罪を覆ってくださる神

聖書:詩編321-5節, ローマの信徒への手紙715節-83

 平和な社会とは戦争がない社会とばかりは言えません。戦争が起こらない社会であっても、最近のように次々と災害に見舞われ、避難生活を強いられる地域は、あちこちに広がっています。スマホで外出先からご飯が炊けるとか、家電や戸締りを操作できるという魔法のような生活から、アッという間に、水も電気もない生活に転落するのですから。今、わたしたちは決して平和な、無事な社会に生きているとは言えないと思います。

そして戦争の時代がそうであったように、戦わなければならないのは日々の生活、命を繋ぐためです。多くの人々が避難所に集まるけれども、行くことを諦める人々がいるのは、いろいろな理由があると思います。そこに行ってもいっぱいでいる場所がない。食べ物を配っていても、自分のところまで回って来ないうちに無くなる。プライバシーが守られず、着替えもできない。家が心配なのは、留守をしている間に貴重品がなくなってしまう。戸締りなどできるはずがないので、不審者が入りたい放題になる、等々。本当に、体験した人でなければ分からない恐ろしい試練にさらされているのではないかと思います。

イエスさまは山上の説教でお命じになりました。マタイ5章43節~45節。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」(8ページ下)けれども、わたしたちは思っているのではないでしょうか。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」なんて、だれができるだろうかと。

そこでわたしたちも、ユダヤの律法に命じられているとおりにするのが当たり前だと思うかもしれません。『隣人を愛し、敵を憎め』と。しかし、実際災害時にはどうでしょうか。だれが隣人なのか、だれが敵なのかさえ分からないのではないでしょうか。国と国とに戦争が起こる時には、政府は自分の国の人々は隣人、外国の人々は敵と教えるのです。しかし、実際は隣人であるはずの自国の指導部の過ちの結果は、多くの国民が命を落とすことになります。

それでは、どうすればよいのでしょうか。隣人も憎み、敵も憎めということになるのでしょうか。実際、70年以上続いた日本の平和の中で、起こった犯罪を考えると、家族、友人、知人に対する犯罪の割合は、非常に高いということです。つまり、だれが隣人なのか、だれが敵なのかも判別がつきにくい中で、だれも彼も信じられない辛さ。だれも彼もが敵だと感じるようになるということの恐ろしさであります。恐ろしくて、避難所のような所にはいられません。まして廃墟のように破壊された家に一人いて落ち着けるでしょうか。自然現象においても、また政治の趨勢においても、不安定な時代となっている今、改めて真剣に考えなければならないことは、イエスさまのお言葉です。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と命じられました。そしてその目的は「あなたがたの天の父の子となるためである」と言われたのです。

その目的に注目してください。わたしたちはイエスさまのお言葉を聴いています。2千年間ずっと教会に集まって聞き続けているのです。わたしたちは、イエスさまが人々にお知らせくださった神さまについて知りたいと思いました。神さまはどのようなお方であるか、そのことをイエスさまはお知らせくださいました。神さまはその独り子でいらっしゃるイエスさまをわたしたちの世界に遣わしてくださるほどわたしたちを愛しておられることを。その愛は、わたしたちをイエスさまに結ばれた者として、イエスさまの兄弟姉妹として、神さまの子として迎えてくださる愛なのです。

教会はわたしたちがイエスさまに結ばれるために洗礼を授けて参りました。これからもそうです。イエスさまに結ばれることの目的は、天の父なる神さまの子どもとされるためなのです。そのために、イエスさまは敵を愛し、迫害する者のために祈れ、と命じられました。いや、実際に神さまは全世界の人々を造られたのですから、全世界の人々が敵を愛し、迫害する者のために祈るならば、本当に平和が訪れることでしょう。全く、それは理想に過ぎないというかもしれませんが、わたしたちは神のご命令として、高い目標を与えられているのであります。

そこで使徒パウロは今日の聖書に告白しています。15節。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」パウロが何か特別な中毒、依存症にかかっているのか、と想像する必要はありません。キリストに結ばれた人だからこそ、キリストの御命令を守ろうとします。そして守ろうとするからこそ、できない自分に悩むのです。すなわち、洗礼を受け、父なる神さま、子なる神さまの聖霊をいただいた者は、イエスさまによって新たに生まれたのです。だからこそ、神さまの子になるためには、遠く及ばない自分の罪に気がついているのです。

