生きる目標

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌23番
讃美歌191番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 22章1-14節 (旧約聖書31ページ)

22:1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、
22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
22:3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
22:4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、
22:5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
22:6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
22:9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
22:10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、
22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

新約聖書:マルコによる福音書 9章30-32節 (新約聖書79ページ)

9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

《説教》『生きる目標』

本日の聖書箇所は、主イエスご自身による二回目の受難の予告です。マルコによる福音書は、受難予告を三度も繰り返すことによって、何を語ろうとしているのでしょうか。

最初は8章31節でした。その時、主イエスがはっきりと語られたことに対して弟子たちは何も分からず、かえって「サタン、引き下がれ」と叱責される始末でした。二回目が本日の聖書箇所で、ここでは、最後の32節で、「この言葉が分からず、怖くて尋ねられなかった」と記されています。三回目は10章32節以下で、予告が最も詳しく語られたにも拘わらず、先頭に立ってエルサレムへ向かう主イエスの毅然たるお姿に、弟子たちは、「驚き、恐れた」とあります。十字架へ向かわれる主イエスの凄まじい気迫に圧倒されている弟子たちがそこに描かれています。

主イエスと弟子たち一行は、これまでユダヤ人居住地の北の外れフィリポ・カイサリアに居ました。ペトロの信仰告白がなされ、山上の変貌という大いなる出来事が起こったのもここでした。しかしこれから、主イエスは一気に南のエルサレムへ向かって進まれるのです。「そこを去って、ガリラヤを通って行った」とは、「通り過ぎて行った」の意味です。エルサレムへ向かう主イエスの視線には、もはやガリラヤはなかったのです。

ガリラヤは、主イエスがお育ちになったところであり、親しい人々が沢山おり、福音を語られた最初の場所、力ある業を最も多く為されたところでした。そして、弟子たちの殆どはガリラヤ出身であり、一行にとって、懐かしい故郷でした。

しかし今、主イエスはそこを通り過ぎて行かれたのです。主イエスを必要とする人々がもういなくなったのでしょうか。主イエスは、ガリラヤ地方に対する愛着を捨ててしまわれたのでしょうか。

確かに、反対者たちの妨害活動は次第に激しくなって来ました。しかし、遥か北のフィリポ・カイサリア地方でさえ、噂を聞いて多くの人が集まったことを考えると、ガリラヤの人々は益々主イエスを求めていた筈です。素晴しい御言葉、力ある御業を追い求めて、人々はなおも集まって来たに違いありません。これらの人々に対する主イエスの愛と憐れみが「冷めてしまった」などということは全く考えられないことです。

それでは、何故、主イエスは、この愛すべき故郷ガリラヤを通り過ぎて行かれるのでしょうか。

 

私たちの人生にも、さまざまな状況があります。自分を受け入れてくれる温かい場もあれば、まったく顧みられない場もあります。それどころか、「あなたには居て欲しくない」といった苛酷な場さえあるでしょう。様々な場で、私たちは生き続けます。そして、その幾つもの場の中で、自分に最も適合した場を選び取ろうとするでしょう。

自分を受け容れてくれる場、自分の能力を活かせる場、快適に過ごせる場を、生涯の働きの場として「選び取ろう」と考えます。もちろん、そのような場に恵まれるかどうかはまったく別な問題ですが、私たちの「願い」であることに間違いありません。職業を転々と変えたり、職場の不満を呟き続ける人々、その様な人々は、大抵「私には向いていない」「私には合っていない」と言います。

しかしながら、主イエスは、今、御自分に最も適した働きの場に背を向けられました。幼い時代を過ごしたナザレを除いて、他の殆どの場所で、常に大勢の群衆に囲まれ歓迎され続けていました。この華やかな時代を「ガリラヤの春」と呼ぶことが出来ます。それにも拘わらず、その場を棄てられたのです。30節に、「人に気づかれるのを好まなかった」とあります。誰にも会おうとはされなかったのです。

