主イエスの新しい掟

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌151番
讃美歌532番

《聖書箇所》

旧約聖書  レビ記 19章17~18節 (旧約聖書192ページ)

19:17 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。
19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

新約聖書  ヨハネによる福音書 13章31~35節 (新約聖書195ページ)

13:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
13:32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
13:33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

《説教原稿》

本日与えられた聖書箇所は、弟子のユダが主イエスを裏切り最後の晩餐の場を出て行ったところで、残った弟子たちに対して主イエスが最後の教えを語られる所です。主イエスはまず人の子が栄光を受けることについて語られます。そして最後の御言葉として34節で、「あなたがたに新しい掟を与える」とおっしゃっているのです。この掟とは、主イエスご自身が「新しい掟」と言われているように、今まで語られていた掟とは違ったものです。ここで主イエスがお語りになることは、今まで、誰も語ったことの無い、主イエスによって初めて語られるものです。主イエスが語る「新しい掟」とはどのようなものなのでしょうか。主イエスは、それを、一言で「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいます。誰でも、隣人愛に生きることが出来れば素晴らしいと思うでしょう。私たちが生きていく上で心がけるべきことの神髄がこの言葉に集約されているとさえ思われます。しかし、私たちは、そんなことは今更言われなくても充分分かっているとの思いがするのではないでしょうか。私たちは、人を愛し、親切にすると言うことを、倫理道徳として既に子供の頃から耳にタコが出来るほど聞かされています。では、主イエスがお語りになる「互いに愛し合いなさい」と言う掟の、どこが新しいのでしょうか。

主イエスが、どのような状況の下で、この掟について、お語りになったかを考えてみたいと思います。31節と32節で、「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」と一寸読んだだけでは、何の意味か良く分からない不思議なことを言われています。

ここの最初に「ユダが出て行くと」とあるのは、丁度、このヨハネ福音書13章の直前の聖書箇所で、主イエスがイスカリオテのシモンの子ユダの裏切りを予告し、ユダが、主イエスを祭司長や律法学者に引き渡すために、主イエスと弟子たちのもとを離れて行ったことを言っているのです。主イエスを十字架につけるための計画が弟子であるユダの手によって開始されたのです。今まさに、弟子ユダの裏切りで、主イエスは十字架と言う悲劇的な死を迎えようととしているのです。しかし、この出来事は、主イエスにとって、決して、悲しむべきことではありませんでした。何故なら、「今や、人の子は栄光を受けた」とおっしゃっています。ここで「人の子」とは、主イエスご自身のことです。弟子に裏切られ、十字架という重い刑罰で殺されると言う、人間的な判断では死刑囚として屈辱の極みと言った死刑執行の出来事が始まろうとしていることを、ご自身が栄光を受けたのだと言われているのです。しかも、ここで「今や」と言われていることから、主イエスが、この特別な時を待っておられたことが伺われます。そして、ご自身が栄光を受けたと言うだけではありません。父なる神もまた、主イエスによって栄光をお受けになったと加えて語られています。これが意味していることは、主イエスの十字架の出来事が、神の御業であると言うことです。神の独り子である、主イエスが、人間の罪の身代わりとなって十字架に架かられて死に、それによって人間の罪からの救いが実現しようとしているのです。これこそが、神様の大きな救いの御計画の実現であるのです。この32節では、神が「栄光をお与えになる」と未来形で書かれて、これから父なる神によって栄光が与えられることが語られています。これは、この主イエスが十字架の死後、復活と昇天によって神から与えられる栄光のことが語られているのです。十字架から復活、昇天へと至る、一連の救いの出来事によって栄光が現され、神の救いの御業が成し遂げられるのです。だからこそ、ユダが裏切ったこの時、主イエスは、ご自身と父なる神の栄光をお語りになったのです。これこそが、神の救いが世界にはっきりと現わされる「新しい時」の到来なのです。「新しい時」が到来し「新しい掟」が実現するのです。

続いて33節で主イエスは、「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」と、主イエスが弟子たちのもとを去る時が来たことが告げられます。ここまで、弟子たちは、主イエスと一緒に過ごし、共に歩んできました。しかし、この十字架から先は、主イエスと共に歩むことは出来ないと主イエスははっきりと言われたのです。主イエスは十字架の御業による救いを成し遂げられた後、天に昇られて、もう地上におられないのです。人間の姿を取られた、人となってこの世に来られた主イエスは、栄光をお受けになって、弟子たちと共におられなくなるのです。この「新しい掟」とは、主イエスが側におられなくなり、目の前から主イエスがおられなくなった後で、主イエスに従って行く者たちに示される新しい掟なのです。

十字架上の御業において栄光を受けるということは、弟子たちとの別離を意味します。32節にある「子たちよ」という弟子たちへの呼ひ掛けは、ヨハネ福音書ではここにしか出て来ません。

「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように」とあるのは、少し前になりますが、新約聖書179ページ、ヨハネ福音書7章33節と34節にファリサイ派の人々や祭司長たちが主イエスを捕えようと遣わした下役たちに主イエスが言われた「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」と言われたことを指しています。ここでは、不信仰なユダヤ人たちには、主イエスが言われたことの意味を理解出来なかったことが分かります。それだけではなく、この主イエスの発言を巡って、この直後、筆頭弟子であるペテロの否認の予告へと話が展開するのです。

それでは、ヨハネ福音書特有の弟子たちへの惜別説教の意味は何でしょうか。それは、世の人々を救うために、この地上に遣わされた主イエスが、もともと存在されていた天に栄光の帰還をされるということなのです。弟子たちに別れを告げ、彼らを世に残して行くことを悲しまれますが、弟子たちだけにしてしまうのではありません。主イエスは弁護者(パラクレートス)である「聖霊」を遣わしてくださり、弟子たちと共に居らせ、弟子たちにすべてを教えて、主イエスが地上で言われたことを思い出させるのです。それだけでなく、この聖霊の派遣こそが共同体である教会の中に主イエスご自身が再び共に居られるということなのです。

そのような主イエスによって暗示される十字架の出来事を踏まえつつ語られるのが「互いに愛し合いなさい」と言う掟なのです。続いて34節と35節で、主イエスは、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と語られました。

主イエスが、「互いに愛し合いなさい」と言われる時、抽象的に愛を教えようとしているのではありません。「わたしがあなたがたを愛したように」とあるように、ご自身が愛に生きて下さり、その具体的な愛と同じ愛をもって弟子たちが互いに愛し合うようにとおっしゃっているのです。

では、この主イエスの愛を弟子たちが生きるとはどういうことなのでしょうか。それは本日お読みした箇所の直前の聖書箇所に記されています。主イエスが、最後の晩餐の席で、弟子たちの足をお洗いになりました。人の足を洗うと言うのは、ローマ時代では奴隷の仕事でした。主イエスは、自ら弟子たちの僕のお姿となって仕えることを通して愛をお示しになったのです。この弟子たちの足を洗う出来事は、明確に主イエスが向かわれようとしている十字架の出来事を指し示しています。主イエスが僕となって弟子たちの足を洗って下さったとは、神の独り子でありながら、十字架で人々の罪を担って死んでくださることを示しているのです。この時、まだまったく、主イエスの十字架のことを聞かされても分からなかった弟子たちに向かって、足を洗うことを通して、人々に仕える神の愛を教えておられたのです。主イエスは弟子たちの足をすべて洗い終わった後、「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」とはっきりと弟子たちに告げられています。

これは、互いに愛し合いなさいと言われる主イエスの「新しい掟」と重なります。主イエスが、十字架で命を犠牲とすることによって僕となり愛を示してくださった。その愛を受けた者は、互いに足を洗い合うように、隣人の罪を担い、赦し合いながら歩む者とされるのです。それは決して簡単なことではありません。自分の罪に気付かず、自分のことを棚に上げて、他人の罪を裁こうとするのが私たちの常ではないでしょうか。まして、自分に対する隣人の罪を赦すことなどなかなか出来るものではありません。罪を赦し、愛に生きると言うことは、私たち自身の力では出来ないのです。ただ、主イエスが自ら愛を示し、私たちを愛し、語られる掟に見習い、従うときに実現出来るのです。

