聖なる公同の教会

聖書:エレミヤ書138-14節, エフェソの信徒への手紙416

 教会は今朝の礼拝でも、使徒信条を告白しました。成宗教会がそうしているだけでなく、全世界の教会において礼拝毎に告白されています。また現代の教会だけがそうしているのではなく、代々の教会が、使徒信条あるいはコンスタンチノーポリス信条を告白しています。全世界の教会は歴史を通してこの告白を以て一致して参りました。

さて、今日は使徒信条の中で「教会を信じる」ということについて学びたいと思います。わたしたちは教会というと、何といっても思い出すのは建て物です。また、そこに集まっている人々です。また教会学校が開かれるとお子さんが集まって来ます。するとその人々によって教会は目に見える教会となります。しかし、教会を信じるというのはそういうことでしょうか?目に見えているものを信じるとはどういうことでしょうか。わたしたちは目に見える教会に集まっています。ここに、イエスさまがわたしたちを集めておられると信じるからです。イエスさまは今も神さまの右に、つまり天の教会におられます。だからわたしたちは目に見える地上の教会に集まって、目に見えないイエスさまによって礼拝を守るのです。それはわたしたちの礼拝が目に見えない天の教会、神さまとイエスさまがおられるところを見上げて、そこに向かって礼拝を捧げることに他なりません。

地上の教会にいるわたしたちは、今日も「聖なる公同の教会を信じます」と告白しました。聖なるとは、きよいということですが、特に衛生的な意味で「清い」ということではありません。「聖なる」とは、「わたしたちが神さまに選ばれ、集められた」という意味です。わたしたちが礼拝に集まっているのは、神さまが一人一人、名前を呼んでくださったからなのです。そして「公同の」とは、いつでもどこでも誰でもが信じることのできる、普遍的な、という意味です。これに対して様々な考え、価値観が時代によって地域によって起こり廃れ、絶えず変化するので、わたしたちは生きる上で大変大きな影響を受けています。その世界に在って聖なる公同の教会を信じるとはどういうことなのでしょうか。

本日はエレミヤ13章を読んでいただきました。13章9節。「主はこう言われた。『このように、わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。彼らは全く役に立たないこの帯のようになった。人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしよう、と思った。しかし彼らは聞き従わなかった』と主は言われる。」

主なる神さまは御自分の民をどんなに集めようとしておられるか、それは歴史を通していつも変らない神さまの御心に他なりませんでした。主は、ご自分の民を帯に例えておられます。「人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着ける」と。そして「わたしの民とする」と。帯の例えが語られます。帯と言えば、わたしたちは日本の女性の和服のことを思い出します。昔は着物よりも帯の方が高価でありました。帯は和装の全身を飾る美しさの象徴であったのです。また男の人ならボクシングの豪華なチャンピオンベルトを思い出すでしょう。帯というものは身に着ける物のうちでも本当に大切なものだったのです。

神さまは人々をどんなに愛して大切にしておられたことでしょう。神さまはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をご自分の身にしっかりと着け、ご自分の民とし、ご自分の名声、栄誉、威光を、神の民によって示したいと思われたのです。ところが人々は神さまに従いませんでした。ところが、「この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。彼らは全く役に立たないこの帯のようになった。」その結果は傷ましいもの、忌まわしいものとなりました。主はこう言われました。『見よ、わたしは、この国のすべての住民、ダビデの王座につくすべての王、祭司、預言者、およびイスラエルのすべての住民を酔いで満たす。わたしは、人をその兄弟に、父と子を互いに、打ちつけて砕く。わたしは惜しまず、ためらわず、憐れまず、彼らを全く滅ぼす」と。

神様への反逆の結果は全世界の不幸であります。しかし、神さまはこの世界をお見捨てにならず、その罪を贖うためにイエス・キリストを世に遣わしてくださいました。イエスさまは真の人として世にお生まれになり、世の罪を負われ、十字架にすべての人の身代わりとなって死んでくださいました。ご自分を信じる者に、最後の晩餐に新しい契約を立ててくださったのです。イエスさまはパンを取り、それを裂いて弟子たちに与えて言われました。「取りなさい。これはわたしの体である」と。また杯を取り弟子たちにお渡しになって言われました。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と。

