惜しまず豊かに蒔く

聖書:出エジプト25章1-2節, コリントの信徒への手紙二 9章1-7節

 使徒パウロは教会を建てようとしています。なぜなら、地上に教会を建てることは、神の御心であるからです。教会とは主イエス・キリストの体であります。わたしたちも洗礼を受けて教会の一員(メンバー)となりました。教会の中心はイエスさまです。○○牧師ではありません。また××長老でもありません。目に見える教会はコリント教会、マケドニアの諸教会、大きい教会も小さい教会もある。それぞれが違った教会です。

しかし、教会の中心、頭(かしら)は、キリストであります。わたしたちは目に見える教会を通して、目に見えない主イエス・キリストと結ばれている。そしてそれぞれが身近にいる目に見える人々、聖徒と呼ばれる信者を通して、共に礼拝と信仰の生活を守っております。信仰は、見えている、分かっているから信じるのではないのです。ヘブ11:1に次のように言われます。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(414下)

ですから、現実にわたしたちが見ているのは、目に見えるこの教会、あの教会に過ぎないとしても、しかし、目に見えない教会を信じている。主が御自分の血によって罪の支配から解放してくださった人々の群れ。教会はわたしたちはキリストに結ばれてその御体となった教会を信じているのです。現代の人々は気軽に世界中出かけますが、実際にはわたしたちがこの目で見ること、この耳で聞くことはごく限られているでしょう。まして昔は一生涯、自分の町や村を出たことがない人も少なくなかったと思います。コリント教会へ手紙を送っているパウロもほかの使徒たちも、教会から教会へ旅することは命がけでした。

それでも、彼らは旅をしました。手紙を送りました。そして何百キロ離れたエルサレム教会の信徒のために募金を呼び掛けました。こうして何十キロも何百キロも、あるいはもっと離れたところに暮らす人々と交わりを持とうとしたのです。それは、教会を建てるためです。どんなに近くても遠くても、主に在って一つの教会を信じているからこそ、そうするのです。聖書は今に至るまで、この変らない教会の信仰を伝えてわたしたちに励ましているのです。

この人口減少の国の現実に生きるわたしたちに。この高齢化社会に立つ諸教会に。だから、わたしたちは御言葉を聴きたいと願います。それは、自分が何をしたいかを知るためではありません。主の御心を尋ね求めるためにこそ、わたしたちは御言葉を聴くのではないでしょうか。わたしたちも教会を建てようとしています。わたしたちの教会の先輩の方々、教師も信徒も皆そうだったと思います。一生懸命、教会を大切にし、礼拝を守った方々のことを思い起こします。しかしもし、教会がわたしたちのものであるならば、あの先生は良かった。○○さんは立派な方だったということに終始するならば、それはその人々の教会ではあったでしょうが、主の教会であったかどうかということになります。

なぜなら、あの先生も、○○さんも地上の生活を終えて、過去の人になっているからです。わたしたちもだれ一人として、やがて地上では過去の人とならない人はいないのです。過去の人を思い、感謝することは大切です。わたしたちもそうして来ました。感謝を以て思い出すことほど、主の御心に適って美しいことがあるでしょうか。しかし、問題はそこからです。問題は、わたしたちの教会が主の教会であるのかどうか、ということです。○○先生は良かった、○○さんは良かった、あの人がいなくなったらもうお終いだ、という発言を私は、教会で聞いたことがあります。あるいは自分がいなくなったらこの教会はもう駄目だろう、などと発言する人もいたと思います。

しかし、わたしたちの信仰は、主の教会を信じるところにかかっております。成宗教会をはじめ、小さな教会が沢山あります。都心にある教会ではなく、地方の市町村にある教会があります。人口流出に悩む地域の教会があります。その所でも、またここでも、多くの困難の中で、日々の戦いをしているのは主の教会を信じるからです。もし、この教会が主の教会なら、○○さんの教会ではなくて、主の教会なら、主がここにとどまって教会を建ててくださるでしょう。この希望を、この信仰を、掲げているかいないかが、分かれ道となるでしょう。成宗教会でも、どこの教会でも。パウロがコリント教会への手紙で勧めているのは、献金のことのように見えますが、実はこのテーマは献金ではなくて、献金に象徴されている目的なのです。それは、教会を建てるということです。