領主ヘロデの迫害から逃れるため足を速めていたのでもありません。共に歩む弟子たちが、口を挟むことさえためらう程の厳しい御顔で前方を見詰めておられたのは、御自身に与えられた生涯の目標をはっきりと見詰めておられたからです。もはやガリラヤに「留まるべきではない」と見極めておられたからに他なりません。

人生において、目的と手段を混同してはならないことは言うまでもありません。私たちの日毎の生活の全ては、目的を達成するための手段です。毎日繰り返される生きる努力は、今与えられている生命の日々に於いて「何を明らかに示し得るか」というための手段であり、目的に至る一段階に過ぎません。生活が目的そのものではなく、日常の生活は、主が与えて下さった人生の究極的目標を実行して行くための場なのです。ですから、そこで大切なことは、その状況が「如何に自分に合っているか」ということではなく、また「どれほど受け容れられているか」ということでもなく、キリスト者にとって、「私は何を為すべく生かされているのか」ということを考えるべきです。

 

皆さんは、アルベルト・シュヴァイツァーという人について良く御存知でしょう。アフリカで医療と伝道に生きノーベル平和賞を受賞した彼は20世紀の偉人として児童向けの偉人伝には必ず登場します。彼は、神学者としても第一級の学者でした。特に大著である「イエス伝研究史」は、現在でも新約学を学ぶ者に必読の書物です。また、音楽家としても第一級の才能を持つ人で、特にバッハ演奏家としてヨーロッパでは有名でした。

しかし彼は、その栄光を捨て去りました。アフリカに赴き、一病院の院長として働きました。それを、「必ずしも成功とは言えない」と批評する者も居ます。或いはそうであったかもしれません。しかしそれは、キリストの福音を聴いた一人の人間としての彼の決断でした。彼もまた、御心に従って、この世的には自分の能力を最も評価されると思われる場を、自分から棄てた人間でした。そして御心に従う人生には、このような決断が、常に有り得るのです。

 

キリスト者にとっては、自分の生活がどうか、自分の気持ちがどうか、というだけではなく、「主なる神が、今、私に何を命じられているのか」を考えることこそが大切なのです。そして、御言葉を真正面から受け止めた時、それまで最も快適であった場が、実は「通り過ぎるべき場」であったことに気づくのです。

31節で、主イエスは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」とハッキリと語られました。

主イエスの眼差しは、周囲の人々への愛と憐れみに満ちていました。その御業で示された、「真実の愛に生きること」「苦しむ人々への徹底した憐れみとしての癒し」「虐げられ、疎外されている人々の仲間になること」、その全ては、御子キリストが、自らの行いで示されたことでした。

しかし、主イエスが示された愛の御業は御子キリストの本当の目的ではありませんでした。神の独り子が栄光の御姿を棄て、自ら人として世に来られた目的は、罪の中に苦しむ者を救出するために、贖いの御業を実現することでした。それだけが、御子がこの世に来られた目的であり、弟子たちとの旅の途上で語り続けて来られたことはこのことであったのです。

今、主イエスが、父なる神より託されたこの使命を全うするために、御自身のこの世に於ける最大の目標へ向かわれるために、敢えて、愛する人々、主イエスを必要としている人々を残されるという厳しい決断を、ここに見なければなりません。

32節には、弟子たちはこの言葉が分からなかったが、「怖くて尋ねられなかった。」とあります。

何が怖かったのでしょうか。直前に、「この言葉が分からなかった」と記されています。弟子たちは、十字架へ赴かれる神の独り子の使命を悟ることもなく、受難の必然性など考えてもいませんでした。弟子たちは、「コトの本質」を全く理解していなかったと言うべきなのです。とするならば、この時の弟子たちの「怖くて尋ねられなかった」原因は、エルサレムへ向かわれるう「主イエスの御姿そのものにあった」、と見ることが出来ます。

