イエス・キリストの名によって

聖書:詩編1182225節, 使徒言行録3110節,41012

 今年も恵まれてイースターの礼拝を守ることができました。主イエスのお墓はからっぽだった。このことによって弟子たちは、自分たちの罪が赦されたことを信じたのでした。それだけではありません。主イエスの復活という奇跡は、神が、差し出しておられる救いへの招きであります。主イエスの復活を信じるなら、その人の罪を赦されると、信じたのでした。私たちは礼拝の中で、世界中の教会が代々信じて来た信仰とは何かを学んでいます。それは古代教会から今に至るまで教会が受け継いで来た信仰告白で、それに基づいて明治時代に制定された日本基督教会信仰告白があり、また日本基督教団信仰告白も制定されております。

わたしたちの教会は洗礼式の際には日本基督教団信仰告白を告白しますが、1954年に制定された教団信仰告白の元になっているものが日本基督教会信仰告白なので、元々連合長老会に所属している教会では、この信仰告白を合わせて告白しているところもあります。

わたしたちが今取り上げて学んでいるのは、使徒信条です。本日は、「我らの主イエス・キリストを信ず」と告白している、このところであります。この言葉は、教会の中ではイエスが名前でキリストが名字だと思っている方はいないと思いますが、世の中ではそういう誤解もあるそうです。

これは、イエス様は救い主キリストであると、私たちは信じ、主と崇めます、という意味であります。世の中にはたくさんの宗教があり、たくさんの神々と称するものがありますが、そのことを受け入れているのではありません。他の人々はどうであろうとも、私たちはイエス様こそ、救い主。私たちを救う御力のあるただお一人の方、神であると告白しているのです。今日の聖書はよく知られた神殿の前で起こった奇跡物語です。

この神殿を立てたのはヘロデ大王。マタイ福音書の2章に登場する異邦人の支配者であります。彼は壮大な神殿を建てましたが、その入り口の一つに「美しい門」という名の場所がありました。大層豪華で美しい装飾で飾られた門は当時の人々の目を奪ったことでしょう。ところがその入り口には一人の乞食が座っていました。境内に入る人々に施しを求めて生活をしていたのでしょう。美しい門とみすぼらしい乞食。それは全く不釣合と思うかもしれませんが、実はそうではないのです。神殿が豪華であろうと質素であろうと、ユダヤの人々には神殿に来る目的は別にありました。

それは言うまでもなく、神を礼拝することです。では、復活の主にお会いし、主イエスはキリストであると信じた人々はどうしたでしょう。彼らもユダヤ人でした。主イエスを十字架に付けたのもユダヤ人。主イエスの復活を信じ、罪の赦しを信じた最初の弟子たちもユダヤ人でありました。では弟子たちは、主イエスを十字架に付けた憎き人々の指導する、仕える神殿には行かなくなったのか、と言えば、決してそうではありませんでした。彼らは家に集まって主を賛美し、パンを裂き、主の制定された聖餐を守ったことでしょう。しかし、彼らがこれまでしていたことを止めませんでした。それは毎日2回か3回、神殿に出かけて行ってこれまで通り、礼拝を守ることでした。

そういうわけで、ペトロとヨハネは神殿の美しの門を入ろうとしました。すると物乞いをしている人が目に留まりました。この人の方は、毎日大勢の人々が出入りするので、一人一人を見上げたりしなかったでしょう。ただ下を向いてお願いして居れば、中にはお金を落とす人がいる。それで良かったのです。彼はそれ以上、だれにも何も期待してはいなかったでしょう。

ところが、ペトロとヨハネは彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言いました。その人はびっくりしたでしょう。でも彼は自分が人に期待していること以外のことは考えませんでした。期待していること。それは、何かもらえることです。ところが彼の期待は裏切られました。しかし、彼の期待を全く打ち破ることが起こったのです。ペトロは言います。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」と。弟子たちの持っているもの。それは主イエスのお名前でした。イエス・キリストへの信仰でした。