1節では、「聖なる者たちへの奉仕」と言われています。つまり献金募集ではなく、奉仕とは、聖なる者たち、すなわち教会の兄弟姉妹に対する援助であると言います。自分と同じ一つの体を作り、キリストの体の部分である人たちに対する信者の義務のことであります。わたしたちが右手を痛めれば、左手で代わりをするように、キリストの肢体は、互いに相手に仕えることを当たり前のようにするでしょう。

この手紙で実際に困窮していたのは、飢饉が起こって日々の生活にも困窮しているパレスチナ地方の教会、エルサレムの教会の人々でありました。コリント教会の人々はこの困窮について知ったとき、募金活動に応じようと立ち上がったようであります。このことを聞いたパウロは、マケドニア州の教会にコリント教会の姿勢を大いにほめたのであります。「アカイア州(コリント教会)では去年から準備が出来ているそうですよ」と言って。そうするとマケドニア州の教会では、コリント教会の熱意を聞いて、自分たちも是非頑張ろうと奮い立ちました。フィリピ教会やテサロニケ教会は決して裕福ではなく、それどころか、8章によれば、彼らは現地の人々や宗教との問題、ユダヤ人社会との問題なども次々と起こり、「激しい試練を受けていた」教会であったのに、その困難、苦難の中にあって、しかし彼らは救いの喜びにあふれていたというのです。彼らは生活に全く余裕なく、どん底状態であったにも関わらず、喜びがどん底の貧しさをついに呑み込んでしまうほどにあふれ出ました。

教会の人々はむしろ、自分たちがどん底だったからこそ、エルサレム教会の人々のどん底の苦しみが他人事ではなかったのでしょう。彼らはただ単純に自分たちの身を削っても真心を尽くしたかったのでした。真心とは単純であり、「物惜しみしないこと。犠牲をいとわない気前の良さ」なのです。

それでは、この苦難、困難の中から奉仕を申し出たマケドニアの教会が、いわば、お手本としたコリント教会の方はどうでしょうか。パウロが誇りに思うと言って自慢して来たコリント教会に対して、パウロは自分が推奨した通りであるようになってくださいと願っているのです。そのために、パウロは自分の訪問の前に、福音宣教者として共に働いた二人を先にコリント教会に向かわせると言っています。そして自分が後からマケドニア州の教会の人々とコリントに到着した時には、「さすが、コリント教会は、立派な贈り物の用意が出来ましたね」と言われるように準備してください、と願っているのです。

これは一見すると、パウロがマケドニアにはコリントをほめ、コリントにはマケドニアの奉仕をほめて、両方から最大限の献金を引き出しているように見えるかもしれません。しかし、貧しい教会が自分たちよりもっと困窮している教会のことを知り、できる限りの援助を申し出る。またコリント教会のように、主の教会にふさわしくない思いと行いを悔い改めた教会が捧げる感謝。このすべての精一杯の努力、労苦は、だれのためでしょうか。エルサレム教会という特定の人々のためでしょうか。いいえ、実はそうではないのです。この労苦はこの奉仕はキリストの体の教会を建てるために用いられて行くのです。

だからこそ、パウロは自分の儲けのためではない、エルサレム教会だけのためではない、ただ主のために、一心に、真心を込めて、協力を呼び掛けています。5節でも、献金という言葉は使われていません。「以前あなたがたが約束した贈り物」と言っています。1節で奉仕という言葉になっていましたが、それは援助のことです。単にお金ではない広い、深い助けであります。そして5節で贈り物(ユーロギア)というのは、広い意味で祝福を表します。また、ほめたたえること。そして贈り物、献金という意味を持っています。祝福は言葉だけでなく、金銭という具体的なもので表現されることも出来るのです。

結局のところ、わたしたちが他の人を祝福することが出来るのは、神さまがわたしたちを祝福してくださっているからです。もし、「神さまは自分に厳しい」とか、「いじわるだ」とか、「ケチだ」とか思っている人は、どうして他の人を祝福することが出来るでしょうか。わたしたちが見返りを期待しないで、人に何か贈り物をすることが出来るのは、わたしたちが神様から祝福されているからにほかなりません。

