悲しみが喜びに変わる

《賛美歌》

讃美歌56番
讃美歌338番
讃美歌515番

《聖書箇所》

旧約聖書  イザヤ書 26篇17節 (旧約聖書1,100ページ)

26:17 妊婦に出産のときが近づくと/もだえ苦しみ、叫びます。主よ、わたしたちもあなたの御前で/このようでした。

新約聖書  ヨハネによる福音書 16章12~24節 (新約聖書200ページ)

16:12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
16:14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
16:15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
16:16 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
16:17 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
16:18 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」
16:19 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。
16:20 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
16:21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
16:22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
16:24 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

《説教原稿》

イエスは今や十字架の時、父なる神の御許へ帰る時が近付いていたので、弟子たちに対して告別の説教をされてきました。しかし、弟子たちにはそれらのことが十分に理解出来たわけではありませんでした。

助け主なる聖霊が弟子たちに派遣されることと、その働きについては、ヨハネによる福音書14章で、主イエスは、ハッキリと弟子たちに話されました。16章7節では、主イエスが去ることが「弁護者」の到来という益をもたらすとまで語られています。この「弁護者」とは、皆様がよくご存知の「聖霊」を指しています。この聖霊が派遣されると、8節にあるように、この世に対しては「罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」のです。

そして、本日の12節以下に入ります。そこには主イエスが弟子たちに、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」と、主イエスの弟子たちに対する別れの言葉が続いています。主イエスは、とにかく弟子たちに慰めと励ましの言葉を残し、聖霊を派遣されようとしておられるのがよく分かります。

派遣される聖霊の働きとは、13節にあるように「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と弟子たちに対して真理を明らかにするのです。弟子たちは、しばしば主イエスの言葉を十分には理解出来ませんでした。しかし、弁護者である聖霊は弟子たちに主イエスの言葉の意味を明らかにして、弟子たちをすべての真理に導くのです。主イエスこそが、その十字架においてこの世を救われ、聖霊はこれらのことを世に対して明らかにするのです(8‐11)。従って14節にあるように「その方(御霊)はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである」と聖霊の働きがはっきり述べられているのです。16節には、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」と、またしても弟子たちの理解出来ないことを言われました。弟子たちは、主イエスの言葉と態度に、何かしら、いつもと違うただならぬものを感じ取っています。張りつめた空気が漂っています。しかし、その言葉の真意を悟ることができませんでした。

この時になっても、まだ主イエスが明くる日に十字架にかかって死なれることになるということを、弟子たちは誰も信じることができなかったのです。弟子たちは互いに、言い合いました。17節と18節に、そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」と、弟子たちのうろたえた様子を伝えています。

聖書を読んで、この後の展開を知っている私たちにしてみれば、もどかしい気もします。「ここまでイエス様がおっしゃっているのに、どうしてわからないのか。」何か映画やドラマのあらすじを知っている者が、その物語の中の登場人物が、それが分らずにいるのがもどかしく見えるのに似ているかも知れません。すぐ横に解決のヒントがあるのに。犯人が分かっているのに。でもそれに気づかないで、通り過ぎていく。テレビドラマなどを見ていると、こちらも、じれったくてイライラしてきます。「ほらそこにいるのに、どうして気づかないの。すぐそこにいるじゃないの。そっちじゃない! こっちだ、こっちだ!」テレビを見ながら、本気で叫んでいる人もいます。

しかし考えてみると、私たちと主イエスの関係も、これと似たところがあるのかも知れません。すぐそばにおられるのに分からない。すぐそばに解決のヒントがあるのに、それに気づかないのではないでしょうか。それをもう一つ、別の視点で見れば、「救いはそこまで来ているのに、どうして気づかないの」ということになるかも知れません。

その気付かぬ弟子たちに主イエスはお答えになります。続く19節で、「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」とあります。

この時、弟子たちは不安と恐れの真っ只中にありました。主イエスがまだ目の前におられる訳ですから、まだ悲しみはそれほど感じていないかも知れません。しかし、主イエスは彼らの悲しみを先取りして、しかもその悲しみは一時的なものだと言って慰め、その先には喜びが待っていると告げられるのです。

