主の祈り

聖書:詩編1211-8節, ルカによる福音書11110

 私たちは昨年12月30日の礼拝から、主の祈りについて学び始めました。主の祈りは、使徒信条と十戒と共に、三要文と呼ばれます。それは、三つの重要な文言、言葉という意味であります。私たちは今、成宗教会に集まり、全国、全世界の教会にも人々が集まり礼拝を守っております。ただ教会に集まっているというだけで、全世界の教会が同じキリストを信じていることにはなりません。そうではなくて、教会は代々同じ信仰の言葉を受け継いで来たからこそ、同じ信仰に立っていると言えるのです。

その信仰の言葉が三要文の中に示されています。そして私たちはキリスト教の教えを知らせる求道者会や洗礼志願者の会では、使徒信条、十戒、主の祈りを教え、そして学んでおります。私自身は2006年に東部連合長老会に個人加盟しましたが、それはちょうど全国連合長老会日曜学校委員会がカテキズム教案を出版し、カテキズム信仰問答によって教会学校の教育を行うという取り組みが始まった時でした。

それから12年が経ち、今年も日曜学校研修会が開かれました。講師に立たれた富田林教会の兼子洋介先生は、私が加盟したとき、一緒に初任者研修を受けた若者であったことを思い出しました。東神大出立てのまだ学生の雰囲気がいっぱいに見えた先生が、立派な指導者となって教案の出版について苦労や、問題点、また将来の希望に向かって東日本の教会に呼びかけている様子を拝見し、私はうれしく感慨深い気持ちでいっぱいでした。若い教師がやがて中堅となって教会を支えて行く。しかも自分の教会について語るときも、他の教会について語るときも、同じ熱意と感謝を込めて呼びかけるのを見ることは、どんなに喜ばしいことでしょうか。カテキズムの学びは子供だけの学びではない。教える教師も教わる子供も、大人も共に学び、同じ神さまに対する同じ信仰を伝えて広めていくのだという実感がわきました。

私たちの教会の2018年度の標語が週報に掲げられています。(エフェソの信徒への手紙第3章18-19節です。)「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」この聖句の意味するところが、カテキズムの学びの中に正に現れているのではないでしょうか。

そういうわけで、私たちは教会の信仰を学び、いつでもどこでも確信をもって教会の信仰を生き、伝道する者と成長するために、大人の礼拝でもこのように、三要文の学びを続けています。さて、12月30日に学んだカテキズム問52は次のようです。カテキズム問52、 「なぜわたしたちは祈るのですか。」そしてその答は、「神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるから」でした。人間は神さまの似姿に造られた者ですから、神さまの呼びかけに応えるのが本来の喜びに満ちた姿なのです。次に問53を学びました。それは、カテキズム問53、「わたしたちが祈るとき、どのような恵みが与えられますか」という問いでした。その答は、わたしたちが神さまに近づき、親しく語り合う恵みが与えられるのです。神さまが近くにおられることは大きな喜びです。キリスト・イエスさまが私たちの住むこの世界に近くいらしたのは、私たちの罪を赦し、神さまの子とさせるためでしたから。この恵みの中で、わたしたちは既に罪赦されていることを思うとき感謝と喜びを忘れません。

そして、先週のカテキズム問54は、「祈るときに大切なことは何ですか」でした。私たちに大切なことは神さまに対する信頼です。「神さまだけが最も良いものを与えてくださることを信じて感謝し、熱心に求めること」が大切なのです。このように、私たちには神さまに向かって祈りが必要なこと、また祈りの恵みや祈るときの心構えについて、これまで学んできました。では具体的に、私たちはどのように神さまに祈ったらよいのでしょうか。それが本日の学びです。

主イエスさまが弟子たちに祈りを教えられたことはマタイとルカの二つの福音書に伝えられています。本日はルカ11章を読んでいます。1節です。「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。」イスラエルの人々の社会は神さまを知らない社会ではありません。皆が聖書に啓示された神さまを信じて従う神の民だったはずです。それなのに、弟子たちがイエスさまに祈りについて改めて教えてくださいとお願いしている。私たちは何となく意外な感じがするのではないでしょうか。

その当時エルサレムには壮大な神殿があり、人々は祭のたびにエルサレムに大勢、国外からも集まっていました。祭司が香を焚き、犠牲の献げ物が屠られ、献金や十分の一の献げ物が捧げられて、立派な儀式が行われたことでしょう。しかし、そのような整った儀式の礼拝と、個々人の祈りとはかけ離れてしまっていたのかもしれません。形は整い、人々の目や耳を奪うほど美しいとしても、人々は心に何と祈って良いのか分からなかった。だからこそ、主イエスさまの前に現れた預言者ヨハネは、堕落してしまっていた礼拝儀式ではなく、「悔い改めて洗礼を受けなさい」と宣べ伝えました。そのヨハネが弟子たちに祈りのために指導していたのは当然のことであったかもしれません。

それではイエスさまの弟子たちはどうだったでしょうか。「洗礼者ヨハネが弟子たちにお祈りを教えているらしい。」「じゃあ、私たちもイエスさまに教えてもらおうではないか」というようなことだったのでしょうか。マルコ福音書には主の祈りについての記述はありませんが、1章を見ますと、イエスさまに呼ばれた弟子たちが、イエスさまに付き従って伝道の生活を共にした様子が見えてきます。21節から見ますと、イエスさまは安息日に会堂に入られ、み言葉を教え始められました。すると汚れた霊に着かれた人が、説教を遮る。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」と。イエスさまの前に立ちはだかる悪霊に、イエスさまは「黙れ。この人から出て行け」と一喝され。追い出されました。

また弟子のシモンとアンデレの家に行くと、イエスさまは熱を出して寝ていたシモンの姑の手を取り、姑はすぐに癒されました。日が沈み夜になって安息日が終わりました。その時を待っていたかのように、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスさまのところに連れて来たというのです。弟子たちはイエスさまがいろいろな病気にかかっている大勢の人々を癒すのを見ていました。また、多くの人々から悪霊を追い出されるのも見ました。それはどんなに悲喜こもごもの大騒ぎであったことか、決して十分に想像することができません。言ってみれば野戦病院さながらの光景だったのではないでしょうか。

イエスさまは地上に在って私たちと同じ人間であられ、肉体の限界の中を生きておられましたから、このような大騒ぎの伝道の活動に、イエスさま御自身お疲れにならないはずはありません。まして弟子たちはイエスさまの周りに押し寄せて来る人々の応対に疲れ果てて、仕事が終わると泥のように眠ったに違いありません。しかし、朝早く暗いうちにイエスさまは起きて、人のいないところに行ってお祈りをしておられました。弟子たちは起きて、イエスさまがいないのに気付き、さあ、どちらへ行かれたかと捜し回る、という生活の様子が分かります。

イエスさまの弟子たちは、このようなイエスさまのお姿を見て、何を求めたでしょうか。それは祈りでした。彼らは病人を癒す技術を尋ねたのではありません。悪霊の追い出し方を教わろうとしたのではありません。確かに弟子たちはイエスさまのご復活後、そのような力をも与えられました。しかし、彼らはイエスさまの弟子としてなくてはならないものは何かを理解したに違いありません。イエスさまに従う者はイエスさまの祈りを知らなければならないと思ったのです。イエスさまの祈りを知りたいと思ったのです。あのように心を込めて人々に向き合い、人々の苦しみ、悩みの根本を見極め、人々を縛り付け、がんじがらめにしている悪の力、悪霊の支配、神さまに敵対する勢力に立ち向かうイエスさま。その力の源は祈りにあると思わずにはいられませんでした。だからこそ、疲れ果てて倒れ込むような夜も、神さまを仰ぐために祈りへと立ち上がるお姿があることを、弟子たちは知っていました。