金銀を持っている人々は、そうだれにでも分けて上げたいとは思わないものです。分けたらなくなってしまうと心配します。どこかに隠してでも取って置こうとします。食べ物でも沢山あったら、みんなに分けてしまわないで、何とか保存食にして取って置こうとするでしょう。ところが本当に良いものを持っている人は分け与えずにはいられない。本当に良いもの。それは、人に分けても無くならないのです。むしろますます豊かになります。それは何でしょうか。それがイエス・キリストの福音です。ペトロが持っているものは、しまいこんでおくことができないもの・・・それは福音です。福音は人から人へと伝えられてこそ福音である。福音は人々に伝えてこそ、その本当の意味、本当の力が現れるのです。

ペトロは彼が持っている福音を言葉によって、この人に伝えました。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命令したのです。この命令は、決してペトロ自身の力や権威によって命じたのではありません。彼は、ナザレの人であり、私たちの救い主である主イエスの名を呼んで、その名を信じて、その名によって命じたのでした。言葉は力となり、結果を生み出します。それだからこそ、主イエスの力と権威は、命じられた人の上に現れることとなったのです。そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出しました。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行ったのです。

こうして、乞食の期待は全く裏切られました。彼はただいくらかの施しを求めただけだったのですが、思いがけないもの、立ち上がって、歩く力を与えられるという、全く信じられないほどの主の恵みに与ることになりました。「立ち上がる」というギリシャ語は、座っている状態から立ち上がるという意味ばかりではありません。人が眠っている状態から「起き上がる」、あるいは死んでいる状態から」「甦る」という意味をも表します。また「歩く」というギリシャ語は、「生活する」、「生きて行く」という意味でもあります。

エフェソの信徒への手紙5章14節(358ページ)に次のように言われます。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」キリストの御名によって、私たちは死者の中からキリストと共に復活したのです。これからもキリストに照らされて恵みの道を歩みましょう。

何年も前から「美しい門」にいるこの足の不自由な乞食は人々に知られていました。人々が驚き怪しむ中で、彼は今やすべての参拝者の中で、一番喜びにあふれた人となったことでしょう。こうして、この出来事は証言したのです。救い主イエスの御名が真に権威あるものであることを、だれの目にも明らかなように証言するものとなりました。

福音を聞いた人々の一方は、他方に向かって呼びかけます。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。すると呼びかけられた人は立ち上がり、歩き回ったり、躍ったりして神を賛美するのです。素晴らしいことではないでしょうか。主イエスの名によって立ち上がる。そして神を賛美する。そのために私たちは教会に集まるのです。さて、私たちは今喜んで神様を賛美しているでしょうか。イエス・キリストの救いを自分だけのものにしておくことができずに、他の人に呼びかけずにはいられない人でしょうか。神の不思議な業としるしとは、このような人々の間に現れるでしょう。どちらも主イエスの御名の権威を証ししているからです。そしてこのような私たちが教会の門の内側に入って主イエスの名によって教会を建てることができるのです。

しかし、私たちはしばしば福音を忘れてしまう者ではないでしょうか。門の前に座りながら、入って行くことを忘れてしまっている。神様に溢れる恵みをいただきながら、感謝と賛美と祈りのために教会に集まることを忘れてしまう。神様の恵みを忘れてしまう恩知らずの罪深い者である私たち。しかし、だからこそ、福音はいつも繰り返し聞かなければならないのです。主イエスの名によって語られる罪の赦しの言葉を新たに聞いて立ち上がって行かなければならないのです。

小さなたとえ話をしましょう。これは古代教会の神学者が語ったものではないかと思いますが、今は覚えていません。世界という名の一人の乞食がいました。その名は「世界」というのです。彼が天の国の門の前に横たわっている。それを神さまは見ました。ところで、神様にはご自分の中に隠してしまっておくことのできないものがありました。それは御自分の命と愛でありました。世界という名の乞食はただ施しと冷たい飲みものを求めました。しかし、神さまは御自分の愛する御子を彼にお与えになりました。御子は人が従うべき真の人、人が求めるべき命でありました。御子は世界の萎えた身体の内に住んでくださいました。そして、世界が再び歩き、飛び跳ね、賛美できるようにして下さいました。それは、イエス・キリストの物語であります

