時は満ちた

《賛美歌》

讃美歌225番
讃美歌497番
讃美歌6番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 3章23-24節 (旧約聖書5ページ)

3:23 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
3:24 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

新約聖書:マルコによる福音書 1章9-15節 (新約聖書61ページ)

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
1:12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
1:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

《説教》『時は満ちた』

先週の主日礼拝からマルコによる福音書を読み始めました。本日ご一緒に読む、マルコによる福音書1章9節からいよいよ、主イエス・キリストの活動が始まります。これまでのところでは、洗礼者ヨハネが主イエスの活動の備えとして人々に「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えたことが語られました。これらのことは全て、主イエスの活動開始のための準備だったと言うことができます。それらの準備がいよいよ整って、主イエスご自身の活動が始まるのです。

先ず、1章10節には、「水の中から上がるとすぐ」と「すぐ」という言葉があります。原文では、「真っ直ぐに」という意味の言葉です。実はこの言葉は、マルコ福音書に大変よく出てくる特徴的な言葉です。この後の16節以下にも四人の漁師たちが主イエスの最初の弟子になったことが語られていきますが、その18節と20節にも「すぐに」という言葉があります。29節も「すぐに」と始まっています。42節に「たちまち」とあるのも、原文では同じ「すぐに」という言葉です。今あげた箇所は原文においてはみんな同じ言葉が使われていて、直訳すれば「そしてすぐに」という言い方になっています。

実に、1章だけで何と12回も、この言葉が使われています。この言葉は新約聖書全体では59回用いられていますが、何とその内の42回が、このマルコ福音書で用いられているのです。何と新約聖書全体の8割程がマルコ福音書に集中している言葉です。この後にもしばしばこの言葉が用いられていて、マルコ福音書は、この「すぐに」「すぐに」と、どんどん先を急ぐような語り方になっています。マルコはよっぽどせっかちな人だったんだろうなあ、などと冗談を言いたくなります。マルコがこのような書き方をしていることの意味はおいおい考えて行きたいと思いますが、先ずは、マルコ福音書に特徴的な「すぐに」という言葉がここにあることを指摘しておきたいと思います。そしてそのことは本日の箇所において見過ごしにすべきでない大切な意味を持っているのです。

この「すぐに」という言葉は、その前に語られていることと、これから語っていくことを結びつける言葉です。前に語られていることから時を移さずにすぐに、これから語ることが起った、と言っているわけです。本日の聖書箇所に語られるのは、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになることでした。9節には、「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」とあります。

「そのころ」とは、勿論、バプテスマのヨハネが活躍した紀元20年代の後半です。この時代は「ローマの平和」「パクス・ロマーナ」と呼ばれ、地中海世界は強大な軍事力を持つローマ帝国の支配下にあって大きな戦乱もなく、世界史の中でも珍しく平和な時代でした。

しかしながら、それはあくまでも世界史という大局的に見た限りでの平和であることは言うまでもありません。主イエスが活動を始められたパレスティナのユダヤ社会はローマ帝国の占領下にあり、ローマ帝国の植民地支配は巧妙であったと言われていますが、そこに搾取と圧制があり、不満が鬱積していたことは否定出来ないでしょう。

また、ユダヤ人内部においても、エルサレム神殿を中心とするユダヤ教の信仰は儀式中心の形骸化したものになり、固定化した律法主義となり、生命を失った形式的宗教に陥っていたと言えました。

このような状況の中で、ユダヤ民族主義に走った人々は、強大なローマ帝国に対し、勝つ見込みのない絶望的な戦争を起こし、エルサレム壊滅に至るのです。

先程述べましたように、後の世の人々はこの時代を「ローマの平和」と呼びましたが、ユダヤ人にとっては、預言者の声も途絶えた希望のない時代であり、明日の生活を考える余裕のない不安の時代でした。

バプテスマのヨハネはこの時代の人々に語りました。その革新的な宗教運動は、歴史の大きな激動の時代に起こった現象と言うことも出来るでしょう。バプテスマのヨハネは、この時代の流れの中に出現した希代の風雲児でした。

