墓場からの生還

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌152番
讃美歌352番
讃美歌380番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 65篇3-5節 (旧約聖書1,167ページ)

65:3 この民は常にわたしを怒らせ、わたしに逆らう。園でいけにえをささげ、屋根の上で香をたき
65:4 墓場に座り、隠れた所で夜を過ごし/豚の肉を食べ、汚れた肉の汁を器に入れながら
65:5 「遠ざかっているがよい、わたしに近づくな/わたしはお前にとってあまりに清い」と言う。これらの者は、わたしに怒りの煙を吐かせ/絶えることなく火を燃え上がらせる。

新約聖書:マルコによる福音書 5章1-20節 (新約聖書69ページ)

5:1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
5:2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
5:3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。
5:4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
5:5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
5:6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、
5:7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
5:8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
5:9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。
5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
5:11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。
5:12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
5:13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
5:14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
5:15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
5:16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。
5:17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
5:18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。
5:19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
5:20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

《説教》『墓場からの生還』

本日から、マルコによる福音書の5章に入りますが、最初の1節に「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とあります。「一行」とは、主イエス・キリストとその弟子たちで、「湖」とはガリラヤ湖、「向こう岸」とはその東側の岸です。主イエスと弟子たちは舟でガリラヤ湖を渡り、東側のゲラサ人の地に着いたのです。ここはイスラエルの民の地ではなく、当時ギリシャ人が多く暮らす異邦人の地でした。最後の20節に「デカポリス地方」とありますが、「デカ」とは数字の十、「ポリス」は町です。この地方には、ローマ人が建てた十の町があったのです。ゲラサも、その十の町の一つです。この船旅は、主イエスのご意志によることでした。4章35節に、主イエスご自身が「向こう岸に渡ろう」とおっしゃったとありました。主イエスが湖の向こう岸、異邦人の地に、一人の異邦人の救いのために弟子たちと共に、あの嵐の湖を渡って来られたのです。

ここで主イエスに救われた一人の異邦人とはどんな人間だったのでしょうか。2節に「汚れた霊に取りつかれた人」とあります。その姿は3節から5節にこのように描かれています。「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」とあります。現代の私たちはこれを読むとすぐに、ああこの人は重い精神的な病気だったのだ、と思います。彼は墓場を住まいとしていました。地質に石灰岩の多いパレスティナには洞窟が沢山あり墓に用いていました。悪霊に憑かれていた人は、そこを自分の住まいとしていたのです。そこは普通は人が住むような所ではありません。この人は、普通の人と同じ生活をすることができなくなっていたのです。人間社会の中で、人と共に生きることができなくなって、死者の居場所である墓場にしか居ることができなかったのです。

何故この人は人々と一緒にいることができないのか、それは、「もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった」ということがそれを示しています。人々が彼を鎖でつなぎとめておこうとしたのは、彼が暴れ回り、周りの人々に危害を加えてしまうからです。家族でさえもどうしようもない攻撃的、破壊的な衝動が彼を捕えており、それがひとたび現れると、どんな足枷をも鎖をも砕き、引きちぎって、周りの人々を傷つけてしまうからです。それほどに大きな力が出せるのは、汚れた霊、悪霊の力によるものでした。彼の中には大勢の悪霊が住んでおり、それは豚二千匹を怒濤の如くに走らせるほどの力だったと後の方にあります。そのようなすさまじい力で彼は鎖や足枷を破壊していたのです。彼は悪霊によって鎖を引きちぎるほどの大きな力を得ていたのです。その結果、墓場でしか生きることのできない孤独、深い苦しみに陥って、「昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」のです。人との繋がりを失い、徹底的な孤独に陥った彼は、苦しみと絶望の叫びをあげながら、我と我が身を傷つける自暴自棄の日々を送っていのです。この悪霊に憑かれた男に似た話は、聖書の中にしばしば出て来ることから、この時代、「よくある話であった」ということが出来るのではないでしょうか。

異常な世界に住んでいる者が、初めて自分の異常性に気付き、正しい生き方を求めて新しい世界に歩み出して行く、これこそがキリストに出会った人間の姿であり、今日のこの人の物語なのです

人々は、もはや彼をまともな人間とは見做さなかったでしょう。まともな人間の世界から脱落した者としてしか考えなかったでしょう。

それは一面において正しい見方でした。この人の姿は、どう見ても、誰が見ても、神様が愛の対象として創造された人間本来の姿ではなかったからです。

確かにこの人は、墓場、即ち死の世界の入口に住んでいました。町の人々は皆、この人を、自分たちの世界では共に生きることの出来ない異常者と断定し、彼が自分たちの世界に入ることを許さないことで、社会の平安を守ろうとしていたと言えるでしょう。

しかしそれでは、この人の周りにいる人々、私たちを含めてこの物語を読む全ての人々は、自分たちが、この男とは全く生きる世界が異なり、「暗黒の世界、死の入口に住んでいるのではない」と言い切れるでしょうか。

改めて、私たちが生きている世界を見詰めるならば、冷たい洞窟の墓場の中も、暖かい家の中も、実は、「死」と隣り合わせであることに変わりはありません。アダムの罪を背負い、楽園を追放された世界に生きる悲しみを、誰でも知っているでしょう。この世を生きる私たちの「時」は、死を迎えるまでの限られた時間にしか過ぎません。

その死を目前にした私たちが、今、手にしている自由を幸福と結びつけることが出来ず、神の裁きから逃れられないとするならば、今生きている暖かく明るい部屋も、所詮は「虚しさの世界、暗黒の世界への入口である」としか言えないのではないでしょうか。

この人は6節で「いと高き神の子イエス」と呼びかけました。「いと高き神の子」とは主イエスをよく知る弟子たちでさえ言わなかった正しい呼びかけです。しかしその言葉には少しも喜びがありません。正しい表現であっても、それは決して、その正しい呼びかけの神の子に自分を委ねる告白にはなっていないからです。

