聖書:イザヤ63章16節、ヨハネによる福音書17章1-5節
主イエスさまの教えてくださった祈りは、神さまへの呼びかけから始まります。話し始める前に、聞いてもらいたい相手の名前を呼ぶということは大切です。私たちは誰に向かって話しているのか、はっきり意識することが必要ですが。そのことは、祈りにおいてはなおさらのことです。よく子どもが遊びながら、一人でぶつぶつ言っているのを見ます。時には大人も歩きながらぶつぶつ言っているのを見かけます。しかし、自分は一体だれに向かって話しているのか、考えを述べているのか、このことに気がつく人は幸いです。
なぜなら、私たちは心の中で話をしているうちに次第に後ろ向きな考えに陥ることがあるからです。「お前は駄目だ」という声や、人々の批判、陰口、悪口、そしりなどが、まるで耳元に語られるようにリアルに聞こえるならば、わたしたちは決して善い者との対話をしているのではないのです。ですからわたしたちが心の中で話す時、誰に向かって話しているのか、私たちの話を聞いている相手を知ることは非常に大切です。もし、私たちが悪魔に向かって話しているとしたら、いつの間にか邪な考えや、自分を破壊するような考えに陥ってしまうのは当然なのではないでしょうか。
わたしたちの考え、願い、不安などを、もし実際に人に聞いてもらうなら、相手は誠実な人でなければなければならないのです。わたしたちの弱さに付け込んで来るような者、また悪い道に唆すような人には、決してわたしたちの思いを聞いてもらいたくないものです。こう考えますと、人にも語ることを用心しているわたしたちの思いを、神さまに聞いていただくという時には、何よりも大切なことは神さまに対する信頼です。わたしたちはお祈りする時には、まず第一番に神さまが誠実な方であることを信じなければなりません。
イエスさまの弟子たちは、イエスさまが祈るのを見ていていました。人々に無くてはならない神さまの言葉を語り、救いの御業を行うことは、この世の勢力との戦いでした。そのために、イエスさまは夜を徹して祈り、ご自分の全てを神さまにゆだねておられた。弟子たちはそのことを知っていました。それで主の祈りを教えてくださいとお願いのでした。
そこでイエスさまは、祈りは何よりもまず、神さまに呼びかけなさいと教えられました。そして「天におられる父なる神さまと呼びかけなさい」と言われたのです。天とは何でしょうか。どこにあるのでしょうか。創世記第1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。しかしイエスさまの教えられた天とは、天地を造られた、その「天」ではありません。「天におられる神さま」と呼びかける天とは、神さまのおられるところを意味します。イエスさまは復活後、天に昇られたと、教会が告白する使徒信条。その告白の中で言われる天のことです。
天におられる神さまは、イエス・キリストの父なる神さまであります。そして、イエスさまは言われました。御自身の父である神さまのことを、「あなたがたも、わたしと同じように『わたしたちのお父さん』と呼びなさい」と。考えてみれば、これは何と驚くべきことではないでしょうか。何と恐れ多いことではないでしょうか。わたしたちは神さまのことを全く知らなかったのに、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけることが許されたのです。
今日読みました旧約聖書、イザヤ63章16節を読みます。「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても、主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です。」神さまはその昔アブラハムを呼び出され、祝福を約束されました。(創世記12章2節)「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」しかしイザヤ書の預言者の時代、アブラハムの子孫の国は荒れ果て、やせ衰え、人々は国を追われ、イスラエルの民はほんのわずかとなりました。
