神による悲しみ

聖書:エゼキエル18章30-32節, コリントの信徒への手紙二 7章10-16節

先週、成宗教会は2017年度の教会総会を開催し、前年度の活動と決算の報告を行い、そして今年度の活動と予算の計画を明らかにしました。すべて承認されました。東日本連合長老会に属するわたしたちだけではなく、日本基督教団のすべての教会は会議制を取っておりますので、定期総会によって教会の方針が決められます。また細かい日常的なことについては、すべて総会を開いて決めるのではなく、全体を代表する長老たちを選挙によって選び、長老会議に教会の礼拝から牧会まで委ねているのであります。

そこで、毎年行われる長老選挙は重要な意味を持っています。それは、教会に所属する者が祈りをもって長老にふさわしい人々を選び出さなければならないからです。祈りをもって、とは何を祈るのでしょうか。それは自分の気に入った人が当選するようにという祈りではありません。それは教会を建てて行くためにふさわしい人を求める祈りです。みんながふさわしいと思っていても、自分はふさわしくないと思うことがあります。そういう思いはむしろ自然なことで、ほとんど誰にでもある思いです。しかし、もしみんながふさわしいとは思わないのに、自分がふさわしいと思って長老になりたがる人がいたとしたら、こういう場合の方が問題です。

ですからふさわしさ、というのは、長老も牧師も含めて、自分で決めることではないことが分かります。「どうぞ、この教会を建てるのにふさわしい長老を与えてください」という祈りがあるかどうか。選挙の直前にあるだけではなく、いつも、いつも祈りに覚えることが、とても重要なことであります。というのも、教会は旅をしている船に例えられるもの。歴史の中を進んでいくものだからです。

2000年前に主イエス・キリストの御復活によって、宣べ伝えられ始めた神の言葉が、全世界の人々を救いに招きました。教会は神の言葉が告げ知らされる所です。教会は救いに招かれた人々が、招きに応えて主に従うものとなった所です。そして何よりも大切なことは、この福音が何時でもどこでも同じ福音だ、ということにあります。このことを、エフェソの信徒への手紙で、パウロは教会の人々に次のように述べています。エフェソ4章3節~6節。356頁。「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」

体とはキリストの体の教会です。霊による一致を保つために、聖書があり、聖礼典があり、聖職者が立てられ、信仰告白がなされます。パウロがコリント教会を建設し、このように手紙を送って牧会指導していたのは初代教会の時代ですから、一致のためのしるしはまだまだ整っていませんでした。しかし、霊による一致ということを一つ考えても、今日に至るまで、教会は自分たちの問題として思い当たるような様々な経験をさせられているのであります。

今、日本は観光立国を目指していると聞いております。地方に行くと、以前から外国人観光客で埋め尽くされた観光スポットなどを体験することがありましたが、今は首都圏でも、教会の周りでも、剣道の竹刀のようなものを担いでどこかを目指して行く国籍不明の外国人男性の一団がいきなり通ったりして驚くことがあります。世界中の人々がこんなに旅行好きなのかと思いますが、彼らの目的は自分たちとは違うものを体験することなのでしょうか。しかし、少なくとも、日本が自分たちの国よりも良い所と思うので来るのでしょう。わたしたちは自分が守って来たルールよりもおかしなルールがある場所、あるいはルールなどない無法地帯のような所には住みたくないし、行ってみたいとも思わないでしょう。

パウロがコリントの教会に前に手紙を書いて、厳しく咎めたのも、それと関係があるのです。福音を宣べ伝えているのは、主イエス・キリストの一つの教会を建てるためです。それが教会の主が忘れられて、いつの間にか○○さんの、××先生の教会となってしまっている。しかも、表向きはキリストの教会という看板が掲げてあるなら、どうでしょうか。このような教会に行った人は、○○さん=キリストなのかと、とんでもない誤解をしてしまうかもしれません。その上、キリストの名を使っているのに、キリストの教えとは全然違うことが教えられていたなら・・・、更には、その教会と称する場所が、無法地帯のようになっていたなら、社会の人々に大変なつまずきを与えることになるのです。