そのことは、呼びかけに続く「かまわないでくれ」という言葉からも明らかですが、この翻訳は、直訳すれば、「私とあなたとはなんだ」という言い回しです。口語訳聖書は、この意味を含めて、「あなたと私と何の関わりがあるのですか」と訳しています。関係の否定であり、完全な対立、断絶、拒否を表す言葉です。岩波訳聖書では、「お前と俺は何の関係があるのだ」と、はっきりした関わりの否定となっています。

また、「後生だから」と訳されていますが、こんな言葉はギリシア語の原語にはありません。ここのところの原文は「神にかけて誓う」という意味です。つまり、「神にかけて誓う」と、神様を引き合いに出すかと思えば、直ちに「私と何の関係があるのか」と拒絶の姿勢をとり、「私を苦しめるな」「勝手にさせてくれ」と叫んでいるのです。まさに支離滅裂な姿と言わざるを得ません。

主イエスを「神の子」と呼びながら、その救い主・キリストと無関係に生きようとしている人間、また「生きざるを得ない」と思っている人間。それこそが、悪霊に憑かれた人間に共通の姿であり、滅びの入口に住みついて虚しい叫びを上げている人間の惨めな姿なのです。自分を目指して近づいて来られる主イエスを「神の子」と認めながら、「私のことなどかまわないでくれ」「私に関ってくれるな」と叫ぶのが、墓場に住む人間の特徴なのです。

9節で、この人は自分の名は「レギオン」と言います。この名前は象徴的です。レギオンとは、人の名前ではなく、ローマ帝国の軍団のことです。レギオンとは六千人のローマ軍を表す最大単位です。そして悪霊は、名前の意味を自ら「大勢だから」と説明しています。これは、「多くの悪霊がとり憑いている」という意味であろうと言う人もいますが、それよりむしろ、自分が「単なる一個人以上のものである」ということを強調しているのでしょう。

11節で悪霊は主イエスに「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願ったとあります。悪霊は、何故、豚の中に入ることを願ったのでしょうか。

豚は、ユダヤ人にとって、食べることが禁じられている汚れた動物でした。ユダヤ人は、現在に至るまで、豚を飼ったり、その肉を食べたりすることは、決してありません。旧約のレビ記に記されているように、神の民としては絶対に守らなければならない、律法で規定された信仰の問題でした(レビ記11章参照)。

悪霊は、その豚の中なら、主イエスに許されると思ったのでしょう。最低の動物、全く価値無きものと共になら、自分の存続を主イエスが認めると思ったのかもしれません。

神の正義は、いささかも、悪との共存を許すことは有り得ず、神様の愛は、苦しみをもたらす罪の力を放任することは絶対にないのです。悪が隠れる場所は、何処にもないのです。なだれをうって湖の中に落ち込んで行った二千匹の豚は悪霊に対する主イエスの断固とした決意を示しているのです。

14節以下には、「豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取り付かれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。・・・・・そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした」とあります。

悪霊の支配から解放されたこの人は、「服を着、正気になって座っている」のです。悪霊に取りつかれていた時は裸だった彼が服を着るようになったのは、人間としての生活の秩序の中に戻ったということです。そして彼は「座っていた」のです。どこに座っていたのでしょうか。ルカによる福音書第8章に並行記事があります。そこでは彼は、「正気になってイエスの足もとに座っている」と語られています。彼は主イエスの足もとに座って、弟子たちと共に、主イエスのみ言葉を聞いていたのです。主イエスに対して「あなたと私は関係ない。かまわないでくれ」と言っていた者が、主イエスの足下に座ってそのみ言葉に耳を傾け、主イエスに聞き従う者となる、これが、悪霊の支配から解放され、正気になるということです。悪霊は、自分を縛りつけるあらゆる束縛を断ち切り、勝手気ままに生きるようにと彼を唆(そそのか)し、その力を与えました。その結果彼は自分の言葉を奪われ、悪霊の言葉を語るようになりました。つまり自由になるどころか、悪霊の奴隷となり、周囲の人々を傷付け、自分も孤独に陥り、墓場でしか生きられない、罪と死に支配された者となってしまったのです。その罪と死からの解放は、悪霊に勝利した神の子、主イエス・キリストの下に置かれることによってもたらされます。主イエスの足下に座ってみ言葉に聞き従う者となる時にこそ私たちは、悪霊の支配から解放され、正気になって生きることができるのです。

彼が主イエスに聞き従う者となったことは、18節で主イエスがその地を立ち去ろうとなさった時、彼が「一緒に行きたいと願った」とあることからも分かります。しかし主イエスは彼に「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」とおっしゃいました。主イエスは彼を悪霊に取りつかれ飛び出してきた家へ帰されたのです。束縛を嫌い、勝手気ままに生きようとして、共にいることができなくなったその人間関係の中へ帰されたのです。主イエスは彼がその人間関係をもう一度回復することを願って、彼をそこへと新たに派遣なさったのです。

私たちはここに、主イエスによる救いの大事な一面を見ることができます。信仰に生きるとは一方では、弟子たちのように、また彼が主イエスに願ったように、日常の生活を捨て、それまでの人間関係を断ち切って主イエスに従っていくということです。しかしまた同時に信仰者は、主イエスによって、自分の家族の中へと、与えられている人間関係の中へと新たに派遣されるのです。自由を求める思いやプライドを守ろうとする自分の思いに捉われて人との交わりを破壊してしまう私たちが、主イエスによって正気になって、その人々と共に生きる者へと変えられ、交わりを回復されていくのです。

マルコによる福音書は、冒頭の1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた」と、主イエスご自身の「新しい時が来た」とのみ言葉から始まっています。今日の物語は、この一人の異邦人に「新しい時」を与えられる主イエスが示されているのです。

