聖霊の賜物

主日ペンテコステ礼拝説教

《賛美歌》

讃美歌177番
讃美歌291番
讃美歌352番

《聖書箇所》

旧約聖書  イザヤ書 55章6節 (旧約聖書1,152ページ)

55:6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
呼び求めよ、近くにいますうちに。

新約聖書  ルカによる福音書 11章1~13節 (新約聖書127ページ)

◆祈るときには

11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
11:4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

《説教原稿》

本日は「聖霊降臨日」ペンテコステと呼ばれ、教会の生まれたことを記念する日です。

この「ペンテコステ」という言葉は、旧約時代のイスラエルの三大祭りである、出エジプトを記念する「過越祭」、その「過越祭」で大麦の初穂の束をささげる日から数えて7週間目の「七週の祭り」が起源です。出エジプト記に既に見られるこの祭り(出34:22)は、過越祭から7週即ち49日空けて50日目に行なわれる祭りです。これは10日間が5回来るというギリシャ語のペンテーコンタ・ヘーメラスと呼ばれ、日本語で「五旬節」と呼ばれるのです。イスラエルの三大祭りはこの「過越祭」と「五旬節」の2つに「仮庵祭」が加わったものです。旧約時代は、大麦の収穫の終りを意味し、次の小麦の収穫が始まるお祝いでした。そのため出エジプト記では別名の「刈り入れの祭り」(出23:16)とも、民数記では「初穂の日」(民28:26)とも呼ばれていました。これらの祭は、既にソロモン王の時代にはイスラエルの「三大祭」として守られていました(Ⅱ歴8:13)。何故、教会の生まれた日であるかは、使徒言行録2章1節以下にあるように、主イエス・キリストの十字架の死から復活と昇天の後、この「五旬節」の日に弟子たちはエルサレムの家に集まっていた時に、天から聖霊が送られたことによるのです。聖霊が天から弟子たちに下り、新しい命、力、そして恵みがもたらされ、弟子たちを中心にして教会が形作られました。このことから「五旬節」が「聖霊降臨日」、教会誕生の日となったのです。

本日のルカによる福音書第11章は私たちが礼拝でささげる「主の祈り」についてかかれているところです。冒頭に、「イエスはある所で祈っておられた」とあります。ルカはこれまでにもたびたび、主イエスが祈っておられる姿を語ってきました。

他の福音書よりルカ福音書は主イエスが祈りの人であられたことを強調しているのです。祈りは、基本的に神様との一対一の対話です。祈る自分と相手である神様とが、どちらも生きており、意志を持っており、言葉を持っている者であり、人格的な交わりであるのが祈りです。

主イエスは、祈りの中で、神様に「父よ」と呼びかけておられます。神様のことを「父」と呼ぶことは、旧約聖書にもないわけではありません。しかしそれはあくまでも、神様の威厳や力、慈愛、守り、導きといったことを表現するための譬えでした。ここで、主イエスが「父よ」と祈られた時にはそれは、ご自分と神様との間に、父と子の深い信頼関係があることの表明だったのです。主イエスと父なる神様との間には、父と子としての一体性、信頼と愛に満ちた人格的な交わりがあるのです。そのことを表しているのが、「アッバ」という言葉です。主イエスが神様に「アッバ」と呼びかけて祈っておられたことを他の福音書が伝えています。これは、小さな子供が父親を呼ぶ言葉、日本語で言えば「父ちゃん」とか「パパ」とでも呼ぶような言葉です。主イエスはそのような親しみを込めた言葉で神様に呼びかけ、祈っておられた、それはユダヤ人たちの常識からすると驚くべきことでした。主イエスの祈りがユダヤ人たちや弟子たちを驚かせたのは、主イエスの神様との交わり方が変わっていたからです。弟子たちは主イエスが神様との間に持っておられる、父と子のような信頼と愛の交わりに驚き、自分たちが知らない、体験したことのない祈りの世界にあこがれを持って、「わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったのです。この願いに答えて主イエスが、「祈るときには、こう言いなさい」と教えて下さったのが、この礼拝においても共に祈る、「主の祈り」です。この祈りを教えることによって主イエスは弟子たちを、そして私たちを、主イエスの祈りの世界へと招いて下さっているのです。主の祈りとはこのように、私たちを、主イエスを通して与えられる神様との新しい交わりへと招き入れるものです。主の祈りを祈ることによって、私たちは、神様との新しい関係に入ることが出来るのです。神様との間に、新しく父と子としての信頼と愛の関係を持つことです。しかもその関係は私たちの努力や精進によって獲得できるのではなく、主イエス・キリストの一方的な恵みによって与えられるものなのです。

2節の「主の祈り」の冒頭、「御名が崇められますように」とあります。これが第一の祈りです。「崇める」とは「聖なるものとする」という意味です。私たちも、かつては神様を父として認めず、自分が主人になって生きようとする罪によって神様の聖なる御名を汚していました。その結果、神様との良い関係を失い、まことの父を見失っていたのです。しかし神様は、独り子イエス・キリストを遣わし、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪を赦して下さいました。私たちが、まことの父である神様の子として、神様とのよい関係に生きることができるようにして下さったのです。

私たちは主イエス・キリストの十字架の御業によって今や、神様を父と呼び、信頼し、愛して生きることができます。しかしその御業はまだ完成してはいません。それが完成するのは、世の終わりに私たちが永遠の命を与えられる救いの完成の時です。それは同時に、神の御名が完全に聖なるものとされる時でもあります。その終わりの時まで、私たちは、「御名が崇められますように」と祈りつつ生きるのです。

「主の祈り」の第二の祈り願いは「御国が来ますように」です。御国とは神様の国ですが、その「国」とは支配という意味です。神のご支配が実現しますように、というのがこの祈りの意味です。「御名が崇められますように」の場合と同じように、これも神ご自身がして下さることです。神の御国とは、私たちが地上に建設するものではなくて、神様が招き入れてくださるところなのです。そのことは、主イエス・キリストによって決定的に実現しました。神の御国、私たちへの神のご支配は、主イエスの十字架の死と復活によって、罪を赦し、私たちを神様の子供として新しく生かし、復活と永遠の命を約束して下さるということで実現したのです。しかしこれも、まだ完成はしていません。それが完成するのは、復活して天に昇られた主イエスが栄光をもってもう一度来られ、今は隠されているそのご支配があらわになる時です。その時、今のこの世は終わり、神の御国が完成するのです。私たちはその時まで、「御国が来ますように」と祈りつつ生きるのです。

