神にも人にも公正に

聖書:箴言3章1-7節, コリントの信徒への手紙二 8章16-24節

 成宗教会は毎年5月に墓前礼拝を行っています。教会墓地のある越生の霊園は緑豊かな美しい景色に囲まれ、桜の花の季節にどんなに良いだろうと思います。教会墓地に眠る方々は全く異なった生涯を送られ、共通点は何もありません。ただ一つのことを除いては、何もないのです。その一つとは主イエス・キリストの執り成しに結ばれているということです。そしてそのたった一つの共通点のために、その方々は何と恵まれた者とされていることでしょう。わたしたちも、今日もこうして地上で礼拝を守るために教会に集まっているわたしたちも、同じです。たった一つの共通点のために集まっています。その共通点とは、主によって呼び集められたことです。

教会、それは日本語では「教える会」と訳されていますが、元々の意味は「呼び集められた者の群れ」という意味です。神さまに呼ばれた者が、その呼びかけに応えて集まる時、そこに教会が目に見えて在ることが分かるのです。パウロはユダヤ教徒でした。教会の迫害をするほど熱心なユダヤ教徒でしたが、キリストに呼び出されました。そして、キリストの呼びかけに応えたのです。彼は自分の迫害して来た教会の一員となりました。彼の回心は、人々にはなかなか信じてもらえなかったのですが、最初に彼を信用し教会に連れて行ったのは、バルナバという人でした。この人は使徒言行録の4章に初めて登場します(4:36…220末)。彼はレビ族の人で、本名はヨセフ。使徒たちからバルナバ「慰めの子」と呼ばれていました。

今日の聖書には直接名前は出て来ませんが、18節でパウロが「一人の兄弟を同伴させます」と言っているのは、おそらくバルナバのことだろうと一般的に考えられています。バルナバ自身、ユダヤ教の神殿に仕える祭司階級の出身からキリストを信じる者となったのですから、パウロの回心に至る苦悩を真っ先に理解し、教会に招き入れる執り成しの務めを果たしたのです。なぜなら、教会は自分たちのものではない。教会は主の体だから。主が招いておられるなら、人は悔い改めることができるのです。どんなにそれ以前の行状が悪くても、主は頑なな人の心を打ち破ってくださることがお出来になります。反対にどんなに素晴らしい人でも、こんな人が教会の中にいたら、さぞ教会の評判が良くなるだろう、とか、さぞ福音伝道に役立つだろうとわたしたちが思い描いても、主が悔い改めさせてくださらなければ、だれも主の体に結ばれることはできないでしょう。

コリント教会の中にいろいろな問題があった。深刻な問題があった。こんな教会は駄目だ、と評判が立ったかもしれません。しかし、彼らはパウロの手紙を読みました。すると、奇跡的なことが起こりました。あれほど思い上がっている人々が中心を担っていた教会が悔い改めたのです。そして自分たちの教会の恥となるような個人の行いを教会から取り除いたのです。自分が自分の悪行を認めるということはなかなか起こらないことです。これこそが、主の御支配のある教会、主の恵みの御支配のあるところを証ししています。すなわち主の体に結ばれ、主の執り成しによって罪赦されるからこそ、悔い改めが起こるのです。

パウロは喜びのあまり、かつては苦言を呈し、厳しく問題を指摘したコリント教会を、誇りに思うというまでになりました。このような変化。人々に対する不信から、同じ人々に対する信頼へと一変することもまた、主に結ばれた教会だからこそ与えられた恵みに他なりません。互いの信頼が成り立つところで、初めて勧められることが、慈善の業、奉仕であります。これは、逆ではないのです。慈善の業、奉仕をしているうちに人々の中に信頼が生れると考える人々は多いのかもしれません。しかし、実際に行ってみるとそれは逆だということが分かるでしょう。何か善い業を始めようとするなら、その前提となるものは、互いの信頼なのです。今でもあるでしょうが、街頭募金で「恵まれない子供たちに」とか、「アフリカの子供に」と呼びかけられますが、一番の問題は募金をしている人々が本当に信用できる団体なのだろうかということであります。