しかし聖書は、その時代を一方的に人間の側から見てはいません。確かに、その時代は激動と混乱の時であったとは言えますが、その不安と絶望の中にある「人間の時」は、神が目指された「救いの時」や「救いの歴史」の中に組み込まれた時だったのです。

つまり、ここで語られる「そのころ」とは、ただ漠然と「紀元一世紀の前半」などというだけのことではなく、10節で語られている「天が裂けて」という大変な出来事、つまり「神の行動の時」と考えなければなりません。人間の不安と「天が裂ける」こととの結びつき、ここに私たちは「信仰の目」の焦点を定めなければならないのです。

改めて9節を見てみましょう。主イエスはナザレの村からヨルダン川のほとりにやって来られました。聖書は何故、主の御生涯を語り始めるに当たって、このようなことから記しているのでしょうか。主の家が何処にあったのかを示すためではないでしょう。マルコ福音書は主イエスの活動初期の出来事を簡単に記すだけであり、主イエスの誕生以来の生活については何も語っていません。少年時代のエピソードや何処で何をして暮らしていたのかというようなことは、少なくともマルコにとって大切なことではありませんでした。

「ナザレから来た」とは何を表しているのでしょうか。聖書が記していないナザレにおける生活を想像することは出来ます。間違いなく、全ての人と同じように、普通の人間としての生活をなさっていた筈です。父なる神が定められた時の来るまで、誰もが行うことを主イエスもまた行って来られたことでしょう。言わば「神の子であることが完全に秘められていた時代」と言うことが出来るでしょう。誰一人として神の御子が共にいることに気づかず、また主イエスもそれを明らかにされようとはされませんでした。それが主イエスのナザレでの生活であったのです。

しかし今や、主イエスはナザレを出られました。つまり、神の御子が隠されていた時代は終わったのです。抑えられ、忍耐の時を過ごして来られた神の時代は終わりました。まさに神の決断の時でありました。独り子を十字架につけてまで人間を救おうとされる御心が、今や実行に移されたのです。

聖書は、さりげなく「イエスはガリラヤのナザレから来た」と語っていますが、これは、神が「人間の世界に大いなる力をもって介入して来られた」ことを告げているのです。不安と絶望の中で生きる人間に、救いへの道が開かれたということです。

今実現する神の救いの御業。その恵みに預かるために必要なこと。それがヨハネのバプテスマでした。ヨハネのバプテスマは、4節に記されていた通り、救いのバプテスマではなく「悔い改めのバプテスマ」でした。自分の罪を認識し、過去の自分と完全に訣別して神を迎える姿勢を整えること、それが「悔い改め」(メタノイア)ということでした。それは、「心の向きを変える」という意味と先週申し上げました。

それでは何故、主イエスはこのヨハネのバプテスマをお受けになったのでしょうか。主イエス・キリストは神の御子です。ですから、主イエス御自身には神に背いた罪はなく、整えなければならない「心の乱れ」はない筈です(ヘブライ人への手紙4章15節)。神の御子は、何故、悔い改めのバプテスマを受けられたのでしょうか。

その第一の理由は、マタイによる福音書3章15節によれば、この時「その必要はありません」と言うヨハネに対して、主イエスは、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と答えられたと記されています。神の御業に接する者に「例外はない」ことをあえて主イエス御自身が示し、全ての人間の先頭に立たれたと言えるでしょう。

私たちにも様々な生き方があります。様々な可能性を持ち、独自の歩み方があります。しかし、全ての人間が生きる姿の中で等しく実現されなければならないこと、それが「悔い改め」なのです。自分のこれまでの生き方を見直し、人生の方向を「自分の喜び」から「神の喜び」へ向け直すのです。これまで何を見つめて生きて来たのか。これから先何を求めて生きて行こうとするのか。その全てをもう一度考え直してみるべきではないでしょうか。御言葉を聞く者にはその準備が必要なのです。