こうしてイエスさまが教えてくださった祈りについて、私たちは順番に学んで参ります。主イエスさまは弟子たちに祈りに用いる言葉を細かく規定したのではありません。そうではなくて祈るべき内容について教えてくださいました。すなわち、わたしたちの願いや祈りの目的が何か、何でなければならないかということのみを指摘しておられるのです。主の祈りは、六つの部分から成り立っています。それは六つの願いです。この願いによって神さまに求めることが許されている、その内容が私たちに示されました。まず、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」が最初の三つです。これらは神の栄光に関するものです。後の三つは「私たちに必要な糧を毎日与えてください。私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを誘惑に合わせないでください」で、これらの祈りはわたしたちの救いのために必要なものです。

私たちはちょうど去年十戒を学びました。それで神の戒め、律法が二枚の板に分けられてあることを思い出す方もいらっしゃると思います。第一は神の栄光を讃えるための戒めでありました。そして第二は隣人に対する愛の戒めであります。祝福されて生きるために、神を愛し、人を愛しなさいと命じられているのであります。この祝福は永遠の命に至る祝福であります。この戒めを守ることのできない罪人を救うために、イエスさまが地上に人となり、人の罪を贖って、罪人に救いの道を開いてくださいました。

そのイエスさまが教えられた祈りも、十戒のように、まず第一に神の栄光を讃えるための願いで始まりました。まずこの願いを祈り求めてこそ、私たちは正しい方法で祈る準備が出来たことになるのです。私たちは、すぐに自分の願いにとびつく者ではないでしょうか。すぐに自分の損得を計算するのではないでしょうか。私たちは「隣人を自分のように愛しなさい」との目標から程遠い人間なので、祈りの目標も、目的も真に貧しいと、さもしいものになりかねません。しかし、こういう私たちが自分に関わることだけを考え、はるかに重要である神の国のことを考えないならば、私たちの祈りは主イエスさまのお心とは程遠いものになるでしょう。

イエスさまが朝暗いうちに人里離れたところで祈られた祈りを思います。詩編121篇の祈りは、神さまを礼拝するために神さまの家に向かう人の歌です。都に上る歌。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」

この歌には、神さまをほめたたえる讃美が溢れています。詩人は自分を救ってくださる神さまをどんなに信頼していることでしょう。神さまは、信頼して従う者を必ず助けてくださる。必ず救ってくださる。イエスさまも真の人としてこの信頼を神さまに捧げてくださったのです。そしてよろめく足で世の旅を続ける私たちを守るために、すべての災いを遠ざけて救うために、御自ら私たちの贖いとなってくださいました。主をほめたたえましょう。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美致します。あなたの憐れみが全世界の主に従う教会の群れに注がれますように。そしてどんな苦難、困難の中にあっても、私たちの救いのためにすべてを忍んで十字架の贖いを成し遂げてくださった主イエス・キリストを思い、感謝を捧げます。わたしたち心新たに主の教えに従う者となりますように。

本日はどのように祈れば良いか、について教会の信仰を学びました。主が教会に教えてくださった祈りをよく理解し、生涯の宝として真心を込めて祈るようにお導きください。先週は藤野先生ご夫妻より、1月8日に成宗教会長老会からお送りした招聘状の受諾状をいただきました。すべてが御旨に従って導かれたことを信じ、心から感謝を捧げます。全国にある多くの教会が少子高齢化の中で、困難を抱えています今、成宗教会は主の憐れみと励ましをいただいて後任の先生方をお招きし、広く長く地域連合長老会と共に交わりと学びをすることで、主の体の教会を形成するあなたの御業に仕えることができますように。

これから4月の新年度着任に向けて、新しい体制を整えることができますように、どうか長老会とそれを支える信徒の方々を励ましてください。藤野雄大先生、美樹先生に伝道者としての大きな志を与えられた神さま、どうか成宗教会が先生方をお迎えし、心を合わせて共に主の教会に仕え、共にあなたから豊かな祝福を受けることができますように、どうかお導きください。

先週の主の日に地上の生涯を閉じられた野方町教会員、桑原信子姉妹のことを覚え、あなたに感謝を捧げます。桑原姉はお病気の辛さを乗り越えて、全身全霊を以てこの教会の礼拝に奉仕してくださり、あなたに喜ばれました。そして私たち成宗教会には励ましと感謝を残してくださいました。桑原姉を励ましてくださった主よ、どうか私たちをも励まし、弱い時にも、あなたに愛されているこの愛に応えて喜んで奉仕する群れとならせてください。尽きない感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

祈りの中にある人生

聖書:詩編116篇12-19節, ルカによる福音書18章1-8節

 わたしたちが礼拝説教の中で、信仰問答(カテキズムと申します)によって、教会が受け継いで来た信仰を学び始めたのは、2017年の9月でありました。その内容は、使徒信条と十戒と主の祈りでありまして、三要文と呼ばれます。今年の待降節の前に使徒信条と十戒について学びを終えましたので、本日、2018年最後の礼拝から主の祈りを学びます。そして、ちょうど年度末までには学び終えるでしょう。

本日の問52は、「なぜわたしたちは祈るのですか」です。大変、率直な、素朴な問いです。そしてそれに対する答もまた、大変単純明快なものです。なぜなら、「神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるからです。」これが答です。私たちはよく、お祈りは苦手だなどと言うことがあります。どう祈っていいか分からないと思うこともありますが、人前で祈るということを考えれば、なおさらです。私は40代の頃、ある教会の長老を務めたことがありましたが、長老の務めが重荷だったのは、「どう祈ったらよいか分からない」という単純な悩みのためでした。

一方、洗礼も受けていないのに、また教会を離れて久しいのに、滔々と人前で祈る人がいることにも驚きました。牧師の娘だったという、ある年取った信者の方が「わたしはお祈りができないので、オルガンを弾いて讃美します」と言うのを聞いて、わたしも気持ち分かるなあと思ったことです。こんな私が献身して牧師になったのですから、私は成宗教会の皆さんに祈りについて具体的な勧めをしたことはほとんどありませんでした。ただ、わたしたちは祈りが必要であることだけは、身をもって感じているのではないでしょうか。

私に洗礼を授けてくださった仙台東一番町教会の田中従夫牧師は多くを語らない人でしたが、一つだけはっきりと勧めておられたことがありました。それは祈りを止めてはならないということだったことを思い出します。「悪魔は、わたしたちの計画することに何でも賛成します。わたしたちが、「あれがしたい」と思っても、大賛成。「これがしたい」と言っても、大賛成です。ただし、一つだけ賛成しないことがあります。それは神さまに祈ることです」と田中牧師は言い、だから悪魔に支配されないために、祈りを止めてはいけないと勧められました。長い人生を振り返ったとき、この言葉を思い出します。何かの理由で教会を離れざるを得なかったときも、戻って来ることができたのは、祈りによって神さまの助けを求めて来たからでしょう。