神に従う決断は、神の命に服してモリヤの山で息子イサクを献げるアブラハムにも見られます。自分の生涯のすべて、生き甲斐のすべて、人生のすべてをそこに賭けるのです。「愛する人々」と「愛する場」に訣別を告げる決断は、決して簡単なものでは有り得ません。

エルサレムへ向かわれる主イエスの毅然とした御姿は、弟子たちの眼には、このアブラハムの姿のように見えたのではないでしょうか。他の何者も介入することを許さない決断の厳しさを、そこに見た筈です。

受難予告を聞かされた弟子たちの沈黙は、この主イエスの決断に「ついて行けなかった」ことを示しています。弟子たちと主イエスとの間には、超えることの出来ない大きな隔たりが存在していました。

その隔たりとは何でしょうか。それは、人間が「何に仕えているか」ということによって決まるのです。

「自分の生涯の目標を何に向けているか」という違いが、人と人との隔たりを造るのです。そして私たちはその人の目標へ向けての決断が理解出来ない時、「私はもうこれ以上あなたについて行けない」と呟くのです。

弟子たちが抱く主イエスへの期待が、彼ら自身の「この世的関心にしかなかった」ということは、これまで繰り返し学んで来た通りです。弟子たちは、主イエスの「十字架の贖いの御業」を考えも付きませんでした。彼らは、この世に於ける名誉と誇りを求めていました。彼らなりの「栄光のメシア」と言ってもよいでしょう。そして「栄光のメシア」は、主イエスの下に集まって来た全ての人々の期待でもありました。主イエスもそのことは知っておられたでしょう。人々の求めが何であるのかを、十分知っておられたに違いありません。

しかし、主イエスは決して弟子たちや多くの群衆の求めに妥協されませんでした。何故なら、主イエス・キリストは、「従うべき方は、どなたであるか」ということを、はっきりと認識しておられたからです。

受難予告は、既に8章31節でも記されていました。十字架と復活は、単なる未来のひとつの可能性として語られたのではなく、『そうなることに決まっており、それ以外ではあり得ない』という「神の御心の必然」、信仰のdei/:デイであるのです。それ故に、人々にではなく、父なる神に仕える道の厳しさを、主イエスはここに示しておられると理解すべきでしょう。

 

今、私たちは、このような主イエス・キリストの御姿を見るとき、私たちもまた、自分の生きる道筋を見極めることの重要性を、教えられるのではないでしょうか。主に従う旅の途上に自分を見出さなければなりません。主と共にその道を行く時、神の御子が生涯を賭けて獲得して下さった永遠の生命を、生きる目標として選び取るのです。

周りの人々にではなく、自分の心にでもなく、ただ神の御心にのみ仕えて行く生涯が、主イエス・キリストによって開かれていることをここに確信すべきです。御心を悟らない人々が恐れるような、毅然とした生き方が、キリスト者には必要であり、可能なのです。その生き方は、キリスト者でない人々には理解できない生き方とも言えましょう。

私たちは、この世界に永遠に留まるものでもなければ、墓石の下で終わるものでもありません。御子キリストによって罪が贖われ、神の御許に於いて永遠の生命を生きるべく、召されて行くのです。

「救われた者」として、棄て去るべきものに心惑わされることなく、通り過ぎる場に心囚われることなく、主によって備えられた一筋の信仰の道を、ただ、ひたすらに歩むべきです。

そして何より、家族を始め、自分の愛する周りの人々から捨て去られる人々が出ないように、共に「救われた道を歩む者」として「永遠の生命」を目指さなければならないのです。

お祈りを致します。

主の山に備えあり

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌23番
讃美歌338番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 22章1-19節 (旧約聖書31ページ)

22:1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、
22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
22:3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
22:4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、
22:5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
22:6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
22:9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
22:10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、
22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
22:15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。
22:16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、
22:17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。
22:18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
22:19 アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

