キリストと共に

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌10番
讃美歌270番
讃美歌354番

《聖書箇所》

旧約聖書:サムエル記 上 9章9節 (旧約聖書440ページ)

9:9 昔、イスラエルでは神託を求めに行くとき、先見者のところへ行くと言った。今日の預言者を昔は先見者と呼んでいた。

新約聖書:マルコによる福音書 6章6b-13節 (新約聖書71ページ)

6:6 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

《説教》『キリストと共に』

私たち教会に集う者は全て、「主の御心を受け」て、「全員が福音の宣教者として神様の招きを受けている」のです。
「救われた喜び」を、私たち一人ひとりが言葉で語り、生きる姿で表す、これこそが更に多くの人々の心を開かせるのです。父なる神が、人間の救いを御自身の直接的な御業によらず、「教会に委ねた」と言われる時、選ばれた誇りと共に背負う責任の重みを、ひしひしと感じます。それこそがキリスト者の生き甲斐です。本日の礼拝では、与えられたキリスト者の使命の重みと共に、如何に意義ある人生が用意されているかを、お話ししたいと思います。
6節から9節に、「それから、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。」とあります。
ここで呼び寄せられた十二人とは、言うまでもなく、主御自身が選び出されたペトロ以下の十二人のことです。少し前の3章14節で、彼らは「使徒」と名付けられました。
「使徒」ギリシャ語で「アポストロス」という言葉は「遣わされた者」という意味ですが、基本的には「使命を与えられて遣わされた者」ということです。務め・使命を与えられた「神様の意志」が最も大切なことは言うまでもありません。ですから、「使徒」という言葉は、常に「遣わされる」という受け身で理解されなければならないのです。
それに対し、通常用いられる「弟子:マセーテース」という言葉は、「教えを受ける者」という意味であり、十二人だけではなく、使徒言行録によれば、後にキリスト者全てが「弟子」と呼ばれています。
何故、このようなことを初めに述べるのかというのは、十二人が「使徒であった」から遣わされたのではなく、遣わされたことによって、「使徒になった」ということが大切だからです。
キリストに従う者は、ひとつの固定した身分や地位で生きているのではなく、「そこで何が命じられているか」ということを考え続けていかなければなりません。そして私たちが、そのキリストの御言葉に対してどのような応答をするかによって、私たちの呼び名もまた決定されるのです。十二人は「遣わされた者」として相応しく行動したため、「遣わされた者」即ち「使徒と呼ばれた者」と表現されているのです。
初代教会の信徒たちは、何事においても「キリストを第一」にするので、「キリストに従う者」(クリスティアノス)と呼ばれるようになり、それが「クリスチャン」という言葉になったということはよく知られている通りです。つまり、クリスチャンとは、自分たちが付けた名称ではなく、日々の生活があまりにも独特だったために、周囲の人から付けられた「あだ名」でした。
私たちが「何をなすべきか」を考えることは、自分自身のキリストの御前における姿を決定することなのです。自分に出来ること、自分がしたいこと、それらを考えるのではなく、主イエス・キリストが「私をどのような使命に用いられるのか」、それを聞き取ることが大切なのです。
では、主イエスは、遣わされて行く者にどのような使命を与えられたのでしょうか。
先ず第一に、7節に「二人ずつ組にした」と記されています。伝道は孤独な作業ではなく、常に、祈る友を持たなければなりません。そして祈りも、信仰の仲間の支えなしには出来るものではなく、御言葉を宣べ伝える中でこそ、キリストを主と信じる者の交わりが確認されるのです。
更に、申命記19章やルカ7章にあるようにイスラエルでは昔から証人は二人以上と定められています(申19:15、ルカ7:18)。伝道者とは御言葉の証人であり、決して個人的な作業ではなく、神に代わって御言葉を語り、神の代理者として人々の応答を聞かなければならないのです。このことは、7節の「汚れた霊に対する権能を授けた」ということからも明らかでしょう。これはキリストが持っておられる権威を代行することを示しています。遣わされた者は、遣わした方の権威を代行する者なのです。
伝道者は、自分が救われた個人的体験を語るだけであってはなりません、自分の救われた喜びを伝えるだけであってもなりません。キリストに代わって、「神の赦しの福音」を語らなければならないのです。
更に8節に「何も持つな」とも言われました。
こんなことを言った人がいました。「貧しい姿をしてこそ、貧しい者は耳を傾ける」。確かにそれは人間の心理です。しかしこのような場合、しばしば「持つな」という言葉は「持っている」ことを前提にしているのです。持っているものを隠す意図があるのです。しかし、心理的効果を高めるために、「わざわざ貧しい姿をせよ」と主イエスが命じられたとは思えません。御言葉の意図するところは、「ことさらに貧しい身なりをして語れ」ということではなく、「この世を見詰められる主の御心」を見なければなりません。仕えられるためではなく仕えるために来られた主イエスの低さと同じようにならなければなりません。
主イエスは弟子たちが宣教することが、ただ主なる神にのみに依存しているということのしるしとして、軽装で旅に出るように彼らに命じられたのです。それは、彼らが唯一の頼みとするものは、主イエスから受けた権威だけだからでした。弟子たちは村に入ったときに提供されるもてなしは何でも受けること、そして、よりよい便宜を計ろうとする者を探しに行ってはならないことを、主イエスは彼らに命じたのです。それは、与えられた仕事の達成に彼らの精神と力とを集中し続けることができるようになるための訓練でした。
私たちは、「伝道に出る」ということを「汚れた世界へ福音を伝えに行く」と考えがちです。しかし、主イエスの見方は正反対です。キリストの眼には、もともと汚れている場所はひとつもありません。主イエスの眼差しの下では全ての土地は聖なるものでした。何故なら、全ての人は神様に愛されており、主イエス・キリストは愛されている全ての人々を救うために来られたからです。ヨハネによる福音書3章16節には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と記されています。御言葉が語られる場所は、すべて「聖なる場所」なのです。主なる神様がそこにおられる場所です。そしてこのことに気付く時、11節の、「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」と言われる御言葉の厳しさが初めて理解出来るのです。
それは交わりの正式な否認でしたが、同時に、弟子たちを受け入れない村に対して、その拒絶によって彼らが招く危険について警告を与えるものでした。御言葉を拒否する者の地こそが汚れた者の地であり、「神に創造された聖なる地が、神に背を向ける新しい異邦人の土地になった」ということの告知でした。ここにおいて、ヨハネによる福音書3章18節に記されている、「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」。この御言葉が現実になるのです。
救いの地、顧みの地からの脱落、この恐るべきことが、「遣わされた者の言葉」によって初めて起こるのです。このように読んで来ると、御言葉の証人として使わされる者の使命は大変重要であると言えるでしょう。「二人一組」と表現されている証人の使命は、救いを拒否し、滅びの世界に留まろうとする人間自身への裁きの証人となることです。そしてまた、御言葉を受け入れる人間の救いを保証する証人になることでもあるのです。
誰がこの伝道の使命を果たすことが出来るでしょうか。誰がこの使命に相応しいと自認することが出来るでしょうか。しかし、選ばれた十二人は出て行きました。12節から13節には、「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」とあります。
彼らは、自分たちが「その業に相応しい」と考えたからではなく、また、「出来る自信があった」からでもなく、ただ、キリストが「行け」と言われたから行ったのです。そしてそこで、キリストの権威を代行することが出来ました。
私たちもまた、伝道する時には、先ず、主の御言葉を聴くことから始めなければなりません。「私に何が出来るのか」ということではなく、「自分の思いを虚しくして主の御言葉を聴いているか」ということが必要なのです。
そして今、「主よ、語りたまえ。しもべは聞いております」と祈ったサムエルと同じように御前にひれ伏すならば、その時、私たちを召し、「お前を遣わそう」という御言葉を聞くことが出来るのです。
主イエス・キリストが復活されて、今も生きてここにおられるからこそ、私たちは、主イエスの成し遂げられた救いを信じることができます。私たちが生きているこの世の現実には、苦しみや悲しみが満ちています。また肉体をもってこの世を生きる私たちの歩みは、病や老い、そして最終的には死の力によって常に脅かされています。それらのことによって苦しみ、悲しみ、恐れを覚えずにいられないのが私たちの現実なのです。その私たちの救いのために、神様の独り子である主イエス・キリストがこの世に来て下さいました。主イエスは私たちの全ての罪と、苦しみ悲しみの全てを背負って十字架にかかって死んで下さいました。そして、父なる神様は主イエスを復活させて下さったのです。主イエスをも捉えた死の力を打ち破り、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さったことで、私たちにも、同じ復活と永遠の命を与えることを約束して下さったのです。主イエスの復活によってこそこれらの救いが与えられています。しかしこれらのことにも増して大事なのは、復活なさった主イエスが今も生きておられる方として私たちと出会って下さり、語りかけて下さり、そして私たちを召して、伝道へと派遣して下さるということです。
私たちは伝道に派遣されるのです。この礼拝の最後でも、その伝道への派遣を祈る祝祷がなされます。私たちにとって、その伝道への派遣とは、どういうことでしょうか。
それは、聖書を開いてキリスト教を人に伝えることでも、世の為、人の為に一生懸命社会奉仕することでもありません。勿論奉仕も大切ですが、それは結果としてなされるものです。
伝道の第一歩はマルタとマリアで例えられたマリアになることから始まるのです。主イエスのみ言葉を足もとで聞き、それに聞き従うのです。そして、その結果主イエス・キリストの十字架の救いの御業を頂き、自分自身が悔改めて変えられていくのです。
その救いによって変えられた結果は私たちの生活から直ぐに人の目に見えるように出て来ないかもしれませんが、確実に私たちの生き方を変えて行くでしょう。それは、救いの喜びに満たされ、救いの喜びの溢れ出す生き方です。
そして周りの誰もが、そんなあなたを見て、その喜びを少しでも自分に欲しいと思うんではないでしょうか。それが私たちの伝道です。
お祈りを致しましょう。

