主日礼拝説教
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌66番
讃美歌224番
讃美歌494番
《聖書箇所》
旧約聖書:民数記 27章16-17節 (旧約聖書262ページ)
27:16 「主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ、どうかこの共同体を指揮する人を任命し、
27:17 彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。」
新約聖書:マルコによる福音書 6章30-44節 (新約聖書72ページ)
6:30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
6:35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
6:36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
6:37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
6:38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
6:39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。
6:40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
6:42 すべての人が食べて満腹した。
6:43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。
6:44 パンを食べた人は男が五千人であった。
《説教》『貧しさと飢え』
本日は、マルコによる福音書第6章30節以下の「五千人の給食の奇跡」をご一緒にお読みします。最初の30節にこうあります。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」。これは先々週の6章7節以下の、主イエスが十二人の弟子たちを宣教のため、また悪霊を追い出し、病人を癒すために派遣されたという所を受けています。「使徒たち」とは主イエスの十二人の弟子たちのことで、「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。主イエスによって遣わされた使徒たちが、主イエスのもとに帰って来て、「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」のです。彼らが行ったことや教えたことは、この6章12節と13節に語られています。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」とあります。彼らが「行ったこと」は、「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」ことであり、「教えたこと」は「悔い改めさせるために宣教した」ということです。彼らは主イエスに遣わされてこのような働きをしてきたのです。そして帰って来て自分たちのしてきたことを主イエスに報告しました。「残らず報告した」という所に、彼らの喜び、あるいは驚き、そして興奮が感じられます。「私たちはこんなふうに語りました。その言葉を人々が聞いてくれました。そしてこんなふうに悪霊を追い出し、病を癒すことができました」と、堰を切ったように報告したのでしょう。「あれも言いたい、これも報告したい」というすばらしい体験を彼らは沢山与えられたのです。
そのように自分たちの体験を喜んで報告した弟子たちに主イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」とおっしゃいました。それは、「ご苦労だった。さぞ疲れただろう。しばらくゆっくり休んで英気を養いなさい」ということだったのでしょうか。ここに「人里離れた所へ行って」と言われています。主イエスは弟子たちを「人里離れた所」へ行かせようとしておられるのです。それは一つには31節後半にあるように、「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったから」です。しかし主イエスがこのようにおっしゃった一番の目的は、このマルコ福音書の1章35節を読むと分かります。そこには「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」とあります。主イエスご自身がしばしば「人里離れた所」に行って祈っておられたのです。それはただ休むためではなくて、祈るためでした。主イエスは人里離れた所で、父なる神様と向き合い、語り合う、神様との交わりの時を持っておられました。そのことを、今弟子たちにもさせようとしておられるのです。弟子たちには今こそ、そういう祈りの時が必要だと主イエスは判断なさったのです。
「あなたがただけで」人里離れた所へ行けとおっしゃった主イエスは、しかし結局ご自分も舟に乗って弟子たちと一緒に行かれました。このことは、弟子たちだけでは本当に休み、祈ることができない、ということを示しているのかもしれません。主イエスに「休んで祈りなさい」と言われても、ついつい動きたくなる、働きたくなる、祈るよりも活動していたくなる、それは弟子たちも私たちも同じではないでしょうか。じっと祈っているよりも、何かをして働きたくなる、「奉仕」をしたくなるのです。そうしていないと不安になるのです。
人里離れた所へ行くために、主イエスと弟子たちは舟に乗って出発しました。しかし人々は主イエスがしばしば祈りに行っておられた場所を知っていたのでしょう。一行の先回りをして待っていたのです。人里離れた所に上陸するはずが、すべての町から一斉に駆けつけて来た群衆でそこは大変な騒ぎになっていたのです。それほどまでに人々は、主イエスのみ言葉とみ業とを求めていました。主イエスはその大勢の群衆を見て「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれました。人里離れたこんな所にまで主イエスを求めて押し寄せて来るということは、彼らには、自分たちを本当に養い、守ってくれる飼い主、主人がいないのです。それはある意味では誰にも支配されずに自由ですが、実際には寄る辺ない身である、ということです。彼らは、自分の本当の主人、保護者、信頼して自分を委ねることのできる主人を求めていたのです。主イエスはそのような人々を見て、「深く憐れまれ」ました。これはただ「可哀想に思った」というのではありません。この「憐れむ」という言葉は「内蔵が揺り動かされる」という意味であり、新約聖書では、主イエスご自身にのみ用いられています。主イエスが、苦しんでいる人を、内蔵が揺り動かされるように深く特別な思いを示されたという意味の言葉です。そういう深い憐れみによって主イエスは、人々にいろいろと教え始められ、み言葉を語っていかれたのです。
