2019年12月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


興津晴枝先生のお話

聖書:歴代誌上29:10~13

「国と力と栄光は神様のもの」

  今朝も私たちはイエスさまの教えて下さった{主の祈り}をみんなでとなえましたね。

「6つの祈りもとめ」それが主の祈りです。

  1. み名があがめられますように。
  2. み国が来ますように。
  3. み心がおこなわれますよう
  4. 日ごとの糧をお与え下さい。
  5. 罪のゆるし。
  6. 悪い事からの守り。

そして最後に今日の学びの「国と力と栄光とはすべて神様のものです」としめくくります。じつはこの最後の祈りはイエスさまが教えて下さった「主の祈り」にはなかったのです。

では、なぜ付け加えられたのでしょうか。

それは「主の祈り」を祈ったたくさんの人々の神様への深い信仰によってしめくくりの言葉としてふさわしいと思われたからだそうです。ここでダビデ王の信仰についてお話しします。

ダビデはイスラエルの国の王様でした。人々に敬われ、ほめたたえられ、強い力をもっていて国を治めていました。ダビデは主なる神様に祈りを捧げるための神殿を建てようと思い莫大な寄進をしました。

またその他の部族の長たちも呼び掛けに応じてたくさんの捧げものをしました。ダビデの時代に神殿は建たなかったけれど(息子のソロモン王の時実現)ダビデは自分を選び王として下さったのは神さまであること、自分が手に入れた「国も力も栄」も神様の恵みによって与えられたものであることを知っていました。たとえ、そのいくらかは自分に与えられているとしてもそれはもともとすべて神様のものであり恵みによって与えられたもの。感謝して神様にお返しするのは当然なことと思っていたのでした。これがダビデの信仰でした。

みなさんもよく知っているように世界中には色々な国がありますね。それぞれがその国のルールに従って治められています。でも、もし神様を信じない権力者が自分を神様のように拝ませたりしたらいったいどうなることでしょう。今、その国がどれだけ強く栄えていたとしてもすべてが神様のご計画のうちにあって建てられるのも滅ぼされるのもしらないし、信じようとしないのは本当に愚かな事です。私たちがお祈り出来るのは神様がこの世界のすべてを支配しておられること、天と地にあるすべてのものが神様のお創りになられたものだと認め信じているからです。

神様は愛する一人子のイエスさまを地上につかわして下さいました。私たちの罪をかわりに引き受けて十字架上で死なれ復活されて今は天におられます。イエスさまは私たちが神様へお祈り出来るよう道を造って下さったのです。

主イエス・キリストのお父様である神様を信じてみ名をたたえましょう。

12月の御言葉

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

マタイによる福音1章23節

12月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

★ お話の聖書箇所と担当の先生

聖書 お話
12月 1日(日) ルカによる福音書1:57~66 藤野雄大 先生
    8日(日) ヨハネによる福音書1:6~18 興津晴枝 先生
   15日(日) マタイによる福音書1:18~25 焦凝 先生
   22日(日) クリスマス合同礼拝 藤野雄大 先生
   29日(日) ルカによる福音書2:22~35 藤野美樹 先生

お知らせ

11月より、原則として第4週日曜日は、大人と子どもの合同礼拝(朝10時半~)を守ることになりました。合同礼拝の日は、教会学校の礼拝はありませんので10時半に教会にお越しください。

🌸 12月1日からアドヴェント(待降節)に入りました。主イエスのご降誕を喜びの内に共に待ち望みましょう。

🌸 12月22日(日)はクリスマス合同礼拝を守ります。(朝10時半~)

