主の山に登る

聖書:出エジプト24章3-11節, マタイ17章1-13節

先週は、教会を建てるためには何が必要であるか、ということを学びました。そもそも、教会とは何か、ということも、わたしたちは学ぶ必要があります。長く教会にいる人も、最近初めて教会に来た人も、学ぶ必要があります。聖書をずっと読んで来た人も、キリスト教の歴史を学んで来た人も、分かっている。分かった。だから学ばなくて良い、という所にはだれも達していないからであります。先週の聖書、16章18節で主イエスは宣言されました。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と。それは主イエスの教会であります。それは主イエスを信じる者の信仰共同体であります。

それでは、主イエスをどのように信じるのでしょうか。この方は偉大な人であると信じるのでしょうか。この方は神の愛を表してくださったと信じるのでしょうか。この方は神の子であると信じるのでしょうか。そのように信じることは、どれも間違ってはいないでしょう。しかし、主イエスがこの岩の上に、と言われたのは、そのような信仰ではありません。主イエスを信じるということは、主イエスがメシアであると信じ、告白することです。メシア、すなわちキリストである。救い主であるということです。「主イエスは私たちを救ってくださる方だ」と告白する共同体が教会であります。

それでは、救ってくださるとは、何をしてくださるのでしょうか。おぼれている人を救う、というイメージなら分かりやすいでしょう。キリスト教は、日本では耶蘇教といわれ、昔はからかいの対象にもされたようです。私の母の田舎では、「ホリネス信じるどんじょうは、みんなザルこでスクワレル」と歌っていた、と聞いたことがあります。このように、「救い主は救ってくださる」だけでは、わたしたちにはよく分からないのです。

救い主は何をしてくださる方なのか。救い主とは、わたしたちの罪を贖ってくださる方です。わたしたちの罪が借金に例えられるなら、借金を肩代わりしてくださる方。よく奴隷の身代金を払って解放してくださるという例えが用いられます。わたしたちの罪が重荷ならば、救い主は代わりに重荷を負ってくださる方です。わたしたちの罪が死であるならば、その死を代わりに死んでくださる方。それが救い主、すなわち贖い主なのです。ですから、主イエスはペトロが代表して告白した言葉「あなたはメシア、生ける神の子」という言葉を、主はとても喜ばれて、「わたしは、この告白の上に信仰共同体を建てる」と宣言なさったのです。

それから、主は御自分が必ず受けることになる苦難について、十字架の死について、復活について、弟子たちに予告されるようになりました。それは人の罪を贖うために来られた神の御子の職務であったのです。さて、今日の聖書はそれに続いて起こった出来事であります。主は高い山に登られた時、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて行かれました。どうして三人の弟子だけだったのか、なぜ彼らなのか、は主がご存じです。少なくとも私たちに分かるのは、主はその山で起こったことを彼らに見せるため、彼らをその出来事の証人となさろうとしておられたことです。そしてその出来事とは、山上の変貌と言われる出来事でした。

これは聖書に記されている多くの奇跡物語の一つです。この頃は唯物論的な見方で聖書を読んでそれを批評することは少ないようで、科学的に解明、説明できる以上の事象が起こり、存在するというような見方の方が受け入れられているようです。しかし、科学で物事が説明でき、解明できるというのも、この世界の秩序が神の一元的な御支配の下にあることの証しになるのであります。その一方で奇跡のようなことが起こるとすれば、それも神の御心によって起こるのであって、神の御心によらずに、人間の力で奇跡を起こすことはできるものではないと思います。

ですから、このとき突然、主イエスのお姿が見る見る変わったのは、神の御心によってなされたことです。すなわち三人の弟子たちに主の栄光のお姿を見せてくださるために、主は弟子たちを連れて山に登られたのでした。2節。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」わたしたちは神のご性質(=神性)、その御姿を想像することができるでしょうか。神の輝きは、人間の能力で量り知ることはできません。しかしそれでも神は、人の目が見、人がその限りある能力で理解できる程度に、主の栄光の輝きを象徴的に現してくださったのです。

彼らが見ると、そこに二人の預言者、モーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合ってい ました。旧約聖書には、大勢の預言者が現れて神の言葉を語り伝えました。それらの数多くの預言者の中から、特にこの二人が呼び出されたのは、キリストの栄光を表すためでありました。モーセは御存じのとおり、イスラエルの民がエジプトの地で奴隷になっていた時、彼らを脱出させ、共同体の中に神と民を愛し共に生きるための十戒という戒めを神から授けられた預言者でありました。また預言者エリヤは、イスラエルが異民族の偶像に心惹かれ、自分たちを助けてくださる真の神に背いたために、大変苦しめられましたが、異教の神々と激しく、また華々しく戦った預言者でした。

モーセとエリヤはなぜ現れたのでしょうか。彼ら自身に何か目的があったので現れたのでしょうか。決してそうではありません。彼らは自分のために現れたのではなく、御子のためにこの時、この山上に呼び出されたのです。すなわち、彼らは神に呼び出されたのですから、そこには、神によって目的が与えられています。彼らはとうの昔に死んで、その役割も終わったはずです。しかし、彼らが現れたことで、弟子たちはモーセとエリヤの働きを思い起こしました。ここに記され、聖書に残されることで、聖書を読むわたしたちもまた、モーセの働き、エリヤの働きが、キリストに結び付いていることを教えられます。すなわち、キリスト、救い主が来られる前も、こうして主イエスと共に山に登った弟子たちも同じ救いに入れられる希望で結ばれているということです。

このように、主の栄光に輝くお姿を見た証人は、この時ただペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけでした。しかし彼ら三人は私たちの代表として、主の御姿を証ししています。主こそは救い主、わたしたちの罪を負ってくださる方。この方を証しするために、神がお望みになるのでしたら、遠い昔に死んだ者たちさえも、地上に呼び出される。生きている弱い肉体を持つ人間のために、幻となって現れて、主を証しするために用いられるのです。

ペトロたちはこの光景にどんなに驚いたことでしょう。驚いたなどという状態ではなかったと思います。自分たちが愛し、尊敬し、この方こそメシアと告白した方ではありますが、モーセとエリヤが目の前に現れて、親しく主イエスと語っているのを見て、今更のように、自分たちの告白したことの重大さを実感したでしょう。「あなたは救い主です」と告白された方は、実に遠い昔から今に至るまで預言されて来た方、待ち望まれて来たメシアのことなのだ!彼らの心は驚きと喜びでいっぱいになったことでしょう。思わずペトロは、口をはさんでイエスに言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、私がここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

この素晴らしい光景をいつまでも、目の当たりにしていたいと思ったのでしょうか。しかし、ペトロは愚かにもキリストと神の僕である人間たちを同列に扱ってしまい、モーセとエリヤのためにも地上に礼拝の場を設けることを願いました。モーセとエリヤは人間にすぎません。それに対し、ただ主イエスこそは、神の力、神のご性質をもって人となられた方であります。そして、神の御心は、ただ御子こそ神に等しい方であることを、弟子たちの前に明らかに見えるようにすることにあったのです。