主イエスによって正気になったこの異邦人は、「イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」と20節にあります。この人は、家族、同胞のもとへと主イエスによって新たに遣わされ、そこから新たに主イエスによる救いの恵みを証しし、宣べ伝えていったのです。

お祈りを致します。

時が来た

主日CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌228番
讃美歌238番

《聖書箇所》

新約聖書:マルコによる福音書 14章32-42節 (新約聖書92ページ)

◆ゲツセマネで祈る
14:32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
14:33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
14:34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
14:37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
14:38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
14:39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
14:40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
14:41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
14:42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

《説教》『時が来た』

本日は、本来ならばCS合同礼拝の日ですが、ご覧の様に教会学校の生徒さんは皆さんお休みなので大人向けにお話しをいたします。

また、今日は、世界的な新型コロナウィルス感染症流行で、日本国内の2回目の「緊急事態宣言」が先週21日をもって解除されましたが、実際はワクチン接種もまったく進んでおらず、リバウンドの流行拡大が極めて心配されています。こんな中での礼拝です。感染が心配で礼拝参加を遠慮されている方々も居られます。皆様是非とも、感染防止に心掛け手指消毒して、三密防止してお聞きください。

本日の始めにある「ゲッセマネ」ですが、これはヘブル語で「油絞り」という意味です。エルサレムの町を囲む城壁の外の東側にあるオリーブ山の麓にあった、オリーブ油を絞る小さな庭園の「油搾り場」でした。ここは、キリスト者にとって、主イエスのお苦しみを偲ぶ大切な場所です。とりわけ、受難節の最期の「棕櫚の主日」の今日は思いを馳せる日であるとも言えましょう。

最後の食事いわゆる「最後の晩餐」を終えた主イエスは、弟子たちを連れてこの場所に来られました。そして、八人の弟子たちを入口に留め、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れてゲッセマネの中に入り、次に、ペトロたちを残して、お一人でさらに奥へ入って行かれたと記されています。

さほど広い場所ではありません。それなのに、その都度「ここに座っていなさい」(32)「ここを離れず」(34)と、それぞれの弟子たちに待つべき場所を指示しておられます。

今日のゲッセマネの物語は、主イエス・キリスト御自身が選び出される人々の物語であり、主イエスが「ここで待て」と言われたとき、待つ者の姿の大切さが語られているのです。

かつて、シナイ山の麓で、神に呼ばれて山に登るモーセから、「ここで待て」と言われたイスラエルの長老たちが、その後、どんな醜態を演じたかを思い出してみましょう。モーセに率いられていた筈のイスラエルの人々の眼は、主なる神以外のものに向けられて行ってしまいました。主なる神の大いなる御業がなされるに際して、それを待つ者の姿勢が問われるのも当然でありましよう。

今、神の御業の頂点とも言うべき主イエスの十字架の御業の直前の重大な時に、主イエスに選ばれ、主イエスが生命を十字架の御業でささげられた、その後を託されるべき者が、どのように御心に応えたのか。今日は、それを語る痛恨の物語とも言えましょう。

33節には、「ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われた」とあり、続いて「ひどく恐れてもだえ始め」られたとありますが、口語訳では「恐れおののき、また悩み始めて」と訳されており、また文語訳では「いたく驚き、かつ悲しみ出でて」と訳されています。また、34節には「わたしは死ぬばかりに悲しい」と語られており、ルカ福音書では、ここのところに「汗が血の滴るように地面に落ちた」という言葉を加えています(ルカ22:44)。

これは、主イエスが平静でいられなかった異常な状態であると言えます。そして、この主イエスを襲う異常さの中にこそ、人間自身の異常さというべき人間の罪深さを見い出さなければなりません。

死に直面した人間の姿を思う時、私たちは、このゲッセマネの主イエスの御姿に何を見るのでしょうか。十字架へ向かう主イエスの御姿を仰ぐ時、その何処に「死を恐れるイエスが描かれているか」を、先ず見なければなりません。

十字架の御業を過越の祭りの時に実現しようと決められたのは、主イエス御自身でした。大祭司を初めとする人間の思いでは、14章2節にあるように「祭りの間はやめておこう」ということでしたが、主イエスがイスカリオテのユダの密告を許したため、急遽この時に十字架刑が行われたのです。このように、主イエスは、自ら十字架に向かわれたのであり、十字架を避けようとされたり、別の救いの方法を探すようなことはされませんでした。むしろ、御自身を十字架へ追い込もうとするイスカリオテのユダに、行動の自由を与えておられ、止めようとはなさいませんでした。

それ故に、十字架への道は、御子イエス御自身の意志によって選び取られた道であったと言うべきでしょう。その主イエス・キリストが、どうして死を恐れる筈があるでしょうか。

33節以下に記されている「怖れと嘆き」を、主イエス御自身の死に対する恐れと嘆きと見ると、根本的に間違った理解となってしまいます。主イエスの十字架を「この私、即ち、自分自身の問題である」ということに気付かない人には、所詮、ゲッセマネは理解できないと言わざるを得ません。

聖書に記されている「死」とは何でしょうか。それは生物的な「死」ではありません。「形あるもの必ず滅ぶ」などという無常観も聖書にはありません。聖書の「死」は、神の信頼を裏切り、神の愛に背を向けた人間の罪に対する「神の裁き」なのです。「死」の恐怖は、未知と不安による怖れではなく、罪を激しく追及する義なる神の審きです。この人間の罪を知って、その異常な状態を解消するために世に来られたのが、神の御子イエス・キリストでした。

