天の父よ、と呼びかける

聖書:イザヤ6316節、ヨハネによる福音書171-5

 主イエスさまの教えてくださった祈りは、神さまへの呼びかけから始まります。話し始める前に、聞いてもらいたい相手の名前を呼ぶということは大切です。私たちは誰に向かって話しているのか、はっきり意識することが必要ですが。そのことは、祈りにおいてはなおさらのことです。よく子どもが遊びながら、一人でぶつぶつ言っているのを見ます。時には大人も歩きながらぶつぶつ言っているのを見かけます。しかし、自分は一体だれに向かって話しているのか、考えを述べているのか、このことに気がつく人は幸いです。

なぜなら、私たちは心の中で話をしているうちに次第に後ろ向きな考えに陥ることがあるからです。「お前は駄目だ」という声や、人々の批判、陰口、悪口、そしりなどが、まるで耳元に語られるようにリアルに聞こえるならば、わたしたちは決して善い者との対話をしているのではないのです。ですからわたしたちが心の中で話す時、誰に向かって話しているのか、私たちの話を聞いている相手を知ることは非常に大切です。もし、私たちが悪魔に向かって話しているとしたら、いつの間にか邪な考えや、自分を破壊するような考えに陥ってしまうのは当然なのではないでしょうか。

わたしたちの考え、願い、不安などを、もし実際に人に聞いてもらうなら、相手は誠実な人でなければなければならないのです。わたしたちの弱さに付け込んで来るような者、また悪い道に唆すような人には、決してわたしたちの思いを聞いてもらいたくないものです。こう考えますと、人にも語ることを用心しているわたしたちの思いを、神さまに聞いていただくという時には、何よりも大切なことは神さまに対する信頼です。わたしたちはお祈りする時には、まず第一番に神さまが誠実な方であることを信じなければなりません。

イエスさまの弟子たちは、イエスさまが祈るのを見ていていました。人々に無くてはならない神さまの言葉を語り、救いの御業を行うことは、この世の勢力との戦いでした。そのために、イエスさまは夜を徹して祈り、ご自分の全てを神さまにゆだねておられた。弟子たちはそのことを知っていました。それで主の祈りを教えてくださいとお願いのでした。

そこでイエスさまは、祈りは何よりもまず、神さまに呼びかけなさいと教えられました。そして「天におられる父なる神さまと呼びかけなさい」と言われたのです。天とは何でしょうか。どこにあるのでしょうか。創世記第1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。しかしイエスさまの教えられた天とは、天地を造られた、その「天」ではありません。「天におられる神さま」と呼びかける天とは、神さまのおられるところを意味します。イエスさまは復活後、天に昇られたと、教会が告白する使徒信条。その告白の中で言われる天のことです。

天におられる神さまは、イエス・キリストの父なる神さまであります。そして、イエスさまは言われました。御自身の父である神さまのことを、「あなたがたも、わたしと同じように『わたしたちのお父さん』と呼びなさい」と。考えてみれば、これは何と驚くべきことではないでしょうか。何と恐れ多いことではないでしょうか。わたしたちは神さまのことを全く知らなかったのに、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけることが許されたのです。

今日読みました旧約聖書、イザヤ63章16節を読みます。「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても、主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です。」神さまはその昔アブラハムを呼び出され、祝福を約束されました。(創世記12章2節)「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」しかしイザヤ書の預言者の時代、アブラハムの子孫の国は荒れ果て、やせ衰え、人々は国を追われ、イスラエルの民はほんのわずかとなりました。

それは、神さまが約束をたがえたからではありません。逆に、イスラエルの人々が神さまに逆らい、その愛に背き、真心を踏みにじった結果なのであります。こうしてイスラエルの人々は諸国の中でも惨めなもの、見捨てられたもののようになりました。その時、預言者は立ち上がって人々のために神さまに訴えているのです。わたしたちは落ちぶれ、みすぼらしい民となってしまっているけれども、あなたはわたしたちの父ですと、神さまに告白しているのです。もしも、わたしたちの先祖であり、信仰の父であるアブラハムがわたしたちの現在の姿を見たら、驚きのあまり、「ああ、こんな惨めな、わずかばかりの人々がわたしの子孫なのか。そんなはずはない。」と叫ぶかもしれません。わたしたちのことを「そんな人々は全く知らない。私と関係ない」と言うかもしれません。