「わたしがあなたがたを愛したように」主イエスが示して下さった互いに僕となって、互いに愛し合う。

ここにこそ、主イエスの「新しい掟」があるのです。

例えば、主イエスが、ただ「互いに愛し合いなさい」とだけ語られたとしたならば、それは、私たちが自分の内にある愛によって、隣人を愛すると言うことになるのではないでしょうか。しかし、そのように自分の行いによって愛すると言った行為は、どこかで、自分に対する誇りを生みます。自分の栄光を求めようとするようになるのです。そこでは、自分を誇り、隣人を蔑み裁くような歩みが生まれます。主イエスが「互いに愛し合いなさい」という掟に、「わたしがあなたがたを愛したように」と言う言葉が加わっていることによって、この掟は、主イエスによって愛された者が、その愛に応えつつ、その愛に生かされていくための指針になるのです。それは、自分の努力や業によって救いを得ようとするための掟ではなく、主イエスによって愛され、主イエスによって赦された者として、その愛に生かされていく道を示す掟です。その掟によって歩みを導かれていく時、私たちは主イエスによって罪赦された者として、人々の罪を赦し、その罪を担って行く者とされて行くのです。私たちは、主イエスの愛が示されている十字架への道を見る時、自らが、主イエスを裏切る者でしかない現実を知らされます。しかし、そのような、愛に生き得ない人間の現実の只中で、主イエスが愛に生きてくださったことを知らされる時に、その愛に促されて、そこで示される愛に生きる者とされていくのです。

弟子たちのもとを去る主イエスは、地上に残る弟子たちに「新しい掟」を与えられました。弟子たちがこの「新しい掟」を守り、弟子たちが互いに愛し合うならば、主イエスが地上を去った後にもなお、弟子たちが主イエスの弟子であることがすべての人々に認められるのだと教えられているのです。主イエスのこの愛の掟が“新しい”と言われる理由は、「わたしがあなたがたを愛したように」という点にあるのです。御子イエス・キリストを通して示された神の愛に基づいている点なのです。ここまで聞くと、主イエスの掟の新しさとは、今までまったく聞いたことがないような斬新な教えと言う意味での新しさではないかも知れません。

しかし、この主イエスの「新しい掟」というお考えは、私たちの掟に対する概念を根本から覆し、私たちの生き方に根本的な変化をもたらすような、新しさを持っているのです。私たちは、「戒めとしての掟」を求めます。自分自身の業に生き、自分の努力や、その結果の中に、自分自身に栄光を帰そうとします。そんな自分自身に栄光を得ようとして歩む私たちに、真の神の救いの御業を示しつつ、その神の愛に応答して行く道を示す全く新しい掟なのです。

そして、そのような新しい掟に生きる時にのみ、私たちは、互いに足を洗い合うような、お互いの罪を担いつつ歩む歩みが出来るようになるのです。

この「新しい掟」が私たち人間にもたらす変化を弟子のペトロの姿の中に見出すことが出来ます。36節でペトロは、主イエスの言われたことの意味が分からず、「主よ、どこへ行かれるのですか」と問いかけます。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることができないが、後でついて来ることになる」とおっしゃった主イエスに向かって、ペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」とまで言い切ります。しかし、そのペトロに対して、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と主イエスは予告なさったのです。そして、実際、この主イエスの予告通りに、ペトロは、主イエスが裁判を受けている最中、主イエスのことを否むのです。「あなたのためなら命を捨てます」と豪語するペトロは、まさに、自分の力で主イエスを愛し、主イエスについて行こうと努力しているのです。しかし、そのようなペトロの努力が続いたのは、主イエスの十字架まででした。ペトロは、十字架で死んでしまわれた主イエスを見捨てて逃げてしまいました。主イエスの行く所について行くことが出来なかったのです。しかし、主イエスはここでペトロに「後でついて来ることになる」とおっしゃっています。これは、ペトロが後に復活の主と出会い伝道者として立てられ、その働きの中でローマから迫害され殉教することを示しているとされています。実に、ペトロは、そのような歩みを辿るのです。しかし、それは、自分の業によって、主イエスに仕えた結果ではありません。主イエスの愛を知らされ、その愛に応答する新しい歩みを始めたことによる結果です。十字架と復活によって救いを成し遂げられた主イエスと出会い、自らの愛の破れと共に、自らを包む大きな神の愛を知らされた時、自分が主イエスのために死ねないどころか、主イエスが自分のために命を投げ出して下さっていることを知らされた時、ペトロはその愛に応える者とされたのです。そこでは、自らの力によって歩み、自分の栄光を求めるのではなく、主イエスの愛に支えられて、自らを捧げる歩みが生まれていったのです。

主イエスが世を去ってしまい、主イエスのところに行けない、そこについて行くことが出来ない弟子たちの状況は、そのまま現代を生きる私たちが置かれている状況です。2000年前のユダヤで、人間となってこの世に来て下さった主イエスは、現代の私たちと共にはおられないのです。

従って、この主イエスの「新しい掟」は、現代を生きる私たちキリスト者に向かって語られているとも言えます。私たちは、主イエスの行かれた場所に行くことは出来ません。しかし、この世にあって、主イエスが語りかけて下さる「新しい掟」によって、主イエスの愛をこの身に受けて生きるのです。自ら十字架に歩まれた、主イエスの愛に倣うのです。そして、そのような歩みが生まれていく時に、私たちは、キリストを証しする者とされます。35節には、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と主イエスが言われています。ここで「皆が知るようになる」の「皆が」と言われているのは、まだキリスト者とされていない人々を指しています。そのような未だキリストに出会ってない人々がキリストを知ることができるのは、キリスト者共同体である教会で、キリストの愛が生きて続けていることによって知るしかないのです。もし、このキリストの愛が生きていないのであれば、ただ戒めとしての掟によって、共同体である教会が、お互いに、自分の栄光を求めながら歩んでいたとしたらキリストの愛である救いは伝わらないでしょう。まして、互いの罪を担うのではなく裁きあいながら歩んでいたとしたら、その群れがたとえ教会の看板を掲げて、そこに人々が集まっていても、伝道が進むことはないでしょう。私たちは、絶えず、主イエスのお語りになる「新しい掟」を聞かなくてはなりません。その掟によって互いに愛し合う時、今、地上におられない、主イエスの愛が、私たちを通して示されていくのです。戒めとしての掟を求め、自分の栄光を求めて歩んでいる私たちに、御言葉を通して掟が新しく語られています。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。今日も、この御言葉から、互いに仕え合う新しい歩みを始めたいと思います。

お祈りを致します。

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主イエスはまことのぶどうの木

《賛美歌》

讃美歌23番
讃美歌354番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書  創世記 49章 11~12節 (旧約聖書90ページ)

49:11 彼はろばをぶどうの木に/雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。彼は自分の衣をぶどう酒で/着物をぶどうの汁で洗う。
49:12 彼の目はぶどう酒によって輝き/歯は乳によって白くなる。

新約聖書  ヨハネによる福音書 15章 1~11節 (新約聖書198ページ)

◆イエスはまことのぶどうの木
15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

《説教原稿》

本日の説教題は「主イエスはまことのぶどうの木」です。先週の説教題での主イエスは「羊飼い」で、本日は「ぶどうの木」です。両方ともに主イエスを「羊飼い」や「ぶどうの木」に譬えた話です。そして先週の「羊飼い」には「良い羊飼い」と「良い」という形容詞がついていました。そして今日の「主イエスはぶどうの木」には「まことのぶどうの木」と「まことの」といった形容詞が付けられています。

1節には「わたしはぶどうの木」と主イエスがご自身をぶどうの木に譬えられています。なぜ譬えられたのかは、5節に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とあるように信じる者を「あなたがたはその枝である」と言われるためでした。ところが1節にもどると「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」とあります。主イエスは、ご自身をぶどうの木に、そして父なる神をぶどうの木を剪定される農夫に、主イエスを信じる者たちをぶどうの枝に譬えられました。ぶどうの木と枝と農夫の関係によって、主イエスと父なる神と主イエスの救いにあずかる者の関係が描かれているのです。枝は、木が地中から吸い上げる養分を得て、果実を実らせます。枝だけでは果実は実りません。ぶどうの枝が、木につながっていなければ自分では実を結ぶことができないように、信仰者も、キリストにつながっていなければ実を結ぶことができない上に農夫の剪定を受けないと充分な実を結ぶことが出来ないというのです。しかし、もし、枝が木にしっかりとつながっていれば、その枝は養分を与えられて豊かに実を結びます。5節の後半に、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とあるように、信じる者は、キリストとしっかりと結びついていれば、豊かに実を結ぶ者とされるのです。このぶどうの木の譬えは、人々に非常に知られ愛されている聖書箇所であると言って良いでしょう。皆様の中にも、この箇所が好きだという方も多いんではないでしょうか。既に、キリスト者とされている方は、誰しも、キリストとの出会いを与えられ、救いにあずかり、それによって生かされているという思いをもっています。キリストの救いの恵みを知らされて、以前と比べて、はるかに生き生きと積極的に喜んで歩むことができるようになったと思う方もあるでしょう。そのような者たちにとって、このぶどうの木の譬えは、主イエス・キリストと密接に結びついて生きる自らの姿が、非常に良く言い表されている聖書箇所です。