礼拝後、祝会でお昼やお菓子、プレゼントがあります。ぜひご出席ください♫

🌸 1月5日(日)の教会学校礼拝は休会となります。

主よ、栄光はあなたのもの

聖書:歴代誌上29章10-14節, コリント一 3章18-23節

 この教会の礼拝に御言葉を語る務めによって働いて来た私も、あと二回の説教で終わると感慨深く思います。ちょうど主の祈りもあと二回のカテキズムの学びになります。神さまは御自身の御心を御言葉の説教によってわたしたちに教えてくださいます。しかし、御言葉を語る者も、聞く者も、共に罪人であり、様々な限界を持っていることを考えるとき、私たちは真に不思議だと思わずにはいられません。どうして罪ある人間に神の言葉が語れるだろうかと。そしてどうして罪ある人間がそれを神の言葉だと信じることができるのだろうかと。それは語る者も、聞く者も、聖霊の訪れによって、働きによっているからです。

さて、主の祈りは、どのような言葉で終わっているでしょうか。これがカテキズム問63の問であります。その答は、「国と力と栄光は、永遠にあなたのものです」です。わたしたちにできないことをしてくださるのは、神さまなのだ、としみじみと思うときは、どんな時でしょうか。皆さんにもいろいろあると思います。本日読んでいただいた旧約聖書は歴代誌上の29章です。ダビデ王は生涯の終わりが近くなって、神殿を建てるために準備をしました。非常に多くの金銀宝石や鉄や、木材、大理石を神さまに献げました。

しかし、ダビデ王は祈っています。14節。「このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」ダビデ王は紀元前10世紀頃、イスラエルの12部族を統一して強い国家とした人であります。この世の権力者と同じように、軍隊を率いて戦い、破竹の勢いで周辺の国々を征服しました。しかし、彼は非常に謙って祈っています。莫大な富を神さまに献げる時にも「すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません」と祈りました。

これは本当に驚くべきことだと思いませんか。もちろん、わたしたちはダビデ王のような力もない、実績もない、平凡な人間ですが、それなのに、何かちょっとできると得意になり、自分を偉いもののように考えたくなるものです。「すべてはあなたからいただいたもの」という実感するなら、それだけでわたしたちの世界は一変するのではないでしょうか。

わたしたちが今日も教会に集まっているのは、聖霊の神さまがわたしたちのうちに働いてくださったからです。そうではないでしょうか。聖霊の神さまが呼んでくださらなければ、何かもっと楽なことをしようと思うでしょう。もし、聖霊の神さまが呼んでくださらなければ、何かもっと得なことがあるかもしれないと思うでしょう。ところが、不思議な聖霊のお働きによって、その呼びかけに応える人々が集められています。全国全世界に、この2千年もの間。神さまは、本当に目に見えないお働きによって人をイエス・キリストの教会に招き、御言葉を聞かせてくださいます。わたしたちが罪の奴隷から解放されて、神さまに従う者となるために働いてくださっています。

成宗教会もそのようにして集められ、続いて来ました。本当に目に見える形では小さな群れですが、救い主として世に来られたイエスさまが、目に見える姿でわたしたちのために苦しみを受け、十字架に死んで甦ってくださったこの福音の言葉によって、生きた教会となったのです。天に昇られたイエスさまは、地上に肉体を持っておられたときとは異なって、全世界のそしていつの時代にも生きる信者と共に生きておられます。それは天からわたしたちに注がれる聖霊によって、イエスさまはわたしたちと共に生きておられるからです。

成宗教会のお墓は越生にありますが、その墓標に刻まれている言葉は、「神は我々と共におられる」というマタイ1章23節の言葉です。そうです。わたしたちと共に神さまがおられる、ということは、わたしたちの味方としておられる、ということに他なりません。救い主イエスさまが、神さまとわたしたちの間にあった罪を滅ぼすために犠牲となってくださったからです。身代わりに人間の死を死んでくださり、神さまの命に甦ってくださいました。

