聖書:詩編32篇1-5節, ローマの信徒への手紙7章15節-8章3節
平和な社会とは戦争がない社会とばかりは言えません。戦争が起こらない社会であっても、最近のように次々と災害に見舞われ、避難生活を強いられる地域は、あちこちに広がっています。スマホで外出先からご飯が炊けるとか、家電や戸締りを操作できるという魔法のような生活から、アッという間に、水も電気もない生活に転落するのですから。今、わたしたちは決して平和な、無事な社会に生きているとは言えないと思います。
そして戦争の時代がそうであったように、戦わなければならないのは日々の生活、命を繋ぐためです。多くの人々が避難所に集まるけれども、行くことを諦める人々がいるのは、いろいろな理由があると思います。そこに行ってもいっぱいでいる場所がない。食べ物を配っていても、自分のところまで回って来ないうちに無くなる。プライバシーが守られず、着替えもできない。家が心配なのは、留守をしている間に貴重品がなくなってしまう。戸締りなどできるはずがないので、不審者が入りたい放題になる、等々。本当に、体験した人でなければ分からない恐ろしい試練にさらされているのではないかと思います。
イエスさまは山上の説教でお命じになりました。マタイ5章43節~45節。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」(8ページ下)けれども、わたしたちは思っているのではないでしょうか。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」なんて、だれができるだろうかと。
そこでわたしたちも、ユダヤの律法に命じられているとおりにするのが当たり前だと思うかもしれません。『隣人を愛し、敵を憎め』と。しかし、実際災害時にはどうでしょうか。だれが隣人なのか、だれが敵なのかさえ分からないのではないでしょうか。国と国とに戦争が起こる時には、政府は自分の国の人々は隣人、外国の人々は敵と教えるのです。しかし、実際は隣人であるはずの自国の指導部の過ちの結果は、多くの国民が命を落とすことになります。
それでは、どうすればよいのでしょうか。隣人も憎み、敵も憎めということになるのでしょうか。実際、70年以上続いた日本の平和の中で、起こった犯罪を考えると、家族、友人、知人に対する犯罪の割合は、非常に高いということです。つまり、だれが隣人なのか、だれが敵なのかも判別がつきにくい中で、だれも彼も信じられない辛さ。だれも彼もが敵だと感じるようになるということの恐ろしさであります。恐ろしくて、避難所のような所にはいられません。まして廃墟のように破壊された家に一人いて落ち着けるでしょうか。自然現象においても、また政治の趨勢においても、不安定な時代となっている今、改めて真剣に考えなければならないことは、イエスさまのお言葉です。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と命じられました。そしてその目的は「あなたがたの天の父の子となるためである」と言われたのです。
その目的に注目してください。わたしたちはイエスさまのお言葉を聴いています。2千年間ずっと教会に集まって聞き続けているのです。わたしたちは、イエスさまが人々にお知らせくださった神さまについて知りたいと思いました。神さまはどのようなお方であるか、そのことをイエスさまはお知らせくださいました。神さまはその独り子でいらっしゃるイエスさまをわたしたちの世界に遣わしてくださるほどわたしたちを愛しておられることを。その愛は、わたしたちをイエスさまに結ばれた者として、イエスさまの兄弟姉妹として、神さまの子として迎えてくださる愛なのです。
教会はわたしたちがイエスさまに結ばれるために洗礼を授けて参りました。これからもそうです。イエスさまに結ばれることの目的は、天の父なる神さまの子どもとされるためなのです。そのために、イエスさまは敵を愛し、迫害する者のために祈れ、と命じられました。いや、実際に神さまは全世界の人々を造られたのですから、全世界の人々が敵を愛し、迫害する者のために祈るならば、本当に平和が訪れることでしょう。全く、それは理想に過ぎないというかもしれませんが、わたしたちは神のご命令として、高い目標を与えられているのであります。