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つまずき

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌122番
讃美歌448番
讃美歌502番

《聖書箇所》

旧約聖書:申命記 18章15節 (旧約聖書309ページ)

18:15 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。

新約聖書:マルコによる福音書 6章1-6節a (新約聖書71ページ)

6:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。

《説教》『つまずき』

先週のマルコによる福音書5章36節で、主イエスは「恐れることはない、ただ信じなさい」とおっしゃいました。会堂長ヤイロはそのみ言葉を聞いて、主イエスと共に歩き続けたのです。いやむしろ、主イエスが歩き続けるので、よろめきながらその後について行ったというべきでしょう。主イエスの後について行くことは信仰を持って生きることを象徴しています。信仰に生きるとは、確信を持って堂々と力強く生きるということばかりではないのです。恐れを抱きつつ、絶望をかかえつつ、しかし主イエスが「恐れることはない、ただ信じなさい」と言って先頭に立って歩いていかれる、その主イエスに引きずられるようによたよたとついていく、信仰を持って生きるとはそういうことでもあるのです。むしろ私たちにおいてはそういうことの方が多いのではないでしょうか。

本日からの6章には、主イエスがご自分の故郷にお帰りになり、安息日に会堂で教え始められたこと、しかし故郷の人々は主イエスの教えを受け入れず、つまずいたことが語られています。最後のところに「人々の不信仰に驚かれた」とあります。主イエスの故郷の人々は、主イエスが驚くほどの不信仰に陥ったのです。

主イエスが公生涯に入られるまでナザレで暮らしておられたことはよく知られていますが、そこでの生活については聖書には殆ど記されていません。ナザレでの主イエスの姿を記すのは、マルコ福音書ではここだけですが、弟子たちもいない伝道の最初の時期、ルカ福音書によれば、初めてナザレで説教した時、町の人々は憤慨し「イエスを崖から突き落とそうとした」(ルカ4:28-29)とさえ記されています。ナザレは主イエスにとって、決して「心温まる故郷」ではありませんでした。

今日はそのナザレに、ペトロたちを連れて帰って来た話です。自分を崖から突き落とそうとした人々、気狂い扱いにした人々、自分を追い出した人々、その人々に神の御言葉を語るために、主イエスは故郷のナザレに再び来られたのです。

ナザレの人々はどうであったでしょうか。主イエスをお迎えするために用意して待っている町ではありませんでしたし、会堂に集まった人々も、主イエスの説教を聞きたくて来たわけでもありませんでした。

律法に忠実なユダヤ人は、安息日に会堂以外の場所へ行くのを禁じられており、必ず、全員集まるのが原則でした。また、会堂の集会は、説教者が決まっているわけではなく、管理者である会堂長、先週登場したヤイロも会堂長でしたが、会堂長がその都度申し出た人を説教者として奉仕することを許可していました。そのため、誰が説教者であるかは、集会が始まるまで分からないこともあったと言われています。

ですから、この日、町の人々は、「思いもかけない場所でイエスの説教を聞くことになった」のです。

2節から3節に、「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた。」とあります。

これが主イエスの御言葉に接したナザレの人々の反応でした。町の人々は「驚いた」と記されています。何に驚いたのでしょうか。あまりにも素晴しい説教に驚いたのでしょうか。それとも、自分たちに対して示された神の恵みの大きさに驚いたのでしょうか。

「驚いた」と訳されている言葉は、普通に用いられる「驚く」「びっくりする」という程度の言葉ではなく、「雷に打たれたような驚き」に用いられるものであり、大変な驚きを意味します。ここを岩波訳聖書では、「仰天した」と訳しています。彼らは何を感じたのでしょうか。

また、2節から3節にかけて三回も用いられている「この人」という言葉は、多少、軽蔑の響きのある言葉です。岩波訳聖書では「こいつ」と訳しています。下品な訳かもしれませんが、こちらの方が正確と思われます。