ペトロが仮小屋のことを話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆いました。それには、理由があります。すなわち、わずかの間輝いた栄光のお姿は、人間がその輝きを見て大胆になりすぎないために、雲によって制限され、隠されて行ったのです。それは信仰者が、神の栄光を仰ぎ見る時も舞い上がったりせず、自分たちの低い立場にとどまるようにと教えるためであります。そして声が雲の中から聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と。キリストに聞き従いなさい、と天の父は教会に言われるのです。教会がキリストに聞き従うならば、その時、神はキリストを教会の最高の権威、またこの上ない慰めと癒しを与える方としてお立てになるのであります。

山上の変貌の出来事に秘められた神の御心、その目的は何でしょうか。主イエス・キリストを他のすべての者から区別して、教会に対し、すなわち信仰共同体に対し、キリストに聞き従うようにと呼びかけるためです。キリストは世に遣わされたこの上ない教師でありますから、教会は喜んで主の言葉に従いたいと思います。

さて、三人の弟子たちは、天からの声を聞いてひれ伏し、非常に恐れました。人間の本性(ほんせい)は何と弱いことでしょうか。神の声を聞くことを非常に恐れるのです。聖書には神を見た者は死ななければならない、という言葉さえあります。先日テレビで、釣りバカ日誌という人気の映画の最終回というのをたまたま見ました。三国廉太郎が夢の中で三途の川の渡し場に行くという場面で、地獄の閻魔大王に会う備えをしながらも、この世との別れやあの世への期待を面白可笑しく歌ったり踊ったりのドタバタ劇でした。そして地獄の沙汰も金次第という決まり文句まで出ましたが、閻魔大王の話までは出ても、その先には話が及ばないようでした。

閻魔大王に会う備えまでは出来ても、神に会う備えをするまでは行かないのが、人間の弱さなのでしょうか。神の声は地上の生活では聞こえないと思いたい。神は神の国を支配しておられるだろうが、地上の御支配をしておられないだろうと、たかをくくっているのでしょうか。しかし、神の国は私たちのところに来てくださっています。わたしたちは既にイエス・キリストの福音を伝え聞きました。福音によって、神がどのようなお方であるかを教えられました。神は「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う」方(出エ34:6-7)と教えられました。

神は閻魔大王のような存在と分業をなさっているのではありません。徹底的に裁く方であり、同時に徹底的に憐れみをかけてくださる方なのです。主イエスは神の声に恐れ、倒れ伏している三人に近づき、手を触れて言われました。「起きなさい。恐れることはない。」

真に、神にお会いするということはこのようなことです。わたしたちのだれが神の御前に出て、謙らず、倒れ伏さずにいられるでしょうか。しかし、その時にこそ、わたしたちは主イエス・キリストの有難さが身に染みることでしょう。なぜなら、キリストの職務は、倒れた者を立ち上がらせることでありますから。主イエスはなぜ、世に降って来られたのでしょうか。それは、主を信じる者が主の執り成しを受けて、畏れつつも大胆に神の御前に身を現すことができるようにしてくださるためなのです。そうでなければ神の御前に出ないうちに肉ある者は裁かれ滅ぼされ、もはや神を恐れることさえできないでしょうから。

キリストは恐れ震える彼らを言葉によって慰めたばかりでなく、彼らに手を触れてくださいました。その慈しみを思いましょう。わたしたち自身も、もし自分の中に、わたしは自分の栄光のために存在しているという無意識の考えがあることに気づくことができれば幸いです。悔い改めて、主の御前にひれ伏し、自分が御子のご栄光のために呼び出され、存在していることを悟り、告白するならば、非常に幸いです。昔の預言者でなくとも、わたしたちも主のご栄光のために用いられ、ご栄光を顕す者として用いられるでしょう。山上の説教で、「心の清い人々は、幸いである。その人は神を見るであろう。」(マタイ5:8)と主が言われたように。謙って主に信頼するならば、死後、地獄を見るのではなく、生きている今も、主の山で神を仰ぎ見るでしょう。祈ります。

恵み深き天の父なる神様、

今日の礼拝、御言葉を感謝いたします。わたしたちのささやかな礼拝を主のものとして下さり、罪多い者を憐れんで、救いの御業を行ってくださったことを感謝します。わたしたちは天の父が御子を世に遣わして、わたしたちの罪の執り成しをしてくださるために道を開いてくださいました。この務めに忠実な主が今も私たちのために祈り、執り成してくださることを知り、真に私たちは喜びと感謝であふれます。

2016年度の最後の主の日となりました。多くの助けをいただいたこと、主にある兄弟姉妹と助け合って、教会を建てるために努力することができたことを主の恵みと感謝します。わたしたちはますます年を重ね、誇るべき力はますます小さくなって行くように思われますが、主の慈しみ、主の憐れみはますます大きく私たちを捕えてくださると信じます。どうか、来るべき年度も主が恐れるな、と仰って、手を添えて慰めてくださる教会でありますように。励ましを受け、時にはお叱りを受けながら、主の栄光を顕す教会となりますようにお導きください。

連合長老会と共に歩み、教会間の善き交わり、学びの時を与えられました。この交わりを通して、主の体の教会の姿を思い、その頭である主イエス・キリストを思う教会でありますように。主が聖霊の御力によって、希望のない時にもお支えくださいますよう切に祈ります。主と共に山に登るときにこそ、主の執り成しによって多くの罪を覆っていただけますよう、切に祈ります。

来週は教会予算を立て、行事のために、その実現の上に、主の御心を尋ねます。どうか、今、病気のため、けがのため、心身共に弱り果てている方々を癒してください。平安が与えられますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

生ける神の神殿

聖書:レビ記26章12-13節, コリントの信徒への手紙二 6章11-18節

私が教会の教職、つまり信徒としてではなく、牧師となって伝道に携わりたいと思うようになったのには、最終的には神様の御心によってとしか申し述べることはできないのですが、個人的にはいくつかの考えがあったからだと思います。私自身は女性の教職というものには会ったことがほとんどありませんでした。アメリカ人の宣教師を除いては、ほとんど見たことさえありませんでした。それでも、私の中では、信徒が女性が多い教会のことを考えると、女性の教職の方がより親しく話ができ、悩みを聞いたり、励まし合ったりできるのではないだろうか、という考えがありました。病気の方のお見舞い、老人ホームでの働きなどにおいては、私の考えはある程度現実に即したものであったと思います。

しかしながら、一番大切なことは、教職は女性が良いとか、やはり伝統的にそうであるように、男性が良いとかいう問題ではありませんでした。なぜなら、これは当然のことなのですが、教職の務めは御言葉を伝えることにあるので、男女の別なく、この務めのために、全身全霊を上げて進んで行くことこそが大切なのであります。何をするにもそうですが、わたしたちはどうやったらうまく行くのか、方法論を一生懸命考えるものです。マニュアルを考えるのです。料理の方法から、受験勉強の方法から、面接の方法から、就活から、人生のしまい方までマニュアル本が売れます。