祈ることを教え、祈りの言葉を与えて下さった主イエスが、それを補足するように5節以下に一つのたとえ話を語られました。

真夜中に、友達の家を訪ねて、「パンを三つ貸してください」と願う、という譬えです。なぜかというと、別の友達が、旅行中に急に自分の家に立ち寄ったが、その人に食べさせるものが家になかったからです。連絡もなしに突然、しかも夜中になって訪ねて来るなんてなんて非常識な奴だ、というのは私たちの常識です。しかし、当時のユダヤ社会においては、旅行者はいつでも、誰の家でも訪ねて援助を求めることができました。またそれを求められた人はできる限りのことをして旅人をもてなさなければならないのが常識でした。なぜなら、当時の旅行は文字通り命がけのことであり、空腹や渇きによって行き倒れてしまう人が多かったからです。ですから客人をもてなすというのは、歓迎してごちそうすると言うよりも、その人の命を助けるという意味を持っており、逆に旅人をもてなさず、受け入れないというのは、その人を見殺しにするということでした。ですから、夜中でも訪ねてきた友人のために何か食べるものを用意しようとすることは、当然のこと、なすべきことでした。ところが家にはあいにくパンが全くない。そこで、近くにいる友人の家に助けを求めていった、というのがこのたとえの設定です。しかしもう真夜中です。友人の家の戸口をドンドンとたたき、「パンを三つ貸してください。旅行中の友達に出すものがないのです」と大声で叫んだらどうなるか。7節「すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』」。真夜中にこんなふうに訪ねて来られることは当時だってやはり迷惑です。しかし主イエスがこの譬えによって語ろうとしておられることは次の8節にあります。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。確かにこんなことは迷惑なことだから、たとえ友達でも断られるだろう、しかし、しつように頼めば、結局は起きてきて必要なものを与えてくれるのだ、と主イエスは言っておられるのです。

このような譬えを語られた上で主イエスは9節で、「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とおっしゃいました。

これは、祈りについての教えです。主イエスは、祈ることを教え、祈りの言葉を教えると共に、祈りにおける心構えを、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれると信じて祈るように、と教えられたのです。

しかし、ここで私たちが神様にしつこく祈り続けることによって、神様もついに根負けして、これ以上面倒をかけられたくないから仕方なく聞いて下さるということなのか、私たちと神様との関係はこのようなものなのか、という疑問が湧いて来ます。またもう一つ、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというのは本当だろうか、という疑問です。祈って求めればそれは必ず与えられるのだろうか、祈り求めても叶えられない、与えられないものがある、ということを私たちは体験しているのではないか。だから「求める者は受ける」と単純に信じて祈ることなどできない、と感じることも多いのではないでしょうか。

これらの疑問への答えは、11節と12節に「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」とあります。親たる者、魚を欲しがる子供に蛇を与えたり、卵を欲しがるのにさそりを与えたりはしない。蛇もさそりも恐ろしいもの、害を与えるものです。子供にそんなものを与える親はいない。それを受けて13節に「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」ともあります。「あなたがたは悪い者でありながらも」というのは、罪があり、欠け多く、弱さをかかえているあなたがた人間も、ということです。私たちは、神様をないがしろにし、隣人を本当に愛することできずにいる罪人です。しかしそんな罪人である私たちも、自分の子供を愛しており、良い物を与えようとします。

私たちは罪人であっても子供には良い物を与えようとする。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。これこそが主イエスが言おうとしておられることです。主イエスは、私たち罪人である人間の親でさえ持っている子供に対する愛を通して、それよりもはるかに大きく深く広い、天の父である神様の愛を見させようとしておられるのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というみ言葉は、天の父である神様が喜んで、進んで、あなたがたに良い物を与えようとしておられる、ということを語っているのです。この言葉は、しつこく求めれば得られる、ということを語っているのではなくて、天の父である神様がどれほど私たちを愛して下さっているのか、ということを語っているのです。

そしてこの13節において注目すべき大事なことは、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われていることです。その聖霊が与えられると私たちはどうなるのでしょうか。それは、ローマの信徒への手紙の8章14節と15節に、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とあります。ここに、神の霊即ち聖霊が私たちの内でどのような働きをするのか、聖霊が与えられるとどうなるのか、が示されています。聖霊を与えられることによって私たちは、神様に向って「アッバ、父よ」と呼びかけられる「神の子」とされるのです。天の父が、求める者に聖霊を与えられ、私たちとの間に、父と子の関係を築いて下さるのです。

求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというこの御言葉は、神様が私たちの天の父となって下さり、私たちを子として愛し、父が子に必要なものを与えて養い育てるように、私たちを育んで下さるという約束を語っているのです。私たちも、親は子に、その求めるものをできるだけ与えようとします。しかしそれは、何でも子供の言いなりになる、ということではありません。子供を本当に愛している親は、今この子に何が必要であるかを考え、必要なものを必要な時に与えようとします。子供が求めても、今はあたえるべきでない、今はその時でないと考えれば、「だめ」と言います。我慢させます。子供は、自分の願いを聞いてくれないことで親を恨んだりすることもありますが、そういう親こそが本当に子供を愛しているのです。私たち罪ある人間の親子関係においてさえそういうことであるならば、天の父、まことの父となって下さる神様は私たちに、本当に必要なものを、必要な時に与えて下さるのです。「求めなさい。」で始まる御言葉は、そのような父と子の愛の関係の中でこそ意味を持つのです。