さらに、「どこから得たのだろう」とあるのは、意味から言えば、「どこから仕入れて来たのか」ということであり、決して、「何時の間にこんなに勉強したのか」というような「褒め言葉」ではありません。はっきり言えば、「こいつは、何処からこんな知恵を仕入れて来たのかと言って驚いた」ということであり、感心したのではなく、それどころか、「とんでもないことだ」という非難を込めた驚きでした。

ここで、主イエスが何を語られたのかは、記されていませんが、容易に想像することが出来ます。旧約聖書以来の預言の成就を語り、「神が定められた『時』、『救いの時』がやって来た」ということを告げたのです。

その福音の御言葉を聴きながら、人々は何故このような反応を示したのでしょうか。

「この人は大工ではないか」。これが彼らの呟きでした。ナザレの家はみな土や石で造られており、日本のように木材の豊富な土地ではありませんので、家を作る大工という職業はなく、家具や道具を作る職人であったと考えられます。しかしながら、間違っていけないのは、「職人であった」ということがこの時の人々の軽蔑の原因ではないということです。律法は全ての人に手に職を持って働くことを勧めています。ですから、当時の律法学者の多くは職業を持ち、働いていました。これは天幕造りという職を持っていたパウロの例からも明らかでしょう。主イエスの大工という仕事も認められることはあっても軽蔑される仕事ではありません。ここでは、職業云々ではなく、家族の名前が挙げられていることから、「それほどよく知っていた」ということであり、ナザレの人々は、主イエスのことも家族のこともよく知っていました。「私たちはみな、同じ仲間ではないか」と言っているのです。

私たちは、ここを読み、「身近な人は小さな欠点まで知っているので、まともに話を聞こうとしなかった」と理解しようとするでしょうが、それは完全な思い違いです。確かに、私たちにもそのような経験があります。

たとえば、私たちにとって、一番難しいのは家庭伝道ではないでしょうか。家族には日常生活の全てが知られています。朝寝坊はする、忘れ物は多く、そそっかしくて失敗ばかりし、ちょいちょい喧嘩もして破れ多い姿をさらしています。何を言っても、「偉そうなことを言う前に、生活態度を変えて欲しい」と言われ、そこで悔し紛れに、「預言者、故郷に容れられず」などと、いい加減なことを言うのがオチです。

私たちは、このような失敗を何度も繰り返していますが、それを主イエスに当てはめられるのでしょうか。

神の御子は、たとえ人となられても、私たちと同じ「人間としての弱さをさらけ出して生きた」と考えるのは大間違いです。視点を完全に変えなければなりません。むしろ、ナザレの人々に主イエスの生活態度を積極的に批判し得る者は「一人もいなかった」と考えるべきです。

彼らの驚きの理由はただひとつ、3節に記されているように、「我々と一緒に住んでいるではないか」ということ、即ち、「私たちと同じ町の人間ではないか」ということであり、「よく知っている仲間だ」ということです。そして問題は、まさにここにあるのです。

「同じ仲間」なら、何故いけないのでしょう。「同じ町の者」ということが、何故彼らにとって躓きになったのでしょうか。「躓いた」とは、動物が罠にかかるという意味の言葉に基づくものであり、この場合、人を神から遠ざける「障害物になった」という意味です。「何が」人を神から遠ざける障害になったのでしょうか。

彼らは、決してまともに聞かなかったり、初めから馬鹿にしていたのではありません。町の人々は、主イエスの説教から、明らかに自分たちとは違うもの、異質なものを感じ取っていたに違いありません。ですから、「授かった知恵」とか「奇跡」ということがここに語られているのです。今、彼らは「知恵」とか「奇跡」と表現できる「何か」に出会っているのです。人間の知恵、人間の力、社会での常識、それらを超える「何か」を感じたことは確かであり、これはまさに、衝撃的瞬間であった筈です。

かつて、ガリラヤ湖のほとりで漁師をしていたペトロは、一晩中漁をしても魚が獲れずがっかりしていた時に、主イエスの指示に従って網を入れたところ、舟が沈みそうになるほど沢山の魚が獲れ、御前にひれ伏しました。その時のペトロの言葉は「私は罪深い者です」という告白でした。これは、自分を遥かに超える方と出会ったとの自覚でした。「私は何と小さな者か」「私は何と愚かな者か」という自己認識は、常に、自分を超える方との出会いにおいて起こるのです。ガリラヤ湖で起こったことも、ナザレの会堂で起こったことも、同じものであった筈です。

しかしナザレの会堂では、その驚きが逆の方向に進んでしまいました。確かに、主イエスの説教は神の御心を説き明かす福音の宣言でした。人々のこれまでの生き方に対して、全く異質なことが語られていました。彼らはそれをはっきりと聴き取ったのです。ですから、表面的な知恵や、単純な奇跡そのものを問題にしているのではありません。

彼らは、主イエスと出会い、あのペトロが仰ぎ見た主イエスを、「不快に感じた」のです。ここが最大の問題点です。主イエスが語られた福音を、自分たちが仰ぎ見て、そこへ向う「高み」として受け止めたのではありませんでした。あまりにも異質なものに対する憤りであったとさえ言うことが出来るでしょう。

誰もが進歩を求め向上することを願います。より良いものへと変わって行くことを願います。しかしながら、その向上心は共通であっても、進歩に遅れてしまった者は、「自分も共にそこへ行こう」と考えるより、自分より進んでいる者を引き降ろすことに熱心になるのです。

私たちの心の中には、自分を超える者への恐れと不安が何時もあるのです。そしてその不安が、自分の現在の立場を守るために「新しいものへ進む」ことを拒むのです。ある人はそれを弱者の防禦本能と呼び、ある人はそれを「罪がもたらす人間の惨めさそのもの」と言っています。

主イエスの御言葉を聞いたナザレの人々が、他の町の人々と比べて特別に信仰が弱かったということではありません。むしろ、同じ時代の全ての人々のように、救いの実現を望んでいたことでしょう。ただその宣言が、自分たちと「同じ仲間」によってもたらされたことに我慢できなかったのです。

主イエスを「自分たちと同じ仲間」として見た時に働く、「自分たちと同じ立場に留まらせよう」とする意識が、そこにあるのです。主イエスが、御自分を「神の子キリスト」とお示しになった時、人々は、主イエスに「ナザレの大工」として留まることを要求しているのです。

もちろん、主イエスも、ナザレの人々を「御自分と同じ仲間」として見ていました。ただその見方がまったく違いました。

主イエスは、「みんな同じ仲間だから、父なる神のところに一緒に行こう」と語っておられるのに、ナザレの人々は、「お前は私たちの仲間だから、私たちのところに留まっていればよい。そんな偉そうなことを言うな」と嘲笑ったのです。

6節で主イエスは「人々の不信仰に驚かれた。」とあります。

不信仰とは、神の御言葉を自分の世界、自分のレベルへ引き下げてしまうことです。自分が御言葉によって変わるのではなく、御言葉を自分たちと同じレベルに引き下げ、自分たちの生活に合わせて「変えてしまおうとすること」、それが不信仰というものの本質です。