人々は教会を建てるためにマニュアルを考えるでしょう。女性教職が良いとか。良くないとかいうのもその一つで、私も知らず知らず考えていたことでした。コリント教会の人々も、教会の指導者について、ああいう先生、こういう先生が良いと考えていました。人気投票のようなことをしていました。しかし、彼らは大切なことに思いが及びませんでした。それは何か?それは、教会の指導者は教会を建てるために説教しているのだ、ということです。すなわち、神の御心が知らされ、人々の間違いが正され、悔い改めて、主に従う教会となるために、主の日の礼拝においてみ言葉が説教されるのです。

ところが、パウロから送られて来た手紙で、教会の人々は非常に多くの問題を正されました。普通の人は相手に忠告をする時には、慎重に配慮するものです。それは、とにかく相手を傷つけないように、という配慮です。また、相手がいくら言っても分かってくれそうもない場合は、わざわざ忠告をしないこともあります。要するに相手を傷つけたくない、という配慮でありますが、同時に自分が厳しく言ったことで相手に嫌われたくないという自己保身でもあるのです。その結果、言ってもらわなければ分からない人々は、憎まれてでも言ってくれる人がいない限り、決して自分の過ちには気が付かないものです。

さて、それが世の中で一般的に行われていることですが、パウロはコリント教会に手紙を書き、教会の人々の問題を厳しく指摘しました。なぜなら、これは個々人の問題ではなく、教会の問題であるからです。教会はギリシャ語でエクレシア、すなわち、主に呼び出された人々の集まりであるからです。そして、パウロは教会を愛していました。教会の人々に嫌われたくないことよりも、憎まれたくないことよりも、大切なことがありました。それは、教会の人々が本当に主イエス・キリストのものとなること。本当に神のものとなることです。そのためならば、パウロは何も恐れません。既に彼は十分に嫌われたようであります。嫌われるというより軽蔑されたようであります。しかし、そんなことでは落胆しません。そんなことで教会の人々を見限りません。諦めません。

なぜなら、彼はそこに主のために教会を建てたからです。主に従う人々を集めたのです。今は問題だらけの教会になっていたとしても、彼は確信を捨てません。これは主の教会、主の体の教会なのだ、と。そしてそれこそは、教会の人々に対する彼の愛に他ならないのです。彼は主のためならば何でもするのです。ですから主の教会のためならば何でもするのです。教会の人々皆に彼は訴えます。彼を軽蔑していた人々にも、次のように訴えます。「コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を開きました。」「率直に語る」というのは、「口を開く」という言葉です。心を全開にして、率直に隠すことなく、余すことなく、ありのままに語り伝えるのは、主の愛によるのであります。罪人を捜し求め、悔い改めを呼びかける救いの言葉なのであります。パウロは呼びかけます。12節。

「わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。」彼は言いたいのです。「わたしの口は、あなたがたと共に語り合うために開かれている。わたしがあなたがたに対して抱いている愛情を、ああたがたの目の前に示して見せてほしいというなら、喜んでこの心をも開くであろう。しかし、あなたがたの方が、自分の腹を割ろうとしないのだ」と。だから、ちょうど父親が子供に語るようにわたしは言いますよ。わたしの心、主の愛を伝えようとする広い心に応えて、あなたがたも同じように心を広くしてくださいとパウロは言うのです。

古代の父と子の関係は、現代人が頭で考えるよりもはるかに大切なものでありました。それは、長い時を経て、お互いに助け合う関係だからです。父の義務は、子供を育て上げ、忠告の言葉を与えて子供を教育し、子供の支えとなることでした。そして子供の方も、成長する自分とは反対に、年を取って行く父親にのために支えとならなければならないでしょう。パウロは教会の人々対して父親のような愛情を抱いています。だから、人々の方からも、教会を建て、人々を教え育んだ父親のようなパウロに対して、子としての愛と尊敬をささげ、パウロの子であることを証ししてほしい。

こう教会に語りかけて、パウロは父親らしい権威を示すことができました。その上で今度は早速コリント教会の人々に対し、厳しい言葉で訓戒を始めるのです。それは彼らが偶像礼拝に加担し、不信仰者の仲間になっていたと思われるからです。14節。「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。」ここで「軛を共にする」という言葉は、農耕用の家畜について用いられるたとえであります。牛馬は同じ軛につながれていると、どうしても並んで歩かなければならないし、力を合わせて同じ一つ仕事に精を出さなければなりません。これは結婚の組み合わせのことを言っていると考える人もいますが、信仰のない人々と同じ軛につながれてはならないとは、結婚をはじめとする交わりを禁じている言葉ではありません。要するに不信者の汚れに染まってはならないという命令であります。

わたしたちはだれもが、ただ一つの太陽の下、同じ地上に暮らすのでありますから、信仰のない人々と交わること無しに済ますことはできません。これは、コリント教会が建てられた時代には当然のことで、わたしたちの社会同様、キリスト教徒は少数者でありました。しかし、ここでパウロが「信仰のない人々と同じ軛につながれてはならない」と言うのは、キリスト者にとって、一緒に関わることが許されないような業に関わってはならないということなのです。

それは具体的にはどういう業だったのかと申しますと、それは偶像礼拝に関わることでした。彼らコリント教会の人々は、クリスチャンはキリストの執り成しによって罪が赦されたのだから、極端に言えば何をしても自由だ、許されていると考えていたようでした。そのため、信仰を持たない人々の宴会に何のためらいもなく足を運び、彼らと一緒になって汚れた不純な儀式に与っていたのであります。当時、宴会に出される肉は、異教の神々に捧げられた犠牲でありました。そして、その神々はこの世の欲望の実現に向かって人々を引きつけるのでありました。酩酊した酒の神が讃えられ、肉欲の神々が追い求められる集会に、コリント教会の人々は平気で出入りしながらも、自分たちには何の罪もないのだと当たり前のように思いこんでいる始末だったのです。

このような偶像礼拝は深い滅びの穴の入り口になるものですから、パウロは教会の人々に偶像礼拝に絶対に加わってはならないと戒めるのです。このことは、信仰と関わりのない人々には、むしろ厳しすぎることのように聞こえると思います。特にたくさんの神々が普通に拝まれている異教の社会では、唯一人の神を拝むということの方が理解されないのです。教会の中においてさえ、結婚という目的のために、宗教を変えた人々がいて、キリストの信仰を告白しながら、同時に他の宗教を捨てない。付き合いをしていることが少なくないのです。そのために親が子供に洗礼を授けさせながら、子供が信仰告白に導かれることを拒否するという矛盾も起こります。