前にも申しましたように、パウロが呼びかけているのは、一般論的に恵まれない人々に、という名目での募金ではありません。そうではなく困窮する聖徒のために、すなわち聖なる者たちとは教会の人々のことですから、この目的は明らかに教会を建てることにあります。しかも、自分の教会を建てれば良い、ということではないのです。キリストの体の教会を建てるのです。まして、自分が生きている間だけ、教会が自分のところにあれば良い、ということであるはずがないのです。キリストの体の教会は、時間と空間の中にあり、具体的に今も建っている教会です。しかし同時に、キリストの体の教会は時間と空間を超えて、永遠に存在する。わたしたちはそれを信じ告白しているのです。

さあ、そうなると、わたしたちの生きる目標はにわかに大きくならないでしょうか。若者は未来を語るけれども、老人になれば、もう先がないので大した目標は持てない。今日を穏やかに生きることが目標だ、と言うかもしれません。確かにその通りです。しかし、わたしたちにできることがわたしたちの目標でしょうか。わたしたちはキリストに結ばれています。それならば、わたしたちにできることが目標ではないでしょう。キリストの望まれること、神の御心こそが、わたしたちの目標なのではないでしょうか。わたしたちはキリストの中に生きて、神の御心をわたしたちの心とする、それこそが目標なのです。そして、神の御心は、世を愛し、世に福音を告げ知らせ、キリストの教会を建設することなのです。皆、共にキリストの執り成しの下に罪赦されて、神の国の市民となることこそ目標です。

このような途方もない大きな広い、美しい目標を抱かせる神にパウロは感謝をささげます。神の御心によって力づけられ、テトスはコリント教会にやって来たのだ、とパウロは人々に知らせるのです。福音伝道のための働き人を起こし、その人々の必要を満たすための財源を探す人々、会計担当者のような務めを行う人々も起こしてくださるのは、教会を建てるために、神様がご配慮くださっている結果なのです。人々が自分の力でどんなに頑張っても、神の聖霊の助けによらなければ、どんな良い働きもできないのです。今や、テトスはパウロや他の人々から勧められたから、ではなく、自分から進んで、この慈善の業の先頭に立って奉仕しようとしています。

パウロはテトスのほかに二人の同伴者を紹介します。その一人は恐らくバルナバであります。彼は、「福音のことで至るところの教会で評判の高い人」と言われています。どうして彼は誉れを受けたのでしょうか。それは有能、雄弁などではありません。彼は何よりも、

福音を伝えること、そのもので高い評判を得たのです。このように初代教会の人々は福音を聞くことによって教会を建てて行ったことが分かります。だからこそ、福音を伝える働きにおいて有名な人が信頼を得たということが分かります。

しかも彼は、一つの教会の中だけで有名だったというのではなく、全教会でほめられたのでした。また19節で、この人はこの慈善の業に参加するために、パウロたちと一緒に働く者として、「諸教会から任命された」と語られています。そこにあるのは、自分のところだけで主に結ばれていれば良いというような各個教会主義ではなく、全世界に福音を宣べ伝える働きこそが考えられていたのでした。「任命する」という言葉は、ギリシャ語で「手を伸ばす」という意味から来ます。古代ギリシャの市議会で賛成の意志表示に挙手をしたことから、諸教会で特別の使命を与えるために神に選ばれた人は、教会の人々の意志表示によって承認されて任命されたということが推測されます。

しかし教会を建てるためであっても、とにかく献金を集めること、保管すること、それを送金することには大きな困難が伴います。金融のシステムが発達した現代でも、難しいことは多いのに、ましてこの時代は大変なリスクが伴うことだったと思います。「無くした。盗まれた」では済む話ではありません。一般的に公金の取り扱いほど、世の人々の中傷と悪評の種になるものはないのですが、それは「教会だから心配はない」ということには決してなりません。サタンはありとあらゆる手段を使って、教会の評判を落とし、キリストに従おうとする群れを蹴散らそうと虎視眈々と狙っております。

キリストの僕として正しければ正しいほど、サタンは攻撃を仕掛けたいのです。もし攻撃がうまく行って、評判の立派な人につまずきが起こったならば、それは他の人に起こった場合よりも、はるかにもっと甚だしいものになり、教会に大きな打撃となるでしょうから。パウロという人には高ぶったところは少しもなく、仲間の中の取るに足らない者と同じように、諭されたり、責められたりされることも厭わない、福音のためなら、何事も耐え忍ぶ人でありました。しかし、お金のことや、その他の行状のことでも、人に中傷されても、気にかけない。「自分は実際献金を誤魔化したり、人のものを取ったりしていないのだから、何を言われても構わない。神様はすべてご存じなのだから・・・」という風には、決して考えてはいません。