主なる神との出会いと交わりが与えられることこそ、祈りが聞かれることなのです。私たちの祈りに応えて神様が聖霊を与えて下さり、聖霊が私たちを御子イエス・キリストと結び合わせて下さり、神様との間に、父と子という関係を、交わりを与えて下さるのです。それが、祈りにおいて与えられる恵みです。この恵みを信じて祈りなさい、と主イエスは教えておられるのです。

本日の11章1節から13節はひとつながりの箇所です。主イエスは祈りを教え、具体的な祈りの言葉「主の祈り」を与えて下さいました。その祈りにおいて私たちは、神様に向かって「父よ」と呼びかけ、つまり神の子とされて生きる恵みを味わいます。その恵みの中で私たちは、神の御名こそが崇められることを求める者となります。神のご支配の完成、御国の到来を求めつつこの世を生きる者となります。私たちが生きるために必要な糧を全て神様が与えて下さることを信じ、神様の養いを日々求めて生きる者となります。また自分が神様に対して罪を犯しており、自分の力でそれを償うことはできないことを知り、神様による罪の赦しを祈り求める者となります。そしてそのことは、自分に対して罪を犯す者を自分も赦すということなしにはあり得ないことを思い、赦しに生きることを真剣に求めていく者となります。常に誘惑にさらされ、神様の恵みから引き離されそうになる自分を守ってくださいと祈り願いつつ歩むものとなります。神様はこの私たちの祈りを天の父として聞き、私たちに本当に必要なものを与えて下さいます。私たちに本当に必要なものは、神様との父と子としての関係、交わりです。その関係を築いて下さる聖霊、神様の子とする霊を、神様は与えて下さるのです。その聖霊の働きによって私たちは主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、主イエスと共に神様を父と呼ぶ者とされ、主の祈りを心から祈る者とされるのです。「主の祈り」とは、祈りの言葉の一つではなくて、神様が聖霊の働きによって私たちとの間に築いて下さる新しい関係、交わりの基本です。「主の祈り」を祈る中で私たちは、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれることを体験していくことができるのです。

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本当に必要なもの

《賛美歌》

讃美歌11番讃美歌270番 讃美歌000番

《聖書箇所》

旧約聖書 詩篇 27篇4節 (旧約聖書857ページ)

27:4 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り主を仰ぎ望んで喜びを得その宮で朝を迎えることを。

新約聖書 ルカによる福音書 10章38~42節 (新約聖書127ページ)

◆マルタとマリア
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

《説教原稿》

今日の聖書箇所は、教会での奉仕とは何かといった私たちの疑問に示唆を与えられる大切なお話しです。

マルタとマリアという姉妹は、ルカによる福音書においてはここにしか登場しないのですが、ヨハネによる福音書においては、11章と12章に出てくる、大変重要な登場人物です。ヨハネによる福音書の第11章というのは、有名な「ラザロの復活」の場面ですが、そこで主イエスによって死からよみがえされたラザロの姉妹たちとしてマルタとマリアが登場するのです。つまり、年齢の関係は分かりませんが、マルタとマリアとラザロは兄弟姉妹で、共に暮らしていました。ヨハネ福音書によれば、その場所はベタニアという所です。ベタニアはエルサレムの近くの村で、マルコ福音書によれば、エルサレムに来られた主イエスは、夜はベタニアに泊まっておられたとあります。おそらく主イエスが泊まっておられたのはこのマルタ、マリア、ラザロの家だったのだろうと想像されます。ヨハネやマルコ福音書からそのようなことが分かってくるのですが、今日のルカ福音書は、それらのことを一切語っていません。38節には「ある村」とだけあって、ベタニアという地名すら出て来ないのです。それには理由があります。つまり本日の話がベタニアでのことだとすると、主イエスはもうエルサレムのすぐ近くに来ておられることになります。ルカは9章51節で、それまでガリラヤ地方で活動しておられた主イエスがエルサレムへと向かう決意を固めて出発されたと語っているのです。ルカによれば、十字架の待つエルサレムへの旅は、主イエスと弟子たちにとっては、まだまだ長い道のりなのです。ルカ福音書では、主イエスがエルサレムに入られることは、ずっと後の19章以下から語られ、それまでは、エルサレムへの旅路としては語られていないのです。ルカにとっては、この段階でエルサレム直前のベタニアに来られたとなるともう旅が終わってしまい、全体構想が崩れてしまいます。それでルカはベタニアという地名を出さずに「ある村」とだけ言っていると思われます。では、何故ルカは、この話をこの時点で語ろうとしたのでしょうか。

ここで大事なことは、ルカがこの物語を、この位置で、つまり主イエスのエルサレムへの旅が始まった直後のところで語らなければならないと思ったということです。それはなぜなのか、ルカはどうしてこの話をここで語るのが相応しいと考えたのか、そのことを考えていくことが、本日の箇所を読んでいく上で大事な鍵となるのです。

ルカがこの話を、エルサレムへの旅路の中に置いたということは、38節の「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」というところから分かります。主イエスと弟子たちは、旅の途上である村に入ったのです。さて主イエスは旅立つに際して、弟子たちを先に使いの者として派遣なさいました。派遣された弟子たちは後から来られる主イエスのために準備をしたのです。それは単に寝泊まりする場所を準備したということではありません。10章の始めには、主イエスが七十二人の弟子たちを二人ずつ組にして、御自分が行くつもりの町や村に先にお遣わしになったことが語られていました。そこに「ほかに七十二人を」とあるように、先に使いの者として派遣された人々の他にこの人々が遣わされたのです。主イエスに派遣された弟子たちは主イエスと同じことを告げ、行なっていきました。神の国の福音を宣べ伝え、その印として病人を癒したのです。それこそが、後から来られる主イエスのための準備です。弟子たちのそういう準備によって、彼らが派遣された町や村において、神の国が近づいていることを信じ、主イエスと弟子たちを迎え入れる人が出て来ました。そのことが、この「ある村」においても起ったのです。「すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」とあります。8節以下には、先ほどの七十二人に対して、「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」とありました。主イエスの一行を迎え入れるとは、その人々をもてなし、生活の世話をし、そして自分の家を、神の国の福音がその町で宣べ伝えられるための拠点とする、ということなのです。そして10節以下には、「町に入っても、迎え入れられなければ」という場合のことが語られています。誰も彼らの一行を迎え入れようとしない、主イエスによる神の国の到来の福音を受け入れず、その福音が宣べ伝えられていくために奉仕しようとする者が一人もいない、ということもあり得るのです。そういう現実もある中で、この村においては、マルタという女が主イエスと弟子たちを自分の家に迎え入れたのです。おそらく彼女は、この村に先に遣わされて来た弟子たちの語ることを聞いて、主イエスを迎え入れようと思ったのでしょう。そこには既に、主イエスを信じ、仕えようという彼女の信仰の決意が見られます。ルカは、エルサレムへと向けて、旅路を歩んでおられる主イエスを自分の家に迎え入れ、もてなしをし、主イエスによる神の国の到来を告げる福音を自分も信じ、その福音の伝道のために奉仕する信仰者の姿を描いているのです。