しかし、教会の信仰は神の独り子イエス・キリストを告白することにあります。主は天から降って来られ、世に命を与えるパンである、と言われました。教会はキリストこそ神の義、正義、正しさであると信じます。それなら「正義と不法とにどんなかかわりがありますか。」正義と不法は決して相入れません。キリストは世の光であると信じます。それなら「光と闇とに何のつながりがありますか。」光と闇は妥協して薄ぼんやりした光になるのでしょうか。闇になるのでしょうか。そんなことはあり得ません。信仰と不信仰が妥協するとどうなるのでしょうか。それはただの不信仰に過ぎないではありませんか。

神の神殿、神の居ます所と、偶像とは全く相いれません。わたしたちは目があっても見えない、口があっても語れない偶像のようになって良いはずはありません。なぜなら、わたしたち自身が生ける神の神殿だからです。コリント一10:14-16節を読みます。「わたしの愛する人たち、こういう訳ですから、偶像礼拝を避けなさい。(中略)わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。」そうです、わたしたちは大勢でも一つの体。イエス・キリストは頭(かしら)。わたしたちは主の体なのです。

16節に引用されているのは、今日読んでいただいたレビ記29章12節です。神は御自分の民をエジプトの奴隷から解放してくださいましたが、神の民は歴史の中で幾度となく罪を犯し、真の神から離れ、偶像に惹かれ、その奴隷となったのでした。しかし、神は預言者によって罪人の救いを宣言されているのです。わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。神は人々から遠く離れておられたのですが、救い主によって人々に近づき、人々の間に住んでくださる。ということはどういうことでしょうか。それは、人間の建てた神殿の建物に住んでくださるということでしょうか。そうではありません。神は、人の手によらない神殿を人々の間に立て、そしてわたしたちを神の民としてくださったのです。その神殿とはキリストの体の教会です。その神殿とは、わたしたち自身なのです。わたしたちは悔い改めて、洗礼を受け、神の子とされる約束を受けました。聖餐をいただいて、キリストの犠牲によって贖われた身であることを噛みしめています。わたしたちは神に属するもの。神のものとされたのです。

わたしたちは知らなければなりません。このことは大変に恐れ多いことであることを。この頃は、自宅に応接間というものが無い家が多いでしょう。ほとんど客が来ないとなれば、散らかし放題なのであります。しかし、ここに突然、大事な客が来るということになったら、どうします?このままでいいでしょうか。そうはいきません。慌ててできるだけゴミを出し、ぼろを隠して、きれいにします。人間に対してそのように気を遣うのなら、神様に対してはどうでしょうか。「心の中はありのままで、ぐちゃぐちゃでいいでしょう?どんな罪人でも救ってくださると仰ったではないですか?」等と神様に居直るのでしょうか。それが、本当に悔い改めて主に立ち帰った人の態度でしょうか。あり得ないことです。

わたしたち自身を、主の民にふさわしく整えようではありませんか。神の居ます所としていただいたのですから、粗末なわたしたちの心と魂を主に献げて、むさくるしい所ですがどうぞお入り下さい、どうぞ私にとどまって下さいと願いましょう。それが汚れたものから遠ざかる第一歩なのです。最後にⅠコリ6:19-20「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分のからだで神の栄光を顕しなさい。」306下。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神様

主のご受難を特に覚えわたしたちのために捧げられた尊い犠牲を感謝いたします。それに答える信仰の歩みをどうぞ一歩でも多く、あなたに向かって歩ませてください。わたしたちは生ける神の神殿であるというみ言葉をいただき、恐れを抱きます。あなたが喜ばれるのは、わたしたちの謙った心。謙った魂をあなたは軽んじられません。どうかわたしたちが自分の生きて生かされて来た日々を振り返り、悔い改め、残りの年月を主の喜ばれる道を尋ね求める者とならせてください。

恵みの教会を心に思い、天を仰いでおります。地上のわたしたちは多くの困難に囲まれ、途方に暮れることもしばしばです。しかし、あなたの導きを信じ待ち望んでおります。地上でわたしたちが礼拝しているこの教会に将来を与えてください。この地でいつの時代にも福音が宣べ伝えられ、賛美が捧げられますように。日本基督教団を通して、連合長老会を通して主の御業が力強く行われますように祈ります。また、この教会において主に奉仕する方々を祝し、その背後にある家族、友人、社会を祝してください。わたしたちが世にあって、人々のために執り成しの務めを果たし、主の喜ばれる救いの御業に参加できますように。特に悩みと労苦にある方々と共にいらして下さい。

わたしたちの贖い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2017年3月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

勝田令子先生のお話(これは1月15日の礼拝で話されたものです。)

聖書:エフェソの信徒への手紙5章1-15節

「ただ一人の神様を信じる」

勝田令子

先ほどお読みいただいた聖書は、エフェソ教会のキリストを信じる人たちに、パウロという人が送った手紙の一部です。その中で、パウロは「あなた方は、神に愛されている子供なのですから、神にならう者となりなさい」と言っています。イエス様が私たちを愛して、私たちの罪を背負って十字架についてくださいました。そのことで、私たちは神様の子供にしていただきました。神様の子供である私たちにとって一番大切なことは何でしょう?それは、礼拝で神様の言葉を聞くことです。そして、「神にならって生きて行きなさい」と勧められています。

3節からは、「あなた方の間では、聖なるものにふさわしく、みだらなことや汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはいけません」と書かれています。下品なことを言ったり、あれこれ欲しがったりしないで、4節には「それよりも感謝を表しなさい」と書かれています。5節。「すべてみだらな者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい」と書かれています。

偶像礼拝者とありますが、偶像って何でしょう?昔、イスラエルの人々はエジプトの国の奴隷でした。奴隷というのは、同じ人間なのにお金で買われて、主人の言うことは何でも聞かなくてはいけません。神様は、この苦しんでいたイスラエルの人々をエジプトから救ってくださいました。そのことは、旧約聖書の出エジプト記というところに詳しく書かれています。そして神様はイスラエルの人々に、もう二度と奴隷になることは無いので、このように生きなさいと「十戒」を示されました。十戒の最初の言葉は、「あなたがたには、私をおいてほかに神があってはならない」です。そして第二が、「あなた方はいかなる像も造ってはならない」です。像とは何でしょう?像というのは「形」ということです。

ある時、イスラエルの人々が荒れ野を旅していました。その時、人々を導いたモーセが神様に呼ばれて山に登って行きました。ところが、いつまで待っても戻って来ません。不安になった人々は、自分たちで神様を造ることになり、金で子牛を造りました。その子牛を拝み始めたことを知った神様は、大変怒りました。神様は形ではないのです。教会には、神様を形にした像などどこにもありませんね。金や石で神様を造って拝んではいけないのです。人が造った金の子牛と、本当の神様の違いは何だと思いますか。金の子牛は動けません。でも、神様は私たちの先を進んで導いてくださいます。また、金の子牛は話せません。でも、神様