そこで使徒パウロは今日の聖書に告白しています。15節。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」パウロが何か特別な中毒、依存症にかかっているのか、と想像する必要はありません。キリストに結ばれた人だからこそ、キリストの御命令を守ろうとします。そして守ろうとするからこそ、できない自分に悩むのです。すなわち、洗礼を受け、父なる神さま、子なる神さまの聖霊をいただいた者は、イエスさまによって新たに生まれたのです。だからこそ、神さまの子になるためには、遠く及ばない自分の罪に気がついているのです。
もし、そうでなければ、イエスさまのご命令に悩むことはないでしょう。イエスさまは罪人を憐れんでくださった。心動かして憐れんでくださったので、わたしたちの悩みを悩んでくださった方です。この方の愛に打たれて、ついて行きたいと思うので、共に悩むのです。そうでない人々は、他の人が困ってようがいまいが、自分のことさえうまくいけば良いということになります。つまり、キリスト者の格闘は、自分の罪、神の子にふさわしい者になろうとして慣れない罪に気がついたからこそ起こる苦しみなのです。
自分はイエスさまについて行こうとすればするほど、それに逆らう自分に気がついて格闘している訳です。聖霊が心の内に来てくださって自分を新たに造り変えてくださろうとしておられるのですが、自分の中に、それに抵抗する罪があると分かるのです。わたしたちは地上の生活に、この体をもって生きて行く限り、いつも罪との戦いをして行かなければなりません。18節。「わたしは、自分の中には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」
「肉」という言い方ですが、これは肉体、体のことを意味しているのではありません。わたしたちは、キリストに従う者として聖霊に導かれ、神のものとされる約束に生きているのですが、一方、わたしたちの内には依然として古い自分、キリストに従う以前の部分が残っています。そのことが肉という言葉で表されています。振り返って思うならば、人類最初の人アダムが神さまに背を向けてしまって以来、罪がわたしたちの魂の内に肉的な思いによって支配するようになっておりました。それはアダムに見られたように、浅はかな欲望によって誘惑されて神さまの約束をないがしろにすることであり、また神さまそのものを敬わないで、呼びかけに応えず、身を隠してしまうことであります。また自分は決して悪くないかのように、責任を転嫁し、罪を他人に擦り付けるという思い上がりに現れます。
本当に惨めで情けないことでありますが、それに対して、このような古い自分、また肉といわれるものと全く対立するものが、神さまの霊の働きです。霊はその恵みの御力によって、わたしたちが欲望のままに行動するのを、恵みによって抑えてくださいます。そればかりではありません。霊はわたしたちの心を新たにして全面的に造り変えるために働いてくださるのです。わたしたちの古い人は、言ってみれば隣人を愛し、敵を憎むどころか、隣人も愛さず、敵を愛さず、隣人を憎み、敵を憎む結果、ズタズタになり、傷だらけであります。もう誰も信じられない状態であるばかりでなく、ねじ曲がり、非常に腐敗した精神となってしまっているのです。
「わたしは、何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と使徒は申します。惨めな人間。それはわたしのことだ、と言うのです。他の人のことならば、いろいろ言うのは分かりますが、それはわたしのことだとパウロが言う時、聞いているわたしたちは驚くのではないでしょうか。しかし、この告白があるのは、主イエス・キリストの救いを世に知らせるためなのです。イエスさまの救いが与えられたからこそ、今わたしは罪が分かった。隣人さえ愛そうとして愛せない自分。敵を愛するどころか、隣人でさえ、やっつけてしまわずにはいられない敵のように思える所まで追いつめられる自分。この罪を知らされたのは、イエスさまを知ったから。イエスさまを信じたからに他ならないのです。