ところで、イエス・キリストの名によって癒された人のことでペトロたちは非難中傷されました。しかしこのような迫害も、神様はキリストの名を高めるためにお用いになってくださることが分かります。ペトロは公の場で宣言する機会を与えられたからです。4章10節。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」ペトロはさらに詩編118編を根拠として、人間の罪、特に人の上に立って人々を導いている指導者の罪を告発しました。

「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。」ペトロは人間の罪と神の恵みを恐ろしいまでに対比させています。「あなたがたはイエス様を殺したのだ。しかし、神さまはその方を復活させられたのだ」と。すなわち、人間が価値のないものとして軽蔑して捨てた方を、神さまが用いられるということが起こりました。隅の親石とは、建物が建てられる時の、最も端にある土台の石のことであります。隅というのは、大変不思議な二つの特徴があります。まず、建物の隅といえば、目立たない場所ですが、逆に建物の外から隅を見ると、いろいろな方向からよく目立ち、建物の根幹を支える要の石がそこに置かれているのです。

では主が隅の親石となって下さる目的は何でしょうか。それは、わたしたちがキリストを信じて、キリストの体の教会に組み込まれ、教会の生ける石となるためである。「私たちを救うことができるのは、イエス・キリストの御名によるしかない」という宣言を私たちは聞きました。代々の教会はこのお名前を信じ、告白しているのです。私たちはこのような確信をもって、信頼を以って、日々、主を見上げているでしょうか。この告白において、ペトロや使徒たちと同じ立場に立っているでしょうか。そうでないか、ここが私たちの決定的な違いとなる。この告白によってのみ、私たちはイエス・キリストの教会を建てることができる。

 

主なる父なる神様

皆をほめたたえます。先週はイースター聖餐礼拝を豊かに守ることができ、感謝でございます。私たちは新しい姉妹を教会に迎えることができました。どうかあなたの祝福に満ちた教会を建てるために、互いに主の御旨を行い、ご栄光を表す教会となりますように。教会総会をまじかに控え、様々な問題を解決していくことができますように。多くの兄弟姉妹が高齢のため、奉仕を続けることが困難です。若い方々も非常に忙しく困難を極めていますが、どうか助け合って礼拝を守り、奉仕を捧げ、あなたのご栄光と御心とを表す教会となりますように。総会の準備を祝し、また導いてください。長老選挙の上にあなたの恵みの導きを祈ります。長老、信徒の皆様のご健康をお支えください。教会学校はじめ、若い方々の信仰の教育が発展し、良い実を結ぶ教会となりますように。教会学校に与えられている生徒さんとご家族がイエス・キリストの福音を豊かに聞くことができますように。

東日本連合長老会に加盟して5年になります。この間のお導きを心から感謝します。長老会もますます忙しくなりますですが、どうか長老ばかりでなくすべての教会の奉仕者が恵まれ、支えられますように。御言葉によって良い学びが出来、共に教会を建てて行くことができますようにお助け下さい。

今、お病気が重く、お見舞いもできない方がおられます。どうぞ、また共に集い、主の御顔を仰ぎ賛美を捧げることができますように、ご回復を切に祈ります。また特にご高齢の方々の日を平安で満たしてください。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

天地の造り主を信じる

聖書:詩編95篇1-7節, 使徒言行録17章22-27節

 わたしたちは今日も礼拝を捧げる中で、使徒信条を告白しました。使徒信条はわたしたち一人一人の口によって唱えられますが、決してバラバラにではなく、思い思いの言葉によってでもなく、異口同音に唱えられるのであります。そして今、全国全世界の多くの教会が使徒信条を告白して礼拝を捧げている訳ですが、それも決して今に始まったことではなく、代々の教会が行って来たことなのです。そう考えるだけでも、同じ信仰告白を同時代に世界中で告白し、また時代を越えて、千年、千五百年と告白することの重大さを思わずはいられません。それは時を越え、所を越えて神に捧げられ続けている告白であります。「神さま、あなたはこういう方であると信じます」と告白することは、そのまま神への賛美となるのです。

そこで、今日は、使徒信条の最初の言葉、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」のうち、「天地の造り主を信じる」とは、どういうことなのかを学ぶために、使徒言行録17章を読んでいただきました。聖書のこの場面は使徒パウロがアテネで行った伝道について伝えています。アテネはギリシャ文明の栄えた中心都市で、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなど、古代から哲学、数学、化学などの学者が多数輩出し、学問が非常に栄えた所です。