は私たちに話しかけてくださいます。それが礼拝の説教です。だから、毎週の礼拝で、神様の話しかけてくださっていることに、耳を傾けることが大切です。神様は言っておられます。「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。あなたは、いかなる像も造ってはならない。」私たちは、形で造られた物ではなく、ただ一人の神様を信じて生きて行くようにしましょうね。

<3月の教会学校礼拝> (毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

◎ 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。

◎ お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

3月5日 (日)   ペトロ(一)3:8-14 お話の担当… 並木せつ子

12日(日)  ルカ12:13-21              並木せつ子

19日(日)  エフェソ4:17-24            並木邦夫

26日(日)  申命記6:1-5             興津晴枝

中高生の皆さんは、大人の礼拝にもご参加をおすすめいたします。礼拝時間は10時半~11時半です。親子連れの方も、どうぞいらしてください。

教会・教会学校からお知らせ・お祈り・報告

真の神は、イエス・キリストの御生涯に表されました。イエス様を通して、私たちは、神の真実を知ることができます。

教会の暦(レント)・・・2017年は3月1日(水)から受難節(レント)に入ります。イースターまでの40日の期間を、イエス様が人間の罪をあがなうために苦難を負われたことを思って、感謝と悔い改めに過ごします。今年のイースター(復活祭)は4月16日(日)です。この時に洗礼を受けて、イエス様と結ばれ神の子とされたい人は、レントの間にその準備をいたします。

礼拝でのお話は小学校高学年~中学生にもわかりやすく語られます。礼拝後の活動は幼少~小学生向きですが、何歳でも楽しく参加することができます。

中高生の皆さんは、大人の礼拝にもご参加をおすすめいたします。礼拝時間は10時半~11時半です。親子連れの方も、どうぞいらしてください。

発行: 日本基督教団成宗教会・教会学校、牧師・校長 並木せつ子

所在地:〒166-0015 杉並区成田東3-16-2  Tel/Fax:03-3311-6777

ホームページ: https://www.narimunechurch.org/

3月の御言葉

「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」ペトロⅠ、3章8節

ひたすら主に喜ばれる者に

聖書:イザヤ書第64編5-8, コリント人への第二の手紙第5編1-10

最近主人が新しいパソコンを家に入れたのですが、古い型式のもので十分だと思っても、最新のウィンドウズ10を買わざるを得ないように世の中はなっているようです。そして昔と違うことは、目を見張るばかりの映像の美しさです。それで、こちらが頼んでもいないのに、パソコンを立ち上げる度に、ドキッとするような華麗な景色が目に飛ぴ込んで来ます。開ける度に違った景色に、思わずワーッと驚かずにはいられません。するとすかさず、コンピューターに「気に入りましたか」と文字が現れます。「どんなもんだい!」と言わぬばかりです。夜中に急いでバソコンを開けて仕事を片付けようとしている時には、少し腹が立ちます。映像を開発する人々は、だれもが美しいものに魅了されたたい、幻惑されたいのだと思っているのでしょうか。

私は若い頃、盲学校に数年働きました。一緒に働く教師の中に、また生徒の中に全く見えない人々がいました。この人々は映像に幻惑されない人々。されたくてもできない人々でした。しかし彼らとの間にも、本当に喜ばしい平和な時があり、分かち合う知恵があり、楽しい善き交わりがありました。ところが、大多数の人々は目の見えない人のことなど他人事だと思っています。良き交わりなどよりも、人々は目の覚めるような、耳がうっとりするような世界に驚きながら、そこに浸って生きていたいのです。しかし、その目も衰える。耳も衰える。足も衰える。これは大問題です。いつまでもいつまでも、この世界の輝きが目標であるならば、わたしたちの人生は落胆するばかりであります。

しかしそれに対して、神が差し出された福音。イエス・キリストの救いを信じた者は、「私たちは落胆しません」と言います。なぜなら「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ」と彼らは言います。見えるものは一時わたしたちの目を蒋い、心を魅了しますが、過ぎ去ってしまいます。それに対して、見えないものは永遠に続く。それは何でしょうか。それは、神が差し出された永遠の命。神との交わりです。しかし、福音に出会わなければ、果たしてそれがどのようなものなのかは、目に見えて分かりませんので、人々はやはり地上の生活の豊かさ、華やかさに心を向けざるを得ないのでしょう。

私たちは、神を信じる人も信じない人も、衣食住が満たされることを求めます。それは 当然の率直な願いであり、神様もそのことをご存じです。主イエスは「求めなさい。そう すれば与えられる」と言ってくださるのです。しかし、衣食住を求める祈りだけに終始することは正しいでしょうか。主イエスは主の祈りを弟子たちに教えてくださいましたが、主の祈りの前半こそ、大切ではないでしょうか。「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心の天になるごとく地にもなさせ給え。」御名を崇め、御国を求める祈り。御心を求める祈りこそ、神の喜ばれることではないでしょうか。主イエスによって、このことを知った人々こそが、教会の信徒となったのです。思えばこの祈りは何と大きな求めでしょうか。それは、神の御心の広さ、深さ、高さ、永さをたとえ僅かでも知りたいと願うことだからです。なぜなら、キリストの心が私たちの中にあり、私たちの「内なる人」がキリストに在って生まれたからです。そして成長しているからです。

さて、そこでパウロは私たちの「外なる人」を地上の住みかと呼ぴます。年を取るにつれて衰える肉体は、私たちの地上で住む家に例えられていますが、それは頑丈な建物ではなくて、幕屋、テントです。 つまり、時が経てば古びて倒れてしまうものです。 しかし、その幕屋が滅びても、神によって用意された建物がわたしたちにはある。それは天にある永遠の住みかです。「私たちは知っている」とパウロは言うのです。「知っています」という言業は、とても強い確信を表します。この言葉はキリストによって救われた者の言莱です。キリストを信じないならば、一体、神がわたしたちに永遠の住みかを用意してくれると、どうして確信することができるでしょうか。

信者である私たちは、地上の生活を生きている間にも、天から与えられる永遠の住みかを地上の命の上に、更に着たいと切に求めて苦しんでおります。一方信仰のない人々も別の意味で苦しんでいます。その人々は地上の幕屋を失いたくないので悶々としているからです。 幕屋のたとえは、ここで着る物のたとえに変っております。3節で「それを脱いでも… 」という所は、地上の幕屋を脱いでもという意味です。地上の住みかを失ったときも、裸のままではないというのは、当然のことながら、信仰を持っている者たちの魂のことです。彼らは信仰を身につけているからです。それはキリストの義の衣と呼ばれます。なぜなら、私たちがキリストを信じることによって、キリストの正しさは衣のようにわたしたちを覆ってくださるからです。

