生命」を目指さなければならないのです。

お祈りを致します。

信じる者には、何でも出来る

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌19番
讃美歌380番
讃美歌420番

《聖書箇所》

旧約聖書:出エジプト記 19章9節 (旧約聖書857ページ)

19:9 主はモーセに言われた。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」モーセは民の言葉を主に告げた。

新約聖書:マルコによる福音書 9章14-29節 (新約聖書78ページ)

9:14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。
9:15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。
9:16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、
9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。
9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。
9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。
9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
9:25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」
9:26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。
9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。
9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

《説教》『信じる者には、何でも出来る』

マルコによる福音書9章に入って、主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて「高い山」に登り、神の栄光をお教えになりました。それは、僅か一瞬の出来事でしたが、それまで隠されていた「イエスこそ終末のメシア・キリストである」という神の御業の秘密を見ることか出来ました。「山上の変貌」と呼ばれるこの物語は、弟子たちにとって、思いがけない至福の時でありました。そして主イエスは弟子たちと共に山を下りるとき、再び死と復活による本当の救いについて予告をされます。

その「山の上」から下って来た「山の下の世界」即ち現実の世界は、主イエスの御心とはかけ離れた姿をとっていました。本日の14節以下には、「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。」とあります。

この時、山の下には、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を除く弟子たちが残されていました。彼らのところに、悪霊に憑かれた子供を持つ父親がやって来たのです。ナザレのイエスの評判を聞き、恐らく最後の望みを主イエスに託して来たのでしょう。しかし、そこに主イエスは居られず、主イエスの帰りを待つ弟子たちだけがいました。

主イエスの居られない時の弟子たち。帰りを待つ弟子たち。これは何を意味しているのでしょうか。それは、今、私たちが置かれている状況とも言えるでしょう。そのことから、本日の物語を見て行くことにします。

教会とは「イエスの帰りを待つ者の群れ」とも言えます。そして、「イエスの帰りを待つ者の群れ」には、イエスの御言葉と御業とを委託されているのです。世の人々は、この「イエスの帰りを待つ者の群れ」に、イエスに期待したことを代わって実現することを要求したのです。

悪霊に憑かれた子供を持つ父親は、主イエスが留守であることを知ると、弟子たちに癒しを願いました。かつて、弟子たちが各地に派遣された時、彼らは「多くの悪霊を追い出し、多くの病人を癒した」と6章13節には記されており、決して突拍子もない無理な願いではありませんでした。ですから、彼らはその時の経験を思い起こし、癒しを試みたのでしょう。しかし、この日、奇跡は起こりませんでした。弟子たちは悪霊を追い出すことに失敗したのです。

ある人は、「これは暗い物語である」と言っています。何故なら、「イエスを待つ者の群れ」が示す、哀れな姿だからです。残された弟子たちは、主イエスの留守の間も御言葉を語り、福音を宣べ伝えていたことでしよう。無為に過ごしていたとは考えられません。彼らは彼らなりに、宣教の御業に励んで来たことでしよう。しかし今、明らかになったことは、彼ら自身には「何も出来ない」ということなのです。主イエスと共に居たときには可能であった癒しの奇蹟が、「弟子たちだけでは全く出来ない」ということに気付かされたのです。この失敗が、律法学者たちにとって絶好の攻撃目標になったのは、当然のことでした。

世の中には、自分では何もしないが他人の失敗を決して見逃さない、という人が沢山います。「イエスの帰りを待つ者の群れ」即ち教会が語ることを、その傍で聞いているようなふりをしながら、ひとたび教会の無力さが顕わになった時、時を移さず、直ちに非難の矢を向けようと構えている人々が大勢いるのです。

弟子たちは自分たちだけでは悪霊を追い出すことが出来ませんでした。病気を癒すことに失敗したのです。そこで、律法学者たちは「何故治らないのか」と問い質したのでしょう。14節には「議論をしていた」と記されていますが、それは議論などというものではなく、失敗の追及とその弁明という「互いの言い争い」「罵り合い」と言うべきものと思われます。「何故、治らないのか、出来るならやってみよ」「お前たちが邪魔して煩しいから気が散って駄目だ」。せいぜいそんなところでしよう。

この罵り合いが「問題の本質」に関わるような論争ではなかったことは、子供の父親を含めた群衆が、帰って来た主イエスを見つけるや否や、直ちに彼らを離れて走り寄ったことからも明らかです。

父親の願いは悪霊に苦しめられている子供を救うことでした。しかし弟子たちも律法学者たちも、互いに相手を非難し攻撃するだけで、病気の息子を連れて来た父親の心を少しも考えていません。この罵り合いには父親の痛みが全く顧みられておらず、苦しむ息子を前にして途方に暮れている者を無視し、ただ単なる宗教上の議論に終始している、人間的対立でしかありませんでした。

ですから、集まった群衆にも、聞くに耐えないものであったのでしょう。「もはや、この人々ではどうにもならない」という絶望でしかなかったのです。

19節の主イエスの嘆き「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」とあります。

この主イエスの嘆きが、主イエスの周りだけのものであった、とは言えないでしょう。また主イエスの指摘する「あなたがた」とは、この時の弟子たちや律法学者たち、群衆だけに限定されているとは言えません。私たちは、「山の下」に住み、「イエスの帰りを待つ者の群れ」として、この御言葉を聴かなければならないのです。

