主日CS合同礼拝
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌187番
讃美歌354番
讃美歌532番
《聖書箇所》
旧約聖書:エレミヤ書 31章3節 (旧約聖書1,234ページ)
31:3 遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ。
新約聖書:ヨハネによる福音書 6章41-58節 (新約聖書176ページ)
◆イエスは命のパン
6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、
6:42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
6:43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
6:44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6:45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
6:46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
6:47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
6:48 わたしは命のパンである。
6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
6:50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
6:52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
6:53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。
《説教》『私は天からのパン』
皆さんご存知の様に新約聖書にはマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書があります。四つの内のマタイ・マルコ・ルカの三つの福音書を纏めて共観福音書と呼びますが、本日のヨハネ福音書は共観福音書とちょっと別扱いをされています。それは、このヨハネ福音書は、三つの共観福音書と書き方がかなり違うからです。一例をあげると、皆さんがお馴染みの馬小屋で母マリアからイエス様が産まれるクリスマス物語がありません。その代わり、ヨハネ福音書1章1節から、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあり、14節で、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と、イエス様の誕生を極めて抽象的で難しい描き方をしています。今日は、その少々難しいヨハネ福音書の16章からのお話です。
今日の41節でイエス様が、追いかけて来た沢山の人々に、「わたしは天から降って来たパンである」と言われました。その言葉を聞いた群衆は「天から降って来た」という言葉に対してつぶやき始めます。ここの「つぶやく」とはイエス様の言われたことが理解できず信用できずに、疑いを言い出したということです。それは、何故かと言うと、この時イエス様の言葉を聞いていた人々は、イエス様のことをよく知りませんでした。言葉の意味もよく理解できませんでした。
イエス様のこの言葉を聞いていた人々の中に、イエス様の父親である大工のヨセフと母親であるマリアを知っている人がいたのです。その父と母から生まれたイエス様が、天から降って来るわけがない。イエス様が嘘を言っていると思ったのです。イエス様の言葉を聞いても、全く言葉の意味が分からない人々は、何とか自分が知っている知識で理解しようとしたのです。でも、自分の知っている知識では、イエス様の言っていることは分かりません。結局、人々は「何でそんなことを言うのか」とか、「何でそんなことが出来るのか」とつぶやくことしか出来ませんでした。
イエス様は、そのような人々に向かって、「つぶやき合うのはやめなさい」と注意し、「わたしは、天から降って来た生きたパンである」と言い、51節で、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」。イエス様こそ命のパンである、と言われていたのが、ここでは、そのパンとは「わたしの肉のことである」と言われました。パンが肉へと変えられましたが、いずれにしても、イエス様こそが、私たちに永遠の命を与えるまことの食べ物であることが語られているのです。そして、この話を聞いた群衆は「イエスの肉を食べるだって、人の肉を食べろというのか、そんなこととんでもない」と大騒ぎになったのでした。
53節には、イエス様は、「肉を食べるだけでなく、その血を飲め」とまで語られています。かなりグロテスクな話であり、気持ちが悪いと感じる人も多いと思われます。これは私たちが気持ち悪いと感じるだけでなく、この時イエス様の言葉を聞いていたユダヤ人たちにとっても、とんでもない話でした。旧約聖書には、動物の血を飲んではならない、という教えがあります。動物の肉を食べる場合も、その血は地面に流さなければならないとされていたのです。そもそも、動物の血を飲んではならないと旧約聖書に教えられていたのは、血にこそ命が宿っていると考えられていたからです。命は神様のもので、生き物に神様が命を預けられると言うのが考え方です。だから動物の肉を食べ物とする時にも、命は神様にお返ししなければならない、と律法で教えられていたのです。まして、人の血を飲むなどということは考えられないことでした。ですから、この後の60節にはこう語られています。「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』」。イエス様に従って来ていた弟子たちの中にも、このことによってつまずいて去って行った者がいたのです。当時のユダヤ人たちからも、とんでもない、と思われるようなことをイエス様はおっしゃったのでした。