主イエスの説教が続いて行く間に、弟子たちは次第に心配になってきました。ここは街中ではなくて人里離れた場所です。そこに、男だけでも五千人の人々が集まっているのです。まもなく日が暮れる。そうしたら、こんなに大勢の人々が腹をすかせたまま一夜を過ごさなければならなくなる。そうならないためには、そろそろお開きにしないと、このままではみんな家に帰り着くことができなくなる…。それで彼らは主イエスに「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」と言ったのです。すると主イエスは驚くようなことをおっしゃいました。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。「そんな無理なことを…」と弟子たちは思いました。「私たちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」。一デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金です。ごく簡単に例えれば時給千円で、一日8時間働いて、8千円です。200デナリオンは約160万円になります。ですから、それくらい多額の金がなければ、この多くの群衆に食べ物を与えることはできないのです。「二百デナリオンもの」と金額を出しているのは、「そんなお金が私たちにないことは、先生あなたもよくご存じでしょう」ということです。すると主イエスは、「パンは幾つあるのか。見て来なさい」とおっしゃいました。あなたがたは今どれだけのものを持っているのか、と主イエスは問われたのです。「五つのパンと魚が二匹」それが弟子たちの持っている全てでした。その五つのパンと魚二匹で、主イエスは、男だけで五千人もの人々を満腹させるという奇跡を行われたのです。
そもそも主イエスが弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃったのは何のためだったのでしょうか。そのことと、32節までに語られていたことには関係があります。彼らに、自分たちの力がどれほどのものかを自覚させるためだったと言えるでしょう。弟子たちは、我々は素晴しいことができた、良い働きができた、神様の救いを人々に分け与えることができた、と喜んでいます。自分たちにはこんな力があったのだ、とある意味で有頂天になっていたのです。その弟子たちに主イエスは「それではあなたがたがこの群衆に食べ物を分け与えてごらん」とおっしゃったのです。弟子たちは「そんなことはできません」と言うしかありません。素晴しい働きが出来た、自分たちにはこんなに力があったのだ、と思い上がっていた彼らは、このみ言葉によって、自分たちの力がどれほどのものだったのかを思い知らされたのです。
私たちの心には不思議なバランスがあります。それは霊的なものと肉的なものです。心が霊的なものに満たされて行くにつれて、自分の思いである肉的なものは減少します。しかし、霊的なものが失われて行くと、直ちに肉的なものが勢力を盛り返してしまうのです。伝道者にとって最も大きな危険がここにあります。与えることに熱心なあまり霊的なものを受けることを忘れた時、どんな惨めさが待っているかは言うまでもありません。
主イエスが、弟子たちの喜びを見詰めながら考えたのはこのことでした。それ故に、先ず何よりも「祈りの時」を持つことを命じられたのです。
主イエスはこのようにして、有頂天になっている弟子たちの目を覚まさせたのです。それに続いて主イエスは「パンは幾つあるのか。見て来なさい」とおっしゃっています。弟子たちが今持っているものを確認させておられるのです。パンが五つと魚が二匹、それが弟子たちの持っている全てでした。彼らが人々に分け与えることができるものはそれだけなのです。それは五千人もの人々の前では、何の役にも立たないちっぽけなものです。しかしそのことを確かめた上で主イエスは、弟子たちの持っていたパンと魚を手に取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡して配らせ、魚も皆に分配なさったのです。すると、すべての人が食べて満腹し、さらに十二の籠にいっぱいになるくらい余りが出たのです。
彼らが持っていたパンと魚が用いられただけではありません。39節で主イエスは弟子たちに、皆を組に分けて座らせるようにお命じになりました。そして41節には、主イエスが賛美の祈りを唱えて裂いたパンと魚を弟子たちに渡して配らせたとあります。主イエスの恵み、憐れみによって与えられたパンと魚を、実際に人々に配ったのは弟子たちだったのです。このように弟子たちは、主イエスの恵みが人々に与えられるために用いられました。飼い主のいない羊のような人々に対する主イエスの憐れみは、弟子たちを通して人々に伝えられ、こうして人々は主イエスという羊飼いの下に養われる羊の群れとなったのです。「すべての人が食べて満腹した」という42節の言葉はそういうことを表していると言えるでしょう。そして43節には「そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった」とあります。十二の籠は十二人の弟子たちと対応しています。十二人の弟子たちが、パンと魚とを人々に配り、そしてその残りを集めたのです。ここに集められた全ての人々が、十二人の弟子たちの手を通して、主イエスの恵みによって養われ、有り余るほどに満腹したのです。
主イエスの権限を受けて悪霊を追い出し、病人を癒すことが出来た弟子たちでさえ、霊の賜物が与えられることを祈り求めなければ、自分自身を誇るだけの何者でもないのです。私たちは、ここに神様の豊かな恵みと同時に自分自身の本当の姿を見るべきではないでしょうか。常に祈り、常に御言葉に聞き従い、霊的に満たされていなければ、まともなことは何一つ出来ない自分の貧しさを知るべきです。
そして、この貧しさに気付き、霊の賜物が与えられることを必死に祈り求める時、マタイによる福音書5章3節以下にある、あの有名な「心の貧しい者は幸いである」という御言葉が実現するのです。
主イエス・キリストこそ真の羊飼いであり、飼う者のない羊のような魂の飢えに苦しむ者を、決して見捨てられることはないからです。主イエス・キリストは、祈り求める者に、有り余る程の愛をもって応じられます。
それが、今朝、私たちに与えられたメッセージです。
お祈りを致しましょう。