そういうわけで、イエスさまを信じ、この方の死に結ばれて罪の赦しを受けることを信じたわたしたちは洗礼を受けました。わたしたちが「聖なる公同の教会を信じる」と告白するとき、わたしたちはイエス・キリストの体に結ばれているという、その体がどういうものであるかを知りたいと思います。それを教えられるなら学ぶことができるのです。学ぶことに向かった道が開かれるのです。今日はエフェソの信徒への手紙4章を読みます。1節以下。「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように務めなさい。」

使徒パウロは聖なる公同の教会を信じ、目指して教会を建設していく道筋を勧めます。それは抽象的な、頭の中だけの理想では全くありません。実に具体的な日常に関わることなのです。2節に書かれている「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持つ」というところは特に肝心なことです。エレミヤ13章でも、主は「ユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く」と宣言されているように、教会を建てるために何よりも大きな妨げになるものは高慢、そして傲慢なのです。寛容の心を持つということも、単にニコニコと人を寛大に扱うということではなく、辛抱強く、長く耐え忍ぶということです。自分が何も痛くもかゆくもない、ただ言葉だけの広い心というのはあり得ません。そのためには、第一に傲慢な姿勢が改められなければなりません。

ところが、「自分が悔い改める必要があるとは全く思わない。悪いのはあの人だ。この人だ」と思う人々は少なくありません。私は皆さんにお話しして参りました。「イエスさまはわたしたちのためにどれ程耐え忍んで、教会を建ててくださったことでしょう。私たちはイエスさまのために忍耐して教会を建てましょう」と。しかし、17年教会に仕えて思うことは、人を赦せない、人に我慢できないということは、結局イエスさまの忍耐のことをいくら話しても無駄であるということでした。主はこう言われたからです。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」と。

振り返れば、そういう人々のために悲しむべきことはたくさんあります。しかし教会を建てるということは日々、心を低くして悔い改め、主に従うことです。具体的には互いに愛をもって忍耐し、平和に共に過ごすことです。愛そのものの性質が忍耐強いのですから、愛がわたしたちを支配し力を得るところでは、わたしたちは互いに多くのことを忍び合うのではないでしょうか。しかし、人々から遠く離れて一切付き合わず、礼拝から遠ざかっていて、「わたしは人々と愛をもって平和に過ごしている」とは言えないでしょう。

4節です。「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。」わたしたちはすべて同じキリストの命、同じ永遠の命に召されているのです。だから、いくらわたしたちが聖なる公同の教会を信じると告白しても、今わたしたちは地上の教会にいるのですから、ここで、互いに友情と和合とを保って生活しない限り、永遠の命を受けることはできないと思います。それとも天の国で、神さまの宴会に招かれた人々が、神さまに「わたしはあの人と一緒にいるのは我慢できません。あの人はひどい人だったのに、なぜここにいるのですか」などとクレームをつけるつもりなのでしょうか。人は皆、全くイエスさまの執り成しの恵みを信じてようやく入れていただくのに、そんな偉そうなことを言うのでしょうか。あり得ないことです。

5節。「主は一人、信仰は一つ、洗礼バプテスマは一つ」です。主とはキリストのことです。主は御父によってわたしたちの主となられたのです。わたしたちはこのことで一致しているのでなければ、この主の御支配の下に主の御力をいただいて生きることはできません。また信仰もいろいろあってよいということには決してなりません。すべての人に共通の信仰があるのです。またすべての人に共通の一つの洗礼があるのです。だからこそ、わたしたちは洗礼を授ける前に、代々の教会の信仰について学び、この共通の土台の上に立つ信仰を受け入れて、キリストの体に属する者となる信仰を問うのであります。また、他の教会からの転入会の場合も一人の主、一つの信仰、一つの洗礼を確認するのはこのためです。

わたしたちはその時代、その地域、個々人の都合によって信仰を変えることは決してありません。パウロがコリント(一)8章6節で述べている通りです。「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰っていくと信じているのですから。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」309上末。

