救いの御子

11月の説教

聖書:ヨハネによる福音書第3章16-21節

説教者 成宗教会 藤野雄大牧師

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書第3章16節)

 

主に在る兄弟姉妹の皆様、本日は、永眠者記念礼拝をささげております。この永眠者記念礼拝とは、この成宗教会で信仰の生涯を走り終え、今は、主の御元にある兄弟姉妹を特別に覚える日です。

この成宗教会では、現在までに、6名の教職者および、80名の教会員が永眠者として記録されています。もちろん、これで全員ということではなく、例えば、そのご生涯の一時でも、成宗教会と関わりを持たれた方を含めれば、もっと多くの方々が、この成宗教会において、主に結ばれて、信仰の歩みをなされたことでしょう。

1940年に初代牧師である有馬先生の開拓伝道によって始められてから、今日に至るまでの約80年間の歴史の中で、これだけの方々が主に結ばれたご生涯を送られたことに驚き、また主の御業に対して感謝を覚えるものです。なぜなら、これらの永眠者の記録は、成宗教会が、この成宗の地で主の福音を宣べ伝えてきたことの証しそのものでもあるからです。

残念ながら、限られた礼拝の時間の中で、ここに記された方々お一人お一人のご生涯を詳しくご紹介することはできません。また、その必要もないでしょう。なぜなら、永眠者記念礼拝とは、天に召された兄弟姉妹「を」礼拝するのではなく、天にある兄弟姉妹「と共に」、地上にある私たちが、主を礼拝するものだからです。それは、天にある兄弟姉妹が生かされ、慰めを受けてきた信仰が、今、私たちを生かし、私たちを導いていることを覚える時でもあると言えるでしょう

今年の永眠者記念礼拝を覚えて、日本基督教団の聖書日課では、ヨハネによる福音書3章16節以下の箇所が示されております。この箇所は、しばしば「小福音書」、小さな福音書と呼ばれることがあります。それは、この箇所が、福音、つまり聖書全体のエッセンス、最も大切なことを教えているという意味です。

16節には、このように記されております。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

これは驚くべき言葉です。なぜなら、「与えられる」というたった一言の中に、そこに、神の御子、主イエスのご生涯が、余すところなく示されているからです。イエス様がこの世界に生まれ、十字架にかかり、そして復活された、そのご生涯全体が、私たちに与えられたものであったということです。それは、その後に記されておりますように、「独り子を信じるものが、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」ということになります。

キリスト教における永遠の命というのは、この地上にある、私たちの命が永遠であるということではありません。私たちが、いわゆる不老不死の存在になるということではありません。また仏教でいうような輪廻転生、つまり前世、現世、来世へとよみがえりを繰り返すということでもありません。

ハイデルベルク信仰問答という、私たちの大切な信仰の手引きには、次のように記されています。

 

問58 「永遠の命」という箇条は、あなたにどのような慰めを与えますか。

答え:わたしが今、永遠の喜びの始まりを感じているように、この生涯の後には、目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる、ということです。

(吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』より引用)

 

ここには、永遠の命への信仰が、わたしたちの慰めであると記されています。そして、その慰めとは、私たちが、地上にある時には、永遠の喜びの始まりを抱かせ、そして、この生涯の終わりには、私たちが想像もできないほど完全な祝福を与えられ、神のみ元にあって、神をほめたたえるようになることとされています。永遠の命とは、私たちが地上にある時も、また天に召されて後も、わたしたちの喜びであり、慰めそのものであるということです。

これは、すでに主の御元にある信仰の先達たちを、生かし、強めてきた信仰であったと言えるでしょう。彼らは、主イエスの十字架と復活を受け入れることで救いを与えられました。そして、主イエスの御名によって、信仰を告白しました。その信仰によって、新しい命の喜びに生きるものとなったのです。それは、その地上のご生涯においても、彼らを支え導く慰めであり、また主の御元に召された後には、一層大きな、輝かしい祝福になっています。

宗教改革者のカルヴァンは、このヨハネによる福音書の解説の中で、こう語っています。「信仰の正しいまなざしは、キリストを目指し、彼において愛にみちた神の心を見つめることである。そして、その愛の唯一の保証として、キリストの死に立脚することが、確固としたよりどころなのである。」

カルヴァンが語るように、キリスト教の信仰とは、キリストを見つめることだと言えます。さらに言えば、信仰とは、キリストを通して示された神の愛を見つめることだとも言えます。キリストの十字架における死が、私たちに赦しと希望を示してくださいました。成宗教会の信仰の先達たちも、キリストに結ばれて、その生涯を生き、そして終えたのでした。

わたしは、その一人一人のご生涯の詳細を詳しくは存じ上げません。しかし、彼らもまた、一人の人間として、その生涯の中で、喜びもあれば、悩みもあり、苦しみもあったことでしょう。仕事や家庭において、課題を抱えていたこともあったことでしょう。深い悲しみや嘆きの中で涙し、眠れない夜を過ごしたこともあったでしょう。病に苦しみ、肉体の衰えに不安を覚えたこともあったでしょう。嘆きや苦しみ、不安が全く無い人生というのはありえません。

この点においては、信仰者も、世の人々と変わることがありません。しかし、それでも私たちの信仰の先輩方は、キリストを見つめ、キリストを唯一のよりどころとして、その生涯を走りぬきました。そして、今は、神の御元にあって、永遠の平安と慰めの内を生きるものとされました。

このことは、今、地上の生涯を歩む私たちにも大きな慰めであり、また励ましでもあります。私たちも、やがては彼らと同じ、主の御元に召される時がやってきます。それは、誰しも避けることのできない地上における死です。しかし、キリストを信じる者にとって、地上の死は終わりではありません。死は永遠の命の始まりだからです。

この永眠者記念礼拝でも、私たちは、この後に聖餐に与ります。これは、主イエスの十字架において流された血と裂かれた肉を覚え、またその犠牲を分かち与えられることです。そして、主の御元に召された者が、味わう永遠の食卓を先取りするものでもあります。天にある兄弟姉妹を覚え、地上にある我々も、救い主キリストを見つめ、復活の主によって示された永遠の命を確信しつつ、それぞれの生涯を歩んでまいりましょう。

 

お祈りいたします。