主を待ち望め

聖書:詩編13018節, ローマの信徒への手紙3920

 週報にも報告しました通り、成宗教会は私の後任の教師を招聘するべく準備を進めております。ひと昔前の時代には、倒れるまで頑張ってあとはよろしくというのが牧師の務めのように考える傾向もあったかもしれません。しかし、辞任を表明する牧師は、単に辞めて行けば良いのではない。後任を迎えるために長老会と共に最大限の努力を傾ける。これが教会の主に対する私の最後にして最大の務めである。このことを今、私は長老会と共に主から示されているところであります。

さて、そういうわけで、次年度に続く仕事の一つはキリスト教主義の学校とのつながりでありますから、来年も成宗教会の教会学校が覚えられるようにと、先週も明治学院東村山校のキリスト教教育懇談会に参加して参りました。高校三年生の方々が教会やキリスト教について、それぞれの持つイメージや考えを発表していました。大変印象的だったことは、受洗を決心したきっかけが、いろいろなキャンプへの参加であったことです。とても楽しく心を打ち明けて話が出来た。その後も楽しい交流が続いているなど、発表者のほとんどが同様の体験を語っていました。

同年代の生徒が、若者が、一緒にいるとそれだけで楽しいという経験。これは、わたしの年代だと小中学校で普通にあったことなのに、今はそうではないらしい。楽しくない集団がむしろ当たり前になっているのかもしれないと思いました。それが現実だとすれば、イエスさまを教える主催者が開くキャンプは、彼らにとって本当に珍しい喜びの体験だったのは当然だと思いました。

その反対の例ですが、勤労感謝の祝日にわたしが教会の前を掃除しようと出て見ると、何と不審な人々が5,6人も前の道路に立っていました。と言っても集団で来たのではありません。ほとんど並んでスマホを見ながら立っていますが、恐らくポケモンを探しているのだろう、と想像できなかったら、私にはただ気味の悪い人々としか感じられないでしょう。一緒に人々がいる、ということだけで、うれしい、楽しいということには決してならないのです。

わたしたちは、この夏から 十戒 についてみ言葉を学んで参りました。人々が一緒に喜んで生きるためのルール、それが十戒であるとも言えるのであります。これは、神さまから与えられました。人々が一緒に喜んで生きるためのルールなら、人が決めれば良いのではないか、と思うかもしれませんが、理屈はそうでも、それはできなかったのです。なぜなら、次のように書いてあるとおりです。ローマの信徒への手紙3章10節~11節。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」人々が一緒にいて喜んで生きられるというためには、何よりも人々を一人残らずお造りになった神さまを信頼することが前提となります。ところが、神さまを信じ、神さまを頼りにする人がいないという。皆、罪人だというのです。

12~18節。「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦みで満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」

わたしたちには律法が与えられているのですが、それでは、これらの律法、戒めをすべて守ることができるでしょうか。その問には、今日読んでいただいたローマの信徒への手紙が答えています。わたしたちはたとえ見た目には正しいことをしているように見えるとしても、心の中では十戒をすべて守ってはいないのです。密かに人を呪い、姦淫の罪を犯し、人のものが絶えず羨ましく、自分のものにしたいと思い、また嘘をついてします。そしてそういう罪が大きい人ほど、ますます自分の罪には気がつかないということが起こります。それは自分で自分をだまし、ごまかし、欺いているからで、ここに人間の罪の深刻さがあります。

神さまは罪人であるわたしたちに、ある時は苦難に遭わせます。わたしたちはしばしば、苦しんでいる人々に対して同情しない。それどころか、神に見捨てられているのだと突き放すことさえあるのではないでしょうか。その反対に、自分が苦しみに遭う時には、神さまに見捨てられたように感じてしまうでしょう。どちらにしても、わたしたちの考えは、神さまのお考えとは全く違うのです。そのように、わたしたちは皆、神さまから心が離れてしまう罪人です。しかし、旧約聖書詩編130篇で詩人は叫びます。礼拝の場、エルサレムを目指して、神さまに叫び求めるのです。しかしそれは、自分が正しい者だから、神さまに祈り求める資格がある者だから叫ぶのではありません。

そうではなく、詩人は深い淵の中にいる者として、耐え難い試練に打ち沈んでいる者として、しかしながら、神さまに叫ぶのです。自分は間違っていない、自分は悪くない、と主張しているのではありません。神さまがわたしたちの間違い、罪、いろいろすべて数え上げなさるならば、主よ、誰が耐えられるでしょう。「だれもあなたからお咎めを受けないで済む者はいません」と、自分の罪を認めざるを得ないのです。一つ一つ罪を裁かれたら、その罰は死刑が100回どころか1000回も死ななければならないでしょう。

しかし、それでは詩人はなぜ叫ぶのでしょうか。なぜか、が分かる人は真に幸いです。なぜなら、それこそが神さまが罪人に求めておられることだからです。だからこそ、神さまはわたしたちに試練をお与えになるのではないでしょうか。「悩みを与えられ、懲らしめを受けて、ついに神さまに向かって叫び求める者になりなさい」と。詩人は自分が神さまの御手によって懲らしめられるのは、当然であることを認めながらも、勇気を出し、立ち上がって神さまに救いを求めます。そればかりか、すべての信仰者に向かって、神さまに確かな望みを抱くように勧めるのです。「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに」と。なぜなら、神さまはとこしえにご自分の民を救う方、贖う方でありますから。神さまは人々を死から救い出す手立てを、その御手の内に常に備えておられると確信しているからです。

世の人々は、神の存在も認めず、従って神を恐れない傲慢な人々が多いのですが、それでも、神がおられると信じる人々は、神は厳しく裁く方であると考える人々も少なくないと思います。しかし、聖書の信仰は、わたしたちにご自分を顕される神さまは、罪人を憐れみ、悔い改める者を救いに招こうとなさる方である、ということなのです。わたしたちに起こるあらゆる困難、試練、災いも幸いも、すべて、わたしたちを悔い改めに導こうとなさる神さまのご配慮であります。そのことを信じて常に神さまの恵みの招きに立ち帰るなら、わたしたちは、困難の中にあっても本当に幸いな者とされるでしょう。

旧約の詩人が待ち望み、人々に力強く教え励ました救いを求める祈りは、イエス・キリストによって実現しました。旧約の民に与えられた二枚の板に記された十戒。この戒めはローマ3章20節の言葉の中に目的を達成したのです。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」つまりだれも律法を自分の力で実行することができなかったということなのです。しかし、神さまは御自分の独り子イエスさまを世に送ってくださいました。そしてイエスさまだけが、律法の心を実現なさったのでした。律法の心、それは、イエスさまが人々に教えられたみ言葉です。マタイ22章37-39節。「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」44頁。

そしてイエスさまは人々に教えられた戒めを、御自身において実行され、神を愛し、そのみ心を行われました。そして、隣人を愛し、最後まで愛し抜いて下さったのです。すなわち、わたしたちの罪の身代わりとして十字架に掛かられ、わたしたちの贖いとなってくださいました。このようにして、イエスさまは、隣人を愛することも、神さまを愛することもできず、いやそれどころか神さまの独り子イエスさまを十字架に付けた張本人であるわたしたちの罪を赦してくださったのです。