本当に信仰の父アブラハムのことを思えば、そういわれても仕方がない。アブラハムは主なる神さまに従って旅に出、人生の苦難を耐え忍びました。しかも自分のために耐え忍んだのではない。あらゆる人々のわがまま、身勝手に悩みながら、耐え忍びました。神さまの約束を信じて、約束されたものを自分の時代に受けなかったけれども、信仰を抱いて死にました。更にまさった故郷を、天の故郷を熱望していたからです。そのアブラハムと比べて自分たちの惨めさはどうだろう。神さまからいただいた豊かさに、繁栄に飽きたりて、得意になって、豊かに恵んでくださった神さまを忘れてしまった。わたしたちは真に恩知らずの民なのだ、とイザヤ書の預言者は知っているのです。

しかし、その上で、彼は神さまに訴えます。「主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です」と。このような罪深い者をお見捨てにならず、永遠の昔から、贖ってくださる神さま、わたしたちはあなたがそういうお名前を持っていらっしゃることを告白します」と。私たちはどうでしょうか。さんざん不信仰な人生を歩んで来た。でも、「私もそうだけれども、あの人はもっとひどいではないか」と言って、非難し合うのでしょうか。それとも、「今頃になって神さまに救ってくださいと言うほど、私は恥知らずではない」と言って、神さまに助けを求めないのが正しいのでしょうか。

しかし、預言者は訴えました。「あなたはわたしたちの父です」と。「あなたこそ、わたしたちの贖い主です」と。「あなたのお名前は、永遠の昔から変わることがありません」と。そしてこの訴えこそ、神さまの真のお姿、お名前を人々に指し示すこととなったのです。

イエスさまは地上で弟子たちと共に歩まれる間、み言葉の説教と驚くべき御業によって永遠の命がここにあることを証ししてくださいました。そして地上を去るときが近づいた時、弟子たちの前で声に出して祈られました。それが今日の聖書ヨハネ17章1節です。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」このように声に出して祈られたのは、聞いている人々が主の祈りによって教えられるためでしたでしょう。父よ、と祈る祈りによって、神さまがどんなに恵み深い方であるかを言い表されたのです。「あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために」とは、神の子イエスさま御自身が、天の父なる神さまの栄光を現わすようになる」ということです。

神さまの栄光を現わすために、イエスさまは十字架に死なれました。イエスさまはすべての人の罪を贖うために、神さまの御心に従われたのです。このイエスさまを神さまは復活させ、罪の贖いを成し遂げられました。このことによって神さまの栄光が明らかになったのです。なぜなら、イエスさまによってどのように罪深い者にも悔い改めによって救いの道が拓かれたからです。イエスさまは天に昇られ、そこから、私たちを見守り、聖霊を注いで、私たちと私たちの教会を導いてくださっています。

このイエスさまが地上で弟子たちに教えられた祈りを、私たちも祈ることができるとは、本当にありがたい恵みであります。父なる神さまは、人間の父のように、子を愛し助けてくださる方です。また私たちの悪い行いをご覧になった時、それを裁き、罰してくださるのは、私たちを滅ぼさないためです。ただ天の父の恵み深さ、忍耐強さは人間の父とは比べものになりません。そのことを私たちはイエスさまによって知らされています。

今に至るまで、そしてこれからも地上に目に見える形で教会があることを私たちは知っています。そして地上の教会が正しく建設されるならば、それらは目に見えない一つの教会を指し示していることを私たちは信じています。教会は、主が私たちのために試練と苦難を通して、救いの道を開いてくださったことを証ししています。そこで私たちはイエスさまの父なる神を、あたかも本当の父であるかのように、「父なる神よ」と呼びかけることができるのです。

