主は熱情の神である

聖書:出エジプト記204-6節, ヨハネの手紙一51821

 成宗教会は、礼拝の中で教会の信仰について学びを進めています。それは古くからカテキズム信仰問答によって行われて来た学びです。それは使徒信条と 十戒 と主の祈りを学ぶことによってなされて来ました。本日は十戒の第二の戒めについて学びます。十戒はモーセが神さまから受け取って、神さまの民、イスラエルに教えたもので、出エジプト記20章に書かれています。

本日はカテキズム42。十戒のうちの第二の戒めです。それは出エジプト記20章4節に「あなたはいかなる像も造ってはならない」と命じられているとおりです。更に強調されています。「上は天に在り、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」と。本当に不思議に思うのですが、世界中どこでも、いろいろな像が造られ、神々として拝まれています。昔から、像には神々の霊が宿ると考えられていたようです。人間は神の姿を心に思い描き、自分の知恵と力でこんな姿、あんな姿と造りたかったのでしょう。しかし、下手な人が造った偶像では誰も関心しない。有り難くも思わないのに、上手な人が造ると芸術作品と同じで大変人目を引きます。素晴らしい作品であると思う。それだけなら、良いのでしょうが、そこに神の霊が宿っているということになると、造った人が褒められるばかりでなく、偶像そのものが神のように礼拝されるのです。

これほどおかしなことはないと思うのですが、おかしいと思わない人々も多いのです。聖書は、神は天地を創造され、万物を御支配されていると教えます。神が万物を創造された。人間も神の作品です。それなのに、その人間が神を造り出している。こんな真逆なことをしておかしいとは思わない。それはなぜでしょうか。神の像を造ることには目的がありました。像を造ってそこに神さまの霊を閉じ込めたいのです。どこそこの神殿に行けばいつでも神がそこにいるという訳です。神をその像に閉じ込めて、人間の思いどおりに操りたいからなのです。

人々の願いは、豊かな実りを求めることであったでしょう。作物が沢山取れますように。家畜が沢山増えますように。家族が与えられ、子宝に恵まれ、家が栄えますようにという願いは誰しも持っているのです。イスラエルの人々の周りにはそういう人々の願いに応えてくれそうな神々が沢山礼拝されていました。人々の願いに奉仕してくれる偶像を彼らは求めていたのです。神という名で呼ばれながら、実は人間の要求に応えるために造り出された偶像は、人間の作品そのものです。

偶像は人間の作品。それに対して聖書はこう語ります。わたしたちは神の作品であると。わたしたちをお造りになった神さまは、人間の手の業の中に閉じ込められるような方では決してありません。人間の支配を受けるような方では決してないのです。昔、アブラハムという人も偶像を拝む人々の世界に住んでいました。ところが主なる神さまはアブラハムに呼びかけられました。創世記12章です。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民西、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたに依って祝福に入る。」

アブラハムは住み慣れた偶像だらけの土地を離れて、神さまに従うように命じられました。祝福の約束はいただきましたが、祝福の内容は分かりませんでした。具体的にどこに行くのかも分かりませんでした。しかし、アブラハムは約束してくださる神さまを信じて従って行ったのでした。400年もの年月が流れて、アブラハムの子孫、イスラエルはエジプトにいました。不思議な神さまの導きによってひどく困ったときもありましたし、大変繁栄したときもありました。しかし、この時はイスラエルの人々はエジプトの奴隷でした。ひどく虐待され、彼らの叫び声が神さまに届いた時、神さまはモーセを指導者としてお立てになり、奇跡的に人々を救ってくださったのです。

この時以来、イスラエルの人々は真の神さまはどのような方かを知らされたのです。「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天に在り、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」と偶像を禁止される神さまは、更に御自分を次のように紹介されたのです。「あなたはそれに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」これこそ、真の神さまの自己紹介であります。