パウロは律法によって自分は正しい者と認められて神の御前に出たいと願うことによって、挫折しました。律法を喜んで、イエスさまの教えを喜んで、守りたいと思ったからこそ、挫折を知ったのです。わたしたちもパウロのように、神の律法に従順になるように整えられることを、願い、祈り求めるわたしたちであるならば、それを祈る願いそのものによって、わたしたちは神さまから招かれているのです。「イエス・キリストによって、わたしのもとに来なさい」と。
ここに計り知れない慰めが与えられました。「キリスト・イエスにある者はもはや罪に定められることはない」というのです。主が恵みのうちにひとたび受け入れ、キリストとの交わりの中に接ぎ木させ、教会の共同体の中に洗礼によって合わせ給うならば、その人たちは、キリストを信じる信仰を堅持する限り、たとえ罪に攻め込まれ、更に自分の中に罪を引きずって生きているとしても、神様に断罪されることなく罪責を免除されているのですから。
では、パウロが言う「キリスト・イエスにある者」とはだれのことでしょうか。人々の前で教会が執り行う洗礼は、キリスト・イエスにある者となるための告白です。これはわたしたち一人一人が神の民の内に加えられたいと願っていることを明白に表明するしるしなのですから。洗礼によってわたしたちは唯一の神への礼拝を捧げてすべてのキリスト者と共に一つの信仰を告白すること証しします。こうして自分自身の信仰を公に言い表して、単にわたしたちの心が神への賛美に溢れるばかりでなく、この口を用い、また全身を用いて賛美を現わすのであります。
8章3節。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」わたしたちの目標は、天の父の子とされることです。ただキリストを通して示された神の愛を知ることだけが、わたしたちの救いであります。わたしたちは、神さまの前にどのような罪も覆い隠すことはできません。しかし、イエスさまはわたしたちのために犠牲を捧げて下さり、わたしたちの罪を覆ってくださいました。わたしたちは、イエスさまによって罪赦されたことを信じます。どんな困窮の時にも、自分の願い、求めるところを、全く謙って神さまに捧げ、神さまの御旨のままにその憂いの荷をおろし、神さまに身を委ねましょう。天の父の子となるために、聖霊は信じる者の上に来てくださり、わたしたちを清めてイエスさまの体にふさわしいものと日々造り変えてくださいます。祈ります。
恵み深き天の父なる神さま
本日の礼拝に集められ、恵みの御言葉によって罪の赦しをいただき、感謝申し上げます。わたしたちは、本日の礼拝において、罪の赦しを信じるとは何かを学びました。わたしたちは自分の働き、努力によって罪を償うことができるどころか、罪があることさえ、分からない、気がつかないことが多い者であることを知りました。ただ、キリストに従うことによって自分の力の及ばない罪を贖ってくださるキリストの救いの恵みを知ることができ感謝です。自分で負うことも、取り除くできない罪のこの身を、キリストが覆ってくださったことを、ただ謙って信じる者とならせてください。
罪赦されたわたしたちの人生が、真の悔い改めと、喜びと感謝に満たされるものでありますように。どうか、聖霊をお遣わしください。そしてわたしたちが善い者として生きられるように助け、導いてください。
多くの困難の中にある地域の方々、その地に立つ教会を助け導いてください。真の福音が伝えられますように。あなたの慰めが人々の上にあり、
勇気と知恵とが与えられますように。主よ、厳しい暑さ、と荒天の中で7月も守られて最後の礼拝となりました。礼拝を覚えて心をあなたに向けるすべての兄弟姉妹を祝福してください。来週は8月の聖餐礼拝を守ります。大塚啓子先生がご奉仕くださる礼拝、どうぞ多くの人々が招かれますように。あなたの御名が崇められますように。私は休暇中に東日本の教師会に参加しますが、どうか成宗教会にとって、連合長老会にとって有益な学びがなされますように。教会に将来を備える道を開いてください。
また、8月、9月の諸行事のために心を一つにして準備することができますように。非常な暑さが続きます中、教会に集う皆様のご健康をお守りください。遠くにおられる、様々な事情で礼拝から遠ざかっている方々のご生活、日々の労苦を顧みてください。教会に集う子どもたちのために、夏休み中の安全をお守りください。
この尽きない感謝、願い、主イエス・キリストの尊き御名によって祈ります。アーメン。