主イエスがバプテスマを受けられた第二の理由は、救いを待つ人々と等しくなるということです。

イエス・キリストの御心は、一段上からではなく、人と共に生きるという愛に基づいています。御自分は高いところにいて、「さあ、上がって来なさい」と上から手を差し伸べるのではなく、救いを求める惨めさの中に共に立って下さり、その苦しさ・悲しさを共に味わわれるのです。神の愛は、神の御子が御自身を徹底的に虚しくされ、罪の深みにおける苦しみを共に受けて下さることから始まります。

「罪なき御方が、私たち罪人と共になられた」ということは、十字架を待つまでもなく、このヨルダン川において実現しました。そしてこの瞬間、聖書は「天が裂けて、『霊』が鳩のように御自分に下って来るのを、御覧になった。」とあります。ここの「天」とは、私たちが考える「大空」や「宇宙」ではありません。私たちが生きる「地」に対する「天」であり、神が居られる場を現す聖書的表現です。

人間の不幸や悲惨の原因は、この「天」がアダムとエバの罪によって閉ざされてしまったことによると創世記は語っているのです。神に対する信頼よりも蛇の言葉を受け容れたアダムとエバの罪のために、人間は楽園から追放され、神との交わりが絶たれました。それ以来、天は人間の前に閉ざされてしまったのです。

それ故に、人間の希望とは、この「天」が再び開かれることにありました。神の御前で全ての者が集い、神の眼差しを受けて生きること、それが真実の喜びであり幸福です。その時を待ち望み、失われた神との交わりが回復されることを願って長い時代を生き抜いて来たのが、旧約聖書が示すイスラエルの歴史でした。

マルコ福音書が告げるイエス・キリストの洗礼の出来事を見る時、今や待ち望んで来た「時」、「神の時」が遂に到来したということが知らされているのです。神と人間の間を閉ざしていた扉が神の側から押し開かれ、御子キリストが父なる神の御心を完全に表す御方として遣わされ、神の御計画は実現の時を迎えました。

「天が裂けた」とは、神の信頼を裏切り、神の愛に背を向けて自ら滅びの道を行く人間の罪を赦し、真実の交わりの回復を望む神の御心を象徴的に表現しています。この神の御心により、私たちは神に向って「父よ」と呼ぶことが許され、「子よ」と呼ばれる時が来たのです。

15節で「時は満ち」と述べられています。この「時」に関し、私たちが考える以上の忍耐をもって、神はこの日を待っておられたのです。私たちの幸福は、私たち以上に神の願いでありました。ですから、この「満ちた時」は御心を実現される「神の時」であり、先週も、お話ししたように如何なる意味でも「私たちの時」ではないのです。

私たち人間は罪の中に苦しみ、罪の故に新しい苦しみを招き続けています。それでもなお、神なき世界の誤りを正しく理解できず、その悲惨から抜け出せない者です。罪の中に留まり続けてしまう者です。

「時が満ち」たとは「苦しみが終わる」ということであり、もはや神の愛が、人間の苦しみを見過ごしには出来なくなったということを示しているのです。

そして、先週もお話しした、人間の孤独を象徴する荒れ野、サタンの誘惑にさらされる人生を象徴する荒れ野。その荒れ野すら、今やサタンが働く場ではなくなり、神の御子が御霊と共に住まう場になっているとマルコ福音書は12節以下の「荒れ野での40日間のサタンの誘惑」に記しています。

主イエスのガリラヤ伝道の開始に当たり、マルコ福音書は先ずこの決定的な「時の変化」を告げているのです。

私たちは今、どのような時の中に置かれているのでしょうか。どのような場に生きているのでしょうか。

「神の国は近づいた」と宣言されているのです。それは、神御自身によって、私たちの前に今差し出されているのです。

「時は満ちた」。その「満ちた時」とは、私たちのために用意された「神の時」です。この神の時の前にあって、私たちが「時の外」に生きることはあり得ません。神の愛が私たちの滅びを赦されないからです。

その「時」の中で、私たちの周りの大切な人々が滅びないよう、家族をはじめ私たちの近くに居る大切な人たちに「神の救いの御言葉」を伝えて行く者でありたいと望みます。

お祈りを致しましょう。

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