このぶどうの木の譬えは、主イエスと信仰者との関係をイメージ豊かに語っています。しかし、これによって私たちは、主イエスとの関係にだけに注目してしまうんではないでしょうか。1節には、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。主イエスがぶどうの木であり、信じる者が枝であるということよりも先に、主イエスがぶどうの木であり、父なる神が農夫であるということが語られているのです。主イエスと父なる神との関係が先に語られているのです。私たちは、ぶどうの木全体を植え、養い、育てておられる神様を忘れてはならないのです。ここに直接書かれてはいませんが、当然ながら、主イエスは、ぶどう園を管理する農夫である父なる神に植えられた木なのです。だからこそ、その木である主イエスに結びついている枝は、真の命の源である神様からの救いをいただき、養われて行くのです。

そして、主イエスは、ここで、ご自身を、ただの「ぶどうの木」ではなく「まことのぶどうの木」と「まこと」を付けられています。自分こそ、真実なぶどうの木だとおっしゃっているのです。それは、主イエスが、父なる神に植えられた木であり、信仰者を真の命につながらせる木だからに他なりません。私たちの周りには、ぶどうの木、即ち、私たちが実を実らせるために養分を与えてくれそうに見えるもの、自分の人生を豊かにしてくれそうなものがたくさんあります。主イエスは、そのような中で、何が真実なのかを見失ってしまう人間に、父なる神と密接に結びついており、それ故に信仰者が結びつくべき木は誰なのかをはっきりと示しておられるのです。

では、私たちがこの譬えにおいて先ず注目するべき、父なる神の働きとはどのようなものなのでしょうか。そのことが2節以下で記されています。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなされる」。父なる神の働きは、枝を手入れするもの、枝、即ち、信じる者は、神様から手入れされるものなのです。ここで先ず注意したいことは、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝」と言われていることです。主イエスとつながっているかどうかということと共に、実を結んでいるかどうかということが重要なことなのです。主イエスが、私こそまことのぶどうの木だとおっしゃる時、単純に、キリスト教こそ、救いに至る道だということを言っているのではないのです。この世には、私たちに人生の実りをもたらしてくれそうな様々な宗教があります。キリスト教を信じる者は救われるが、他の宗教を選択した人は救われないということを示すために、この譬えを語られているのではありません。主イエスにつながり、キリスト者とされていながら、実を結ばないという事態が問題にされているのです。キリスト者とされていながら形式的な信仰に陥ってしまう危険が語られているのです。

農夫である主なる神は、その実りのない枝を取り除かれ、実を結ぶ枝が更に豊かに実るように手入れをするのです。つまり、農夫である父なる神は、ぶどうの枝を良い枝と悪い枝に分け、実りのない枝を取り除きつつ、実を結ぶ枝がより一層豊かに実を結ぶように剪定されるのです。

しかし、この言葉には注意を要します。私たちの中のある人が、実りをもたらさない枝で、ある人は実りをもたらす枝であると言うように、取り除かれる人と、そうでない人の二つのグループに分けられるのだと考えてはいけません。

そうではなく、どのような人でも、一人の人間の内側に、実りをもたらさない枝と、良い実りをもたらす枝を持っているのです。その実りをもたらさない枝は、私たちの罪とも言えるでしょう。父なる神様は、そのような部分を取り除き、私たちが、良い実を結ぶことが出来るように養って下さっているのです。

では、父なる神の手入れは、どのようになされるのでしょうか。続く3節では、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」という主イエスご自身の言葉が記されています。信じる者が御言葉によって清くされていることが語られているのです。この「清くする」という言葉は、2節で農夫が実を結ぶ実の手入れをなさると言う時の「手入れする」という言葉と同じ言葉なのです。即ち、農夫である父なる神の手入れは、信仰者が御言葉に聞き、それに生かされる、信仰者が御言葉によって生きる時に実現するのです。神様の手入れは、主イエスの御言葉を通して実現するのです。主イエスの御言葉は、農夫が果実を実らせるために剪定するように、真の実りをもたらすように、私たちを剪定するということです。キリスト者は、剪定されることなく、豊かな実りをもたらすことは出来ないのです。御言葉に聞くと言うことは、私たちの中にある真の実りを実らせない罪の部分が取り除かれ、実りある枝が伸ばされて行くことです。このことが語られた上で、4節以下で、まことのぶどうの木である主イエスとその枝である信じる者の姿が語られていくのです。主イエスにつながっていることによって、キリスト者は、御言葉によって剪定されるという形で、父なる神の手入れを受け清くされ、豊かな実を結んで行くのです。

この、ぶどうの木の譬えは、旧約聖書にも出てきます。イザヤ書や詩篇に、ぶどう畑が登場します。これは、 イスラエルの民の姿を歌ったものです。旧約聖書918ページの詩篇80編9節から16節をお読みします。

80:9 あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。
80:10 そのために場所を整え、根付かせ/この木は地に広がりました。
80:11 その陰は山々を覆い/枝は神々しい杉をも覆いました。
80:12 あなたは大枝を海にまで/若枝を大河にまで届かせられました。
80:13 なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。
80:14 森の猪がこれを荒らし/野の獣が食い荒らしています。
80:15 万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください
80:16 あなたが右の御手で植えられた株を/御自分のために強くされた子を。

ここでは、イスラエルの民をぶどうに譬え、植えられ世話をされ、一旦は大きく成長したにもかかわらず、その地は侵略され続けていることが歌われています。この譬えにおいて、ぶどうは、旧約における神の民イスラエルです。旧約聖書においてぶどうの譬えが語られる時、共通していることは、神の民イスラエルが、主なる神の守りの内にありながらも、そこで実らせるべきぶどうを実らせても神様に実りを返していない、または実を実らせていないということを示しています。イスラエルの民は、神の民として、主なる神の救いの約束の中を歩んでいた人々でした。しかし、彼らは、救いの約束にあぐらをかいてしまったのです。そして、自分たちの力で神様の救いを獲得できると考えたのです。そのような中で、人間の業によって神様の救いを得ようとする態度が生まれたのです。そして、自分自身を誇り、他人を裁きながら歩んでいったのです。この旧約聖書が語るイスラエルの民の姿勢は、この世で信仰者が陥ってしまう可能性があるものと言わなければならないでしょう。御言葉によって清くされキリスト者とされていながら、絶えずその御言葉に聞き、その前で自らが変えられて行くことがなされなくなってしまったとしたら、それは、真に神様の救いにあずかっていると言うことにはなりません。

主イエスの御言葉は、罪の中にある人間に対して、いつも悔い改めの思いをくださり、罪の部分をとってくださいます。ここで、御言葉と言うのは、ただ、主イエスがお語りになった教えと言うだけでなく、主イエスの言葉、行い、人格、全てを指します。それは、主イエスが、人となってこの世に来て下さり、十字架にかかって人間の罪を贖い、復活によって、罪のために死の支配の中にあった私たちを命に生きるものにして下さったということです。言葉だけでなく、主イエスのすべてを通した語りかけを聞く時に、私たちは、自分自身の罪を知らされるのです。そして、その罪が赦されているという恵みの中で、自分の思いにのみ従って生きていこうとする罪を取り除かれて、神様の下に立ち返り、神様の御心に生かされて行くのです。真の赦し、救いを知らされる時、私たちは自らを悔い改め、新しい命に歩み出さずにはいられないのです。私たちは、常に、御言葉に聞き、そこから生じる、悔い改めによって、自分自身が変えられていかなくてはならないのです。そのことによって、主なる神が与えて下さる真の命に生きることこそ、私たちの豊かな実りなのです。これ以外に、私たちが真の実りを得ることはありません。御言葉によって、変えられて行くことによってのみ罪からの解放があるのです。6節には、「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と語られています。主イエスとの交わりから離され、キリストの救いの恵みが及ばない所には、主なる神の裁きが臨むことになるのです。

