責任的に生きているか

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌23番
讃美歌166番
讃美歌500番

《聖書箇所》

旧約聖書:民数記 16章3節 (旧約聖書240ページ)

16:3 彼らは徒党を組み、モーセとアロンに逆らって言った。「あなたたちは分を越えている。共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって、主がその中におられるのに、なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか。」

新約聖書:マルコによる福音書 11章27-33節 (新約聖書85ページ)

11:27 一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、
11:28 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
11:29 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
11:30 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」
11:31 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
11:32 しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。
11:33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

《説教》『責任的に生きているか』

時は、十字架の週、受難週の火曜日のことと思われます。この日も主イエスは神殿へ来ておられました。27節に「神殿の境内を歩いておられると」と記されていますが、ルカ福音書20章1節には、「神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせていた」と記されています。主イエスは、この日も、神殿に来て御言葉の宣教に力を注いでおられたのです。これは、「驚くべき大胆さ」です。何故なら、前日主イエスは、神殿の境内で商売している者に対して怒られ、台をひっくり返して大暴れされたばかりであったからです。既に述べたように、神殿内の商売は莫大な利益をもたらし、最大の権力者、大祭司の独占事業でした。ですから、昨日の主イエスの行動は、神殿を支配する大祭司の権力に対する真正面からの挑戦であり、主イエスは、御自身をもはや後戻り出来ない立場に置かれたのです。これが、前日の「宮潔め」と呼ばれる事件でした。

まさに、その翌日、「再び神殿へ来る」ということが、警護の神殿警察まで居た当時、どれほど危険であるかを主イエスは、よく御存知の筈です。それにも拘らず、主イエスは、前日と同じ場所に姿を現したのです。ここに、問題を徹底的に暴き、神の御前における人間の罪を何処までも追求する主イエスの厳しさを、見なければなりません。

主イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言いました、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」(27-28)。

当時のユダヤは、ローマ帝国の支配下にあって独立国家ではないものの、祭司長、律法学者、長老たちからなるサンヘドリンと呼ばれる「最高法院」が、人々を指導していました。その最高法院の代表者たちが、前日の事件についてナザレのイエスの責任を問い質しに来たのです。

主イエスの昨日の行為は、彼らの権威に対する公然たる反抗でした。伝統と権力の上に君臨し、政治的にはローマと妥協して支配を担って来た彼らは、ナザレのイエスを一人の過激な民族主義者と見たのでしょう。

18節に「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」と記されていました。彼らの意図は明確でした。従って、昨日の出来事は、神の子キリストが生命を賭けて闘ったものだったのです。

彼らが責め立てた「このようなこと」とは、前日の「宮潔め」を指しています。勿論、彼らの憎しみは以前からのものであり、機会あれば殺してしまいたいと思っていました。ここで、主イエスが公然と神殿の境内で大祭司の権威をないがしろにしたことで、ユダヤ教の代表者たちは、もはや許し難いとして、主イエスを糾弾するために権威の所在を巡って詰問して来たのです。

神の民としての誇りに生きて来たユダヤ人にとって、最も大切な場所はエルサレム神殿であり、律法はその神聖さを保つために、数々の戒めをもって人々を教え導いて来ました。「神殿なき信仰は有り得ない」とするのがユダヤ人本来の信仰であり、その神殿における最高の権威者は大祭司です。大祭司は、神に最も近く仕える者としての神聖な務めであり、彼の意図を受けて行動する者を妨害する資格は誰にもないのです。

彼らの主張は「神殿の境内で勝手な行動をすることは許されない。その許されないことを何故したのか」。これが、権威をたてにとって詰め寄る祭司長たちの主張です。彼らは、主イエスが「神殿の法」に背き、「神聖であるべき神殿を汚した」という理由で拘束することが目的であったのです。

ここで私たちは、彼らのもっともな非難の中に、重要な見落としがあることに気付かなければなりません。彼らは、最高の権威が大祭司にあると信じているのです。大祭司を頂点として、末端の祭司・レビ人から庶民に至るまで、ピラミッド型に権威が与えられていると考えていました。