それどころか、用心深く気をつけて、おかしな疑いをもたれる危険を避けようとしているのであります。「わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。」おそらく、コリント教会の中には、パウロがこのように釘を刺しておかないと、何かと悪口を言い出しかねない連中がいたのかもしれません。しかし、それはすべての教会について心がけるべきことなのです。

彼は、自分が神の御前において正しい良心を持とうと心がけているばかりでなく、人の前においても、立派な評判を得られるように心がけているのだと言い切っています。なぜなら、福音伝道のために働く者は、すべての人々に教えることについて、また正しい行い人々に勧め、自分もそれを行うことについて、他からそのことをどう見られるかということを、決して無視してはならないのです。その用心のためなのでしょうか、もう一人の兄弟を同伴させると伝えています。この人は医者のルカではないかと推測があります。これらの兄弟たちをパウロは諸教会の使者であり、キリストの栄光であると紹介しています。宗教改革者は言います。およそ敬虔な信仰者、神によって聖なる者とされた人は皆、キリストの栄光なのだと。なぜなら、その人々は全く神に依り頼んで、生きているのですから、その人たちが持っているものでキリストの賜物でないものは何もないのですから。こうして諸教会の使者と呼ばれる人々が立てられ、全教会に信頼される伝道者、奉仕者が建てられる。このことは初代教会の時代から始まっていたことが分かります。

今日の聖書では、わたしたちがもしキリストの栄光を表す者であるのならば、神様の前に正しいと認められればそれでよい、ということであってはならない、ということを学んだのではないでしょうか。日頃から大きな事でも小さな事でも、人々から誤解され、中傷される危険があることを避けるべきだということです。パウロは自分がほめたたえられることを求めてはいませんでしたが、自分の働き、その目的を高く評価し、人々にも知らせていました。なぜなら、自分が主の体に属する者、主に従う者である限り、福音を宣べ伝える自分の働きが素晴らしくないはずはないのですから。

そのように、わたしたちもまた、主に従う者である限り、すべての働きを主からの賜物として高く上げ、主のご栄光を表す者として、神にも人にも公正な者としてふるまうことを目標とすべきだからです。わたしたちは主の教会を建てるために、熱心に生きる者となりましょう。24節は、正にわたしたちに対するメッセージです。「だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください。」祈ります。

 

御在天の父なる神様

尊き御名をほめたたえます。あなたはわたしたちをイエス・キリストの贖いによって、救いに招いて下さいました。ご復活の出来事から2000年の年月が流れ、今、教会は全国全世界に建てられていますことを感謝申し上げます。しかし、同時に、教会が真実に建てられているかどうかを思わず、あなたに従うことを忘れ、真の教会から離れ去る人々も絶えません。しかし、いつの時代にも、小さな者をお見捨てにならず、希望のない所に、希望を生み出してくださる主の愛に感謝を捧げます。初代教会では、全く道なきところに福音を宣べ伝え兄弟姉妹を助けるために、どのような労苦がなされたことでしょうか。わたしたちは本日も御言葉より多くの励ましをいただきました。御霊の助けなしに良い業を成すことはできないことを思い、ただ上よりの力が注がれることを待ち望みます。また、時には自分を思い上がるかと思えば、ひどく卑下してしまい、あなたのご栄光を表すために生かされていることを忘れてしまうわたしたちの罪を、どうか憐れんでください。御言葉によって新たに造りかえられ、主の体の肢として生きる教会となりますように。またわたしたちの背後にある家族、友人、社会に在って、わたしたちがあなたの御心を伝えるために用いられますように。世の光、地の塩として生かしてください。

東日本連合長老会の諸教会、与えられている恵みを感謝します。本日は青山教会で今年度最初の会議が行われます。どうか、共に教会を建てるためのこの労苦のすべてが、あなたの御業によって祝され、支えられますように。

 今日も、礼拝を覚えながら、参加することのできない多くの方々を覚えます。あなたの慈しみが豊かに注がれ、その日々が恵みによって支えられますように。この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。