《賛美歌》
讃美歌234番A
讃美歌294番
讃美歌90番
《聖書箇所》
旧約聖書:詩篇 27篇4節 (旧約聖書857ページ)
27:4 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。
新約聖書:ルカによる福音書 10章38~42節 (新約聖書127ページ)
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
《説教》『本当に必要なこと』
本日は、教会学校との合同礼拝です。本日は「本当に必要なこと」と題して、ルカによる福音書10章から「マルタとマリア」のお話をさせて頂きます。
実は、この聖書箇所は、4月に赴任したものの、新型コロナウィルス感染症のために集会をすべて中止していた4月25日に無観客というか、成宗教会の皆さんのまったくいらっしゃらない無教会員説教でお話しした聖書箇所です。教会ホームページにも掲載されたので、皆様の中には、お読みになった方もいらっしゃるとは思います。この聖書箇所は、教会での奉仕はどうすればよいかという私たちの思いに示唆を与えられる大切なお話しです。
今日のルカ福音書は、38節の「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」というところから始まります。主イエスと弟子たちは、旅の途上である村に入ったのです。
ここにはマルタとマリアという姉妹が登場し、二人の姿が対照的に描かれていきます。そして、「マリアは良い方を選んだ」とあるように、マルタよりもマリアの方が良い、相応しいと主イエスによって褒められたという話に思えます。しかしそれは、マリアこそが信仰者でマルタは信仰者ではない、ということではありません。主イエスを家に迎え入れたのはマルタである、とはっきり書かれています。それは、マルタが主イエスに従い仕える信仰者となったということです。マルタは、主イエスと弟子たちの一行を自分の家に迎え入れるという大いなる信仰の決断をしたのです。その後、「彼女にはマリアという姉妹がいた」と、おそらく妹であるマリアが登場します。マリアも主イエスを信じる者となるわけですが、それは姉であるマルタの信仰の決断が先にあったからだとも言えるでしょう。つまりマリアはマルタによって導かれて信仰者となった、と考えるべきではないでしょうか。
このように同じ信仰者となったマルタとマリアの間に、ある違いが生じました。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていたのです。主イエスの足もとに座って話を聞くとは、この時代のユダヤでは男の弟子にのみ許される行為でした。マリアは、そんな大胆な行動をしたと言えますし、また、主イエスの一行が女性差別をしなかった特筆すべき行いを記しているとも言えるでしょう。そのマリアに対して姉のマルタは先程触れたように、大人数の一行のため「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」(40)のです。マルタとマリアの話のポイントは、この対照的な姿にあります。そして私たちはそこから、いろいろなことを読み取ろうとします。と言うよりも、自分たちが感じていることをこの話に読み込もうとします。教会の中で、特にご婦人方の間でよく語られるのは、「私はマリア型」とか「私はマルタ型」というような会話ではないでしょうか。「マリア型」というのは、静かに礼拝を守り、み言葉を聞き、祈るといった信仰生活が自分には合っているし、その方が好ましいと感じているという人たちです。一方「マルタ型」というのは、それよりもむしろ活発に体を動かしていろいろな奉仕をする、例えば昼食作りとか、男性で言えば会堂の掃除や植木の手入れや力仕事など、また一教会に拘らない多くの教会を跨いだ社会奉仕活動に加わるとか、そういうことに喜びを感じ、充実を覚える、静かに説教を聞いているのはちょっと苦手、みたいなタイプであると言えるでしょう。それは女性だけの話ではなくて、男性も含めて、マルタとマリアのどちらに親近感を覚え、自分に近いものを感じるか、ということを私たちはここからよく考えるのではないでしょうか。そして自分がどちらのタイプかというだけではなく、礼拝中はマリアに徹し、終わったとたんにマルタに変身するのだ、という思いを持っている人もいるでしょう。つまり時と場合によってマルタとマリアを使い分けながら信仰生活を送っている、という思いを持っている人も多いのではないでしょうか。これらのことは、私たちが自分の体験や感覚をこの話に読み込んでいるということです。しかし私たちがしなければならないのは、自分の感覚を聖書に読み込むのではなくて、聖書が語っていることを読み取ることです。マルタとマリアの対照的な姿から私たちは何を読み取ることができるのでしょうか。
姉のマルタが主イエスと弟子たちを家に迎え入れたとは、食事を出すことをはじめいろいろなもてなしをするためです。マルタがしていることは、神の国の福音を宣べ伝えている主イエスと弟子たちに仕え、その歩みを支えるという信仰の行為です。マルタは決して、自分の料理の腕前を披露しようとしているわけではありません。キチンともてなさないと恥をかくと思っているのでもありません。彼女がせわしく立ち働いているのは信仰によってです。マルタの姿は、信仰者が主イエスに仕えている姿そのものなのです。そこには、「もてなし」という言葉が使われていますが、この言葉は原文では「ディアコニア」という言葉で、「奉仕」という意味です。マルタがしているのはこのディアコニア、主イエスに従う信仰者にとって大切な信仰の業としての「奉仕」なのです。ですから、このマルタとマリアの姿は、自分はどちらのタイプだとか、どちらの方が自分の好みに合うなどというように読むべきものではありません。これはどちらも、主イエスに従い仕えていく信仰者が大切にすべきあり方なのです。