《説教》『主の山に備えあり』

本日の物語は、大変有名な聖書箇所です。旧約聖書で最も難解な箇所の一つとも言われてきました。この物語は謎に満ち、私たちを戸惑わせ、混乱させます。この箇所の説教で、ある牧師は、「私はアブラハムのようには出来ません」という結論で説教を結び、聴衆を唖然とさせたそうです。

この物語は、私たちに何を告げようとしているのでしょうか。確かに、ここに記されているのは、神様のご命令で父アブラハムが息子イサクを殺そうとする場面です。次々と疑問が溢れてきます。なぜ神様はアブラハムに息子イサクを捧げることを求めたのでしょうか。なぜアブラハムは、この神様の求めに素直に従ったのでしょうか。イサクは薪の上に載せられるとき、なぜ逃げなかったのでしょうか。アブラハムは本当に神様が子羊を備えてくださると信じていたのでしょうか。

イサクは、アブラハム100歳、妻のサラ99歳の時に授かった奇跡の一人息子です。彼は、アブラハム召命以来の使命を全うすべき約束の子でした。この頃はもう薪を背負って行ける年頃になっていたようです。

モリヤの山は、後のエルサレム神殿の丘と言われていますので、アブラハムの住んでいたベエル・シェバから直線で約80キロ、「三日の距離」(4)でした。「焼き尽くす献げ物」とは「燔祭」のことであり、犠牲の動物を焼き、その香りを天に届かせる古代世界共通の礼拝形式です。分かり易く言えば、主なる神は、約束の子イサクを「焼き殺せ」と命じられたのです。

アブラハムは神様のご命令を受け止め、イサクを献げるためにモリヤまで旅をし、山上で殺す直前、身代わりの雄羊によりイサクの命が救われました。これが本日の物語です。

これはとても恐ろしい物語であり、しかも目的が「アブラハムへの試み」と記されていることから、信仰のテストとして受け止める時、耐えがたい恐怖をもたらすと言うべきです。

私たちは、聖書を読む時、登場する人物に自分たちを重ね合わせて読むことが多いのではないでしょうか。しかし、この物語は、アブラハムに自分を重ねても、イサクに自分を重ねても、いよいよ混乱するだけです。我が子を神様への捧げものとして自分の手で殺すことなど、想像するだけてゾッとします。逆に自分が父親に殺されることなど考えることもできません。最初にお話しした牧師は、自分とアブラハムを重ね合わせ、混乱し、この聖書の箇所からきちんとメッセージを受け取ることが出来なかったのでしよう。

しかし、聖書を読む時、もう一つ大切な方法があります。それは、聖書をキリストを指し示しているものとして読むことです。聖書の謎をイエス様の十字架の出来事という最も深遠なる謎と重ね合わせる時、私たちは初めてその謎を解く入り口に立つことか出来るのです。

この物語はアブラハムの人生の最後を飾るものです。この出来事以後、聖書ではアブラハムは背後に退き、イサク物語に移って行きます。それでこの物語は、アブラハムの生涯の総決算であり、アブラハム物語の頂点とも言われるのです。

物語は「神はアブラハムを試された」と始まります。神の御前に立つ者が避けることの出来ない神の御業が、ここから始まるのです。

神様の呼びかけに対し、アブラハムは「はい」と答えました。この「はい」との言葉は11節でも繰り返されており、ヘブライ語で「ヒンネーニー」です。これは少年サムエルが、初めて神に呼ばれた時の応答の言葉でもあります。原語では「このわたしを見よ」ということですが、実際には、私たちの聖書のように、「はい」と訳すことが出来ます。しかし多くの学者たちは、この箇所におけるアブラハムの姿勢を重視し、敢えて「私はここにおります」と訳しています(フォンラート、ヴェスターマン、関根正雄他)。口語訳聖書もこの立場を取っていました。