少し前の14章19節に「しばらくすると」という言葉が1回出てきます。ところがこの16章では、何と7回も出てきます。この「しばらくすると」と言う言葉が、これから「しばらくすると」自分はいなくなる。しかしまた「しばらくすると」帰ってくる。主イエスは、悲しみに続く喜びまで語っておられるのです。

「しばらくすると」とはおもしろい表現です。日本語訳の幾つかの聖書を読み比べてみましたが、どの聖書も「しばらく」という言葉を使っています。この「しばらく」というのは、「ほんのわずかの間」という意味です。ちなみにギリシャ語では、ミクロンという言葉です。ミクロンというのは、目に見えない小さな世界です。それほど小さな時間、という意味なのです。

時間の感覚というのは、非常に主観的なものです。「しばらく」というのも、それがどれ位の長さなのかは、状況次第です。人によって受けとめ方が違います。同じ時間でも、楽しい時間はあっという間に過ぎますが、苦しい時間は、言いようもなく長く感じたりします。「テレビドラマの30分はあっという間なのに、教会の説教の30分は何でこんなに長いのか」と感じている人もおられるかも知れません。そう言われないように私も頑張り、今日は30分丁度で終ります。

弟子たちにとって、主イエスと一緒にいた「しばらく」の間は、あっという間に過ぎたことでしょうが、十字架の後の悲嘆にくれた「しばらく」の間は、とても長く感じられたことでしょう。

この最初の「しばらくすると」の後は、主イエスの受難、十字架の死を指しているのですが、その次に「喜びに変わる」時とは、復活を指していると読むこともできますし、「聖霊降臨」を指している、と読むこともできるでしょう。

いずれにせよ、主イエスは弟子たちの疑問に明確な答を与えられませんでしたが、弟子たちの悲しみがやがては奪い去ることの出来ない喜びに変る日が来ることを約束されたのです。

もともとヨハネ福音書は、ルカ福音書のようにはっきりと復活の40日後に聖霊降臨という出来事があったという書き方をしてはいません。復活と聖霊降臨が同時であったと読まざるを得ません。ヨハネ福音書の聖霊降臨は20章22節で復活の主イエスが弟子たちの家を訪れ、戸に鍵がかかっているのに、ドアをすり抜けて、弟子たちに息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい」と言われるのが聖霊降臨にあたります。

私たちは生きて行く中で、つらい悲しみや苦しみの時があります。また、それに代わる喜びの時もあります。今日の20節の終わりでは「悲しみが喜びに変わる」と主イエスははっきりと言われています。悲しみと喜びが無関係に交互に現れてくるのではなくて、悲しみが喜びに変わると言われています。しかも、このことをたいへん具体的な例で21節に「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。」と、「時」という言葉を使いながら、女性の出産前後の苦しみと喜びのことを表しています。女性が出産後、一人の人間が世に生まれ出る喜びのために、もはや出産の苦痛を思い出さないことに譬えています。今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

16章で7回も出て来た、「しばらくすると」は終末の日を指し示している、という風に読むこともできます。未だこの約束は実現していない。私たちにはまだ悲しみが残っている。そのことは、22節の「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」とあります。この喜びは、わずか一時(いっとき)であるというのではありません。

今日の聖書箇所の時点では、何も分からなかった弟子たちでした。悲しみで心が閉ざされていて、喜びなどなかったのでした。しかし喜びが与えられると主イエスから約束されたことが実現します。20章19節以下に、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります。弟子たちは復活の主イエスに出会い、本当に「喜んだ」のです。

主イエスは22節で言われました。「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」とあります。主イエスが与えてくださる喜びは、決して奪い去られないものなのです。

これらはあの2000年前のユダヤで主イエスの復活と聖霊降臨の日に起こったことでした。現代の私たちにしてみれば、主イエスは目に見えるお姿ではおられません。目に見えない聖霊として臨在してくださっているのです。しかし終わりの日にはすべての人の目に明らかに現われてくださる。23節には、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない」とあります。なぜ尋ねないのか。すべての疑問が解けるからです。主イエスと顔と顔を合わせて一体となる世界が実現するのです。尋ねる必要がないのです。