ここにはマルタとマリアという姉妹が登場し、二人の姿が対照的に描かれていきます。そして、「マリアは良い方を選んだ」とあるように、マルタよりもマリアの方が良い、相応しいと主イエスによって褒められたという話に思えます。しかしそれは、マリアこそが信仰者でマルタは信仰者ではない、ということではありません。主イエスを家に迎え入れたのはマルタである、とはっきり書かれています。それは、マルタが主イエスに従い仕える信仰者となったということです。マルタは、主イエスと弟子たちの一行を自分の家に迎え入れるという大いなる信仰の決断をしたのです。その後、「彼女にはマリアという姉妹がいた」と、おそらく妹であるマリアが登場します。マリアも主イエスを信じる者となるわけですが、それは姉であるマルタの信仰の決断が先にあったからだとも言えるでしょう。つまりマリアはマルタによって導かれて信仰者となった、と考えるべきではないでしょうか。

このように同じ信仰者となったマルタとマリアの間に、ある違いが生じました。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていたのです。主イエスの足もとに座って話を聞くとは、この時代のユダヤでは男の弟子にのみ許される行為でした。マリアは、そんな大胆な行動をしたと言えますし、また、主イエスの一行が女性差別をしなかった特筆すべき行いを記しているとも言えるでしょう。そのマリアに対してマルタは先程触れたように、大人数の一行のため「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」(40)のです。マルタとマリアの話のポイントは、この対照的な姿にあります。そして私たちはそこから、いろいろなことを読み取ろうとします。と言うよりも、自分たちが感じていることをこの話に読み込もうとします。教会の中で、特にご婦人方の間でよく語られるのは、「私はマリア型」とか「私はマルタ型」というような会話です。その場合の「マリア型」というのは、静かに礼拝を守り、み言葉を聞き、祈るといった信仰生活が自分には合っているし、その方が好ましいと感じているという人です。他方「マルタ型」というのは、それよりもむしろ活発に体を動かしていろいろな奉仕をする、例えば昼食作りとか、男性で言えば会堂の掃除や植木の手入れや力仕事など、また一教会に拘らない多くの教会を跨いだ社会奉仕活動に加わるとか、そういうことに喜びを感じ、充実を覚える、静かに説教を聞いているのはちょっと苦手、みたいなタイプであると言えるでしょう。それは女性だけの話ではなくて、男性も含めて、マルタとマリアのどちらに親近感を覚え、自分に近いものを感じるか、ということを私たちはここからよく考えるのではないでしょうか。そして自分がどちらのタイプかというだけではなく、礼拝中はマリアに徹し、終わったとたんにマルタに変身するのだ、という思いを持っている人もいるでしょう。つまり時と場合によってマルタとマリアを使い分けながら信仰生活を送っている、という思いを持っている人も多いのではないでしょうか。これらのことは、私たちが自分の体験や感覚をこの話に読み込んでいるということです。しかし私たちがしなければならないのは、自分の感覚を聖書に読み込むのではなくて、聖書が語っていることを読み取ることです。マルタとマリアの対照的な姿から私たちは何を読み取ることができるのでしょうか。

マルタが主イエスと弟子たちを家に迎え入れたとは、食事を出すことをはじめいろいろなもてなしをするためです。そういう意味でマルタがしていることは、神の国の福音を宣べ伝えている主イエスと弟子たちに仕え、その歩みを支えるという信仰の行為です。マルタは決して、自分の料理の腕前を披露しようとしているわけではありません。ちゃんともてなさないと恥をかくと思っているのでもありません。彼女がせわしく立ち働いているのは信仰によってです。マルタの姿は、信仰者が主イエスに仕えている姿そのものなのです。そこには、「もてなし」という言葉が使われていますが、この言葉は原文では「diakoni,a:ディアコニア」という言葉です。「奉仕」という意味です。マルタがしているのはこのディアコニア、つまり主イエスに従う信仰者にとって大切な信仰の業としての「奉仕」なのです。ですから、このマルタとマリアの姿は、自分はどちらのタイプだとか、どちらの方が自分の好みに合うなどというように読むべきものではありません。これはどちらも、主イエスに従い仕えていく信仰者が大切にすべきあり方なのです。

しかし、このどちらも大切な信仰のあり方の間で問題が生じました。マルタがマリアのことで主イエスに文句を言ったからです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。マルタは、主イエスの足もとに座ってその話に聞き入っているマリアに対して、「何も手伝わず、私だけにもてなしを、つまりディアコニアを押し付けている」という不満を抱いたのです。このマルタに対して主イエスはお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。主イエスはこのお言葉によってマルタに何を語ろうとしておられるのでしょうか。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。主イエスはマルタが思いわずらいに陥り、心を乱していると言っておられるのです。もてなし、接待、ディアコニアの業の中で、マルタの心は乱れ、とりみだしてしまっているのです。心が乱れるとどうなるか、自分のしている働き、奉仕を喜んでできなくなるのです。そして、人のことを非難するようになるのです。「自分はこんなにしているのに、あの人は何もしない。手伝おうとしない。そんなことでいいのか」という思いに支配されていくのです。自分のしている奉仕を喜べないことと、人を非難することは表裏一体の関係です。自分に与えられた奉仕を喜んでしている人は、人のことを非難することはありません。人への批判や攻撃は、自分自身が喜んでいないから生じるのです。マルタはそのような思いわずらい、心の乱れに陥ったのです。そのように心が乱れてしまうと、彼女がせっかく主イエスと弟子たちを家に迎え入れるという信仰の決断をし、奉仕している信仰の業が歪んだものになってしまいます。マルタはこの奉仕を、誰かから強制されたのではありません。自分の意志でそれを引き受け、喜びをもってそれを担ったのです。信仰における奉仕、ディアコニアとはそのように、喜んで、自発的に行なうものです。ところが私たちは時として心を乱し、その喜びを見失って、自分だけが何か重荷を背負わされているように感じてしまうことがあります。心を乱しているマルタの姿は、私たちの信仰生活の中でも時として起るそのような事態を表しているのです。

このように心を乱してしまっているマルタに主イエスがお語りになった言葉が42節です。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。私たちはこの主イエスの言葉を聞く時、これはマルタには気の毒な、酷な言葉ではないか、と思うのではないでしょうか。マルタは今見てきたように、大人数の主イエスの一行を迎え入れ一生懸命奉仕しているのです。信仰の業、ディアコニア:diakoni,aを頑張ってしているのです。しかし同じ主イエスを信じ従っている筈の妹が手伝ってくれない、自分だけが忙しく立ち働いている、という現実の中で心を乱しているのです。そのマルタに対して、これでは「あなたのしている奉仕は本当に必要なことではない。しなくてもいいことだ。マリアのように私の足もとに座って話に聞き入ることの方が大事だ」と言っていることになる。これでは身も蓋もないではないか、と感じるのです。

しかし、主イエスのこのお言葉はそのように冷たい薄情な言葉ではありません。主イエスはここでマルタに、「あなたのしていることは意味がない」などと言っているのではないのです。マルタは主イエスを迎え入れ、奉仕するという信仰に生きている人です。彼女の奉仕ディアコニアは主イエスに従う者たちにとってとても大事なことなのです。意味がないとか必要ないなどということは絶対にないのです。主イエスがマルタに望んでおられるのは、彼女がそのディアコニアを、心乱れ、喜びを失った中で、人を非難するような思いを抱きながらするのではなくて、本当に喜んで、自発的にしていって欲しい、ということです。そして、そうなるために必要なただ一つのことを主イエスは教えて下さっているのです。それが、マリアのように、主イエスの足もとに座って、そのみ言葉に聞き入ることです。主イエスはどのようなみ言葉を語っておられるのでしょうか。それは、主イエスご自身において、神の国が実現しようとしているということです。神様が、その独り子をこの世に遣わし、その御子イエスによって神の国を実現し、そこに私たちを招いて下さるのです。その神の国の実現のために、主イエスは今エルサレムへと、十字架の苦しみと死へと、そして復活と昇天へと、歩んでおられるのです。神様の独り子である主イエスが、私たちと同じようにこの世を歩み、そして私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、それによって、神の国、神様の恵みのご支配は実現するのです。主イエスを信じ、従っていくとは、この主イエスのもとに集い、その足もとに座って主イエスの語られるみ言葉に、神様の恵みのご支配の到来を告げる福音に聞き入ることです。そしてそのみ言葉を本当に聞いた者は、この直前の10章25節からの「善いサマリア人」の物語で強盗にあった旅人を助けるサマリア人に見倣って、「行って、あなたも同じようにしなさい」という主イエスの励まし、勧めを受けるのです。主イエスの愛の業に倣う奉仕、ディアコニアは、この主イエスの励ましの中でこそなされていきます。主イエスによって実現する神の国を告げるみ言葉に聞き入り、それを本当に受け止めることによってこそ、私たちは本当に喜んで、自発的に、奉仕に生きることができるのです。

この「主イエスのみ言葉に聞き入る」ことを失ってしまうと、私たちの奉仕は自己実現や自己主張のための業になります。教会が奉仕を競い合う人々の集まりと化してしまいます。そこには、自分の奉仕への評価や見返りを求める思いが生じます。そうなったらもはや本当に喜んで奉仕しているとは言えません。そして自分の奉仕を本当に喜んでいないところには、自分はこれだけしているのにあの人はなんだ、と人を非難し審く思いが生じるのです。すべきことは、主イエスの足もとに座ってその恵みのみ言葉に聞き入ることなのです。「必要なことはただ一つだけである」という主イエスのお言葉は、そのことをマルタに、そして私たちに教えています。つまりマルタとマリアのこの姿は、先ほど申しましたように、信仰者のタイプの違いではないし、ある時はマリアに、ある時はマルタに徹する、などというものでもないのです。むしろ、マルタのしている奉仕、ディアコニアが本当に生かされ、喜びをもって自発的になされていくためには、マリアのあり方が必要なのです。主イエスはマルタも愛しておられるのです。それゆえに、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とおっしゃったのです。それはマリアを褒めるための言葉ではなくて、マルタが喜んで奉仕に生きるために本当に必要なことを教えようとされたみ言葉なのです。そして、主イエスの足もとに座ってみ言葉に聞き入っているマリアには、「行って、あなたも同じようにしなさい」という励ましが与えられました。そのようにしてマルタもマリアも共に、主イエスのみ言葉によって養われつつ、自分に与えられている賜物を喜んで自ら献げ、生活の中で具体的に主イエスに仕える者となっていったのです。

お祈りを致します。

<<<祈祷>>>

2020年1月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


勝田令子先生のお話

(2019年11月10日になされたものです。)

聖書:ルカによる福音書4:1-13

「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」

 皆さんは、普段1日に3回お食事をしていますね。でも、胃やお腹を壊して、回復するために食事を止めることがあります。食事をやめることを断食といいます。食事を休んで、胃やお腹をやすませてあげて、回復するのを待つのです。

先ほど、興津先生にお読みいただいたルカによる福音書4章には、イエス様が「荒れ野の中を霊によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」とあります。身体の悪いところを回復させるための断食は、せいぜい2~3日です。40日もの間、何も食べなかったら、どんなにお腹がすいていらしたでしょう。その間、イエス様は、ずっと父なる神にお祈りをなさいました。それは、悪い誘いをしかけて来る悪魔に勝つためでした。そのイエス様に「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と悪魔が言ったと書かれています。そこは、荒れ野です。周りは、石がごろごろしていたでしょう。「神の子なら、この石がパンになるように命じたらどうだ、イエス様ならきっと出来る。」そう言って誘います。けれども、イエス様は、どんなにお腹がすいていても、悪魔の言う通りにはなさいませんでした。イエス様は、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」(4節)とお答えになりました。どんなに美味しい物をたくさん食べても、それだけでは生きてはいけないということを、ここでイエス様が教えてくださいました。

次に悪魔は、イエス様を高いところに連れて行き、世界中の国を見せて言いました。「この国々の一切の権力と繁栄を与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることが出来るからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」しかし、イエス様は、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」とお答えになりました。私たちが礼拝するのは、主なる神様だけだと聖書に書いてあると言って断られたのです。悪魔を拝むということは、悪魔の言うことを何でも聞いてしまうということです。どんなに言うことを聞いても、悪魔は、神様のように、私たちを守ってくれることはありません。

最後に、悪魔は、イエス様をエルサレムの神殿の高い屋根の端に立たせます。そして「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたの為に天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる』」と言います。この最後の誘いも、イエス様は「あなたの神である主を試してはならない」と、はっきりお断りになりました。悪魔は、私たちにも、いろいろな時に、いろいろな方法で、誘ってくるはずです。私たちは、悪魔の誘いを断ることの出来る強い心、悪魔と戦って勝つだけの力も持っていません。でも、私たちが、こうして教会に来て神様のお話しを聞き、神様を礼拝する時、そして「我らを試みに合わせず、悪より救い出したまえ」とイエス様が教えてくださった祈りをささげる時、悪魔は、もう私たちを自分の方に連れて行くことは出来ません。父なる神様、聖霊なる神様と共にイエス様が私たちを守っていてくださるからです。

1月の御言葉

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

ルカによる福音18章14節

1月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

★ お話の聖書箇所と担当の先生

 

聖書 お話
1月  5日(日) 休会
   12日(日) マタイ14:13~21 興津晴枝 先生
   19日(日) マタイ29:14~30 山口智代子 先生
   26日(日) 大人と合同礼拝 藤野雄大 先生

お知らせ

11月より、原則として第4週日曜日は、大人と子どもの合同礼拝(朝10時半~)を守ることになりました。合同礼拝の日は、教会学校の礼拝はありませんので10時半に教会にお越しください。

🌸クリスマス合同礼拝、イブ礼拝では、教会学校の子どもたちがハンドベルや、聖書朗読、キャンドル点灯の奉仕を務めてくれました。神様の恵み豊かな楽しいクリスマスを迎えることができました。

🌸1月から教会学校校長を務めている藤野美樹副牧師が出産に備えて、2か月ほどの間、礼拝をお休みしています。ピアノ奏楽のお手伝いをしてくれる方、お申し出いただければ助かります。

🌸1月の合同礼拝は26日(日)となります。この日は10時半からとなりますので、ご注意ください。

大きな喜び

12月の説教

聖書:ルカによる福音書2820

説教者 藤野雄大

*この説教は2019年のクリスマスイブ礼拝でなされたものです。

主にある兄弟姉妹の皆様、クリスマスおめでとうございます。2019年のクリスマスを迎える今宵、皆さまも今年一年間の歩みを振り返られているのではないかと思います。今年も世界中、日本中で様々なことがありました。いい知らせもあれば、悪い知らせもありました。国内のことに目を移せば、今年は台風が猛威を振るった年でした。千葉県や長野県などを中心に、日本全国広範囲に建物の損壊や、貴い人命が失われる事態が起こりました。被害にあわれた方々に、主のお慰めがありますようにお祈り申し上げます。

本日、読まれましたルカによる福音書では、クリスマスの出来事をこのように記しています。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたの救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。」

民全体、つまり全世界に与えられる大きな喜び、これがクリスマスの意味、主イエス・キリストが世にお生まれになった意味だというのです。世を救うために、メシア、救い主がお生まれになった。天使は、そのように告げたとされています。

しかし、クリスマス、御子イエス・キリストの誕生が示す大きな喜びとは一体どのようなものでありましょうか。もはや悲しみや嘆きもなくなるということなのでしょうか。しかし、人類の歴史を考えてみれば分かりますように、イエス・キリストが誕生した後も、世界には、たくさんの悲しみが存在し続けてきました。数えきれないほどの血が流され、涙が流されてきました。世界を見渡す時、弱い人が虐げられ、無力な人がその日の糧さえなく飢えている現実があります。

あるいは、そこまで大きな話ではなくとも、それぞれの今年一年の出来事を振り返っても、きっと喜びもあれば、悲しみもあったことだと思います。そのような現実を見る時、聖書が語る「大きな喜び」とは一体何なのだろうかと思われるかもしれません。聖書の言葉は現実離れした、ただのおとぎ話なのではないか、そう思われるかもしれません。一体なぜ、イエス・キリストの誕生は、世界全体にとっての大きな喜びなのでしょうか。御子キリストがお生まれになったことは、一体どのような意味で、大きな喜びなのでしょうか。

聖書では、天使たちは、羊飼いにキリストの誕生を告げ知らせたとあります。羊飼いというのは、当時の世界では、蔑まれていた職業だったそうです。羊飼いたちは、朝晩問わず、羊とともに生活し、家ももたず、野宿をしています。そして、自分の土地ではなく、荒れ野を渡り歩く放浪者であり、その生活は不安定でした。つまり天使は、地位や権力のある人ではなく、羊飼いという弱く、貧しい人々に救い主の誕生を告げ知らせたのでした。

さらにイエス・キリストは、神の御子であったにも関わらず、決して超人的な姿でも、また、きらびやかな姿でも表れませんでした。むしろ、羊飼いたちが、実際に見たのは、暖かいベッドではなく、粗末な飼い葉桶に敷かれたわらの上に寝ている小さな赤子でした。それは、何の力も持たない弱く、小さな男の子でした。キリストは、世の人々と全く変わらないお姿でお生まれになったのです。このことは、私たちが、生きていく中で経験しなければならない苦痛や、嘆き、悲しみ、あらゆるものを神の子御自身が、担ってくださることを示しています。

「上から目線」という言葉が、しばしば使われることがあります。傲慢さや尊大さを表現する言葉です。しかし、聖書が示す神の子イエス・キリストの姿は、そのような「上から目線」とは全く異なっていました。神の子キリストは、天高くに留まっているのではなく、私たちが生きるこの現実の世界に来てくださいました。しかも、貧しく、無力な存在として世に来てくださいました。そのご生涯において、嘆く者に希望を与え、泣く者に喜びを与えました。苦しむ者と共に苦しみ、弱く無力な者と共に生きられました。病に苦しむ者を癒され、死の恐怖に脅かされる者に、永遠の命を示されました。そして、最後には、世の人々に代わって、十字架にかけられ苦しみの果てに死なれました。

神の子キリストは、このように死に至るまで、世の人々と共に生きられました。聖書が示す神の子の誕生とは、まさに神様が私たちと同じ所にまで来てくださって、私たち血の苦悩や悲嘆を共に担ってくださることを意味しています。神は、決して、この世界に生きる者をお見捨てになることなく、御自身の御子、主イエスを御遣わしになるほどに愛されておられるのです。これこそが、クリスマスの大きな喜びです。2019年のクリスマスの時、皆様に、御子イエス・キリストご降誕の大きな喜びがありますように心からお祈りいたします。

お祈りいたします。

神の国の訪れ

10月の説教

説教箇所 ルカによる福音書19章11-27節

説教者 成宗教会副牧師 藤野美樹

 本日与えられました御言葉は、「ムナのたとえ」という、主イエスが語られたたとえ話のひとつです。

このたとえ話は、マタイによる福音書25章14節から記されている、タラントンのたとえと良く似ていると言われます。そしてまた、解釈が難しいと言われるたとえ話でもあります。この話には、二つの要素が含まれています。一つが「ムナのたとえ」、もうひとつは、「敵対者たちに対する、王の復讐の物語」です。

まず、この難解なたとえ話しを理解するために、主イエスが、どのような脈絡で、このたとえをお語りになったかということを理解するのは重要なことだと思います。

ルカによる福音書をさかのぼりますと、9:51にはこのように記されています。

「イエスは、天に上げられる時期が近付くと、エルサレムに向かう決意を固められた。」。9:51から、主イエスが、十字架にお架かりになるために、エルサレムへ向けた旅路が始まっていることがわかります。そして、ムナのたとえが語られた直後、19:28で、主は子ろばに乗って、エルサレムへ入城されると記されています。

「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムへ上って行かれた。」

つまり、ムナのたとえ話は、主が十字架に架かるため、エルサレムにとうとう入城される、その直前に語られたたとえ話だということがわかります。

そして、19:1から11節のつながりを読むと分かるように、主は「ムナのたとえ」を、徴税人ザアカイの家で、語られたということも分かります。人々がザアカイの家で、主イエスの話に聞き入っていた時に、「ムナのたとえ」は語られました。

徴税人ザアカイの物語は、今は詳しく説明する時間がありませんが、ザアカイの家で何が起こったかというと、ザアカイは主イエスと出会ったことにより、ザアカイは本当の救いを見ました。それまで一番価値あるものだと思っていた、財産を手放そうと思えるほどの幸いを知ったのです。それは、主イエスというお方と共にいること。主イエスという、真の救い主であり、真の王であるお方との出会いが、ザアカイの人生を変えたのです。主イエスは、その時こうおっしゃいました。

「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 この出来事を目の当たりにして、ある人々は、徴税人の家にお泊りになる主イエスを批判し、またある人々は、主イエスの言葉に聞き入って、主イエスこそ、私達が待ち望んできたメシア、救い主なのではないか、と期待を膨らませていたのです。当時の人々は、ダビデ王のような、イスラエルの国を立て直してくれる、政治的にも卓越した王様を待ち望んでいました。人々は、主イエスを地上的な王様として期待し、政治的な意味で、自分たちが待ち望んでいる王国が到来すると思っていました。

そのような人々の思いに対して、主は、本当に待ち望むべき真の王とはどのような方か、真の神の国とは何なのか、そして、神の国を待ち望む私たちの姿勢はどのようであるべきか、ということを、本日のたとえ話によって示されたのだと思います。

実際に、このたとえを読んでみたいと思います。

12節「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。」 

この出だしを聞いた時、当時の人々はすぐにピンときただろうと言われます。なぜなら、このたとえの背景に、本当にあった歴史的な出来事があると言われているからです。

それは、紀元前4世紀、ヘロデ王の息子、アルケラオという人の話です。マタイ2:22のクリスマスの物語に、このアルケラオの名前が出てきます。ヨセフとマリアが、ヘロデ王から逃げるため、赤ん坊の主イエスを連れてエジプトへ避難した場面があります。ヘロデが死ぬと、ヨセフの夢に天使が現れて、再びイスラエルに戻るようにお告げがあったのでヨセフたちは戻りましたが、「アルケラオが、父ヘロデの跡をついで、ユダヤを支配していると聞いて、恐れた」とあります。

アルケラオは、ローマの皇帝から、ユダヤを統治するための王権を得る為に、ローマへ旅立ちます。ところが、アルケラオという人は、残虐行為を次々に行う評判の悪い人物でした。なので、ユダヤ人の代表者は、ローマ皇帝に頼んで、アルケラオの任命を妨げようとしました。それでも、結局は、アルケラオは王位を受けることになり、彼に敵対した50人のユダヤ人が殺されてしまったという歴史的な事件があるそうです。

たとえの中の「王」は、恐ろしい王様、アルケラオを彷彿とさせますが、その王は、主イエス御自身にたとえられたのだと、考えることができます。12節で「遠い国へ旅立った王」とあるように、主イエスもまた、これからエルサレムで十字架にお架かりになり、死なれようとしているのです。