真の神さまのご性質(姿は見えないのですが、そのお姿と言っても良いと思います)、そのお姿は、偶像とは全く違う、かけ離れたものでしょうか。「熱情の神」と言われる方。口語訳聖書は、これを「嫉む神」と訳しています。嫉むほどに御自分の民を愛する神さまであるということです。しかし、神さまの愛を人間の愛情と比べるのは限界がありますし、畏れ多いことであります。激しく愛するけれども、熱が冷めたら、あとは捨てて顧みないという愛ではありません。むしろ激しく愛するあまり、その愛に応えない人間に激しい怒りを表す愛と言う方が真実に近いと思います。それは神の愛に応えない人間の行動の結果を見れば分かります。神に背く行為、背信行為は、神の忌み嫌う不正であり、欺瞞であり、偽善という実を結ぶからです。

真の神さまは天地万物をお造りになり、わたしたちに必要なものを豊かに満たしてくださることがお出来になります。それにも拘わらず、人々が偶像を拝むことは、神から豊かにいただいたものを、偶像に御礼を述べていることになります。まるで偶像が豊かにくださったと信じているかのように。神さまをほめたたえずに、自分の手で造った偶像をほめたたえるという不正、欺瞞が平然と行われているのです。偶像礼拝について、アウグスティヌスもこう指摘します。「像が聞き上げてくれると思うか、ないしは願いを適えてくれると期待するかでなければ、だれもこのように像を見つめて祈ったり拝んだりはしない。」

神さまが人間をこんなにも愛し、すべての善いもので満たしておられるのに、人間は神さまを無視して、神さまでないものにひれ伏しているとしたら、どうでしょうか。神さまにならば恥ずかしくてお願いできないような身勝手なお願いを、偶像にしているとしたら。「私だけ豊かになりますように。わたしのほしいもの、ものだけでなく人も手に入りますように」と偶像にひれ伏しているとしたら。その結果はひどいものです。自己中心と自己中心がぶつかり合って争いは絶えない。弱い者、良心的な者は踏みにじられて捨てられて行く。神さまの熱烈な愛は怒りに変らないでしょうか。

それでも人間は自分の偶像を諦めません。そして神さまにはそんなに熱烈に愛されない方が良い。わたしのことは放っておいてほしい。わたしはどこで何をしようと気にしないでくださいと言う。真の神さまから熱愛されたくない人間の気持ちは、だれもが何となく理解できるのではないでしょうか。先週の北海道の震災。美しい山々がまるで巨大な熊の爪でえぐられたように地肌がむき出しになって、裾野の人々の家が土砂の下敷きになって、信じられない光景でした。広島の7月の豪雨災害、大阪の災害と次々と起こって、わたしたちは頭が真っ白になるより他はありません。

しかし、このような大惨事の時も慰められることが一つあります。それは無残ながれきや土砂の山に遠くから小さな豆粒のように見える救助隊の人々の姿。あんなに恐ろしいところにも暑さにも、いつまた襲って来るかもしれない激しい地震の危険にも、あきらめない。止めないで救助しようとする人々の姿を見ます。何日も経って、何十日も経っても、もう生きては見つからないだろうと思っても、止めないで捜している。その人々の姿に、私たちは救いを見ないでしょうか。慰めを受けないでしょうか。

人の命の大切さを思うのが当然だとする社会が、まだここにある。もう生きていないとしても、遺体になっても、見つけ出そうとするのは、人が人として生きるために、大切な根本的なことを、わたしたちが共有しているからではないでしょうか。それこそは神さまが熱情の神である、と宣言されている人間に対する愛に他なりません。何ものにも代えられないから放っておけない。とことん捜し求めて、失われた人を見い出そうとする。それは、わたしたちが神さまの尊さをいただいている人間だからではないでしょうか。

失われた人間を見出そうとする神さまの情熱は、独り子イエスさまを世に遣わしてくださいました。本日はヨハネの手紙一5章を読みました。ヨハネはこう言います。「わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。」本当に神から生まれた者は、御子イエス・キリストお一人だけです。しかし、わたしたちはイエスさまを信じて、イエスさまの死に与りました。すなわち、わたしたちの罪のために十字架で死んでくださったイエスさまと共に、わたしたちも罪に死んで、イエスさまの命に結ばれ、新しく神の子とされたのです。このことを、ヨハネの手紙は「神から生まれた者」と呼んでいるのです。