しかし、このどちらも大切な信仰のあり方の間で問題が生じました。姉のマルタがマリアのことで主イエスに文句を言ったからです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。マルタは、主イエスの足もとに座ってその話に聞き入っているマリアに対して、「何も手伝わず、私だけにもてなしを、つまりディアコニアを押し付けている」という不満を抱いたのです。このマルタに対して主イエスはお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。主イエスはこのお言葉によってマルタに何を語ろうとしておられるのでしょうか。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。主イエスはマルタが思いわずらいに陥り、心を乱していると言っておられるのです。もてなし、接待、ディアコニアの働きの中で、マルタの心は乱れ、とりみだしてしまっているのです。心が乱れるとどうなるか、自分のしている働き、奉仕を喜んでできなくなるのです。そして、人のことを非難するようになるのです。「自分はこんなに奉仕しているのに、あの人は何もしない。手伝おうとしない。そんなことでいいのか」という思いに支配されていくのです。自分のしている奉仕を喜べないことと、人を非難することは表裏一体の関係です。自分に与えられた奉仕を喜んでしている人は、人のことを非難することはありません。人への批判や攻撃は、自分自身が喜んでいないから生じるのです。マルタはそのような思いわずらい、心の乱れに陥ったのです。そのように心が乱れてしまうと、彼女がせっかく主イエスと弟子たちを家に迎え入れるという信仰の決断をし、奉仕している信仰の業が歪んだものになってしまいます。マルタはこの奉仕を、誰かから強制されたのではありません。自分の意志でそれを引き受け、喜びをもってそれを担ったのです。信仰における奉仕、ディアコニアとはそのように、喜んで、自発的に行なうものです。ところが私たちは時として心を乱し、その喜びを見失って、自分だけが何か重荷を背負わされているように感じてしまうことがあります。心を乱しているマルタの姿は、私たちの信仰生活の中でも時として起るそのような事態を表しているのです。
このように心を乱してしまっているマルタに主イエスがお語りになりました。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。私たちはこの主イエスの言葉を聞く時、これは折角一生懸命奉仕しているマルタには気の毒な言葉ではないか、と思うのではないでしょうか。
しかし、主イエスのこのお言葉はそのように冷たい言葉ではありません。主イエスはここでマルタに、「あなたのしていることは意味がない」などと言っているのではないのです。マルタは主イエスを迎え入れ、奉仕するという信仰に生きている人です。彼女の奉仕ディアコニアは主イエスに従う者たちにとってとても大事なことなのです。意味がないとか必要がないなどということは絶対にないのです。主イエスがマルタに望んでおられるのは、彼女がそのディアコニアを、心乱れ、喜びを失った中で、人を非難するような思いを抱きながらするのではなくて、本当に喜んで、自発的にして欲しい、ということです。そして、喜んで奉仕できるようになるために必要なただ一つのことを主イエスは教えて下さっているのです。それは、マリアのように、主イエスの足もとに座って、そのみ言葉に聞き入ることです。
この「主イエスのみ言葉に聞き入る」ことを忘れてしまうと、私たちの奉仕は教会での自己実現や自己主張のためになります。教会が奉仕を競い合う人々の集まりと化してしまいます。そこには、自分の奉仕への評価や見返りを求める思いが生じます。そうなったらもはや本当に喜んで奉仕しているとは言えません。そして自分の奉仕を本当に喜んでしていないところには、自分はこれだけしているのにあの人はなんだ、と人を非難し審く思いが生じるのです。本当にすべきことは、主イエスの足もとに座ってその恵みのみ言葉に聞き入ることなのです。「必要なことはただ一つだけである」という主イエスのみ言葉は、そのことを姉のマルタに、そして私たちに教えています。つまりマルタとマリアの姉妹の姿は、信仰者のタイプの違いではありません。ある時はマリアに、ある時はマルタに徹する、などというものでもないのです。そうではなく、姉のマルタのしている奉仕、ディアコニアが本当に生かされ、喜びをもって自発的になされていくためには、妹のマリアのみ言葉を聞く姿勢が必要なのです。主イエスは姉のマルタも愛しておられるのです。それゆえに、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とおっしゃったのです。それは妹のマリアを褒めるための言葉ではなくて、姉のマルタが喜んで奉仕に生きるために本当に必要なことを教えようとされた愛に裏付けされたみ言葉なのです。そして、主イエスの足もとに座ってみ言葉に聞き入っているマリアには、「行って、あなたも同じようにしなさい」という励ましが与えられました。そのようにしてマルタもマリアも共に、主イエスのみ言葉によって養われつつ、自分に与えられている賜物を喜んで自ら献げ、生活の中で具体的に主イエスに仕える者となっていったのです。 お祈りを致します。
<<< 祈 祷 >>>