これは、神様が、独り子であるイエス様の命を、私たちの救いのために犠牲にし、与えて下さることを言われているのです。イエス様の命である血が、私たちの救いのために流されるのです。このイエス様の十字架の死による救いにあずかることは、イエス様の命である血を飲むのと同じことなのです。神様がその独り子イエス様によって実現して下さった十字架の救いは、その肉を食べ、血を飲むことにおいてこそ私たちの現実となるのです。
これは明らかに、私たちがあずかる聖餐を意識してのことです。洗礼を受け、主イエス・キリストと結び合わされた者は、聖餐のパンと杯にあずかることによって、独り子なる神、主イエス・キリストの肉と血とをいただくのです。この聖餐こそ、天から降って来た生きたパンであるイエス様を食べて私たちが生かされるために神様が備えて下さった食卓です。洗礼を受け、聖餐にあずかっている私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しと永遠の命が自分に既に与えられており、新しい命を生き始めていることを確信することができます。
ですから主イエス・キリストを信じて救いにあずかるというのは、単にイエス様が神様から遣わされた救い主・キリストだという教えを受け入れる、ということではなく、私たちがイエス様の肉を食べ血を飲んで、心と体の全体においてイエス様と結び合わされ、一体となることなのです。私たちは抽象的で観念的に信じるのではなく、具体的で現実的に生きて聖霊として働いおられるイエス様を信じ、救いにあずかるのです。そのことを言い表しているのが、主イエスの肉を食べその血を飲むという言い方なのです。
この聖餐は洗礼を受けた者があずかるものです。洗礼は私たちの信仰の決意表明ではありません。洗礼を受けることによって私たちはイエス様の十字架の死と復活の命にあずかり、聖霊の働きによってイエス様と結び合わされ、一つとされるのです。洗礼を受けた者はイエス様との間に56節の「その人はいつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」という関係を与えられるのです。洗礼においてイエス様と結び合わされ、深い関係を与えられた者が、聖餐においてイエス様の肉と血とにあずかることができるのです。
主イエス・キリストが天から降って来た独り子なる神であると信じるとは、46節にある、「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」と別の言い方を信じることです。これは先程振り返った1章のすぐ後に続く18節の言葉、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と同じことを語っているのです。独り子なる神であるイエス様によってこそ私たちは父なる神を示され、信じることができるのです。47節には、「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」と語られています。イエス様を信じる者は永遠の命を与えられるのです。なぜなら、48節でイエス様が言っておられるように「わたしは命のパンである」からです。主イエス・キリストは、天から降って来て世に命を与えるパンです。父なる神が天から与えて下さるまことのパンです。このパンを食べる者は、永遠の命を得るのです。
私たちの中には、イエス様が天から降って来られた者、つまりまことの神が人間となった方だという教えにはとまどいを感じる方々もいるのではないでしょうか。イエス・キリストの教えはすばらしいし、弱い者、貧しい者と共に生きたその歩みは見倣うべきものである。だから、人間として立派な教えを言われたイエス様を尊敬し、その生き方を手本として歩もうというのは分かる、でも、人間として父ヨセフと母マリアから産まれた人間であるイエスが天から降って来た独り子なる神だと言われるとよく分からなくなったしまう。分からないというのは、そういうことは信じられない、受け入れ難い、ということです。
44節の「父が引き寄せて下さる人」というのは、聖書のみ言葉をしっかり聞く人です。聖書から神様の教えを受けることを通して、イエス様が独り子なる神であることを信じることができる人です。それを信じることができずにつぶやきが生じるのは、聖書から神の教えを聞こうとせず、自分の考え、感覚、あるいは人間の常識によってイエス様のことを判断しようとするからです。人間の感覚や常識からすれば、ヨセフの息子である普通の人間イエスが天から降って来た独り子なる神である筈はないのです。
信仰者とは、洗礼を受け、聖餐にあずかることで、イエス様の肉を食べ、血を飲み、イエス様と一つにされ、イエス様が内にいて下さり、自分たちもイエス様の内にいる、という一体的な関係に生きている者です。そして、教会とは、そのようにキリストと一体とされた者たちの群れ、キリストという頭のもとに集められ、洗礼において一つとされたキリストの体であり、聖餐においてキリストの肉と血をいただき、それによって養われつつ歩んでいる群れなのです。
洗礼は、主イエス・キリストの体である教会に結び合わされる、その最初の時にあずかる一度限りの決定的なしるしですが、聖餐は、その恵みが今確かにこの自分に与えられていることを繰り返し体験させてくれるものです。聖餐にあずかるたびに私たちは、イエス様の肉を食べ、血を飲み、主イエス・キリストと結び合わされ、その救いをこの体をもって味わい、イエス様を復活させて下さった父なる神様が、イエス様と一つにされた自分をも終りの日に復活させ、永遠の命にあずからせて下さるという希望をその都度新たにされるのです。
命のパンである主イエス・キリストを食べることで、私たちは永遠の命に生きる者とされます。私たちが食べ物から栄養を得て、健康で元気になるように、イエス様、神様のみ言葉を食べることで、イエス様を信じる信仰に栄養が与えられ、心が元気で健康になるのです。そして、永遠の命の恵みに生きるように導いて下さいます。今日も、私たちはみ言葉によって命のパンを頂きました。元気になって新しい一週間を歩みだしましよう。
お祈りを致しましょう。