主イエスが復活される。それは死を乗り越えることです。それだけではありません。私たち人間の罪を乗り越え、悲惨さを乗り越え、病を乗り越え、悲しみを乗り越え、苦難を乗り越える。あらゆることを乗り越える喜びが与えられるということなのです。

たとえ私たちの人生がどのようであっても、一週間ごとに喜びが約束されている人生が私たちキリスト者の人生です。たとえどのような一週間を送ったとしても、私たちはここに集い、与えられている喜びを新たに受け取り、新しい一週間を始めていくのです。

今日の聖書箇所の23節後半には、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

この「願いなさい」というのは、今日の聖書箇所の文脈に合わせて「願いなさい」と訳されていますが、本来は「求めなさい」と訳すべき言葉です。「求めなさい。そうすれば与えられる。」、何が与えられるのでしょうか。喜びです。決して取り去られることのない喜びが与えられる。主イエスがそのように約束をしてくださり、その約束が本当に私たちの間で実現されていくのです。

お祈りを致します。

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三位一体の神

聖書:エゼキエル書37章11-14節, ヨハネによる福音書16章7-15節

 キリスト教の信仰は、二千年の歴史を経て教会が受け継いで来たものです。私たちは教会の信仰、つまり、教会は何を信じて来たのか、ということを学んでいます。この学びが正しく誠実になされるならば、それは、必ず神をほめたたえる礼拝として、捧げられることになるからです。

わたしたちの教会は礼拝で使徒信条を告白しています。しかし同時にわたしたちは日本基督教団に所属する教会ですから、教団の信仰告白をも持っています。日本基督教団信仰告白は、1890年に日本基督教会が制定した信仰告白を土台にして、1954年に完成したものです。世界中には各国、各地域の教会が生み出した信仰告白があり、またこれからも各地域、各時代の教会の戦いの中で新しく生まれる可能性があります。

その一方、使徒信条のような基本信条は初代教会、また古代教会の信仰を伝えるもので、同じ信仰告白の下に、全世界に福音が宣べ伝えられ、主の体の教会が建てられるための土台であります。そのことは昔も今も変わりありません。日本基督教団の信仰告白も元を正せば、使徒信条の信仰の上に立てられている訳です。

さて、本日は「三位一体の神」という説教題を掲げました。この言葉は聖書の中に書かれている言葉ではありません。しかし、日本基督教団信仰告白には次のようにあります。「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証しせらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ」と。一(ひと)頃(ころ)、何かと信仰告白や聖書の文言を批判する考えが教会の内外で盛んな時期がありました。その批判は、ついに信仰告白にまで及び、「三位一体なんて言葉は聖書にはない」とか、「そんな言葉はもう古い」などと言われたことを思い出します。ところが、当時の小泉首相が三位一体の改革と銘打って、税制改革を打ち出すと、それは教会の言葉だということが社会に改めて認識されました。その後は三位一体に言いがかりをつける風潮は下火になって行ったことは不思議でした。

教会暦について少し申しますと、待降節、降誕節、受難節、復活節と教会暦は進みます。ペンテコステの後の主日は三位一体の日と呼ばれ、その後は、日本基督教団の教会では聖霊降臨節と呼んでいるようですが、これはいつからか、分かりません。しかし、世界中で用いられている「日々の聖句」では、教会暦は、三位一体後は待降節までずっと三位一体節という名称が用いられています。成宗教会では、少なくとも大石牧師の時代には、この三位一体節という名称を使っていました。そこで私もこの教会の伝統を踏襲して、そのまま三位一体という名称を残して参りましたのは、当時の教団の風潮に対するささやかな抵抗の気持ちでありました。