この時、最も非難されているのが弟子たちであるのは明らかです。15節によれば、「群衆は皆駆け寄って来た」と記されているのに、弟子たちのことは記されてはいません。主がお帰りになった時、真っ先に駆けつけるのが弟子の姿であるはずです。自分たちに課せられた困難な課題を、主イエス・キリストに委ねるのが弟子の為すべきことである筈です。誰よりも先に、誰よりも熱心に主のもとに駆けつけ、苦しみを訴えるのが召された者の姿ではないでしょうか。

主イエスが「信仰がない」と決め付けられたのは、彼らが奇跡を行えなかったからではなく、弟子として最も大切なことが欠けていることを指摘しておられるのです。

「イエスは主である」「ナザレのイエスこそキリストである」という口先だけの告白など、何の役にも立ちません。8章29節に記されているように、彼らは、確かに、ペトロと共に、フィリポ・カイサリアで主イエスへの信仰を告白しました。しかしその信仰告白が、自分の生きる姿の中に表されていなければ、新しいことは何も起こらないのです。主は主であり、しもべはしもべです。しもべは主の下にあって初めてしもべであり、主から離れて独立しようとする時、しもべは、「主の栄光を映し出す務め」を放棄することになるのです。

20節から24節には、「人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」。その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」とありました。

ここのイエスの御言葉は、父親に語られていますが、むしろ弟子たちへの想いが込められているように聞こえます。神の子キリストにとって、悪霊を追い出し、病気を癒すことは簡単なことでした。事実、25節以下に記されているように、イエスの一言で悪霊は逃げ出すのです。ですから、この父親の求めを聞くだけならば、また律法学者たちを黙らせるだけであるならば、23節と24節の「信じる者」の話は不要な筈です。

しかし、この時、主イエスにとって最も大切であったことは、十字架への時が切迫しているこの時、後を託す弟子たちの霊的成長であったことは、「何時まであなたがたと共にいられようか」という19節の御言葉からもあきらかです。

「信じる者には何でもできる」。この御言葉を、弟子たちはどんな気持ちで聞いたでしょうか。彼らは「信じる者」になっていた筈でした。少なくとも、フィリポ・カイサリアでペトロと共に信仰告白した時、彼らは「信じる者になった」筈です。しかし今、現実に自分たちの無力さを知らされた時、同時に、「信じる者になり切れていない自分」を、思い知らされたのです。

「信じる者」とは、どのような人なのでしょう。「信じる者」は、本当に何でも出来るのでしょうか。29節で主イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。」とあります。

「信じる者」とは、「祈る者のことである」と主イエスは言われているのです。「信じる」とは「祈る」ことであり、「祈る」ということは、「自分の全てを神に委ねること」です。「祈り」は、人間の独り言ではなく、祈る者は、聖霊の御導きにより、神とキリストとの交わりの中に招かれるのです。

神との交わりに於いては、自分の主導権を全く放棄することが「真実の祈り」です。ですから、「祈り」によって神に委ねた出来事は、もはや人間の業ではなく、神の御心がそれを実現して行くのです。このことが明らかであるならば、「祈り」において不可能を想定する人はないでしよう。「もし出来れば」という「祈り」はあり得ないのです。

もう一度申し上げます。「祈り」とは、人間の勝手な独り言ではなく、祈る者と主なる神が、聖霊なる神の御導きによって、交わりの姿をとることです。そしてその祈りの中で、御心の実現を求めるのがキリスト者というものです。

もしあの時、弟子たちが御心を第一に考えて祈っていたとするならば、彼らは、誰よりも先に、帰って来られた主イエスのもとに駆けつけた筈です。つまり、24節の「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」との叫びこそ、弟子たちの言葉でなければならなかったのです。

この物語は、「教会にとって最も大切なものは何か」ということを明確に示しています。主イエスは、御前に平伏した父親に、「信じる者には何でも出きる」即ち「祈る者に不可能はない」と、はっきりと言われました。

この御言葉を聞く時、多くの人々は「不可能はない」という言葉の大胆さに驚きます。そんなことがどうして言えるのかと不思議に思います。しかし、よく考えてください。「祈り」によって起こるあらゆることは御心の実現であり、「神の御業に不可能はない」のです。本当に驚かなければならないのは、その不可能がない大きな力を持つ「祈り」が、「私たちに祈ることが許されている」ということなのです。

私たちは、今、「山の下」にいます。最も大切なことは、「山の下の教会が常に祈りに満たされている」ということです。

教会は何をする所かと問われるならば、確信を持って、「教会は祈る所です」と答えるべきです。それ以外にはありません。私たちは、祈ることによって、主から託された使命を果すべく生きているのです。山の下で、キリストが再び帰って来られることを待つ者の群れである私たちは、主が教えて下さったように、「ひたすら祈る」のです。

教会に託されている祈りの交わりを軽んじ、共に祈ることを怠る者には、教会の本当の力が分かりません。現代の教会の切実な問題は、祈りの欠乏であり、特に祈祷会の衰退でしょう。そう言った意味で、私たちの教会で毎週行われる水曜日の祈祷会を充実させることこそ、主なる神の御恵みです。

私たちの教会は、祈る者で満ちていなければなりません。家族の救いを祈り、主の御栄えを祈り、地域の救いを祈り、神の宮としての教会の栄光を祈るのです。祈る者だけが主の力の偉大さに触れることが出来るのです。

キリスト者は、祈りの信仰の中にこそ、生きなければならないのです。

お祈りを致します。

山の下にて

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌12番
讃美歌294番
讃美歌448番

《聖書箇所》

旧約聖書:マラキ書 3章23-24節 (旧約聖書1,501ページ)

3:23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
3:24 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。

新約聖書:マルコによる福音書 9章9-13節 (新約聖書78ページ)

9:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
9:10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
9:11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
9:12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。
9:13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」

《説教》『山の下にて』

本日の9節には、「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた。」とあります。

これまで隠されていた神様の御計画を知らされた時、人は何を感じるでしょうか。「創造の出来ないようなことを教えられた」「思いもよらないことが明らかになった」。今まで誰も会ったことのない神様の御顔を拝して、神様の秘密を知った優越感を他の人々に対して持つことが出来るかもしれません。

しかし、神様の栄光が輝く時、そこで明らかにされるのは、神様に背を向け、罪の中にあるこの世の闇です。そしてその闇が、この「私」がこれまで暮らし、慣れ親しんで来た「世界そのもの」であるならば、そこに生きて来た自分を否定しなければならないのです。初めて見た神様の栄光の前で、「何故、私たちはこのような闇の中に安住しているのか」という疑問が湧いてくるのは当然のことと思われます。

主イエスは、「医者を必要とするのは病人だけである」と言われました。確かに、健康な時には医者や薬の必要性を感じません。しかし、身体に異常を感じるならば、医者や薬を求めます。

弟子たちが、山の上で明らかにされた神様の栄光の下で考えなければならないことは、この世界・神なき世界が示す異常性であり、「何故、私たちの世界がこのような状態に留まっているのか」という疑問です。

何故、人は神様を求めないのか。何故、人は今のままで「よし」としているのか。これこそ、神様の真実の姿をかいま見た人間の疑問であり、聖書を読む私たちが抱く基本的な問題意識です。そして、その問いを発することから、「栄光をかいま見た山から下りた生活」は始まるべきなのです。

そして、10節から11節に、「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。そして、イエスに、『なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか』と尋ねた。」とあります。

このエリヤとは、紀元前九世紀の預言者です。アハブ、イゼベルという偶像礼拝者たちと闘い、カルメル山上でバアルの預言者やアシェラの預言者たちを打ち破り、さまざまな出来事の後、弟子のエリシャが見送る中、火の車に乗って天に昇った人物です。彼はイスラエル最大の預言者です。そして、死ぬことなく天に昇ったエリヤは、この世の終わり、終末に先立って、再びこの世にやって来るとイスラエルでは信じられていました。それは、旧約聖書1501ページ、マラキ書3章23節以下に、こうあるからです。もう一度お読みいたします。

見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
彼は父の心を子に
子の心を父に向けさせる。
わたしが来て、破滅をもって
この地を撃つことがないように。

律法学者をはじめとするイスラエルの宗教指導者たちは、民にこのことを教えて来たのであり、ペトロたちも、それを聞かされて育って来ました。

しかし、彼らがかいま見た信仰の現実は、エリヤは山の上に居り、「山の下にはいない」ということです。主イエスだけがそこに居られ、主イエスは御自身の迫害を予告し、十字架の死が必要なことを語られました。弟子たちにとって、謎は深まるばかりでした。約束のエリヤさえ来れば全ては明らかになり、主イエスが迫害され死ぬこともないのでないか。

ペトロたちの疑問も当然でした。山の上にエリヤが現れたことを今こそ大いに広めるべきではないのか。ナザレのイエスこそが約束の救い主であることを、エリヤの出現によって証明出来るのではないのか。ペトロは単純にそう思ったに違いありません。しかし、意外にも、主イエスはそれを禁じ、「だれにも話してはいけない」と命じられたのです。

何故、禁じられたのでしょうか。それは、聖書の御言葉を自分の思い通りに都合よく理解しようとする人間の愚かさを主イエスが御存知だったからです。

異民族の支配による長い苦しみの中で、「エリヤさえ現れれば」とイスラエルの民が待ち続けた気持ちは分かります。しかし、「来るべきエリヤ」とはいったい何者でしょうか。もし、エリヤが来たとしても、何をもって「約束のエリヤ」と断定するのでしょうか。エリヤが天に昇った時から既に九百年近く経っているのに、どうしてそれが「約束のエリヤ」だと分かるのでしょうか。

それは「姿によって」ではなく、「働きによって」と言う他はありません。「終末のエリヤ」は、約束され、預言されて来た務めを果たす時、初めて「その姿を認め得る」ということです。人の役柄は「その人が何をしたのか?」ということでしか分からないものなのです。

律法学者やイスラエルの民衆はエリヤを待ち望んでいました。しかし、「そのエリヤは何をするのか」ということを「聖書に基づいて」考えてはいなかったのです。自分の期待や希望を第一にし、エリヤは天の軍勢と共に現れて憎いローマ軍を追い払い、イスラエルの栄光を回復して下さると勝手に考えていました。それ故に、ローマの占領下、政治的独立を回復していない以上、「エリヤは未だ来ていない」と決め付けていたのです。

12節以下で主イエスは言われました。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」とあります。

主イエスは先ず、旧約聖書に記されている預言の正しいことを指摘し、父なる神の約束に少しの狂いもないことを明らかにしています。神の御言葉には変わりがなく、ただ、約束を待ち望む人々の信仰が問題なのだと言われたのです。

エリヤがこの世に来る目的は何でしようか。主イエスが言っておられるように「すべてを元どおりにする」ということです。それでは、「元どおり」とは何のことでしょうか。大切なことはここです。

当時の人々は、ダビデ時代の独立王国の夢を追っていました。かつての、栄光に包まれたユダヤ人・イスラエル民族の独立王国の再建が人々の希望でした。エリヤの到来は、この夢の実現と同一視されていたのです。