教会の信仰は、父・子・聖霊の神への信仰です。この神は三つの位格を持っておられますが同じ一つの神であられます。人間の知恵によっては計り知ることのできない神のご性質を、しかし教会は聖霊によって教えられ、信仰を受け継いで来たのであります。6節。「すべての者の父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」

神さまは聖霊によって主の体の教会のすべての肢々に来てくださいます。イエス様は「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」といわれたのですから、主の聖霊はわたしたちにも来てくださいます。わたしたちが元気な時も丈夫な時もですが、弱っている時にこそ、来てくださり、平安を与え、安らぎを与え、主の恵みで満たしてくださるのではないでしょうか。そしてわたしたちを清めてくださいます。「清めて」というのは聖なる公同の教会に連なる者にふさわしく造り変えてくださることにほかなりません。また、このことをわたしたちに対してバラバラに個人的にしてくださるのではありません。すべてを御自分の恵みの御支配の下に含めてくださるので、すべての者のうちにして下さる、ということなのです。

神さまは三位一体の神さまと呼ばれますが、心は一つであられ、ご自分の中に何の不調和もございません。ですから、当然わたしたちも心を一つにしなければならないのです。わたしたちは「聖なる公同の教会を信じる」と告白しました。わたしたちは、真の神さまを信頼しない世界に住んでいます。そして多くの人々は、真の神さまではなく自分の欲を満たしてくれそうなものを追い求めるので、様々な不幸、不安、争いは尽きることがありません。しかしわたしたちは、このような世界にキリストの救いを差し出し、教会を建ててくださる神さまに感謝し、主の体の一致を求めたいと願います。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

御名をほめたたえます。今日もこうして礼拝に招かれましたことを感謝します。今西日本の豪雨の被災地にある教会を励まし、その地域の救いのためにお力をお与えください。本日は聖なる公同の教会を信じるという告白の意味について学びました。わたしたちは多くの問題を抱え、困難の中にありますが、心を高く上げて主の体の教会を形成してくださる聖霊の助けを待ち望みます。どうかわたしたちの自分中心になりがちな心を打ち砕き、あなたの御前に謙る者とならせてください。自分の間違いを知らせ、あなたの愛と慈しみがどんなにわたしたちすべてに注がれているかを悟らせてください。主のご労苦とご忍耐を思い、主の愛に応える者として、兄弟姉妹助けあって行くことができますように。

今、わたしたちの多くは年を取り、力弱くなっております。しかし、あなたの御心でしたら、この地に、わたしたちの隣人に主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために教会を残してください。わたしたちは自分の力に頼ることなく、あなたの恵みの力に頼り、希望をもって将来に備えます。どうぞ、主に結ばれて終わりの日まで忠実な歩みを一人一人にお与えください。

成宗教会に遣わされる後任の人事のために、労苦してくださる連合長老会の働きのために祈ります。どうか全国のすべての教会にとって益となる人事が行われますように、そのために労を取ってくださる役職の方々を祝福し、お守りください。

成宗教会の信徒のために祈ります。どうか、今病床にある方々、これから手術を受けられる方をお支えくださり、最善の治療が受けられますように、支えているご家族、医療、介護に携わる方々を顧み、その働きを祝してください。礼拝への奉仕をあなたに捧げようと全力を挙げて努めている方々を祝してください。どうか豊かな平安、喜びをもって報いてくださいますように。礼拝を覚えながら、参加できない方々を慰め励ましてください。

また、8月教会学校の行事をはじめ、これから秋にかけて、音楽会、バザーなど、準備をしようとしております。どうかすべてのことがあなたのご栄光のために、主の体の教会にふさわしく勧められますように。

この感謝と願いとを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖霊を信じる

聖書:エゼキエル36章25-32節, ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節

 わたしたちはキリスト教徒と呼ばれておりますが、わたしたちが礼拝する神様は、父と呼ばれる神、御子と呼ばれる神、そして聖霊と呼ばれる神であられる方です。三つの位格を持つ一人なる三位一体の神に対して、教会は信仰を言い表しております。その中で最も親しく、知られているのは御子と呼ばれるキリストでしょう。この方は地上に来てくださった方。人として生まれてくださったので、わたしたちはこの方が人々に何を教え、何を行ってくださったかを知ることが出来ました。そして父と呼ばれる神について、説き明かしてくださったのはイエス・キリストであります。