「アブラハムよ」と、主なる神から個別に呼びかけられた人間が、御前に自分を明らかにし、自分の存在のすべてを賭けて御言葉に応えようとしているのです。人格のすべてを賭けた応答、それがこの「ヒンネーニー」という言葉に込められています。そしてアブラハムは、本日の物語の中で、神様に対して、この「ヒンネーニー」の一言以外、まったく口にしません。

神の御言葉、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(2)は大変厳しいものでした。「あなたの息子」「あなたの愛する独り子」「イサク」。この三通りに語られた言葉は、献げられるものの大切さを強調しています。アブラハムにとって、イサクは特別な存在でした。アブラハムは、「すべての人の祝福の源となる」という主なる神の約束を受けて旅立って来ました。主の御言葉を信じた彼は、それまでの生活、過去のすべてを捨てました。そして、年老いた日に奇跡的に与えられたイサクは、その約束の「しるし」でありました。何故なら、「すべての人の祝福の源となる」ということは、子供があって初めて可能なことであり、イサクの存在は、彼の生涯の過去及び未来のすべてを意味づけるものであったからです。

ですから、イサクを犠牲にして献げるということ、「殺す」ということは、可愛い子供を失うということにとどまらず、これまで過ごして来た人生のすべての意味を失うことでした。

ヨブ記1章21節に「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」というヨブの告白があります。イサクが、主なる神御自身による、人間の可能性を越えた奇跡的誕生をしたことを考えれば、その通りでしょう。まさしく「主は与え、主は奪う」ということです。しかし、親と子という人の情を考えれば、そのような理屈は受け入れ難いものがあります。この時のアブラハムの心情について聖書は何も記していません。ただ、人間としての苦しみに必死に耐えたであろう、ということは想像に難くありません。

「主は与え、主は奪う」という原理は分かっていても、「どうせ奪うなら、初めから与えられなければよかったのに」という気持ちがわいて来るのではないでしょうか。おおよそ、すべての人間はやがて失う命を生きているに過ぎないのですが、それでも、その死を迎える時期については不満を言うのです。私たちの予想を超えた死に対する怒りであり、「時」を定められる神に対する不満となるのです。死を見つめることは、まさに厳しい限界状況に直面することです。

そのような苦しみ、悲しみを越えて、なお、アブラハムが「向かって行った」ということに注目しなければなりません。壮絶な葛藤があったでしょう。なぜこのような運命に耐えなければならないのか、という疑問が生じたことでしょう。御心を尋ねて見たいという思いもあったでしょう。

アブラハムは危険な荷物は自分で背負い、イサクにはただ薪だけを背負わせました。アブラハムは万感の思いを持って、イサクと共に二人だけで山に登りました。

この時のイサクの質問、「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」との問いかけは何を意味しているのでしょうか。アブラハムの答え、「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」とは、極めて恐ろしい言葉です。

もし、神御自身が犠牲の小羊を用意してくださるであろう、という希望を持ってここまで来たのでしたら、アブラハムは、本当は、イサクを殺す決断をしていなかったのであり、神の御言葉に服従するためにここまで来たのではないと言わなければならないでしょう。

また、もし、これがあきらめの言葉であったならば、そこにあるのは、「どうにもならない」という虚しさだけであり、これほど信仰から遠いものはないでしょう。

それでは、アブラハムは、イサクの問いに対して何を答えているのでしょうか。何も答えていないのです。彼には分からないのです。それ故に、アブラハムの言葉は曖昧であり、どう答えてよいのか分からない苦しさの籠もるものでした。

ただ、彼は「きっと、神が…」と語りました。確かに、分らないことばかりであり、誰にも説明出来ない命令の中に置かれていたのです。イサクに語れることは、それが神の命じられた「神の御心」であるということだけでした。そして、「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」(9-10)とあります。抵抗する様子もなく縛られ薪の上に寝かされたイサク。まさに、恐るべき瞬間です。

