聖書:出エジプト記20章4-6節, コリントの信徒への手紙二 11章1-6節
日本基督教団の総幹事を務められた内藤留幸先生が10日前に亡くなられましたので、先週、私は葬儀に先立つ前夜式に参列しました。松沢教会の会堂は弔問者で溢れ、私にとっては冷房機器の近くで3時間半以上も寒さに耐えながらの式でした。葬儀式というものは、まず肉体的に忍耐の機会であったことを、久しぶりに思い出しました。それでも、私はお別れの日に参列出来て良かったと思いました。成宗教会に赴任してからの数年間、内藤牧師がカルヴァンの勉強会にお招きくださったことを有り難く思い出していたからです。世の中は葬儀式どころではない貧しい雰囲気になったと思っておりましたが、内藤先生はあのようにたくさんの業績があった教師とはいえ、たくさんの人々が一堂に会して感謝を込めて天に送る葬儀式がなされたことで、参列者には思いがけない慰めが与えられたのだと思います。共に集まり、共に感謝する。共に悲しむことも、共に喜ぶことと同様にわたしたちに与えられた恵み。心の豊かさの表れなのだと思います。
毎日のように報道される痛ましい事件。先週の集中豪雨の惨状は目を覆うものでありました。わたしたち長く生きている者は、たくさんの災害を経験し、遠い過去には傷ましい戦争の惨禍も記憶しておられる方々がおられます。しかし、災害復旧という点からしますと、高度成長期を進んでいた時代には本当に復興復旧のスピードも速かったことを思います。原爆が投下された直後の広島では、あと70年は草木も生えないとまで言われたそうですが、本当に広島は美しい町に復興して久しくなり、近年はむしろ被爆の悲惨さを忘れさせてはならない、と努力が傾けられています。
しかし、高度成長期が終わって久しい今、社会の様相は一変しています。東日本の震災復興も遅々として進みません。原発事故の影響は計り知れないものが進行中であり、平和な生活に戻れる日はあるだろうか、という方々が大勢いるということです。また熊本地震でも、被災地域に倒壊したままになっているところがまだ沢山あるそうです。その上にこの豪雨、水害。途方に暮れる現実が高齢化した社会に迫っているのではないでしょうか。
この時、この社会に主は何をなさろうとしておられるのでしょうか。今こそ、福音を聞きなさいと主は言われるのではないでしょうか。今こそ、信じなさい、と主は言われるのではないでしょうか。そして今こそ、福音を宣べ伝えなさいと、主は言われるのではないでしょうか。わたしたちはだれもが、この時代の子であります。この時代の影響を受けないで生きている人はだれもいないのです。今、多くの人々が自分の問題で手いっぱいで生きている。つい20年、30年前までは、だれもが中流階級気取りで生きていたのに。教会の人々も海外旅行に出かけ、憧れの名所観光を楽しんでいたのに。今は何をするにも、人手がない。お金がない。健康がない。知恵がない。ないない尽くし。「いっぱいいっぱいです」の気分にすっかり捕えられている状態です。
しかし、内藤牧師のお葬儀に出席して、(ないない気分の中で与えられた恵みでした)ハッとさせられることがございました。87歳で召天された内藤牧師がお若い頃、一体それでは何かがあったでしょうか。人手がない。お金がない。健康がない。知恵がない。ないない尽くし。「海軍兵学校の生徒が戦場に送り出される直前に迎えた敗戦。その時、今よりも状況がよいものがあったでしょうか。今は高齢の方々が次々に亡くなる時代です。団塊の世代が80代~90代になる頃がそのピークと言われています。しかし、戦争の時代は次々と亡くなったのは青年、壮年の世代でありました。敗戦によって戦争は終わりましたが、ないない尽くしは、今の時代とは比較にならなかったでしょう。
ないない尽くしになった時、一つだけ生まれたものがあったのだと私は思います。ないない尽くしの時代に生まれたもの、それは悔い改めではなかったでしょうか。だからこそ、内藤留幸先生はキリストの呼びかけを聞きました。内藤先生だけでなく、多くの青年が敗戦の放心状態、闇の中でキリストの光を見たのです。人は絶望の中で、キリストの光を見、困窮の中で、悔い改めたのです。だとすれば、人は豊かになれば、悔い改めるのではないのです。豊かさを求めれば、光が見えるのではないのです。実際わたしたちの社会は、豊かになって、かえってキリストから遠ざかったのではないでしょうか。