「わたしを見た者は父を見たのである」とキリストはおっしゃいました。そこでわたしたちは天にはキリストの御父がおられることを知りました。そして天の父が愛する御子を地上にお遣わしになったその目的も知りました。それは世にあるわたしたちの救いのため。世に在り、世の罪にまみれて生きることしかできないわたしたちの救いのためです。御子であるキリストは、造り主であられる神様から遠く離れてしまったわたしたちの罪を贖ってくださいました。神様はわたしたちをキリストの死に結び付けられて、罪に死んでキリストの命に生きる者に、御子と共に神の子と呼ばれるようにしてくださったのです。

しかし、聖霊という神のお名前については、わたしたちはどれだけ理解しているでしょうか。教会を知らない方々に、どれだけ適切な説明ができるでしょうか。真に心もとないのではないでしょうか。先週20年以上前のオウム真理教の幹部だった人々の死刑が執行されたとのニュースが流れました。20世紀末のあの頃、世界的にも奇妙なというか奇怪な新興宗教についての報道が多かったように思いますが、宗教法人の団体が非常に凶悪な犯罪を起こしたことの影響は大変深いものがあります。「宗教は怖いものだ」という考えが社会に広がったからです。私が赴任した頃は成宗教会の礼拝にも、手を上げてかざすなどの行為を伴った宗教の青年が来ました。私の家にもやって来て、彼が言った言葉は「わたしは霊に導かれて来ました」というものでした。

日本の教会では伝統的に神の霊を御霊と呼び、また聖霊とも呼んで来たのですが、このような新興宗教団体による凶悪事件以後は、聖霊というと、幽霊を思い出すばかりでなく、悪霊の類と何もかも一緒くたにされる傾向がますます強まって来たので、教会は大きな試練を受けて来たと思います。しかし、わたしたちは悪に負けることなく、代々の教会が受け継いで来た信仰を言い表すのですから、聖霊と呼ばれる神についても聖書によって、神御自身の説き明かしをいただきたいと願います。

本日取り上げた新約聖書ガラテヤの信徒への手紙5章16節です。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」ガラテヤの教会の中には深刻な意見の対立があったようです。それはコリント教会での対立とは異なる性質のものでした。コリントの教会では人々は、キリストの福音を宣べ伝えられたのに、キリストの福音ではなく、それを宣べ伝えた人に心惹かれ、こだわって、「わたしはパウロ先生につく」、「いや、わたしはアポロ先生につく」と言って分派が出来たということがありました。どこでも起こりそうな問題です。

ガラテヤ教会の方はもっと深刻であったようです。なぜならキリストの福音そのものが否定されかねないことが、教会の中で論争となったからです。わたしたちも改めて耳を傾けなければならないことですが、キリストの福音は、ただ神の恵みによる救いを宣べ伝えるのです。キリストが世の罪を贖うために来てくださったということは、すなわちわたしたちはだれも自分で自分の罪を贖うことが出来ないからに他なりません。そして、実際ユダヤ教から多くの人々がこの福音を信じて従う者となりました。

ところが彼らの中から、律法を守って救われるというユダヤ教の教えを、キリストの体である教会の中で広めようとする人々が現れたのです。教会はキリストの体であります。わたしたちは行いを正しくして救われることはできない罪人であることを認めたのです。ただキリストに結ばれるならば、キリストの死によってわたしたちの罪も死んだとされ、ただキリストの正しさによってわたしたちも正しい者とされると信じたのであります。それが、あろうことか、また自分の正しい行いがなければ救われないという教えに逆戻りしようとしているとは、どうしたことでしょう。そこで、教会の中に深刻な対立が起こりました。同じ一つの体の部分であるわたしたちを想像して見てください。目と足が対立して、どっちかを徹底的にやっつけようと陰謀を企てるなどということはあり得ない。正気の沙汰ではありません。しかし実際そんなことが起こっているなら、どちらが勝手も負けても、体全体にとっては悲劇ではないでしょうか。そんなことになる前に手を打たなければなりません。