他方、信じない者も地上の幕屋を脱いだ時、その魂は体という幕屋を失うのですが、神の御前に裸を覆ってくれる衣は何もないことになります。地上の生活のことだけを考えている限りは、多くの人々はこのような信仰を持つ人と持たない人の違いを考えないのです。またたとえ知らされたとしても「そんなの不公平だ」とか、「キリスト教徒は倣慢だとか」と批判するだけです。そして、1節にあるように神によって建物が備えられていると知っているという言葉は、科学的にも論理的にも客観的に証明できることではないのですから、パウロの言葉のような確信は、聖霊が私たちに与えてくださらなければ、だれも持つことができないでしょう。ところで、私たちが天の住みかに住む希望に生きる者となったのは、わたしたちの努力ではありません。私たちの能力ではありません。 ただ神さまがわたしたちをふさわしいものとしてくださった。そのことが分かるのは、私たちに聖霊が与えられたからです。だからこそ、確信をもって、私たちの地上の住みかが滅びても、「神によって建物が備えられていると知っています」と断言しているのです。

私たちは人間の最善の生活は神と共に歩むことであり、神の御心に従って歩むことであると教えられています。人と人との交わりは、地上に限定されたものになりますが、神と共に歩む交わりは永遠の命をいただくことです。神との交わりを信じる者にとっては、地上の命は本当にその一部にしか過ぎないもので、それも、やがては過ぎ行くものです。地上の幕屋に住む私たちは、日々重荷を負って苦労しております。しかし、信じる者は、既に永遠の命をいただ<希望の中に生きており、その命がより良い命であることを知っています。聖霊に確信を与えられているので、私たちはいつも心強いのです。

私たちは、ヨハネ福音書でイエス様がおっしゃった言葉を知っています。(ヨハネ 14:23, 197頁)「わたしを愛する人は、わたしの言莱を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き一緒に住む。」また、聖霊の神様が来てくださることも主イエスは約束してくださいました。(ヨハネ 14:16-7)「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。」

こうして私たちは地上の生活の中で、既に主と共に生きています。今このように信仰によって、生きているわたしたちは、地上の生活が終わるときを思っても、心強く生きることができます。それでもこの体をもって生きている限りは、私たちは本当の意味で救いが分かっている訳ではありません。永遠の命が分かっているわけではありません。今の私たちは、コリント ー 13章12節に言われているような状態です。(317頁下)「わたしたちは、今は、鏡におぽろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔とを合わせてみることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」とパウロは述べています。

おぼろに見ているような神の国。そのような意味で主から離れていることも知っているというのです。しかし、聖霊の助けによって確信をいただいて歩んでいます。地上を去って神の御前に立つ時にこそ、はっきりと永遠の命の交わりについて知ることができるでしょう。そのようにはるかな希望を、憧れをもっている信仰者には、地上を去ることは少しも辛いことではなく、むしろ望ましいことであります。しかし、だからと言って、それは何が何でも早く地上を去りたいということでは決してありません。

ただ、私たち心強い気持ちで日々生きるのです。心強い思いで年を取って行くのです。目に見えるものを頼りにして歩いているのではなく、信仰によって歩んでいるからです。ここで信仰という言莱と目に見えるものとが、反対の意味で使われていることに注目してください。信仰は目に見えません。しかし、イエス・キリストによって救いを仰ぎ見た人はどんなに目を開かれたことか、まさにこのことにこそ、ぴっくり仰天すべきではないでしょうか。

救いに入れられている者は、主の許に住むことになることを楽しみに待ち望んでいます。今は体を住みかとしているにしても、この地上の体を離れる者となる時にも、望みはただ一つ、ひたすら主に喜ばれる者となることです。神は全地の造り主、全能の父なる神を私たちは告白します。そして私たちの主イエス・キリストは救いのために天から降り、十字架に掛かり、私たちの罪を贖ってくださいました。そして聖霊の主は世に来てくださり、信じる者を呼び集め、キリストの体の教会を形成して、世の終わりまで救いの御業を完成してくださいます。

私たちはこの神、三位一体の神を告白する教会の信仰を受け継いでいます。この信仰に立って、地上の生活においてこの救いの恵みに向かって人々を招きたいと願うものです。 聖霊の助けがなければ、だれもイエスは救い主と告白することはできません。私たちは、自分にこの信仰が与えられていながら、それは、本当に理屈では説明できない奇跡なのだと思わずにはいられないのです。しかし同時に、自分の力で伝道して信者が増えるなどとはとても思えないので、伝道には知らず知らず消極的になっているのではないでしょうか。

私が成宗教会に赴任してから15年が過ぎようとしています。世は高齢化に向かおうとしておりましたが、その中で、「高齢者へのケアには自分が向いている」等と私が考えたのは、かなり安易であったと思います。高齢者を支えることは、間接的に下の世代を支えることであると思いましたが、高齢の教会員を支えることが、その家族の伝道に繋がることは困難でした。また病気の方や障害の方を支えることで、家族伝道に繋がるということはもっと困難でした。また、若い世代を支えることの困難さも痛感しました。

使徒言行録(使徒行伝)が聖霊行伝と呼ばれたように、伝道は、聖霊の御業なのであります。私も伝道者として多くの失敗と多くの困難を経験したのですが、連合長老会に加盟してからは、教会の務めは牧師の個人プレーでは決してなく、教会長老会の働き、教会全体の祈りと奉仕によって成り立つことを、改めて実感するようになりましたことは、真に喜ばしい反省点であります。

最後に、しかし、家族の救いについて一言申し述べます。救われた者には地上を去ることは恐ろしいことではありませんが、福音を受け入れない、または福音に触れたことのない皆様の家族について、日頃から祈りを熱くしていただきたいと思います。この執り成しが無ければ、ご家族が世を去るにあたって大変な苦しみ、悩みに襲われることを、私は経験上、思わずにはいられないからです。世の人々は、死んだあとどうなる、ということについてもちろん確信もなく、また考えることも避けていますから、適当に気休めを言う中にだんだん追い詰められます。皆、家族といえども、自分でない限りはなるべく考えずに済ませようとするのですから。

私は2012年に母親に老人ホームで洗礼を授けることができました。それから2014年に鈴木尚美姉のお父様に病床で洗礼を授けることができたことは、特別な感謝の体験となっております。母の場合は「自分には行くところがない」と大変に悩み苦しみ騒ぎました。周りは非常に困りましたが、だれもその解決策を思いませんでした。娘のわたしが牧師でなかったら、洗礼は全く可能な状況ではなかったのです。太田口兄の場合は、もう長く生きられないと分かった時、ご家族がそろって洗礼を強く希望してくださったので、太田口兄も「もちろんです!」と仰って、御自分が天国に招かれていることを確信なさったと思います。私たちは、ひたすら主に喜ばれる者になりたい。主に喜ばれる者とは、どのような者でしょうか。主は多くの人のために命を捨ててくださいました。その方に喜ばれる者とは、自分が救われたように、愛する人々に天にある永遠の住みかが与えられることを、私たちが真剣に祈り求める人になることではないでしょうか。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