最も大切な、「真実の権威は主なる神のみにある」という基本的なことが、いつの間にか忘れられて来ていたのです。

「主なる神こそが最高の権威者である」と、「常に新たに告白し続けて行く」のが信仰です。主の御前に立つ祭司長たちが、世俗的価値観に惑わされて信仰を失っていくと、肝心の主なる神ご自身さえ覆い隠してしまうのです。確かに、当時の大祭司はイスラエルにおける最高の権威を持っていました。しかし、聖書が語る信仰の権威と、人間社会を指導する世俗的権威とは違うのです。

「権威」とは、辞書(広辞苑)に拠れば「下の者を強制し、服従させる威力」とあります。そこでは、確かに権威と権力とは一体化していると言えるでしょう。

この世の権威は、常に何か「より大きな力」を背景とし、その力に支えられて威力を発揮するものです。新約の時代、世界はローマ帝国の支配下にあり、ローマ皇帝が世界の権威でした。ローマ帝国は、武力によって地中海世界の統一を実現し、世界を支配し、秩序を行き渡らせていました。各地の植民地の指導者たちは、ローマ皇帝の権威を背景にして自分の権威を明らかにし、民衆を支配して来たのでした。

ローマ帝国占領下でユダヤ民衆の指導を任された大祭司も同様でした。ローマ皇帝の世俗的権威を、永遠を支配される主なる神より託された権威の支えとして利用していたのです。そして、主なる神が委ねた信仰の権威を、この世を支配する権威と混同していたのです。

主イエスが、受難週の月曜日、神殿の境内で大勢の群衆を前にして思い切った「宮清め」の行動に出たのは、大祭司が持つ権威の実態を、神の御前で改めて問うことでした。

主イエスは、巡礼者など大勢の人々が集まる過越しの祭の神殿の只中で、大祭司たちの権威が、もはや主なる神に与えられ支えられているものではなく、見せかけの権威であり、人々の心を主なる神に代わって教え導く力を失っていることを示したのです。ここに、「主なる神を上回る権威はない」という、この世界に対するキリストの宣言を聞かなければならないのです。

主イエスは、29節以下で彼らに尋ねられました。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネのバプテスマは天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」。バプテスマのヨハネも祭司ではなく、一介の野人でした。彼もまた、世俗の権力に反抗し、そのためにローマ帝国からユダヤ支配を託されたヘロデ王に殺されました。ヨハネは、「宮清め」はしませんでしたが、そんな権威でユダヤ民衆を支配している人々を「まむしの子」と決め付け、「差し迫った神の怒りを免れると思うのか」と、叫びました。そしてユダヤ民衆は、そのヨハネの言葉を大いに賛同していたのです。主イエスは、このヨハネを例にとり、真実の権威が、何処にあるのかを明らかにされようとしているのです。

祭司長、律法学者、長老たちは論じ合いました。31節以下に、「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう、『人からのものだ』と言えば、彼らが恐れている群衆の反発があるだろう、と記されています。民衆はヨハネは本当に預言者だと思っていたからとあります。

真実を見ようとしない人間の醜さが、隠す余地なく現されていると言えるでしょう。当時、バプテスマのヨハネが多くの民衆から支持されていたことを、神殿指導者たちも認めざるを得なかったのです。

しかし、ここでバプテスマのヨハネの権威を認めれば、ヨハネをして「私はこの人の靴の紐を解く価値もない」と言わせた主イエスの権威も認めなければなりません。また逆に、バプテスマのヨハネの権威を否定することは、ヨハネを慕う圧倒的な数の民衆を敵に回すことになってしまいます。この世の権威を頼りとする者は、人の力を最も恐れるものです。人々の眼を恐れ、人々の言葉を恐れるのです。

主イエスの問いの前に、祭司長たちは、自分たちの権威がまったくの偽物であり、見かけだけの権威に過ぎないことを示してしまったのです。32節の「群衆が怖かった」とは、神を畏れる姿ではなく、民衆を怖がる姿でしかないのです。