それではどのような手を打つのか。それは、人間的な教えによってではありません。人間的な力によってでもありません。教会はキリストの体ですから。パウロは勧めています。「霊の導きに従って歩みなさい。」この霊はキリストの霊であり、父なる神の霊であります。

地上にいらしたイエスさまが弟子たちに約束された聖霊です。ルカ24章49節にこう言われました。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」162上。

わたしたちはキリストの死と結ばれて罪赦され、イエスさまが弟子たちに教えられたように、神を見上げて「天の父よ」と呼びかけ、祈ることが出来る幸いな者となりました。しかし、神の子とされた後もわたしたちは肉体をもって地上に生きている限り、地上の性質であるいろいろな誘惑、欲望、様々な悪徳にさらされており、それらと無縁で生きることはできません。しかしだからと言って、わたしたちは完全に地上的なものの奴隷となり、これに支配され、溺れてしまうばかりではなく、何とか抵抗しようと努めるのではないでしょうか。また、たとえ人々の目から見ると、素晴らしく敬虔な、聖霊に満たされているように見える人であっても、この世的な欲望から全く解放されているとか、誘惑を受けないということはないのです。

ですから聖書がわたしたちに例外なく勧めていることは、怒りやすいとか、愚痴が多いとか、だらしないとか、お酒にはまるとか、数え上げればきりがないのですが、自分の元々の性質に支配されるままにすることなく、断固としてそれに抵抗して、聖霊の神の御支配にわたしたち自身を委ねることを願うことです。17節です。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」

わたしたちはキリストに従う決心をして洗礼を受けたのです。それは聖霊の導きによって生きることにほかなりません。それがわたしたちの教会の肢であるわたしたちの願いでした。ですから自分が本当にしたいと思っているのは、聖霊の望むところなのです。実際はなかなかそれが出来ていない。なぜでしょうか。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。これは私には身に染みて分かる言葉です。

私は本当に物事を始めるのが遅い人間でしたから、起きていればなかなか寝ようとしない。朝になるとなかなか起きられない。それは本当にひどくて起きなくてよいならこのまま死んでも構わない…と思いながら寝ていました。後から考えるとひどい低血圧のせいだったかもしれませんが、今でも取り掛かるまでにひどく時間がかかります。なぜ、こんな人間を主は献身させたのだろうか、と思うのですが、今ははっきりとその答が分かります。主は人間が自分の努力で、能力で出来たと思わせないためです。ただ神の助けによって、恵みによって出来たと証しして、神の栄光を讃えるためです。

そういうわけで、使徒パウロはわたしたちに、自分の肉的な性質と戦うことなく、キリストに従って生きることはできないことを教えて、これから先も困難な闘いに備えるよう励ましているのです。実に人間性全体が、神の聖霊に対して頑固に反逆しているのだから、聖霊に従うためには日々このことを意識し、祈り、労苦して戦わなければなりません。しかしその次にパウロは、信仰者がこれからの戦いを思って、勇気を失うようなことにならないために慰めを与えています。18節。「しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下もとにはいません。」

「律法の下にいる」というのは、たとえ100の中、99%のことが正しく出来たとしても1パーセントの間違いがあれば、厳しく追及されるということです。それに対して、「律法の下にはいない」という言葉の意味は、たとえ、わたしたちにまだ欠けている点があるにしても、それについてその責任を負わされず、その一方で、わたしたちの奉仕は、まるで完全に十分になされているかのように、神に祝福されているという結果になるのです。なぜなら、わたしたちはキリストに結ばれており、キリストは昔も今も後もわたしたちの罪の赦しのために執り成しの祈りを捧げてくださるからです。

さて、19~21節にはいわゆる悪徳表が並べられています。クリスチャンの生活の目標は聖霊に従い、その導きに逆らうわたしたちの性質に抵抗するために、具体的な目標を掲げて簡潔に示しています。イエスさまは人々に教えられました。マタイ7章17-18節。12上。「全て良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」と。真に、木はその実によって明らかに知られるものです。人はその結ぶ実が明らかになるまで、偽善者となっているので、実は自分が汚れた者と愚かな者であったことを認めることがなかなかできないのです。