しかしながら、「本来の人間の姿は、『そこにあるのではない』」と主イエスは教えて来られた筈です。何故なら、人々が千年前のダビデ時代に憧れ、ダビデを永遠の王のモデルと見做しても、そのダビデ自身も数々の過ちを犯し、ダビデの王国時代にも人間は惨めな姿を示していました。

たとえ、政治的独立があり、周辺諸民族に対する優越感に満足したとしても、人間の苦しみや悲しみは何ら解決されず、神様を忘れて生きる人々で満ちている現状は変わりません。決して理想的で幸福な時代・ユートピアの到来ではなく、依然として、アダム以来の罪と罰の世界であり続けるのです。

ですから、もし立ち戻るならば、ダビデ時代ではなく、もっと以前の「人間本来の姿への復帰」がなされなければなりません。「元どおり」とは、神様が見て「よしとされた人間本来の姿」への回帰のことであり、アダムによって歪められた罪の姿から、真っ直ぐに神様へ向かう人間本来の姿勢を回復することなのです。

先程お読みしたマラキ書には「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる」と記されていました。神様に背を向けて来た者が神様へ顔を向けて方向転換すること、それを新約聖書では「悔い改め」(メタノイア)というのであり、エリヤの使命は、最後の時が来る前に、全ての人々を悔い改めに導くことにあったのです。

このマラキ書3章の1節には、「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」とあります。

この悔い改め「メタノイア(方向転換)」を叫び、「わたしの後に来る人を見よ」と語る人物が、既に現れて居たということは、この時代の人々は誰でも知っていました。

「エリヤは既に来た」と主イエスがはっきりと語っておられるように、バプテスマのヨハネこそ、「救い主の到来を告げる先触れ」、「約束のエリヤ」であったと言われているのです。

しかし、「人々は好きなようにヨハネをあしらった」と主イエスは指摘しておられます。何故、人々はバプテスマのヨハネによる神様の告知を聴かなかったのでしょうか。

人々は、空虚な栄光のメシアの幻影を追って、真実の平安を見ようともしなかったのです。繰り返し聞かされながら、互いに繰り返し語りながら、なおそのことに気付かなかったところに、罪の中に埋没している人間世界の闇の深さが感じられます。

自分の要求を第一に考える人。自分たちの期待する通りに神様が働いてくれると考える人々。神の御業をこの世での誇りを尺度に考える人々。自分の思いに反する神様を、心の中から追い出す人々。このような人々が、神の御業を正しく見ることが出来ないのは当然です。主なる神が自分の前に立たれたその時でも、自分の思いに固執して心の耳を塞ぎ、心の目を閉じて、「これは違う」と言ってのけるからです。

「神の御子が自らこの世に来られた」という驚くべき出来事に接しながらも「これは私たちの考えていることと違う」「私たちの期待はこんなものではない」と言って、拒否してしまうのです。神の御計画の実現を祈るのではなく、自分たちの期待の成就だけを願っていたのが、「山の下の世界」でした。

これが、私たちの「本来あるべき姿」ではありません。人間の要求は各自異なります。百人百通りです。私たちの世界の悲惨は、人間が自分自身の要求を頑迷に貫くところにこそ原因があるのです。

それ故に、この世界を「元どおりにする」ということが大変な難事業であるということは、明らかです。この世の闇の中にあって、罪の世界にどっぷりと漬かり、自分が異常であることを自覚していない私たち人間を、正常に戻さなければならないからです。

自分が「本来あるべき姿」ではないことをどのようにして知ることが出来るでしょうか。それは、「神の御子が十字架につけられ、殺され、その死に於いてなお、私たちを愛されたという出来事」を認識することによってしかありません。十字架の惨めさを自分の姿に重ねあわせることによってのみ、それが分ってくるのです。自分のために支払われた代償の大きさによって、初めて、自分が犯した罪の大きさを知るからです。

もう一度、9節を読んでみましょう。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない。」と主イエスご自身が教えられています。

ここで主イエスは、十字架と復活を経なければ「全ては意味をなさない」ということを告げられています。十字架と復活、人の罪への処罰と救済の実現。これが運命の大逆転を決定するのです。

山の下の世界に神様の栄光が輝き渡るためには、キリストの死と復活が絶対的に必要なのです。十字架の苦しみがなければ人間の罪は贖われず、その出来事への驚きがなければ、神への反逆は終わることはありません。そして、御子キリストにしか出来ないその御業は、ここで、実現に近づいているのです。

十字架へ向かう主イエスの御姿を仰ぎつつ、「私たちの世界はこのままでよいのか」という問いを、もう一度今、自分に問いかけることが必要ではないでしょうか。

山の上の栄光と、山の下の悲惨。この格差を埋めるために遣わされたのが聖霊なる神であり、聖霊なる神が御業を行われる場が教会です。

お一人でも多くの方が、共に救われ、山の下の世界に一筋の神様の栄光が輝きますよう、お祈りを致しましょう。

神の栄光に包まれて

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌10番
讃美歌352番
讃美歌461番

《聖書箇所》

旧約聖書:列王記 上 19篇8-18節 (旧約聖書566ページ)

19:8 エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。
19:9 エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
19:10 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
19:11 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
19:12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
19:13 それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
19:14 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
19:15 主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。
19:16 ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。
19:17 ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。
19:18 しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」

新約聖書:マルコによる福音書 9章2-8節 (新約聖書78ページ)

9:2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
9:4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
9:5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
9:6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
9:8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