このような体験は、おそらく皆様にもおありのことでしょう。神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるから、わたしたちは祈るのだと教えられました。聖書は、人間が神さまのかたちに造られたと教えています。それは神さまの呼びかけに応える相手として造られたということなのです。ですから、人は神さまとお話ができる、祈ることができるように造られたということです。人が見えない神さまに祈りをささげる姿こそは、神さまがお造りになった本来の人の姿だということができるでしょう。

本日の新約聖書のテキストはルカ18章です。イエスさまは弟子たちに気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、このたとえ話をなさいました。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。

裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすに違いない。』」

ここには神を畏れず、人を人とも思わない傲慢不遜な裁判官が登場します。彼が貧しい寡婦の弱い立場を守ってくれそうな期待は到底持てないのです。しかし、やもめはどうしたでしょうか。見込みがないのであきらめたでしょうか。絶望したでしょうか。彼女に最善の方法は何でしょうか。たとえ傲慢で情け容赦のない相手であっても、彼女は訴えを諦めるより、訴え続ける方を選びました。そしてとうとう不正な裁判官を根負けさせたという話です。

イエスさまはこの傲慢不遜な裁判官を神さまに例えておられるのでしょうか。そんなことは決してないでしょう。ただこんなにひどい相手であっても、この人に訴える他に方法はない、となったとき、この女の人はもう絶対にあきらめないで訴え続けた、ということを強調しておられるのです。まして、あなたたちが祈り求めている相手は神さまではないか。神さまはどのようなお方か、あなたたちは知らないのか、とイエスさまは問われているのではないでしょうか。神さまは憐れみ深い方です。神さまは御自分を次のように言い表された方です。出エジプト記34章6節。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」151上。

このような神さまの慈しみを知っているならば、どうして祈り求め、祈り続けないでいられるのだろうか、とイエスさまは問われているのです。あきらめるなどということは論外ではないかと。本当にその通りなのです。ところが、私も冒頭で正直に述べました様に、「お祈りは苦手だ」とか、「何をどう祈って良いか分からない」という理由で「人前で祈るのは・・・」とためらう人がいるかと思えば、まるで神さまに向かって大演説をするような人も出て来る。また、それを見て、大いに驚いて躓く者まで出て来るという現実があります。そんなことなら、自分の言葉で祈らないで決められた祈祷文にすれば簡単だ、等々、あれこれと百でも理由を作っては、祈りから遠ざかろうとするのではないでしょうか。わたしたちはそれこそ、サタンの思う壺にはまりかけているのです。

ところが、イエスさまは何と言われたでしょうか。それは「あなたがたは、あきらめずに祈りなさい!」とのご命令です。「あきらめないで、」です。「自分の拙い言葉や自分の情けない祈りにがっかりしないで、」です。神さまは立派な日本語でないと、立派な英語でないと聞き取れないとはおっしゃらず、忍耐強く聞いてくださる方なのです。また、神さまはわたしたちのひそかな不平不満もご存じです。あれをお願いしたのに、聞いていただけない、わたしの祈りは聞かれないと思い、がっかりしたり、悲しんだりするわたしたちがいます。

わたしたちからすると無理もないことです。重い障害や難病に苦しんでいる人々を思うとき、いつもイエスさまが手を取って起こしてくださった奇跡、目に泥を塗って見えるようにしてくださった奇跡、耳に指を入れ、つばを舌に付けて、開けと言って聞こえ話せるようにしてくださった奇跡が、起こったらどんなにうれしいことかと思うのです。そしてこれ以上良い願いはない、祈りはない、とまで思い、叶わないことを悲しむのです。

しかし、「がっかりしない。あきらめないで祈りなさい」と、今もイエスさまはわたしたちに呼びかけておられます。わたしたちは、幸いなことにあきらめない者として教会にいます。私はこの教会で祈りについてほとんど指導することはありませんでしたが、ほとんどいつの間にか、祈りに満ちた教会になっていました。兄弟姉妹が集まり、礼拝を守り、共に主に祈って来たからです。そして礼拝が終わると皆、教会の外に出て行きました。また会えるだろう、また集まれるだろうと思って別れるのですが、二度と会うことはなかった人もいます。いつまでも元気でいるのが当たり前のように思ってお別れするのですが、思いがけない困難に直面することもあります。その折々に、わたしたちは祈り合って来ました。

もちろん、お互いのことが十分分かっている訳ではないので、「あの人はこうすれば良いのに」「ああしない方が良いのに」と心配しても、わたしたちの考えが正しいかどうかも分かりません。そういう限りある知識の者たちが、限りある力の者たちが集まって祈る祈りなのですが、この拙い、貧しい祈りを神さまは喜んで聞いておられる。だからイエスさまは「祈りなさい」と言われます。ちょうど何も分かっていない幼子のようであっても、その祈りを喜んでくださる神さまがおられるのです。

成宗教会が祈りに満ちていると思うのは、わたしたちに沢山の困難や課題があるからです。この教会に限ったことではなく、教会はこの社会の、また全世界の悩みを映し出しています。悩む人々、悩む社会、悩む世界の中に建つ教会は、祈りの務めを与えられているからです。今日のイエスさまの例え話には悩みある人の訴え、という祈りが取り上げられましたが、わたしたちは礼拝で感謝の祈りを捧げています。御心を尋ねる祈りもあります。そして、これから主の祈りで学ぶことですが、神さまの御心が行われるようにと祈る祈りに導かれます。自分の願いだけを一方的に願うばかりの時は気がつかないことですが、祈りは毎週の礼拝の中だけでなく、個々人で、毎日、時間を決め、一人で、あるいは家族と共に祈ることによって、思いがけない導きが与えられます。それは、自分がこれまで本当に神さまに守られ、恵まれて来たのだ、という発見です。

詩編116篇の詩人は言います。「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。」神さまがわたしの祈りを聞いてくださったことに気がつく、ということは非常な恵みなのです。なぜなら困ったときに神さま助けてくださいと祈る人は多くいたとしても、災いが過ぎ去ると、神さまが助けてくださったとは思わず、祈ったこともすっかり忘れてしまう人も非常に多いからです。そのような中で、「わたしはこんなに神さまの恵みを受けた」と気がつく人は幸いです。そして人から助けられたとき、何か御礼の贈り物をしようと思うのですが、相手は神さまなのですから、どのように御礼をしようとしてもできないことが分かります。

また、神さまは助けられた人が無理をして献げ物をしてほしいと思ってはおられません。神さまは本当に豊かで恵み深い方なので、ただ人が祈り求めることを喜ばれ、その人を救うことを喜びとしてくださいます。それを信じる人にできることはただ一つ。それは感謝の祈りを捧げることです。喜びの集いを開いて、集まった人々の見守る前で、捧げる献げ物は何でしょうか。それこそが感謝の祈りなのです。

主の慈しみに生きる人、すなわち信仰者の命を神さまは貴いものとして思われるからこそ、これを御心に留められ、必要な助けを与えてくださいます。わたしたちが弱り果てる時、わたしたちは自分で自分を低く見積もり、「わたしは何の値打ちもない」と自分を決めつけて、神さまのせっかくのご好意を蔑ろにするのではないでしょうか。そんなことにならないように常に注意しなければなりません。