そう言う私たちは、どのよう立場に立っているでしょうか。

真実の自由とは、これらの束縛から解放されて生きることなのです。行動の源が、「神の許しに基づいている」という時のみ、何ものをも恐れずに生きることが出来るのです。見せかけの権力を誇り、それを権威と錯覚し、人の力に頼る人間の愚かさがここ神殿指導者たちに現わされているのです。

祭司長、律法学者、長老たちは主イエスに、「分からない」と答えました。

これこそ、実に象徴的な姿です。「分からない」のではなく、自分の姿を明らかにすることを避け、逃げているのです。誤魔化しているのです。真実に生きる勇気を持たない人間の醜い姿です。

すると、主イエスは、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と言われました。最終的責任をとろうとしない人間に、主イエスが答えを拒否されるのは当然のことでした。

ヨハネの黙示録3章15節以下に象徴的な御言葉があります、それは「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」と、ハッキリと記されています。

真実を言わない者に主イエスは答えられません。主イエス・キリストの福音は、全ての人間に向けられているのですが、自分の責任をとろうとしない者には、「キリストのほうから拒否される」と聖書は告げているのです。信仰とは、常に「真実」を要求するのです。

ユダヤ教の代表者たちに、主イエスは「何の権威でこのようなことをするのか、わたしは言わない」と拒否されました。しかし、聖霊なる神に導かれて礼拝を守る私たちには、大いなる宣言として聞こえて来ている筈です。「わたしは今、父なる神の権威によってすべてを行っている」と。主イエス・キリストは、福音にすべてを委ねて行く私たちに、「わたしこそ神の権威そのものである」と仰っているのです。

私たちは、この「キリストの真実」の下に生きています。御子キリストの血によって贖われた生命を生きています。

何ものも恐れず、常に真理を仰ぎ、主なる神の栄光を望みつつ生きる人間の強さ。主イエス・キリストは、それを私たちに教えられたのです。

貧しさと飢え

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌66番
讃美歌224番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:民数記 27章16-17節 (旧約聖書262ページ)

27:16 「主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ、どうかこの共同体を指揮する人を任命し、
27:17 彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。」

新約聖書:マルコによる福音書 6章30-44節 (新約聖書72ページ)

6:30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
6:35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
6:36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
6:37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
6:38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
6:39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。
6:40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
6:42 すべての人が食べて満腹した。
6:43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。
6:44 パンを食べた人は男が五千人であった。

《説教》『貧しさと飢え』

本日は、マルコによる福音書第6章30節以下の「五千人の給食の奇跡」をご一緒にお読みします。最初の30節にこうあります。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」。これは先々週の6章7節以下の、主イエスが十二人の弟子たちを宣教のため、また悪霊を追い出し、病人を癒すために派遣されたという所を受けています。「使徒たち」とは主イエスの十二人の弟子たちのことで、「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。主イエスによって遣わされた使徒たちが、主イエスのもとに帰って来て、「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」のです。彼らが行ったことや教えたことは、この6章12節と13節に語られています。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」とあります。彼らが「行ったこと」は、「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」ことであり、「教えたこと」は「悔い改めさせるために宣教した」ということです。彼らは主イエスに遣わされてこのような働きをしてきたのです。そして帰って来て自分たちのしてきたことを主イエスに報告しました。「残らず報告した」という所に、彼らの喜び、あるいは驚き、そして興奮が感じられます。「私たちはこんなふうに語りました。その言葉を人々が聞いてくれました。そしてこんなふうに悪霊を追い出し、病を癒すことができました」と、堰を切ったように報告したのでしょう。「あれも言いたい、これも報告したい」というすばらしい体験を彼らは沢山与えられたのです。