《説教》『神の栄光に包まれて』

ご一緒に読んで参りましたマルコによる福音書では8章のペトロの信仰告白に続いて主イエスご自身による受難予告と続きました。本日の9章2節には、「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」と、あります。この「山」とは、これまで続けて来られた旅の経過から考えて、ヘルモン山と見るのが妥当でしょう。ヘルモン山は、フィリポ・カイサリア地方の北にあり、海抜2,850m、一年中雪を残す高山です。
主イエスは、三人の弟子たちだけを連れて、何のために山へ登られたのでしょうか。本日の物語は、極めて象徴的かつ神学的であり、信仰の知恵を巡らせて読まなければならない特殊なものと言えましょう。
私たちは、毎週、聖日の礼拝に導かれ、御言葉を聞く時を与えられています。それは、この世の生活の中にある私と、神の御業の中にある私、この両者の正しいあり方を、神は、礼拝という出会いの場に於いて教えられるからです。主イエスが「山に登られた」ということも、当時のこの世での生活に厳しく生きる弟子たちのために、特別に用意された恩寵の時と理解すべきでしょう。「山」とは、旧約聖書以来、神が用いられた恵みの場、教えの場でした。
改めて振り返って見るならば、旧約聖書で、モーセが十戒を授けられたのは「シナイの山の上」でした。バアルの預言者と闘ったエリヤがアハブとイゼベルに追われた時、彼は「神の山ホレブに逃れた」と記されています(列王記上 19章8節)。新約聖書でも、十二使徒を選出したのは「山の上」(マルコ福音書3章13節以下)であり、祈る時、「イエスは山に登られた」とさまざまな箇所で記されています。さらに、甦られた主イエスは、ガリラヤの山の上で弟子たちに出会い(マタイ福音書28章16節)、再臨を約束して天に帰られたのもオリーブ山からでした(使徒言行録1章9節以下)。「山に登る」とは、信仰的に特別な場面を示しているのであり、聖書に於いては、「神との出会いの場」「神とのふれあいの場」「聖なる御業の行われる場」を象徴的に示唆するところです。聖書に記される「山」は「天上の出来事と地上の出来事との接点である」とも言えるでしょう。それ故に、私たちは、「その山」が「何処の山か」ということを考えることが大切なのではなく、「そこで行われていることが何であるか」ということを、改めて聖書から聴き取らなければならないのです。
この時、主イエスが、弟子たちを連れてヘルモン山に登ったことは確かでしよう。しかし、そこで起こったことは、「ヘルモンという山の上で起こった出来事」ということではなく、「神の国の秘密を垣間見せて頂く、特別な出来事であった」ということなのです。それは、2節以下の、「イエスの姿が彼らの前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」とあることからも分かります。
物語はここから純粋に信仰的表現の世界に入ります。私たちの世界にない出来事を語っているのです。
そもそも、私たちが用いる言葉は、この世界に存在しないものを表現することにはまったく向いていないのです。何故なら、言葉というものは、私たちが現実の世界の中で体験し、考えた事柄を「説明するために」造られたからです。
神を正しく表現する言葉は、私たちの世界には存在しません。聖書には「いまだかつて、神を見た者はいない」(ヨハネ福音書 1章18節)と記されています。見たこともないものを語る言葉は、当然、「ない」のです。
それ故に、聖書は「本来表現することの出来ない神の出来事」を「私たちが知っている言葉」を用いて語らざるを得ません。聖書を読む時、常に心得なければならないことは、信仰の出来事、神の出来事は、「私たちの日常的な世界を超えるものである」ということです。そしてそれ故に、言葉で示される出来事を、言葉を超える知恵をもって理解しなければならないのです。ここで、「イエスの姿が変わり、服は真っ白に輝いた」と記されていますが、ルカ福音書はここを「顔の様子が変わり」(ルカ福音書8章29節)と記し、マタイ福音書は「顔は太陽のように輝き」(マタイ福音書17章2節)と述べています。さらに、十戒を受けた時のモーセの姿は、「モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。」(出34:29-30)と記されています。
この「顔が輝いた」という表現は、「神との出会い」「神の栄光」を表す信仰的な表現なのです。「白い服」も同じです。「神の義・正しさ」「神の聖・聖さ」を表すための表現です。「これ以外表現しようがない限界」とも言えるでしょう。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、今、ここで、主イエスの御姿の中に、紛れもない「神の栄光」を見たのであり、神御自身と出会う驚くべき体験は、「このように表現せざるを得なかった」ということなのです。4節には、「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」とあります。
モーセは旧約聖書の「律法の象徴」、エリヤは旧約聖書の「預言者の象徴」です。これまでも主イエスを妨害していた律法学者・ファリサイ派、また神殿で権威を誇示している大祭司や祭司たちは、この律法の象徴モーセと預言者の象徴エリヤに自分たちの権力の根拠を置いていました。イスラエル固有の信仰は律法と預言者によって与えられており、律法と預言者に従うことを「何よりも大切なこと」と考えていたために、新しい福音を告げる主イエスを排撃し、抹殺しようとしたのです。
しかし、ルカ福音書9章31節は、この時の語り合いの内容が「イエスがエルサレムで遂げようとしている最期について」であったと記しています。律法と預言者が告げて来たことの結論が「イエスの十字架と復活である」ということを、この場面は示しており、見方を変えるならば、全聖書が語ること、父なる神の御計画の全てが、この「山の上の一場面で明らかにされた」と言うことが出来るのです。この幻の場面こそ、神の御業の奥義の開示でした。
すると、5節から6節で、「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。」とあります。