このヨハネ福音書に用いられている象徴的な、15章「まことのぶどうの木」の「まことの」や10章「良い羊飼い」の「良い」という表現は、ヨハネ福音書の特徴的な言葉です。「羊飼い」や「ぶどうの木」といった表現によって主イエスを他の多くの宗教者や救済者と区別し、救いが主イエスによってのみしかないことを強調し、救いの独自性を強く語っているのです。

私たちが神様の恵みを感謝する時、それは、この世における成功であったり、社会的な高い地位であったり、充実した豊かな暮らしというような、人間の清く正しい立派な行いではないでしょうか。そのような人間の価値観によって考えられる豊かな実りのみが求められる時、キリスト者とされていながら、キリストを自分の思いに従わせ、自分の願う範囲で人生を豊かにしてくれる、自己実現の手段としてしまうことも起こって来るのです。その時私たちは、自分の力で養分を吸い上げることが出来るぶどうの木であるかのように錯覚してしまうのです。そこでは、キリストの御言葉が、自分の都合に合わせて剪定出来る枝のようなものになってしまいます。

私たちは、ぶどうの枝であることを忘れて、自分自身がぶどうの木であるかのように思い違いをしてしまうことがあります。自分で養分を吸い上げ、豊かな実を実らせようと自立しているぶどうの木であるかのように考えてしまうのです。私たちは、ただ、自分がぶどうの枝であることを知り、ぶどうの木である主イエスにしっかりと結びつかなければなりません。御言葉によって剪定され、自分本位の実りへの思いが打ち砕かれて行くことによってのみ、真の実を結ぶ者とされるのです。主なる神は、今日も、主イエスの御言葉を通して、私たちを清くしようとしておられます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。この御言葉に聞きつつ、御言葉に剪定され、清められて行くときこそ、自分の力で神の御前に立とうとするのではなく、とうてい神様の前に立てない者が、キリストによって生かされていることを知らされるのです。

主イエス・キリストによって与えられる命を受けつつ歩んで行く所に、真の実りが生まれて行くのです。それは、私たちの滅び行く命を超えて、真の命に通じて行く、確かな実りなのです。主の御言葉に生かされて、今日も新たな歩みを始めたいと思います。

お祈りを致します。

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主イエスは良い羊飼い

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌243番
讃美歌298番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 23篇1~3節

23:1 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。

新約聖書  ヨハネによる福音書 10章7~18節

◆イエスは良い羊飼い
10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

《説教原稿》

今日のヨハネ福音書10章は、この前の9章で生まれつき目の見えない人を主イエスが見えるように癒された奇蹟物語の後半でファリサイ派の人々が主イエスを責め、彼らの罪が明らかにされた直後に、一見唐突とも思える書き方で、いきなり、主イエスの「はっきり言っておく。」という御言葉で始まります。しかも、今日の8節には「盗人であり強盗である」という強い表現で、ファリサイ派の人々を非難することから始まります。6節にあるように「彼ら〔ファリサイ派の人々〕はその話が何のことか分からなかった。」ことから、彼らの霊的無知を思い起させます。それによって、今日の譬え話が霊的に理解されなければならないと主イエスは、ここで告げられているのです。

主イエスは、ご自分を羊飼いに譬えられ、羊との羊飼いの関係を用いてご自身について語られます。羊というのは弱い動物で、狼などに襲われたら、自分で自分を守ることが出来ません。又、他の動物に比べて力が弱いというだけでなく、自ら生きていく術を知らないために、羊飼いの保護なしには生きていけません。主イエスは、主により頼んで歩む信仰者を羊に、そして、救い主であるご自身を羊飼いに譬えられたのです。

神の民を羊に、民の指導者を羊飼いに譬えることは、すでに旧約聖書の中に幾つかの例が見られます。その場合、しばしば横暴な偽羊飼いとまことの羊飼いとが対比されます(Ⅰ列22:17、エゼ34章、37:24‐28、ゼカ10:2‐3、11章)。ここで主イエスは偽りに満ちたユダヤ人の宗教指導者たちに対して、自らをまことの良き羊飼いとして啓示されているのです。盗人や強盗にすぎない者と、本当の羊の牧者の姿が印象的に描かれているのです。羊飼いは「自分の羊の名で呼んで連れ出す」と「羊はその声を聞き分ける」のです。何故なら「羊はその声を知っているので」ついて行くのです。盗人や強盗が羊の命を奪うためにやって来るのに対して、羊は主イエスという「門」を通って牧草地に安全に導かれるという意味で、主イエスは「羊の門」なのです。また、羊のことを心にかけない無責任な「雇い人」に対し、羊のために命を捨てる「良い羊飼い」であると宣言されるのです。当時の羊飼いという職業は、実際、狼などの野獣から羊の群れを守るために身を危険にさらしました。

今日の、「良き羊飼いのたとえ」は、主イエスと父なる神との関係、主イエスと信仰者との関係、主イエスの十字架の死の意味にまで及ぶ物語です。主イエスの羊は主イエスが羊飼いであることを知っており、主イエスも羊を知っておられるのです。そして、主イエスの羊はユダヤ民族に限られず、「この囲いに入っていないほかの羊も」含むのです。しかも、この囲いに属さない者たちが主イエスの群れとなるためには、主イエスの死と復活が必要です。そのことを暗示するかのように、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と、主イエスの死に言葉が及ぶのです。ユダヤ人たちはすでに主イエスを殺そうという思いを抱いていました(5:18)。しかし、主イエスが命を捨てるのも、それを再び得て復活されるのも、主イエスご自身の権威によるのであり、そして、そのことは父から受けた「掟」であると述べられるのです(18)。

今日のこのヨハネ10章7節から18節では、旧約聖書にしばしば書かれている羊飼いのイメージを用いて、主イエスこそが神の民「羊」が必要とするお方であることを強く指し示しているのです。

ファリサイ派の人々とは、当時のユダヤ教の指導者たちのことで、自分たちにこそ神様の救いが与えられると思っていました。律法を守ることによって救いが得られると信じ、律法の教師として人々を教え、指導していたのです。まさに、羊であるユダヤの民の羊飼いとして振る舞っていたのです。しかし、この人々は、自分たちが律法を厳格に守っていることを誇り、律法を守ることが出来ない隣人を裁くことに熱心でした。

主イエスがこの世に来られたのは、人々に永遠の命を与えるためであり、それについてはヨハネ福音書の随所に書かれていますが、ここ10章の特徴は、永遠の命は、主イエスが己の命を与えることによってなされることを、良き羊飼いに譬えて描いていることです。

ここで命を与えるとは、自分の命を犠牲とするただ一回限りの御業です。この事を中心的なテーマの一つとするヨハネ福音書にあって、この10章は極めて重要な位置を占めているのです。

主イエスは先ず7節で、「はっきり言っておく。わたしは羊の門である」と語ります。主イエスは、ご自身こそ門であると言われるのです。ここで語られているのは、9節に「わたしは門である、わたしを通って入る者は救われる」とあるように、救いにいたる門のことです。羊は、この門を通って出入りすることによって牧草を得ることが出来るのです。主イエスを通してしか救われないことを強調しています。「わたしを通って入る者」とは原語では“わたしによる者”となりますが、これは、主イエスによる絶対的な救いを強調しています。主イエスが唯一の救いに至る者であることが示されているのです。8節では、「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」と言われます。ここで、「盗人」、「強盗」とされている、「主イエスより前に来た者」というのは、主イエスより時間的に前にいた人々、旧約聖書の預言者たちのことではありません。「前に来た者」とは、前の1節において「門を通らないで他のところを乗り越えて来る者」と言われていた人たちのことです。主イエス・キリストという門を通らない者のことです。まさに主イエスと対立して律法による救いを主張していた、ファリサイ派の人々に目が向けられているのです。9節の「救われる」とは、神の裁きを受けない永遠の命を得ることを意味し、文法的には未来形で書かれ、救いの約束がずっと続くことを指し示しているのです。