5節にある主イエスの「何も奇跡を行うことが出来なかった」とは、力を発揮出来なかったというのではなく、信仰なき者に対する主イエスの拒否です。自分から恩寵に心を開こうとしない者に対する裁きです。

キリストが私たちにかけてくださる「あなたがたは私の家族なのだ」と言う御言葉こそ、私たちが聞く新しい希望です。「私と同じだ」というのは、主イエス御自身が十字架の苦しみと復活を通して、初めて私たちに与えられた信仰の恵みです。私たちが気付かぬ間に、罪に支配されてしまうこの世界を、神の家に変え、「神の家族」を取り戻そうとする主イエス・キリストの御心を想わなければなりません。

「あなたがたは私の家族なのだ」。背を向ける人々にさえ、このように語り続けられる主イエスの御心を感謝して受け止める時、私たちは自分一人の思いから抜け出して、自分の大切に思う人、愛する人を主イエスと共に歩む「神の国」への道、「救い」へと誘えるのです。

お祈りを致しましょう。

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恐れるな、ただ信ぜよ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌12番
讃美歌257番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:列王記 上 17章21-22節 (旧約聖書562ページ)

17:21 彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」
17:22 主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。

新約聖書:マルコによる福音書 5章35-43節 (新約聖書70ページ)

5:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
5:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
5:37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
5:38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
5:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
5:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
5:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
5:43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

《説教》『恐れるな、ただ信ぜよ』

主イエス・キリストの御前には、さまざまな人々が集まって来ます。真剣に御言葉を求めている人もいれば、単なる野次馬に過ぎない人もいました。ある者は喜んで御言葉に耳を傾け、ある者は御言葉を共に聞きながら、何もなかったかのように立ち去って行きました。福音書の時代から現代の教会に至るまで、どれ程多くの人々が集まり、また去って行ったことでしょう。数々の期待と失望が主イエスの前に立つ人間の心の中に生まれ、今の私たちに至るまでそれが続いています。本日の物語も、そのように期待と失望という対照的な人々の姿を語っています。

35節に、「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。』」とあります。

この「まだ話しておられるときに」とは、先週お話しした十二年間の長きに亘る出血の病を癒された女性が「まだそこにいた」ということです。

彼女には救われた喜びが溢れていました。キリストに見詰められて、キリストの眼差しを全身で受け止めて応えた喜びがありました。「病気が治った」ということだけではなく、主イエス・キリストとの交わりを確認し、「私は見放されてはいなかった」「主は私を御存知であった」ということを教えられて生きる喜びが、この女性の心を満たしていたことでしょう。しかしながら、この女性が感謝の眼差しで主イエスを仰いでいるまさにその時、彼女とは正反対に、絶望的な知らせを受け取った人物もいたのです。主イエスと共にここまでやって来たカファルナウムの会堂長ヤイロでした。

彼は自分の娘を救いたい一心で主イエスのもとに来ました。そのために、自分の誇りも、世間体も、これからの生活も、一切を投げ捨て、主イエスの御前にひれ伏しました。もはやナザレのイエス以外に望みはないと思ったからです。

そこまで追い込まれて来た会堂長ヤイロは、今まさに、救われた喜びに満たされている女性の前で、愛する娘の死を知らされました。

これまでの長い生涯の中で築き上げて来た社会的地位を全て投げ捨てても助けたかった大切な愛する娘を、失ってしまったのです。ヤイロは、「長血を患っていた女性」よりも更に熱心に主イエスを求めながら、ただ「悲しみしか与えられなかった」と思ったことでしょう。

35節の「お嬢さんは亡くなりました」という知らせは、ヤイロにとって決定的と思えるものでした。「先生を煩わすには及ばないでしょう」。主イエスをもってしても「何の役にも立たない」ということです。

私たちも、苦しみの中で幾度この声を聞いたことでしょう。「イエス様に祈ってもどうにもならないのではないのか」「キリストに祈って、いったい何が変わるのだろうか」「所詮、自分ひとりで苦しみに耐えなければならないのだ」。

「絶望は罪である」と言った人がいます。「絶望」とは「望みを絶つこと」であり、希望の源である救い主キリストを、自分の心から追い出してしまうことになるからです。「キリストなしで生きて行こう」という決意こそ、サタンが最も喜ぶことなのです。ですから、娘の死を伝え、「主イエスは無用になった」という報告を主イエスが「そばで聞いていた」と記されていますが、これはむしろ「聞き流す」というくらいの意味で理解すべきです。「先生を煩わすには及ばないでしょう」という人々の声を、主イエスはあえて「無視した」ということです。主イエスの御業は、「キリストなしで生きていこう」というサタンのささやきを覆すものであることを、改めてここに示しているのです。

主イエスは36節で「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。私たちは、常にふたつの言葉を聞いています。現実のさまざまな惑いの中で、「もうキリストに祈っても無駄だ」という声と、「恐れることはない。ただ信じなさい」というふたつの声です。そのどちらかに従うかで、私たちの運命が決まってしまうのです。

しかしながら、私たちに最も重要なことは何でしょうか。私たちが見極めなければならない現実とは何でしょうか。

確かに、私たちの前には苦難や悲しみがあります。それを無視することは出来ません。しかしそれと共に、その試練に直面している私たちの傍らに、主イエス・キリストが居られるということも、また確かなのです。

私たちは、「キリストが共に、その試練に出会っていて下さっているのだ」ということを忘れてはなりません。私たちがキリストを忘れるところにサタンのつけ入る隙があると言わなければならないのです。

「恐れることはない」という御言葉は、単なる言葉の上での慰めではなく、神の御子が、悲しむヤイロの傍らにおられることを、御自身が明らかにしておられるのです。

「私はここにいるのだ。しっかりしなさい」。主イエスは、今もこのように私たちに呼びかけておられるのです。

38節から40節に、「一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。『なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。』人々はイエスをあざ笑った。」とあります。これが人間の悲しい姿です。「キリストは必要ない」と言った人々の姿がここにあります。

「人々は大声で泣きわめいて騒いでいた」。これは何の涙であったのでしょう。女の子の死を悲しんでいたのでしょうか。当然、そうであったでしょう。愛する者の死に出会って泣かない者はいません。しかし、そこにある悲しみは何を表しているのでしょうか。死は別離です。しかし、もしそれが「愛する者との別れの悲しみ」であるならば、その涙の中には「再会の希望」が込められている筈です。

遠くへ旅立つ人を見送る時、「いつかまた会えるであろう」という微かな期待が別れの寂しさを和らげてくれます。

ですから、死者との別れの悲しみが大きければ大きいほど、「再会の願いも大きい筈だ」と言えます。ヤイロの家に集まっていた人々の心に、どれ程、この祈りが込められていたでしょう。