三位一体の神の信仰は、教会にとって真に要であり、土台となるものです。本日はエゼキエル書37章を読んでいただきました。預言者エゼキエルは、心頑なな信仰共同体の民に、神の言葉を語る召命を受けたのです。しかし、人々の頑なさは、神の言葉から遠ざかり、自らに不幸を招くばかりでありました。大きな者強い者から、小さな者弱い者に至るまで皆、神に背き、その結果は悲惨でした。国は破れ、能力ある者は神の僕となる代わりに、他国の民の奴隷となりました。そして美しい谷は戦場となり、死者の骨で埋め尽くされたのです。その時、エゼキエルは命令を受けました。預言せよと。しかし、心頑なな人々に預言せよ、というのではありません。神は言われます。「骨に預言せよ」と。

「骨は枯れた。望みは失せた。我らは滅びるばかりだ」という骨に向かって。エゼキエルは死に絶えた者に神の言葉を語りました。主の言葉。「わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」と。霊とは何でしょうか。それは息です。神の息です。創世記第二章に神は土から、塵に等しい人間を造られました。そして息を吹きかけられました。神の息によって、神の霊によって、人は生きるものとされたのです。

その時のように、今、再び人間が創造されます。罪に死んで、背きに背き、ついに枯れ果てた骨に神の言葉が語られる。人はみ言葉によって再び生きる者とされる。神の息が吹きかけられると人々は再び立ち上がる。再び礼拝の民が形成された。罪に枯れた人の復活。それはすべて、神の息、神の霊のなさる御業であります。

この神を証しするために、キリストは地上に降って来られました。「わたしを見た者は父を見たのだ」と御子は言われました。地上でキリストにお会いした弟子たちは、キリストを「先生」と呼び、「主よ」と呼び慕いました。「あなたはメシア、生ける神の子」と告白し、「あなたのためなら命を捨てます」と告白しました。皆、それほどキリストを愛していたのです。しかし、弟子たちは父なる神と御子キリストが一つであることを本当に理解してはいませんでした。

弟子たちは、キリストが父の御もとに行くと言われた時、悲しみで一杯になりました。その彼らを、キリストは慰めようとして言われた。それが今日の言葉です。7節「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」弟子たちはいつも目の前に主の御姿を見ていたいのは真に当然の気持ちでありました。しかし、キリストは何が本当に彼らの得になるかを教えておられます。御自身が弟子たちの傍を離れ、天の父の御許から神の聖霊を弟子たちに送ってくださる時、それは聖霊のあらゆる賜物を送ってくださることと同じなのですから。その恵みがわたしたちに伝達される時、それはキリストのお姿を見るよりもはるかに素晴らしく、望ましいことなのだ、と主イエスは力を尽くして語っておられます。

「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」と主は言われました。聖霊は、ただ個々人の弟子に来てくださって心に住んでくださるのではありません。聖霊を受けて弟子たちは、全世界にイエス・キリストの福音を宣べ伝えることになります。「世」と言われているのは、これから福音を聞く人々すべてを含む人々です。福音を聞いてすぐに悔い改める人々もいるでしょう。その人たちはどうして悔い改めたのでしょう。どうしてキリストを信じ、従うようになるのでしょうか。

それは、罪ということが分かるからです。特に他人の罪ではなく、自分の罪について分かるから、神の前に心が低くされるのです。罪とは何でしょうか。これを宣べ伝えるのは大変です。人々は罪について考えないからです。あるいは他人のことだと思っているからです。福音を宣べ伝えるにあたって、罪のことを告げるのは難しいことです。もし、律法について宣べ伝えるとしたら、その方がはるかに分かりやすいでしょう。もっとも、喜ばれるかどうかは別です。「あれをすれば救われる。」「これをすれば救われる」というのは、逆に言えば、「できなければ救われない」ということですから。わたしたちも子供の時からそういう教育は徹底して受けています。「良い子にしていないと○○はもらえないよ」とか、「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるよ」ということです。

しかし、福音を宣べ伝えるために、「聖霊は罪について世の人々の考えの間違いを正される」と主は言われました。では、罪とは何か。罪とは、キリストを信じないことです。キリストを見た者は神を見たのです。またキリストは、父の御心を常に言い表し、常に行ってくださいました。この方は罪人のために十字架にお掛かりになり、罪人の罪の贖いのために死んでくださいました。そのことは、世の人々には俄かに信じられないのです。なぜなら、世の人々には、「神とキリストが同じ心であるとしても、そんなはずはない」と思われるからです神さまはそんなにお人よしなはずはない」と思う。「神さまはそんなに優しいはずがない」と思う。そして更に、欲張りな人は、「神さまは狡い、自分ばかり何でも持っていて」と思い、冷酷な人は「神さまは冷酷なんだ」と思っている。そして「自分も何でも持ちたい、何でもできるようになりたい。神さまがしているように人を踏みにじっても、蹴倒しても・・・」と思うに至る人々も少なくないでしょう。