だからこそ、厳しい時代の到来を思う今、この時、この社会に、主は言われるのではないでしょうか。「今こそ、福音を聞きなさい」と。「今こそ、信じなさい」と主は言われるのではないでしょうか。そして今こそ、福音を宣べ伝えなさいと、主は言われるのではないでしょうか。私はこの5月で69歳になりました。多くの方々に、「先生はまだまだ若いですよ」と言っていただくのです。しかし、日本語の礼儀としては、「まだ若い」と述べるのが美しい作法なのでありますから、言われる方も、その作法を弁えて聞くことが大切です。一日一日、厳しい現実に突入する時代の伝道者として、主の求められる御言葉の務めを果たしたいと願います。
さて、今日の説教題は11章3節から取りまして、「キリストに対する真心」としています。しかし、元々の意味から言えば、これは、「キリストの中にある単純素朴さ」という意味であって、わたしたちの方からキリストに対して真心を尽くすということとは少し違います。カルヴァンは、「キリストのうちにある質実さ」と訳していました。パウロがコリント教会の人々に言葉を尽くして、教え諭そうとしていることは、このことです。すなわち、福音の質実さ、単純素朴さです。主が今の時代を生きるわたしたちに福音を聞きなさい、信じなさい、宣べ伝えなさい、と仰る福音は、このことです。イエス・キリストから使徒たちが受けたありのままの純粋な教えを聞き、その中にわたしたちがとどまっていること。そのためにパウロは労苦しました。教会は労苦して聖書の教えを後の時代に伝えて行くのです。わたしたちも今を生きるわたしたちも過去から遮断された教会ではなく、また未来とは切り離された教会ではなく、福音の質実、キリストの中にある単純素朴な福音を受け取りたいと願います。
パウロはこのただ一つの目的のために、真心を込め、またあらゆる努力を傾けて自分の主張を展開するのであります。彼はコリントの人々にお願いします。「わたしの少しばかりの愚かさをがまんしてくれたらよいが」と言い、新共同訳のように「いや、あなたがたは我慢してくれています」と訳すこともできますが、「どうか我慢してほしい」とお願いしているとも考えられます。愚かさ、というのは、彼はこの後で、愚かに見えるかもしれないけれども、あえて自分を推薦し、自分を誇らないではいられないからです。彼は本当に優れた人物は自慢や自己宣伝などしないものだと知っていましたので、こんなことはしたくない。しかし今そうするのは自分のためではありません。それは、他ならぬコリント教会の人々のためなのです。なぜなら、コリント教会の人々には偽者の使徒と本物の福音の区別がよく分からないからです。その結果、危険にさらされているのはキリストの福音、キリストの権威なのです。
パウロがコリント教会の人々に、愚かになっても語りたい理由は何でしょうか。「なぜなら、わたしは神の熱愛を持って、あなたがたを熱愛しているからである」とパウロは言います。熱愛というのは「妬むほどに愛する」ということです。神の熱情というものは、冷静な客観的な気持ちではありません。もし神が、罪の虜になり滅びの淵に落ちた人々を冷静に客観的に見る方なら、わたしたちにはこの方に叫んで救われる望みがあると言えるのでしょうか。神は熱情の神だからこそ、キリストを世にお遣わしになったのです。
従って伝道者が福音を宣べ伝える目的は、救われる者を救い主キリストに結び付けることです。そのために現れたバプテスマのヨハネは、キリストを花婿に例えました。そして自分を花婿の友人に例えました。ヨハネ福音書3章29節。168下。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。」ヨハネはキリストの友人として花嫁を結婚させるために働きます。そしてパウロもこのヨハネと同じ立場、同じ務めを担うのです。キリストの花嫁を純潔な処女としてキリストに献げた、とパウロは言います。
それでは花嫁とはだれでしょうか。それはあなたがた、コリントの教会です。コリント人ばかりではありません。キリストの体と呼ばれる教会は、またキリストの花嫁に例えられるのです。すると、純潔な花嫁とはどういう意味かが明らかになって来るでしょう。それは一筋にキリストに従う者としてキリストに結ばれ、地上の生涯を送る信仰者です。福音宣教の目標はここにあります。そのためには福音に仕える者も、キリストと同じ熱愛を教会に対して抱いているのでなければ、キリストに花嫁を献げることがどうしてできるでしょうか。
パウロがこの務めを果たす者としてコリント教会のことを心配するのは、このような熱愛を抱いているからにほかなりません。彼は心配します。真の神の救いをもたらすイエス・キリストに結ぼうとする使徒たちの努力と熱意を知らずに、サタンに雇われた恋人のような者たちの甘い言葉にそそのかされて、キリストに真心と純潔から知らないうちに逸れてしまうのではないか、と心配するのです。ここで語られている例は創世記のアダムとエバの物語ですが、蛇はエバに近づいた時、あからさまに神の言葉に逆らったり敵対したりしませんでした。そのようにキリストから人々を遠ざけようとする敵も、表向きは福音に反対してはいないふりをして近づいて来るのです。