週報にお知らせしましたが、先週成宗教会の教会員、市川孝子姉が召天されました。ご子息のご一家は遠く九州にお住まいでしたので、なかなかお見舞いに来られなかった年月を思い、ご子息はお母さんが亡くなった時には、お骨を九州へ持って帰りたいと言っておられました。ところが、急に成宗教会の墓地にと申し出られました。成宗では2015年以後、納骨がなかったので、私も少し驚きましたが、これも神さまの深いご配慮と感謝しました。家族単位で持っていたお墓の世話も始末もできないような少子高齢化の中で、もし本当の家族と言えるとしたら、教会こそ家族なのではないでしょうか。

それは、成宗教会のお墓が一つの家族という意味ではございません。神の家族というのは、イエス・キリストを信じて、罪を赦していただいた人々のことです。この人々は、イエスさまの兄弟姉妹と呼ばれ、またイエスさまが神さまから愛する子、と呼ばれたように、イエスさまに結ばれているからこそ、神の子と呼ばれている。だからわたしたちは神の家族なのです。

このことはとても大きなことであり、とても重要なことです。なぜなら、わたしたちは罪ある人間でありますから、どうしても自分中心にしか考えられない。好きなもの、嫌いなもの、があり、これは人々についても言えるのです。一緒にいるとうれしい人間がいる一方、あの人とは一緒にいたくない、一緒にされたくないということも決して少なくない訳です。しかし、神さまはそうではない。善い方です。そしてわたしたちもまた善良になることを喜ばれます。神さまは、わたしたちが嫌ったり、捨てたり、軽蔑したりするのをご覧になってどう思われるのでしょうか。神さまは正義を愛し、不正をお嫌いになる方ですが、わたしたちの好き嫌い、わたしたちのいろいろな特徴を含めて、わたしたちを招いて神の子としてくださったのです。

そのことを考えるとき、わたしたちは「神は我々と共におられる」とはどういうことなのかに思い当るでしょう。神さまは色々な、本当にいろいろな多様性を持った人々を招いて、「わたしの子どもたち」と呼んでくださいます。そしてイエスさまは御自分の復活の体の教会を建設するために、天から聖霊を送ってくださるのではないでしょうか。

本日は新約聖書のコリントの信徒への手紙一、3章18節から読んでいただきましたが、これは、教会を建設することについての議論の続きです。いろいろな人々、多様性を持った人々を神さまは招いてくださったのですが、だからこそ、教会建設の土台は何かをしっかりと知る必要があるのです。言うまでもないことだと思うのですが、教会の土台はイエス・キリストなのです。ところが言うまでもない、と思っているのに、現実は大変な行き違い、勘違いがどんどん起こります。これはパウロの時代、すなわち、初代教会の時代から、おそらくいつでも、どこでも起こったことだったでしょう。自分がちょっと何かわかったと思うと、たちまち偉そうなことを言う人々は教会の外にも中にもいるからです。コリントの教会では教師について分派が起こりました。あの先生の方がよい、いやこの先生の方がよい。説教のうまい、下手とか。声が良いとか、悪いとか。挙句の果てはスタイルから、年令から、何だかんだと比較してほめたりけなしたり・・・。

ところが、コリント教会でタレントの人気投票もどきのことをされているパウロも、アポロも、ケファすなわちペトロも、その間、何をしていたでしょうか。教会の人々の救いのために労苦していたのです。くだらない議論にうつつを抜かしている間も、その人々をも含めて教会建設のために命がけの戦いをしていました。そしてそれは今の時代に至るまで大きく変わらないのです。使徒たちは迫害の時代を生きて働きました。国家が宗教を認めても、また別の戦いをしなければなりませんでした。戦争も起こりました。飢饉も起こりました。地上の教会の戦いは終わることはありません。だからパウロは厳しい忠告をしています。18~21節。

「だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のあるものとなるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。『神は、知恵のある者たちを、その悪賢さによって捕えられる』と書いてあり、また、『主は知っておられる、知恵のある者たちの論議がむなしいことを』とも書いてあります。」