これらの項目を一つ一つ説明は致しませんが、姦淫と偶像礼拝は大変近い関係にあることを知っていただきたいと思います。神に対する信仰も結婚の関係も誠実、忠実を前提としているからです。また聖書によっては汚れという言葉が出てきます。これは道徳的な不潔、不貞を表しています。わたしたちは魔術も悪徳の中に入っていることに注目したいと思います。世界中の子供たちにクリスマスシューボックスを送ろうというキリスト教団体の取り組みがありますが、靴箱サイズの箱の中に玩具や絵本などを入れて送るのです。その内容に、送ってはいけないものの項目がありました。戦争関連の武器、裸の女の子の人形などの他に、魔法の本も、入っているのが印象的でした。魔法や、占いなどの中に自分の願いを投影することも、聖霊の導きから遠ざかることだと思いました。

そして「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」とは、大変身近なところにあるのではないでしょうか。このような実を結ばないようにすることは、教会に結ばれているわたしたちの真剣な目標なのです。パウロの警告です。「このようなことを行う者は神の国を受け継ぐことはできません。」

さてそれに対して聖霊の結ぶ実について明らかにしましょう。それは、「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」特に寛容について申しますと、寛容とは、longsuffering(辛抱強い、長く耐え忍ぶ),精神の柔和さであります。キリストのご性質そのものではないでしょうか。これらすべての徳は、聖霊によって与えられるものです。聖霊の導きによって神とキリストがわたしたちを新たに造り変えてくださるのです。「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」と勧められています。わたしたちはもはや自分自身に生きないために、キリストの死との交わりにつながれたのです。それは、人間の側の働きではなく、神の恵みによることであると信じます。

本日は聖霊を信じる教会の信仰について学びました。「わたしは聖霊を信じます」とは、どういうことでしょうか。それは、父と子と共に聖霊をあがめ、礼拝するということです。そして神さまに愛された人生を生き、イエス・キリストに救われた感謝と喜びの生活を送ることができるということです。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神様

本日の礼拝も、あなたの御前に祝福をいただいて捧げることが出来ました。心から感謝申し上げます。あなたはわたしたちの弱さにも、愚かさにもかかわらず、聖霊をお遣わしになり、わたしたちを愛し続け、忍耐し続けて今日まで守り導いてくださいました。わたしたちの教会の小さな歩みの中に、共に歩んだ方々をあなたはすべてご存知です。洗礼によって明らかにしてくださった救いの約束を、どうか最後まで全うしてください。わたしたちは与えられた恵みを思い起こし、これから歩む道のりをも導いてくださるあなたの御手を信じて委ねます。

多くの教会が全国に全世界に在って、労苦しながら福音を宣べ伝えキリストの体である教会を建てようとしています。その困難と喜びを共にしてくださるあなたの聖霊の導きを感謝します。特に想像を絶する水害に見舞われた地域の教会を強くし、被災者と共に支えてください。そしてわたしたちもその苦しみを思い共に祈る者とならせてください。あなたの御子イエス・キリストに結ばれているわたしたちが、教会に良い実を結ぶものとなりますようにわたしたちの生活を整えてください。人間的なものがほめたたえられることなく、ただキリストによって救いを齎したあなたの御名こそがほめたたえられますように。

多くの兄弟姉妹が高齢となり、病にあり、労苦しております。地上の歩みを終わるその日まで、そのご家族と共にお世話をする方々と共に恵みと平安を施してください。今週も成宗教会に連なる方々に、主の恵みのお導きを祈ります。また、この国に、この地域にある人々に御言葉を宣べ伝えるために労苦する連合長老会、日本基督教団の尊い務めを祝してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主が再び来られる時

聖書:申命記323539節, ルカによる福音書212528

 今日、読んでいただいた申命記32章はモーセが生涯の終わり近くに、神の民イスラエルに語り聞かせた言葉であるとされてます。イスラエルは、またの名を神の民、出エジプトの民と呼ばれています。彼らはエジプトの地で長い間奴隷として追い使われていました。彼らが苦難の叫びをあげると神はお聞きになり、神はイスラエルの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して立てた約束を思い出されました。創世記12章2節の約束です。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」