しかし、「神から生まれた者は、罪を犯さない」と言われると、どうもそうは思われないのではないでしょうか。わたしたちは生きている限り、相変わらず間違いも多く、人を傷つけたり、傷ついたり、本当に日々悔い改めを必要とする者です。しかし、ヨハネが言っている「すべて神から生まれた者は罪を犯しません」ということはそういうことではありません。ヨハネが言いたいのは、神さまの恩恵を失わない人は決して罪を犯さないということなのです。自分の力で罪を犯さないということは、だれも決してできないので、わたしたちは神さまを畏れてその恵みの中に身を委ねます。そうすると神さまをいつも畏れている者は、悪魔的なものに身を任せるほどに惑わされることがないように自分を制するようにさせられます。神さまの恵みによって罪を犯さないのです。

悪い者は手を触れることができないというのは、致命的な傷を意味しています。神の子は信仰の盾によってサタンのあらゆる襲撃を退け、心臓に達する傷を受けることはないので、神の子においてはその霊的生命は消え失せることがないのです。たとえ信仰者が肉の弱さそのものによって罪を犯したとしても、その人は罪の重荷の下で呻き、自分に嫌悪を抱いても、自分を追い求めて救ってくださる神を畏れることを止めることはありません。

19節「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」世という表現は全世界を意味しているのではありません。ただ人間がサタンの支配下に陥りやすいということなのです。このような世に在って、神さまに従って生きる者とされるために招かれて神の子とされることは、本当に光栄なことであります。この栄誉は、ただただ神さまの恵みを信じる信仰の生活によって証しされることができるだけです。

20節。「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」わたしたちはイエスさまによって真の神、真実な方を知ることができました。イエスさまに結ばれて、神の子として神の内に生きる者とされました。わたしたちが罪を犯さないのは、イエスさまがわたしたちのために今も後も祈っておられる執り成しの恵みによるものです。この恵みにしっかりと頼る者は偶像を避けることができ、イエス・キリストの名によって真の神のみを知り、礼拝する者となることができます。

今日のカテキズム問42は十戒のうちの第二の戒めです。答は「あなたはいかなる像も造ってはならない」です。神さまは、人が造り出すいかなるものも、神としてあがめることを禁じておられます。祈ります。

 

天の父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。わたしたちは一週間の生活を守られ、導かれ、御許に集められました。この幸いを感謝いたします。

あなたは真に熱情の神であると教えられました。わたしたちを愛して、その罪から救うために独り子であるイエス・キリストを惜しまず、世に遣わしてくださり、その熱情をお示しくださいました。わたしたちは、そのことを学びました。この身をもって生活を以て、あなたこそ真の神でいらっしゃることを証しするために、偶像を慕い求める罪の誘惑からわたしたちを救い出してください。

先週は西にも北にも、災害が起こり、人名が失われ、人々が悲しみに暮れ、途方に暮れています。このような時にも、わたしたちは教会で「子どもと楽しむ音楽会」を開くことができました。多くの人々が集められましたことを感謝します。このような善き活動を通して、人々が教会に出会い、励ましを受けて、どんな困難にも立ち上がって行くことができますように。わたしたちはすべての善いものがあなたから豊かに与えられることを信じて参ります。

弱い者が強くされ、病の者が健康にされ、罪深い者が皆、イエスさまの犠牲の死によって罪赦され、わたしたち皆が悔い改めて、あなたに感謝を捧げる者となりますように。そして地上の生涯の終わりが近づいたならば、主に結ばれて御国に招かれていることを確信してあなたを待ち望む者とならせてください。地上にある成宗教会が、どうか福音のために用いられますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

キリストに対する真心(まごころ)

聖書:出エジプト記20章4-6節, コリントの信徒への手紙二 11章1-6節

 日本基督教団の総幹事を務められた内藤留幸先生が10日前に亡くなられましたので、先週、私は葬儀に先立つ前夜式に参列しました。松沢教会の会堂は弔問者で溢れ、私にとっては冷房機器の近くで3時間半以上も寒さに耐えながらの式でした。葬儀式というものは、まず肉体的に忍耐の機会であったことを、久しぶりに思い出しました。それでも、私はお別れの日に参列出来て良かったと思いました。成宗教会に赴任してからの数年間、内藤牧師がカルヴァンの勉強会にお招きくださったことを有り難く思い出していたからです。世の中は葬儀式どころではない貧しい雰囲気になったと思っておりましたが、内藤先生はあのようにたくさんの業績があった教師とはいえ、たくさんの人々が一堂に会して感謝を込めて天に送る葬儀式がなされたことで、参列者には思いがけない慰めが与えられたのだと思います。共に集まり、共に感謝する。共に悲しむことも、共に喜ぶことと同様にわたしたちに与えられた恵み。心の豊かさの表れなのだと思います。