それにも拘らず、「子供は死んだのではない」とイエスが言われた時、人々は「あざ笑った」のです。「馬鹿なことを言う」と否定しました。

私たちは、愛する者を失った時、その死を、簡単には受け入れられないものです。「もう駄目だ」と言われても、最後の最後まで、「もしかすると」という期待を捨てきれないものです。「なんとか甦って欲しい」と願います。

まして、ヤイロの娘は、今、息を引き取ったばかりです。「まだ大丈夫」という主イエスの言葉を聞いた時、喜ぶのが当然ではないでしょうか。「出来るなら、早速甦らせていただきたい」とお願いするのが普通でしょう。

しかし、彼らは「あざ笑った」のです。主イエスを拒否する人間は、僅かな希望すら見失っているということが、ここにも見られます。神に祈り求めることを知らない人間の悲しみは、もはや決して「喜びに変わることのない悲しみ」なのです。

主イエス・キリストは、悲しみを悲しみで終わらせず、喜びに変えて下さるのです。それが「キリストと共に生きる人間の現実」なのです。

41節から42節には、「子供の手を取って、『タリタ・クム』と言われた。これは『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である。少女はすぐに起き上がって歩き出した。」とあります。

主イエスの言葉が悲しみを打ち破りました。「タリタ・クム」。これは主イエスが日常話していたアラム語です。特別な呪文ではなく、普段の調子で「静かに話しかけた」ことを示しています。「娘よ起きなさい」。それだけで十分だったのです。ヤイロがどれ程の喜びを驚きと共に味わったかは言うまでもないでしょう。

ヤイロの娘は確かに甦りました。それは確かです。しかしそれと共に、「再び死ぬ運命にある」ということを忘れてはなりません。如何にこれから健康に恵まれたとしても、やがて父と母を見送り、自分もまた必ず世を去るのです。別離を悲しむ叫びが再びそこで繰り返されるでしょう。この世の時を生きる限り、それは変わることのない事実です。

ですから、ヤイロの娘の甦りの奇跡は、ひとつの悲しみを解消することは出来ても、全ての人間が出会う死の悲しみの本質的解決ではありません。私たちの信仰の眼は、ヤイロの娘の甦りの中に「一人の少女の奇跡的生き返り」を見るだけではなく、今ここに、「現実に死者を甦らせる力を持つ方が居られる」ということへ注がれなければなりません。死に打ち勝ち、死の力を滅ぼす方が居られることをここに見るのです

大事なことは、主イエス・キリストによって「新しい命」が、一人の少女に、そしてその家族に与えられ、家族が新しく生き始めることができた、という恵みの出来事として捉えることです。マルコはそういう出来事としてこれを描いているのです。

そしてこの少女の甦りと織り合わされて、もう一人の女性の癒しがここには語られていました。十二年間出血の止まらない病気で苦しんでいた女性の癒しです。彼女も、主イエス・キリストの恵みによって病を癒され、新しく生き始めることができたのです。

ここで、この「ヤイロの娘」と「長血の女」の二つの物語が、どこで織合わさっているかが見えて来たのではないでしょうか。「長血の女の喜び」と対照的であった「ヤイロの悲しみ」は、この喜びに連なっていたのです。私たちは、ここでも「主イエスは求める者を決して悲しみのままで去らせることはない」という聖書のメッセージに出会うのです。

先々週以来申しましたように、この二つの物語は密接に結びついており、両方合わせて一つのことを語っているのです。その一つのこととは、主イエス・キリストによって新しく生かされる恵みであり、喜びなのです。

私たちにも、主イエス・キリストの復活の命が与えられ、新しく生き始めました。これが洗礼です。主イエス・キリストによって新しく生かされている恵みです。主イエス・キリストの新しい命に生かされる喜びの日々を覚えつつ、感謝の祈りを捧げ、新しい日々をしっかりと歩みましょう。

お祈りを致します。

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信仰による救い

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌142番
讃美歌365番

《聖書箇所》

旧約聖書:エレミヤ書 30章15節 (旧約聖書1,233ページ)

30:15 なぜ傷口を見て叫ぶのか。お前の痛みはいやされない。お前の悪が甚だしく/罪がおびただしいので/わたしがお前にこうしたのだ。

新約聖書:マルコによる福音書 5章25-34節 (新約聖書70ページ)

5:25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
5:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
5:27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
5:28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
5:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
5:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
5:31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
5:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

《説教》『信仰による救い』

先々週4月18日には、会堂長ヤイロの娘が危篤になり、命を助けて欲しいと主イエスの前に、ヤイロがひれ伏したお話しをしました。

今日は、この少女の話しと前後して、もう一人の女性の癒しがここに語られています。十二年間出血の止まらない病気で苦しんでいた女性の癒しです。彼女も、主イエス・キリストの恵みによって病を癒され、新しく生き始めることができたのです。先々週申しましたように、この二つの出来事は密接に結び合っており、両方合わせて一つのことを語っているのです。その一つのこととは、主イエス・キリストによって「新しく生かされる恵み」です。

さてこの女性は25節に初めて登場するのですが、彼女に関する話は24節の後半から始まっています。24節で主イエスは、娘が死にそうだから、来て、癒して下さいというヤイロの願いを聞いて出かけました。そこに「大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た」とあります。その大勢の群衆の中に一人の女性がいました。彼女は、十二年間出血の止まらない病気に苦しんでいました。26節に「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」とあります。ここには、彼女がこれまで体験してきた様々な苦しみが凝縮されています。病気で全財産を使い果たし、それでも病気はますます悪くなるばかりだったのです。主イエスが34節で彼女に「娘よ」と呼びかけておられることから彼女はまだそれほど年をとってはいなかったと思われます。十二年間というのは、彼女が大人の女性の体になり、生理が始まってから十二年間ということだと考えられます。その出血が止まらないのです。そのために彼女は結婚もできずに家庭を持つというささやかな幸せも得ることができず、しかも全財産を使い果たして貧しさの中にいるのです。さらに彼女のこの病気は、当時のユダヤ人社会においては、宗教的な「汚れ」として忌み嫌われるものでした。旧約聖書レビ記15章19節以下には、生理期間中の女性は汚れているとされています。その間は、彼女に触れた人も、また使った寝床や腰掛けもすべて汚れてしまうとされていました。ですから出血のある間、女性は殆ど人との交わりを持つことができませんでした。そういう状態が十二年間ずっと続いてきたのです。そしてそれは人との交わりが持てないというだけでなく、汚れた者として神様のみ前に出ることができない、礼拝を守ることができない、ということでした。ユダヤ人にとって、主なる神を礼拝する群れに連なることが、神の民の一員である印であり、喜びでした。彼女はその喜びをも奪われ、神の民の群れから疎外されてしまっていたのです。自分は神様から愛されていない、神様は自分のことなど顧みては下さらないのだ、という絶望が彼女を捕えていました。