そのように自分たちの体験を喜んで報告した弟子たちに主イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」とおっしゃいました。それは、「ご苦労だった。さぞ疲れただろう。しばらくゆっくり休んで英気を養いなさい」ということだったのでしょうか。ここに「人里離れた所へ行って」と言われています。主イエスは弟子たちを「人里離れた所」へ行かせようとしておられるのです。それは一つには31節後半にあるように、「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったから」です。しかし主イエスがこのようにおっしゃった一番の目的は、このマルコ福音書の1章35節を読むと分かります。そこには「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」とあります。主イエスご自身がしばしば「人里離れた所」に行って祈っておられたのです。それはただ休むためではなくて、祈るためでした。主イエスは人里離れた所で、父なる神様と向き合い、語り合う、神様との交わりの時を持っておられました。そのことを、今弟子たちにもさせようとしておられるのです。弟子たちには今こそ、そういう祈りの時が必要だと主イエスは判断なさったのです。

「あなたがただけで」人里離れた所へ行けとおっしゃった主イエスは、しかし結局ご自分も舟に乗って弟子たちと一緒に行かれました。このことは、弟子たちだけでは本当に休み、祈ることができない、ということを示しているのかもしれません。主イエスに「休んで祈りなさい」と言われても、ついつい動きたくなる、働きたくなる、祈るよりも活動していたくなる、それは弟子たちも私たちも同じではないでしょうか。じっと祈っているよりも、何かをして働きたくなる、「奉仕」をしたくなるのです。そうしていないと不安になるのです。

人里離れた所へ行くために、主イエスと弟子たちは舟に乗って出発しました。しかし人々は主イエスがしばしば祈りに行っておられた場所を知っていたのでしょう。一行の先回りをして待っていたのです。人里離れた所に上陸するはずが、すべての町から一斉に駆けつけて来た群衆でそこは大変な騒ぎになっていたのです。それほどまでに人々は、主イエスのみ言葉とみ業とを求めていました。主イエスはその大勢の群衆を見て「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれました。人里離れたこんな所にまで主イエスを求めて押し寄せて来るということは、彼らには、自分たちを本当に養い、守ってくれる飼い主、主人がいないのです。それはある意味では誰にも支配されずに自由ですが、実際には寄る辺ない身である、ということです。彼らは、自分の本当の主人、保護者、信頼して自分を委ねることのできる主人を求めていたのです。主イエスはそのような人々を見て、「深く憐れまれ」ました。これはただ「可哀想に思った」というのではありません。この「憐れむ」という言葉は「内蔵が揺り動かされる」という意味であり、新約聖書では、主イエスご自身にのみ用いられています。主イエスが、苦しんでいる人を、内蔵が揺り動かされるように深く特別な思いを示されたという意味の言葉です。そういう深い憐れみによって主イエスは、人々にいろいろと教え始められ、み言葉を語っていかれたのです。

主イエスの説教が続いて行く間に、弟子たちは次第に心配になってきました。ここは街中ではなくて人里離れた場所です。そこに、男だけでも五千人の人々が集まっているのです。まもなく日が暮れる。そうしたら、こんなに大勢の人々が腹をすかせたまま一夜を過ごさなければならなくなる。そうならないためには、そろそろお開きにしないと、このままではみんな家に帰り着くことができなくなる…。それで彼らは主イエスに「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」と言ったのです。すると主イエスは驚くようなことをおっしゃいました。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。「そんな無理なことを…」と弟子たちは思いました。「私たちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」。一デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金です。ごく簡単に例えれば時給千円で、一日8時間働いて、8千円です。200デナリオンは約160万円になります。ですから、それくらい多額の金がなければ、この多くの群衆に食べ物を与えることはできないのです。「二百デナリオンもの」と金額を出しているのは、「そんなお金が私たちにないことは、先生あなたもよくご存じでしょう」ということです。すると主イエスは、「パンは幾つあるのか。見て来なさい」とおっしゃいました。あなたがたは今どれだけのものを持っているのか、と主イエスは問われたのです。「五つのパンと魚が二匹」それが弟子たちの持っている全てでした。その五つのパンと魚二匹で、主イエスは、男だけで五千人もの人々を満腹させるという奇跡を行われたのです。