毎日のように報道される痛ましい事件。先週の集中豪雨の惨状は目を覆うものでありました。わたしたち長く生きている者は、たくさんの災害を経験し、遠い過去には傷ましい戦争の惨禍も記憶しておられる方々がおられます。しかし、災害復旧という点からしますと、高度成長期を進んでいた時代には本当に復興復旧のスピードも速かったことを思います。原爆が投下された直後の広島では、あと70年は草木も生えないとまで言われたそうですが、本当に広島は美しい町に復興して久しくなり、近年はむしろ被爆の悲惨さを忘れさせてはならない、と努力が傾けられています。

しかし、高度成長期が終わって久しい今、社会の様相は一変しています。東日本の震災復興も遅々として進みません。原発事故の影響は計り知れないものが進行中であり、平和な生活に戻れる日はあるだろうか、という方々が大勢いるということです。また熊本地震でも、被災地域に倒壊したままになっているところがまだ沢山あるそうです。その上にこの豪雨、水害。途方に暮れる現実が高齢化した社会に迫っているのではないでしょうか。

この時、この社会に主は何をなさろうとしておられるのでしょうか。今こそ、福音を聞きなさいと主は言われるのではないでしょうか。今こそ、信じなさい、と主は言われるのではないでしょうか。そして今こそ、福音を宣べ伝えなさいと、主は言われるのではないでしょうか。わたしたちはだれもが、この時代の子であります。この時代の影響を受けないで生きている人はだれもいないのです。今、多くの人々が自分の問題で手いっぱいで生きている。つい20年、30年前までは、だれもが中流階級気取りで生きていたのに。教会の人々も海外旅行に出かけ、憧れの名所観光を楽しんでいたのに。今は何をするにも、人手がない。お金がない。健康がない。知恵がない。ないない尽くし。「いっぱいいっぱいです」の気分にすっかり捕えられている状態です。

しかし、内藤牧師のお葬儀に出席して、(ないない気分の中で与えられた恵みでした)ハッとさせられることがございました。87歳で召天された内藤牧師がお若い頃、一体それでは何かがあったでしょうか。人手がない。お金がない。健康がない。知恵がない。ないない尽くし。「海軍兵学校の生徒が戦場に送り出される直前に迎えた敗戦。その時、今よりも状況がよいものがあったでしょうか。今は高齢の方々が次々に亡くなる時代です。団塊の世代が80代~90代になる頃がそのピークと言われています。しかし、戦争の時代は次々と亡くなったのは青年、壮年の世代でありました。敗戦によって戦争は終わりましたが、ないない尽くしは、今の時代とは比較にならなかったでしょう。

ないない尽くしになった時、一つだけ生まれたものがあったのだと私は思います。ないない尽くしの時代に生まれたもの、それは悔い改めではなかったでしょうか。だからこそ、内藤留幸先生はキリストの呼びかけを聞きました。内藤先生だけでなく、多くの青年が敗戦の放心状態、闇の中でキリストの光を見たのです。人は絶望の中で、キリストの光を見、困窮の中で、悔い改めたのです。だとすれば、人は豊かになれば、悔い改めるのではないのです。豊かさを求めれば、光が見えるのではないのです。実際わたしたちの社会は、豊かになって、かえってキリストから遠ざかったのではないでしょうか。

だからこそ、厳しい時代の到来を思う今、この時、この社会に、主は言われるのではないでしょうか。「今こそ、福音を聞きなさい」と。「今こそ、信じなさい」と主は言われるのではないでしょうか。そして今こそ、福音を宣べ伝えなさいと、主は言われるのではないでしょうか。私はこの5月で69歳になりました。多くの方々に、「先生はまだまだ若いですよ」と言っていただくのです。しかし、日本語の礼儀としては、「まだ若い」と述べるのが美しい作法なのでありますから、言われる方も、その作法を弁えて聞くことが大切です。一日一日、厳しい現実に突入する時代の伝道者として、主の求められる御言葉の務めを果たしたいと願います。