主イエスの苦しみは、神の御子主イエス御自身の死の問題ではなく、神の独り子が十字架に付かなければならない程の人間の罪深さに向けられた、神の怒りの激しさに直面する「畏れ」なのです。それ故に、神の御子をこれ程までに悲しませ苦しませたのが「私たち自身の罪」であることに、気付かなければなりません。しかも主イエスは、「御心に適うことが行われますように」と祈っています。「御心のままに」という祈りが出来る者こそ、本当の神に従う者です。神への絶対服従こそ、人間にとってもっとも大切なことであるからです。

この主イエスの祈りこそが、罪の中に滅んで行く者への救いの祈りです。

主イエスは、今、すべての人の罪を、私たちが受けるべき「罪がもたらす苦しみ」を、神の御前にお一人で十字架の上で一身に引き受けようとしてくださっているのです。

37節から40節にかけて、弟子たちが眠っているのを起こして目を覚ましている様に注意をし、再び祈られて戻ってみると、何と弟子たちが、また眠り込んでしまっているのをご覧になったとあります。

実に情けない弟子たちの姿と言わざるを得ません。これが、十字架と復活の出来事を全世界に宣べ伝えさせるべく主イエスが選んだ人々でした。主イエスご自身が選び、日々共に過ごし自ら親しく教え、宣教の務めのすべてを託そうとしている人々です。主イエスの招きに応え、家を棄て、仕事も棄て、文字通り寝食を共にし、各地を巡り歩いて来た人々です。主イエス・キリストへの忠誠心が私たち以下であったとは到底考えられません。その弟子たちが、ギリシャ語で石を投げれば届くほどの近いところで、主イエスが血の汗を流して祈っている時に、居眠りをしていたというのです。

三度目に戻って来られた主イエスは、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される」(41)と言われました。この主イエスの言葉は何を語っているのでしょうか。口語訳聖書ではここは「まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうそれでよかろう」となっています。この訳は明らかに、眠っている弟子たちに対する叱責の言葉、あるいは「あきれた、こいつらはもうどうしようもない」と諦めたような響きになっています。しかし原文は「眠っているのか、休んでいるのか」という疑問文ではありません。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい」。それは弟子たちへの叱責ではないのです。その直ぐ後には「時が来た」とあります。それは主イエスが捕えられ、十字架につけられる時が来た、ということです。

その十字架の時、弟子たちは眠っているどころか、あわてふためき、十字架に架けられようとする主イエスを見捨てて結局主イエスを置いて逃げてしまうのです。あるいは主イエスを知らないとまで言ってしまうのです。

その「十字架の時が来る」までのしばらくの間、弟子たちは眠り込んでいる、主イエスはそのことを咎めておられると言うよりも、ある同情をもって彼らを見つめて下さっているのです。「休んでいるのか」という言葉にそれが感じられます。心は燃えても肉体が弱いあなたがたは、疲れ果てて眠っている、休んでしまっている、それは彼らの信仰における弱さと挫折を、責めるのではなく同情をもって見つめて下さっている言葉なのです。

弟子たちの、そして私たちの、弱さと挫折の現実のただ中で、主イエスはお一人で、彼らのために、そして私たちのために、死ぬほどの苦しみ悲しみを背負い、その中で祈り続けて下さったのです。

信仰において眠り込み、祈りを失い、挫折していく私たちを、主イエスの祈りが、死ぬまでの苦しみと悲しみの中でなお父なる神に深く信頼し、その御心こそが成るようにと祈って下さったその祈りが、支えて下さっているのです。

私たちは、すぐに眠り込んでしまい、祈りを失ってしまう者ですが、この主イエスのゲツセマネの祈りに支えられて、なお神様の下に留まり、主イエスの祈りに導かれて、「アッバ、父よ」、「天にまします我らの父よ」と新たに祈っていくことができるのです。

主イエスのゲツセマネの祈りが、すぐに眠り込んでしまい、祈りを失ってしまう私たちをしっかりと支えて下さっている。苦しみ悲しみに勝利することへの道は、そこにこそ開かれているのです。

三人の弟子たちはこのことを体験するために特別に選ばれたのでした。彼らは主イエスが死者を生き返らせた奇跡に立ち会い、主イエスの栄光のお姿を見る体験を与えられました。その彼らは、このゲツセマネにおいて、主を支えるために目を覚ましていることができない自分たちの弱さと挫折をも体験し、しかしそのような罪人である自分たちのために主イエスが祈り、支えて下さっていることを体験したのです。

神が定められた「時」の前で、もし、私たちに何かをすることが出来るとするならば、それは「祈り」以外の何ものでもないのです。主イエスは「祈れ」と言われたのです。この夜、イエス・キリストが弟子たちに命じられたのは、「祈れ」ということだけでした。「祈り」をもって主イエス・キリストに応えることこそ、選ばれて教会に召し集められた者の姿であるのです。

お祈りを致しましょう。

受難節第5主日礼拝 (2021/3/28 № 3746)

 

司会:齋藤 正
奏楽:ヒムプレーヤ
前奏 集会自粛を中止して、主日礼拝を再開します
招詞
讃美 11番
主の祈り (ファイル表紙)
使徒信条 (ファイル表紙)
交読詩編 13056節(交読詩編p.149 [赤司会・黒一同]
祈祷
讃美 228
聖書 マルコによる福音書 143242 (新約 p.92)
説教
「時が来た」
成宗教会 牧師 齋藤 正
讃美 238
献金 547 勝田令子
頌栄 543番
祝祷
後奏
受付:原田史子

 

キリストと共に

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌97番
讃美歌420番
讃美歌522番

《聖書箇所》

旧約聖書:  詩篇89編9-10節

89:9 万軍の神、主よ
誰があなたのような威力を持つでしょう。
主よ、あなたの真実は
あなたを取り囲んでいます。
89:10 あなたは誇り高い海を支配し
波が高く起これば、それを静められます。

新約聖書:  マルコによる福音書4章35-41節

◆突風を静める
4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
4:36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