10節に記されているように、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」からです。たとえ、彼らが表面的には、羊たちを養っているように見えても、実際は自分自身を養うことにしか関心がないのです。律法による救いを説いていましたが、それは本当に人々の救いを願って教えていたのではありません。むしろ、自分たちが人々から一目置かれ、尊敬されることに気を配っていたのです。そのために、自分たちが守っている律法によって人々は救われるのだと主張していたのです。

このイエスを「門」とする表現にも、旧約聖書のイメージが強く組み込まれています。門から入って救いを見い出すという約束は、詩篇118編(19-20節)の「主に感謝するために正義の城門を開く」と書かれていますし、また、牧草を見つけるという約束は詩篇23編(1-2節)の「私を青草の原に休ませる主なる羊飼い」やエゼキエル書34章(14-15節)の「肥沃な牧草地でイスラエルの民を養う」と書かれています。また、今日の9節の「牧草を見つける」約束は、主イエスご自身による約束、渇きと飢えを終らせる4章(14節)の「サマリアの女への水の賜物」や7章(37-38節)の「主イエスを信じる者は生きた水が川となって流れ出る」といった水となって恵みが与えられる話を連想させます。このように新約聖書は旧約聖書を土台として書かれているのです。

10節では盗人に対置して、主イエスの来臨が語られ、それは羊が「命」を受けるためであると、「命」が強調され、主イエスがこの世に来られた目的が明らかにされるのです。11節から、これまでの「わたしは門である」に代わって、「わたしは良い羊飼い」と言われます。

羊のために命を棄てることが、ここで良い羊飼いの「良い」ということを規定しています。この羊飼いは、羊のために命を捧げるという自己犠牲を行なうと言われるのです。自己犠牲がなく単に牧草を与えて羊に自然の命を与えるのではありません。ここではエゼキエル書34章(1-16節)にある「良き羊飼いとしての父なる神」について語られます。良い羊飼いである神は散らされたところから羊たちを救い出し、彼らを養い、弱いもの、傷ついたもの、失われたものをいたわり、羊のために心を砕くのです。この羊飼いと同一化することによって、主イエスはご自分が神の約束を成就し神の業を行なう者であると語られるのです。羊のために自分の命をも投げ捨てる羊飼いとして、ご自身を語られるのです。良い羊飼いは野獣から自分の羊の群れを守るためには、その命をも投げ出さなければならなかったのです。この「私は命を捨てる」との御言葉はヨハネ福音書独特の雰囲気の中に何回となく(10:15-18、13:37-38、15:13等)使われて、主イエスご自身の十字架の死を暗示しているのです。

ここまでに出てくる「羊飼い」という名詞は、新約聖書では18回も用いられています。今日のヨハネ福音書のこの箇所では、良い羊飼いとして主イエスは、群れのために自分の命を進んで投げ出す用意がある(11、15、17、18節)ばかりでなく、羊の所有者として(12節)、殊更の責任を羊に対して持とうとされているのです。更に、良い羊飼いといして(14節)主イエスは羊を知っており(15、27節)、羊は主イエスを知って(15節)、主イエスに従うのです(27節)。それだけでなく、羊飼いとしての主イエスの働きは信じる教会の人々ばかりでなく、牧場の囲いに属さない異邦人にまで及んでいます。唯一の羊飼いとして、主イエスは彼らを一つの群れにされようとしているのです(16節)。

12節では、羊飼いと雇い人が対置されます。雇い人も羊を養うのですが「良い羊飼い」ではないのです。4節にある「自分の羊」とは、羊飼いがその羊の名を知っていて、その羊を呼ぶと、羊はその声を聞き分けて羊飼いのもとに集まって来るのです。単に所有しているといった関係ではなく、呼べば答え、羊は羊飼いの献身振りを知っているのです。こういった意味から雇い人とは単に羊を所有していないだけではなく、自分の命が羊の命より大切だから、危険が迫ると羊を置き去りにして逃げるのです。この12節では、盗人や強盗といった危険に代わって「狼」の危険について書かれています。ここでは、通常群れで狩りをする動物である狼に単数形が使われていることから14章20節の「世の支配者」といった者が比喩されているとも考えられます。良き羊飼いに飼われている羊は見捨てられることがありません。すべての羊が救われるのです。「雇い人」とは、悪い意味の「羊飼い」として用いられて、羊のそばにいない「日雇い労働者」としての羊飼いのことです。この雇い人はエゼキエル書34章(5-6節、8-10節)の「群れを養わず自分自身を養う悪い牧者」や、またエレミア書23章(1-3節)の「羊の群れを顧みない牧者」などの「悪い羊飼い」の描写とも重なります。旧約聖書の愚かな牧者や雇い人についての描写は羊の安寧を犠牲にしても自分たちの安泰を重視するユダヤ教指導者やファリサイ派の人々の姿を思い起こさせているのです。「狼は羊を奪い、また追い散らす」ことが起こるのは、羊が雇い人に任されているからです。雇い人は羊のことを「心にかけない」からです。彼らは決して「羊飼い」とは呼ばれない「雇い人」なのです。14節からは、二つの譬えの説明がされます。

14節は「わたしが良い羊飼である」という主イエスを象徴する語句が繰り返されます。羊の羊飼いに対する関係は、啓示者である父なる神に対する関係に相当します。それは、「彼は羊たちの名を呼び」、「羊たちはその声を聞く」という関係です。羊飼いの羊に対する関係は、ここでは、羊飼いが羊のために命を捨てるという、主イエスの十字架の死を、人々のための犠牲としての死を指すものとして説明されます。ヨハネ福音書によれば、神に遣わされた主イエスの死は、ご自身の自由意志に基づく犠牲としての命の放棄なのです。

12節にある「この囲い」とは、譬えとしてユダヤ民族を指しています。主イエスに属する「羊」は、イスラエルだけでなく、広く世界に生きているのです。羊の群れと一人の羊飼いとは、主イエスの言葉に聞き従う教会を示しているのです。17節は主イエスの十字架の犠牲死が、ご自身の自由意志であることが強調されています。主イエスは命を受け、そしてまたそれを取られる。主イエスは、神の力を以てご自分の命を自由に扱われるのです。ここでは一貫して「復活する」と言われ、「復活させられる」と受動態ではないのは、主イエスの死は栄光を受けることであり、父なる神への帰還だからなのです。人の姿をとった主イエスの死は、ご自身の意志によるのであり、死に対して絶対に自由な支配力を持っているのです。主イエスの死は、死の力による破滅(カタストロフ)ではなく、むしろ、命を捨て、命を得る、その高い権威は、父なる神の意思に基づいて、再び命を得る全権を、父なる神から与えられているのです。主イエスは死をも支配される御方なのです。

キリストという門を通らないで牧草を得ようとしてしまう所に人間の罪があります。その罪の力から誰も自由になれないのです。信仰に生きている者、教会に属する者こそ、一人一人の名を呼んで下さる羊飼いの声にいつも耳を傾けていなくてはならないのです。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。主イエスはご自身が門であると共に、「良い羊飼い」であると語られました。

「雇い人」と「良い羊飼い」の違いは、「羊のために命を捨てる」かどうかということです。

罪のために、私たちは滅び死ぬことになるのです。ですから、罪と死の力に襲われる時にも、私たちを見捨てない羊飼いこそが、本当に良い羊飼いであり、私たちの救い主なのです。普段どれだけ、喜びや、楽しみを提供し人生を豊かにしてくれるかということではありません。私たちが罪と死に直面する時に、主イエスは体を張ってその危機と立ち向かい、私たち羊の身代わりとなってくださるのです。主イエスは、羊の身代わりとなって命を捨てられる羊飼いなのです。

主イエスが、ご自身のことを、このような良い羊飼いであると言われるのは、主イエスが十字架において自らの命を投げ出されることで、羊たちを襲う狼と戦われた方だからです。しかし、ただ、身代わりとなって死なれただけではありません。17節に、「わたしは命を再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」と言われるように、主が十字架で命を捨てられたのは、それを再び受けるためであったからです。ただ十字架で死なれたのではなく、そこから再び命を受けられて復活されたことによって、死の力に勝利しておられるのです。

主イエスが再び命を得られたように、私たちにもその命が与えられるのです。父なる神との愛の交わりの中にある羊飼いに導かれる時に、私たちは命の恵みを豊かに受けることになるのです。

主イエスは、16節に「この囲いに入っていないほかの羊」とキリストに養われていない群れ、すなわち教会に属していない人々も気にかけておられます。門であるご自身を示して、ここから入るようにと、救いに至る道を示し続けておられるのです。