さて、今日の説教題は11章3節から取りまして、「キリストに対する真心」としています。しかし、元々の意味から言えば、これは、「キリストの中にある単純素朴さ」という意味であって、わたしたちの方からキリストに対して真心を尽くすということとは少し違います。カルヴァンは、「キリストのうちにある質実さ」と訳していました。パウロがコリント教会の人々に言葉を尽くして、教え諭そうとしていることは、このことです。すなわち、福音の質実さ、単純素朴さです。主が今の時代を生きるわたしたちに福音を聞きなさい、信じなさい、宣べ伝えなさい、と仰る福音は、このことです。イエス・キリストから使徒たちが受けたありのままの純粋な教えを聞き、その中にわたしたちがとどまっていること。そのためにパウロは労苦しました。教会は労苦して聖書の教えを後の時代に伝えて行くのです。わたしたちも今を生きるわたしたちも過去から遮断された教会ではなく、また未来とは切り離された教会ではなく、福音の質実、キリストの中にある単純素朴な福音を受け取りたいと願います。

パウロはこのただ一つの目的のために、真心を込め、またあらゆる努力を傾けて自分の主張を展開するのであります。彼はコリントの人々にお願いします。「わたしの少しばかりの愚かさをがまんしてくれたらよいが」と言い、新共同訳のように「いや、あなたがたは我慢してくれています」と訳すこともできますが、「どうか我慢してほしい」とお願いしているとも考えられます。愚かさ、というのは、彼はこの後で、愚かに見えるかもしれないけれども、あえて自分を推薦し、自分を誇らないではいられないからです。彼は本当に優れた人物は自慢や自己宣伝などしないものだと知っていましたので、こんなことはしたくない。しかし今そうするのは自分のためではありません。それは、他ならぬコリント教会の人々のためなのです。なぜなら、コリント教会の人々には偽者の使徒と本物の福音の区別がよく分からないからです。その結果、危険にさらされているのはキリストの福音、キリストの権威なのです。

パウロがコリント教会の人々に、愚かになっても語りたい理由は何でしょうか。「なぜなら、わたしは神の熱愛を持って、あなたがたを熱愛しているからである」とパウロは言います。熱愛というのは「妬むほどに愛する」ということです。神の熱情というものは、冷静な客観的な気持ちではありません。もし神が、罪の虜になり滅びの淵に落ちた人々を冷静に客観的に見る方なら、わたしたちにはこの方に叫んで救われる望みがあると言えるのでしょうか。神は熱情の神だからこそ、キリストを世にお遣わしになったのです。

従って伝道者が福音を宣べ伝える目的は、救われる者を救い主キリストに結び付けることです。そのために現れたバプテスマのヨハネは、キリストを花婿に例えました。そして自分を花婿の友人に例えました。ヨハネ福音書3章29節。168下。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。」ヨハネはキリストの友人として花嫁を結婚させるために働きます。そしてパウロもこのヨハネと同じ立場、同じ務めを担うのです。キリストの花嫁を純潔な処女としてキリストに献げた、とパウロは言います。

それでは花嫁とはだれでしょうか。それはあなたがた、コリントの教会です。コリント人ばかりではありません。キリストの体と呼ばれる教会は、またキリストの花嫁に例えられるのです。すると、純潔な花嫁とはどういう意味かが明らかになって来るでしょう。それは一筋にキリストに従う者としてキリストに結ばれ、地上の生涯を送る信仰者です。福音宣教の目標はここにあります。そのためには福音に仕える者も、キリストと同じ熱愛を教会に対して抱いているのでなければ、キリストに花嫁を献げることがどうしてできるでしょうか。

パウロがこの務めを果たす者としてコリント教会のことを心配するのは、このような熱愛を抱いているからにほかなりません。彼は心配します。真の神の救いをもたらすイエス・キリストに結ぼうとする使徒たちの努力と熱意を知らずに、サタンに雇われた恋人のような者たちの甘い言葉にそそのかされて、キリストに真心と純潔から知らないうちに逸れてしまうのではないか、と心配するのです。ここで語られている例は創世記のアダムとエバの物語ですが、蛇はエバに近づいた時、あからさまに神の言葉に逆らったり敵対したりしませんでした。そのようにキリストから人々を遠ざけようとする敵も、表向きは福音に反対してはいないふりをして近づいて来るのです。