更に加えて、ユダヤ人特有の深刻な問題もありました。律法によれば、病気は神の怒りの表れと受け止められ、十二年という異常な長さは、神の裁きの厳しさと受け取られ、「あの人は何か神に呪われるようなことをしたに違いない」と見做されたでしょう。同情どころではなく、病気を理由に周囲の人々から忌み嫌われていたでしょう。また、レビ記15章によれば、「長い間の出血」は「穢れ」と規定され、「神の御前に出ることは許されない」とされ、祭司によって「浄め」を受けなければなりませんでした。この女性は、肉体的、経済的、精神的苦痛を味わったのみならず、信仰的にも「見捨てられた者」として、この時までを過ごして来たのです。

この十二年間は、一日一日が、新たな絶望との出会いでした。「明日は今日より、少しは良くなるであろう」。これが普通の人間の期待です。どんなに苦しくとも、なお「良くなる明日」を信じて行くのが普通ですが、その「明日」が期待できないならば、どう生きて行けばよいのでしょう。

生きる希望を日一日と失って行く人々は数多くいます。周囲の人々の冷たい眼差しに脅え、唯一助けを求めることの出来る筈の神さえも答えてくれない寂しさを味わう人々。多くの苦しみの中で、神に救いを求める者の代表として、この女性を見ることが出来ます。彼女は、果てしない苦しみの連続で、完全な絶望に陥っていました。長く続いた苦しみの後に、何を期待出来るのでしょうか。絶望とは、「望みを絶つ」と書くのです。その「断たれた望み」のなかに主がやって来られ、新しい変化は、そこから起こるのです。

27節と28節には、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである」とあります。

これは当時の女性としては、大変思い切った行動です。何故なら、先程もお話ししたように、律法によれば、神に呪われ穢れた者は、人々と接触する場所に加わることは許されなかったからです。穢れが移るからです。接触することによって穢れることを恐れ、人々は忌み嫌いました。

穢れた者は人前に出られないといった肩身の狭い思いをして長い間生きて来たのがこの女性でした。その女性が、今、群衆の中に出て来たのです。

ここに、この女性の大きな決断を見ることが出来ます。彼女は、全てをこの行動にかけたのです。人々に何と言われようと、どのような眼で見られようと、恥ずかしさと惨めさとあらゆる劣等感と戦い、主イエスが居られる場に出て来たのです。このことによって、彼女は数々の苦しみの中から、既に「ひとつの苦しみを乗り越えた」とも言えるでしょう。その「一つの苦しみ」とは「絶望」です。

「もう駄目だ」「どうにもならない」という諦めから、「どうにかなるかもしれない」という、最後の勇気を振り絞る姿に変わったのです。そしてこの変化が起きたのは、「イエスが町にやって来られた」という知らせを聞いたからです。絶望からの脱出は、自分の心の持ちようによってではなく、「イエスが来られた」という知らせを聞くことから始まるのです。

しかしながら、未だこの段階では、主イエスと正しく向き合っているとは言えません。何故なら、彼女は正面からキリストに近づくことをせず、病気の癒しという肉体的な苦しみからの解放しか望んでいないからです。

様々な問題に苦しむ者が、今、自分の出会っている問題の解決を望むことは当然のことと言えます。貧しさに苦しむ者は豊かさを求め、受験勉強で苦しむ者は合格することを願い、病気で苦しむ者は健康の回復を祈ります。それは確かに切実な求めです。しかし、ひとつの苦しみからの解放は、その次に控える苦しみに直面することに他なりません。。

この女性のあらゆる苦しみは病気が原因と考えられていました。ですから、「病気さえ治れば・・・」と考えることは自然なことでしょう。しかし、その病気を理由に、苦しみを更に増し加えて来た「社会」は変わりません。苦しみを理解することさえせず、苦しむ人を更に差別によって苦しめる人間社会。傷ついた心を慰め支え合うことをせず、むしろ冷たい裁きの眼によって苦しみを増し加える人間の世界。その世界がなくなることはないのです。

続く29節から32節には、「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。」とあります。

奇跡が起こりました。十二年間苦しんだ病気が主イエスの服の裾に触った瞬間に治りました。しかし私たちは、「この物語の中心はここにはない」ということに気付いているでしょう。

信仰がない人は、何故、病気が治ったのかと驚きます。少し信仰がある人は、34節の「あなたの信仰があなたを救った。」というところを読み、「一生懸命に祈るなら適えられるのか」と思い、「私はやっぱり信仰が足りないのか」と諦めたりするでしょう。この女性に何が起こったのかを聖書を通して考えることが必要です。確かに病気は治りました。誰にも知られないようにしてそっと後ろから近づいたにも拘らず、病気は治り、彼女の苦痛は解決されたかのように見えます。しかし、聖書が本当に語ろうとしていることは、これから後のことなのです。

主イエスは、服に触れた者を見つけようとして、振り返られました。「私の服に触れた者は誰か」と問われました。主イエスは何も分からなかったのでしょうか。何も分からず、キョロキョロと見回しておられたのでしょうか。

そんなことはありません。主イエスには全てを見通す能力があることは、聖書が常に語ることです。十字架につくためにオリーブ山を越える時、これから行く村に「ロバの子がいる」と弟子たちに告げられました。最後の晩餐の場所を準備する男が、「水瓶を背負って町にいる」と指示されたのも主イエスであり、イスカリオテのユダの裏切りも、主イエスは御存知でした。その主イエスが、ご自分の後ろにいる女性に気付かない筈はありません。

何故、主イエスは全てを御存知でありながら、このようなことを尋ね、このような振る舞いをなさったのでしょうか。

32節に「触れた者を見つけようと」と、ありますが、正確に訳すと「触れた者を見つけるために」という意味です。「分からないから見つけようとした」ということでではなく、「御心に背を向けて生きている者を招くために」ということです。あえて表現を変えるならば、「後ろから触れる」という「非人格的な触れ合う」者と、また「癒しの奇跡」だけを自分勝手に求める者との人格的な交わりを持つことを主イエスは求められたのです。主イエス・キリストは全てを御存知でした。分からなかったのは弟子たちだけです。

主イエスはこの女性の苦しみを知り、彼女を憐れみ、病気を癒されました。しかしながら、その女性にとって、このままでは、その癒しは、後ろからそっと触れた「ナザレのイエスの服による奇跡」でしかありません。「御子キリストの御心に触れた喜び」ではなく、「イエスの不思議な服に触れた結果の奇跡」でしかなかったでしょう。

30節にある「力が出て行った」と訳されている箇所は、詳細に訳すと「奇跡が(ご自身から)伝わったことを知って」となります。これは女性に向けられた「御子キリストの愛」として理解しなければなりません。

主イエスが人々に望んでおられる交わりとは、顔と顔とを合わせ、心と心とを響き合わせる人格的な交わりなのです。

主イエス・キリストの御心を思わず、「病気さえ治れば」という自分勝手な願いのみを抱いて来た女性を、主は、今ここで、改めて、御自分の前に召し出されたのです。主イエスの病気の癒しは、彼女が安心して御前に出て来ることが出来るようにするための、「ひとつの方法に過ぎなかった」と言うべきでしょう。本当の救いとは、キリストの招きに応えることなのです。

34節で、主イエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われました。

この女性の何処に「信仰」があったのでしょうか。この女性の何が「信仰」という名にふさわしいのでしょう。主イエスを求め、恥を忍んで出て来たことでしょうか。それもあるでしょう。主イエスに触れれば病気が治ると信じたことでしょうか。そうかもしれません。しかしそれらは、「信仰」と表現するにはあまりにも貧しいと言わざるを得ません。

水曜日の聖書研究祈祷会でご一緒に連続して読んできた創世記3章8節から11節に、「その日、風の吹く頃、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから』。神は言われた。『お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。』」とあります。

今日の話と実によく似ています。「お前は何処にいるのか」「お前は何をしたのか」。主なる神は全てを御存知の上で呼びかけておられるのです。その御心は「赦し」でした。

主なる神は、告白を求めておられるのです。そして、罪の告白に対し、「赦し」をもつて応えるべく待っておられるのです。

それにも拘らず、あの時のアダムとエバは、神の呼びかけに応えようとはしませんでした。御言葉の意味することを考えようともせず、犯した過ちを告白せず、言い訳しかしなかったアダムとエバは、禁断の木の実を食べたから追放されたのではなく、主なる神の呼びかけに応えず、用意された赦しを拒み、その招きを拒否したために、楽園から追放されたのです。

この女性は、「震えながら進み出てひれ伏した」と記されています。そして、全てをありのままに話しました。自分の苦しさ、惨めさ、悲しさ、その全てを語りました。そこからの救いを求めて主イエスの服に触れたこと、それ以外の方法を知らなかったことを話しました。隠れることによってではなく、キリスト・イエスの御前に出て、御顔の前で真実を告白しました。「信仰とはこうなのだ」と、聖書はそこを語っているのです。

34節の「安心して行きなさい」は、正確に訳すと「平安の中を歩みなさい」ということです。もはや不安から解放され、真実の平安、キリストの愛の中を新しく生きる人生が、ここに始まるのです。

主イエス・キリストは私たちの苦しみをご存知です。私たちの苦しみを見過ごしになさる方ではありません。その苦しみを解消し、断たれた望みを回復するために、「あなたは何処にいるのか」と私たちを呼び出されるのです。

「震えながら進み出てひれ伏し、全てをありのままに話した」、この女性の姿こそ、キリストに呼び出された者の姿なのです。この震えは、恐怖から生じる震えではなく、大いなる喜びに直面した「聖なる畏れ」と言うべきでしょう。

主イエス・キリストに呼びかけられたその時、もう苦しみはなくなっているのです。「平安の中を歩みなさい」との主の御言葉が、今、私たちのこの身に実現しているのです。

お祈りを致します。

主よ、手を置いてください

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌166番
讃美歌205番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:ヨブ記 13章4-6節 (旧約聖書857ページ)

13:4 あなたたちは皆、偽りの薬を塗る/役に立たない医者だ。
13:5 どうか黙ってくれ/黙ることがあなたたちの知恵を示す。
13:6 わたしの議論を聞き/この唇の訴えに耳を傾けてくれ。

新約聖書:マルコによる福音書 5章21~24節&25~43節 (新約聖書70ページ)

5:21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
5:22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
5:23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。

《説教》『主よ、手を置いてください』

本日はマルコによる福音書の第5章21節以下をご一緒に読んでいきます。最初の21節に「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると」とあります。先週読んだ5章1節以下で主イエスは弟子たちと共に舟に乗ってガリラヤ湖を渡り、その東南のデカポリス地方、ゲラサ人の地に行かれました。そこで汚れた霊に取りつかれた一人の男を癒されました。そして本日の箇所で再び舟に乗って、もとのガリラヤ地方に戻られたのです。すると今度は二人の女性との出会いが起りました。一人は会堂長の一人でヤイロという人の幼い娘です。もう一人は十二年間出血の止まらない病気で苦しんできた女の人です。この二人とも、主イエスによって、新しい人生を歩み出すことができたのです。しかも本日のヤイロの娘と次回の長血の女の二つの物語は織物の縦糸と横糸が互いに織り込まれるように語られています。本日の21節から24節に、会堂長ヤイロが主イエスのもとに来て、娘が死にそうだから来て癒してほしいと願ったこと、主イエスがその願いを聞いて出かけられたことが語られています。ところが来週の25節以下には、ヤイロの家へと向かう途中で、十二年間出血の止まらない病気の女が、後ろからそっと主イエスの服に触れて、そこで癒しの出来事が起ったことが語られているのです。この話が中に挟まれて、35節から再びヤイロの娘の話になっています。このようにこの箇所では、二つの話がサンドイッチ構造になって語られているのです。マルコ福音書にはしばしばこういう語り方が出てきます。これは、二つの話の内容が密接に結びついているので、両者を一つの話として読んでほしい、という著者のサインだと言ってよいでしょう。そのことを、意識しながら聞いて下さい。

当時、ユダヤ人の会堂で行われていたことは数々ありますが、先ず、何と言っても「安息日の集会」です。犠牲をささげる礼拝はエルサレムの神殿で行われますが、エルサレムから離れた各地の会堂では、律法の朗読を聞き、会堂長が選んだ人の講話を聞き、祈りを合わせていました。安息日の集会、これがユダヤ人にとって最も大切な民族的自覚の確認であり、ユダヤ人のアイデンティティーの中核を占めていました。

会堂は、住民たちの中心であり、地域の核と言っても良いでしょう。ですから、会堂長とは、安息日集会の責任者のみならず、教育の責任者、生活の指導者、行政上の責任者、地域社会の代表者であり、彼は常に住民たちの視線にさらされていました。

さてヤイロの娘の話と言いましたが、むしろ重要な登場人物は父親である会堂長のヤイロです。そのヤイロが、ガリラヤ湖のほとりにおられた主イエスのもとにやって来て、その足もとにひれ伏したのです。そして23節にあるように、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と「しきりに願った」のです。多くのユダヤ群衆の目の前で、主イエスの足もとにひれ伏してこのように願うというのは、地位も名誉もある会堂長の彼にとっては大変な勇気のいることだったのです。しかし彼は、もはや恥や外聞にこだわってはおれない、切羽詰まった状況にあったのです。十二歳になっていた最愛の娘が死にかけていたのです。勿論これまでに、医者を始めとしていろいろと手を尽くして娘の病気を治そうとしてきたでしょう。しかしもう万策尽きてしまったのです。恐ろしい死の力が愛する娘を、そして彼の家庭を飲み込もうとしており、その力の前で自分が全く無力であることを思い知らされているのです。そういう苦しみ、絶望の中で彼は、主イエスの足もとにひれ伏したのです。おそらく彼は主イエスに今日初めて会ったわけではないでしょう。主イエスがガリラヤでの活動の拠点としておられたのはカファルナウムの町であり、彼はおそらくそこの会堂長の一人だったのだと思います。ですから彼が管理している会堂で主イエスが説教してきたのを彼は何度も聞いていた筈です。1章21節以下には、主イエスが会堂で、汚れた霊に取りつかれていた男を癒したことが語られていましたが、彼はそのみ業を目の前で見ていたに違いありません。しかし今まで彼は、主イエスの足もとにひれ伏すことはありませんでした。それは彼が会堂長という社会的にも宗教的にも一目置かれる立場に立つ者であったからです。ユダヤ人社会の重鎮であり、信仰的にも指導者である、そういう自負、自尊心を彼は持っており、これまではその自分の立場から、主イエスの教えやみ業について、いいとか悪いとか判断していたのではないでしょうか。彼は主イエスとは距離を保ちつつ、その教えやみ業を評価、判定していたのです。主イエスの教えを聞き、み業を見て、この教えは納得できるとか、いやこれはおかしいとか、この業は不思議だなどと言っていたのです。私たちはそれぞれ、自分がこれまでに得てきた知識や体験に基づいて世界観、人生観あるいは信念を持っています。社会的地位に基づく自負や自尊心もあります。私たちはそういう自分の思いを基準にして、聖書の教えを評価し、なるほどと思ったり、それはちょっと納得できないと思ったり、そんなバカなことが、と思ったりしているのではないでしょうか。ヤイロはこれまではまさにそのように主イエスのことをある距離をもって眺めていました。しかし今、娘が死にかけているという人生の危機に直面して、自分の力ではどうすることもできない恐ろしい死の力に脅かされる中で、彼は主イエスの足もとにひれ伏して救いを求めたのです。地位も名誉も外聞もかなぐり捨てて、自分の人生観や価値観も脱ぎ捨てて、主イエスに「助けてください」とすがったのです。彼は主イエスに「どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と言っています。主イエスが手を置いてくれれば娘の病気は必ず治ると心から信じ、主イエスにしか救えないという確信を持っていたということです。ヤイロはここで、「娘が死にかかっている」という現実の問題だけではなく、「ヤイロ自身が娘と共に死に直面している」と考えるべきです。むしろ、あちこちで癒しの業を行っているという主イエスの評判を聞くだけでなく、主イエスの一言で汚れた霊が追い出されたのを自分の会堂の中で目撃した、その主イエスという方に、まさに溺れる者が藁をもつかむ思いですがった、ということだったのだと思われます。

「死」は人間の避けることのできない運命です。どのような人でも必ず「死」を迎えなければなりません。そしてその「死」は、人間の予想や計画を全く無視して、ある日突然襲って来るのです。

何の予告もなく襲いかかり、ある日突然、大切なもの全てを奪って行く「恐るべき死」の力。その前で、何の抵抗も出来ない人間の限界。この世で築いて来た幸福の儚さが突きつけられる時、私たちは初めて、自分の「生」に対して疑問を抱くのです。自分の生き方について、自分の生涯について、ここに決定的な問い掛けを改めてヤイロは投げかけられたのです。

ヤイロは会堂長でした。恐らく、当時の状況から見てユダヤ教のファリサイ派であったでしょう。旧約聖書の御言葉は殆どそらんじていたに違いありません。そして彼は、その信仰を、会堂長として、地域の代表者として、語り続けて来たに相違ありません。またファリサイ派は終末の日の復活を信じていました。ですから、「死」の問題は「解決済み」であった筈です。それにも拘らず、ヤイロは娘の「死」を恐れました。何故でしょうか。何故、彼の信仰が、彼がこれ迄学び続けて来た旧約聖書の御言葉が、人生の最大の危機に直面した彼の心を支えなかったのでしょうか。

ヤイロが「イエスの足もとにひれ伏した」とありますが、ユダヤ教の会堂長ヤイロにとって大変なことでありました。ファリサイ派は「神の子」を語るナザレのイエスを憎んでいたからです。その憎しみは、今度はヤイロが「裏切り者」として受けることになり、これ迄、地域の指導者であった彼が、人々の前で信仰のなさと無力さをさらけ出すことになるのです。これまでの全てを失うことになると言っても良いでしょう。何故ヤイロは、これほどの行動に出たのでしょうか。

ここはカファルナウムであり、主イエスの活動がこの町の会堂から始まりました。(1章21節以下、3章1節以下参照)。カファルナウムには現在でも立派な会堂の遺跡が残っています。ヤイロは、この会堂の責任者として、幾度も主イエスの説教を「他人事として聴き」、悪霊を追い出す御業を「見物人として見て来た」のです。

しかし今、自分の娘が「死」に直面し、「死」を、「単なる肉体の滅びではなく罪の結果である」と告げた主イエスの説教を思い返した時、かつては「他人事として聴いていた」説教が、真正面から自分に問いかける御言葉として聞こえて来たのです。

「死」とは、私たちには全く分からない神様のみぞ知ることで、人は「死んだ時」には神様の前に立たされるのです。人は生きていた時の神様との関係の歪みを覚えた時、「死」に対しての心の平安はなくなり、神なき世界に生きた負い目を持つ者の心は、乱れに乱れざるを得ません。この時ヤイロは、初めて、主イエスこそが、自分の「死の苦しみ」に直接関っていることに気がついたのでした。

自分の存在の意味が失われようとする時、私たちは、いったい誰に最後の望みを託せるでしょうか。苦しみの中で、心から誰に「主よ、私に手を置いて下さい」と言えるでしょうか。それこそ神様でしかないでしょう。

主イエス・キリストはヤイロと共に娘の居る彼の家へ向かって出かけられました。自分の誇りの全てを投げ捨て、過去の業績の全てを虚しくした人間と共に、主イエスはご一緒に歩まれるのです。

私たちのこの世における歩み、人生には、自分ではどうすることもできない苦しみ悲しみ困難があります。抗うことのできない死の力によって愛する者を奪われてしまうことがあります。また自分自身も、病や老いによって次第に死の力に支配されていくことを体験させられていきます。ヤイロが味わった苦しみ、絶望を私たちも覚えるのです。そのヤイロは主イエスの足もとにひれ伏して救いを願いました。その時主イエスは私たちの願いに応えて、共に歩み出して下さいます。しかし、時としてその歩みにおいても、「もう神様に頼れない」と私たちを絶望させるような出来事が起ります。主イエスはそこで私たちに「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけて下さるのです。そして、ヤイロとその家族が体験したように、主イエスによって死の力が打ち破られ、その絶望からの解放が与えられることを体験していくのです。それは主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったことによって実現した恵みです。

十字架と復活の主イエスが、「恐れることはない。ただ信じなさい」、「あなたを脅かしている死は、私の恵みの前では眠っているに過ぎない」と語りかけ、私たちの手を取って、「わたしはあなたに言う。死の恐れの中から起き上がりなさい」と告げて下さっているのです。

お祈りを致します。