この呼びかけの言葉は、イエスさまの苦難と死を通して恵みによって救われたことを思うときに、改めて心の底から発することができるでしょう。心からの信頼と感謝をもって。そしてまた、私たちは天のお父さまと呼びかけるとき、神さまの前に本当に小さな子供のように立ちましょう。年齢も、職業も、何も関係なく、神さまの前にたちは幼子のようなものではないでしょうか。分別がある、知識がある、と思う人も、明日のことさえ分からない。また自分の正しささえ、本当には分からない。そんな小さな者に過ぎないのです。

これまでの私たちの歩みを振り返ると、私たちの教会の将来も、自分の将来も、だれも正しく予測もすることも予定することもできませんでした。ただ私たちは教会に集められ、共に礼拝し、共に祈ることができたからこそ、今日があることを思います。先々の事まで見通そうとすると、楽観的になれることはなかなか見い出せないことが多いのではないでしょうか。すると、自分だけ取りあえず助かろうとするのか、どこかもっと有利な立場を求めて動き回る人々は多いのです。そうして離合集散を繰り返すのですが、私たちはここに神さまが集めてくださったことを大切にして来ました。この群れはただの人の集まりではなかったからです。イエス・キリストさまが御自分の血によって贖い取って神の子とされた人々、すなわち教会だと信じたからです。

教会は建て物ではありません。人々がいるから教会なのでもありません。教会は信じるからこそ教会とされるものです。イエスさまの建てられた教会が、今もイエスさまが天から送ってくださる聖霊によって、教会とされているのです。聖霊は、私たちに来てくださって、私たちが主の祈りを祈ることができるようにしてくださいます。「天におられるわたしたちの父なる神さま、」と親しく祈ることができるのも、イエスさまの送ってくださる聖霊がわたしたちと共にいてくださるからに他なりません。

ローマ8章15-16節を読みます。284頁。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊こそは、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」今日のカテキズム問56 「主の祈りは、どのような言葉で始まっていますか。そして答は、「『天におられるわたしたちの父よ』です。私たちは、イエスさまによって神さまの子どもとされたので、天におられる神さまを『父よ』と呼びかけることから始めます」です。主の祈りを与えられていること自体が限りない恵みでありますから、共に主の体の教会に連なり、父なる神さまを呼び求めて参りましょう。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。一年で一番寒さの厳しい季節、インフルエンザも猛威を奮っている中、私たちを今日の礼拝に集めてくださり、み言葉によって罪の赦しをお知らせくださいました。集まることのできたわたしたちは真に小さな群れですが、背後に教会員は祈りを合わせております。集められた者も、集まることのできなかった者も、どうかあなたの恵みによって、私たちに豊かな慰め、励ましをお与えください。聖霊の神さまの助けによって病が癒され、弱り果てている者も、疲れている者も、あなたの平安で満たされ立ち上がって行くことができますように。

主よ、私たちは2019年度新しい先生方を招聘するべく道が開かれましたことを思い、真にあなたのお導きを感謝申し上げます。どうか私たちの小さな力を励まし奮い立たせて善き準備をなすことができますようお助け下さい。来週の長老会議には藤野先生ご夫妻にご臨席いただき、準備を始める予定ですが、御心に適って進めることができますように。長老会の働き、また教会学校の働きを祝し、御力をお与えください。

また、記念誌の発行までの道筋をも整えていただき、真に感謝致します。この教会が東日本連合長老会の中で共に学び、共に教会を形成する働きに加わって行くことができますように。私たちの教会を慈しんで励ましてくださる主が、共に歩む東日本の諸教会とその長老信徒の皆様を豊かに慈しみ励ましてください。

皆様のご健康を祝し、整えてください。この厳しい季節の困難の中にある全国の教会を励まして助け導いてください。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

天から降って来たパン

聖書:出エジプト記161215節, ヨハネによる福音書653-58

 今日、わたしたちは聖書を二か所読みました。一つは旧約聖書です。その昔、神さまの約束を信じて旅をしている人々がいました。ところがそれはとても辛い荒れ野の旅でした。人々は「食べる物がない!と、文句を言いました。すると神さまは人々に夕べには肉を、朝にはパンを与えてくださいました。でも肉屋さんがあったわけでもパン屋さんがあったのでもないのです。神さまがくださったのは、天から大地に降りた霜のようなものでした。食べてみると、その味は蜜の入ったウェファスのようでした。これこそが、神さまが人々に食べ物として与えてくださったパンなのでした。

