聖書:詩編103篇10–12節, 17–22節, ルカによる福音書22章39–46節
先週は東日本の講壇交換礼拝が守られ、感謝します。成宗教会には東日本議長の竹前治先生がいらして、力強く福音を語ってくださったと伺っています。また、「議長だというのに、お若い先生だったので驚いた」という声も聞きました。
私も車でしか行ったことがないので、晴天の主の日、雪の心配もなく出かけることができ、感謝でした。病院の礼拝から、成人の礼拝、そして月に一度は病棟を廻ってお見舞いをすることも、清瀬信愛教会の方々とさせていただきましたが、竹前牧師はこの上に教会学校もなさるので、大変たくさんの務めをされていることが分かりました。清瀬信愛教会は大塚啓子先生が病院のチャプレンとして働かれた教会でもあります。目黒原町教会から、私の休暇中に礼拝の奉仕をしてくださいました時、代わりに留守を守ってくださった引退教師の先生にも今回お会いしましたので、本当に成宗教会も私も、いろいろなところで、いろいろな方々にお世話になっていることが思われました。
先週はまた、四月から赴任される藤野雄大先生、美樹先生方も教会にいらして、引き継ぎの話し合いを行うことができました。お伝えすることが沢山ありましたが、お互いに「普通はこんなに綿密な、丁寧な引き継ぎはできないですよね」と語り合いながらも、まだまだ出来てないことがある、ということで、次の日程を立てているところです。すべては東日本連合長老会の交わりの恵みであります。様々な違いがあっても、わたしたちは共に一つの主の体の教会を目指しています。そのために共に主の前に謙って、み言葉に聴き、共に祈り、共に学ぶことの大切さは計り知れません。
共に祈るわたしたちの、共通の祈りとして主の祈りが与えられています。これは、弟子たちに与えられた祈り、そして教会に受け継がれた祈りです。そこで今日はカテキズム問59を学びます。それは「主の祈りは何を第3に求めていますか」という問いです。第3の祈りは、「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」です。「天に行われるように」と祈る、その「天」とは、神さまのおられる所だとわたしたちは知っています。そして、そこには神さまの右に、御子である主イエスさまが座しておられます。
天には交わりがあります。それは、父なる神と御子イエス・キリストの親しい交わりです。そして、それは聖霊という愛の絆で結ばれている麗しい交わりなのです。そして神さまは願いを持っておられます。神さまの願いは何でしょうか。それは、神さまのうちにあるこの美しい交わりへと、わたしたち人間を導き入れることなのです。これが神さまの御心なのです。詩編103篇の預言者はこう宣言します。10節。「主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない」と。真に神様はご自分をいつくしみふかく憐れみに富む神、と宣言しておられます。
11節。「天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい」と。わたしたちは誰も彼もが神さまに逆らい、過ちを犯し、罪を免れない者なのですが、神さまは主を畏れる人に対しては、ふさわしい報復を加えることをなさらない。その寛大さを以てわたしたちの悪行と戦ってくださいます。なぜなら、神さまの憐れみがどんなに深くても、わたしたちの罪が憐れみの邪魔をするので、その罪が取り除かれなければ、憐れみがわたしたちの所まで届かないからです。12節。神さまは「東が西から遠いほど、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」と言われるほど、わたしたちの罪を遠くへと追い払ってくださいます。
神さまはそれほどまでのご決意を持っておられます。それが御心です。今日読まれたルカ福音書22章39節から46節。これはイエスさまが十字架にお掛かりになる直前の出来事を伝えています。イエスさまは受難の時が迫っているときも、いつものように同じ所に出かけられたのです。つまり、主は敵から身を隠すために退かれることはなさらず、却って、敵の前に御自分を曝されたのでした。それは、死に対して、御自分の身を与えられたということです。ここにイエスさまの従順が描かれている。死に対して従順だったのではありません。死に対して進んで命を差し出すこと以外には、天の父の心を満たすことはできないことをイエスさまはご存じだったからです。