罪はキリストによって証しされた神を信じないこと。このことこそ、実に神の愛を踏みにじる罪なのです。罪の唯一の原因は不信仰であるとキリストは言われました。目の前にキリストを見ている弟子たちも、キリストの姿が見えなくなったときこそ、信仰が問われるのです。見ないで信じる者は幸いである、と主は言われました。そして、キリストは弟子たちを聖霊によって幸いな者にしてくださいました。彼らに聖霊が来てくださった時、聖霊は信仰の確信をもたらしてくださったからです。

また、聖霊が来られる時、義についての世の人々の誤りを正してくださるでしょう。人が第一に、人が自分の罪に心を動かされなかったら、決して神の正しさを求めて、飢え渇くことはないでしょう。何よりもまず、謙虚な思いにさせられなければ、福音のうちにいささかも成長を遂げることはできないからです。律法の目的は、人々に自分では正しいことができないことを思い知らせ、神の裁きに恐れ慄かせるものです。しかし、それに対して福音の目的は、私たちを罪ある者から正しい者へと変えることであり、死から救い出して命に導き入れることに他なりません。

私たちの正しさとは、律法を守ることによって達成される正しさではありません。それは、主イエス・キリストの恵みによって私たちに伝えられる正しさ、義であります。主は「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」これは、ローマ4章25節の御言葉です。279上。復活された主は天の父の御許に昇ることによって、私たちの救いを成し遂げてくださるのです。エフェ4章10節に次のように書かれているからです。「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりもさらに高く昇られたのです。」356上。

讃美歌第二篇に「シャロンの花」という讃美歌があります。キリストをシャロンの花にたとえて主をほめたたえている讃美歌です。「シャロンの花、イエス君よ、わがうちに開き給え、善き香り麗しさを我に分かちあたえつつ・・・。また「二番にはわがことば行い皆、なれのごとくになるまで」と歌います。天に昇られたキリストが天の栄光の座にいらして、キリストの義の甘美な香りと快い匂いとをもって、全世界をかぐわしいものとする。この希望は天に昇られたキリストから遣わされる聖霊の賜物によって、教会が清められ、日ごとに成長させられることによって成し遂げられる恵みです。そして、13節を御覧ください。

「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて審理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」聖霊もまた、神の御心を忠実に告げ知らせることが語られます。ですから、父も子も聖霊も三つの位格で表現された一人の神であり、全く同じ神として崇め礼拝されるべきなのです。

教会の歴史には、様々な誤った教えが現れました。聖霊の神についても聖霊が特定の人にだけ降るように解釈し、聖書を差し置いてその人の考えを尊重するように主張する考えも起こりました。教会は、近代、現代でも同じ試練を受けています。多くの学者や牧師などが、自分は聖霊によって独自の新しい考えを与えられたと考え、自分の考えは聖書の教えに優ると主張することがあるからです。

しかし、聖霊はイエス・キリストから切り離された賜物をもたらすことはございません。知恵と知識のすべての宝はキリストの中に隠されているのですが、それは十字架に付けられた形で見ることのできるキリストです。聖霊の導きによって教えられる時、弟子たちには満たされました。それは、彼らが聖霊から受けた知恵を人から人へと与えるためであり、使徒たちはその義務を果たしたのです。わたしたちの信仰の高さ、広さ、深さはキリストの中に顕わにされた神の愛がどのようなものか、知ることにあります。今日は特に聖霊の神についてお話ししましたが、5世紀の神学者、聖アウグスチヌスは語りました。「父、子、聖霊のどれかお一人がおられるところに三位一体なる唯一の神がおられることを信じるべきである」と。祈ります。