主イエスの十字架による救いの御業は、キリストの群れの交わりの中にいない者のためにもなされたものであり、主イエスは、そのような人々も救いあげようとしておられるのです。

教会の交わりの中にいない、まだ救われていない方々の中から一人でも多くの方々が、この幸いなるキリストの救いに与れますよう、お祈りを致しましょう。

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キリストの復活

【聖書箇所】

詩篇 30篇2~13節 (旧約聖書860ページ)

30:2 主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく/わたしを引き上げてくださいました。
30:3 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを/あなたは癒してくださいました。
30:4 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました。
30:5 主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。
30:6 ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。
30:7 平穏なときには、申しました/「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。
30:8 主よ、あなたが御旨によって/砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました。
30:9 主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。
30:10 わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。
30:11 主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。
30:12 あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。
30:13 わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます。

ヨハネによる福音書 20章1~18節 (新約聖書209ページ)

◆復活する
20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。

◆イエス、マグダラのマリアに現れる
20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

《説 教》

今日はイースターです。主イエスが私たちの罪のために十字架に架かって死なれて3日目によみがえった、復活されたことをお祝いする『復活祭』です。それを英語でイースターと言います。

イースター(復活祭)は、キリスト教の三大祭りのイースター(復活祭)、ペンテコステ(聖霊降臨祭)、そしてクリスマス(降誕祭)の中でも最も大切なお祭りです。一番大切なイースターお祝いの日が、新型コロナウィルス感染症の世界的流行から、このように人が集まってはいけない状態で礼拝をお捧げすることとなったのは、ここに人間の思いを越える神の御意志を思わざるをえません。皆様と共におめでとうとお祝いの言葉を交わせないのは残念ですが、共に感謝と願いの祈りを致しましょう。

さて、今日は先ほどお読みした少々長い聖書箇所から主イエスの「復活」について考えてみたいと思います。

 

そのためにヨハネ福音書を少し前まで遡って、主イエスのご受難、十字架の経過を少し振り返って見たいと思います。

ヨハネ福音書17章で主イエスが弟子たちを連れられてゲッセマネで父なる神様に血の滲む祈りを捧げられました。すると、ユダに先導されたユダヤ教の宗教指導者の差し向けた兵士たちや大勢の群衆に主イエスは捕まえられました。そして、ユダヤ教の大祭司カイアファのもとで尋問を受け、続いて、ローマ帝国の総督ピラトから裁判を受けられたことが書かれています。そして、総督ピラトによる裁判によって、主イエスに何の罪をも見いだせなかったものの、ユダヤ群衆から異常な圧力を受けた総督ピラトは自分の意志に反して、主イエスに死刑の判決を下します。

そして主イエスは十字架につけられ、直前の鞭打ちの苦しみや痛みも相まって6時間ほどの短い時間で息を引き取られました。その主イエスの亡骸をアリマタヤのヨセフが引き取り、自分のために準備した新しい墓に主イエスのご遺体を葬り大きな石で墓の入口を塞ぎました。そして、過越祭の終わった三日目の朝に、マグダラのマリアが、その主イエスの墓に行ったところからが、本日の主イエスの復活の聖書箇所です。

 

因みに、新約聖書の中には主イエスが様々な奇蹟を行われる記事があります。中でも主イエスが死んだ人を生き返らせる奇蹟物語は有名で、皆さんもよくご存知ではないでしょうか。なかでも、ルカ福音書7章の「ナインのやもめの息子のよみがえり」、マルコ福音書5章の「会堂長ヤイロの娘のよみがえり」、そして、このヨハネ福音書11章の「ラザロのよみがえり」の3つの死からのよみがえり、奇蹟物語がよく知られています。これらは、主イエスが死人を生き返らせた奇蹟物語ですが、これらは今日の主イエスご自身の「復活」とは、まったく違うのです。

 

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書には、それぞれ特徴があります。

例えば、マルコ福音書では、主イエスがお生まれになった降誕物語、クリスマスの記事を省略しています。ヨハネ福音書では、その主イエスのご降誕を抽象的な表し方をしています。しかし、この主イエスの「復活物語」を省略する福音書はありません。四福音書すべてが必ず主イエスの復活記事を書いていることからも、聖書にとって主イエスの「復活」が極めて重要な物語であると理解できます。主イエスの復活こそが、キリスト教の中心テーマであり、最も大切な主イエスによる救いへと繋がっているのです。

四福音書すべてに記されている主イエスの復活物語ですが、それらの記事は通常二つの形に分けられます。一つ目は、主イエスのご遺体が墓の中にはないことを記し、間接的に主イエスの復活を物語る「空の墓物語」です。そして、二つ目は、復活の主イエスが弟子たちに御姿を現されたことを記す「顕現物語」です。

今日のヨハネ福音書は、「空の墓物語」の延長線上にマグダラのマリアへの復活の主イエスの「顕現物語」を加えた丁寧で詳細なものとなっています。

 

本日のヨハネ福音書20章をご覧になると、1節に「週の初めの日」とあります。これは、金曜日に十字架に死なれ、葬られた主イエスの復活の日の朝のことで、日曜日です。この日曜日の朝に主イエスの墓を訪れた者として、マタイ・マルコ・ルカ3つの共観福音書が複数の女性たちの名前を挙げているのに対し、このヨハネ福音書はただひとりマグダラのマリアにだけ焦点を当てています。ただ、2節のマリアの言葉が「わたしたち」と複数形となっていることを文字通りに受け取れば、墓を訪れたのは複数の者たちであったと暗示されているとも思われます。

このヨハネ福音書ではマリアが墓へ行った理由は記されていませんが、共観福音書によると、それは過越祭の前の十字架刑のために急いで葬られた主イエスの未完成に終った葬りを完成させるためであったと思われます(マコ16:1)。空の墓を発見したマリアは、2節にあるように、ペトロと主イエスが愛されたもう一人の弟子のところへ、急いで墓が空であることを告げ知らせに行きました。

まだこの段階ではマリアの中で空の墓の事実と復活信仰とは結び付いていないことが文面から分かります。マリアは主イエスが復活されたとはまったく考えてもいませんでした。3節以下に続くペトロともう一人の弟子に関する記事では、主イエスの愛しておられた弟子が大変目立ちます。墓へ先に着いたのもこの主イエスが愛しておられたもう一人の弟子であり、「見て、信じた」と明言されているのも、この主イエスの愛された弟子でした。

7節の「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」と書かれている部分は大変分かり難いと言えましょう。他の聖書箇所にも出て来ますが、復活の栄光の主イエスの体が壁や扉をすり抜けられたりしていることから、復活の主イエスの体は人間としての姿とは大きく異なることが分かります。また、誰かが遺体を包んだ布をわざわざはがして遺体を持ち去ると言うには大変不自然な状況と思われます。先程も触れましたが、8節の「見て、信じた」とは、不思議なことに何を信じたのかよく分かりません。次の9節の「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」という文脈から読み取ると、主イエスの復活を信じたのではなく、マリアの言ったこと、墓が空であることを信じたということになってしまいます。

しかしヨハネ福音書では、この「見て、信じる」という言葉を繰り返し信仰的に使っています(2:23、4:48、6:30、36、40、20:8、25、27、29)。そのことから、その主イエスの愛された弟子をペトロや他の者たちよりも先駆的な者とし、空虚な墓を見るや否や恐らく復活の主イエスを信じたと解釈する方が自然と思われます。この「見て、信じた」とは、主イエスの復活を信じる信仰告白を意味していると思われます。

このように主イエスの復活の様子は、四福音書それぞれの記事によれば、先ず空の墓が発見され、主イエスの亡骸がなくなっていたこと、その次には天使による御告げがあります。これは主イエスの復活は天の上から行われたことを意味します。そして、最後に復活の主イエスの顕現、人々の目に見えるお姿でマグダラのマリアだけでなく弟子たちを始め多くの人々に姿を現されたということが記されています。

マグダラのマリアが再び墓に来て見たものは、「二人の天使」でした。このヨハネ福音書の天使は、マリアに対して主イエスが復活されたとの事実を話してはいません。そして、マリアはこの時点では主イエスの復活を信じられず、誰かが主イエスのご遺体を持ち去ったと考えていました。11節にあるようにマリアは墓の中に主イエスが未だおられるのではないかとのぞき込みました。その時復活の主イエスはマリアの後ろに立っておられました。何と驚いたことにマリアはそのお姿を見たけれど、それが主イエスであるとは気付かなかったとあります。