パウロが当時のアテネに行ってみると、そこに夥しい数の神々の像があることを発見しました。つまり人々はいろいろなものを神として礼拝していたわけです。その一方で、どれが本当の神なのだろうか、と考えてはいないのでした。神々というギリシャ語は聖書では悪魔と同じ、ダイモニオンと言葉なのです。日本ではディーモン小暮という芸名のタレントさんがいますが、要するにディーモンの元の言葉です。そしてアテネの人々はディーモンをそれほど悪いものと思っていませんでした。アテネ人の神々は、いと高きところにいます神のような存在と、人間との間に立っているもの、時には守護神のように考えられる存在だったようです。

人々はそのような神々を幾つも考え出し、空想の限りを尽くして、それらを像として形造り、安置して犠牲をささげました。神々には人間のあこがれ、また願望、また時には恐れが表現されていました。たとえば、美の女神、音楽、知恵から、お酒の神、戦争のなどをつかさどる神々です。そんなに沢山作っても彼らは不安であったのでしょう。「知られざる神」へという祭壇も作っていました。パウロはこの祭壇を見て、これを伝道のきっかけにしようと考えました。

なぜなら、パウロには分かったことがあったからです。アテネの人々はこんなにたくさんの偶像があるのに、まだ知らない神があると思っているのはなぜだろう。彼らは偶像を造って満足するのだが、それでも足りない不安感があるからだ。不安。それは神々を怖いと思う不安です。拝まないと祟られるのではないか。それは大きな恐れ、恐怖心となって彼らを支配しているのではないか。なぜだろうか。それは彼らが、本当の神がどのようなお方か知らないからだ、とパウロは思いました。このように、新約聖書のアテネの人々の様子を見ますと、その姿は意外なほど現代日本の人々と共通するものが見えるのではないでしょうか。

それは、たくさんの偶像に囲まれて生きていることです。お金が沢山ほしいと人々は思います。しかし実際はあればあったで、安心より心配も増えるかもしれませんが。同じように神々も沢山あれば、安心という訳には全く参りません。その神々、ディーモンの性質が分からない。だから、ディーモンが自分をどう思っているのかも分からない。従っていつ祟られるかも分からない、ということになります。あちらも拝んで、こちらも拝んで祟られないようにお付き合いしている。しかし、それで満足、安心という訳には全く行かないのであります。

そこで、パウロはアテネの人々を前にして、あなたがたは信仰のあつい人々だと思う、と話を切り出しました。この「信仰のあつい」という言葉もまた、ダイモニオンという語から成り立っています。その意味は、「神々を恐れる」ということですが、悪い意味では「迷信などを信じやすい」ということなのです。アテネに集まる知識人は自分たちの教養を大変誇りに思っていながら、その一方では、迷信にも惑わされビクビクしていたのでしょう。

パウロはその人々にはっきりと申します。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしは知らせましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」すなわち、目に見えるものも見えないものもすべては、真の神さまによって造られました。ですから私たちは、そのすべてのものが神さまのものだということを信じるようにと、招かれたのです。

神を自分の考えで形作って拝んでも、空しく、心満たされないのです。神とはどなたかを知らなければなりません。わたしたちは天地を造られたただお一人の神を信じましょう、とパウロは呼びかけました。この方は人の造った神殿に閉じ込めることは決してできません。また、人の造った服を着せてもらったり、食べ物を食べさせてもらうために、人々にお世話される必要もありません。すべてのものが神さまのものですから。それどころか、すべての人は神さまによって命を与えられ、生きるために必要なすべてを与えられているのです。

この方を礼拝するためにはどうしたらよいのでしょうか。祟られないように、何かを捧げるというのは、神さまを恐れてはいても、信頼してはいないことになるのではないでしょうか。すべてを造りすべてを与え、すべてを守り導いておられる神を、信頼することこそ、正しい礼拝の第一歩です。神はなぜ人を造られたのか。その答は詩編102篇に歌われています。102篇19節。「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された。』」939