私も16世紀のルターやカルヴァンなど宗教改革者の戦いについて聞いたことが大きな慰めになりました。最近では、落合建仁という神学者が連合長老会の機関誌『宣教』に書いたカルヴァンのエピソードに私は深く心打たれました。それはカルヴァンが最初にジュネーブに行った時そこで受けた脅しと迫害でありました。彼は書いているそうです。「わたしを馬鹿にして、挨拶がわりということで、夕方に入口のドアめがけて火縄銃を四十から五十発くらったこともありました。」

信仰者の戦いについて言えば、20年近く入院したまま地上を去った市川孝子姉もまた、忍耐の年月を戦った方でした。それは死んだ方がましだと自ら言うほどの苦難の日々でしたが、不思議にお元気になることがありました。また彼女ほど牧師の問安を喜んで待っていた人はいなかったと思います。讃美歌に「かみによりて いつくしめる こころのまじわり いともたのし」と歌われる主にある交わりの真実を、この方は証ししてくださったのでしたから、どんなに励まされたことでしょう。理不尽なこと、仰天するようなことが起こっても、苦難に生きた人々の忍耐を思い起こすことができるとき、わたしたちは神の家族の交わりをいただいていることを知るのです。そしてこの交わりのただ中に主がおられることも。

これからわたしたちの多くは年を取り、この社会も困難を増すばかりのことが予想されます。しかし、神さまは人を謙らせて、自分を誇ることをやめさせてくださるなら、それは本当に幸いなことです。困難なことが起こり、自分たちには望ましいとは思えないことが起こる時にも、神さまの深い御心を思うならば、わたしたちは実に幸いです。なぜなら、わたしたちは、神さまがわたしたちに善いものをくださろうとしていると信じるために召されているのですから。どうしてパウロは言うのでしょう。「すべてはあなたがたのものです」と。神さまがすべてを支配しておられ、すべてをくださろうとしておられるからではないでしょうか。それが救いです。それがすべてです。

わたしたちはキリストのもの、そしてキリストは神のもの、と言われます。貧しい人も、豊かな人も、弱い人も、強い人も、いろいろな問題を抱えている人も、いない人も、神の知恵、キリストにあって一つとされるなら、全体が神のものとして支配され、善いものに変えられることを信じましょう。そして祈りましょう「主よ、栄光はあなたのもの」と。最後にもう一度、カテキズム問63です。「主の祈りは、どのような言葉で終わっていますか。答は『国と力と栄光は、永遠にあなたのもの』です。この世の権力も支配も栄光もすべて神さまのものであることを信じて、心から神さまをほめたたえて終わるのです。」祈ります。

 

御在天の父なる神さま

あなたは罪人を深く憐れみ、御子の苦難によって、わたしたちの苦境を打ち破ってくださいました。わたしたちの目に受け入れがたい苦難を通して、わたしたちを常に謙らせ、あなたに祈り、隣人と共に祈り、教会の礼拝に集い、あなたのご栄光をほめたたえる者となりますように。

あなたは先週、一人の姉妹をこの群れから天に召されましたが、長い間病気のために教会に集うこともできない苦労の生活の方でした。あなたはしかし、この姉妹を通して多くの働きをなし、ご栄光をたたえる生涯を終えましたことを感謝申し上げます。私たちにも教会の交わりを証しし、御言葉によって養われる生涯をお与えください。

先週はまた、東日本連合長老会の長老研修会を感謝します。長老の務め、執事の務めについて良い学びの時と交わりが与えられましたことを感謝します。どうかすべての問題、課題について心を開き、互いに学び合い、互いの利益となる連合長老会となりますように。

また、新しく東北地方に新しい連合長老会が発足に向かって進んでいます。どうかそのために労苦しておられる先生方を特に顧みてください。

どうか、藤野雄大先生、美樹先生のご赴任に先立つご準備を祝福してください。この先生方と共に心を一つにして祈り、支えていく志が教会の皆さまにあふれますように。私も最後の引き継ぎを行い、問安の一週間を過ごします。どうか教会員、客員、求道者、教会学校のすべての方々の上に、平安と新しい希望をお与えください。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。