この不思議な話はルカ福音書24章のエマオ途上の二人の弟子にも起きたと記されています(参照ルカ24:16、31)。マリアが主イエスに気付かなかった理由は記されていません。泣いていたので涙に曇ってよく見えなかったのかもしれません。あるいはまた主イエスが死なれたという事実が余りにも強烈で、主イエスがよみがえって自分の前に姿を現すなどとはまったく思いが及ばなかったのかもしれません。あるいは復活の主イエスの体は栄光の体だったので、まったく別人と思い認識することが出来なかったのかもしれませんが、それにしては園丁だと思ったとあるので、光り輝く栄光の体とも思えません。いずれにせよ、羊がまことの羊飼いの声を知っているように(ヨハ10:3‐4)、主イエスの「マリア」と言われたの呼び掛けにマリアは目を開かれます。これは、主イエスの呼び掛けによって、ただそこに誰か人がいるという認識から、復活の主を信じる信仰へと目覚めていったことを表しています。

マリアは主イエスを見ていたのですが、主イエスがご自身がマリアに呼び掛けられるまでは主イエスを「見て信じて」いなかったのです。信仰の眼をもって主イエスを見てはいなかったのです。

17節に「わたしにすがりつくのはよしなさい」との不思議な言葉があります。なぜ、マリアは主イエスにすがりついてはいけないのでしょうか。

ルカ福音書には、「マグダラのマリア」はよく登場します。7章では主イエスに高価な香油を注いでその御足を涙をもって髪の毛で拭った「罪深い女」として、また8章では、主イエスによって7つの悪霊を追い出していただいた女性だと記されています。多くの苦しみや悩み悲しみ、病を、主イエスによって慰められ、解決され、癒されたのでした。

それ以来、マリアは、主イエスに付き従って旅をするようになりました。主イエスのことを最も慕う女性の一人でした。主イエスが十字架で処刑され、弟子たちも逃げ去っていった中で、主イエスが息を引き取られる最後まで見届けました。そして、日曜日の朝早く、押え切れない気持で、墓へ行ったのです。ペトロともう一人の弟子が、空っぽの墓を見届けて、帰って行った後も、マリアは、その場に留まっていたのです。泣きながら主イエスを探し回ったのです。そして、ついに、自分の後ろに立っておられる主イエスに気づいたのです。マリアが主イエスにすがりつくのは無理もないでしょう。そのマリアに、復活した主イエスは、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われるのです。どうしてでしょうか。もちろん、主イエスが意地悪を言われる訳ではありません。何か訳がある筈です。

それは、すがりつくほどの思いは分かる。けれども、そのすがりつくような信仰から離れなさいといった主イエスの親心ではないでしょうか。2年前まで学んでいた東京神学大学の講義でも聞いたことがありましたが、神様を信じる信仰には、“サル型”と“ネコ型”があると言われています。サルは自分の子供を運ぶ時、子ザルを母ザルのお腹にしっかりとしがみつかせます。母ザルが自分の手で子ザルを抱えることはありません。子ザルは掴んでいる手を離したら終わりです。従って、サルの子供は必死で母ザルにすがりつくことになります。

一方、ネコの子供は移動する時、母ネコが子ネコをくわえて運びます。子ネコはすがりつこうにも四本足共にブランブランです。力を抜いて、お母さんにお任せなのです。神様を信じる信仰も、サルの子のように自分の力でしがみつく信仰と、ネコの子のように神様にお任せしてしまうお委(ゆだ)ねする信仰とがあると言えます。私たちの信仰は、自分の力で必死にすがりつくような信仰ではなく、神様を信頼し切って、安心して自分のすべてを神様にお委(ゆだ)ねできるような信仰へ変えられなければならないのです。

自分からすがりつく信仰は頑張らなければならない信仰です。一生懸命努力しなければならない信仰です。それでは、疲れます。いつも自分の方からすがりついていなければならない。自分が手を離したら終わりです。信仰のために自分が、頑張らなければならない。善い行いや努力をしていないと、神様に愛してもらえない、見捨てられてしまうのではないだろうか。そんな不安が心の中に大きな場所を占めます。その結果、自分は神様に愛されていないのではないだろうか、見捨てられてしまうのではないだろうか、と不安になっていないでしょうか。教会での奉仕や良い行いが充分にできれば安心できます。しかし、教会での奉仕や自助努力が足りないと思うと落ち込んだり、不安になってしまうのではないでしょうか。頑張らないと神様に愛されないと思う人生になっていないでしょうか。もちろん、何事に対しても努力するのは極めて大切です。しかし、努力の結果で、神様が私たちを愛されるのか、愛されないのかが決まるのではありません。神様の愛とは、そんなものではないのです。

あなたは愛されている存在だ。聖書は、私たちに、そのように語りかけます。たとえ善い行いができなくても、何もできなくても、結果が出せなくても、神様はあなたを一方的に愛してくださっている。その手で、しっかりと掴んでいてくださる。だから、私たちは、“良い子でいなければ”と、りきむ力を抜いて、“神様、感謝します。こんな私ですが、よろしくお願いします。”と、神様を信頼し、お任せする。お委ねする。そこに安心が生まれます。喜びが生まれます。

そんな人生の安心と喜びに気づかせるために、復活した主イエスは、マリアの背後から声をかけられたに違いありません。「イエス様はどこ?」「幸せはどこ?」「救いはどこ?」と、必死に追い求めているマリアに、見えない後ろから声をかけられました。私たちの人生には、見えるところだけでなく、見えないところも大切であることを主イエスは語りかけているのです。

ヨハネ福音書での主イエスの本当の栄光とは十字架で私たちの罪のために死なれたことだけではなく、十字架で死なれても復活されて、天に上げられ、天に存在されていることです。14章3節から4節で、主イエスが弟子たちとの夕食、最後の晩餐の時、弟子たちのところへ再び帰って来ると約束されました。これは、十字架から復活された主イエスが父なる神様の御許ヘ上ってゆかれ、そして再びこの地上に来られることなのです。「復活」とは一度死んだ者が再び息を吹き返すという現象、いわゆる「生き返り」や「蘇生」とは全く違います。「復活」とは主イエスが初めてなさった特別な御業です。

 

主イエスの復活とは、四福音書と第一コリント15章に記されている合計10回に上る顕現物語です。それら一つ一つの記事は、それぞれが独立して多様性を持っています。後代に調和させたとは考えられません。主イエスが復活されたという主要な点においてはすべての記事が一致しています。また、それらの記事の中で多くの人々に現れた状況や、主イエスの十字架を見て逃げ去ってしまった弟子たちが復活の主イエスに出会って大きな変化が起きたことは否定できません。一番弟子のペトロでさえ、主イエスから「鶏がなくまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と言われ、その場から逃げ去り、十字架の場面にも登場せず、何と本日のヨハネ福音書21章にあるように、ガリラヤ湖の漁師に戻ろうとしている時に、復活の主イエスの出会い偉大な伝道者に変えられました。何が弟子たちを逃げ隠れする者から殉教を恐れず大胆に福音を語る者に変えたのか、弟子たちに勇気と確信を与え、力強い伝道者に変えたのは復活の主イエスご自身が伝道の力を弟子たちに与えられたからに他ならないのです。

また、それまでは、ユダヤ人として土曜日の安息日を守っていた弟子たちが、なぜ日曜日の主の日を守り、また聖餐を祝うようになったのか、1節にあるように、この日が「週の初めの日」になったのか。

これらはみな、主イエス・キリストの復活によってなされたものと考えるべきです。バプテスマ(洗礼)は、キリストと共に葬られ、よみがえったことのしるしです。この主イエスの復活は神様の御業なのです。

 

そして、主イエスがなされたこの復活は私たちにも将来起きる、終末の時にすべての人々に起きる。その終末の時には、生きている人々だけでなく、死んだ人々も復活すると新約聖書は語っているのです。

復活した身体がどんなものなのかについては、聖書では詳しくは語られていません。しかし、主イエスの復活が私たちの救いと密接に結びついていることは、ローマの信徒への手紙4章25節にある様に「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」ということばからも明確に分かります。

私たちの罪を贖うために十字架で死なれた主イエスは復活されて、今も私たちが義とされるため、私たちを罪から救うために生きて働いておられるのです。

 