アブラハムは、この試練に耐え得る特別に強い人間であったのでしょうか。彼の生涯を振り返る時、それと正反対な人間であったことを知らされるでしょう。自分の安全のために妻サラを見捨てた弱さ。甥のロトを救うために神に何度も執り成しをした優しさ。そのアブラハムが、なぜ、このような決断をなし得たのでしょうか。

この物語が、信仰の英雄アブラハムの物語ではなく、神の物語であるということを改めて考えなければなりません。人間がぎりぎりまで追い込まれた限界状況の中で神が何をされるのかということです。甘い期待ではなく、自分の尊厳のすべてと、命を委ねた決断の中で、信仰の本質があぶり出されるのです。

このギリギリの場面で、イサクに代えて、「木の茂みに角をとられていた一匹の雄羊」(13)が与えられ、主なる神は、「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」と言われました。すべてをご存知の主なる神が今まで分からなかったのでしょうか。ここで改めて、この物語の冒頭1節に記されている「試み」ということが問われます。これは、神の信仰テストに合格した、ということなのでしょうか。

ここで明らかになったのは、アブラハムの服従の信仰であり、信仰とは命がけのものである、ということです。

しかし、アブラハムの信仰深さを知るために神はこのような厳しいテストをされたのでしょうか。これはテストではありません。すべてを御存知である神が、敢えてなさったことであり、それがアブラハム自身のためであった、ということなのです。

パウロは、フィリピの信徒への手紙4章19節で、「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」と記しています。私たちが何かをしようと思う時、何かをしなければならない時、その時すでに、神は私たちの決断に先立って働いておられるのです。ということは、アブラハムの決断は、彼の超人的な精神的努力の結果ではなく、彼の卓越した信仰によるものでもなく、主なる神が働きかけ、主なる神御自身が導いたものに他ならない、と言うべきでしょう。

1節の「神はアブラハムを試された」とは、この命令が、彼に可能かどうかを試すテストではなく、アブラハムに「出来る」ということを教える「訓練」であったのです。「主の山に、備えあり(イエラエ)」(14)とは、神の試みと、それに対する「備え」です。試みとは、信仰に生きる者に、神と共に生きる素晴らしさを教え、神の顧みの豊かさを教える恩寵の手段であり、その喜びに生きる信仰の奇跡なのです。

「試み」は「神の備え」があって、初めて意味を持ちます。主は、これだけの備えをした上で、アブラハムを信仰の試練の中で鍛えられたのです。

コリントの信徒への手紙一 10章13節に、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」とあります。

父なる神は、私たちを信仰の豊かさに導き、神と共に生きる世界を実現するために、独り子なる神を十字架に付けられました。アブラハムのために雄羊が用意されていたように、私たちのためには、御子キリストが備えられたのです。

神と共に生きる喜びとは何でしょうか。それは、あなたの罪は赦されたという宣言を聞くことに始まり、神と共に永遠を生きる望みを受けることです。主なる神は、その喜びに私たちを導くために、御子を身代わりの犠牲としてゴルゴタの丘に備えられたのです。

この物語全体を通じて、アブラハムは、ヒンネーニー「私はここにおります」と言う以外、神に対して何も語っていません。御前における沈黙は、不平、不満の沈黙ではなく、絶望の沈黙でもなく、神を信頼し、すべてを委ねた人間の姿を表すものなのです。御言葉に従う以外、行くべき道を知らない人間の姿、それがアブラハムの沈黙でありました。そしてこの沈黙の素晴らしさを教えることが、アブラハムに対する、神の最後の顧みであったのです。

「主の山に備えあり。」私たちが生き、礼拝へと導かれる世界、それが「主の山」であり、備えられた恵みの大きさを味わう場です。今、御言葉によって召し出され、聖霊によって立てられた教会に集まる者は、この恵みの前に沈黙する幸いを得た、と感謝すべきでありましょう。

お祈りを致します。

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