大いなる神の秘密に初めて直面した弟子たちが声も出なかった時、ペトロだけが、ようやくこれだけのことを口にすることが出来ました。驚くべき出来事に直面した混乱の中ではあっても、ペトロには口を挟む余裕があったことは確かでしょう。移住生活を基本とする荒野の民にとって、「小屋を建てましょう」とは、「何時までもここに留まって欲しい」という強い願望を表現しているのです。
神に出会った者。神の御姿を仰いだ者。神の栄光を身近に接した者、その人たちの眼は、一体、何を見るのでしょうか。それは、これまで生きて来た世界と余りにもかけ離れた潔さであり、純粋さです。そして私たちの誰一人として、その潔さに憧れない者は居ません。
悲しみも苦しみもない世界。面倒臭い人間関係も、もはやなくなっている世界。傷つける者もなく、傷つけられることもなく、憎しみや陰口もなく、ただ、永遠なる神と共にある純粋な世界。それこそ、私たち誰もが憧れる世界であり、「神の国こそ、そのような世界である」のです。
パウロは、その素晴しさをフィリピ書1章23節で告白し、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、このほうがはるかに望ましい」とさえ記しています。
ペトロもそうだったのです。彼は、ここに「自分の幸福」を見ました。「此処こそ、私が留まるべき世界だ」と思ったのでしよう。「再び、あの面倒臭い『山の下』へ戻って行きたくない」と考えたのも無理はありません。
主イエスの時代、町や村を離れ、荒れ野の中に清潔さを求めて住んだエッセネ派と呼ばれる人々。社会から完全にかけ離れて純粋な信仰に生きようとした後世の修道士たち。皆、考えたことは同じでした。その気持ちは分かりますが、しかしながらそれが「現実から遊離したもの」と言わざるを得ないのは、いったい何故でしょうか。それは、大切なことを忘れているからであり、ペトロもまた、最も大切なことを見落としているからです。それは、幻で示されていた内容です。
この語り合いが「イエスの受難に関してであった」とは、先に述べたようにルカが記している通りです。父なる神は、全ての御業の結末を「御子キリストの十字架と復活」とされているということであり、この幻は、その御心を明らかに告げるものでした。
ペトロが願ったように、もし、主イエスがこの場に永遠に留まるならば、十字架と復活はどうなったでしょうか。全ての人々の救いとなる贖いの御業はいったいどうなったでしょうか。
7節には、「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」とあります。これは、ペトロの願いに対する神の拒否です。突如わき起こった雲は、「神の臨在」を表す信仰的表現です。そこに居られた父なる神は、ペトロの願いを退け、「すべてはキリストに聞け」と言われたのです。
信仰に於いて最も大切なことがここにあります。キリスト者の姿勢は、「自分がどのような気持ちになったか」「自分が何を望むか」ということではなく、「主なる神が、今、何をされようとしておられるのか」を聞き取ることであり、「御子キリストは、何を実現しようとしておられるのか」を聴くことでなければならないからです。
ペトロは、そのことを考えていませんでした。この直前、フィリポ・カイサリアに於いて、主イエス御自身がお教えになった受難の予告を、彼は心に留めていなかったのです。(マルコ福音書8章1節以下参照)。
主イエスの十字架を抜きにしてエデンの園を回復しようとする試みとは、荒野に於いて、サタンが主イエスに働きかけた誘惑です。そして、主イエスは、四十日四十夜の祈りの後、「それを拒否し、退けられた」と聖書は記しています(マタイ福音書4章1節以下参照)。キリストの御心、御業の中にこそ、父なる神が喜ばれるすべてのことが備えられており、キリストに従うことこそが、信仰者の行くべき唯一の道なのです。
それ故にパウロは、「この世を去ってキリストと共にいたい」と言いながら、同時に、「生きるとはキリストである」即ち「十字架を背負って生きることこそ、キリストの御旨である」と告白しているのです。
8節には、「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」とあります。まさに象徴的光景と言うべきでしょう。幻は消えるのです。その後に残るものは何でしょうか。「ただ、イエスだけが彼らと一緒におられた」と聖書は記しています。「ただイエスだけが」です。そして、主イエス・キリストがおられるところこそ、私たちが生きるべき場なのです。
この「山の上」の出来事を、主イエスのお姿が変わったということから「山上の変貌」とも呼びます。しかし、「変わった」と言うならば、どちらが本当の姿なのかということを先ず確かめるべきではないでしょうか。ペトロはここに「神の栄光」を見ました。真実の御姿がここで教えられました。
そしてこの瞬間、示された「栄光の神」こそ、御子キリストの本当のお姿だということに気付くべきです。弟子たちと共に旅をして来たナザレのイエスは、神の御子が人間の姿をとったものであり、普段弟子たちの見慣れたお姿は、逆に人となった「変貌の姿であった」と言わなければならないのです。
たとえ、一瞬ではあっても、「山の上」でペトロが味わった真実を見た感激と喜び。パウロが苦難の中で生涯憧れ続けた「神の国の平安」。その喜びと平安を現実にするために、神の御子は敢えて御姿を変え、この世に来られたという信仰の奥義を、本日の聖書は語っているのです。
栄光に満たされた方が、何故、人の姿をお取りになったのでしょうか。それまでして、実現しようとされたことは一体何であったのでしょうか。
山の上の栄光を見た者は、このことにこそ眼を向けなければなりません。「栄光を自ら捨てて世に降られた方の御心」を、今、私たちは、正面から受け止めなければならないのです。
「御心に従って生きる」とは、自分の希望を最優先して、「山の上に留まること」を願うのではなく、それほどまでにして私たちを愛して下さった方のそばを離れず、「何処までもついて行く」こと、これこそがキリスト者の生き甲斐と言うべきです。
8節の、「イエスだけが彼らと一緒におられた」。これこそが「山」を下りた者に対する神の恵みであり、私たち、この世を生きる者に対する「力と勇気の源」の恵みの知らせなのです。