そして今わたしたちもう一つ新約聖書を読みましたが、それはイエスさまがお話になった言葉です。53節で、イエスさまはおっしゃいました。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。」聞いた人はびっくりしたことでしょう。これは何のことだろう!次にイエスさまは言われました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と。今度は、少しだけ分かったでしょうか。これは普通の食べ物の話ではないのだと。そうです。これは、永遠の命の食べ物の話です。イエスさまは、ご自分のことを指して、「わたしは永遠の命のための食べ物である」とおっしゃいました。

わたしたちは毎日食べ物をちゃんと食べなければなりません。美味しいものを食べたい。でも栄養のあるものを食べなければなりません。「好き嫌いしないでいろいろなものを食べましょう。そして大きくなりましょう。心も体も元気に生きましょう」と言ってわたしたちは努力しますね。食べ物はありがたいものです。その食べ物がない時に、そしてお店屋さんもない時に、神さまは天からマナを降らせてくださいました。そのことも本当にありがたいですね。みんな神さまの恵みです。

でもイエスさまはおっしゃいました。58節です。「わたしは天から降って来たパンである。あなたがたの先祖の人々は昔、マナを食べたのに死んでしまった。そのようなものとわたしは違う」と仰ったのです。違うって、どこが違うのでしょう?イエスさまはこのように言われます。「わたしのパンを食べる者は永遠に生きる」と。

イエスさまは天から降って来ました。わたしたちにイエスさまのパンを食べさせるために来てくださったのです。神さまが、わたしたちにこのパンを食べさせて、永遠の命を与えたいと思われて、イエスさまをわたしたちのところに遣わされたからです。

それでは、どうして神さまはわたしたちに永遠の命をくださろうと思われるのでしょう?それは、神さまがわたしたちを愛しておられるからです。どんなわたしたちでしょうか。神さまは優等生の人を愛しておられるのでしょうか。立派な人のことだけを神様は愛しておられるのでしょうか。いいえ、そうではありません。神さまはだれにでも永遠の命をくださるのです。そのために、神さまはイエスさまをこの世界に遣わされました。イエスさまを信じる人々ならだれにでもくださるのです。このことから、神さまがどんなにわたしたちを愛しておられるかが分かります。

イエスさまを信じた人は、イエスさまの与えてくださる御言葉のパンを一生懸命いただきます。また洗礼を受けて聖餐式に参加します。そしてイエスさまと結ばれて生きる生活を続けます。それは、神さまの永遠の命に結ばれる生活です。わたしたちは今礼拝で使徒信条を学んでいます。今日はカテキズムの問38というところでした。その問はこういう問いです。「永遠の命を信じます」とはどういうことでしょうか。そして、その答をわたしたちは知りました。「永遠の命を信じる」ということは、「わたしたちの命は死で終わるのではなく、永遠にイエスさまと結ばれ、神様と共に生きるものだ」と信じることです。

今日は、成宗教会で初めての試みですが、大人の礼拝と教会学校の礼拝を合同でささげました。教会学校の皆さんはお昼から善福寺川緑地公園に出かけてBBQを行います。みんなで楽しく食事をする中で、わたしたちは神さまの国で開かれる盛大な宴会を想像したいと思います。イエスさまと結ばれたいと思う人は、実はイエスさまを通して、神さまとの交わりの中に招かれているのです。それでは祈ります。

 

御在天の父なる神さま

今日の成宗教会の合同礼拝を祝してくださり、わたしたちを御前に集めてくださったことを感謝します。永遠の命を与えるためにあなたはイエスさまをわたしたちの世界にお遣わしになりました。わたしたちは毎日一生懸命食事を美味しくいただいて、あなたの助けによって成長したいと思います。それだけでなく、どうか神さま、あなたに向かって成長することができますように。イエスさまを信じて永遠の命をいただきたいという願いを皆さんに起こしてください。そしてイエスさまとの交わり、父なる神さまとの交わりに喜び迎えてください。