主イエスキリストの執り成しによってあなたのいます所にわたしたちもいる希望を与えられましたことを感謝します。高齢に進むにつれて思い知らされるこの絶大な恵みを、どうか、老いも若きも知ることができますように、どうか福音を世に伝える教会の務めを強め、わたしたちの心と体と魂を励ましてください。良いもの、美しい者はすべてあなたからあふれるばかりに分け与えられます。どうかあなたの御心に適って、多くの人々と良き者を分かち合い、天にある喜びがわたしたちの中にも満ち溢れますように。

新しい年度の計画を立てようとしています。どうかあなたの救いの喜ぴが満ち溢れる教会となりますよう、主よ、御心を行ってください。小さな群れを励まし、一人一人が世にある時も世を去った後もあなたの恵み深さ、ご栄光を顕す者となりますよう、主よ、御国を目ざして歩ませてください。どうか東日本連合長老会の交わりにおいても同じ主の蕗い御体を形づくるために前進させてください。今、わたしたちの中にある病気、孤独、多忙、過労の悩みをどうか顧みてください。日々、お守りをお願い致します。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主は見つめられた

聖書:ルカによる福音書第22編54-62, 詩編第51編5-17

今日の週報にもお知らせしましたが、7月3日(日)の伝道礼拝の説教の原稿を、川村先生にいただきましたので、皆さんにも改めて御覧いただきたいと思います。川村牧師は説教の冒頭で、「教会にとって伝道は最も重要な働きの一つである。教会が伝道をしなくなったら終わりである」と話されました。正直に申しますと、私はこれを聞いて非常にびっくりし、また大変納得させられたのです。

なぜかと申しますと、私たちは伝道を全くしないで良いと思っている人はいないと思いますが、ほとんど伝道をしなければならない、と自分のこととして考えていない教会にいて、それが普通になっていたからです。それは私の以前教会生活をしていた所についても、ほとんど当てはまると思いますし、少なくとも日本基督教団の諸教会に共通の問題であると思います。「教会が伝道をしなくなったら終わりである」と断言されて、私たちは本当にひん死の重傷の病人のようである、と気が付かないではいられなかったのです。

しかし、皆さんは牧師になる人は、伝道したいから牧師になるのではないかと思っていらっしゃると思います。もちろん、広い意味では福音伝道する教会に仕えるために、私も献身しました。しかし、献身の決意を述べる時に東京神学大学に提出した聖句は、主イエスが、「わたしに従いなさい」と言われたことではなく、マタイ福音書の9章36節〜38節でありました。(17ページ)「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」

飼い主のいない羊のような教会を私は眺めて来ました。世は自己実現を追い求めており、その風潮は教会の中にも深く浸透していたと思います。だれもかれもが自分の主張をし、それが受け入れられることは良いことだと信じているようでした。そうして教会の中に無秩序が持ち込まれ、声高にしゃべる者の主張が通るようになったとき、教会の群れは弱って行ったのです。しかし、自分たちが弱っていることに多くの人々は気が付いていなかったと思います。自分たちの飼い主は誰か、あの先生、この先生と思っていた。あるいはあの長老、この役員がいれば大丈夫と思っていた。そして、教会の主を忘れて行ったのではないでしょうか。そして群れを飼っているつもりのリーダーたちも、牧師、長老、役員たちも同じことです。自分たちが本当に教会の主に従って、教会を建てようとしているのか、それをどれだけ問うていたでしょうか。

上に立つ者の罪が大きいことは、聖書を読めばよく分かります。主イエスを十字架に付け、殺すことを企てたのは、他ならぬ神の民イスラエルの指導者たちであったからです。そして、それに手を貸して主イエスを裏切ったのも、弟子たちの中でも重要な人々の一人、主から信頼され、用いられていたユダでありました。このように、神の民は、教会は自分たちの弱さと落ち度によって、自己実現によって、主の民であることを忘れ、人間の支配に陥るとき、大変に弱り果ててしまいます。しかし、その人々を主はどう思われるか、ということです。そのような私たちを主は憐れんでくださる、と聖書は語っているのではないでしょうか。そこで、伝道ということの中身を理解しないままに、ただ、主の憐れみを信じて、主の助けを祈りなさいと言われたことを信じて、献身した私のような者をも、用いてくださる方が、教会の主であることを感謝しながら、主の恵みによって今日の聖句を説き明かしたいと思います。

ペトロは熱心に主に従う者でありました。何とかして主のお役に立ちたいと思っていました。その熱意と愛に私たちは心を動かされずにはいられません。主が十字架の苦難と死と復活を予告された時に、大衝撃を受けて、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と苦難の道を妨げようとしました(マタイ16:22/マルコ8:33)。また、主がペトロをはじめ弟子たちの躓きを預言なさった時には(ルカ22:31−33)、彼は「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と断言したのです。彼は心の底から、主と共に生き、共に死んでも本望だ」と思っていたのです。

しかし、主は真実を知っておられた。主は神に等しい方であるならば、どうしてそれを否定することができましょうか。ペトロに欠けているもの、そしてもちろん、私たちに欠けているものは何か、主イエスを真に主と、恐れをもって信じ、告白しているかどうかではないでしょうか。主を親しく信頼する。それは良いことです。私たちと等しく悩み、苦しみ、痛みを知っておられる方であると知る。私たちを御自分のように愛しておられると信じる。それは素晴らしいことです。しかし、それだけでは十分ではありません。主はわたしたちを知っておられる。主はわたしたちの弱さ、私たちが自分はそうではないと信じて疑わない弱さを知っておられる。このことを信じ、告白することが大切です。なぜなら主は人となられた神であられるのですから。主イエスは御自分が敵の手に渡されるその直前まで、弟子たちと共にいらして弟子たちを守り抜いて下さいました。すなわち、敵の手下である小さな者に切りつける、という無謀な暴力をもカバーして下さり、その上で、弟子たちが危害を加えられることなく自由にされるようにしてくださったのです。弟子たちが処罰を免れるように。それは、主のご配慮でした。それなのに、ペトロは主が捕まえられ、自分が何もされないというのでは、気持ちが収まりません。主が捕えられ、引かれて行く所は大祭司カイアファの館でありました。彼は手を尽くして何とか、その中庭に忍び込むことに成功しました。これからどうなるか、事の成り行きを確かめずにはいられないと自分に言い聞かせて、主がせっかく弟子たちを自由に逃げられるようにしてくださったのに、その御好意に逆らったのです。