お祈りを致します。

キリストに従う

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌9番
讃美歌310番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 25章24-33節 (旧約聖書39ページ)

25:24 月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。
25:25 先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。
25:26 その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった。
25:27 二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。
25:28 イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。
25:29 ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。
25:30 エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。
25:31 ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」
25:32 「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、
25:33 ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。

新約聖書:マルコによる福音書 8章34節~9章1節 (新約聖書77ページ)

8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
9:1 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

《説教》『キリストに従う』

先週は夏休みを頂き、感謝のうちにゆったりとした時間を与えられました。皆様も久し振りに私以外の牧師から御言葉を聞く機会が与えられ、如何でしたか、本日から「緊急事態宣言」も解除され徐々にいつもの生活に戻りますが、まだまだ油断はできません。引き続き、当面の間、このライブ配信を続けますので、感染に不安のある方は、どうぞ続けてYoutubeによるライブ配信をご視聴ください。

聖書には、思いがけないところに思いがけない言葉が使われていて、しばしば読む者を困惑させることがあります。本日のマルコによる福音書8章34節に突如現れる「群衆」という言葉もその一つです。

「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。」とあります。

本日の、この物語は、8月29日にお話しした8章27節からのペトロの信仰告白に始まる受難物語の一部分であることは明らかです。この時主イエスは、ユダヤ人たちの憎しみをしばらく避けるために、遙か北のフィリポ・カイサリアの地方へ弟子たちを連れて行かれました。27節以下を辿れば、そこにいたのは弟子たちだけであり、他には誰もいなかった筈です。

ところが、34節では、突如「群衆を呼び寄せた」と記されているのです。表面的に読むと、「弟子たちに教えておられる間に、群衆が集まったのであろう」と思われますが、ここ迄のところを改めて読み返してみると、もっと深い意味があるように思われます。

27節から振り返ってみますと、聖書は、「主イエスへの信仰」について、三段階で発展的に語っていることが分ります。

第一段階は、27節から30節に記されていた「ペトロの信仰告白」です。「あなたはメシアです」というペトロの決断の表明、ペトロの個人的な信仰告白がなされました。

第二段階は、31節から33節で語られていた「第一回目の受難の予告」で、「ペトロの個人的な信仰告白」に主イエス御自身が、その信仰内容を明確にされたのがこの箇所でした。信仰告白は、個人の主観によるものではなく、主イエス・キリスト御自身がその内容を決定されるのです。信仰告白の内容に関するこの部分では、もはやペトロ個人だけでなく、弟子たち全員が主の御言葉の対象になっています。

そして最後の第三段階が、本日の34節から38節です。この部分の主題は「信仰の実践」と言えるでしよう。キリストの甦りを告白する人間は「どのように生きるべきか」が教えられ、あらゆる時代の全てのキリスト者の「生き様」がここに告げられているのです。ここに突然、「群衆」という言葉が出て来るのです。

このように見て来ると、以上の三つの段階は、極めて意味深い内容を備えていると言えるでしよう。正しい信仰とはこの全てを備えていなければならず、第一段階の信仰告白を欠いては信仰の意味を成さず、第二段階の主イエスの宣告を聞かなければ第三段階の信仰の実践は不可能です。

ですから、ここで突如現れる「群衆」が、もし「この時やっと集まって来た人々」であったならば、34節以下の御言葉を正しく理解することは不可能です。そこで私たちは、この「群衆」という言葉を、「その場にやって来た人々」という以上の「象徴的意味」で考えることが必要になって来ます。

信仰とは、何よりも先ず、一人の人間の決断が根底になければなりません。歴史の中で、ナザレのイエスを「神の子キリストである」と告白した一人の人間ペトロがいたのです。そして主イエスは、その「一人の人間の告白」を用いて幾人かの人々に福音の何たるかを教え、信仰を「一般的」で「普遍的」なものにされました。これを公に同じと書いて「公同信仰」と呼びます。この「公同性」が教会を形作り、キリスト信仰を世界共通の「普遍的」なものとしたのです。

27節以下の一連の物語は、主イエスがお話になっている間に「だんだん人が増えていった」というような自然発生的なことではありません。ペトロの信仰告白を、その傍らで単なる聴衆として聞いていた人が、主イエスの言葉によって明らかにされた教会の信仰へ導かれ、そして「あなたもその道を行くべきではないのか」という問い掛けを、自分に向けられた課題として受取ったということです。

ですから、ここで「呼び寄せた」と言われている「群衆」とは、このとき自然に集まって来たフィリポ・カイサリアの人々だけではなく、実は、同じように「主に呼び寄せられて」、この礼拝に集ってきた私たちでもあるのです。

信仰とは、他人の告白を聴いたり、教理の内容を学ぶことではありません。主イエスに促されて「私もその道を行く」と告白し人生の旅路を歩む人のことです。それが、34節にある、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」との御言葉です。