どうか、今日お昼から開かれようとしている夏期学校の行事を守り導き、怪我なく楽しいものとしてください。あなたの内にある喜びがわたしたちにも与えられますように。

また、どうか今日、礼拝を覚えながら、来ることができなかった皆さんを深く顧みて、慰めをお与えください。これらの方々の祈りを聴き上げてください。また夏休みも終わりに近づいていますが、どうか若い方々の健康と生活が秋に向かって整えられますように。また教会のバザーに向けての活動、「子どもと楽しむ音楽会」などのために、良い準備ができますように。最後になりましたが、今病気やご高齢の困難と闘っている方々、また様々な悩みにある方々を顧みて、荒れ野に道を開いてください。

この感謝と願い、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

三位一体の神

聖書:エゼキエル書37章11-14節, ヨハネによる福音書16章7-15節

 キリスト教の信仰は、二千年の歴史を経て教会が受け継いで来たものです。私たちは教会の信仰、つまり、教会は何を信じて来たのか、ということを学んでいます。この学びが正しく誠実になされるならば、それは、必ず神をほめたたえる礼拝として、捧げられることになるからです。

わたしたちの教会は礼拝で使徒信条を告白しています。しかし同時にわたしたちは日本基督教団に所属する教会ですから、教団の信仰告白をも持っています。日本基督教団信仰告白は、1890年に日本基督教会が制定した信仰告白を土台にして、1954年に完成したものです。世界中には各国、各地域の教会が生み出した信仰告白があり、またこれからも各地域、各時代の教会の戦いの中で新しく生まれる可能性があります。

その一方、使徒信条のような基本信条は初代教会、また古代教会の信仰を伝えるもので、同じ信仰告白の下に、全世界に福音が宣べ伝えられ、主の体の教会が建てられるための土台であります。そのことは昔も今も変わりありません。日本基督教団の信仰告白も元を正せば、使徒信条の信仰の上に立てられている訳です。

さて、本日は「三位一体の神」という説教題を掲げました。この言葉は聖書の中に書かれている言葉ではありません。しかし、日本基督教団信仰告白には次のようにあります。「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証しせらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ」と。一(ひと)頃(ころ)、何かと信仰告白や聖書の文言を批判する考えが教会の内外で盛んな時期がありました。その批判は、ついに信仰告白にまで及び、「三位一体なんて言葉は聖書にはない」とか、「そんな言葉はもう古い」などと言われたことを思い出します。ところが、当時の小泉首相が三位一体の改革と銘打って、税制改革を打ち出すと、それは教会の言葉だということが社会に改めて認識されました。その後は三位一体に言いがかりをつける風潮は下火になって行ったことは不思議でした。

教会暦について少し申しますと、待降節、降誕節、受難節、復活節と教会暦は進みます。ペンテコステの後の主日は三位一体の日と呼ばれ、その後は、日本基督教団の教会では聖霊降臨節と呼んでいるようですが、これはいつからか、分かりません。しかし、世界中で用いられている「日々の聖句」では、教会暦は、三位一体後は待降節までずっと三位一体節という名称が用いられています。成宗教会では、少なくとも大石牧師の時代には、この三位一体節という名称を使っていました。そこで私もこの教会の伝統を踏襲して、そのまま三位一体という名称を残して参りましたのは、当時の教団の風潮に対するささやかな抵抗の気持ちでありました。

三位一体の神の信仰は、教会にとって真に要であり、土台となるものです。本日はエゼキエル書37章を読んでいただきました。預言者エゼキエルは、心頑なな信仰共同体の民に、神の言葉を語る召命を受けたのです。しかし、人々の頑なさは、神の言葉から遠ざかり、自らに不幸を招くばかりでありました。大きな者強い者から、小さな者弱い者に至るまで皆、神に背き、その結果は悲惨でした。国は破れ、能力ある者は神の僕となる代わりに、他国の民の奴隷となりました。そして美しい谷は戦場となり、死者の骨で埋め尽くされたのです。その時、エゼキエルは命令を受けました。預言せよと。しかし、心頑なな人々に預言せよ、というのではありません。神は言われます。「骨に預言せよ」と。