こうしてわたしたち主イエスさまに結ばれた者たちは、初めは祈ることが分からず、人前を気にかけたり、自分中心な願い事だけを祈っていたとしても、主はわたしたちをお見捨てにならないのです。なぜなら、主はわたしたちのために命を捨ててくださった方ですから。この方が聖霊によってわたしたちを守り導いてくださったことによって、わたしたちはどんなに前進させられたことでしょうか。わたしたちは時が良くても、悪くても祈り、自分の願いをはるかに超えて善きことを成し遂げることがお出来になる方にすべてを委ね、御名をほめたたえて生きる信仰生活を整えて頂きましょう。2018年が終わろうとする今、わたしたちの歩みを振り返ると、真に人生の一部が祈りの時だったのではなく、わたしたちの人生そのものが祈りの中にあるように、導かれて来たことが思われます。感謝して新しい年を迎えたいと願います。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

本日の礼拝に集めて頂きましたことを感謝申し上げます。2018年を振り返り、成宗教会を通して主と結ばれたわたしたちを守り導いてくださいましたことを、思います。世は移り変わり、人々は変わって行きますが、変ることのない主イエスによっていただいた救いの御業、あなたに対する信仰を感謝し、慈しみとご忍耐の神であられるあなたの御名をほめたたえます。

この年、成宗教会は連合長老会より新たな教師を推薦され。臨時教会総会においてお二人の先生を招聘することを決議しました。真に小さな群れが招聘するにふさわしい教会として整えてください。あなたの御名を汚すことなく、御心に適った道筋が備えられますように切に祈ります。どうかお二人の先生のお働きがあなたのご栄光を現わすものとして貴く用いられますように。先生方のご健康をお支えくださいますようお願い申し上げます。

また成宗教会の長老会の働きを強めてください。長老、信徒の方々のご健康を支えてください。多くの方々が高齢になっておりますが、なお健やかにあなたに支えられ、用いられますように切に祈ります。

どうかこの教会を用いてあなたが招いてくださった方々の上にあなたの御心があり、慈しみ深い主の下に集められますように。来るべき年にも、世の災いを避けることが出来ますように。そして、み言葉を力強く宣べ伝えられる教会としてくださいますように。今、お病気の方、お怪我をしておられる方を思います。どうぞ、その場に共にいらして励まし必要な助けをお与えください。

言い尽くせない感謝、願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主はあなたと共におられる

クリスマス聖餐礼拝

聖書:イザヤ111-10節, ルカによる福音書12638a

 今日、クリスマスをお祝いする主の日の礼拝に、今年も皆様と共に集められましたことを感謝します。クリスマスに教会に私たちが集ったのは、主がお招きくださったのではないでしょうか。私たちに良い知らせを聞くために、私たちはここにいます。その良い知らせはおよそ二千年前、天使がマリアに遣わされたことに始まりました。神さまは人間を救いたいと思われました。人間を本当の幸せに招きたい、これが神さまの願いでありました。

しかし、思い上がった人々は神さまを離れているので、本当の幸せを理解しません。だから良い知らせを無視したり、軽蔑したりするでしょう。自分こそが値打ちがあると思っている人々は、他の人が語ることに耳を傾けないのです。「何だ、そんなことか」と右から左に捨ててしまうのです。預言者たちはどんなに呼びかけたでしょうか。悔い改めて、神さまに立ち帰りなさいと勧めても、聞く耳を持たなかったのです。

そこで神さまは救い主を世に遣わすために、愚かな方法を選ばれました。「愚かな」というのは、神さまから離れて生きる人々には「そんなバカなことがあるだろうか」と思える方法なのです。神さまは、そのように他の人を愚かだと思い、軽蔑して人々をご覧になって、そうではない人々を救いに招こうとされたのです。ナザレの町にマリアという人がいました。ダビデの子孫の家系に所属するヨセフと婚約をしていました。まだ二人は一緒になっていませんでしたが、当時のしきたりでは婚約しているということは、既に妻であるも同然でした。神さまはこの名もないおとめマリアに天使を遣わして良い知らせをもたらしたのです。それは神さまが、小さき者、へりくだった者、心優しい者たちに、ご自分を顕わすためでありました。

その一方で、神さまは御自分の秘密の隠し事を、高慢な者、軽蔑する者には知ることができなくなるようになさる方であることに、私たちは注意しなければなりません。わたしたちが名もない小さな者、へりくだった者、心優しい者であるならば、天使の伝えた良い知らせ、福音を聞こうではありませんか。

天使は言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」おめでとう、と天使は言いました。これは「喜びなさい」という意味でもあります。喜びなさい。これは神さまの私たちへの命令ではないでしょうか。しかし、なぜ喜ぶのでしょうか。私たちはしばしば分からないのです。喜んで良いのかどうかさえも、分からない者なのです。天使は呼びかけます。なぜなら、あなたは恵まれているから。またはあなたは幸せな人だから、と。私たちは今目に見えることしか分かりません。あるいはせいぜい過去に起こったことから物事を判断する位しかできません。前代未聞の事件や災害が起こると、全く戸惑うばかりです。このように私たちの能力は限られているので、実際、自分個人についても、また家族、社会についても分からないことばかりです。

しかし、天使は言うのです、「あなたは神さまに恵まれているのだから、喜びなさい」と。ここで私たちは自分の理解をはるかに超えたところに神さまを見上げることができるでしょうか。喜びなさい。あなたは恵まれているから、という福音は、ここで早くも二つの道を示しているのです。その一つは、「わたしは恵まれている」と信じて喜ぶ道です。そしてもう一つは、「わたしは恵まれているかどうか分からないから、喜べない」という道です。そして、たとえ積極的に「信じない」という決断をしなくても「信じられない」ということでは喜べない。それは不信仰への道なのです。

さらに天使は言いました。「主はあなたと共におられる」と。この言葉こそ、喜べと勧める根拠です。あなたは幸せだ、と断言する根拠なのです。神さまが人々と共におられるということは、人々にとってどういうことなのでしょうか。考えてみましょう。創世記の3章に人間の堕落の物語が記されています。禁断の木の実を食べたアダムとエヴァの物語です。私たち自身も十分に理解していない訳ですが、神さまはなぜか食べてはならない木の実を置かれました。神さまはたくさんの食べて良いものをお与えになったのに、人は神さまの約束を破って食べてはならないものを食べたのです。その結果、二人に何が起こったかと申しますと、人は神さまを避けて隠れました。すなわち、主が共におられることを喜ばない者となったのです。神さまに隠れて、神さまから離れて生きる者になったということです。

それがどのような不幸をもたらしたかということです。人が神さまから離れているということは神さまの助けを求めることができないという不幸です。しかも思い上がっている時には、自分の力を信じて助けなどいらないと公言してはばからないのです。一人の人間の一生を考えれば、生まれてから死ぬまで思い上がっていられる人はいないと思いますから、必ず、悔い改めて神さまに助けを求めるチャンスはあるのですが、不幸なことに世界中どこでも思い上がった人々が次々と現れるので、まるで人類はいつでも思い上がって神から離れていても大丈夫だという錯覚が人々を支配している有様ではないでしょうか。

しかし、幸いなことに、誰も彼もが鬼の首を獲ったかのように得意満面に高ぶっている時代は、日本の社会では過ぎ去って、多くの高齢者が(高齢者はいつの時代でもいましたが、今平和が続いたために、長生きが出来た結果であります)労苦して生きているのが誰の目にも分かるようになりました。また子供の虐待、家庭内暴力も(昔からあったものが少子化のためにより顕在化しているのではないかと思います)社会で取り上げられるようになりました。幸いなことです。なぜなら、だれもが、少なくともその一生のどこかで、救いの手を求めて激しく叫びたいようなところを生きていることが分かるからです。その時、叫び求める魂の祈りを聞いてくださる真の神さまへの信仰が、その人にあるのか、ないのか、そのことは真に大きな分かれ道、正に生死を分ける違いなのです。