それは、神さまが約束をたがえたからではありません。逆に、イスラエルの人々が神さまに逆らい、その愛に背き、真心を踏みにじった結果なのであります。こうしてイスラエルの人々は諸国の中でも惨めなもの、見捨てられたもののようになりました。その時、預言者は立ち上がって人々のために神さまに訴えているのです。わたしたちは落ちぶれ、みすぼらしい民となってしまっているけれども、あなたはわたしたちの父ですと、神さまに告白しているのです。もしも、わたしたちの先祖であり、信仰の父であるアブラハムがわたしたちの現在の姿を見たら、驚きのあまり、「ああ、こんな惨めな、わずかばかりの人々がわたしの子孫なのか。そんなはずはない。」と叫ぶかもしれません。わたしたちのことを「そんな人々は全く知らない。私と関係ない」と言うかもしれません。
本当に信仰の父アブラハムのことを思えば、そういわれても仕方がない。アブラハムは主なる神さまに従って旅に出、人生の苦難を耐え忍びました。しかも自分のために耐え忍んだのではない。あらゆる人々のわがまま、身勝手に悩みながら、耐え忍びました。神さまの約束を信じて、約束されたものを自分の時代に受けなかったけれども、信仰を抱いて死にました。更にまさった故郷を、天の故郷を熱望していたからです。そのアブラハムと比べて自分たちの惨めさはどうだろう。神さまからいただいた豊かさに、繁栄に飽きたりて、得意になって、豊かに恵んでくださった神さまを忘れてしまった。わたしたちは真に恩知らずの民なのだ、とイザヤ書の預言者は知っているのです。
しかし、その上で、彼は神さまに訴えます。「主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です」と。このような罪深い者をお見捨てにならず、永遠の昔から、贖ってくださる神さま、わたしたちはあなたがそういうお名前を持っていらっしゃることを告白します」と。私たちはどうでしょうか。さんざん不信仰な人生を歩んで来た。でも、「私もそうだけれども、あの人はもっとひどいではないか」と言って、非難し合うのでしょうか。それとも、「今頃になって神さまに救ってくださいと言うほど、私は恥知らずではない」と言って、神さまに助けを求めないのが正しいのでしょうか。
しかし、預言者は訴えました。「あなたはわたしたちの父です」と。「あなたこそ、わたしたちの贖い主です」と。「あなたのお名前は、永遠の昔から変わることがありません」と。そしてこの訴えこそ、神さまの真のお姿、お名前を人々に指し示すこととなったのです。
イエスさまは地上で弟子たちと共に歩まれる間、み言葉の説教と驚くべき御業によって永遠の命がここにあることを証ししてくださいました。そして地上を去るときが近づいた時、弟子たちの前で声に出して祈られました。それが今日の聖書ヨハネ17章1節です。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」このように声に出して祈られたのは、聞いている人々が主の祈りによって教えられるためでしたでしょう。父よ、と祈る祈りによって、神さまがどんなに恵み深い方であるかを言い表されたのです。「あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために」とは、神の子イエスさま御自身が、天の父なる神さまの栄光を現わすようになる」ということです。
神さまの栄光を現わすために、イエスさまは十字架に死なれました。イエスさまはすべての人の罪を贖うために、神さまの御心に従われたのです。このイエスさまを神さまは復活させ、罪の贖いを成し遂げられました。このことによって神さまの栄光が明らかになったのです。なぜなら、イエスさまによってどのように罪深い者にも悔い改めによって救いの道が拓かれたからです。イエスさまは天に昇られ、そこから、私たちを見守り、聖霊を注いで、私たちと私たちの教会を導いてくださっています。
このイエスさまが地上で弟子たちに教えられた祈りを、私たちも祈ることができるとは、本当にありがたい恵みであります。父なる神さまは、人間の父のように、子を愛し助けてくださる方です。また私たちの悪い行いをご覧になった時、それを裁き、罰してくださるのは、私たちを滅ぼさないためです。ただ天の父の恵み深さ、忍耐強さは人間の父とは比べものになりません。そのことを私たちはイエスさまによって知らされています。
今に至るまで、そしてこれからも地上に目に見える形で教会があることを私たちは知っています。そして地上の教会が正しく建設されるならば、それらは目に見えない一つの教会を指し示していることを私たちは信じています。教会は、主が私たちのために試練と苦難を通して、救いの道を開いてくださったことを証ししています。そこで私たちはイエスさまの父なる神を、あたかも本当の父であるかのように、「父なる神よ」と呼びかけることができるのです。