わたしたち人間が救われるためには、それを妨げて道を塞いでいる罪を滅ぼさなければなりません。その罪を滅ぼすために、神の子イエスさまは死に渡されようとしていました。
42節。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」神さまは御子イエスさまを既に苦難を受けるための準備的な訓練を与えておられましたが、今やより差し迫った死を目の前に描き出して鋭くイエスさまを撃たれました。そして愛する御子は今までに経験したことのない恐怖に打ちのめされたのであります。
しかし、聖書が伝えるこの祈りの場面ですが、神の子イエスさまが迫り来る死に直面して恐怖に打ちのめされる、という弱さを、「あり得ないことだ」と思う人々は多かったのであります。神さまの御子が死を恐れるなんて・・・と思うので、古代教会以来、神学者もいろいろな解釈をつけて何とか、何があっても動じない敢然とした神さまの強いお姿をイエスさまに反映させようと努めたようです。しかしそのような労苦は間違いであり、必要がないと宗教改革者は断言しました。なぜならキリストがこのように恐れと悲しみを経験されたことを、もしわたしたちが恥と思うなら、わたしたちのための身代わりの犠牲は破壊され、失われてしまうでしょうから。
四世紀の古代教会教父、聖アンブロシウスはその説教の中で、ただ次のように言いました。「わたしは主イエスのために、このお姿に何の弁解の必要も感じないばかりでなく、主イエスの親切と威厳がここよりも讃えられるところは他にないと思う。なぜなら彼はわたしの思いを御自分に取り入れたのでなければ、わたしのためにこれほどのことを成し遂げてはくださらなかったであろうから。真に、主はわたしのために嘆き悲しまれたのであって、御自身のために悲しむ理由は何もなかったのだ。主は永遠の神のご性質とその喜びをしばし脇に置いて、わたしの弱さの苦しみを経験されているのである。」天から降られて人となられたイエスさまは、御自身に人間の外観を取られたのではなく、人間の生きる現実の性質を取られたのだから。故に、主は人の悲しみを経験されなければなりませんでした。さらにその悲しみを克服しなければなりませんでした。
イエスさまは祈りました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」キリストの十字架の苦しみはすべての面で自発的なものとは言えません。しかし、御父の御心の故にそれは自発的になっているのではないでしょうか。わたしたちも自分の願いがあります。自分のしたい事があります。また自分が避けたいことがあります。是非このことだけは叶えてほしいというものがあるわたしたちです。
しかし、主イエスさまはわたしたちの弱さを持って苦しみもだえ、切に祈られたときに、その祈りはわたしたちの弱さを以て、神さまの御心を求める祈りの格闘をしてくださったのです。わたしたち人間の救いのために、主イエスさまは神さまの御心を願い求め、そしてその苦しみによってわたしたちに救いの道が開かれました。十字架の受難に先立つ格闘、この苦しみの祈りにこそ、わたしたちは学ばなければならないと思うのです。神さまは御自分を頼る人々を憐れんでくださいます。その人々がたとえどんなに罪、咎、過ちに満ちた人生を歩んで来たとしても、ご自分を畏れる人々を憐れみ、天の国の交わり、神さまの喜ばしい交わりの中に招き入れることを望まれます。これが救いであります。これが神さまの御心であります。その御心を知っておられる御子イエスさまは、御使いに力づけられ、立ち上がって十字架ヘと進まれました。
では、神さまを畏れる人々はどこにいるのでしょうか。わたしたちは言いましょう。わたしたちがそうです、と。せめてわたしたちは言いましょう。「わたしたちはそうでありたいです」と。そのためにわたしたちは教会に招かれたのです。そのためにわたしたちはイエスさまを救い主と信じ、悔い改めて洗礼を受けたのです。そのためにわたしたちはイエスさまの罪の赦しに結ばれたのです。
しかし、地上にいる限り、わたしたちは新しい試練に直面します。地上にある限り、わたしたちは自分に望ましいことがあり、自分が避けたいことがあります。わたしたちは主の祈りを祈る前に、この自分の願いをはっきりと見る必要があります。自分に望ましいことは何か。そして自分が避けたいことは何か。しかし、それだけで終わってしまうのでは、主の祈りには届きません。わたしたちは弱い者なので、自分の考えや願いが正しいと思ってしまう。すると、まるで神さまもきっとそうだ、と思うかのように、全然神さまの御心を尋ね求めようともしなくなります。それでは主の祈りには届きません。
主イエスさまは、弟子たちに主の祈りを教えてくださいました。そして、主は御自分が教えられた祈りの通りに生きて、死を迎えてくださいました。それは多くの人々のための死。多くの人々が神さまを畏れるようになるため、多くの人々が神さまを頼るようになるために、多くの人々が神さまの喜ばしい交わりに入れられるために、死んでくださった。だからこそ、神さまは御子イエスさまを復活させられ、天に昇らせてくださったのです。
ここにこそ、神さまの御心がありました。ここにこそ、わたしたちの祈りは向けられなければなりません。わたしたちは主と結ばれて教会にいる者です。わたしたちは神さまにどれほど愛されていることか。どれ程慈しみをいただいていることか。本当に知っているでしょうか。「神の愛がわたしたちの心に注がれている」とパウロは教会の人々に告げ知らせました。ローマ5章5節以下です。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。(中略)わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」279頁。
この愛が分かることこそ重要です。なぜなら自分を愛し、大切にしてくださる神さまをわたしたちはイエスさまによって知ることができるからです。この神さまを信頼して行く。イエスさまをさえ惜しまなかったほどわたしたちの救いにこだわってくださった主なる神さま、天のお父さまに祈るとき、私たちはその愛の心、慈しみに満ちたご計画が地上で成し遂げられることを祈らずにはいられません。
そして、それはキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解することですから、わたしたちに関わること、わたしたちの教会に関わることでなくて何でしょうか。これから成宗教会は新しい先生方をお迎えし、新しい時代を迎えようとしています。ここに具体的にああすれば良い、とか、こうすれば良いとか、いろいろと計画が建てられるようになることは喜ばしいことでしょう。しかし何よりも祈るべきことは主の祈りの第三の祈り。「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」です。神さまの御心が天で行われているのと同じように、地上にも完全に行われることを私たちは心から願い、待ち望むのです。自分の思いとちがう思いがけないことが起こるときにも、主の祈りをしっかりと祈るならば、神さまは私たちを愛して良い道を開いてくださると確信することができるでしょう。祈ります。
主なる父なる神さま
あなたの尊き御名をほめたたえます。御子イエス・キリストのご受難によってわたしたちに救いの道を開いてくださるほど、わたしたちを大切にしてくださる、計り知れない愛についてみ言葉を聴きました。どうかわたしたち成宗教会に集められた者も、あなたの愛に応える者となりますように。あなたを信頼し、すべてのことの上に御心が成りますように、と祈る者となりますように。そして、同時にあなたの御心を尋ね求め、知る者となりますように。弱いわたしたちは楽を求め、労苦を望まないものですが、イエスさまはわたしたちに代わって労苦を厭わず、あなたの御用を果たしてくださいました。
あなたはわたしたちの弱さをご存知です。どうかわたしたちがあなたの愛、イエスさまの救いに感謝し、いつもあなたに讃美を捧げる礼拝の時をお与えください。あなたの御国の喜び、その麗しさ、その平和、その支え合う心をわたしたちにお知らせ下さい。地上にイエス・キリストの教会をわたしたちは建てるために東日本連合長老会の諸教会と共に、また志を同じくする全国全世界の教会と共に心を合わせ、歩みたいと切に願います。一方、あなたの御心よりも自分の願いを先にする誘惑は常に現れ、教会の脅威となります。どうか、主よ、この教会が、また東日本の地域教会がそのような試みから守られますように。
どんな時にも御心を尋ね求め、あなたの喜びをわたしたちの喜びとさせていただけるように祈ります。
これから4月の着任に向けてご準備くださっている藤野雄大先生、美樹先生の上にあなたの豊かなお支えがございますように。また、成宗教会が長老会と心を一つにして祈り準備することができますように。また止むを得ない事情で礼拝に来られない日々を送っている方々をどうぞ顧みてください。深い慰めと励ましを祈ります。
この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。