真に、人は律法の行いによって救われるのではなく、イエスさまの愛と赦しを信じる信仰によって救われることをわたしたちは教えられました。この信仰によって、わたしたちは罪赦され、新しく生きる者とされるのです。こうして律法はわたしたちをキリストへと導く養育係となったのです。イエスさまは十字架の苦難と死、そして復活によって、神と人を愛するという十戒の戒めをすべて完成させてくださいました。そして、わたしたちは、律法を行って完成することによってではなく、この律法の完成者であるイエスさまを信じることによって、救われる者となったのです。

ですから、何よりも大切なのは、キリストの御支配がわたしたちの内にあるかどうかなのです。イエスさまの霊のご支配の下に生きる者は救われます。わたしたちは、たとえ律法を完全には守ることができなくとも、キリスト・イエスさまへの信仰によって、万物を支配するキリストの御力によって、わたしたちの内に力を振るおうとする罪の支配を絶えず打ち砕いていただくことができるのです。このことは、クリスチャンの個々人に起こるだけではありません。このことは、御言葉を宣べ伝えて行く教会にまず起こらないはずはありません。わたしたちは地上に立っているこの教会の上に、まずキリストの体として御支配を受けることを祈り求めて参りましょう。

本日まで学んで参りました十戒の最後の問は、「これらの律法をすべて守ることができますか」でした。それに対する答は、「いいえ、できません。それがわたしたちの罪です。けれども律法の完成者であるイエスさまによって、罪赦されたわたしたちは、この教えに従って新しく生きることができるのです。」この十戒の教えに従って新しく生きることができるということが、十戒に与えられた新しい目標なのです。すなわち十戒に表された律法は、罪赦された者の感謝の生活を導く道しるべとなっているのです。ここに、新しく生きるクリスチャンの喜びと幸いがあります。

今日は説教の最初に、キリスト教についての高校生が持っている主観的、あるいは客観的な考えを聞いたとお話ししました。私は彼らと50年以上年を隔てて、自分が受洗した20歳前後の頃を思い出しました。時代は激しく変りましたので、今の時代に即した伝道を次世代に担っていただくことは喫緊の課題です。しかし、全く変わらないのは、クリスチャンを律法主義的に捉える世の人々の考えだと分かりました。「『クリスチャンなら悪いことしないよね』『正しいことをするよね』と言われ、プレッシャーをかけられる」と言った高校生がいたからです。

しかし、私たちが世に知らせたいのはそういうことではありません。神さまが人の命をどんなに慈しみ、大切に思っておられるか、万物の救いのためにも、人が神さまに立ち帰ることがどんなに求められているか、このことこそがイエス・キリストの到来に結晶しているのだと、世に知らせたい。それが主の喜ばれることではないでしょうか。わたしたちの社会への救いの祈りはまだ始まったばかりです。主を待ち望みましょう。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美します。 終末主日の礼拝を守るためにわたしたちを呼び集めて下さり、感謝いたします。先週の礼拝には藤野雄大先生、藤野美樹先生を次年度からの主任担任教師候補としてお遣わしくださいましたことを深く感謝申し上げます。東日本連合長老会に加盟し、全国連合長老会の人事によって新しい教職を迎える希望が与えられていることを、感謝し、このことの上に主の御導き、お支えを切に祈ります。

成宗教会は牧師の交代をまじかにしたこの時期をあなたの御心に従って、教会を整えて参りたいと存じます。どうか長老会を励まし、また信徒の皆様を励ましてください。それぞれが与えられた務めを思い、また果たすことができるために聖霊の尊き助けをいただくことができますように。招聘に向けて臨時総会を開催します。あなたの御心がすべてのことに行われますように。

十戒の学びを本日まで導いて下さったことを感謝いたします。来週から待降節に入ります。どうか心からの感謝と悔い改めの祈りをもって準備をし、待降節を迎えることができますように。今、病床にあるオルガニストの小高氏をお支えください。ご家族も慰め、励まして下さり、癒しの御手を伸ばしてくださいますようお祈りいたします。他にもお病気の方々がおられます。どうか、日々の困難の中から、主の救いを祈り求めることができますように。

今、様々な試練、困難の中にある方々を顧みてください。助けを求める信仰が豊かに与えられますよう、祈ります。

この感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

罪を覆ってくださる神

聖書:詩編321-5節, ローマの信徒への手紙715節-83

 平和な社会とは戦争がない社会とばかりは言えません。戦争が起こらない社会であっても、最近のように次々と災害に見舞われ、避難生活を強いられる地域は、あちこちに広がっています。スマホで外出先からご飯が炊けるとか、家電や戸締りを操作できるという魔法のような生活から、アッという間に、水も電気もない生活に転落するのですから。今、わたしたちは決して平和な、無事な社会に生きているとは言えないと思います。

そして戦争の時代がそうであったように、戦わなければならないのは日々の生活、命を繋ぐためです。多くの人々が避難所に集まるけれども、行くことを諦める人々がいるのは、いろいろな理由があると思います。そこに行ってもいっぱいでいる場所がない。食べ物を配っていても、自分のところまで回って来ないうちに無くなる。プライバシーが守られず、着替えもできない。家が心配なのは、留守をしている間に貴重品がなくなってしまう。戸締りなどできるはずがないので、不審者が入りたい放題になる、等々。本当に、体験した人でなければ分からない恐ろしい試練にさらされているのではないかと思います。

イエスさまは山上の説教でお命じになりました。マタイ5章43節~45節。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」(8ページ下)けれども、わたしたちは思っているのではないでしょうか。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」なんて、だれができるだろうかと。

そこでわたしたちも、ユダヤの律法に命じられているとおりにするのが当たり前だと思うかもしれません。『隣人を愛し、敵を憎め』と。しかし、実際災害時にはどうでしょうか。だれが隣人なのか、だれが敵なのかさえ分からないのではないでしょうか。国と国とに戦争が起こる時には、政府は自分の国の人々は隣人、外国の人々は敵と教えるのです。しかし、実際は隣人であるはずの自国の指導部の過ちの結果は、多くの国民が命を落とすことになります。

それでは、どうすればよいのでしょうか。隣人も憎み、敵も憎めということになるのでしょうか。実際、70年以上続いた日本の平和の中で、起こった犯罪を考えると、家族、友人、知人に対する犯罪の割合は、非常に高いということです。つまり、だれが隣人なのか、だれが敵なのかも判別がつきにくい中で、だれも彼も信じられない辛さ。だれも彼もが敵だと感じるようになるということの恐ろしさであります。恐ろしくて、避難所のような所にはいられません。まして廃墟のように破壊された家に一人いて落ち着けるでしょうか。自然現象においても、また政治の趨勢においても、不安定な時代となっている今、改めて真剣に考えなければならないことは、イエスさまのお言葉です。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と命じられました。そしてその目的は「あなたがたの天の父の子となるためである」と言われたのです。

その目的に注目してください。わたしたちはイエスさまのお言葉を聴いています。2千年間ずっと教会に集まって聞き続けているのです。わたしたちは、イエスさまが人々にお知らせくださった神さまについて知りたいと思いました。神さまはどのようなお方であるか、そのことをイエスさまはお知らせくださいました。神さまはその独り子でいらっしゃるイエスさまをわたしたちの世界に遣わしてくださるほどわたしたちを愛しておられることを。その愛は、わたしたちをイエスさまに結ばれた者として、イエスさまの兄弟姉妹として、神さまの子として迎えてくださる愛なのです。