もし、そうでなければ、イエスさまのご命令に悩むことはないでしょう。イエスさまは罪人を憐れんでくださった。心動かして憐れんでくださったので、わたしたちの悩みを悩んでくださった方です。この方の愛に打たれて、ついて行きたいと思うので、共に悩むのです。そうでない人々は、他の人が困ってようがいまいが、自分のことさえうまくいけば良いということになります。つまり、キリスト者の格闘は、自分の罪、神の子にふさわしい者になろうとして慣れない罪に気がついたからこそ起こる苦しみなのです。

自分はイエスさまについて行こうとすればするほど、それに逆らう自分に気がついて格闘している訳です。聖霊が心の内に来てくださって自分を新たに造り変えてくださろうとしておられるのですが、自分の中に、それに抵抗する罪があると分かるのです。わたしたちは地上の生活に、この体をもって生きて行く限り、いつも罪との戦いをして行かなければなりません。18節。「わたしは、自分の中には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」

「肉」という言い方ですが、これは肉体、体のことを意味しているのではありません。わたしたちは、キリストに従う者として聖霊に導かれ、神のものとされる約束に生きているのですが、一方、わたしたちの内には依然として古い自分、キリストに従う以前の部分が残っています。そのことが肉という言葉で表されています。振り返って思うならば、人類最初の人アダムが神さまに背を向けてしまって以来、罪がわたしたちの魂の内に肉的な思いによって支配するようになっておりました。それはアダムに見られたように、浅はかな欲望によって誘惑されて神さまの約束をないがしろにすることであり、また神さまそのものを敬わないで、呼びかけに応えず、身を隠してしまうことであります。また自分は決して悪くないかのように、責任を転嫁し、罪を他人に擦り付けるという思い上がりに現れます。

本当に惨めで情けないことでありますが、それに対して、このような古い自分、また肉といわれるものと全く対立するものが、神さまの霊の働きです。霊はその恵みの御力によって、わたしたちが欲望のままに行動するのを、恵みによって抑えてくださいます。そればかりではありません。霊はわたしたちの心を新たにして全面的に造り変えるために働いてくださるのです。わたしたちの古い人は、言ってみれば隣人を愛し、敵を憎むどころか、隣人も愛さず、敵を愛さず、隣人を憎み、敵を憎む結果、ズタズタになり、傷だらけであります。もう誰も信じられない状態であるばかりでなく、ねじ曲がり、非常に腐敗した精神となってしまっているのです。

「わたしは、何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と使徒は申します。惨めな人間。それはわたしのことだ、と言うのです。他の人のことならば、いろいろ言うのは分かりますが、それはわたしのことだとパウロが言う時、聞いているわたしたちは驚くのではないでしょうか。しかし、この告白があるのは、主イエス・キリストの救いを世に知らせるためなのです。イエスさまの救いが与えられたからこそ、今わたしは罪が分かった。隣人さえ愛そうとして愛せない自分。敵を愛するどころか、隣人でさえ、やっつけてしまわずにはいられない敵のように思える所まで追いつめられる自分。この罪を知らされたのは、イエスさまを知ったから。イエスさまを信じたからに他ならないのです。

パウロは律法によって自分は正しい者と認められて神の御前に出たいと願うことによって、挫折しました。律法を喜んで、イエスさまの教えを喜んで、守りたいと思ったからこそ、挫折を知ったのです。わたしたちもパウロのように、神の律法に従順になるように整えられることを、願い、祈り求めるわたしたちであるならば、それを祈る願いそのものによって、わたしたちは神さまから招かれているのです。「イエス・キリストによって、わたしのもとに来なさい」と。

ここに計り知れない慰めが与えられました。「キリスト・イエスにある者はもはや罪に定められることはない」というのです。主が恵みのうちにひとたび受け入れ、キリストとの交わりの中に接ぎ木させ、教会の共同体の中に洗礼によって合わせ給うならば、その人たちは、キリストを信じる信仰を堅持する限り、たとえ罪に攻め込まれ、更に自分の中に罪を引きずって生きているとしても、神様に断罪されることなく罪責を免除されているのですから。

では、パウロが言う「キリスト・イエスにある者」とはだれのことでしょうか。人々の前で教会が執り行う洗礼は、キリスト・イエスにある者となるための告白です。これはわたしたち一人一人が神の民の内に加えられたいと願っていることを明白に表明するしるしなのですから。洗礼によってわたしたちは唯一の神への礼拝を捧げてすべてのキリスト者と共に一つの信仰を告白すること証しします。こうして自分自身の信仰を公に言い表して、単にわたしたちの心が神への賛美に溢れるばかりでなく、この口を用い、また全身を用いて賛美を現わすのであります。

8章3節。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」わたしたちの目標は、天の父の子とされることです。ただキリストを通して示された神の愛を知ることだけが、わたしたちの救いであります。わたしたちは、神さまの前にどのような罪も覆い隠すことはできません。しかし、イエスさまはわたしたちのために犠牲を捧げて下さり、わたしたちの罪を覆ってくださいました。わたしたちは、イエスさまによって罪赦されたことを信じます。どんな困窮の時にも、自分の願い、求めるところを、全く謙って神さまに捧げ、神さまの御旨のままにその憂いの荷をおろし、神さまに身を委ねましょう。天の父の子となるために、聖霊は信じる者の上に来てくださり、わたしたちを清めてイエスさまの体にふさわしいものと日々造り変えてくださいます。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

本日の礼拝に集められ、恵みの御言葉によって罪の赦しをいただき、感謝申し上げます。わたしたちは、本日の礼拝において、罪の赦しを信じるとは何かを学びました。わたしたちは自分の働き、努力によって罪を償うことができるどころか、罪があることさえ、分からない、気がつかないことが多い者であることを知りました。ただ、キリストに従うことによって自分の力の及ばない罪を贖ってくださるキリストの救いの恵みを知ることができ感謝です。自分で負うことも、取り除くできない罪のこの身を、キリストが覆ってくださったことを、ただ謙って信じる者とならせてください。

罪赦されたわたしたちの人生が、真の悔い改めと、喜びと感謝に満たされるものでありますように。どうか、聖霊をお遣わしください。そしてわたしたちが善い者として生きられるように助け、導いてください。

多くの困難の中にある地域の方々、その地に立つ教会を助け導いてください。真の福音が伝えられますように。あなたの慰めが人々の上にあり、

勇気と知恵とが与えられますように。主よ、厳しい暑さ、と荒天の中で7月も守られて最後の礼拝となりました。礼拝を覚えて心をあなたに向けるすべての兄弟姉妹を祝福してください。来週は8月の聖餐礼拝を守ります。大塚啓子先生がご奉仕くださる礼拝、どうぞ多くの人々が招かれますように。あなたの御名が崇められますように。私は休暇中に東日本の教師会に参加しますが、どうか成宗教会にとって、連合長老会にとって有益な学びがなされますように。教会に将来を備える道を開いてください。

また、8月、9月の諸行事のために心を一つにして準備することができますように。非常な暑さが続きます中、教会に集う皆様のご健康をお守りください。遠くにおられる、様々な事情で礼拝から遠ざかっている方々のご生活、日々の労苦を顧みてください。教会に集う子どもたちのために、夏休み中の安全をお守りください。

この尽きない感謝、願い、主イエス・キリストの尊き御名によって祈ります。アーメン。

呪いを祝福に

聖書:イザヤ書53章1-5節, ローマの信徒への手紙6章4-11節

 昨日は成宗教会の兄弟の結婚式が、恵比寿にある教会で行われました。それは中国語を中心に礼拝が行われている大きな教会で、集まっている人々は働き盛りの若い世代。昔の日本の高度成長期の教会はそうだったと懐かしく思いました。それに比べると、わたしたちの教会をはじめ、日本の多くの教会は人々が高齢化し、いかにも弱っているように感じるかもしれません。しかし、本当にそうなのでしょうか。人は必ず高齢化するのです。社会もそうでしょう。山だって火山活動が盛んな時代が過ぎると、だんだんとおとなしく丸くなる時代が来ると学校で習いました。

すると私たちは進んでいるのかもしれません。血気盛んな人々が集まっている国があり、教会がある。しかし、若者は決して若者のままではいない。だれもがだんだん高齢になって行く。もし教会に、全く同じ世代の人以外、一人もいないならば、その教会はいずれ立ち行かなくなるでしょう。しかし、神様が教会を建てるとお決めになったのであれば、決して人の予想通りにはなりません。私がこの教会に呼ばれたときも、役員会の記録には、高齢化のため、礼拝出席が減少した、と書かれていました。その時も教会員は自分より、年取った方々がほとんどであったのです。

けれども自分より先輩がいること。何十年年上の大先輩が自分の傍にいるということは実は思いがけない恵みです。人は多くの場合、同じ年代の人々といることを好むので、自分と同じ年頃の人々を仲間と感じるようです。しかし、人生の先輩、信仰の大先輩がここにいる恵みは大きい。実際、私も成宗教会の大先輩の方々から多くの恵みをいただきました。遠い星を見て、宇宙を学ぶように、高齢の教会員が共に生きているならば、その人を通して神様が学ばせてくださる恵みは計りしれません。

私は大学生の時、教会に通う者となりました。その頃の礼拝の様子は、今はほとんど記憶のかなたに行ってしまっています。しかし、思い出すのは、礼拝堂の片隅に座って肩を震わせて泣いていらした老婦人の後ろ姿です。なぜ泣いていたのでしょうか。それは1960年代後半。まだ多くの高齢者が戦争の悲しみ、悼みの中にあったことを、今更ながら思います。高齢者は悲惨な時代、悲惨な社会を記憶しているからこそ、礼拝説教に涙をもって自分たちの罪を社会の罪を証ししていたのでしょう。罪によって呪われたのだと。

ですが、それから数十年の内にわたしたちはすっかり変わってしまったことに気がつきませんでした。呪いなんて、何のことだろうか。漢字も忘れてしまっています。わたしたちの理想は衣食住に困らないこと。みんなと仲良く楽しく暮らすこと。いつまでも長生きすること。それだけでいい。その理想さえ実現すれば、神様のことは忘れてもいいではないか。実際、高度経済成長期にだれもが豊かになったと感じていた頃、教会の礼拝で泣く人はいなくなったと思います。そして礼拝で居眠りする人が増えました。皆、神の愛の話を聞きたいと思います。神の祝福を受けたいと思います。しかし、それではなぜ、キリストは十字架にお掛かりにならなければならなかったのでしょうか。そのことを知らせることは、教会にとって非常に困難な時代が来たのでした。

私は居眠りしている信者の一人ではありましたけれども、教会の人々が弱り果てていることを感じておりました。そして神さまは、私がどうしても伝道者として立たなければならないというところまで追い詰められました。しかし、伝道者として、教会の皆さんに神様の言葉を説き明かすことになった時、何と言っても一番困難であったのは、人間の罪について語ることでありました。ローマの信徒への手紙3章23-24節にある言葉です。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みに寄り無償で義とされるのです。」

このわずか3行ばかりの言葉です。読み上げるのは簡単ですが、一体だれが、自分のこととして納得するのでしょうか。説教者は、会衆の一人一人に「あなたは罪ある者です」と言わなければならない。これが大変困難だったのです。私は自分は足りない人間だという自覚があり、一方で教会の人々がたいそう立派に見えました。元々、学校の教師として上から目線で生徒を見ることの無い者でした。また生徒の方も大変おおらかに言いたい放題のことを私に言って来る、そういう教師でした。私には生徒も教師も神の御前に等しい者同士だったのです。

ところが教会の説教者は、自分の落ち度を差し置いて、人間が等しく神の御前に罪人であることを語らなければなりません。そして「あんたなんかにそんなことを言われたくない」と言われることも覚悟しなければなりません。教区総会の時期になると思い出すのですが、教会記録審査という仕事があり、私もそれを担当しました。ルールに従って審査をし、問題を指摘したときのことです。ある教会の会計役員が私を指さし、その指を振りながら、声を震わして言ったのです。「お前なんかに、お前なんかに、私の報告を直されて・・・。」それは高齢の男性でしたが、私が教会の教師であることを知った上でも、自分の書類が直された怒りが治まらないようでした。私の17年の教会の務めは、人間の罪とは何か、について学ばされる年月でありました。そして、そのことを、人々に向かって恐れず大胆に語れるようになることは非常に困難で、多くの時間を要したわけです。

今日読んでいただいたイザヤ書53章1節。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」こう言っている「わたしたち」とはだれでしょうか。それは諸国の王たちであります。人々の上に立って統治している王たちが、「実に驚きに堪えない」と言っているのです。わたしたちの聞いたことを、だれも信じられなかったし、これまでにだれもその意味が分からなかったというのであります。

それほどに、この福音を信じる者はいないというのです。だからイザヤ書はその不信仰を、悲しみ嘆かないではいられないのです。そう嘆いてから、彼らは苦難を受けた一人の方について語りはじめます。

「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」輝かしい風格、好ましい姿は美しさを表します。美しさは神の祝福のしるしです。ところがこの方は美しくなかった。だから、だれも彼を見たいと思わなかったのです。わたしたちはキリストの栄光を人間の見方によって判断してはならず、ただ聖霊の神がキリストについて教えてくださることを信仰によって理解しなければなりません。3節。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」ここでは、主の僕であるこの方のさらに詳しい状況が語られています。つまり、彼は社会から追放された者であり、侮られ、友もない。彼は悲しみと悲哀の人でありました。またこの方は、見るに堪えられないほど魅力のない、病の人であったのです。人は万事が好都合に行っていて、更に健康である時には、不健康で醜い病んでいる者をさげすみ、侮りやすいものです。だからこそわたしたちは自分のこうした傾向と戦わなければならないのです。

わたしたちは楽をして得して、その上で救われたいと考えたいのではないでしょうか。だから、キリストについて理解することができず、キリストを受け入れることができないのです。しかし、イースターの喜びについて語る前には、まず必ず、キリストの苦難と死について思わなければなりません。もし、キリストの苦難を思わず、復活から宣べ伝え始めるならば、それは弱い福音になるでしょう。預言者はキリストの悲しみ、病弱、見捨てられ、侮られ、死に至ったことから宣べ伝え始めたのです。

ところが、多くの人々が彼の死に躓くのです。それはまるで彼が死によって打ち負かされ、死によって圧倒させられたかのように感じられるからです。しかしわたしたちは、死の力と支配を主が打ち破って復活してくださったことを告げるべきなのであります。主の強さとその力は、死を打ち破ることによってこそ、その本質が理解されるからです。

主の強さと力は、死と関係なくあるのではないのです。それは死の支配を打ち破った所に示されました。さて、諸国の王たちは、キリストが負われた苦難の本当の意味を悟らされて、次のように告白したのであります。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

これまでは彼らはこの方が単純に打たれ、苦しめられ、何かの理由で神に叩かれているのだ、と考えていたのでしたが、この時初めて理解しました。実はこの方は自分たちの悩みと、自分たちの悲しみを担っていることを。キリストは地上にいらして、その御言葉によって悪霊を追い出し、多くの病人を癒されましたが、その奇跡物語は、わたしたちの魂にもたらす救いを証しするものであったのです。キリストの地上の働きは、わたしたちの体を癒すためではなく、むしろ魂を癒すことにあるのではないでしょうか。

だからこそ、その癒しは体に対する癒しよりもはるかな大きな広がりを持っていたのです。主はわたしたちの魂の医者に任命された方でありますから。「わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と」いう告白は、人間がどんなに感謝がなく邪悪であるかを、預言者が示そうとしているのに違いありません。彼らはキリストがなぜそんなに激しく苦しんでいるのかを知らず、「ただ彼自身の罪のせいで、神が彼を打ち叩いたのだ」と勝手に解釈していたのです。

わたしたちも全く変わりないと思います。自分の身に何も苦労がない間は、苦労している人の気持ちがなかなか分からない。辛い戦争の体験が共通の苦しみだった時代を記憶している間は、キリストの苦難に救いを見い出す人々が教会に集まったのです。しかし、わたしたちも何とか福音を宣べ伝えようと思うならば、ご自分のためではなく、ただただ罪人を憐れまれたために苦難を負ってくださった方の労苦を僅かでも味わうことができるのではないでしょうか。そして神の御心を知ろうとしない人間の罪、自分の痛みには火がつくほど敏感なのに、人の苦しみには全く鈍感な人間の罪が思われるのです。罪を罪とも思わない生き方そのものが呪われているのです。しかし、それにもかかわらずキリストは、この罪の浅ましさにまみれた人間をなお憐れんで、呪いを祝福に変えてくださいました。キリストの苦難と死は、わたしたちの苦難を苦しみ、死を御自分のものとしてくださったのです。ローマ6章4節。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に与るものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」今日は、使徒信条の中で主は「十字架につけられた」ことがどのような意味を持つのかについてみ言葉に聞きました。「木に掛けられる者は呪われる」と聖書に書いてあります。イエス・キリストの十字架の意味は、わたしたちが神様に赦され、永遠に祝福されるために、キリストが神様に呪われたということです。最後にローマ6章7-8節を呼んで、祈ります。

「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架に付けられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」

 

父・御子・聖霊の三位一体の神様

尊き御名をほめたたえます。ペンテコステに聖霊を注いで下さり、教会の歩みが始まって以来、全世界の教会を励まして、主の体に結ばれるものとしてくださいました。わたしたちの教会もただあなたの恵みによって今日まで導かれたことを感謝します。

本日は使徒信条について、わたしたちの主が十字架にお掛かりになったことを告白して来た意義を学びました。わたしたちもあなたに立ち帰って生きるために、キリストの十字架の死に結ばれ、罪の贖いを受けました。このことを繰り返し思い起こし、新たに感謝を込めて、主の命と共に生きる者とならせてください。

教会の行事が守られ、東日本連合長老会の教会会議も恵みのうちに導かれたことを感謝します。本日は、西東京教区の総会が行われます。あなたの福音がこの小さな教会でも宣べ伝えられると同時に、全国、全世界の教会が手を携えて、福音を宣べ伝え、一つのキリストの体に結ばれるために、教区総会を清めてお用いください。そこで行われる選挙によって秋に行われる教団総会の議員が選ばれます。どうかこの選挙の上に御心が行われますように。

礼拝に来ることが困難になっている兄弟姉妹のために祈ります。多くの方々が主の日の礼拝を覚え、心を込めて祈っておられます。どうかその祈りが聴かれ、わたしたちの祈りと共に、あなたの喜びとされ、この教会が守られますように。主に連なる一人一人が共に主の恵みを受けますように。主はわたしたちをその死に結ばれ、わたしたちの呪いを御自身に受けてくださいました。その代わりにて御自分にある天の祝福に、わたしたちを結んでくださいました。わたしたちの多くが高齢となっておりますが、あなたがわたしたちに注いでくださった恵みを、年を重ねる毎にますます豊かに証しする者となりますように。

この感謝と願いとを、我らの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

天には父がおられる

聖書:ホセア書2章1-3節, ローマの信徒への手紙8章14-17節

 わたしたちの誰もがよく知っている祈りに、主の祈りがあります。これは、弟子たちが主イエスにお願いして、祈りのいわばお手本を教えていただいたのでした。主は初めに「天におられるわたしたちの父よ」(マタイ6:9)と呼びかけることを教えられました。

それで、今日の日本では、伝道が振るわないと言われる教会だけでなく、キリスト教主義の学校でも、「主の祈り」は広く知られていると思います。しかし、わたしたちが主の祈りに従って、神を「天の父」とよぶことができることの意味を、わたしたちは考えたことがあるでしょうか。この祈りは、天にはわたしたち父と呼ばれる方がおられる、という信仰の告白を表しているのです。父と言えば、わたしたちは地上に父と呼ばれる人を持っていました。豊かな時代には、親は親、子は子で、干渉し合わない生活が理想であったでしょう。しかし、貧しい時代には父の借金をどうするのか。廃墟のようになってしまった親の家、土地をどうするのか。最近の新聞には、親の扶養、介護の問題ばかりではなく、兄弟の作った借金をどうすればよいのか、引きこもりの兄弟をどうすればよいのか等、子供の世代にとって悩みは後を絶たないようであります。

だからこそわたしたちは、神を父と信じることの幸い。その絶大な価値を教えられています。わたしたちは豊かになる時もあれば、貧しくなる時もあります。しかし、それに対して天の父は変ることなく、豊かであります。そしていつも信じて従う人々を豊かに恵んでくださる方なのです。今日読んでいただいてホセア書2章1節です。「イスラエルの人々は、その数を増し、海の砂のようになり、量ることも、数えることもできなくなる。彼らは、『あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)』と言われるかわりに、『生ける神の子ら』と言われるようになる。」

イスラエルの人々が生ける神の子らと呼ばれています。しかし、それでは、彼らが「生ける神の子ら」と呼ばれない時があったということでしょうか。その通りです。彼らイスラエルの民は豊かになった時に、生ける神を忘れ、自分たちの好みの偶像に仕えるようになったのです。豊かな地の実りも、豊かな才能も、すべて神から与えられた賜物に過ぎないのに、それを心に留める人は非常に少ない。そこで、神は繰り返し神の子なる民を責め続けます。「あなたがたは「ロ・アンミ」だと。もうあなたたちはわたしの民ではない。わたしはあなたたちの神ではないからだ。」(ホセア1:8)

それほど神は人々の不信仰を怒り、激しく責め続けても、いつまでも怒り続け、いつまでも責め続けることはない。これは真に不思議なことです。人間ならあり得ないことです。だからこそ、真の神を天の父と呼び奉る有難さがあるのです。神は御自分の民を決してお忘れにならないからです。ところが神の子らとされた人々はどうでしょうか。神から遠く離れ、恵みを受けるよりも、自分の努力で、実力で、何かを勝ち取ったと言いたい。自分が、できることにいつもこだわっている。「天の父よ、どうか助けてください」と祈ることが出来ないのです。

旧約聖書の時代には、神はイエスエルとユダの12部族を選んで、神の民としてくだいました。主は彼らを、「ご自分の宝の民である」と言われました。しかし、イエス・キリストをお遣わしになった時、すべての人々、つまりギリシア人もユダヤ人もなく、すべての人々を御自分の許へと呼び集められたのです。旧約の民への約束は「律法を守るならば、救われる」というものでした。逆に言えば、律法を守らないならば、その人は呪われるということなのです。「わたしはこれをしている。あれをしている」と言って自分の立派さを証明しようとする人々は多いのです。

しかし、守らなければならない律法は数限りなくあります。先ほどの親子関係の例で考えてみても、「親が子を甘やかさない方が良い」というかと思うと、「親の扶養のために子供の生活が成り立たなくなってしまっている」という現実があります。これをすれば絶対だ。あれをすれば絶対に正しいということが実際あるのでしょうか。わたしたちはあれこれ自分の考えを述べ、人を時には批判するものですが、実際には他人に当てはまることが、自分に当てはまらないということがたくさんあり、またその逆もありますから、一律に律法を守ることでは救われないということになります。

イエス・キリストは、このようなわたしたちのために、自ら律法によって裁きを受けてくださいました。それは律法を守って救われることのできないわたしたちが、ただ神の恵みによって救われるためです。キリストはご自分の捧げる犠牲によって、わたしたちがただ恵みによって神の子となるための道を開いてくださいました。わたしたちはユダヤ人ではありません。わたしたちは当時の異邦人、ギリシア人やローマ人と同じ立場にいます。キリストによって、ギリシア人にもローマ人にも、すべての人に救いを得させる神の恵みが現れたのです。だからこそ15節では、世界の共通語であるギリシア語と、アッバ(アラム語で父)というアラム語を並列させて、神への呼びかけを強調しているのです。今や、キリストによって、すべての人が「天の父よ」と親しく呼びかけることが出来るのです。

わたしたちがもし、本当にこのことを信じるならば、そのこと自体、神の聖霊がわたしたちに送られてきている証拠となります。わたしたちは主イエスの御名によってお祈りを捧げていながら、主の祈りを唱えていながら、他方で何と思い煩いの多いことでしょうか。何と不平と愚痴に陥りやすいことでしょうか。真剣に反省しなければなりません。なぜなら、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」と書かれているからです。パウロは更に、「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」と主張しています。「あなたがたは『人を奴隷として再び恐れに陥れる霊』を受けたのではない」とは、どういうことでしょうか。わたしたちを神の子としてくださる聖霊は、神の自由なお働きによってわたしたちを導き、成長させてくださるということではないでしょうか。

しかしながら、パウロが福音を宣べ伝えた教会の中には、まだまだ律法を守ることによって教会を整えようとする力が働いていたと思われます。わたしたちの中にはイエス・キリスト以外、決して誇るものがあってはならないのです。ところが熱心な奉仕者をほめたたえるあまり、その人の教養学歴をほめたたえ、その人の社会的地位をほめたたえ、その人の力をほめたたえる傾向はどうしても否めません。褒められる側が問題なのではなく、ちやほやする人々に非常な問題があるのです。なぜ、ちやほやするのでしょうか。それはすぐれた賜物を持っている人に取り入って、自分が利益を得ようとするからではないでしょうか。特に気前よく献金する人々に対する、他の人々の態度に、非常に問題を感じることがあります。あの人はお金持ちだ、という噂を流す人々の意図は明白です。人と比べて「自分は貧しいから」と言い、捧げない口実にするのです。何とか理由をつけて自分を正当化しようとします。こういうのを偽善と言います。こういう態度を続けているうちに再び律法に縛られ、神の霊が与える自由を失ってしまうでしょう。

教会を建てるための戦いは、自分の言い訳を作り、自分の気に入った教会を建てることではありません。しかし、天には父がおられることを心から信じ、祈るならば、わたしたちは父から聖霊を受けることが出来ます。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」と聖書は述べております。

神の聖霊がわたしたちにしてくださる証しは、「わたしたちの霊がキリストの御霊を指導者、また教師として持ち、神によって子としていただく」ということを確実にするほどのものです。しかし、わたしたちの性質は、自分では、このような信仰を心に抱くこともできません。ただ聖霊の証しによるのでなければ、ここに到達できないのであります。ですから、もし聖霊がわたしたちの心に、神の父としての愛を証ししてくださるのでなければ、わたしたちは祈りをすることができません。ですからわたしたちは、神に「父よ」と口で呼びかけ、また心の中でもそのように固く信じるのでなければ、神に正しく祈ることはできないのです。

「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」わたしたちがもし神の子であることを信じるならば、神の相続人であることも信じることになりましょう。

神の相続は、永遠の命を相続するのです。このことはこの世の相続のことよりも、実ははるかに大切なことでありますが、わたしたちは聖霊の助けがなければ、この大切さも全く理解できないでしょう。教会にこの世のことを持ち込んで来る誘惑にわたしたちは弱い者ですが、自分の行く先々のこともないがしろにして持ち物を誇っているのは、実に浅ましいことです。

私は最近、ひどい風邪を引きまして、久しぶりに近所のお医者さんにかかりました。すると病院の様子は二、三年前とは、また様変わりしていました。以前は待合室に患者があふれていましたが、今は驚くほど空いています。その分、お医者さんは各家を駆けずり回り、終末期医療に向かう人々を安全に病院やホスピスにお世話しているようでした。このお医者さんは10年以上前に、私が牧師であると知って、こう質問をしていました。「人は年取って死んでいく。それでどうしていけないんでしょうねぇ。」

お医者さんが今も同じ考えを持っているのかどうか分かりません。しかし、わたしたちが、神の子として神の相続人であると信じることと、信じないことには、大きな違いがあるでしょう。キリストによって罪赦され、神の子とされたわたしたちは、キリストと共同の相続人であると信じる。すると世界が変わるのではないでしょうか。世界の何が変わるのでしょうか。キリストはわたしたちの代わりに苦難を忍んでくださいました。ご自分の罪の報いとしての苦しみではありません。人の苦難をご自分の身をもって受けてくださった。この愛に神の栄光が表れているのです。私たちはこの愛を知りました。この愛を知るときこそ、世界が変わるのです。

このキリストに従って生きましょう!キリストの苦しみはわたしたちの救いのためです。わたしたちは、今はキリストと共に苦しみことが出来る。キリストと共に苦しんで、キリストと共に永遠の命を受けることが出来るからです。年を取るということには、多くの困難があります。しかし、希望に生きる高齢者になりましょう。それ自体わたしたちにとって善いことに違いありませんが、そればかりでは決してないと思います。わたしたちの使命は、地上に教会を建てることだからです。わたしたちの後に希望が残るということが何よりも大切です。その希望によって後の世代が慰めと励ましを受け、ここに真の救いがあることを確信して生きるようになるように、私たちは祈るのです。

キリストに従うことは自分の力や業によってできることではありません。ただ天に昇られたキリストが送られる聖霊がわたしたちを導いておられるのです。その自由なお働きによってわたしたちは、楽なことばかりでなく、むしろ困難なことも辛いことも、すべてのことを時宜にかなって与えられた恵みと感謝することができるのです。祈ります。

 

恵みと憐みに富み給う主イエス・キリストの父なる神様

御名をほめたたえます。あなたはわたしたちを励まし、天の父と呼びまつる幸いをお知らせくださいました。私たちは、自分の働きによって教会を建て、各人の家庭を支えようと一生懸命になりますが、困難は増すばかりです。しかし、あなたの聖霊によって、私たちはあなたを父と呼ぶことが許されました。私たちの力と知恵の及ばない深いご配慮によっていつも導かれていることを信じる者とならせて下さい。そしてここにただ恵みによって生きる教会を建てて下さい。そして私たちに、なくてならない命の御言葉を満たしてください。

東日本連合長老会とともに歩んでおりますことを感謝申し上げます。どうかこの小さな群れをも豊かに用いて、教会の中でも外にあっても、主のご栄光を表す者とならせて下さい。受難節を歩んでいる私たち、どうか自分の行いに頼り、あなたの助けを呼び求めない罪から私たちを救い出してください。

洗礼準備が御心のままに導かれますように。また来週は、教会の3月定例長老会議が持たれます。どうぞ、来年度の計画、諸行事を決めるにあたり、御心が行われ、御名があがめられる計画となりますように。また、特に記念誌編集のために多くの方々のご協力が得られますように、私たちの過去の歩みが未来に向かって用いられる記録となりますように。

ご病気の方々を覚えます。どうかこれまでの恵みに満ちたご配慮を感謝しますとともに、それぞれの方々が良き治療を受けることができますように道を開いて下さい。どんなときにも私たち信者のすべてが、主の証人として立たされていることを心に確信し、無力なときにこそ、ただ主の恵みによって歩むことができますように。

教会の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。