《説教》『キリストと共に』

私たちが、「教会に生きる」とは、聖書の御言葉に従って生きることです。私たちを真実の幸福に導き、豊かな人生を全うさせて下さるということを信じ、その御言葉に従う生き方です。御言葉に導かれて過ごすキリスト者の人生、その人生には何が待っており、そこで何を見ることが出来るのか、本日の物語はそのことを明らかにしています。

35節に「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた」とあります。

何故、夕方になって、舟を出したのでしょうか。何故、「向こう岸に渡ろう」と言われたのでしょうか。聖書は、その理由を何も語っていません。大切なことは、「主イエスが語り、弟子たちはそれに従った」ということです。そして聖書は、「先立って導かれる主イエス・キリスト」に注目することを求めているのです。

私たちの生活は、「さあ、行こう」というキリストの御言葉と共に始まるのであり、その御言葉を聞き漏らして、「正しい信仰生活は有り得ない」のです。キリスト者の人生において、これが先ず何よりも大切なことです。「さあ行こう」という御言葉によって始まった人生がどんなものであるのか、それを聖書はここに語るのです。

37節に「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」とあります。

ガリラヤ地方は、イスラエルでは気候の穏やかな暮らしやすい所です。ガリラヤ湖畔には何箇所もの温泉があり、湖上には何時も小さな遊覧船が巡っています。このガリラヤ湖は、アフリカ地溝帯と呼ばれる地球の裂け目にあり、何と地中海の海面より標高が二百米以上低い海抜マイナス200メートルの陥没地帯です。茨城県の霞ヶ浦と同じくらいの広さの湖の周囲は台地に囲まれ、丁度、巨大な鉢の底のような特異な地形です。東はシリア砂漠、西は地中海が、東西の丘陵地帯の背後にあり、それを越えて来る東からの乾燥した熱風、西からの湿った海風がぶつかり、気流が極めて不安定なところです。そのため、特に午後には強い突風が吹く、と多くの書物に記されています。しかし、始終、突風が吹くわけではありません。ところが、稀に激しい風が、何の前触れもなく、突然、吹き荒れる。これが突風の恐ろしさであり、ガリラヤ湖での舟にとっての最大の危険な点と言ってよいでしょう。

この物語を、「さあ、行こう」という主イエスの御言葉から始まったとお話ししました。その「さあ、行こう」という主イエスの御言葉に従う人生にも、「思いがけない恐ろしい危機に出会うことがある」のだ、と今日の聖書は教えているのです。

私たちはこんな話をする人たちに良く会います。「信仰を持っていながら、何故、苦しみに出会うのだろうか?」「信仰に生きているのに、何故、こんなに悲しいことが続くのだろうか?」。

ここに目を向けているのが新興宗教と呼ばれるものです。「信心すれば不幸がなくなる」と言い、不幸に出会えば「あなたの信心が足りない」と言います。苦しみや悲しみから逃れたいと願う人間共通の心の弱点を巧みに利用していると、言うことが出来るでしょう。

しかし、聖書が語ることは、たとえ私たちがキリストに出会い、御言葉を聞き、それに従ったとしても、「決して苦難はなくならない」と言うことです。

苦しみを喜ぶ者はいません。悲しみや不幸を喜ぶ人もいません。誰でも嫌なことから離れて生きたいと願うでしょう。しかし、この世界で、そのようなことが可能でしょうか。

私たちは、人と人との関わりの中で生きています。その一人一人が暮らす日々の中で、どうして苦しみから離れて過ごすことが出来るでしょうか。傷つけ、傷つけられる生活の繰り返しから、どうして逃れられるでしょう。

生きる苦しさ、人生の不条理は、罪の中に埋没した人間の必然なのです。苦しみとは、神に背を向けて生きる人間自身が、自ら生み出しているものなのです。

個人的な人間感情の問題だけではなく、公害や自然破壊、交通事故なども、結局は生命の尊さを真実に知らない社会が作り出したものであると言えるでしょう。そしてその危機は、ガリラヤ湖の嵐の大波のように、繰り返し繰り返し襲って来るのです。しかもそれは、決して生易しいものではありません。

「舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」。舟が沈みそうになったということです。「舟が沈む」ということは、舟の中に居る者にとって、生きるか死ぬかの命の危機にさらされているということです。

今、私は生きている。今、自分は生きてこの世に存在している。その最も重要かつ基本的なことが、根底から覆されてしまうのです。「私は、いったい何のために生きているのか」「私は、何のために苦しんでいるのか」。この世を生きる苦しさを想い、自分の努力の虚しさと闘っている時、自分の力ではどうにもならない力が支配しているということに気付く時、突然襲う突風は、「なんとか耐えて、生き残ろう」とする者の足下を崩壊させてしまいます。

この物語は、キリスト・イエスに従って行く時にも、危機に出会うことから逃れられないという現実を示し、そしてその現実を見極めた上で、「嵐の中で如何に生きるべきか」を教えているのです。

38節には「イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた」とあります。すると「弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った」と、「理解できない応答」があります。

生まれながらの湖の漁師である弟子たちの方が、ガリラヤの山地で育った主イエスより、泳ぎも達者であり、嵐の中で生き残る術を持っていたと言うべきでしょう。それにも拘らず、弟子たちは、この危機を「主イエスの責任」といった言い方をしているのです。

私たちも、良い時は当たり前、悪い時は「自分だけが苦しんでいる」と考えるのではないでしょうか。幸福な時は自分の努力を誇り、自分の働きを誇示します。しかし、ひとたび不幸に出会うと、周囲に責任を転嫁し、社会が悪い、時代が悪いと不満を言い、挙句の果てには「もう、神を信じられなくなった」とまで言うのです。