神は約束通りにイスラエルの民を奴隷の状態から救い出しました。彼らと契約を結び、神の民となさいました。しかし、それから彼らはいつも変らない信仰をもって神の民であり続けたでしょうか。モーセが「わたしが報復し、報いをする。彼らの足がよろめく時まで。彼らの災いの日は近い。彼らの終わりは速やかに来る」と歌う「わたし」という主語は神であります。それでは、「彼らの足がよろめく」という彼らとは、だれでしょうか。彼らとは、残念なことに、神の民なのです。彼らは、神の民でありながら、他の神々を求め、それにささげた犠牲の肉やぶどう酒を飲み食いしました。だから、災いの日に、苦難の日に、主は言われます。「どこにいるのか、彼らの神々は。どこにあるのか、彼らが身を寄せる岩は。さあ、その神々に助けてもらえ、お前たちの避け所となってもらえ」と。主なる神はお怒りになっておられるのです。

何ということでしょうか。神は彼らを苦難の生活から救い出され、彼らと契約を結びご自分の民とされたのに、彼らは誰も彼は皆背いてしまったのです。しかし、この恩知らず、恥知らずの民は、神に背いた結果、力を失ってしまいました。未成年者もいない、成人の働き盛りの人々もいなくなりました。このことは神の怒りの結果でありました。。しかし、神は御自分の民が弱り果てているのを見られて、憐れまれたのではないでしょうか。36節に語られています。「主は御自分の民の裁きを行い、僕らを力づけられる」と。

主なる神は公平な裁きを行われる方であります。人々のうちにある悪を見過ごしにされることは決してありません。また反対に人々が善い務めを果たそうと人知れず労苦するならば、それを見過ごして心に留められない、ということはないのです。神はわたしたちが全能の父なる神とお呼び申し上げる方ですから、全能の御力をもって正しく裁いてくださいます。

しかしながら、旧約聖書の神の民は、神に従うことが出来なかったのですから、神から離れて滅んでしまったとしても、自業自得であったでしょう。そのことは、わたしたちも全く同じではないでしょうか。「神に従います」と約束しても、なかなか従うことが出来ず、神から離れてしまう。その一方、人々は真の神ではない、目に見える神々に従ってしまう。目に見える具体的な繁栄に、ご利益に心引かれてしまうのではないでしょうか。

わたしたちの生きている時代も、社会も全く同じではないでしょうか。神の民が少数者であるとしたら、この時代の、そしてこの社会の価値にのみ込まれてしまう危険にさらされています。この時代の、この社会の追い求める偶像、神々に振り回されてしまう危険に、わたしたちは絶えずさらされているのです。

しかし、教会はイエス・キリストによって福音を世界に宣べ伝え続けて来ました。神の裁きの前に衰え果てるしかない人間のために。この世の繁栄しか求めないために、日毎に夜毎にこの世の望みも衰えて行くしかない人間のために。いつの時代にも、どんなところでも消えない望みを宣べ伝える。日毎夜毎に輝きを増す救いを宣べ伝える。この貴い務めを教会は与えられています。

この福音は旧約聖書の神との契約を乗り越えるものです。人は神との約束を忠実に果たして救いを獲得することはできませんでした。しかし、神はそれでも人を愛し、力を失って滅びるばかりの人を憐れんでくださったのです。その愛がイエス・キリストを世にお遣わしになったことに証しされています。旧約の人々は罪を償うために、律法に従って羊や山羊などを身代わりに捧げました。しかし、この償いは罪を犯すたびに際限なく捧げられなければならないものです。憐れみ深い天の父は、御自分の愛する子を世の罪を贖う小羊として身代わりの犠牲とされました。神の御子が御自ら犠牲として十字架にご自分を捧げられたのです。教会は信じました。その死、そして葬り、三日目の復活によって、この犠牲が全人類のためにただ一度供えられた献げ物として神に受け入れられたことを

さて、最初の弟子たちは、そのほとんどが無学な田舎者でありましたし、パウロも言っております。(Ⅰコリント1:26)「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません」と。また、主イエス御自身が宣べ伝えた福音も、預言者イザヤによって預言された言葉にあるように、「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしを捕らえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」それは貧しい人に宣べ伝えられ、打ち砕かれている心に受け入れられた福音なのであります。