教会はわたしたちがイエスさまに結ばれるために洗礼を授けて参りました。これからもそうです。イエスさまに結ばれることの目的は、天の父なる神さまの子どもとされるためなのです。そのために、イエスさまは敵を愛し、迫害する者のために祈れ、と命じられました。いや、実際に神さまは全世界の人々を造られたのですから、全世界の人々が敵を愛し、迫害する者のために祈るならば、本当に平和が訪れることでしょう。全く、それは理想に過ぎないというかもしれませんが、わたしたちは神のご命令として、高い目標を与えられているのであります。

そこで使徒パウロは今日の聖書に告白しています。15節。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」パウロが何か特別な中毒、依存症にかかっているのか、と想像する必要はありません。キリストに結ばれた人だからこそ、キリストの御命令を守ろうとします。そして守ろうとするからこそ、できない自分に悩むのです。すなわち、洗礼を受け、父なる神さま、子なる神さまの聖霊をいただいた者は、イエスさまによって新たに生まれたのです。だからこそ、神さまの子になるためには、遠く及ばない自分の罪に気がついているのです。

もし、そうでなければ、イエスさまのご命令に悩むことはないでしょう。イエスさまは罪人を憐れんでくださった。心動かして憐れんでくださったので、わたしたちの悩みを悩んでくださった方です。この方の愛に打たれて、ついて行きたいと思うので、共に悩むのです。そうでない人々は、他の人が困ってようがいまいが、自分のことさえうまくいけば良いということになります。つまり、キリスト者の格闘は、自分の罪、神の子にふさわしい者になろうとして慣れない罪に気がついたからこそ起こる苦しみなのです。

自分はイエスさまについて行こうとすればするほど、それに逆らう自分に気がついて格闘している訳です。聖霊が心の内に来てくださって自分を新たに造り変えてくださろうとしておられるのですが、自分の中に、それに抵抗する罪があると分かるのです。わたしたちは地上の生活に、この体をもって生きて行く限り、いつも罪との戦いをして行かなければなりません。18節。「わたしは、自分の中には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」

「肉」という言い方ですが、これは肉体、体のことを意味しているのではありません。わたしたちは、キリストに従う者として聖霊に導かれ、神のものとされる約束に生きているのですが、一方、わたしたちの内には依然として古い自分、キリストに従う以前の部分が残っています。そのことが肉という言葉で表されています。振り返って思うならば、人類最初の人アダムが神さまに背を向けてしまって以来、罪がわたしたちの魂の内に肉的な思いによって支配するようになっておりました。それはアダムに見られたように、浅はかな欲望によって誘惑されて神さまの約束をないがしろにすることであり、また神さまそのものを敬わないで、呼びかけに応えず、身を隠してしまうことであります。また自分は決して悪くないかのように、責任を転嫁し、罪を他人に擦り付けるという思い上がりに現れます。

本当に惨めで情けないことでありますが、それに対して、このような古い自分、また肉といわれるものと全く対立するものが、神さまの霊の働きです。霊はその恵みの御力によって、わたしたちが欲望のままに行動するのを、恵みによって抑えてくださいます。そればかりではありません。霊はわたしたちの心を新たにして全面的に造り変えるために働いてくださるのです。わたしたちの古い人は、言ってみれば隣人を愛し、敵を憎むどころか、隣人も愛さず、敵を愛さず、隣人を憎み、敵を憎む結果、ズタズタになり、傷だらけであります。もう誰も信じられない状態であるばかりでなく、ねじ曲がり、非常に腐敗した精神となってしまっているのです。

「わたしは、何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と使徒は申します。惨めな人間。それはわたしのことだ、と言うのです。他の人のことならば、いろいろ言うのは分かりますが、それはわたしのことだとパウロが言う時、聞いているわたしたちは驚くのではないでしょうか。しかし、この告白があるのは、主イエス・キリストの救いを世に知らせるためなのです。イエスさまの救いが与えられたからこそ、今わたしは罪が分かった。隣人さえ愛そうとして愛せない自分。敵を愛するどころか、隣人でさえ、やっつけてしまわずにはいられない敵のように思える所まで追いつめられる自分。この罪を知らされたのは、イエスさまを知ったから。イエスさまを信じたからに他ならないのです。

パウロは律法によって自分は正しい者と認められて神の御前に出たいと願うことによって、挫折しました。律法を喜んで、イエスさまの教えを喜んで、守りたいと思ったからこそ、挫折を知ったのです。わたしたちもパウロのように、神の律法に従順になるように整えられることを、願い、祈り求めるわたしたちであるならば、それを祈る願いそのものによって、わたしたちは神さまから招かれているのです。「イエス・キリストによって、わたしのもとに来なさい」と。

ここに計り知れない慰めが与えられました。「キリスト・イエスにある者はもはや罪に定められることはない」というのです。主が恵みのうちにひとたび受け入れ、キリストとの交わりの中に接ぎ木させ、教会の共同体の中に洗礼によって合わせ給うならば、その人たちは、キリストを信じる信仰を堅持する限り、たとえ罪に攻め込まれ、更に自分の中に罪を引きずって生きているとしても、神様に断罪されることなく罪責を免除されているのですから。

では、パウロが言う「キリスト・イエスにある者」とはだれのことでしょうか。人々の前で教会が執り行う洗礼は、キリスト・イエスにある者となるための告白です。これはわたしたち一人一人が神の民の内に加えられたいと願っていることを明白に表明するしるしなのですから。洗礼によってわたしたちは唯一の神への礼拝を捧げてすべてのキリスト者と共に一つの信仰を告白すること証しします。こうして自分自身の信仰を公に言い表して、単にわたしたちの心が神への賛美に溢れるばかりでなく、この口を用い、また全身を用いて賛美を現わすのであります。

8章3節。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」わたしたちの目標は、天の父の子とされることです。ただキリストを通して示された神の愛を知ることだけが、わたしたちの救いであります。わたしたちは、神さまの前にどのような罪も覆い隠すことはできません。しかし、イエスさまはわたしたちのために犠牲を捧げて下さり、わたしたちの罪を覆ってくださいました。わたしたちは、イエスさまによって罪赦されたことを信じます。どんな困窮の時にも、自分の願い、求めるところを、全く謙って神さまに捧げ、神さまの御旨のままにその憂いの荷をおろし、神さまに身を委ねましょう。天の父の子となるために、聖霊は信じる者の上に来てくださり、わたしたちを清めてイエスさまの体にふさわしいものと日々造り変えてくださいます。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

本日の礼拝に集められ、恵みの御言葉によって罪の赦しをいただき、感謝申し上げます。わたしたちは、本日の礼拝において、罪の赦しを信じるとは何かを学びました。わたしたちは自分の働き、努力によって罪を償うことができるどころか、罪があることさえ、分からない、気がつかないことが多い者であることを知りました。ただ、キリストに従うことによって自分の力の及ばない罪を贖ってくださるキリストの救いの恵みを知ることができ感謝です。自分で負うことも、取り除くできない罪のこの身を、キリストが覆ってくださったことを、ただ謙って信じる者とならせてください。

罪赦されたわたしたちの人生が、真の悔い改めと、喜びと感謝に満たされるものでありますように。どうか、聖霊をお遣わしください。そしてわたしたちが善い者として生きられるように助け、導いてください。

多くの困難の中にある地域の方々、その地に立つ教会を助け導いてください。真の福音が伝えられますように。あなたの慰めが人々の上にあり、

勇気と知恵とが与えられますように。主よ、厳しい暑さ、と荒天の中で7月も守られて最後の礼拝となりました。礼拝を覚えて心をあなたに向けるすべての兄弟姉妹を祝福してください。来週は8月の聖餐礼拝を守ります。大塚啓子先生がご奉仕くださる礼拝、どうぞ多くの人々が招かれますように。あなたの御名が崇められますように。私は休暇中に東日本の教師会に参加しますが、どうか成宗教会にとって、連合長老会にとって有益な学びがなされますように。教会に将来を備える道を開いてください。

また、8月、9月の諸行事のために心を一つにして準備することができますように。非常な暑さが続きます中、教会に集う皆様のご健康をお守りください。遠くにおられる、様々な事情で礼拝から遠ざかっている方々のご生活、日々の労苦を顧みてください。教会に集う子どもたちのために、夏休み中の安全をお守りください。

この尽きない感謝、願い、主イエス・キリストの尊き御名によって祈ります。アーメン。

神の右にいますキリスト

聖書:詩編1101節, エフェソの信徒への手紙12023

 先週は、教会の信仰告白使徒信条の中で、主イエス・キリストは天に昇られた、という告白について学びました。歴史のある時、ある所に神は人となり給いて、人の罪を負って罪の贖いを成し遂げられました。救いは、神の子イエス・キリストの十字架の死と復活によって成し遂げられたのです。こうして主イエスは御自分を信じる者に救いをもたらしてくださったのですが、ご復活の体をもって天に挙げられたと、弟子たちは証言しました。そして代々の教会は使徒たちの告白を受け継いで来たのです。主イエスはなぜ天に挙げられなければならなかったのか。それはこの救いが、ある時代の、ある人々の救いのためだけではなく、歴史を超えて、地域を超えて全人類の救いとなるためでありました。

主は使徒たちに約束されました。使徒言行録1章8節。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(213下)そして主が天に昇られた後、この約束の通りに、教会は聖霊を受けました。そして聖霊の力を受けて全世界に福音を宣べ伝え、今日に至ったのです。

さて、今日はその後、主イエスは「全能の父である神の右に座しておられます」という教会の告白を学びます。わたしたちはこの告白が、新約聖書エフェソの信徒への手紙1章20節に語られていることを知りました。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」と記されています。「神は、この力をキリストに働かせて」と言われるこの力とは、その前の19節の言葉によれば、「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる」力と言われます。つまり信じる者に対して、神が絶大な働きをなさる力であります。

わたしたちの信じる神は、全能の神です。全能というと、何かスーパーマンとか、ドラえもんではありませんが、何でもわたしたちの願いを適えてくれる力なのかと思うかもしれませんが、それは神を知らない人間の願望に過ぎません。神の全能とはわたしたちがどこにいても、どんな時にも、わたしたちも愛し、わたしたちを育て、わたしたちを救ってくださるということなのです。だからこそ、わたしたちは、神の全能は、独り子を罪人の中にお遣わしになられるほどの愛の中に、表されたのだと信じるのです

さて、エフェソ1章20節の言葉は、今日同時にお読みいただいた詩編110篇1節を前提としています。「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」これはダビデの歌とされているものです。この詩の中で、ダビデは自分の子孫のことをなぜか「わが主」と呼んでいます。なぜでしょうか。その質問は主イエスからも出されました。マタイ22章41節-46節(44下)

「ファリサイ派の人々が集まっていた時、イエスはお尋ねになった。『あなたたちはメシア(ギリシャ語でキリスト)のことをどう思うか。だれの子だろうか。』彼らが、『ダビデの子です』と言うと、イエスは言われた。『では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。このようにダビデがメシア(キリスト)を主と呼んでいるのであれば、どうしてメシア(キリスト)がダビデの子なのか。』これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。」この問いの答は、それはダビデの子孫からメシア、すなわちキリストがお生れになったからです。ここで主イエスが自ら証ししておられるように、主イエスこそは、ダビデが「わが主」と呼んだキリストであり、天に昇られ、神の右にいます方なのです。

それでは、神の右とはどういう意味でしょうか。このことは先週も少しお話ししました。それは、主イエスが全能の神さまと等しい力をもって、あらゆる権威や勢力を御自分の御支配の下に従わせることを意味します。その御支配はこの世の勢力の支配とは全く違います。この世の勢力の支配しか、思い当たることがない人々は、支配と言えば、お金や暴力の支配などを考えてしまいます。しかし全能の父の右におられるキリストの御支配は全く違います。その支配は愛の支配に他ならない。悪霊どもでさえ、キリストの愛の力にたじろがざるを得ない。この愛を受け、この愛を信じ、この愛に支配されている人々を、彼らはどうすることもできないのです。

その愛は、神を裏切り、キリストを裏切った人々をさえ追い求めて、滅びの穴、絶望の淵から救い出そうとする熱意です。これが人間の力ではない、全能の父の右におられるキリストの力であるならば、だれが逆らうことが出来るでしょうか。主は地上を去る前にこう祈られました。ヨハネ福音書17章21節(203上)「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになります」と。この方が天におられるのですから、わたしたちがどこにいてもわたしたちを愛し続け、救いへと導いてくださる。教会が告白しているのは、正にこの信仰です。

わたしたちが常に立ち帰らなければならないのはこの信仰です。主イエスが神の右に座しておられ、わたしたちに全能の御力をもって聖霊を送り助けてくださっている、その絶大な力、お働きを、わたしたちは本当にどれだけ真剣に信じ、告白しているでしょうか。ただ、習慣的に(それでも、告白することが許されていることは、それだけでも真に幸いなことですが)、機械的に告白するのではなく、一字一句に込められた告白の言葉に込められている教会の信仰を、わたしたちは改めて心に深く受け留めましょう。

更に21節に宣言されています。神はキリストの権威、力を「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」と。反省させられることは、わたしたちの視野があまりにも狭いということです。私達は、良い意味で一人一人の人権が尊重される時代を生きたと思っていましたが、自己実現型の人間の視野はひどく狭くなってしまいました。極端な言い方をすれば、自分のことしか考えない。自分で稼いだものは自分のものだという考えを良しとしましたが、自分の働きの成果を用いて社会全体の幸福のために還元することを考える人々がどんどん少なくなったのです。高額所得者は税金を逃れるためにこの世のあらゆる知恵を駆使する一方、貧しい人々は自分が仕事を奪われているから貧しいのだと考え、不満のはけ口を自分以外にぶつけようとする有様です。

教会の中には昔から多くの貧しい人々がいました。そして少数ではあったにせよ、豊かな人々、この世の力を持った人々もいたのです。また奴隷の身分(広い意味では労働者階級の人々)もいれば、自由人もいました。要するに、この世の身分、階級においては様々であったのです。そして教会の中でみんなが全く同じ身分、同じ力を持つということにはなりませんでした。貧しい人々への配慮ということは神のご命令と受け止められていたでしょうが、教会には当初から、いろいろな意味ででこぼこがあったのです。

しかし、すべての優劣、経済的優劣、健康の優劣、社会的優劣、能力的優劣に生まれる力関係の上にイエス・キリストの恵みの御支配があったということは間違いありません。その上に、この社会の変動がありました。今地中海を粗末な船で難民が押し寄せる様子がテレビで映し出される。昔、古代ローマ帝国の衰えと共にゲルマン民族が大移動して来たことを思いました。民族の大移動は決して過去のことではなく、また欧米に限られたことではないでしょう。絶え間なく、世界のどこかで戦争が起こり、また地震や山崩れなどの災害も起こります。人類の歴史には人口が激減したという疫病が、これからの時代には核施設の起こす人災の危険があるでしょう。

それにもかかわらず、この二千年、目に見える教会が地上に建てられているということです。わたしたちの視野の狭さ、取りあえず自分だけ生きられれば良い的な、貧弱な幸福感。自分の夢が叶えさえすれば良い的な、低いことこの上ない人生の目標。あるいはせいぜい自分の家族、自分の好きな仲間だけ守られれば良い的な視野の狭さが、わたしたちの社会の貧しさであり、その貧しさが教会の中にも浸透してきているのではないでしょうか。

そして気がつけば、超高齢化社会であります。少子化社会であります。ごく一部の人々をのぞけば、心身共にゆとりある人々はますます少なくなるばかりです。このような歴史の中の今、日本という社会の今、その中にわたしたちは生きています。狭いところで考えれば考えるほど、困難ばかりが見えます。希望が何も見えないように思われます。しかし、視野を広げましょう。この二千年の教会の旅路を。その歴史は嵐に荒れ狂う夜の闇にのみ込まれるばかりの漂流船のようであります。明日をも知れない。いつどうなるか。明るい日の光を果たして見ることが出来るのか。しかし、その時にも教会は信仰告白を唱え続けました。なぜなら、教会は主イエス・キリストの御支配の下にあるからです。

22節、23節。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」すべてのものとは神の造られたものすべてを意味します。嵐を鎮める主イエスのお姿を、地上のご生涯で弟子たちは見ておりました。その時は限られた所で、神の力を表してくださいました。天に挙げられ、神の右におられる主は、全世界の教会に、また昔も今も、そしてこれからも、その御力を表してくださる。わたしたちは、この信仰を受け継いでいるのです。

その力は、わたしたちの計り知ることのできる力をはるかに超えています。教会は全能の神と等しい御力をもって御支配くださるキリストの体である。この表現をわたしたちは初代教会から、使徒たちの信仰から受け継いで来ました。私は、今直面している困難な時代から、視野を広げて初代教会から今に至るまでの教会に、どんなに大きな恵みが注がれて来たかを考えていただきたいと申しました。そして、そこからわたしたちが理解すること。すなわち、神の右にいますキリストが、全能の父と同じ力、万物を支配する力が注がれていることを知るならば、わたしたちは教会として、キリストの体に結ばれる者として、しなければならないことがあります。

それは、この方の全能の御力を信じ、この方をいつも見上げることなのです。全能の力、それはわたしたちがどこにいても、どんな時にも、わたしたちも愛し、わたしたちを育て、わたしたちを救ってくださる力です。こんなにありがたい、慰めに満ちた信仰があるでしょうか。しかしこれは、信じなければ信仰告白にはならないのです。信じなくても信じても救われるということではありません。ですから、この信仰告白を受け入れ、いつも新たに信じることが大切です。キリストがわたしたちの頭であることをいつも告白して従って行くこと無しに、教会は建てられません。

わたしたちは人間の業、自分の業にこだわっています。しかし、わたしたちの救いはただ神の全能の御力、いつでもどこでもわたしたちを愛して救ってくださる神の力です。だからこそ、無力となった者も、貧しくなった者も、希望をいただいて、天の父の右にいます神の御子イエス・キリストを見上げ、その執り成し、その助けを待ち望むことが出来るのです。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神様

御名をほめたたえます。わたしたちは主イエス・キリストがわたしたちに先立って天に昇られ、わたしたちの罪を赦すために、執り成しの務めを担ってくださっていることを感謝します。そればかりでなく、地上で罪の誘惑、試練にさらされながら、困難な道を歩む教会を御自分のものとして助けるために、聖霊を送ってくださっていることを感謝します。

わたしたちは豊かにゆとりある生活をしている時には、理解が及ばなかったあなたの愛を日々教えられる思いです。生活の困難、仕事の困難、家族の困難、そして健康の困難を多く抱える度に、どうか教会の主に結ばれているわたしたちが心からあなたを信じ、あなたを愛し、あなたに従って行くことが出来ますように。

わたしたちは礼拝を思いながら、様々な事情で教会に来られない多くの方々のことを思います。どうか御心ならば、その困難を取り除き、教会に集まるために道を開いてください。また、わたしたちも福音を運んで行き、その方々のおられるところで礼拝を守り、聖餐式を行う事が許されますように。真に老いも若きも、明日はどうなるか分からないという思いを他人事としないで、あなたの御前に立つことが出来るように、主イエスの執り成しを受けることを切に望ませてください。

東日本連合長老会の一員として教会の歩みを与えられておりますことを感謝します。どうかこの教会が、この地で福音を宣べ伝えるために、次の世代への伝道を前進させることが出来ますように。そしてどうか新しい教師があなたの御旨によって与えられますように。

今日も教会学校から、ナオミ会の活動に至るまで、主の御導きを感謝し、御手に委ねます。どうか教会に与えられて来た伝統、恵みを受け継ぐ教会として、信仰者を増し加えてください。今、苦しんでいる兄弟姉妹を御力によって慰め、救い出してください。

この感謝と願いとを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主は天に昇られた

聖書:詩編6819節, エフェソの信徒への手紙4716

 あまり実感がないのですが、世の中は好景気なのだそうです。その証拠に今は人手不足だということで、若い人々の就職活動も順調と聞いて、まずは良かったと思っています。考えてみれば、少子高齢化社会では、人手不足は慢性的なものと思われます。私のおばあさんは、私の両親が結婚することになった時、「さあ、これからはご飯炊きから洗濯から縫物まで、全部嫁にしてもらって遊んで暮らしましょう」と言ったと聞いたことがありますが、その時祖母は40代前半だったのです。今頃それを思い出して驚きます。昔は40代半ばぐらいの年から何も労働をしないで老後を暮らそうと言えるほど人手があったのだ、と。

それから祖母は40年以上生きたのですが、今の高齢者はそうはいきません。「長生きするなら、だれにもあまりお世話をかけないように、自立した心構えで生きなくては」と互いに励まし合う時代です。そして、これからはますますそうなるでしょう。高齢になっても、できることは自分で何でもするようになります。このことは、教会の歩みに一番よく表れていると思います。地上の教会はその時代、その地域に建っているのですから、その時代、その地域の社会の姿を映し出さないはずはないからです。そしてその社会の中で、その社会が抱える問題のただ中で、教会は建てられて来たからです。

今日のエフェソの信徒への手紙4章7節は、教会のわたしたち一人一人にキリストの賜物が恵みとして与えられていることを語っています。教会もまた人手不足。奉仕する人々が足りない。礼拝に出席する人々が不足している。そういう不足を嘆くわたしたちに、子の手紙は語りかけています。キリストの賜物は、恵みとして与えられているのだよ、と。わたしたちの思い煩いにもかかわらず、わたしたちの努力を超えて、恵みとして与えられるのだよ、と諭されているのです。

8節の聖句は、旧約の詩編68篇19節の引用と思われます。「そこで、「高い所に昇るとき、捕われ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。」ここには主語が語られていませんが、イエス・キリストのことを証ししているのです。この方は高いところ、すなわち天に昇られた方であるというのですから、それなら、天に昇る前は地上におられたことになります。キリストは地上に来てくださり、福音を宣べ伝え、神の国、天の国にわたしたちを招いてくださった方です。そしてキリストはわたしたちが天の国に入るために、わたしたちの罪を清めてくださった。それが十字架の贖いであります。

主イエスさまはわたしたちの罪のために死なれ、陰府に降り、三日目に甦らされました。それによって、わたしたちの罪の贖いがなされたのです。キリストの死は、わたしたちの罪の死であります。そして、キリストの復活はわたしたちの罪が赦されることを証しするものにほかなりません。さて、主イエスは御復活の体をもって40日弟子たちと共におられました。それから、使徒言行録1章によれば、弟子たちの見ている前で天に上げられました。それならば、キリストは御自分の御体をもって天に行かれたということではないでしょうか。「主イエスが天に昇られた」という天、新共同訳聖書では「高い所」と言われているこの言葉は、空の果て、宇宙の果てという空間を意味しているのではありません。天とはご復活の主が神と共におられる所であり、神の御支配が行われている所なのです。

ところで、マグダラのマリアは、ご復活の主に出会った時、喜びのあまり主に駆け寄ってすがりつこうとしました。その時主イエスは彼女に言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」しかし弟子たちもまた、マリアと同じ思いだったかもしれません。地上で主イエスに出会った人々は、「いつまでも主と共に地上で暮らしていたい。今までのように、目で見て、耳で聞くことのできる先生と」と思うのは無理もないことではなかったでしょうか。

しかしキリストは、ご自身が弟子たちから離れて天に上げられることの利益について教え諭しておられます。その言葉は、ヨハネ16:7にあります。200上。「しかし、実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」主が天に上げられる意義は、何と言っても、その事がわたしたちのためになる。利益となるからなのです。主イエスが天に昇った時、主は地上に残っている弟子たちに、弁護者を送ると約束されました。弁護者とはだれでしょうか。弁護者とは聖霊の神であります。

主イエス・キリストは天に昇り、父なる神の右におられることによって、父なる神と共に、全能の力をもって、わたしたちを救いに導いてくださいます。そのために主イエスは父と共に聖霊の弁護者を送ってくださり、わたしたちと共にいてくださると約束してくださったのです。思えば、キリストの地上の生涯、十字架の死と復活は、パレスチナという世界のごくごく狭いところで起こったのでした。そして時間の限られた間に起こった出来事です。歴史の中に神がご自身を現わしてくださったということは、限られた時間と空間の中に限られた命の中に御自身を現わされたということに他なりません。しかし、御子イエス・キリストは限られた命に死んで限りなき命に復活されました。そうして主は天に昇られました。このことによって、主は全世界の信じる者すべてと共に生き、昔も今もそして今より後の時代にも、信じる者と共にいてくださるのです。聖霊が教会の人々に送られるのは、「すべてのものを満たすため」なのです。

弟子たちの上に聖霊が降った最初の出来事は、ご存知のようにペンテコステの日として聖書に書かれ、人々に語り継がれました。すなわち、聖霊は、主を信じる者が皆集まって共に祈っている所に来てくださいました。聖霊によって聖書の言葉が神の言葉として与えられました。聖霊によって、語る者も聞く者もキリストが共にいらしてくださることを知る者とされたのです。このように聖霊は教会に降ったのでした。その頃は、教会堂も礼拝堂もなかったでしょう。人々は仲間の家に集まって聖書を読み、祈り、讃美しました。今も同じです。礼拝堂があれば教会なのではありません。礼拝堂に人々が集まって礼拝するから教会なのです。イエス・キリストの恵みを分かち合うために、聖霊の賜物が与えられました。

「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」キリストがもろもろの天よりも更に高く、つまり神の国にまで上られることで、主は今、わたしたちの目には今は見えない離れたお方となっておられるように思われますが、しかし実際は却ってそのために、聖霊の力によってすべての者を満たしてくださっています。つまり、キリストの霊的な力は、神の右に及ぶまで、広げられました。そして、キリストは天にあっても地上でも、その無限の力によって、至る所に現存しておられるのです。

「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」このように、教会のいろいろな役職、役割が書かれています。これは初代教会の話でありますから、今日の諸教会の教師や長老の役職とは一致しません。しかし中でも牧者は羊飼いを表す重要な役職でありまして、その務めは羊飼いです。常に先頭に立って羊の群れを導き、牧草地に連れて行って食物を与え、流れのほとりで水を飲ませ、野獣などの外敵から身をもって羊を守ることそのものであります。もちろん、絶対的な意味では、キリストがすべての信徒の牧者であることが前提となっています。

福音がその職務に遣わされたある一定の人々によって説かれるということは、教会が完全にこの世に存続して最後に全く完成されるに至るために、主が教会に、統治と、秩序を保つことを望んでおられるからです。わたしたちは自分に能力がない、力が不足していることを、大変痛感することがあります。特に高齢化社会の教会は、若い人が溢れ、我も我もと奉仕を申し出たような時代とは全く違っています。果たして自分に出来るだろうか、という思い。自分ばかりが大きな期待をかけられたらどうしようかといった不安や消極的な思いが先立つのです。

しかし、教会での奉仕においては、聖霊の助けによって賜物が与えられていることを信じることが大切です。人が神に奉仕するよう呼ばれる時には、必ずその務めに必要な賜物が与えられるのです。教会はキリストの体と呼ばれるのですから、その体は非常に多種多様な部分をもっていることは当然のことであります。もしも皆が同じ顔、同じ賜物、同じ特徴しかないなどという教会があるなら、それこそは異常なこと、異様なことではないでしょうか。キリストの体全体は多様性によって保たれております。このことによって、主イエス・キリストは求めておられるのは、おかしな競争意識、異常な妬み、世の人々が追い求める野心が蔓延らないように、教会から取り除かれることではないでしょうか。

そしてキリストの体である教会は、その部分の一部が大切にされたり、一部がないがしろにされたりすることはあり得ない。皆がキリストに呼び集められた者として大切なのですが、教会の統治については、はっきりと理解しておかなければならないことがあります。それは、教会を総べ治めるのは、キリストであるということです。キリストはみ言葉によって、統治なさるのです。この世のように鞭と飴によって、脅しとおだてによって統治されることはあり得ません。ですから教会の統治はみ言葉を語ること、聞くことによってなされることを常に覚えなければならないのです。

すなわち、教会の統治は御言葉への奉仕によって成り立っています。それは、人の考え、人の力によって造り出されるものではありません。ただ神の子イエス・キリストによって立てられるものなのです。この務めを果たすように教会に任命された者は、その務めを果たすのに十分な責任も能力も二つ同時に授けられることを信じましょう。厳しい言い方をするならば、御言葉の説教者であろうと、または御言葉を聴く会衆であろうと、この務めを拒否する者、あるいは軽蔑する者があれば、その人は、キリストを侮辱し、それに叛く者となってしまっているのです。なぜならキリストは、その務めを立てた方なのですから。

だからこそ、わたしたちの教会が後任の教師を招聘するために、連合長老会にお願いしている最も大切な条件はここにあります。それは、日本基督教団信仰告白にも唱えられている通り、御言葉を正しく宣べ伝え、聖礼典を正しく執り行うための教師です。教師が与えられる職務はキリストに励まされなければ、この務めを全うすることはあり得ないのですから、わたしたちはひたすら祈って主に委ねて参りましょう。祈りこそ、わたしたちに求められている第一の奉仕でありますから。

13-14節「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」

大変厳しいことに、今、礼拝を守るだけの体力がなくなっている信仰者がたくさんおられます。そしてそうなってますます礼拝に集まることの大切さを痛感しておられるのを、わたしたちは知っています。逆に教会に来ようと思えばいつでも来られる人々の中に、「教会に集まる必要はない、家で聖書を読んでいれば良い。教会の共同の奉仕などは全く必要ではない」と思っている人がいるとしたら、それは傲慢と言わなければなりません。

主が天の昇られたのは、教会に連なる人々に賜物を与えるためでした。互いに足りないところを助け合い、礼拝を捧げて御言葉を宣べ伝え、御言葉を聴くために、讃美の声を合わせるために、すべてが整えられるのです。教会は信仰者すべてに共通の母であります。信仰者はキリストの中に生まれ、大きい者も小さい者をも教会の主が養い始められます。それがみ言葉によって、説教と聖餐に与ることによってなされるのです。同じ教えに呼ばれ、集められるということは一致を保つための訓練なのですから。

わたしたちは本日、主が天に昇られたことの意味を学びました。「頭であるキリストに向かって成長していく」希望を与えられているのは天の昇られた主から教会に注がれている聖霊の賜物であります。主はこうしていつまでも教会と共にいてくださいます。祈ります。

 

主なる父なる神様

尊き御名をほめたたえます。今日の礼拝にもわたしたちに天から聖霊を注いで下さり、御言葉で養ってくださいました。小さな群れですが、あなたのお支えは決して小さくはなく、目に見える恵みと共に目に見えない恵みを豊かにいただいておりますことを感謝します。ここに集まる兄弟姉妹ばかりでなく、集まることのできない方々が、この礼拝を覚えて祈り、あなたの御前に静まっていることを私たちは思います。御言葉の恵み、主の愛を形に表すべく、わたしたちは今週も教会から出かけて行って働きたいと思います。

非常に苦しんでいる人々の苦しみがそれだけではないことを、どうかわたしたちに知らせてください。イエス・キリストが地上で非常に苦しまれましたが、その御苦しみがわたしたちの救いのためであったように、わたしたちは困難と向き合っている人々によってあなたを思い起こし、人々のために祈り、わたしたちも勇気と愛を主からいただけるように、祈ります。そしてどうぞ、教会に連なっている方々とあなたの恵みの下に再会することが出来ますように。

わたしたちの弱さ、思い煩いをご存じの主が、どうか絶えずわたしたちを励ますために聖霊を送ってくださいますよう。そして父、御子、御霊の豊かさに与り、喜びと感謝を以て従って、教会を建てて行くことが出来ますようにお助け下さい。本日も、遠くから困難を乗り越え、あなたに勇気を与えられて礼拝に集められ、奉仕された方々のゆえに感謝します。どうぞ帰りの道をも祝福の中にお守りお導きください。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

葬られ、陰府にくだられた主

聖書:詩編139篇1-10節, ペトロの手紙一 3章18-19節

 6月を迎えました。わたしたち、それぞれの生活の中から、呼び集められこうして主の日の礼拝を捧げることが許され、真に感謝です。わたしたちは小さな群れといつも言うのですが、礼拝に出席できるわたしたちの内に家族があり、いろいろな出来事があります。結婚式という人生の一大行事を祝う一方、地上から去って行く家族を見送るという送別の儀式もあります。人生の初めから終わりまで、神様の祝福の許にしっかりと歩みたいと切に願います。

教会にわたしたちが集められているのは、この目的のためです。ここに恵みがあり、祝福がある。ここに救いがあるから、感謝がある。わたしたちを集められているのは、恵み、祝福、救い、感謝をわたしたちに証しさせてくださる神様がおられるからです。わたしたちの地上の命は、数十年です。よほど長命な人でも120年も生きることはほとんど期待できません。けれども教会は二千年も続いています。この世界が滅びる時が来るまで、地上の教会は世界に建ち続けるでしょう。教会はキリストが建ててくださったからです。教会とは、実は目に見える建物のことではありません。キリストに呼び集められた人々の群れのこと。つまり、わたしたちも集められていますから教会です。ただし、自分でここに来たのだけれども、本当は違うと知っているなら。自分でここに来たのだけれども、本当はイエスさまが今日もわたしを呼んでくださったのだと信じるならば、わたしたちも教会なのです。

ですから、わたしたちは教会に呼び集めてくださった方を知りたいと思います。招集者であるイエス・キリストを、キリストが説き明かしてくださった天の父を聖霊の神の助けによって、理解することができますように。理解して喜びに溢れますように。

さて、わたしたちはカテキズム(信仰問答)によって使徒信条を学んでいます。使徒信条は教会が代々にわたって告白して来た信仰の内容であります。わたしたちは先週、イエス・キリストが十字架に付けられたという告白を学びました。主は十字架の苦難を御自分の務めとして受けられたのです。その務めとは、わたしたちが罪のために呪われたその呪いを、わたしたちに代わって引き受けられること。そうすることで、今度は御自身の持っておられる祝福をわたしたちにお与えになることでした。

人間と人間との間で行うトレード、取引、交換では、考えられません。人間と人間との間では必ず、良いものと良いものとを交換します。お互いに損がないように、得するためです。ところが主は御自分の持つ最も良いものを、人間の持つ最も悪いものと取り換えてくださった。これこそ、神の御心。これこそ、神の業なのです。

そして、本日は「十字架につけられ」の次に来る「死んで葬られ、よみにくだり」とはどういうことか、について考えましょう。イエス・キリストは十字架の苦難を負われて、その結果、本当に死んでしまわれました。植物学者の牧野富太郎という人は長命でしたが、90代の時亡くなったので、家の者が集まって葬儀の相談をしていると、死んだと思われていた本人が、「世間が騒がしいようだねえ」と言って起きて来たという話がありました。しかし、イエスさまの場合は、決して仮に一時的に死んだとかいうことではなく、本当に、わたしたちが経験する死を御自身で経験されたのです。

イエスさまの十字架の死について記録している四つの福音書には、アリマタヤのヨセフというエルサレムの有力な議員のことが書かれています。彼は、イエスさまが十字架で息を引き取られた後、出て来てイエスさまのご遺体を引き取り、亜麻布で包み、新しい自分の墓に納めたということです。さて、それでは「陰府にくだり」とはどういうことでしょうか。当時の聖書の時代の人々の考えを表しています。まず、天には神様が住んでおられます。次に人間は生きている間は地上に住んでいますが、死んだ人は陰府の国に行くのだという考えであります。

陰府の国は、死者が陰のように無為に不活発に過ごすところです。しかし、ルカの福音書16章19節以下では、陰府はもっと大変なところとして描かれています。それは乞食のラザロと金持ちの物語です。ラザロは乞食でできものだらけの一生を終えて天国に迎えられたのに対して、金持ちは贅沢三昧の一生を終えて、陰府に落ちて苦しみ苛まされるという物語です。仏教でもそうではないかと思うのですが、地獄の恐ろしさを描き出す目的は、地上の生涯を悪から離れ善を行うように勧めるためであるかもしれません。しかし、自分で考えても、自分は陰府に落ちないという自信と確信を持つことができるでしょうか。親しい人々が地上を去って行き、見送った後はどうしているのだろうか、と思うことも多いと思いますが、何しろ、地上に生きている者には決して見えない世界であります。

そこで、教会は告白してきました。主イエス・キリストは陰府にくだり給うたと。キリストは、わたしたち人間と全く同じ死を経験されました。そして人間が行かなければならなかった死後の世界まで降りられたということなのです。わたしたちは皆罪あるものであります。そのためにわたしたちが自分自分で引き受けなければならない死を御自身で経験されました。その目的は何でしょうか。

それは、イエス・キリストの救いの恵みが届かない所はどこにもないということです。天にも地上にも、そして死者の住むという陰府にも、キリストによって神の御支配がもたらされたということなのです。ペトロの手紙一3章18節を読みます。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」

このことは、一度本当に死んだイエスさまが、その全人格において復活され、聖霊として今も生きて働き続けてくださることを意味します。わたしたちは聖霊降臨日の礼拝を守りました。ご復活のキリストはその御体をもって昇天されましたが、今も聖霊によってわたしたちを励まし、慰め、働き続けておられます。しかし他方、主は、わたしたちの生きている地上だけでなく、死者が住むという陰府にまで降ってくださいました。そして、そこで行き場を失い、神様から最も離れたところでさ迷い続けている人々を憐れみ、その魂にまで伝道されたのでした。わたしたちは、このことから教えられるのです。イエスさまは陰府にくだってくださるほど、どこまでもわたしたちを救おうと決めておられるのだと。

ですから、十字架に死んで葬られ、陰府に降られたイエスさまを、教会は真に神の子と告白するのです。このようなことは人間にできることではなく、神の子であったからこそ、人間のために、しかも罪ある人間のために死なれたのではないでしょうか。「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」この聖書箇所はペトロの手紙の中でも最も解釈が難しいところで、たくさんの説が唱えられた所であります。まず一つの解釈は、18~22節は洗礼時に歌うキリスト賛歌である。洗礼の意味が21節に述べられています。キリストは正しい方であるのに、正しくない者のために苦しまれたと語られ、その目的はわたしたちを神のもとへ導くためです。だからわたしたちの受ける洗礼はキリストの正しさを受けるため、キリストの苦難をいただき、キリストの正しい良心を願い求めるために、洗礼を受けるのだと教えられているのです。

一番多い解釈は、18-19節を、主の死と葬りそして復活との間において、キリストが経験されたことを言い表しているとする説です。すなわち主が肉において殺された後に、霊においては生かされ、信条が語るように、地獄または陰府に、すなわち死者の住む所に降り、獄にとらわれている霊どものところで宣べ伝えてくださったのだ、という説です。

この他にもいろいろあるのですが、カトリック教会は長い歴史の中で、死者のためのミサを伴う煉獄の教理や功徳の教理を作り出しました。わたしたちの親しい人々が何とか救われるようにと願う気持ちは尊いものだと思います。しかし、愛する人々の救いが他の人々の業によって達成されると教えることが、神様に許されることでしょうか。ルターの宗教改革の発端となったのは、カトリックが献金集めの手段に贖宥状を売り出したことだと言われています。煉獄で苦しんでいる死者の霊がその献金によって天国に入れられると謳ったのでした。その他、教会の業を伴う機械的手段によって獄にとらわれている霊どもを助けることが可能だと教えたのです。

わたしたちが、地上でお別れした愛する人々について思う時に、何よりも大切なことは、神の御前に謙って、慈しみを行ってくださる主の恵みにすがることです。人のことでも自分のことでもお金を積んだり、良い業を積んだり、具体的に何かをすれば、必ず救われると考えることこそ、神に背くことになるのではないでしょうか。なぜなら、キリストが世に遣わされたのは、神の慈しみ、神の恵みによる救いの道を開くためだったからです。これこれのことをすれば確実だ、というのは単に人間のこの世における営みに過ぎません。そしてこの世の営みが素晴らしい成果を上げているように見えるのは、ただただ、神がそれをお許しくださり、祝福してくださっているからに他なりません。それを忘れて誇り高ぶるからこそ、突然すべてが覆されるようなことが起こるのです。

業を誇る者は業によって救われようとします。そして恵み深い神を信頼せず、無視するのです。今日の詩編139篇を読みましょう。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上においていてくださる。」わたしたちの主はこのようなお方なのです。神とはこのようなお方でないはずがありましょうか。一体この方から離れて、この方のご存じないところで好き勝手に生きるなどということが可能でしょうか。

「その驚くべき知識はわたしを超え、あまりに高くて到達できない。どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。8 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしを捕らえてくださる。」わたしたちの神はこのようなお方。背こうとする者にとっては恐ろしい支配者です。しかし、信頼し頼り行く私たちにはどんなにありがたく、感謝すべき方であることか、陰府にまで降って虜を解放し、ご自分と共に天に昇ってくださる方。御自分の命と結んでくださる方なのです。

一方、繰り返して申しますが、自分の業に頼る者は、絶えず神の御支配以外のもの、律法の支配に縛られる危険にさらされています。スポーツにはスポーツのルールがあります。ルール、法を守って法の支配の下に頑張っているはずが、いつの間にか理不尽な罪の支配に苦しめられ、行く道を歪めれらてしまうということが、社会では横行しています。教会といえども、罪の支配に歪められないという保証はありません。しかし、わたしたちを呼び集めてくださる方を信じて、私たちはここにいます。私たちはみ言葉を聞き、信仰を言い表しましょう。私たちは主イエス・キリスト、十字架に付けられ、死にて、葬られ、陰府にくだられた方を告白しましょう。

最後に黙示録1:17-18を読みます。453上。「わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。『恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。』」

 

主イエス・キリストの父なる神様

尊き御名を賛美いたします。4月の教会総会が終わり、教会は新しく長老の姉妹を加えられました。また、5月には東日本連合長老会の会議が行われ、西東京教区の総会が行われました。非常に困難を極めている諸教会の歩みは、私たちの社会全体の困難を反映しております。いつもどうしたらよいのか、と方法を捜し求める私たちですが、あなたの御言葉を聴く時に、いつでもどこにでも、いまし給う方、頼り行く者を決してお見捨てにならない方を改めて見上げることが許され、真に感謝に絶えません。

どうか、私たちが絶えずあなたに道を尋ね伺い、祈り求める教会でありますように。弱い者、貧しい者、無力な者をも、決してお見捨てにならず、むしろ喜んで御業を表して、あなたの慈しみの大きさ、死ぬ者も生かすほどの偉大な力を明らかにしてくださるように祈り願います。 若い人々が少ない日本社会ですが、どうか勇気と知恵をお与えください。前代未聞の社会状況にこそ、イエス・キリストの計り知れない恵みが働きますように。どうか、救い主キリストを告白する信仰をお与えください。私たちの家族に、友人に、社会に。そのためにこそ、主よ、私たちがいる場所にいつもいらしてご栄光を表してください。

本日行われる長老会議を祝し、あなたの御心によって導いてください。また、来週の花の日に例年教会学校が行っている訪問行事を今年も導いてください。また、全国連合長老会の会議が来週行われます。どうか成宗教会について行われる人事の上にあなたの恵みの御支配がございますように。

今日もこの礼拝に参加できなかったすべての兄弟姉妹のために祈ります。どうぞ主の豊かな顧みをお与えください。再び礼拝を守ることができますように道を開いてください。

今日、これから主の晩餐に与ります。

すべてを感謝し御手に委ねて、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。