この時起きた、「理解できない応答」とは、こういうことなのです。何故、こうなるのでしょうか。

ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの少なくとも四人は、明らかにガリラヤ湖の漁師でした。湖は親代々の職場であり、幼い時から慣れ親しんだ場所です。そして、舟の操作に関しては練達した専門家でありました。

彼らは、初めは主イエスの指示に従って舟を出したかもしれませんが、湖の上では、何時の間にか、そう「何時の間にか」、自分たちが「主役になっていた」のではないでしょうか。毎日働いていた湖の上。自分の手足のように扱うことの出来る舟。経験と技術に絶対の自信を持っている漁師たちは、湖の上では「キリストを必要としなかった」のではないでしょうか。

弟子たちは、扱いなれた舟を操作し、前へ進むために全力を尽くしたことでしょう。それ故に、それまでは主イエスが眠っていても、誰も文句を言いませんでした。主イエスの力を借りる必要がなかったからです。キリストを不要とする人間の世界が、平穏な湖の上にはあったのです。

しかしながら、ひとたび突風が吹き、大波が襲うと、自分たちのあらゆる努力が、何の効果もないことを思い知らされるのです。

それは圧倒的な力の差でした。小さな波や少しばかりの風であるならば、舟を扱う専門家である弟子たちの技術と体力がそれを乗り越えさせたでありましょう。しかし今や、弟子たちの持つもの全てが、「全く無力である」ということに気付かされたのです。

さらに、この弟子たちの恐れは、「知らなかった者の恐れ」ではなく、「知っている者の恐れ」とも言えるでしょう。漁師であるが故に、突風の恐ろしさ、水中に投げ出された者の運命などは、誰よりもよく知っていた筈です。かえって、無知な人間ほど本当の恐ろしさを知らないものです。

世の中をよく知っている人、十分な社会経験を積んだ人ほど、人生最大の危機において、それまで誇っていた知識や経験がかえって不安と恐れの原因となり、自分を戸惑わせることになるのです。ここに記された「理解できない応答」こそ、キリストを必要としないで生きてきた人々が、危機において示す混乱の姿なのです。

39節には「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」とあります。

主イエスは人間の恐怖に応えて下さる方なのです。

「風を叱り、湖に『黙れ、静まれ』と言われた」と記されています。当時の人々は、そこに悪霊の働きを見ていたからです。嵐を単なる自然現象として捉えるのではなく、人間を傷つけ恐れさせ、危害を加える悪魔の力を嵐の中に見ていたのです。ペトロたちはその時代の人たちでした。

ここで主イエスは、「その時代の人々に分かるように行われた」ということなのです。単に、「超自然的な力によって嵐を静めた」というだけのことではなく、弟子たちを恐怖から解放するために、彼らを捉える恐れの根源に向って叱るという行動をとられたのです。それは「自然に対する言葉」ではなく、それこそが「悪魔の力に対する御子の宣言」として聞くべきでしよう。主イエス・キリストは、たとえ嵐であれ大波であれ、御自身に従う人々を脅かす力に対して、断固とした態度を取る方であり、私たちを襲う危機は、主イエスによって力を失うのです。

さらに、弟子たちが恐れている間、主イエスは眠っていたと記されていますが、主イエスは、この危機に気付かなかったのでしょうか。弟子たちの恐怖を知らなかったのでしょうか。そんなことは有り得ません。

この危機は、滅びをもたらすようなものではないことを、主イエスは御存知だったのです。湖面を騒がせる嵐も、所詮は、見せ掛けの力に過ぎないことを知っておられたからです。38節の「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」とありますが、「艫」とは、船尾です。当時の覆いのないガリラヤ湖の舟の中で船尾で枕をして眠っていたになら嵐に気付かない筈がありません。大揺れに揺れて水しぶきを浴びていたでしょう。そんな中でも主イエスが眠っておられたとは、嵐の力をもってしても「キリストと共に居る者を滅ぼすことは出来ない」ということを表しているのです。そして真実の平安は、この「キリストの保証のもとにのみある」ということです。

キリスト者は、この物語をしっかりと心に止めなければなりません。主イエスの導きに従って歩み始めたとしても、決して、苦難はなくならないのです。主イエスと共に居ても嵐は襲ってきます。しかしその危機は、主イエスと共に居る者を決して破滅させることは出来ず、ただ主イエスが起き上がるまでの間、私たちを脅かす程度のものに過ぎないのです。

私たちも、あの時、舟を操っていた弟子たちと同じように、自分の力で生きているつもりかもしれません。しかし、たとえ、自分の力で生きているつもりであっても、主イエス・キリストは離れては居らず、私たちが主イエスに気づく時まで「目を閉じておられるに過ぎない」のです。主イエスは、常に私たちを見守り、約束の御国に至るまで、この世の歩みを導かれるのです。

最後の40節と41節には「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った」とあります。

弟子たちの、そして私たち信仰者の歩みは常に嵐に翻弄されています。私たちはその中で動揺し、うろたえ、主イエスを疑い、時に文句を言うようなことを繰り返しています。しかしそのように嵐に翻弄されている危なっかしい弟子たちの舟に、そして「私たちの舟である教会」に、主イエス・キリストが確かに乗り込んでおられます。主イエスは、私たちがどんなに動揺し、うろたえても、神の国を実現する救い主としての歩みを貫いていかれるのです。その歩みは、十字架の死と復活へと向かっていました。主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、罪と死の力に勝利して復活して下さり、神の国、神様のご支配が、私たちの救いが実現したのです。「いったいこの方はどなたなのだろう」という問いへの答えは、十字架と復活においてこそ与えられたのです。その主イエスが今、私たちの舟に乗り込み、「共に向こう岸に渡ろう」と語りかけて下さっています。私たちも、代々の信仰者たちに倣って、その主のみ言葉に従い、主イエスが示して下さる向こう岸に向けて旅を続けて行く者でありたいのです。その旅路には様々な苦難が待ち受けているでしょうが、主イエスが共に乗り込んでおられるこの舟が沈み滅んでしまうことは決してないのです。

