《賛美歌》
讃美歌11番讃美歌270番 讃美歌000番
《聖書箇所》
旧約聖書 詩篇 27篇4節 (旧約聖書857ページ)
27:4 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り主を仰ぎ望んで喜びを得その宮で朝を迎えることを。
新約聖書 ルカによる福音書 10章38~42節 (新約聖書127ページ)
◆マルタとマリア
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
《説教原稿》
今日の聖書箇所は、教会での奉仕とは何かといった私たちの疑問に示唆を与えられる大切なお話しです。
マルタとマリアという姉妹は、ルカによる福音書においてはここにしか登場しないのですが、ヨハネによる福音書においては、11章と12章に出てくる、大変重要な登場人物です。ヨハネによる福音書の第11章というのは、有名な「ラザロの復活」の場面ですが、そこで主イエスによって死からよみがえされたラザロの姉妹たちとしてマルタとマリアが登場するのです。つまり、年齢の関係は分かりませんが、マルタとマリアとラザロは兄弟姉妹で、共に暮らしていました。ヨハネ福音書によれば、その場所はベタニアという所です。ベタニアはエルサレムの近くの村で、マルコ福音書によれば、エルサレムに来られた主イエスは、夜はベタニアに泊まっておられたとあります。おそらく主イエスが泊まっておられたのはこのマルタ、マリア、ラザロの家だったのだろうと想像されます。ヨハネやマルコ福音書からそのようなことが分かってくるのですが、今日のルカ福音書は、それらのことを一切語っていません。38節には「ある村」とだけあって、ベタニアという地名すら出て来ないのです。それには理由があります。つまり本日の話がベタニアでのことだとすると、主イエスはもうエルサレムのすぐ近くに来ておられることになります。ルカは9章51節で、それまでガリラヤ地方で活動しておられた主イエスがエルサレムへと向かう決意を固めて出発されたと語っているのです。ルカによれば、十字架の待つエルサレムへの旅は、主イエスと弟子たちにとっては、まだまだ長い道のりなのです。ルカ福音書では、主イエスがエルサレムに入られることは、ずっと後の19章以下から語られ、それまでは、エルサレムへの旅路としては語られていないのです。ルカにとっては、この段階でエルサレム直前のベタニアに来られたとなるともう旅が終わってしまい、全体構想が崩れてしまいます。それでルカはベタニアという地名を出さずに「ある村」とだけ言っていると思われます。では、何故ルカは、この話をこの時点で語ろうとしたのでしょうか。
ここで大事なことは、ルカがこの物語を、この位置で、つまり主イエスのエルサレムへの旅が始まった直後のところで語らなければならないと思ったということです。それはなぜなのか、ルカはどうしてこの話をここで語るのが相応しいと考えたのか、そのことを考えていくことが、本日の箇所を読んでいく上で大事な鍵となるのです。
ルカがこの話を、エルサレムへの旅路の中に置いたということは、38節の「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」というところから分かります。主イエスと弟子たちは、旅の途上である村に入ったのです。さて主イエスは旅立つに際して、弟子たちを先に使いの者として派遣なさいました。派遣された弟子たちは後から来られる主イエスのために準備をしたのです。それは単に寝泊まりする場所を準備したということではありません。10章の始めには、主イエスが七十二人の弟子たちを二人ずつ組にして、御自分が行くつもりの町や村に先にお遣わしになったことが語られていました。そこに「ほかに七十二人を」とあるように、先に使いの者として派遣された人々の他にこの人々が遣わされたのです。主イエスに派遣された弟子たちは主イエスと同じことを告げ、行なっていきました。神の国の福音を宣べ伝え、その印として病人を癒したのです。それこそが、後から来られる主イエスのための準備です。弟子たちのそういう準備によって、彼らが派遣された町や村において、神の国が近づいていることを信じ、主イエスと弟子たちを迎え入れる人が出て来ました。そのことが、この「ある村」においても起ったのです。「すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」とあります。