だからこそパウロは申します。「渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」豊かに蒔くとは、元の意味は「祝福の中に蒔く」という意味です。つまり単純にこう言われています。「けちけちと蒔く者は、またケチな収穫しかしないであろう。しかし、祝福のうちに蒔く者は、また祝福の中に刈り取るであろう」と。

種を手から地面にまき散らし、鍬でならしておくと、種はまるでなくなってしまったも同然に見えますが、施しについても全く同じことが言えるのです。あなたの所から出て、他人の下へと移し去られたと、それだけあなたの財産が減少したかのように見えますが、しかし、時が来れば、蒔いた種の実りを取り入れることが出来るのです。なぜなら、主なる神は、人が貧しい者に施すものは、御自身に対して捧げられたものと見做し給うからです。それだから、主は後には献げ物に大きな利子をつけてその人に報いてくださるでしょう(箴言19:17)。

このように主を見上げて、祝福の種を蒔くことこそ、教会にふさわしい働きです。それでは、ここで言われる豊かな刈り入れとは何でしょうか。それはもちろん、永遠の命という霊的な報いのことであると思われます。しかしそれだけではないでしょう。刈り入れとは、貧しい者に対してもの惜しみせず与えた人々に、神が授け給うこの世の祝福のこととも解釈できるのではないか、と宗教改革者は述べています。なぜなら、神の祝福は天上においてばかりでなく、地上においても与えられているからです。

そういうことから、パウロが用意をしておきなさいと勧めている贈り物とは祝福であることが分かりました。祝福とは、すなわち、他人の栄えを願い祈ることであります。また恩恵を施し、与えることであります。祝福とは、本来神だけがおできになるもの。人間は人にたとえ祝福を与えても、神のなさり給うようには到底与えることはできません。だから、パウロは決して無理強いはしません。「仕方なく与える」とか、「強制されて与える」という贈り物では、祝福にはならないでしょう。

パウロは先に「あふれるばかりに施しをしなさい」と教えましたが、この言葉を付け加えました。すなわち「神に喜ばれる施しは、金額によるのではなく、心映えによるのですから、自分でこうしようと心に決めたとおりにしなさい」と勧めたのです。

最後にもう一度思い出しましょう。教会が、そしてわたしたちが、互いに援助し合うことの最も深い意義は、Ⅱコリ8:9の言葉にあります。334上。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っていますすなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」わたしたちが建てるのはこの主の教会です。主の貧しさによって豊かにされたわたしたちが、主に結ばれて救われるために。また主に結ばれて救われる人々を教会に招き入れるために。それは主の命と共に生きる教会、世の終わりまで続く教会です。祈ります。

 

主なる父なる神さま

5月の最後の主日礼拝の恵みを感謝し、御名をほめたたえます。5月のたくさんの行事、会議をも守り導いていただき、ありがとうございます。先週は東日本連合長老会の教会会議を感謝します。自由が丘教会、十貫坂教会では新しい教職を迎えました。また、成宗教会を会場に教職の集まりが開かれました。主の体の教会を建てるために、共に学び、共に助け合っていくことが出来ますことを感謝いたします。教会は小さな群れですが、主のご委託に応え時代の悩みを共に負い、助け合って主にお仕えできることを望んでおります。

来週はペンテコステ礼拝を守ります。主の聖霊の助けによって、主を愛し、主に従う者に、力強い福音の言葉を与えてください。また、教会は教会の始まりからそうであったように、いろいろな奉仕や社会活動によってではなく、まず御言葉を教えて教会を建てる働きにあることを多くの人々が悟るものでありますように。諸教会に主の霊によって命の御言葉をお与え下さい。そしてそれを聴く人々をお与えください。そして成宗教会においても、長老会を励まし、種々の奉仕に当たる人々を励ましてください。皆、強制されてではなく、喜んで主に奉仕し、感謝する者となりますように。教会に新しい長老を立ててくださった主の御心を感謝します。どうかこの兄弟が様々な困難を乗り越えてこの務めを全うすることが出来ますよう、上からの力によってお支えください。

今、礼拝に足を運ぶことが出来ない方々に、あなたの深い顧みがございますように。また新しい世代の方々が、喜んでできる奉仕に向かって道を開いて下さい。大変多忙な生活を送っている方々のご健康を祝してください。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。