お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>

神の国

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌195番
讃美歌502番

《聖書箇所》

旧約聖書:ヨエル書 4章13-15節 (旧約聖書1,426ページ)

4:13 鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した。来て踏みつぶせ/酒ぶねは満ち、搾り場は溢れている。彼らの悪は大きい。
4:14 裁きの谷には、おびただしい群衆がいる。主の日が裁きの谷に近づく。
4:15 太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。

新約聖書:マルコによる福音書 4章26-34節 (新約聖書68ページ)

◆「成長する種」のたとえ

4:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
4:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

◆「からし種」のたとえ

4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

◆たとえを用いて語る

4:33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。
4:34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

《説教》『神の国』

マルコによる福音書を連続して、ご一緒に読んで来ました。本日は4章26節以下をご一緒に読むのですが、ここには、主イエスがお語りになった二つの譬え話が記されています。小見出しの表現で言えば、「成長する種」の譬えと、「からし種」の譬えです。そしてこれらが、4章の始めから語られてきた一連の譬え話の締めくくりとなっています。主イエスはこのような譬え話を用いて人々に教えを語られたのでした。主イエスの語られた教えは、守るべき戒律や宗教的な教訓話ではありませんでした。主イエスは「神の国」を告げ広めておられたのでした。「神の国」とは、神様のご支配ということです。神様の独り子である主イエスがこの世に来られたことによって、神様のご支配が実現しようとしている、その神の国について主イエスは譬え話によってお語りになったのです。本日の箇所の二つの譬え話にはそのことがはっきりと示されています。「成長する種」の譬えは「神の国は次のようなものである」と語り始められています。「からし種」の譬えも、「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」と始まっています。私たちがこれらの譬え話から読み取るべきことは、主イエスによって実現する神の国のことなのです。

しかし、ここに示されているのは、「神の国とはこのような素晴らしい所だ」といった話ではありません。神の国ってどんな所だろうか、という興味でこれらの譬え話を読んでも、肩すかしです。私たちは「神の国」を、死んだら行くであろう「天国」と重ね合わせて理解してしまうことがあるかもしれません。死んだ後行く天国とはどんなところだろうか、それを知ろうとしてこの話を読んでも、まったく満足な答えは得られません。主イエスはそういうことを語ってはおられないからです。主イエスは「神の国」を、そういう素晴らしい所があるから、あなたがたもそこへ行けるように頑張りなさいとか、まして、死んだらそこへ行くことができる、などと語っておられるのではありません。主イエスが語っておられるのは、神の国はもうあなたがたのところに来ている、あなたがたの間で今まさに実現しようとしている、ということなのです。1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主イエスの言葉がそれを示しています。どこかにある神の国を求めなさいとか、今いる所が神の国になるように努力しなさいと言うのではないのです。あなたがたが生きているその現実、あなたがたの人生そのものにおいて、神の国、神のご支配が今や実現しようとしているのだ、神様があなたがたの日々の生活を、恵みをもって支配して下さる、その神のご支配が既に始まっているのだ、と語っておられるのです。

その神の国、神のご支配は、誰の目にもはっきりと見えるものとはなっていません。私たちの生きているこの現実、この人生において神の恵みのご支配が実現しようとしていることは、私たちの目にははっきりとは見えないのです。それは隠された事実、秘密にされている事柄なのです。2月21日に「みことばの実り」と題してお話しした4章11節には「神の国の秘密」という表現がなされていました。神の国は「秘密」と表現されるような、隠された事柄なのです。その隠された神の国を、それが全く見えない現実の中で、なお神様のご支配を「信じて生きる信仰」へと私たちを招くための話なのです。

26節から、「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」とあります。種は蒔かれると土に埋もれてその姿は見えなくなります。隠されてしまうのです。しかし隠されていても、土の中で人知れず根を張り、成長していくのです。そしてやがて芽を出し、伸びていきます。その成長は私たちが夜昼、寝起きしているうちに進んでいきます。勿論農夫はその作物の成長のために水をやり、雑草を刈り、肥料をやりと手を尽くします。しかしそれらは作物の成長のための環境を整えるということです。水を吸収し、養分を取り入れて成長していくこと自体は、作物そのものの持っている力であって、それは人間の理解を超えた、また人間の力の及ばないことです。そのように作物は、28節にあるように「ひとりでに」実を結ぶのです。作物が「ひとりでに」実を結ぶのも、作物をそのようにお造りになり、力を与えた方がおられるからです。つまりこの「ひとりでに」という言葉は、人間の理解を超えた、人間の力の及ばない所で、神様が作物を成長させ、実を実らせて下さっているのだ、ということを語っているのです。神の国もそれと同じです。主イエスがこの世に来られたことによって、神の国の種が、あなたがたのところに既に蒔かれている。その神の国の種は、今は隠されているけれども、着実に成長を始めている。人間の理解を超えた、人の力の及ばないところで、神様がそれを育て、実を結ばせようとしておられる。その収穫の時が今や近づいているのだ。「成長する種のたとえ」はそういうことを語っているのです。

このことは、先週ご一緒にお読みしました4章21節からの「ともし火」の譬えにおいて語られていたことと通じるものです。ともし火は升の下や寝台の下に置くためのものではない、燭台の上に置くものだ、というあの譬えは、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」という言葉と結び合わされて、今は隠されているともし火が、将来必ずあらわになり、全ての人を照らすようになる、という約束を語っていました。そのともし火が、神の国、神のご支配です。今は隠されている神の国が、神様ご自身の働きによって、いつか必ずあらわになるのです。そのことが、本日の「成長する種」の譬えにおいては、種はひとりでに育って行って、ついに収穫の時が来る、という譬えによって言い表されているのです。神様はそのように神の国を育て、完成して下さる、だからそこに希望を置いて、収穫の時を待ち望みつつ生きるようにとこれらの譬え話は教えているのです。