8節以下には、先ほどの七十二人に対して、「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」とありました。主イエスの一行を迎え入れるとは、その人々をもてなし、生活の世話をし、そして自分の家を、神の国の福音がその町で宣べ伝えられるための拠点とする、ということなのです。そして10節以下には、「町に入っても、迎え入れられなければ」という場合のことが語られています。誰も彼らの一行を迎え入れようとしない、主イエスによる神の国の到来の福音を受け入れず、その福音が宣べ伝えられていくために奉仕しようとする者が一人もいない、ということもあり得るのです。そういう現実もある中で、この村においては、マルタという女が主イエスと弟子たちを自分の家に迎え入れたのです。おそらく彼女は、この村に先に遣わされて来た弟子たちの語ることを聞いて、主イエスを迎え入れようと思ったのでしょう。そこには既に、主イエスを信じ、仕えようという彼女の信仰の決意が見られます。ルカは、エルサレムへと向けて、旅路を歩んでおられる主イエスを自分の家に迎え入れ、もてなしをし、主イエスによる神の国の到来を告げる福音を自分も信じ、その福音の伝道のために奉仕する信仰者の姿を描いているのです。
ここにはマルタとマリアという姉妹が登場し、二人の姿が対照的に描かれていきます。そして、「マリアは良い方を選んだ」とあるように、マルタよりもマリアの方が良い、相応しいと主イエスによって褒められたという話に思えます。しかしそれは、マリアこそが信仰者でマルタは信仰者ではない、ということではありません。主イエスを家に迎え入れたのはマルタである、とはっきり書かれています。それは、マルタが主イエスに従い仕える信仰者となったということです。マルタは、主イエスと弟子たちの一行を自分の家に迎え入れるという大いなる信仰の決断をしたのです。その後、「彼女にはマリアという姉妹がいた」と、おそらく妹であるマリアが登場します。マリアも主イエスを信じる者となるわけですが、それは姉であるマルタの信仰の決断が先にあったからだとも言えるでしょう。つまりマリアはマルタによって導かれて信仰者となった、と考えるべきではないでしょうか。
このように同じ信仰者となったマルタとマリアの間に、ある違いが生じました。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていたのです。主イエスの足もとに座って話を聞くとは、この時代のユダヤでは男の弟子にのみ許される行為でした。マリアは、そんな大胆な行動をしたと言えますし、また、主イエスの一行が女性差別をしなかった特筆すべき行いを記しているとも言えるでしょう。そのマリアに対してマルタは先程触れたように、大人数の一行のため「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」(40)のです。マルタとマリアの話のポイントは、この対照的な姿にあります。そして私たちはそこから、いろいろなことを読み取ろうとします。と言うよりも、自分たちが感じていることをこの話に読み込もうとします。教会の中で、特にご婦人方の間でよく語られるのは、「私はマリア型」とか「私はマルタ型」というような会話です。その場合の「マリア型」というのは、静かに礼拝を守り、み言葉を聞き、祈るといった信仰生活が自分には合っているし、その方が好ましいと感じているという人です。他方「マルタ型」というのは、それよりもむしろ活発に体を動かしていろいろな奉仕をする、例えば昼食作りとか、男性で言えば会堂の掃除や植木の手入れや力仕事など、また一教会に拘らない多くの教会を跨いだ社会奉仕活動に加わるとか、そういうことに喜びを感じ、充実を覚える、静かに説教を聞いているのはちょっと苦手、みたいなタイプであると言えるでしょう。それは女性だけの話ではなくて、男性も含めて、マルタとマリアのどちらに親近感を覚え、自分に近いものを感じるか、ということを私たちはここからよく考えるのではないでしょうか。そして自分がどちらのタイプかというだけではなく、礼拝中はマリアに徹し、終わったとたんにマルタに変身するのだ、という思いを持っている人もいるでしょう。つまり時と場合によってマルタとマリアを使い分けながら信仰生活を送っている、という思いを持っている人も多いのではないでしょうか。これらのことは、私たちが自分の体験や感覚をこの話に読み込んでいるということです。しかし私たちがしなければならないのは、自分の感覚を聖書に読み込むのではなくて、聖書が語っていることを読み取ることです。マルタとマリアの対照的な姿から私たちは何を読み取ることができるのでしょうか。
マルタが主イエスと弟子たちを家に迎え入れたとは、食事を出すことをはじめいろいろなもてなしをするためです。そういう意味でマルタがしていることは、神の国の福音を宣べ伝えている主イエスと弟子たちに仕え、その歩みを支えるという信仰の行為です。マルタは決して、自分の料理の腕前を披露しようとしているわけではありません。ちゃんともてなさないと恥をかくと思っているのでもありません。彼女がせわしく立ち働いているのは信仰によってです。マルタの姿は、信仰者が主イエスに仕えている姿そのものなのです。そこには、「もてなし」という言葉が使われていますが、この言葉は原文では「diakoni,a:ディアコニア」という言葉です。「奉仕」という意味です。マルタがしているのはこのディアコニア、つまり主イエスに従う信仰者にとって大切な信仰の業としての「奉仕」なのです。ですから、このマルタとマリアの姿は、自分はどちらのタイプだとか、どちらの方が自分の好みに合うなどというように読むべきものではありません。これはどちらも、主イエスに従い仕えていく信仰者が大切にすべきあり方なのです。
しかし、このどちらも大切な信仰のあり方の間で問題が生じました。マルタがマリアのことで主イエスに文句を言ったからです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。マルタは、主イエスの足もとに座ってその話に聞き入っているマリアに対して、「何も手伝わず、私だけにもてなしを、つまりディアコニアを押し付けている」という不満を抱いたのです。このマルタに対して主イエスはお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。主イエスはこのお言葉によってマルタに何を語ろうとしておられるのでしょうか。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。主イエスはマルタが思いわずらいに陥り、心を乱していると言っておられるのです。もてなし、接待、ディアコニアの業の中で、マルタの心は乱れ、とりみだしてしまっているのです。心が乱れるとどうなるか、自分のしている働き、奉仕を喜んでできなくなるのです。そして、人のことを非難するようになるのです。「自分はこんなにしているのに、あの人は何もしない。手伝おうとしない。そんなことでいいのか」という思いに支配されていくのです。自分のしている奉仕を喜べないことと、人を非難することは表裏一体の関係です。自分に与えられた奉仕を喜んでしている人は、人のことを非難することはありません。人への批判や攻撃は、自分自身が喜んでいないから生じるのです。マルタはそのような思いわずらい、心の乱れに陥ったのです。そのように心が乱れてしまうと、彼女がせっかく主イエスと弟子たちを家に迎え入れるという信仰の決断をし、奉仕している信仰の業が歪んだものになってしまいます。マルタはこの奉仕を、誰かから強制されたのではありません。自分の意志でそれを引き受け、喜びをもってそれを担ったのです。信仰における奉仕、ディアコニアとはそのように、喜んで、自発的に行なうものです。ところが私たちは時として心を乱し、その喜びを見失って、自分だけが何か重荷を背負わされているように感じてしまうことがあります。心を乱しているマルタの姿は、私たちの信仰生活の中でも時として起るそのような事態を表しているのです。
このように心を乱してしまっているマルタに主イエスがお語りになった言葉が42節です。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。私たちはこの主イエスの言葉を聞く時、これはマルタには気の毒な、酷な言葉ではないか、と思うのではないでしょうか。マルタは今見てきたように、大人数の主イエスの一行を迎え入れ一生懸命奉仕しているのです。信仰の業、ディアコニア:diakoni,aを頑張ってしているのです。しかし同じ主イエスを信じ従っている筈の妹が手伝ってくれない、自分だけが忙しく立ち働いている、という現実の中で心を乱しているのです。そのマルタに対して、これでは「あなたのしている奉仕は本当に必要なことではない。しなくてもいいことだ。マリアのように私の足もとに座って話に聞き入ることの方が大事だ」と言っていることになる。これでは身も蓋もないではないか、と感じるのです。
しかし、主イエスのこのお言葉はそのように冷たい薄情な言葉ではありません。主イエスはここでマルタに、「あなたのしていることは意味がない」などと言っているのではないのです。マルタは主イエスを迎え入れ、奉仕するという信仰に生きている人です。彼女の奉仕ディアコニアは主イエスに従う者たちにとってとても大事なことなのです。意味がないとか必要ないなどということは絶対にないのです。主イエスがマルタに望んでおられるのは、彼女がそのディアコニアを、心乱れ、喜びを失った中で、人を非難するような思いを抱きながらするのではなくて、本当に喜んで、自発的にしていって欲しい、ということです。そして、そうなるために必要なただ一つのことを主イエスは教えて下さっているのです。それが、マリアのように、主イエスの足もとに座って、そのみ言葉に聞き入ることです。主イエスはどのようなみ言葉を語っておられるのでしょうか。それは、主イエスご自身において、神の国が実現しようとしているということです。神様が、その独り子をこの世に遣わし、その御子イエスによって神の国を実現し、そこに私たちを招いて下さるのです。その神の国の実現のために、主イエスは今エルサレムへと、十字架の苦しみと死へと、そして復活と昇天へと、歩んでおられるのです。神様の独り子である主イエスが、私たちと同じようにこの世を歩み、そして私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、それによって、神の国、神様の恵みのご支配は実現するのです。主イエスを信じ、従っていくとは、この主イエスのもとに集い、その足もとに座って主イエスの語られるみ言葉に、神様の恵みのご支配の到来を告げる福音に聞き入ることです。そしてそのみ言葉を本当に聞いた者は、この直前の10章25節からの「善いサマリア人」の物語で強盗にあった旅人を助けるサマリア人に見倣って、「行って、あなたも同じようにしなさい」という主イエスの励まし、勧めを受けるのです。主イエスの愛の業に倣う奉仕、ディアコニアは、この主イエスの励ましの中でこそなされていきます。主イエスによって実現する神の国を告げるみ言葉に聞き入り、それを本当に受け止めることによってこそ、私たちは本当に喜んで、自発的に、奉仕に生きることができるのです。
この「主イエスのみ言葉に聞き入る」ことを失ってしまうと、私たちの奉仕は自己実現や自己主張のための業になります。教会が奉仕を競い合う人々の集まりと化してしまいます。そこには、自分の奉仕への評価や見返りを求める思いが生じます。そうなったらもはや本当に喜んで奉仕しているとは言えません。そして自分の奉仕を本当に喜んでいないところには、自分はこれだけしているのにあの人はなんだ、と人を非難し審く思いが生じるのです。すべきことは、主イエスの足もとに座ってその恵みのみ言葉に聞き入ることなのです。「必要なことはただ一つだけである」という主イエスのお言葉は、そのことをマルタに、そして私たちに教えています。つまりマルタとマリアのこの姿は、先ほど申しましたように、信仰者のタイプの違いではないし、ある時はマリアに、ある時はマルタに徹する、などというものでもないのです。むしろ、マルタのしている奉仕、ディアコニアが本当に生かされ、喜びをもって自発的になされていくためには、マリアのあり方が必要なのです。主イエスはマルタも愛しておられるのです。それゆえに、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とおっしゃったのです。それはマリアを褒めるための言葉ではなくて、マルタが喜んで奉仕に生きるために本当に必要なことを教えようとされたみ言葉なのです。そして、主イエスの足もとに座ってみ言葉に聞き入っているマリアには、「行って、あなたも同じようにしなさい」という励ましが与えられました。そのようにしてマルタもマリアも共に、主イエスのみ言葉によって養われつつ、自分に与えられている賜物を喜んで自ら献げ、生活の中で具体的に主イエスに仕える者となっていったのです。
お祈りを致します。
<<<祈祷>>>