そもそも主イエスが弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃったのは何のためだったのでしょうか。そのことと、32節までに語られていたことには関係があります。彼らに、自分たちの力がどれほどのものかを自覚させるためだったと言えるでしょう。弟子たちは、我々は素晴しいことができた、良い働きができた、神様の救いを人々に分け与えることができた、と喜んでいます。自分たちにはこんな力があったのだ、とある意味で有頂天になっていたのです。その弟子たちに主イエスは「それではあなたがたがこの群衆に食べ物を分け与えてごらん」とおっしゃったのです。弟子たちは「そんなことはできません」と言うしかありません。素晴しい働きが出来た、自分たちにはこんなに力があったのだ、と思い上がっていた彼らは、このみ言葉によって、自分たちの力がどれほどのものだったのかを思い知らされたのです。

私たちの心には不思議なバランスがあります。それは霊的なものと肉的なものです。心が霊的なものに満たされて行くにつれて、自分の思いである肉的なものは減少します。しかし、霊的なものが失われて行くと、直ちに肉的なものが勢力を盛り返してしまうのです。伝道者にとって最も大きな危険がここにあります。与えることに熱心なあまり霊的なものを受けることを忘れた時、どんな惨めさが待っているかは言うまでもありません。

主イエスが、弟子たちの喜びを見詰めながら考えたのはこのことでした。それ故に、先ず何よりも「祈りの時」を持つことを命じられたのです。

主イエスはこのようにして、有頂天になっている弟子たちの目を覚まさせたのです。それに続いて主イエスは「パンは幾つあるのか。見て来なさい」とおっしゃっています。弟子たちが今持っているものを確認させておられるのです。パンが五つと魚が二匹、それが弟子たちの持っている全てでした。彼らが人々に分け与えることができるものはそれだけなのです。それは五千人もの人々の前では、何の役にも立たないちっぽけなものです。しかしそのことを確かめた上で主イエスは、弟子たちの持っていたパンと魚を手に取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡して配らせ、魚も皆に分配なさったのです。すると、すべての人が食べて満腹し、さらに十二の籠にいっぱいになるくらい余りが出たのです。

彼らが持っていたパンと魚が用いられただけではありません。39節で主イエスは弟子たちに、皆を組に分けて座らせるようにお命じになりました。そして41節には、主イエスが賛美の祈りを唱えて裂いたパンと魚を弟子たちに渡して配らせたとあります。主イエスの恵み、憐れみによって与えられたパンと魚を、実際に人々に配ったのは弟子たちだったのです。このように弟子たちは、主イエスの恵みが人々に与えられるために用いられました。飼い主のいない羊のような人々に対する主イエスの憐れみは、弟子たちを通して人々に伝えられ、こうして人々は主イエスという羊飼いの下に養われる羊の群れとなったのです。「すべての人が食べて満腹した」という42節の言葉はそういうことを表していると言えるでしょう。そして43節には「そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった」とあります。十二の籠は十二人の弟子たちと対応しています。十二人の弟子たちが、パンと魚とを人々に配り、そしてその残りを集めたのです。ここに集められた全ての人々が、十二人の弟子たちの手を通して、主イエスの恵みによって養われ、有り余るほどに満腹したのです。

主イエスの権限を受けて悪霊を追い出し、病人を癒すことが出来た弟子たちでさえ、霊の賜物が与えられることを祈り求めなければ、自分自身を誇るだけの何者でもないのです。私たちは、ここに神様の豊かな恵みと同時に自分自身の本当の姿を見るべきではないでしょうか。常に祈り、常に御言葉に聞き従い、霊的に満たされていなければ、まともなことは何一つ出来ない自分の貧しさを知るべきです。

そして、この貧しさに気付き、霊の賜物が与えられることを必死に祈り求める時、マタイによる福音書5章3節以下にある、あの有名な「心の貧しい者は幸いである」という御言葉が実現するのです。

主イエス・キリストこそ真の羊飼いであり、飼う者のない羊のような魂の飢えに苦しむ者を、決して見捨てられることはないからです。主イエス・キリストは、祈り求める者に、有り余る程の愛をもって応じられます。

それが、今朝、私たちに与えられたメッセージです。

お祈りを致しましょう。