続く30節以下の、「からし種」の譬えも同じことを語っています。この譬え話のポイントは、蒔かれる時には地上のどんな種よりも小さなからし種が、成長するとどんな野菜よりも大きくなる、ということです。砂粒のようなからし種が、五メートルぐらいの大きな木のように成長し、その葉陰に鳥が巣を作れるほど大きな枝を張るようになるのです。これも「神の国」の譬えです。神の国、神のご支配は、今は隠されており、目に見えないので、多くの人々はそれに見向きもしません。今は目にも止まらないような小さな小さな種である神の国が、最終的には素晴らしい木へと成長するのだ、ということを主イエスはこの譬えによって語っておられるのです。

先程もお話ししましたが、マルコは主イエス・キリストの宣教の第一声を「神の国は近づいた」という御言葉の中に見ていました。この「近づいた」という言葉は、確かに「近づく」という意味ですが、さらに具体的には、「来た」という意味もあります。「神の国」の実現は、神の御計画の必然であり、御子キリストの到来と共に「始まった」と述べられているのです。新約聖書128ページ、ルカによる福音書11章20節には、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と記されています。ここは、口語訳聖書では、「来ているのだ」という言葉の前に、「既に」という言葉を加えており、また岩波訳では「まさに」という表現で実現性を特に強調しています。

「神の国は、まさに、今、来ているのだ」。これが最も正確な翻訳と言うべきでしょう。「神の国」は、歴史の遥か彼方に実現を期待する希望ではありません。現実に、この世界に成就した神の御業であるのです。「神の国」とは、私たちがこの世界に建設する何らかの特定な社会ではなく、主イエス・キリストの御業が行われる場のことです。御子キリストの到来、即ちクリスマスこそ、「神の国の始まり」であったということなのです。

このように、私たちは、「神の国」の始まりを見ながら、なお、その完成を望んで生きているのです。ここに、キリスト者の緊張感があると言えるでしょう。私たちの生きる姿は、「既に」と「未だ」という「二つの一見矛盾した時間の中」を過ごしていかなければならないのです。

「既に、神の国の中を生きている」と言う時、「今のこの時」を軽んじることは出来ません。「未だに完成していない」と言う時、「今の生きていること」がすべての終わりになる終末であるとは言えません。

私たちは全て、今、自分が置かれている時をはっきりと見詰め、「来るべき時のために、今日を生きる」という姿勢を明らかにしなければなりません。このような生き方を、難しい言葉ですが、「信仰的実存」と呼ぶのです。このように、私たちは、「既に」と「未だ」という「二つの時」の緊張状態の中にあるのです。従って、この「既に」と「未だ」の緊張感を正しく捉えられない時に、キリスト者としての考えや生活に乱れが生じると言えましょう。

主イエス・キリストは、このような「二つの時の間」を生きる私たちを顧み、恵みに恵みを増し加え、約束の確かさを明確にして下さるのです。

「神の国」の実現は、私たちの力ではなく、努力によってでもなく、神の御心によって進むのです。私たちの心の中に蒔かれた福音の種は主イエス・キリストが正しく成長させて下さるのです。

御子イエスは、この世において極めて軽んじられた生涯を送られました。誕生はベツレヘムの宿屋の家畜小屋であり、御使いの知らせがなければ、誰も訪れることもなく、誰からも祝福されない誕生でした。ナザレの村で育ち、村の人々から特別な注目を受けることもない平凡な大工でした。そして、福音を語り始めると、変人として村から追い出されたのです。その後、ガリラヤ各地を巡り、福音の宣教に携わった時も、周囲に居たのは漁師や徴税人、病人など、恵まれない人々でした。そして、生涯の最後に待っていたのは、最も恥ずべき十字架でした。

この世の誰もが、目もくれないような、主イエス・キリスト。

地上において全く軽んじられる扱いを受けた、主イエス・キリスト。

全ての人々から嘲られ、見捨てられた、主イエス・キリスト。

人間の眼から見れば、この十字架のキリストに「神の国」を見ることは、とても出来ないでしょう。その誕生から十字架までの惨めさが、神としての栄光を隠してしまっているからです。

しかしそれにも拘らず、神の御業は、そのどん底の惨めさから始まったのです。私たちの眼には、この世での力やこの世での姿が強く逞しい方が魅力的に映るかもしれません。しかし、「神の国」は、この十字架の主イエス・キリスト以外からは始まらないのです。ナザレの主イエスに、全ての希望がかかっているのです。

神の国、神のご支配は、このようにして、主イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、人間の力や思いをはるかに超えた神様の力によって、まさに主の熱意によって前進し、実現し続けているのです。弟子たちは、この神の国の前進に巻き込まれ、その中で、自らの罪と弱さとそれによる挫折を思い知らされると同時に、主イエスの十字架の死と復活による罪の赦しと、新しい命の恵みをも豊かに味わい、体験させられていったのです。そのようにして弟子たちは、神の国、神のご支配を本当に知り、信じる者となりました。主イエスによって到来した神の国、神のご支配は、からし種一粒のような小さな小さなものでしたが、大きく成長したことは歴史が示しています。私たちも、からし種の様な小さな信仰が、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのだということを心から信じる者となり、主イエス・キリストに遣わされて、この神の国の福音を宣べ伝える者とされていくのです。

神の国は今、この成宗教会と私たちをも巻き込んで前進し続けています。私たち一人一人の日々の生活が、人生が、神の国の成長の中に置かれているのです。神の国の列車が、私たちを乗せて既に走り出していることを信仰の目を通して見つめ、終着駅での豊かな収穫を待ち望みながら、「時の旅人」として信仰の歩みを続けていきたいものです。

お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>