このように恵み深い神さまを知らない、そして知ろうとも思わないために、この上なく恵み深い方が、全く正反対に思われる。この上なくケチで、気まぐれで、冷酷だ、と思ってしまう人々が何と多いことでしょうか。自分を頼って生きて行くしかない。あるいは人を信じて助けを求めるしかない。しかし、神さまの代わりになる自分はいるでしょうか。神さまの代わりになるような他人はいるでしょうか。一晩に同じ人に数百回メールを送ったとか、送られたとかいう話があります。あれをして、これをして、とひっきりなしに電話をくれる人がいます。神ならぬ人間を神のように頼れば、人間関係を破壊することになります。神を信頼しない人々の関係は、闇の中で手探りするようなものです。手の届くものは何であろうとしがみつく。その結果は、神でないものに支配されることになるのです。真の神さまを信頼できないほど不幸なことは在りません。

パウロは恵み深い一人の神を信頼しなさい、と呼びかけています。26節。「神は、一人の人からすべての民族を作り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。」唯一の神さまによってすべてのものが造られた、という信仰は、更に唯一の神がお造りになった一人の人からすべての民族が分かれたことを信じることでもあります。どんなに多くの民族があり、国家があり、思想信条が異なっていても、私たちが唯一の神さまによって造られたと信じる限り、人は人をないがしろにすることはできません。天地の造り主を信じるということは、他民族や他宗教に対する憎しみや無関心から、解放されることを意味します。

天地創造の初めに、すべてのものがひとつの血から造り出されたと信じることは、私たちがどこに生まれようともどこに住もうとも、常に唯一の創造者、すべての人の父である神さましかおいでにならないと信じることです。だから、この方、真の神こそ、すべての人が満場一致で求められなければならないのです。神がアブラハムを呼び出して、わたしに従って来なさいと命じられた時のことを、私たちは繰り返し思い出します。創世記12章2-3節。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と神はアブラハムに言われました。(旧約15頁)

このことは、神がアブラハムの子孫の中から、救い主をお立てになられたことで実現したのであります。しかし、パウロは神を知らないアテネの人々、そしておそらく聖書も読んだことのなかったアテネの人々に対しては、何よりもまず、神が人を創造された目的を強調して教えます。今日の27節。「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが捜し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」すべての民族、すべての造られたものが等しく神を捜し求め、追い求めることにこそ、造り主の目的があります。この方がどんなに恵み深い方、憐れみ深い方であることか。それは、罪のために全く神さまから離れ去って暗やみを手探りするように歩いているすべての人々を、救い出し、再び救いの光に招こうとする恵み深さなのです。神はそのために愛する御子を救い主としてお遣わしになりました。

この恵み深い神をほめたたえる歌を、今日は詩編の95篇に教えられました。この心、この褒め称えの歌こそ、真の神を礼拝する第一歩なのです。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神様

本日の聖餐礼拝に招かれましたことを感謝します。御言葉によってあなたの恵み深さを知り、心を込めて御名をほめたたえます。私たちは、ただあなたの恵みによって救われました。イエス・キリストの執り成しによってあなたを信じ、あなたに罪赦され、あなたに従って平和の道を歩むことが許され、真に感謝申し上げます。どうか、この信仰の弱い者を励まし、聖霊によって強めて、今週の歩みをお導きください。たくさんの日々の困難が私たち自身にも、家族にも、友人、社会にも起こっておりますが、どうかわたしたちが主の御体に結ばれ、主から良いものすべてをいただき、また私たちから悪いものをすべて取り去っていただきますように。教会の主と結ばれて、時が良くても悪くても、福音の使者にふさわしい教会を建ててください。

成宗教会の礼拝に出席することが出来ないでいる方々にも、豊かな顧みを日々注いでください。あなたの助けによって、常に主の体の肢としてご栄光を表す者となりますように、私たちのすべてを顧みてください。連合長老会の交わりを感謝します。東日本の諸教会も少子化高齢化の中にあって、取り組むべき課題を多く与えられています。共に学び共に助け合って教会を建てて行くことが出来ますように。