「骨は枯れた。望みは失せた。我らは滅びるばかりだ」という骨に向かって。エゼキエルは死に絶えた者に神の言葉を語りました。主の言葉。「わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」と。霊とは何でしょうか。それは息です。神の息です。創世記第二章に神は土から、塵に等しい人間を造られました。そして息を吹きかけられました。神の息によって、神の霊によって、人は生きるものとされたのです。

その時のように、今、再び人間が創造されます。罪に死んで、背きに背き、ついに枯れ果てた骨に神の言葉が語られる。人はみ言葉によって再び生きる者とされる。神の息が吹きかけられると人々は再び立ち上がる。再び礼拝の民が形成された。罪に枯れた人の復活。それはすべて、神の息、神の霊のなさる御業であります。

この神を証しするために、キリストは地上に降って来られました。「わたしを見た者は父を見たのだ」と御子は言われました。地上でキリストにお会いした弟子たちは、キリストを「先生」と呼び、「主よ」と呼び慕いました。「あなたはメシア、生ける神の子」と告白し、「あなたのためなら命を捨てます」と告白しました。皆、それほどキリストを愛していたのです。しかし、弟子たちは父なる神と御子キリストが一つであることを本当に理解してはいませんでした。

弟子たちは、キリストが父の御もとに行くと言われた時、悲しみで一杯になりました。その彼らを、キリストは慰めようとして言われた。それが今日の言葉です。7節「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」弟子たちはいつも目の前に主の御姿を見ていたいのは真に当然の気持ちでありました。しかし、キリストは何が本当に彼らの得になるかを教えておられます。御自身が弟子たちの傍を離れ、天の父の御許から神の聖霊を弟子たちに送ってくださる時、それは聖霊のあらゆる賜物を送ってくださることと同じなのですから。その恵みがわたしたちに伝達される時、それはキリストのお姿を見るよりもはるかに素晴らしく、望ましいことなのだ、と主イエスは力を尽くして語っておられます。

「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」と主は言われました。聖霊は、ただ個々人の弟子に来てくださって心に住んでくださるのではありません。聖霊を受けて弟子たちは、全世界にイエス・キリストの福音を宣べ伝えることになります。「世」と言われているのは、これから福音を聞く人々すべてを含む人々です。福音を聞いてすぐに悔い改める人々もいるでしょう。その人たちはどうして悔い改めたのでしょう。どうしてキリストを信じ、従うようになるのでしょうか。

それは、罪ということが分かるからです。特に他人の罪ではなく、自分の罪について分かるから、神の前に心が低くされるのです。罪とは何でしょうか。これを宣べ伝えるのは大変です。人々は罪について考えないからです。あるいは他人のことだと思っているからです。福音を宣べ伝えるにあたって、罪のことを告げるのは難しいことです。もし、律法について宣べ伝えるとしたら、その方がはるかに分かりやすいでしょう。もっとも、喜ばれるかどうかは別です。「あれをすれば救われる。」「これをすれば救われる」というのは、逆に言えば、「できなければ救われない」ということですから。わたしたちも子供の時からそういう教育は徹底して受けています。「良い子にしていないと○○はもらえないよ」とか、「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるよ」ということです。

しかし、福音を宣べ伝えるために、「聖霊は罪について世の人々の考えの間違いを正される」と主は言われました。では、罪とは何か。罪とは、キリストを信じないことです。キリストを見た者は神を見たのです。またキリストは、父の御心を常に言い表し、常に行ってくださいました。この方は罪人のために十字架にお掛かりになり、罪人の罪の贖いのために死んでくださいました。そのことは、世の人々には俄かに信じられないのです。なぜなら、世の人々には、「神とキリストが同じ心であるとしても、そんなはずはない」と思われるからです神さまはそんなにお人よしなはずはない」と思う。「神さまはそんなに優しいはずがない」と思う。そして更に、欲張りな人は、「神さまは狡い、自分ばかり何でも持っていて」と思い、冷酷な人は「神さまは冷酷なんだ」と思っている。そして「自分も何でも持ちたい、何でもできるようになりたい。神さまがしているように人を踏みにじっても、蹴倒しても・・・」と思うに至る人々も少なくないでしょう。