パウロは厳しいことをいろいろ書きました。そしてその忠告の手紙は、コリント教会の人々ばかりでなく、驚くべきことに、いくつもの教会に回覧されて共有されました。皆、コリントの問題を他人事とは思わなかったのです。それどころか、いつでも、いつまでも、どこまでも読み継がれて聖書正典として、神の御心を伝える言葉となったのです。そこで本題に入りますが、パウロはコリントの人々にあのような厳しい言葉を書き送ったことを、今は喜んでいると述べています。それは、厳しい言葉によって教会の人々にショックを与えたかったからではないし、心を傷つけ、悲しみに陥れたいと思ったからではありません。

パウロはコリント教会を建て、御言葉を教えた人々に深い愛情を抱いていたに違いありません。キリストの愛を知る者はキリストの愛する人々を愛さずにはいられません。主がこの人たちをお招きになっているのだ、と思うとつくづくうれしいのです。だからこそ、厳しく語った。彼らの不行状を責めたのです。そして、責められて傷ついているだろうと思うと、自分も心が沈んでいたのです。ところが、責められた人々は傷ついただけではなかった。傷ついて、自分たちの非を認め、悔い改めました。パウロはこのことを、コリント教会を訪問したテトスから報告されて初めて知りました。

なかなかこういうことは起こらないものです。人を責めることも勇気が要ります。責められた人は傷ついて怒ることがあっても、それで終わってしまうことが断然多いからです。さらにいつまでも恨まれることもあります。だからなかなか責められません。それが彼らは責められて悲しんで、本当に悔い改めた!それは奇跡的なことだったと思います。

10節に神の御心に適った悲しみは悔い改めを生じさせると、パウロは語ります。パウロはここで世の悲しみとの違いを明らかにしようとしています。まず世の喜びから語りましょう。それは何でしょうか。それは、神を思わず、神をおそれることなく、この世を楽しんでいる喜びです。すなわち、人が空しく過ぎ去って行く幸福に浸りきっている時は、もっぱら、地上のことだけを思い、天を仰ぎ見ようとしないものです。それに対して、神による喜びがあります。それは、人が自分の幸福のすべてを、神のうちに築くことです。自分のすべての喜びを神の恵みのうちに汲み取ることです。何をしても、何があっても「ああ、主が私に良くしてくださったのだ」と感謝できるのです。そういう人は、この世の繁栄を楽しむにあたっても、慎ましくそれを自分のせいにしないで感謝します。また、逆境の時にも喜びを心に持ち、それを言い表すのです。

今度はこの世の悲しみですが、地上にしか心が向いていない人は、地上の苦悩によって意気阻喪し、悲しみよって打ちひしがれてしまいます。それに対して、神による悲しみは、いつの日も、ただひたすら神を見つめている人の悲しみです。「およそ世に生きて惨めなことあっても、神の恵みの外にあることよりも惨めなことはない」と判断する人は、ただひたすら神に従う者、神に恵みを施される者となりたい願い、悔い改めに至るでしょう。だから、こうした悲しみこそ悔い改めの元となります。

キリストは何の功績もないわたしたちを値なしの救いに招いておられます。しかし、同時にそれは悔い改めへの招きであります。わたしたちが罪を捨ててこそ、主は赦しを与え給うのです。ルカ5:31「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」111上。ですから、わたしたちは皆、「自分は神の御前に罪人です」と言い表すときには、それは単なる言葉だけであってはなりません。自分の罪を知って心を痛め、悲しんでこそ、わたしたちは回心して御もとに立ち帰ることができるのです。そういう悔い改めこそ、救いに結び付くのです。しかもそれは、取り消されることのない確かな救いです。

パウロはコリント教会の人々に11節の言葉で祝福を与えています。「神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、憧れ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。」彼らの悲しみは、神による悲しみでした。深く悔い改め、自分たちの中にあった悪い行いを取り除き、よりよいものに変えて行こうと熱心に心がけるようになったのです。ここで言われる弁明とは、くどくどと自己弁護することではなく、自分の非を認め、謙って赦しを乞うことにより、身の証しを立てることです。憤りは罪への怒りであり、自分たちの過ちを激しく責めているのです。それというのも、自分が神の御前に申し開きできないことを恐れているからでした。