来週は講壇交換の礼拝が行われます。どうか御言葉を心新たに伺い、互いに多くの励ましをいただきますよう、聖霊の神様、二つの教会を祝し、仕える長老会、教会員の方々を励ましてください。恵みの聖餐に与ります。わたしたちの救いのために差し出された犠牲を覚え、真心から感謝して受けることが出来ますように。また、福音の招きに答え、主イエス・キリストを告白する人々が教会に与えられますように。主よ、どうか日本の救いのために、世界の救いのために、それぞれの地域の教会を顧みてください。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

教会が受け継いで来た信仰

聖書:詩編33篇4-19節, コロサイの信徒への手紙1章15-20節

 今、多くの人が、買い物はネット通販を利用しています。忙しい人々も、時間はあるけれども買い物に出ることが難しい人も、ネット通販で物を手に入れることが出来ます。しかし、それで問題になっていることがあります。一つは今までのような商店街が成り立たなくなって行くこと。もう一つは配達業者が忙しすぎて苛酷な労働を強いられることです。

これは物流の話ですが、では心の問題はどうなのでしょうか。教会まで一人一人が足を運ぶ。みんなで集まって礼拝する。自分の声を出し、皆と合わせて、祈り、讃美する。自分の耳を傾けて聖書の言葉を聞き、その説き明かしを聞く。本当にわたしたちは当たり前だと思ってこれらのことをして参りました。

歴史的に見ても、戦争や、疫病や、政治的迫害、弾圧を別にすれば、そのようにして全身全霊を上げて、具体的に動かして礼拝するために教会に集う。それが当たり前のことだったのです。そして、共に集まることは、大きな喜びでありました。しかし、今ネット通販と同じようなことが起こっているのではないかと思います。本当に働いている人々は多忙を究めています。日曜日の、決まった時間に休みを取ることが難しい時代になりました。

また休みと言っても、文字通り倒れて寝ているだけ。そうしないと疲れが回復しないということもあるのでしょう。まだまだ他にも原因があるのだと思いますが、分かりません。

それに対して、これまで喜んで共に神様の前に出ていた人々が出来なくなる、その理由は大変良く分かるものです。とにかく高齢世代になると、病気やケガ、その他の支障が起こるからです。それで、礼拝に出かけることが困難になるのです。物を手に入れるためには、ネット通販がある。注文すれば、届けてもらうことが出来る。衣食住の問題はそれで何とかなるのでしょうが、しかし、私たちの命の糧の問題はどうなるのでしょうか。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」とは、旧約聖書申命記8章3節の言葉です。また、主イエスも、悪魔の誘惑に遭われたとき、この聖書の言葉によって戦ったのでした。

私たちが試練に遭うことについても、主はそれを通して命のパンに飢えることについて私たちに考えさせたいと思われているのでないでしょうか。すなわち、肉の糧を得る物流(それはもちろん大切なのですが)、それにもまして大切なもの、命の糧を得るためにはどうしたらよいか、考えなければならないのではないでしょうか。私がこの教会に参りました時に、最も努力したことの一つは、このことでした。すなわち、教会に来られない状況になっている方々に、どうしたら教会をお届けするか、ということでした。教会を届ける、と申しましたが、一体何をどうしたらよいのか、私には分からないまま、暗中模索の日々でした。ただ、聖霊の助けによって、一つだけが分かったことがあります。それは、教会に来られなくなった高齢の方、病気の方は、私が「教会から来ましたよ」と声を掛けると、嬉しそうに相好を崩されたことでした。

その時、私は使徒信条の告白を思いました。「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の甦り、永遠の命を信ず。」そうだ、私たちは教会を信じているのだと。そして私たちは、教会が受け継いで来た信仰を信じているのです。成宗教会は毎週、使徒信条を礼拝で告白しております。これは、プロテスタント教会とそれを生み出したローマカトリック教会でも告白されて来ました。このような信仰の内容は長い歴史の中で整えられてきたものです。私たちが今日取り上げましたコロサイ人への手紙の中に、使徒信条の信仰の内容の一部が語られています。

読んでみると一見、とても難しいことをバーンと言われたような印象です。しかし、神について、信仰について考えること、そして「私たちはこう信じます」と告白することは、実は大きな、そして真剣な戦いの中から生まれて来たのです。そして、私たち自身もいつ倒れるかもしれない、いつ礼拝を守れなくなるかもしれない、という危機感の中で、このことを考えることの大切さを発見するわけです。なぜなら、教会とは何か。神とはどなたか、という問いの答を見い出さないでは、私たちの救いはどこにあるのだろうか?ということになってしまうからです。

コロサイ人への手紙は使徒パウロによって書かれました。この教会があった場所はフリギアという地方で、今のトルコの内陸です。コロサイの町はラオデキア、ヒエラポリスというこの地方都市と共に、ローマ皇帝ネロの時代に襲った地震のために破壊されたということが5世紀の歴史家によって伝えられています。つまり、パウロがこの手紙を書いてから何年も経たないうちに大災害が起こったことになります。その頃、パウロが手紙を書いてコロサイ人を教えようとした背景には、災害とは別の大変大きな危機感があったのだと思われます。この地方には人々を伝えられていた福音から外れさせようとする力が働いていました。しかし、それは何も暴力的な力ではないのです。

私たちは「暴力でなければ大丈夫だ、平和だ」と思ってしまいがちですが、実は人を唆し、救いから遠ざけるものは、暴力とは限りません。それは、主イエスが福音を宣べ伝える前に荒れ野に行かれ、そこで受けたサタンの誘惑を考えても納得するでしょう。(マタイ、ルカ、共に4章)コロサイ教会の人々を逸脱させようとしたものは、哲学者たちが論じる星、運命、その他さまざまの空想でした。また、そういう興味を引く話の一方、教会にいるユダヤ人たちは儀式的なことにこだわりました。ああでなければならない、こうでなければならないという主張が、次第に律法主義的になって行ったのです。その上、この時代盛んに論じられていたのは、何と天使の階級論でありました。見たこともない天使についてあらゆる空想を加えた結果、その人々は天使をランク付けし、天使を神と人との仲介者として立てて、天使によって神の御前に近づこうと企てたのです。

それに対してパウロは真っ向から否定します。彼の主張は、あらゆるものはキリストに在り、コロサイ人にとってはキリストのみで十分であり、それどころか十分以上であるべきだということでした。まず15節。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」とパウロは述べます。これは、ヨハネによる福音書の主張でもあります。ヨハネ1:18「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(163下)すなわち、神が我々にご自分を表されたのは、ただ、キリストによってのみなのだとパウロは言いました。

また、15節では、神の姿と言われていますが、それでは、神がキリストの人間としての姿をもっておられるということではありません。キリストのお姿は、あくまでも私たち人間、限りある人間の目に認識できるように現れてくださったお姿なのです。つまり、私たちが理解できるように、そうして下さったということなのです。そして神が私たちにご自分を表されたのは、ただキリストによってのみであったのですから、その他の姿形によって神を求めることがあってはならないのです。もし、キリストを抜きにして、神を表そうとするものがあるとしたら、それはすべて偶像に他ならないでしょう。

また、キリストは「すべてのものが造られる前に生まれた方」と主張されています。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。万物は神の言葉によって造られたのですから。キリストはまた、死人の中から最初に生まれた者と呼ばれています。なぜなら、私たちもキリストによってのみ、復活の希望があるからです。すべての被造物はキリストによって造られたということは、キリストが万物の基礎であるということですから。

「天にあるものも地にある者も、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」天は、神の居ますところを表しますが、また天使の存在するところをも表します。人々は天使の階級という複雑な空想を造り上げ、人間と神との間の仲介者と考えようとしました。その考え方は結果的にキリストの権威を弱めることになったのです。これに対して、パウロは、天使は体を持たないが、被造物であり、天使の持つ主権も支配も権威も含めて、すべてのものが御子において造られた、と主張しました。

天使がキリストによって造られたその目的は、キリストに仕えるためであります。キリストは天使をその力によって支えておられるのだと。

次にパウロはキリストと教会との関係を教えています。「また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めのもの、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一のものとなられたのです。」キリストは、人間の体に対して頭に例えられています。なぜなら、人間の体において、頭は、そこから生命力が他のあらゆる部分に流れる司令塔ですから。それと同じように、教会の生命はキリストから生じるからです。しかし、ここでは、主として支配について語っています。キリストは教会を支配する権威を持った唯一の存在です。そうであるならば、信徒はキリストにのみ注意を払わなければならないのは当然ではないでしょうか。なぜなら、キリストはこの栄誉を受けておられる通りに、その職務を真実に遂行なさる方に他ならないからです。

キリストは創造の初めに神と共におられた方であり、甦ることによって神の国を始められたので、初めのものと呼ばれます。私たちは、キリストと共に十字架に死んで、キリストの死と結ばれたように、キリストの命に結ばれて再び生きるものとされる約束をいただきました。そして、新しい命の希望に生き始めているのです。キリストは「復活の初穂」(Ⅰコリント15:20)と呼ばれています。その結果キリストは、御自分の体である教会にも生命を取り戻してくださったのです。19-20節。

「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」「満ちあふれるもの」とは、「あらゆる完全」と訳されることが出来ます。父の御心は、あらゆる完全がキリストに宿ることであったからです。キリストの完全とは何でしょうか。宗教改革者は述べています。それは、「全き義、知恵、力、あらゆる種類の恵みである」と。では、私たちの救いのために何が必要でしょうか。私たちは真剣に考え、真剣に願わなければなりません。そして、私たちが望むすべての善きことを、キリストの完全から引き出さなければならないでしょう。

言い換えれば、「キリストは私たちにとってすべてである。キリストなしには、私たちは何も持たない」ということですこれが私たちが代々の教会から受け継いで来た信仰です。だから、反対のことを考えてみるならば、神から離れること以上に、悲惨なことは在りません。また私たちは、この称賛をキリスト以外の人間に移すことはできない。ましてや、人を神に近づける仲裁者として天使などを考えることも、救いから遠ざかる悲惨につながるのです。

キリストの血は十字架において流されました。それは、私たちと神との和解のしるしです。私たちが神に義しい者とされるために、御子は償いの生贄となり、罪の罰に耐えなければならなかったからです。私たちは平和な時代を生きている間も、教会が受け継いで来た信仰を告白し、礼拝に連なることが出来ました。パウロが大きな危機感を持って書いた手紙、その中に記されたキリストをほめたたえる信仰は、今日にまで続いているのです。この手紙を受け取ったコロサイ人の町はまもなく破壊されました。人々は悲惨な時代を生き抜いたでしょうか。生き抜いた信仰者がいたからこそ、この手紙が残され、聖書正典の中に入れられたのではないでしょうか。

私たちも困難な時代を生きなければなりません。ただいつの時代の教会にも目標があります。時が良くても悪くても、福音を宣べ伝え、福音を生きることです。それは、「礼拝を守れなくなる時まで」ではありません。むしろ、礼拝を守れなくなっている人々の信仰生活のために祈り合うことこそ目標です。祈りによってキリストにを通して神と交わり、祈りによってキリストに通して人々と交わり、これを地上にある限り続けることです。なぜなら、この私たちのために主は地上にいらして労苦の限りを尽くされ、私たちを教会に呼び集めてくださいました。私たちはその愛を思い起こしているからです。だからこそ、キリストの完全の中に、私たちはすべてを期待しましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神様

御名をほめたたえます。使徒信条の中に表された教会の信仰を感謝します。私たちはあなたの御心を知らないままに唱えていることが多いのですが、改めてキリストによって示されたあなたの計り知れない御心を思うことが出来ました。どうか愚かなもの、貧しいものの罪を赦し、ただキリストのみを救い主と信じる信仰の計り知れない恵みを悟らせてください。教会に来られなくなった方々を訪ねて互いに喜んだ過去の交わりを今、思い起こします。今、私たちの多くが年を取りましたが、どうかこの恵みのうちに歩むために、あなたの豊かな知恵と力をお与え下さい。

また、若い人々のためにも祈ります。激しく変化する社会にあって、昔の知恵の思い及ばない世界を生きて苦闘している

人々のために、どうかあなたが必要なすべてを備えてくださいますように。一切をあなたに委ねて、教会が祈りをもって世に送り出すことが出来ますように。また高齢の世代にもなすべきことが沢山あることを教えてください。御言葉をもって、知恵をもって励ますために、聖霊の神様、弱い者にも、病気の者にも勇気と愛とを増し加えてください。私たちが御国へと続く道を指し示す者でありますように。

この感謝と願いとを、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。