罪はキリストによって証しされた神を信じないこと。このことこそ、実に神の愛を踏みにじる罪なのです。罪の唯一の原因は不信仰であるとキリストは言われました。目の前にキリストを見ている弟子たちも、キリストの姿が見えなくなったときこそ、信仰が問われるのです。見ないで信じる者は幸いである、と主は言われました。そして、キリストは弟子たちを聖霊によって幸いな者にしてくださいました。彼らに聖霊が来てくださった時、聖霊は信仰の確信をもたらしてくださったからです。

また、聖霊が来られる時、義についての世の人々の誤りを正してくださるでしょう。人が第一に、人が自分の罪に心を動かされなかったら、決して神の正しさを求めて、飢え渇くことはないでしょう。何よりもまず、謙虚な思いにさせられなければ、福音のうちにいささかも成長を遂げることはできないからです。律法の目的は、人々に自分では正しいことができないことを思い知らせ、神の裁きに恐れ慄かせるものです。しかし、それに対して福音の目的は、私たちを罪ある者から正しい者へと変えることであり、死から救い出して命に導き入れることに他なりません。

私たちの正しさとは、律法を守ることによって達成される正しさではありません。それは、主イエス・キリストの恵みによって私たちに伝えられる正しさ、義であります。主は「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」これは、ローマ4章25節の御言葉です。279上。復活された主は天の父の御許に昇ることによって、私たちの救いを成し遂げてくださるのです。エフェ4章10節に次のように書かれているからです。「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりもさらに高く昇られたのです。」356上。

讃美歌第二篇に「シャロンの花」という讃美歌があります。キリストをシャロンの花にたとえて主をほめたたえている讃美歌です。「シャロンの花、イエス君よ、わがうちに開き給え、善き香り麗しさを我に分かちあたえつつ・・・。また「二番にはわがことば行い皆、なれのごとくになるまで」と歌います。天に昇られたキリストが天の栄光の座にいらして、キリストの義の甘美な香りと快い匂いとをもって、全世界をかぐわしいものとする。この希望は天に昇られたキリストから遣わされる聖霊の賜物によって、教会が清められ、日ごとに成長させられることによって成し遂げられる恵みです。そして、13節を御覧ください。

「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて審理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」聖霊もまた、神の御心を忠実に告げ知らせることが語られます。ですから、父も子も聖霊も三つの位格で表現された一人の神であり、全く同じ神として崇め礼拝されるべきなのです。

教会の歴史には、様々な誤った教えが現れました。聖霊の神についても聖霊が特定の人にだけ降るように解釈し、聖書を差し置いてその人の考えを尊重するように主張する考えも起こりました。教会は、近代、現代でも同じ試練を受けています。多くの学者や牧師などが、自分は聖霊によって独自の新しい考えを与えられたと考え、自分の考えは聖書の教えに優ると主張することがあるからです。

しかし、聖霊はイエス・キリストから切り離された賜物をもたらすことはございません。知恵と知識のすべての宝はキリストの中に隠されているのですが、それは十字架に付けられた形で見ることのできるキリストです。聖霊の導きによって教えられる時、弟子たちには満たされました。それは、彼らが聖霊から受けた知恵を人から人へと与えるためであり、使徒たちはその義務を果たしたのです。わたしたちの信仰の高さ、広さ、深さはキリストの中に顕わにされた神の愛がどのようなものか、知ることにあります。今日は特に聖霊の神についてお話ししましたが、5世紀の神学者、聖アウグスチヌスは語りました。「父、子、聖霊のどれかお一人がおられるところに三位一体なる唯一の神がおられることを信じるべきである」と。祈ります。