復活を信じることは、主イエスを信じる信仰、キリスト教信仰の中心なのです(使2:24‐36、3:13‐15、4:2、10、11、33、5:30、10:39、40、13:27‐38、17:3、18、31、26:23)。神様の恵みである主イエス・キリストの復活なくしてキリスト教信仰はないのです。

この復活信仰は、私たちが努力して身に着け、己の知識とするものではありません。マグダラのマリアに主イエスが呼び掛けられたように、主イエスから一方的に与えられるのです。私たちが主イエスの呼び掛けに応える時に与えられる一方的な信仰の恵みなのです。

新約聖書210ページ、ヨハネによる福音書20章27節に復活を疑う弟子のトマスに主イエスは語られました。

20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

復活の主イエスは疑い深い弟子のトマスだけでなく、私たち皆に『信じない者ではなく、信じる者になりなさい』と呼び掛けられているのです。

疑うトマスに優しく呼び掛けられる復活の主イエスは、今も生きて私たちを愛して『信じない者ではなく、信じる者になりなさい』と呼び掛け続けられているのです。

お祈りを致しましょう。

 

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・・・ 以  上 ・・・

 

思い出す

2月の説教

聖書:ヨハネによる福音書2章13-25節

説教者 藤野雄大

「イエスが死者の中から復活された時、弟子たちはイエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」(ヨハネによる福音書2章22節)

 

本日与えられました新約聖書の箇所は、ヨハネによる福音書の2章13~25節までの箇所です。この内、22節までの部分は、新共同訳聖書では「神殿から商人を追い出す」という表題が与えられています。主イエスが、エルサレムの神殿から商人たちを追い出すという、いわゆる「宮清め」と言われる出来事が記された箇所です。この出来事は、全ての福音書に記されているものですが、特に、ヨハネによる福音書では、神殿で売られていた牛や羊、鳩などの家畜と、両替商の描写、またイエス様が縄で鞭を造られたことなど大変細かい所まで書き記されているのが印象的です。

神殿で商売をしていた人々を突然に追い出す。主イエスは、なぜ、このようなふるまいをなさったのでしょうか。この宮清めの箇所を始めて読むとき、主イエスの激しい怒りに戸惑いを覚える方もおられるかもしれません。主イエスが、お怒りになったのは、神聖な神殿の中までも、入り込んできて金儲けをしている商人たちの強欲さに対してである。そのように理解されることもあります。しかし、ユダヤ教の律法からすると、このような神殿における商売は、全く合法のものでした。なぜなら、これらは神殿における祭儀に必要なものだったからです。たとえば家畜の取引についてですが、律法の教えに従って、参拝者は、神殿に参拝する際に、家畜をいけにえとしてささげられることが定められていました。

本来であれば、自分の所有する家畜を捧げることになっていましたが、多くの人がエルサレムの町だけではなく、イスラエル全土から、長い旅をして神殿にやってきます。そのため、長い旅の中で、家畜を連れてくるというのは、不便極まりないことでした。そこで、神殿において、いけにえとしてささげるための家畜を売る者たちが求められたのです。

一方、両替商というのも、また律法の規定に従って存在していました。現在の日本の紙幣などにも、福沢諭吉などの偉大な歴史上の人物が記されておりますが、当時、イスラエルを支配していたローマ帝国では、最高権力者である皇帝の顔がコインに記されていました。そして、皇帝は、ローマ帝国内では、しばしば神に等しい存在として理解されていました。そのようなコインを神殿にささげることは、神は唯一であると信じるユダヤ人とっては、偶像崇拝であり、律法にも背くことと理解されました。そのため、ローマ帝国で一般に通用していた硬貨を、ユダヤ教の律法に適った特別な硬貨に両替する商人が、神殿に必要とされたと言われています。

要するに、当時、神殿に家畜を売る人や、両替商がいることは合法的であり、当たり前の光景であったということです。宮清めの出来事を読むときに、私たちは、イエス様が、強欲な商人たちが、神殿に入り込み、勝手に商売をしていることをお怒りになったと考えがちです。ところが実際には、彼らの商売は、むしろ神殿での祭儀に欠かせないものであり、強欲とは言えないものだったのです。

しかし、そうだとすれば、なぜ主イエスは、これほど激しい怒りを向けられたのでしょうか。ヨハネによる福音書は、主イエスが、家畜を鞭で追い払い、両替人の金をまきちらし、台を倒したとありますが、それは非常に乱暴なことのように思えます。そして、それは私たちと同様に、いや私たちが感じる以上に、当時、神殿にいたユダヤ人やイエス様の弟子たちを驚かせ、戸惑わせたことでしょう。なぜなら、彼らは、当時のユダヤ人として、神殿における両替や家畜の売買を日常的な光景として認識していたからです。そのため、18節に記されているように、ユダヤ人たちはイエス様の行動に対して憤慨します。そして、より重要なのは、一般のユダヤ人だけでなく、弟子たちにとっても、主イエスの行動の意味は理解を超えたものだったということです。

ヨハネによる福音書は、この宮清めの出来事を、弟子たちの証言、弟子たちの回想とたくみに結び合わせています。それは、17節で、主イエスの言葉を受け、弟子たちは「あなた家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と聖書に書いてあるのを思い出し、さらに、22節では、「イエスが死者の中から復活された時、弟子たちはイエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」と記されております。

この内、17節の言葉は、少し分かりづらいですが、この言葉は、主イエスが商人たちを追い出された時に、弟子たちが「ただちに」聖書の言葉を思い出したというのではなく、主イエスの復活の後に、弟子たちが改めて思い出したということだそうです。そして、22節の箇所では、はっきりと、この時ではなく、主イエスが復活された時、はじめて、この出来事を思い出したと記されています。

つまり、弟子たちは、主イエスの復活の出来事を経験することで、はじめて、この時、主イエスが語られた「三日で神殿を立て直して見せる」という言葉の本当の意味を理解したということになります。神殿とは、人間が作った建物ではなく、真の神である御自身の体そのものを指していたのだということを、弟子たちは、復活の出来事を通してはじめて悟ったというのです。

宗教改革者のカルヴァンは、この17節、あるいは22節の解説の中で、次のように語っています。「神のわざの理由は、必ずしもすぐに明らかになるものではなく、そののち時が経つにつれて、神はわたしたちに、その意味を明らかにするものである。」さらに、このようにも語ります。「弟子たちは、キリストがそれを言った時には、何も理解しなかった。しかし、そののち宙に消え忘れ去られたと見えたこの教えが、時が来てその実りを結んだのである。だから、キリストのおこないや言葉の内に、差し当たって理解できないことが多くあるとしても、そのために絶望して、すべてをあきらめ、即座に理解できないものをなおざりにしてはならない。」

 

ここでカルヴァンが語っているのは、一言で言えば、信仰の成長ということができるでしょう。聖書の言葉は、私たちが読んですぐに理解できることばかりではありません。いや、むしろすぐに理解できることの方が少ないものです。しかし主イエスの教えは、その時、理解できなくても、私たちの心に種となって残ります。そして、時が来た時、はじめてその言葉は、花開くことになります。その時、私たちは、聖書の言葉の意味をより深く悟り、それによって、信仰が一層成長するということが起きるのです。

弟子たちは、主イエスが神殿から商人たちを追い出された時、その意味を悟ることはできませんでした。また、その時に主イエスが語られた、神殿を「三日で建て直してみせる」という言葉の意味も理解することはできませんでした。しかし、主イエスの復活の出来事を通して、弟子たちは、かつて主イエスが語られた言葉の本当の意味を正しく理解するに至ったのでした。

このことは、私たちの信仰生活にも当てはまるのではないでしょうか。私たちの信仰の歩みの中でも、様々な予測もできない出来事、理解を超えた出来事に直面します。そのような出来事に直面する時、私たちは戸惑い、信仰が動揺させられることも起こり得ます。なぜ神はこのようなことを私になさるのだろうか。そのように問わざるを得ない時もあるでしょう。

しかし、今は理解できなくても、やがて、そのことの意味が明らかになる時がやってきます。その時、私たちは、弟子たちと同じように、聖書に記された主イエスの教えを思い出し、一層信仰が増し加えられ、神を賛美することになります。どのようなことが起きようとも、聖書の言葉を信頼し、神の御心を信じて、信仰生活を送りたいと願います。

祈りましょう。