このような心配の理由について、パウロは、コリント教会にはいかにもキリストの花嫁の世話をしてキリストに献げようとしている花婿の友人のようなふりをしていながら、実は少しずつ花婿から気をそらし、つまり、パウロたちが宣べ伝えたのとは異なった福音を宣べ伝えて、次第にキリストから離れさせるような働きをする者たちがいると言います。このことは、大変深刻な現実の問題であります。なぜなら、いつでも、どこの教会にも起こったことであり、起こる可能性があるからです。教会の人々が説教者の語る福音によって、キリストに近づくのではなく、次第に説教者に近づいて行く。その人の魅力に取りつかれてしまうということは、実に深刻な問題です。それは、初めは教会に仕え、キリストの友人としてキリストに人々を結婚させるように見せかけながら、実際はキリストの花嫁を横取りして、自分のものにしてしまう偽の友人と全く同じことだからです。
福音に仕える者の役割は、皆、花婿の友人の務めに忠実なことです。教会の花婿はキリストただお一人であります。従って、花婿キリストに仕える者はこの聖なる、神聖な結婚の誓いが決して破られることなく終わりの日まで続いて行くために、力を尽くさねばならなりません。人と人との結婚は、夫の側にも破れがあり、それだからこそ、離婚もあり、また再出発が許されています。しかしキリストとの結婚は神との約束ですから、キリストの側に裏切りはないのです。キリストお一人は約束に忠実な方ですから、必ず花嫁を救ってくださいます。この結婚は神の情熱とキリストの真実からなされることでありますから、この結婚のために奉仕する教会の仕え人もまた、神の御心を愛し、心の中でキリストと同じ愛情を人々に対して抱いている。そうでなければこの結婚は実現されないのです。だからこそ、教会に在って福音に奉仕する者は一人一人が皆、教会がキリストに対して純粋であり、質実であり続けるように、心を注がなければなりません。
宗教改革者は言います。「このことに心を配ることができない怠惰で冷淡な者は、この務めには決してふさわしくない」と。牧師も長老も、最初から牧師、長老であったわけではありません。本当にこの務めにふさわしいと誰が自認することができるでしょうか。夥しい困難に囲まれる時にも、主イエス・キリストの救いに賭ける愛と情熱が、わたしたちに迫ります。必ず罪人を救わずにはいられないという愛であり情熱であります。ただそのときにこそ、わたしたちは救いの外側に見える飾りではなく、救いの中身、本質が何であるかを知ることができるでしょう。悔い改めて、主の御心を、その熱意を知らせていただき、主に堅く結ばれることを求めましょう。そして、主の真心の中に生きる教会となりましょう。祈ります。
主イエス・キリストの父なる神さま
今日の礼拝を感謝いたします。あなたのお招きにより、わたしたちは集められ礼拝を捧げることができました。本当に御心に適った主の教会を建て、キリストに結ばれた花嫁として捧げられ、いつまでも主の慈しみと愛と復活の命に結ばれたいと切に願います。
今、病気で、高齢のため、様々な事情で礼拝から遠ざかっている方々にも、み言葉が届き、主の御心を知ることができますよう。困難の中で悔い改め、主を尋ね求めるならば、どうか応えてください。御言葉の絶大な価値、救われることの絶大な価値を、わたしたちが教会の外へ、家族友人、社会に証しする者となりますように。困難であればあるほど、わたしたちが主の支えを身近に感じ取り、主に感謝する者となりますように。主よ、どうか教会を形成することを切に願うこの祈りに心を合わせる人々を増し加えてください。自分の無力を思う方々も、弱さを思う方々も、あなたの励ましによって立ち上がらせてください。そして、自分の生活に追われる毎日の方々も、主に仕える教会の業を担う勇気を力をお与え下さい。
東日本の諸教会の上に御手を伸ばして、教会の方々の悩みを顧みてください。健やかな教会形成がなされますように。特に本日泉高森教会の牧師就任式を祝し、また先週までに就任式を終えられた、自由が丘教会、十貫坂教会のためにも祈ります。新しく赴任された地において、主が教師を長老会と共に豊かにお用いくださいますように。
この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。