また「懲らしめをもたらした」とパウロは述べています。懲らしめ、つまり処罰は、悔い改めを表す重要な一つのしるしとなります。それは、神がお許しにならないと思われる罪を、まず、自分たちの間で神の裁きを先んじて来させることで、わたしたちがわたしたちの中にある罪を罰するということです。それは、まず自分自身から始めなければならない。コリント教会の人々の罪の中で最も深刻なものとして指摘されていたのは、近親相姦の罪でした。このことは教会の一部の人の罪でありましたが、そのことに対して、教会は気づいても何も対処することがなく、見過ごしにしていたのでした。しかし、パウロの厳しい指摘を受けたことで、教会の人々はその罪を一人の個人の問題として放置してはならないことを悟りました。そして罪を認めたばかりでなく、教会からこのような問題を取り除くために立ち上がったのでした。

このような熱意が示されたことをパウロは非常に喜んでいます。これは単に使徒が叱ったので、教会が悔い改めた、ということではありません。このような痛ましい事件を通して、コリント教会一同が悔い改め、悲しみの中から立ち上がって、使徒の教えに熱心に応える者となった。そのことによって、コリント教会の信仰が神の御前で証明されたのだ、とパウロは確信しました。そして彼は伝道者として深く慰められたのでした。

「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一」であるという教会の霊の一致は、揺るがされかねない事件が度々、各教会を襲いました。それはこんにちに至るまでそうなのです。いざ教会に事件が起こると、コリント教会のように、個人的な不正行為から、牧師、長老の不行状、権威の濫用、誤った教えなどによって教会が蝕まれても、解決には大変な労力を費やし、人々を疲弊させかねません。その上に外から降りかかる時代の嵐、怒涛があります。歴史を進む旅する教会はこうして難船難破の危機にさらされ続けて来ました。

それにもかかわらず、教会は今も歩みを続けています。今も世界中で、目新しいものを捜している観光客にではなく、主に招かれた人々と共に生きるために、御言葉を宣べ伝え続けています。わたしたちの教会も創立から77年を迎えました。目標は昔も今も変わっていません。それは、主のご復活の時から変らないのです。主の教会に結ばれて、わたしたちは悔い改めに生きています。教会が悔い改めに生きる時、高慢な者も自分を悲しみ謙る者とされます。その時、かつて厳しく咎めた者が、咎められた者に「あなたがたのことを誇りに思う」と言うことができるのです。「あなたがたを信頼できる」と言うことができるのです。なぜでしょう。なぜ、このような奇跡が起こるのでしょう。わたしたちは主に結ばれているからです。主の執り成しに結ばれているからです。悔い改めて、イエス・キリストの執り成しに信頼する教会にこそ、真の教会を建てる希望があります。祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま、

御名をほめたたえます。成宗教会にわたしたちを集め、御言葉によって悔い改めと罪の赦しを新たに与えてくださいましたことを感謝します。先週わたしたちは教会総会を開くことができました。また新たに長老を選出することができました。力足りない者に力を与え、心弱い者に勇気を与える神様、どうかわたしたちにこの小さな群れを通してご栄光を顕し、慈しみ深い御心を顕してくださるあなた様の御声に耳を傾ける教会とならせてください。初代教会の時代に右も左も分からず、また何の見通しも無く困難に満ちていながら、心はあなたへの感謝、キリストへの愛に満たされていた教会のことを思います。わたしたちも一人一人は後何十年も生きられる者は少ない群れですが、教会の長い歴史、そこに与えられた一筋の信仰に連なって参りたいと思います。

成宗教会の77年の歴史の中に多くの労苦がありましたが、主に結ばれて生涯を全うした教師、信徒にわたしたちも続くものでありますように。悔い改めを起こし、救い主イエス・キリストの贖いの恵みにすがらせてくださるのは、ただ主の御力、聖霊のお働きです。わたしたちは喜びの中に、感謝の中に、主の御業を待ち望みます。

どうか総会で決議された諸計画、諸行事の上にあなたの導きをお与えください。そしてわたしたちすべての者が祈りによって伝道の御業のために働く者とならせてください。今日もいろいろな事情で教会に集うことのできないでいる方々に深い顧みをお願い致します。

この感謝と願いとを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。