それでは、私たちはどのように生きるべきなのでしょうか。キリスト者の生き方の根本が三つの条件で記されています。

先ず第一に何よりも大切なことは、自分を「捨てる」ということです。「捨てる」と訳されている「アパルネオマイ」という言葉は、ギリシャ語で、強く「否定する」という意味です。主イエスは十字架につけられる前夜、最後の晩餐の際、ペトロが主イエスを「否定:アパルネオマイ」することを予告されました。主イエスが捕らえられた大祭司の家の庭で、ペトロは三度にわたって「私はあの人を知らない」「私はあの人と関係はない」と強く否定しました。この一連の場面で用いられている「知らない」(マルコ福音書14章30節、72節)という言葉も34節の「自分を捨てる」の「捨てる」(アパルネオマイ)「否定する」という同じ言葉です。

大祭司の庭でのペトロは、死の恐怖の前で自分の命を惜みました。自分を否定出来ませんでした。惨めな姿をさらしている主イエスに従って行くことが出来ませんでした。それ故にペトロは、自分を守るために主イエスとの絆を自分から切り離そうとしたのです。

キリストの復活を信じ、キリストの御言葉に自分の将来を見るならば、先ず「自分自身を捨てよ」と主イエスは教えておられるのです。誇りに満ちた自分の生き様、これまで辿って来た人生の目標、何よりも大切にして来た価値観、その全てを意味なきものとして投げ捨てる決断が必要なのです。

罪に塗れた自分自身を捨てることが、「信仰の第一歩なのだ」と主イエスは教えておられるのです。

そして、信仰にとっての第二歩は、「自分の十字架を負う」ということです。キリストの十字架は罪の贖いでした。ですから、私たちはキリストと同じ十字架を背負うのでは有りません。ただキリストが、どのようなお姿で十字架への道を歩まれたかを思い起こすべきなのです。それは、この後のマルコ福音書14章36節に、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」とあります。

この「わたしが願うことではなく」とは、当然「自己否定」を意味します。そして「御心に適うことが行われますように」という祈りこそが、「自分の十字架を負う」ということで、「父なる神が示された道を歩む」ということです。生涯の目的を自分の考えによって選び取るのではなく、「神が、私に何を期待し、何を望んでおられるのか」を祈り求めて行くことなのです。

このような生き方は簡単なものではありません。絶えず襲って来るサタンの誘惑との闘いが生涯続くのです。しかし、神の御子イエス・キリストが、この生き方の見本となってくださいました。荒野に於いては40日40夜の全てを費やして祈り、ゲッセマネに於いては血の汗を流して祈り。十字架は、その生き方の頂点にあったのです。

ひたすら祈ることだけがサタンへの勝利であることを、主イエスは、地上に於ける全生涯を通してお示しになりました。私たちの祈りもまた、「神の御心に従うこと」へと向けられなければならないのです。

信仰にとっての第三歩とは、「わたしに従え」ということです。「従う」という言葉は、しばしば「服従」という意味でとらえられます。それは決して間違いではありませんが、それでは「言うことをきく」という低い次元で終わってしまいます。「従う」(アコルーセオー」とは、「ついて行く」という意味なのです。主イエス・キリストは「私について来なさい」と言っておられるのであり、34節ではこの言葉が二度も繰り返されています。

主イエス・キリストは、私たちに対し「あれをしろ」「これをしろ」と言われるのではなく、「私と一緒に歩きなさい」と言って下さるのです。

雪国の生活や冬山登山を経験したことのある人なら分かるでしょうが、雪の積もったところでは、人は必ず「誰かが歩いた跡」を行くものです。誰かが歩けばそこは固められて自然に道が出来ます。誰も踏み入れていない深い雪の中にわざわざ入る人はいません。前を歩いた人のおかげで、後を行く人は楽に歩けるのです。

主イエス・キリストが「私について来なさい」と言われた時、私たちは、「主イエス・キリストが開いて下さった道を行く恵み」を知ることか出来るのです。キリストによって間違いなく神の国へ到達する道が用意されているのであり、私たちが歩きやすいように、主イエスが踏み固めて下さったのです。

主イエス・キリストが御自分の生命を犠牲にして与えて下さった永遠の生命は、キリストに従う者全てに与えられるのです。そして用意された永遠の生命は、この世の如何なるものにも勝って素晴しいものなのです。

36節では「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」とあります。「永遠の生命」を「全世界」と比較して「なお余りある」と語られています。神の独り子の生命と引き換えに与えられる賜物なのです。

私たちは多くのものに心を奪われています。数知れない誘惑が私たちの欲望を刺激します。あたかも「人生の全てを費やしても悔いがない」と思わせるようなものが、次々に私たちの前に姿を現します。その時こそ、しっかりと信仰の眼を開いて、その価値の違いを見定めなければなりません。先程ご一緒に読んだ旧約聖書で、エサウは、たった一杯の豆の煮物と神の祝福とを交換したのです。あのエサウの過ちを、私たちは如何に多く繰り返しているでしょうか。

しかし、神の独り子主イエスがが、御自身の生命をも惜しまないで与えて下さった恵みが、私たちに何ものにも代え難い豊かな喜びの人生を用意しているのです。

パウロは新約聖書273ページ、ローマの信徒への手紙 1章16節で「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」と記しています。

このパウロと共に、同じ告白をする者は、神の裁きから赦されることが、38節で保証されているのです。38節には、「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使と共に来るときに、その者を恥じる。」とあります。

これは、いったい誰が神から受け入れられるかという問題提起ではありません。神は、主イエスの言葉を恥じない私たちを必ず受け入れて下さると告げられているのです。これが決定的な赦し、主なる神の救いの保証です。

栄光に満たされた神の国は、主イエスに呼び集められ、御言葉に従う群衆のために用意されています。

永遠なる神の国での栄光を求め、主イエス・キリストが用意して下さった道を真直ぐ辿る群衆でありましょう。

お祈りを致します。