エフェソの手紙1章1~2節に、使徒パウロはエフェソ教会の信者たちに次のように挨拶しました。352頁「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」パウロの挨拶も天使のマリアへの挨拶と良く似ていることが分かります。神が共におられるということは、神の恵みと平和がここにある。なぜなら、神の助けが私たちにあるから、ということなのです。本当に神を信頼するところにこそ、本当の喜びがあります。

さて、マリアと天使の話に戻りましょう。マリアは天使の挨拶の意味を思いめぐらしていました。それは人間の知恵では知ることのできない、神さまの秘密のご配慮、ご計画であったからです。神さまは御自分の愛する御子を世に遣わして下さり、御子によってわたしたちを心にかなうものとしてくださるご計画を実現してくださいました。つまり、神さまは御自分に背いて離れ去っていた私たちをただ恵みによって受け入れてくださるのです。そして、かつては神さまの敵対していたわたしたちに、救いの恵みを差し出してくださるのです。

天使は言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」それはマリアばかりでなく、すべての人の理解をはるかに超えることでありました。しかし、これをなしてくださるのは神さまの聖霊なのだと天使は答えます。「聖霊があなたに下り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六カ月になっている。神にできないことは何一つない。」

主の聖霊がマリアに来てくださり彼女を覆ってくださるとき、マリアは自分の理解を超えた天使の言葉を福音として受け入れました。真に神にできないことは何一つないことをマリアは信じました。そして、すべてをご存じであり、ご支配なさる神さまだけが本当に良いことを成し遂げてくださることを信じて従う者として、自分を言い表したのでした。

マリアに与えられた恵みを、私たちも思いめぐらしましょう。私たちも主イエス・キリストを救い主と告白する教会の群れに連なって参りました。このことが聖霊の働きであることを信じるならば真に私たちは幸いな者です。マリアはイエスさまが救い主として受ける苦難を知りませんでしたが、聖霊の助けによって受け入れました。そして私たちも、イエスさまが罪の贖いのために執り成しをして下さったことを信じることができたのは、主の聖霊の助けがあったからです。主を信頼し、主に結ばれて共にいると信じることの幸いがここにあります。私たちが幸いであるのは、自分が救われて安泰な人生が保証されているからではないでしょう。主に結ばれている者の幸いは、むしろ、主に結ばれて多くの人々の救いのために働く聖霊の働きに参加させていただけることの幸いなのです。

成宗教会の墓所にはマタイ福音書1章23節のみ言葉が書かれています。「神は我々と共におられる」と。成宗教会の誇り。それはただただ神さまがここに、信者と共にいらしてくださったということに尽きると思います。どんな良い業も、どんな名声も、どんな働きも過去に去って行きます。自分を誇っている人々は、主が共におられることを誇ることは難しいでしょう。ただ、主を誇り、主を喜びとする人だけが、主に喜ばれて主の体に連なる者であり続けるでしょう。

そしてその人は弱いときにも、強い時にも主に用いられるでしょう。丈夫な時と同様に、また病む時にも不思議に用いられるでしょう。若い時に私は学校の教員でした。中年以後に献身して教会に仕えしました。生きている限り、主の恵みを宣べ伝えることは伝道者の喜びです。しかし、だれも年老いて行くこと、例外なくやがて世を去ることは主の御旨です。牧師を辞めても、主に仕える者として死に至るまで忠実であることは、私の目標であり、またどなたにも強くお勧めする目標であります。そうすれば、主はいつの日にも皆さんと共にいらして祈りを聞いてくださり、助けてくださると思います。そのために、私はまだ信仰を言い表していない方々にも強くお勧めします。謙って小さくなられ、世に降られた神の御子イエス・キリストによって明らかにされた神の恵み、罪の赦しを信じて自らを低くし、悔い改めて、キリストに結ばれる者となりますように。そして次世代の伝道牧会者を迎え、この群れに連なり、共に喜んで主に仕える者となってください。祈ります。

 

御在天の父なる神さま

クリスマスを祝う主の日の礼拝を感謝し、御名を褒め称えます。どうか集められた私たちの讃美を受け入れ、祝福をお与えください。この教会にいつの日も希望を与え、恵みの導きをお与えくださいました。私たちは多くの働きをして、良い時も苦しい時もあなたの教会を建てるために労苦された教師や信徒の方々を既に天に送りました。そして共に労苦した思い出と感謝が残されています。あなたの御子の執り成しによって罪赦され、天から聖霊の助けをいただいて来ましたことの結果であります。

私たちは東日本連合長老会に加盟して共に学び、共に歩んで参りましたことを感謝します。皆、日本の教会、日本の社会の困難を反映して、様々な苦労をしております。しかし、共に悩み、共に労苦して共に教会を建てて行くところに、主が共におられ、どうか喜びが与えられますように。来年度いらしていただく先生方のために、あなたの特別な顧みがございますように。そのお働き、ご健康が祝されますように祈ります。また成宗教会にあなたの御心を示し、私共が善き準備をなすことができますようにお助け下さい。特に長老会の働き、ご健康をお支えください。信徒のお一人お一人があなたの助けによって祈りを篤くし、あなたの広く深い御心と愛とを知って絶えず励まされますように。

本日は聖餐に与ります。どうぞ主イエス・キリストの恵みに恐れと感謝を以て与るものとならせてください。

そして、礼拝後の愛餐の時を感謝します。奉仕するすべての者を祝してください。また明日予定されていますイヴ礼拝の行事を祝福し、助け導いてください。このクリスマスも病気その他の事情で礼拝に参加できないすべての方々の上にあなたの慰めと慈しみがありますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

この喜ばしい知らせを

聖書:ゼファニヤ書314-18節, ルカによる福音書1525

 待降節も本日は第三の主の日となりました。今年もいつもと変らない恵みに満ちたクリスマスが迎えられるように、私たちは身も心も魂も整え、備えたいと思います。今日読みました新約聖書はキリストの誕生に先立つ物語です。それは一人の預言者の誕生です。後に洗礼者ヨハネと呼ばれたヨハネは、イエスさまが世に表れ、福音を宣べ伝える前に表れて、救い主に先立って道を備える務めを果たした人であります。

ヨハネの父となったザカリアは祭司でありました。また母エリザベトも祭司の一族であり、6節にありますように、二人とも神の御前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかったと言われます。わたしたちの神さまは外観の整った行いを喜ばれるのではなく、特に心を見られる方ですから、この二人も心から神さまに従うことを喜び、律法の教えに従って隣人を愛することに努めていたので、「非のうちどころがなかった」と言われたのでしょう。そのように忠実な二人はそれだけで幸せでありましたが、一つだけ叶わない願いがありました。それは子供が与えられることでした。長い間待っているうちに、二人とも年を取って既に子を持つ望みもなくなっていました。

ある時、ザカリアは主の聖所に入って香をたくことになりました。祭司が神殿の聖所に入る時はいつでも、神と人々の仲保者として神の前に立つために入るのです。律法によれば、人々の祈りは祭司が神さまに執り成しをして初めて天に昇るのでした。そこで人々が祈っている時、祭司は聖所で香をたきました。この日、ザカリアが聖所に入ったとき、彼は主の天使が香壇の右に立つのを見ました。彼は非常に恐れました。神さまは私たちに御自分の言葉を聞かせたいと願っておられます。しかし、私たちはなかなか神さまの言葉が分からない。御心が分からないのではないでしょうか。私たちはどうしたら神さまの言葉を聞くことができるでしょうか。聞いて理解することができるでしょうか。そのために、神さまはまず、わたしたちの傲慢を打ち砕いてくださいます。それは、祭司であっても例外ではありません。たとえ、民の中でも優れた者、主の掟と定めをすべて守り、人々から尊敬され、非のうちどころのない祭司さえも、本当に謙って心低くされなければ、神さまの恵みの言葉を聞くことはできないのです。

ザカリアは天使を見て、恐怖の念に襲われました。一瞬のうちに思うのは、自分の罪、咎、過ちを裁かれる方の前に、自分が塵に等しいことでありました。しかし、天使はすぐに彼を立ち上がらせました。「恐れることはない。ザカリア」と。そして神の言葉を告げます。「あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」ザカリアが既に望むことさえできなくなっていた優れた息子が生まれるというのです。そして、その子供の誕生は単に両親とか、家庭内だけの喜びではないのです。

「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊にみたされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」と、天使は預言し、ザカリアとエリサベトに生まれる子、やがて洗礼者と呼ばれるヨハネがすべての信仰者にもたらす絶大な喜びを語ろうとしました。

今、神さまはご自分の民に、大きな救いの御業を携えて現れようとしておられます。この約束に向かって民を用意させ、人々を神さまのもとに導くこと。そして神さまが恵み深く人々のところに来てくださることができるようにすること。これこそが、生まれて来る幼子に与えられた使命なのです。神さまが人々の中に恵みを現わしてくださるために、必要なことは何でしょうか。それは人々が共に生きる共同体で、分裂を引き起こしている争いが止むことではないでしょうか。ところが現実は、遠い国との平和どころか、同じ社会に生きる人々、もっと身近な家族でさえ分裂している有様です。

傲慢な者は、すべての人すべての物を永久に支配しようと、神さまのご意志に逆らって立ち、地上に平和を求める願いと志を圧殺しようとしている。このことは、昔も今も変りありません。天使が語る言葉によっても当時の礼拝共同体は、今の世界に建つ教会以上に、社会の堕落と混乱の中にあったことを想像することができるでしょう。ヨハネの使命、それは神さまから離れ去った罪人たちを主のもとに立ち帰らせることでした。預言者ヨハネはすべての人を悔い改めに導いて、それによって共同体を一致させ、子供たちを親たちと共に神様に立ち帰らせるのです。これまで神さまに不従順であった者たちが、従順であった人たちと共に、神さまのご意志に服従するのです。そして皆共に、新しい神さまの恵みが現れるのを、ひたすら待ち望む者になる。ヨハネはそのために働くでありましょう。

そうです。ヨハネは神の教会を建設するために、その地馴らし、道備えをするでしょう。17節で天使は神の言葉をこう締めくくりました。「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、(複数)の心を子(複数)に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別をもたせて、準備のできた民を主のために用意する。」ヨハネの偉大な使命のために彼は生れる前から「偉大な人」と呼ばれました。ヨハネが偉大なのは、母の胎にいるときから聖霊に満たされていたからです。彼がこの世に生まれ出る前から、見ることも聞くこともできないうちに、聖霊が彼を満たしていたと天使は語りました。ヨハネにこの使命を果たさせるのはヨハネ自身ではなくエリヤの霊、すなわち神さまの聖霊が共にいたからであります。

私たちは聖霊の助けがなければ、神の言葉を聞くことができませんし、聞いてもそれが神さまの言葉であると理解できないのです。だから、この知らせを聞いたザカリアは信じられませんでした。長年の願いは既に不可能になっていたのに、神さまが可能にして下さったということも。また、生まれて来るわが子が偉大な使命をいただいて、神さまに仕えるということも。それは気の遠くなるような良い知らせであったのに。『何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。』

人間のこの肉体の耳は、この良い知らせに対して閉じられていることが分かります。自分の目に見えるものに圧倒され、自然の現実が彼を支配しているからです。だから、まさか、そんなことはあり得ないと思うばかりです。しかし、神さまの思いは、私たちの判断、知恵、思いとは別のところにあるのではないでしょうか。神さまは隠れておられ、私たちに思い図るところを超えておられます。すると、私たちには神さまが遠く離れておられ、無力な方であるように見えるのです。これもまた人間の浅はかさと思い上がりの為す結果ではないでしょうか。

これに対して、天使は答えました。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」この天使ガブリエルというの名は、ミカエルの名と並んで、神の王座のまじかにいる最高の天使を指し示す呼び名でありました。つまり単に天使の一人が語っているのではない。聖なる大天使が、神さまから遣わされた者として神さまの言葉を伝えることによって、委ねられた職務を忠実に果たしているのでありました。

それに対して、ザカリアは疑いの心を抱いて、自分が受け取った良い知らせを他の人々に知らせるためには、真にふさわしくない言葉を口にしたわけです。そこで、ガブリエルは彼の不信仰を明らかに咎めるために、一つのしるしを行いました。それは口がきけなくなるという罰でした。天使の言葉がやがて事実となって初めて、ザカリアの不信仰の罪は赦されることになったのです。それまでは彼にとってどんな日々であったことでしょうか。それは苦しい日々であったとしても、決して悲しい日々ではなかったと思います。エリサベトが子を宿したことが分かった日から、ザカリアは悔い改めの祈りを続けて行ったことでしょう。約束通りヨハネが誕生し、神の言葉の真実が明らかになる日の実現をどんなにか待ち望み、喜んで耐え忍んだことでしょうか。

全世界が御子の誕生を祝うクリスマスに向かっているこの時、わたしたちは、成宗教会臨時総会を開いて新しい教師を招聘しようとしています。全く計画的ではないのですが、この日の説教はバプテスマのヨハネについてみ言葉に聴くことになりました。ヨハネは自分がメシアではないかと思う人々に対してきっぱりと否定し、後からお出でになる方こそ救い主であると証ししたのであります。2千年後の私たちから見れば、これは当然のことですが、当時の人々には全く分からなかったでしょう。ヨハネのメシアを待ち望む姿勢こそ、私たちの手本であり、教会に仕え、教会を建てるものであります。

洗礼者ヨハネの次の言葉をお聞きください。ヨハネ福音書3章27節-30節。168頁です。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

ヨハネが指し示した救い主によって教会は建てられました。イエスさまの教会に仕える者はすべて、救い主の到来を待ち望む者たちであります。この喜ばしい知らせを信じることができるのは、ヨハネに働いてくださった聖霊によるのですから、私たちはいつの時代も忍耐強く教会を建てて、主を待ち望む者となりましょう。「生きているのは、もはやわたしではない」とパウロは言いました。私たちは地上にある限り、主の聖霊によって活かされ、教会の主に結ばれて、生きて働くのです。

成宗教会もこの喜ばしい知らせを伝えるために、全国全世界の諸教会と共に、この地に建てられて来ました。自己中心的で不信仰な世の力が教会の中にも入り込み、兄弟姉妹に大きな躓きを与え、諸教会は苦難の中にありますが、私たちはただ神の御言葉によって活かされていることを、証しして参りました。これからもそうでありますように。そのために成宗教会に新しい時代に向かって教師を招く希望が与えられました。これからも、成宗教会から力強く主の御言葉が語り続けられますように。そして主の聖霊のお働きによってみ言葉が聞き続けられ、み言葉に生かされ、成長する群れとなりますように。祈ります。

教会の頭なる主イエス・キリストの父よ

尊き御名を褒め称えます。あなたは私たちの罪を贖うために御子を世に遣わして、壮大な救いのご計画を実現してくださいました。今日の礼拝を感謝いたします。あなたの御前に非のうちどころのないと言われた祭司ザカリアでさえも、あなたの喜ばしい知らせを信じることができませんでした。私たちは増して罪深く、あなたの善良さ、慈愛に満ちた御心を信じることができず、不信仰のあまり、多くの悩みに陥る者であります。どうぞ、私たちを憐れみ、この罪にも拘わらず、耐え忍んで恵みを現わしてくださるあなたの忍耐と愛を褒め称える者と造り変えてください。

成宗教会を今日まで守り導いて下さったことを思い、真に感謝申し上げます。沢山の苦難、困難がありましたが、私たちの不信仰を打ち砕いて、困難な中に力強くお支えくださっているあなたの聖霊のお働きを見上げることが許されました。大きな恵みでございました。私たちは大きく力に溢れている時以上に、弱り果て困難を抱えている信徒の方々の背後に働くあなたの愛を強く感じ、励まされて参りました。

本日私たちの教会では、長老会が新しいお二人の教師をお招きして共に教会を建てる働きをお願いするために、臨時総会を開きます。先生方には成宗教会の牧師となっていただくばかりでなく、主の体の教会形成のために、東日本連合長老会を通して、また改革長老教会協議会、また、日本基督教団の神学校である東京神学大学を通して、広く、深く教会と手を携えて働いていただく教師としてあなたが任務をお与えになることを願います。成宗教会にとってこれ以上の大きな望みはございません。どうか、あなたの御心ならば、小さな群れに、この大きな志をお与えくださり、この群れをあなたの御用のためにお用いくださいますようお願いいたします。

来週のクリスマス主日聖餐礼拝の上に、教会学校の礼拝の上に、またイヴ礼拝の上に、あなたの恵みをお与え下さい。多くの人々が集められ、み言葉なるキリストの祝福に与ることができますように。主よ、どうか奉仕する者の健康を支えてください。今、心身に不安のある多くの方々を覚えます。どうぞあなたの豊かな顧みが、皆様の上にございますように。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

貧しい人に福音を

成宗教会待降節第二主日礼拝説教

聖書:イザヤ55章1-11節, ルカによる福音書4章14-21節

 クリスマスを待つこの時期、今年も沢山の、驚きというより愕然とするような事件がありました。しかしそれでもこの社会にあって、いつも変らない主の御言葉を聞くことができることは本当に幸いなことです。そして成宗教会にいるわたしたちは、変らない教会を、これからの時代にも建てようとしております。このために、牧師も長老会と共に教会員の方々と共に祈り、労苦している訳ですが、この労苦もまた本当に幸いなものです。なぜなら、わたしたち一人一人は、本当にゆとりのない時代に生きており、経済的にも余力がなくなっていますし、また時間的にも日曜日にもゆっくりできない方々、体力的にも教会に足を運べない方々が多くなっているからです。

しかし、それでも、何とか次世代にも教会を残したいと願うならば、主はわたしたちの願いをお聞きくださるでしょう。この願いは考えてみれば、貧困な願いではない。ゆとりある願い、むしろ豊かな贅沢な願いなのではないでしょうか。わたしたち、お金に乏しくとも、時間に乏しくとも、体力に乏しくとも、豊かな贅沢な願いを持つことができる。それはどんな願いでしょうか。それは、教会を建てたいという願いです。わたしたちはたとえ先日まで青々として木々の葉のようであっても、いつの間にか紅葉して、人の目を楽しませ、きれいと言われる葉のようであっても、やがて風に吹かれて散って行く花のようであっても、天の父、そして教会の主には覚えられ、喜ばれる名前を持っているのですから。

教会は、外の世界から見ると、何の目的で立っているように見えるでしょうか。教会では讃美歌が歌われる。コーラスの愛好家が集まっている。昔は書道や華道に優れた方々も沢山いらしたことを思い出します。また、12月になると、社会奉仕を実践している救世軍の社会鍋が懐かしく思い出されます。また教会は貧窮者を助けるために、また少数者の立場に立って権利を擁護するためにあると思われるかもしれません。そのどれも、教会の中で、全く否定されたり、除外されたりすることはないと思います。しかし、外の世界から見えるこのような活動のために、教会が建っているのではありません。

教会の目的は、神の言葉に従い、神の言葉を宣べ伝えることにあり、教会は神の言葉のために建てられるのです。それでは、神の言葉は教会に大切にされて来たのでしょうか。わたしたちが手にしている聖書。当たり前のように読むことができる聖書ですが、実は500年前、宗教改革が起こる、その前の数百年以上、人々は神の言葉をほとんど失っていた時代が続きました。聖書はラテン語で、一般の人には目に触れることはおろか、聞いて理解することもできませんでした。讃美歌でさえラテン語で、一般会衆が歌うことはできなかったのです。

そこで、主は宗教改革者たちを起こし、彼らを励まして、聖書をそれぞれの自国の言葉に翻訳させるように導かれました。そのおかげで世界の人々は聖書がラテン語ではなく、自分の分かる言葉で読まれるのを聞きことができるようになりました。今から500年前のことです。ルカ福音書は、ガリラヤの町、ナザレで安息日に会堂に集まった人々に、イエスさまが皆に分かる言葉で聖書を読み、解き明かされたと伝えましたが、それと同じように、わたしたちも聞くことができるようになったのです。わたしたち現代人は、宗教改革の時代の神学者たちの労苦と献身の働きを経て、初めて聖書を開き、イエスさまの時代と同じ御言葉を聞くことができるようになったわけです。この恵みに感謝して、福音に耳を傾けたいと願います。

今日読んでいただいたイザヤ書55章1節。「渇きを覚えている者は皆、水の所に来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、値を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」神さまは貧しい人々に呼びかけておられます。飢え渇いている人々。神さまは彼らにパンを与えようとしておられるのです。ぶどう酒と乳も。神の言葉によって神さまは貧しい人々を御自分に招いてくださっています。神さまのくださるパンは神さまの恵みとして無償で与えられます。神さまのくださるパンこそ、あらゆる良いものの源でありますから。

イザヤは、神さまがダビデに約束した慈しみをお忘れにならず、永遠の契約を結んでくださると預言しました。この契約によって約束された慈しみは、神さまの民イスラエルばかりでなく、神さまを知らなかった世界中の諸国民が神さまの備え給う食卓に招かれることです。それでは、どのようにして世界中の人々は招かれたのでしょうか。わたしたちはどのようにして神さまの穀物、神さまのぶどう酒、乳など、あらゆる良いものの食卓に行くことができるのでしょうか。

それはみ言葉によってです。今日の新約聖書はイエスさまがガリラヤで伝道を開始されたときの様子を語ります。4章14節。「イエスは‟霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一体に広まった。」霊の力は、すなわち聖霊の力です。神さまの霊によらなければ、神さまの思いを人々に伝えることは決してできません。イエスさまは神さまの霊に満ちあふれて伝道を開始されたのでした。それは人々を悔い改めさせ、御国に招く力でした。ところで、ユダヤ人の家族の住むところには、必ず会堂がありました。人々はこの会堂に集まって礼拝を献げ、教えを受けるところでもありました。イエスさまは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられたのです。

イエスさまは御自分の故郷ナザレの会堂で、聖書を朗読しようとしてお立ちになりました。(昔は身分の高い人は座り、身分の低い人は立っていました。)イエスさまが立ち上がられたのは、聖書に対する敬意を表すためでした。聖書を解きあかそうとする人々が、畏れ敬う態度で聖書を扱うことは、聖書の尊厳にとってふさわしいことだからであす。神の言葉に対して姿勢を示されたのです。

それは預言者イザヤの言葉でした。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イザヤが語りかけていた人々は紀元前6世紀、バビロンの捕囚後の人々です。彼らは、破壊し尽くされ、暗闇しか見えない荒廃の中にいました。預言者はその闇の中にいる人々を集め、このような長い不幸と災いの連続に打ちのめされている人々を教会として、すなわち神さまを礼拝する共同体として再建する神の恵みを語りました。破壊され尽くしたところに再建の希望を語る。それは人の業ではない。ただ神の恵みの力、聖霊の力による他は考えられません。イザヤはただ聖霊の力によって教会を再建する神の恵みの証人が現れると、預言したのです。

この救いはキリストの到来によって実現されると預言され、人々に信じられて来ました。キリストとはギリシャ語ですが、ヘブライ語でメシア。その意味は油注がれた者、王、祭司、預言者を表します。そして主の霊、すなわち聖霊については、わたしたちもまた、その導き、ご支配を受けたからこそ、その力によって、不信仰な者が信仰を言い表して、イエスさまを救い主と告白、洗礼を受けることができたのです。それは神さまの霊であり、イエスさまが弟子たちに約束してくださった霊ですから、イエスさまに結ばれた教会は昔も今も聖霊の力によって救われる者を生み出しているのです。

ですから主の霊はイエスさまにこそ、限りなく注がれているのです。なぜなら、救い主、キリストであるイエスさまは、わたしたちを神さまと和解させるために、神さまからの使者としての務めを持って世に来てくださったのですから。ヨハネの福音書にこう書かれているとおりです。ヨハネ3章34節。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が‟霊”を限りなくお与えになるからである。」168下。イエスさまに注がれた霊は、イエスさまによって神の教会が回復されることを目指しておられるのです。主なる神さまがキリスト・イエスさまに油を注がれたことは、この方がご自分の考えではなく、ただただ神さまのお命じになるところだけを行われることを意味しているのです。

そしてこの目的のために、神さまはキリストをお立てになり、貧しい人に福音を告げ知らせてくださいます。預言者イザヤは紀元前6世紀の頃、打ちひしがれた人々にこの言葉を語りました。それは時代を超えて、地域を超えて今も全世界に告げ知らせられています。福音の知らされる前には、神の民、教会がどんなに悲惨な状態にあったかを、またキリストがおられないとき、わたしたちすべてがどのような状態であるかを示しています。

昔も今も、人々は非常に多くの悲惨によって虐げられているので、世界中に、このような傷ついた人々の呼び方がふさわしくない、当てはまらないような所は全くないくらい、人々は傷ついているのではないでしょうか。ところがヨハネの黙示録3章17節に、主は次のように言われます。456頁下。「あなたは、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」

このように、実は多くの人々が自分の貧しさに気づかず、盲目であることにも気づかない。知らないうちに人に支配され、人にばかりではなく、物にも、支配される。例えば、便利なものに頼り切って、結果的に支配されていることに気がついていないのです。更に、死と滅びにさえも魅力を感じ、死にたいと公言して犯罪者の餌食になったりします。わたしたちは実に、自分のみじめな状態を感じないほど愚かであることさえあります。真に悲しむべき深刻な悲劇が遠くにも近くにも見過ごしにされているのを、わたしたちは感じないではいられません。

福音には二つの目的があります。その一つは、神さまは福音を通して慈しみ深い御顔をわたしたちに示し、深い死の淵からわたしたちを救い出して下さり、そして、完全な幸福をわたしたちに回復するために、命を与える希望を示してくださるところにあります。それが、19節の主の恵みの年という言葉に示されています。旧約の律法の書には、50年目の解放の年が定められていました。その年が来ると、奴隷は解放され、負債はすべて免除されるという規定でしたが(レビ25:10)、このことは、罪人の罪を免除する神の憐れみのしるしとして宣言されているのです。神の恵みによって罪の奴隷から解放されるのですから、その人は解放された後は、罪に支配されず、神に従う者とならなければなりません。せっかく神の恵みの年に解放されても、神の畑で働くのでなければ、また罪の負債を負ってしまうことになるからです。

福音のもう一つの目的は、わたしたちも自分の中にある貧しさを真に感じて謙り、キリストをわたしたちの解放者として求めることにあります。そうでないならば、キリストがわたしたちにもたらそうとしておられる恵みの救いを受けることができない。高慢でふくれあがり、自分の惨めな者であることを思わず、そこからの解放を願わない者は、このイエスさまの預言に耳を閉ざす者であり、侮る者となっているのです。

だとすれば、本当に幸いなのは、人間の貧しさを知ることではないでしょうか。草は枯れ、花は散ると思う時、だれ一人そのような存在でないと言うことはできません。わたしたちはあらゆる社会にあって、どのような時にも貧しい人に、すなわち神の言葉に耳を開くすべての人々に福音を告げ知らせてくださる聖霊の働きを求めて行きたいのです。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美します。待降節第二の主の日の礼拝にわたしたちは集められ、恵みの御言葉を聞き、讃美を捧げます。小さな群れは、御子キリストの執り成しによって罪を赦され、あなたの慈しみと恵みによって今日まで守り導かれて参りました。今、少子高齢化の進む社会にあって、東日本連合長老会の一員として共に一つの教会を建てる歩みの中に入れられていることを感謝します。

わたしたちの想像を超える時代が始まって行くのではないか、と思う今、どんな時にも、所にも、貧しい者に福音を告げるために世に来てくださった御子イエス・キリストを信じ、あなたの御名を褒め称えさせてください。どうか、私たちをこの主に従い、主の命に連なり、命を得る者としてください。あなたの御心は天が地よりも高いように、私たちの思いを高く超えてあることを感謝します。どうかわたしたちの教会を建てる志、御言葉を世に残す願いが御心に適うものでありますように。来週は成宗教会に新たな主任担任教師を招聘するために臨時教会総会を開きます。どうぞ、御心ならば、多くの教会員が集められ、心を一つに祈りを合わせて招聘を決議することができますように。すべてのことの上に主の恵みのお導き、ご支配を祈ります。

今、ご病気の方々を顧みてくださり、ご健康を回復させて下さいますようお願いいたします。クリスマスの準備が整えられ、喜びと感謝のうちに多くの兄弟姉妹が集められ、お祝いされるクリスマスとなりますように。今、悩みの中にある方々、特にお独り暮らしの方々のご生活の上に平安をお与えください。どうか聖霊の主の助けによって、無くてならないもので養ってください。

この感謝と願いとを、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。