そして、14節で「国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、我々はこの人を王にいただきたくない」と言ったように、主イエスは十字架にお架かりになる時、人々から憎まれ、さげすまれるのです。23:26からの、主が十字架につけられる場面には、主イエスを憎む人々が主を十字架に架けたあと、こう言ったとあります。

「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救って見るが良い。」

さらに、主は侮辱されて「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。その時、主が架けられている十字架には、「これはユダヤ人の王」という札が掲げてあったと言います。

ルカによる福音書は、主イエスのお誕生の場面でも、この世界には、主のお誕生の時から、人々には主イエスというお方を受け入れる余地がなかったことが記されています。つまり、主イエスのお誕生から、十字架の死、さらに、主の復活、昇天の出来事にいたるまで、主イエスというお方は、いつも人々にとって、期待通りのお方ではなかったという事が出来ます。主イエスは、人々が期待していたこの世の王様のように、政治的に優れ、富と権力に溢れた、王様ではなく、人間の罪の救いのために十字架にお架かりになり、死なれた王であったのです。でも、主イエスの御生涯は、ただ十字架上の死で終わったのではありませんでした。神様は、主イエスを復活させられ、昇天されて、高く天に引き上げられ、主は神様の右に座れられて、「真の王」となられたのです。

主イエスは、人々が期待するようなお方ではなく、もっとも低いところに降られた方でした。主イエスは、この世の王様のように、「金や銀ではなく、十字架上で、御自分の尊い血によって」私たちを罪から救ってくださいました。わたしたちのすべてを御自分のものとして、愛してくださった、ただ一人の「真の王」であられます。

そのような真の王である主に対して、わたしたちがどのように生きるべきか、ということが、13節からの「ムナのたとえ」では語られて行きます。

そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『私が帰ってくるまで、これで商売をしなさい』と言った。」

 「わたしが帰ってくるまで」と言われていますが、それは、主イエスの再臨の時、終末の時、ということができます。神の右に座しておられる主イエスが、再び来られる時まで、私達がどのようにして待っているべきか、ということがこの「ムナのたとえ」で語られています。

 王位を受けた王が、旅から帰ってきたとき、1ムナずつ預けられていた僕たちが、王の前に呼ばれました。そして、王が留守にしている間に、それぞれの僕が託されていた1ムナで、どれだけ利益を得たのか、問われます。

最初の僕は、こう言いました。「あなたの1ムナで10ムナ儲けました。」すると王は、「良い僕だ、良くやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、10の町の支配権を授けよう。」

次に、二番目の僕がやって来ました。「御主人様、あなたの1ムナで5ムナ稼ぎました。」。すると、王は、「お前は5つの町を治めよ。」と言いました。

そして、3番目の僕は「これがあなたの1ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」。それに対して、王は、「悪い僕だ、その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だということを知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰ってきた時、利息付きでそれを受取れたのに。」

そして、この三番目の僕、1ムナを布に包んでしまっておいた僕は、罰をうけます。王は言いました。「その1ムナをこの男から取り上げて、10ムナ持っている者に与えよ。」

 このたとえは、初めに申しましたように、マタイによる福音書の「タラントンのたとえ」とよく似ていますが、違いもあります。違うところはまず、「1タラントン」という単位は、賃金20年分という莫大な額であるのに対して、「1ムナ」というのは、タラントンの60分の一という、小額な金額であるというところです。1ムナという金額は、王にとっては本当に小さな額です。でも、その1ムナであっても、5倍、10倍に増やすことに熱心な王の「貪欲さ」が表れています。

そして、もうひとつは、タラントンのたとえとムナのたとえで違うところは、僕たちが主人から預けられた金額が、ムナのたとえでは、みな1ムナという等しい額だったという点です。つまり、私達には、神様から、同等の責任が与えられている、と理解することができます。でも、たとえの中で、5ムナの利益を得た僕も、10ムナの利益を得た僕も等しく主人から喜ばれたように、私たちは、みな同じ収益を得ることが求められているのではないのです。ただ、私たちに求められているのは、主人である神様、から与えられている財産に対して、たとえそれが私たちには僅かなものに思えたとしても、それぞれがどれだけ、忠実に、献身をしたか、ということが求められているのです。たとえの中の、第三の僕は、僅か一ムナであっても、その一ムナを用いて、主人のために尽力しなかったので、その一ムナさえ取り上げられてしまうのです。

私たちひとりひとりには、このたとえの僕のように、等しく、神の国の財産が託されています。その財産というのは、「みことば」や「信仰」と言うことができると思います。それは、わたしたち自身のものではなく、神様から託されている、主人の財産です。それは、主イエスの十字架と復活という出来事によって、神様が私達に与えてくださった、賜物です。

ともすると、私たちは、自分の信仰が弱いから、とか、賜物はもっていないから、わたしには何もできないのです、と嘆くことがあります。でも、ムナのたとえを聞くとわかるように、私達に預けられた賜物はみな同じです。10人にひとりひとりに、1ムナずつなのです。その1ムナを、主が再び来られる、再臨、終末の時までに、どう生かすか、が求められています。それは、主から託された、信仰生活の一生涯の課題と言えます。

主イエスがザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた。」とおっしゃったように、すでに、主はこの世にきてくださり、神の国の支配は始まっています。でも、それと同時に、わたしたちは、その神の国が完成する日に向けて、希望をもって歩む者でもあります。

その信仰生活のなかで、主は、貪欲に、厳しく、私達に求められます。私たちが、神様から託されている賜物を、どれほど熱心に用いているかということ。第三の僕のように布に包んでしまっておくならば、「持っているものまでも取り上げられる」と主はおっしゃいます。でも、わたしたちが、たとえ僅かしか持っていないと思っている賜物でも、それがどうなるか、神様に委ねて、その賜物を精一杯用いて、神様と堅く結びついて、忠実に生きるのなら、私達の1ムナは、計り知れないような豊かなものになることが約束されています。