この呼びかけの言葉は、イエスさまの苦難と死を通して恵みによって救われたことを思うときに、改めて心の底から発することができるでしょう。心からの信頼と感謝をもって。そしてまた、私たちは天のお父さまと呼びかけるとき、神さまの前に本当に小さな子供のように立ちましょう。年齢も、職業も、何も関係なく、神さまの前にたちは幼子のようなものではないでしょうか。分別がある、知識がある、と思う人も、明日のことさえ分からない。また自分の正しささえ、本当には分からない。そんな小さな者に過ぎないのです。
これまでの私たちの歩みを振り返ると、私たちの教会の将来も、自分の将来も、だれも正しく予測もすることも予定することもできませんでした。ただ私たちは教会に集められ、共に礼拝し、共に祈ることができたからこそ、今日があることを思います。先々の事まで見通そうとすると、楽観的になれることはなかなか見い出せないことが多いのではないでしょうか。すると、自分だけ取りあえず助かろうとするのか、どこかもっと有利な立場を求めて動き回る人々は多いのです。そうして離合集散を繰り返すのですが、私たちはここに神さまが集めてくださったことを大切にして来ました。この群れはただの人の集まりではなかったからです。イエス・キリストさまが御自分の血によって贖い取って神の子とされた人々、すなわち教会だと信じたからです。
教会は建て物ではありません。人々がいるから教会なのでもありません。教会は信じるからこそ教会とされるものです。イエスさまの建てられた教会が、今もイエスさまが天から送ってくださる聖霊によって、教会とされているのです。聖霊は、私たちに来てくださって、私たちが主の祈りを祈ることができるようにしてくださいます。「天におられるわたしたちの父なる神さま、」と親しく祈ることができるのも、イエスさまの送ってくださる聖霊がわたしたちと共にいてくださるからに他なりません。
ローマ8章15-16節を読みます。284頁。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊こそは、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」今日のカテキズム問56 「主の祈りは、どのような言葉で始まっていますか。そして答は、「『天におられるわたしたちの父よ』です。私たちは、イエスさまによって神さまの子どもとされたので、天におられる神さまを『父よ』と呼びかけることから始めます」です。主の祈りを与えられていること自体が限りない恵みでありますから、共に主の体の教会に連なり、父なる神さまを呼び求めて参りましょう。祈ります。
御在天の主なる父なる神さま
尊き御名をほめたたえます。一年で一番寒さの厳しい季節、インフルエンザも猛威を奮っている中、私たちを今日の礼拝に集めてくださり、み言葉によって罪の赦しをお知らせくださいました。集まることのできたわたしたちは真に小さな群れですが、背後に教会員は祈りを合わせております。集められた者も、集まることのできなかった者も、どうかあなたの恵みによって、私たちに豊かな慰め、励ましをお与えください。聖霊の神さまの助けによって病が癒され、弱り果てている者も、疲れている者も、あなたの平安で満たされ立ち上がって行くことができますように。
主よ、私たちは2019年度新しい先生方を招聘するべく道が開かれましたことを思い、真にあなたのお導きを感謝申し上げます。どうか私たちの小さな力を励まし奮い立たせて善き準備をなすことができますようお助け下さい。来週の長老会議には藤野先生ご夫妻にご臨席いただき、準備を始める予定ですが、御心に適って進めることができますように。長老会の働き、また教会学校の働きを祝し、御力をお与えください。
また、記念誌の発行までの道筋をも整えていただき、真に感謝致します。この教会が東日本連合長老会の中で共に学び、共に教会を形成する働きに加わって行くことができますように。私たちの教会を慈しんで励ましてくださる主が、共に歩む東日本の諸教会とその長老信徒の皆様を豊かに慈しみ励ましてください。
皆様のご健康を祝し、整えてください。この厳しい季節の困難の中にある全国の教会を励まして助け導いてください。
この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。