季節は春先で夜は冷えました。庭の中央に炭火が起こされ、人々はその周りに座って火にあたっていました。ペトロは用事もないのに、そこに居て他の人々に紛れていられると思っていたようです。ところが一人の女中が、この人はヨハネ福音書によれば、門番をしていた人のようであります。彼女も、それから中庭にいた人々も、なぜ、主イエスが捕まえられなければなかったのか、この事件については何も分かってはいなかったと思います。まして、彼らの指導者たちのように、主イエスを憎んでいたわけではなかったでしょう。しかし、彼女は、ペトロの顔を覚えていました。そして主イエスの仲間がここにいることを他の誰も知らない、わたしだけが知っている!ということに得意になったのでしょうか。思わず、この大ニュースを暴露せずにはいられなかったのかもしれません。「この人も一緒にいました」と。ペトロは、突然群衆の中から、人前にさらされました。大勢の視線に身の危険を感じ、パニックに陥ったのです。彼は嘘をつく以外にどうしようもありませんでした。彼のように向こう見ずな者、そして自分こそは、という思い上がりの強い者に、悪魔は好んで突然襲いかかり、足もとをすくうことをするのです。ペトロは主を知らないと言ったこと。この出来事はすべての福音書に記されています。しかも、十二使徒の筆頭と自認していた者にこの重大な罪を犯させたのは、名もない下働きの女性の一言であったのです。

「この人も一緒にいました。」彼女の一言で主イエスに対する崇高な英雄的な訴えも消えうせました。この彼女の一言でゲッセマネの園で剣を振り出した勇気のすべてが、彼の心からも、手からも消えうせました。そこにいるのは、主イエスを天から遣わされた神の子、救い主を告白することができず、嘘をついてまで否認する愚かな卑怯者でしかなかったのです。「わたしはあの人を知らない」と。そうしてこの否認によってペトロはまた次々と否認を繰り返すこととなったのです。58節以下。「少したってから、ほかの人がペトロを見て、『お前もあの連中の仲間だ』と言うと、ペトロは、『いや、そうではない』と言った。一時間ほどたつと、また別の人が、『確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから』と言い張った。だが、ペトロは、『あなたの言うことはわからない』と言った。」ルカは親切にも、ペトロが相手の言うことの意味が分からないという言葉によって、主を否認したと述べている。それは知らないというより更に悪いものになりました。ペトロは「主を知らない」と言ったとき、自分をキリストによって結ばれていた神との関係を断ち切りました。それは自分自身を呪うことだったのですから。そして更に、人と人との普通の言葉が通じないふりさえして、対話の関係さえ断ち切ろうとしたのであります。

ペトロは疑わしいと言われても、まだ捕縛されてもいないし、裁かれるために拘束されてもいない訳ですが、今や彼は群衆の中に、隠れているためには、何でもする用意ができているような者でした。こうしてついに彼はごく普通の人間性さえ失い、今や見るに堪えないあわれな臆病者になり下がってしまったのであります。しかし、ペトロが「あなたが何を言っているのか分からない」と必死に言い訳を叫んでいるその時に、突然鋭く叫んだ者がありました。それは夜が明け、空が白み始める前に、時を告げる雄鶏の叫びでありました。

夜明けを告げる鶏の声、当たり前の朝の知らせに、注意を払う者はいませんでしたが、ペトロだけは違いました。主が振り向いてペトロを見つめられたからです。私たちは不思議に思います。広い大祭司の中庭で、主はこの時ペトロを見つめるほど近くにおられたのでしょうか。おそらくはちょうどその時、神殿警察が裁判場から主イエスを引き出して来たのではないかと思います。そして、次に召喚されるまで留置するところに連れて行くために、中庭を通って行く。ペトロの近くを通り過ぎる時、それはペトロが否認をし、鶏が叫んだ、ちょうどその時だったのではないでしょうか。61節.「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。」この時すでに、主の御顔は受けられた傷で、黒く青く変わり果て、唾をかけられて汚されていたことでしょう。しかし主はその御顔を向けて、哀れなペトロを見つめられたのです。主の受難。恐ろしい苦難のただ中にあっても、救い主イエスの心は、ペトロのことを想い、彼を見られたのである。ペトロの唇は主を知らないと言い、仲間でないと言い、恐ろしい否認を繰り返して、いまだに震えていたのでありましたが、その彼を主は見つめられたのであります。哀れなペトロの魂に届くように。そして彼を救うために。そのお顔は、ペトロには、たまらなく堪(こた)えたことでしょう。この偉大なことをルカだけが報告しました。

そのお顔に彼は思い出させられました。ペトロの状況を主は予見しておられたからこそ、鶏についての言葉を語られていたのです。何のために。預言の通りになった今こそ、ペトロがその言葉を思い起こして、立ち直るように。彼は恐怖に取りつかれ、緊張に引きつっていましたが、この時ついに解き放されました。主の愛の警告が本当であったことが今、彼の魂に戻って来たのです。今こそ、自分を捨てて主を真の救い主と告白する悔い改めの道は開かれました。彼は外に出て、激しく声を震わせて泣いたのでした。

ペトロの否認と悔恨の物語は二つのことをわたしたちに知らせています。その第一は、主はペトロの否認を預言され、そのとおりになったことです。その第二は他の弟子たちも同様に主と切り離されてしまいましたが、ペトロが悔恨に至ったことで、他の者も回復しました。主を告白する教会の群れとして新たに建てられて行きました。私たちは主に仕えるために、自分の思いと行いを捧げたいと思うのですが、主が本当の羊飼いであり、私たちの思いと行いが中心ではない、ということをしばしば忘れてしまわないでしょうか。だから、一生懸命教会のためにと思いながら、主の御心を思わないということがしばしば起こるのであります。

主は地上に弟子たちを残し、主の体の教会を形づくってくださいます。ここにおいて、真の救いに、主の御支配の中に、人々を招き入れるために。信仰は見えない神の御心を世に現わしてくださったイエス・キリストを信頼し、この方を主と告白する教会の信仰を受け入れることです。自分こそ、自分だけは、という思いを捨てて、礼拝に参加し、神の言葉に聞き従うために、牧師も長老、信徒も心を一つにしたいと願います。主イエス・キリストはペトロの出来事に伝えられている私たちの罪を予めすべてご承知の上で、苦難を受け、罪人たちのために、執り成しの務めを果たされました。そして今も後も、天にあって私たちのために弁明をしてくださっていることを信じましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

主イエスが苦難のただ中でも、ペトロを憐れんで見つめてくださったことを、私たちに教えて下さり、感謝いたします。主の愛に打たれ、真に思い上がった心を砕かれ、新たに主に従う私たちとしてください。私たちが対岸の火事を見るように世界中の人々の苦難を見ないように。また日本の中にある虐げられた人々を他人事と思わないように。どうか主の御目で私たちを見つめてください。そして私たちがどんなに弱く小さな者にすぎないかを悟らせてください。小さな者を大切にし、小さな者と共に歩み、あなたの喜びとなる生活を、私たちに今週くださいますようお願いいたします。

私たちの教会の中にある計画、個人的な計画も、社会においての計画も、すべて主の教会の恵みのもとに治めてください。不法を働く者、究極の自己中心である戦争やテロの攻撃からお守りください。善悪の見えにくい世界にあって、真の正しさを知る者となりますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン