聖書:レビ記26章12-13節, コリントの信徒への手紙二 6章11-18節
私が教会の教職、つまり信徒としてではなく、牧師となって伝道に携わりたいと思うようになったのには、最終的には神様の御心によってとしか申し述べることはできないのですが、個人的にはいくつかの考えがあったからだと思います。私自身は女性の教職というものには会ったことがほとんどありませんでした。アメリカ人の宣教師を除いては、ほとんど見たことさえありませんでした。それでも、私の中では、信徒が女性が多い教会のことを考えると、女性の教職の方がより親しく話ができ、悩みを聞いたり、励まし合ったりできるのではないだろうか、という考えがありました。病気の方のお見舞い、老人ホームでの働きなどにおいては、私の考えはある程度現実に即したものであったと思います。
しかしながら、一番大切なことは、教職は女性が良いとか、やはり伝統的にそうであるように、男性が良いとかいう問題ではありませんでした。なぜなら、これは当然のことなのですが、教職の務めは御言葉を伝えることにあるので、男女の別なく、この務めのために、全身全霊を上げて進んで行くことこそが大切なのであります。何をするにもそうですが、わたしたちはどうやったらうまく行くのか、方法論を一生懸命考えるものです。マニュアルを考えるのです。料理の方法から、受験勉強の方法から、面接の方法から、就活から、人生のしまい方までマニュアル本が売れます。
人々は教会を建てるためにマニュアルを考えるでしょう。女性教職が良いとか。良くないとかいうのもその一つで、私も知らず知らず考えていたことでした。コリント教会の人々も、教会の指導者について、ああいう先生、こういう先生が良いと考えていました。人気投票のようなことをしていました。しかし、彼らは大切なことに思いが及びませんでした。それは何か?それは、教会の指導者は教会を建てるために説教しているのだ、ということです。すなわち、神の御心が知らされ、人々の間違いが正され、悔い改めて、主に従う教会となるために、主の日の礼拝においてみ言葉が説教されるのです。
ところが、パウロから送られて来た手紙で、教会の人々は非常に多くの問題を正されました。普通の人は相手に忠告をする時には、慎重に配慮するものです。それは、とにかく相手を傷つけないように、という配慮です。また、相手がいくら言っても分かってくれそうもない場合は、わざわざ忠告をしないこともあります。要するに相手を傷つけたくない、という配慮でありますが、同時に自分が厳しく言ったことで相手に嫌われたくないという自己保身でもあるのです。その結果、言ってもらわなければ分からない人々は、憎まれてでも言ってくれる人がいない限り、決して自分の過ちには気が付かないものです。
さて、それが世の中で一般的に行われていることですが、パウロはコリント教会に手紙を書き、教会の人々の問題を厳しく指摘しました。なぜなら、これは個々人の問題ではなく、教会の問題であるからです。教会はギリシャ語でエクレシア、すなわち、主に呼び出された人々の集まりであるからです。そして、パウロは教会を愛していました。教会の人々に嫌われたくないことよりも、憎まれたくないことよりも、大切なことがありました。それは、教会の人々が本当に主イエス・キリストのものとなること。本当に神のものとなることです。そのためならば、パウロは何も恐れません。既に彼は十分に嫌われたようであります。嫌われるというより軽蔑されたようであります。しかし、そんなことでは落胆しません。そんなことで教会の人々を見限りません。諦めません。
なぜなら、彼はそこに主のために教会を建てたからです。主に従う人々を集めたのです。今は問題だらけの教会になっていたとしても、彼は確信を捨てません。これは主の教会、主の体の教会なのだ、と。そしてそれこそは、教会の人々に対する彼の愛に他ならないのです。彼は主のためならば何でもするのです。ですから主の教会のためならば何でもするのです。教会の人々皆に彼は訴えます。彼を軽蔑していた人々にも、次のように訴えます。「コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を開きました。」「率直に語る」というのは、「口を開く」という言葉です。心を全開にして、率直に隠すことなく、余すことなく、ありのままに語り伝えるのは、主の愛によるのであります。罪人を捜し求め、悔い改めを呼びかける救いの言葉なのであります。パウロは呼びかけます。12節。
「わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。」彼は言いたいのです。「わたしの口は、あなたがたと共に語り合うために開かれている。わたしがあなたがたに対して抱いている愛情を、ああたがたの目の前に示して見せてほしいというなら、喜んでこの心をも開くであろう。しかし、あなたがたの方が、自分の腹を割ろうとしないのだ」と。だから、ちょうど父親が子供に語るようにわたしは言いますよ。わたしの心、主の愛を伝えようとする広い心に応えて、あなたがたも同じように心を広くしてくださいとパウロは言うのです。
古代の父と子の関係は、現代人が頭で考えるよりもはるかに大切なものでありました。それは、長い時を経て、お互いに助け合う関係だからです。父の義務は、子供を育て上げ、忠告の言葉を与えて子供を教育し、子供の支えとなることでした。そして子供の方も、成長する自分とは反対に、年を取って行く父親にのために支えとならなければならないでしょう。パウロは教会の人々対して父親のような愛情を抱いています。だから、人々の方からも、教会を建て、人々を教え育んだ父親のようなパウロに対して、子としての愛と尊敬をささげ、パウロの子であることを証ししてほしい。
こう教会に語りかけて、パウロは父親らしい権威を示すことができました。その上で今度は早速コリント教会の人々に対し、厳しい言葉で訓戒を始めるのです。それは彼らが偶像礼拝に加担し、不信仰者の仲間になっていたと思われるからです。14節。「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。」ここで「軛を共にする」という言葉は、農耕用の家畜について用いられるたとえであります。牛馬は同じ軛につながれていると、どうしても並んで歩かなければならないし、力を合わせて同じ一つ仕事に精を出さなければなりません。これは結婚の組み合わせのことを言っていると考える人もいますが、信仰のない人々と同じ軛につながれてはならないとは、結婚をはじめとする交わりを禁じている言葉ではありません。要するに不信者の汚れに染まってはならないという命令であります。
わたしたちはだれもが、ただ一つの太陽の下、同じ地上に暮らすのでありますから、信仰のない人々と交わること無しに済ますことはできません。これは、コリント教会が建てられた時代には当然のことで、わたしたちの社会同様、キリスト教徒は少数者でありました。しかし、ここでパウロが「信仰のない人々と同じ軛につながれてはならない」と言うのは、キリスト者にとって、一緒に関わることが許されないような業に関わってはならないということなのです。
それは具体的にはどういう業だったのかと申しますと、それは偶像礼拝に関わることでした。彼らコリント教会の人々は、クリスチャンはキリストの執り成しによって罪が赦されたのだから、極端に言えば何をしても自由だ、許されていると考えていたようでした。そのため、信仰を持たない人々の宴会に何のためらいもなく足を運び、彼らと一緒になって汚れた不純な儀式に与っていたのであります。当時、宴会に出される肉は、異教の神々に捧げられた犠牲でありました。そして、その神々はこの世の欲望の実現に向かって人々を引きつけるのでありました。酩酊した酒の神が讃えられ、肉欲の神々が追い求められる集会に、コリント教会の人々は平気で出入りしながらも、自分たちには何の罪もないのだと当たり前のように思いこんでいる始末だったのです。
このような偶像礼拝は深い滅びの穴の入り口になるものですから、パウロは教会の人々に偶像礼拝に絶対に加わってはならないと戒めるのです。このことは、信仰と関わりのない人々には、むしろ厳しすぎることのように聞こえると思います。特にたくさんの神々が普通に拝まれている異教の社会では、唯一人の神を拝むということの方が理解されないのです。教会の中においてさえ、結婚という目的のために、宗教を変えた人々がいて、キリストの信仰を告白しながら、同時に他の宗教を捨てない。付き合いをしていることが少なくないのです。そのために親が子供に洗礼を授けさせながら、子供が信仰告白に導かれることを拒否するという矛盾も起こります。
しかし、教会の信仰は神の独り子イエス・キリストを告白することにあります。主は天から降って来られ、世に命を与えるパンである、と言われました。教会はキリストこそ神の義、正義、正しさであると信じます。それなら「正義と不法とにどんなかかわりがありますか。」正義と不法は決して相入れません。キリストは世の光であると信じます。それなら「光と闇とに何のつながりがありますか。」光と闇は妥協して薄ぼんやりした光になるのでしょうか。闇になるのでしょうか。そんなことはあり得ません。信仰と不信仰が妥協するとどうなるのでしょうか。それはただの不信仰に過ぎないではありませんか。
神の神殿、神の居ます所と、偶像とは全く相いれません。わたしたちは目があっても見えない、口があっても語れない偶像のようになって良いはずはありません。なぜなら、わたしたち自身が生ける神の神殿だからです。コリント一10:14-16節を読みます。「わたしの愛する人たち、こういう訳ですから、偶像礼拝を避けなさい。(中略)わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。」そうです、わたしたちは大勢でも一つの体。イエス・キリストは頭(かしら)。わたしたちは主の体なのです。
16節に引用されているのは、今日読んでいただいたレビ記29章12節です。神は御自分の民をエジプトの奴隷から解放してくださいましたが、神の民は歴史の中で幾度となく罪を犯し、真の神から離れ、偶像に惹かれ、その奴隷となったのでした。しかし、神は預言者によって罪人の救いを宣言されているのです。わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。神は人々から遠く離れておられたのですが、救い主によって人々に近づき、人々の間に住んでくださる。ということはどういうことでしょうか。それは、人間の建てた神殿の建物に住んでくださるということでしょうか。そうではありません。神は、人の手によらない神殿を人々の間に立て、そしてわたしたちを神の民としてくださったのです。その神殿とはキリストの体の教会です。その神殿とは、わたしたち自身なのです。わたしたちは悔い改めて、洗礼を受け、神の子とされる約束を受けました。聖餐をいただいて、キリストの犠牲によって贖われた身であることを噛みしめています。わたしたちは神に属するもの。神のものとされたのです。
わたしたちは知らなければなりません。このことは大変に恐れ多いことであることを。この頃は、自宅に応接間というものが無い家が多いでしょう。ほとんど客が来ないとなれば、散らかし放題なのであります。しかし、ここに突然、大事な客が来るということになったら、どうします?このままでいいでしょうか。そうはいきません。慌ててできるだけゴミを出し、ぼろを隠して、きれいにします。人間に対してそのように気を遣うのなら、神様に対してはどうでしょうか。「心の中はありのままで、ぐちゃぐちゃでいいでしょう?どんな罪人でも救ってくださると仰ったではないですか?」等と神様に居直るのでしょうか。それが、本当に悔い改めて主に立ち帰った人の態度でしょうか。あり得ないことです。
わたしたち自身を、主の民にふさわしく整えようではありませんか。神の居ます所としていただいたのですから、粗末なわたしたちの心と魂を主に献げて、むさくるしい所ですがどうぞお入り下さい、どうぞ私にとどまって下さいと願いましょう。それが汚れたものから遠ざかる第一歩なのです。最後にⅠコリ6:19-20「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分のからだで神の栄光を顕しなさい。」306下。祈ります。
恵み深き天の父なる神様
主のご受難を特に覚えわたしたちのために捧げられた尊い犠牲を感謝いたします。それに答える信仰の歩みをどうぞ一歩でも多く、あなたに向かって歩ませてください。わたしたちは生ける神の神殿であるというみ言葉をいただき、恐れを抱きます。あなたが喜ばれるのは、わたしたちの謙った心。謙った魂をあなたは軽んじられません。どうかわたしたちが自分の生きて生かされて来た日々を振り返り、悔い改め、残りの年月を主の喜ばれる道を尋ね求める者とならせてください。
恵みの教会を心に思い、天を仰いでおります。地上のわたしたちは多くの困難に囲まれ、途方に暮れることもしばしばです。しかし、あなたの導きを信じ待ち望んでおります。地上でわたしたちが礼拝しているこの教会に将来を与えてください。この地でいつの時代にも福音が宣べ伝えられ、賛美が捧げられますように。日本基督教団を通して、連合長老会を通して主の御業が力強く行われますように祈ります。また、この教会において主に奉仕する方々を祝し、その背後にある家族、友人、社会を祝してください。わたしたちが世にあって、人々のために執り成しの務めを果たし、主の喜ばれる救いの御業に参加できますように。特に悩みと労苦にある方々と共にいらして下さい。
わたしたちの贖い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。