このような心配の理由について、パウロは、コリント教会にはいかにもキリストの花嫁の世話をしてキリストに献げようとしている花婿の友人のようなふりをしていながら、実は少しずつ花婿から気をそらし、つまり、パウロたちが宣べ伝えたのとは異なった福音を宣べ伝えて、次第にキリストから離れさせるような働きをする者たちがいると言います。このことは、大変深刻な現実の問題であります。なぜなら、いつでも、どこの教会にも起こったことであり、起こる可能性があるからです。教会の人々が説教者の語る福音によって、キリストに近づくのではなく、次第に説教者に近づいて行く。その人の魅力に取りつかれてしまうということは、実に深刻な問題です。それは、初めは教会に仕え、キリストの友人としてキリストに人々を結婚させるように見せかけながら、実際はキリストの花嫁を横取りして、自分のものにしてしまう偽の友人と全く同じことだからです。

福音に仕える者の役割は、皆、花婿の友人の務めに忠実なことです。教会の花婿はキリストただお一人であります。従って、花婿キリストに仕える者はこの聖なる、神聖な結婚の誓いが決して破られることなく終わりの日まで続いて行くために、力を尽くさねばならなりません。人と人との結婚は、夫の側にも破れがあり、それだからこそ、離婚もあり、また再出発が許されています。しかしキリストとの結婚は神との約束ですから、キリストの側に裏切りはないのです。キリストお一人は約束に忠実な方ですから、必ず花嫁を救ってくださいます。この結婚は神の情熱とキリストの真実からなされることでありますから、この結婚のために奉仕する教会の仕え人もまた、神の御心を愛し、心の中でキリストと同じ愛情を人々に対して抱いている。そうでなければこの結婚は実現されないのです。だからこそ、教会に在って福音に奉仕する者は一人一人が皆、教会がキリストに対して純粋であり、質実であり続けるように、心を注がなければなりません。

宗教改革者は言います。「このことに心を配ることができない怠惰で冷淡な者は、この務めには決してふさわしくない」と。牧師も長老も、最初から牧師、長老であったわけではありません。本当にこの務めにふさわしいと誰が自認することができるでしょうか。夥しい困難に囲まれる時にも、主イエス・キリストの救いに賭ける愛と情熱が、わたしたちに迫ります。必ず罪人を救わずにはいられないという愛であり情熱であります。ただそのときにこそ、わたしたちは救いの外側に見える飾りではなく、救いの中身、本質が何であるかを知ることができるでしょう。悔い改めて、主の御心を、その熱意を知らせていただき、主に堅く結ばれることを求めましょう。そして、主の真心の中に生きる教会となりましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

今日の礼拝を感謝いたします。あなたのお招きにより、わたしたちは集められ礼拝を捧げることができました。本当に御心に適った主の教会を建て、キリストに結ばれた花嫁として捧げられ、いつまでも主の慈しみと愛と復活の命に結ばれたいと切に願います。

今、病気で、高齢のため、様々な事情で礼拝から遠ざかっている方々にも、み言葉が届き、主の御心を知ることができますよう。困難の中で悔い改め、主を尋ね求めるならば、どうか応えてください。御言葉の絶大な価値、救われることの絶大な価値を、わたしたちが教会の外へ、家族友人、社会に証しする者となりますように。困難であればあるほど、わたしたちが主の支えを身近に感じ取り、主に感謝する者となりますように。主よ、どうか教会を形成することを切に願うこの祈りに心を合わせる人々を増し加えてください。自分の無力を思う方々も、弱さを思う方々も、あなたの励ましによって立ち上がらせてください。そして、自分の生活に追われる毎日の方々も、主に仕える教会の業を担う勇気を力をお与え下さい。

東日本の諸教会の上に御手を伸ばして、教会の方々の悩みを顧みてください。健やかな教会形成がなされますように。特に本日泉高森教会の牧師就任式を祝し、また先週までに就任式を終えられた、自由が丘教会、十貫坂教会のためにも祈ります。新しく赴任された地において、主が教師を長老会と共に豊かにお用いくださいますように。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。