そうすると、「では貧しくない人には福音はないのか?恵まれている人には救いはないのか?」というような疑問が出されることがあります。わたしたちには何よりもまず知るべきことがあります。それは、真の神は計り知れない富を持つ豊かな方であり、その豊かさをわたしたちに分かち与えたいと思っておられる方なのだということです。最初の人間をお造りになった時、その前に豊かな自然をお造りになって多くの生き物、花と鳥と食べ物を人間に与えてくださったと聖書は語ります。最初から人を荒れ野に住まわせ、苦労して働かせたのではなかったことを思い出しましょう。

しかし、人間は罪のために恩を忘れる者となりました。豊かに与えられれば与えられるほど、豊かに感謝し、神をほめたたえる者になったでしょうか。残念ながら、人間の歴史は全くその反対であったことをわたしたちは知らされます。不思議と言えば大変不思議なことですが、逆に、貧しい人々、苦難、困難を負っている人々の中から多く、福音を熱心に聞く者が現れて来たのです。日本でも明治時代の激動の時代、幾多の困難をものともせず、福音を宣べ伝えて行った多くの伝道者がいました。西日本に伝道したバックストンというイギリス人宣教師の話を思い出します。彼は十分の一献金を勧めて、10人信者がいれば教会が出来ると言いました。なぜなら、10人が10パーセントを捧げれば、全部で100%になるから、一人の伝道者の生活を支えることが出来る、としたのです。貧しいからこそ、少人数だからこそ、主の救いに希望を高く上げるのではないでしょうか。

また、私も思い出してみると、横浜市立盲学校に勤務していた時、教員は60名ほどいましたが、キリスト教徒はそのうち10名近くいたという記憶があります。目が見えないということは想像を絶する大きな困難です。だからこそ、一歩踏み出すことが、信仰そのものに掛かっていると思います。

さて、今日のルカ福音書21章は終わりの日に、主が再び世に遣わされて来られることを述べています。「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」キリストが天に昇られて2千年が過ぎ去りました。この間、福音は熱心に世界の果てを目指して宣べ伝えられて来ました。どんなに多くの人々が労苦したことでしょうか。ある時には伝道者の純粋な思いを利用して福音を商売のタネにするという勢力も起こりました。またある時には政治的支配に利用しようとする勢力も起こりました。欧米キリスト教国の繁栄を見て、神の国を求めるのではなくこの世の繁栄のためにキリスト教に近づく人々も多く起こりました。イエス・キリストのことは知らなくても良い。キリスト教から生み出された果実だけが欲しいという訳です。

しかし、どの時代にもキリストに従って教会を建てるために捧げられた人々の労苦、苦難は計り知れないものがあります。主イエスは、ご自分が天に昇られた後、福音を宣べ伝える弟子たちの困難を思い遣って、彼らを励まそうとしておられます。大きな患難が弟子たちだけに、教会だけに起こるのではない。終わりの日には、この世界全体が天地異変に見舞われると。わたしたちは大きな天災、人災が起こるたびに、また戦争や世界的な疫病の話を聞くたびに他人事ではなく、不安になります。しかし、わたしたちの不安は個人的な不安に終わっているでしょうか。あるいは家族だけの心配に終わっているでしょうか。あるいはわたしたちの不安は教会についての心配になっているでしょうか。もし、わたしたちの思いが、心配が、祈りが教会に結びついているならば、それは、わたしたちが主の体と結ばれている何よりの証しなのです。

主イエスはわたしたちを励ましておられます。あなたがたには苦難がある。しかしあなたがたが教会と結ばれているならば、勇気を出しなさい、と主は言われます。わたしは既に世に勝っているのだから、と。(ヨハネ16:33)わたしたちの教会には、ご高齢になって、礼拝に来られなくなっている方々が少なくありません。あるいは、遠くにおられて来られない、あるいはお具合が良くない、あるいは入院しておられる、という方々です。しかし、この方々が、お若い時にもまして、お元気な時にもまして、主の日の礼拝を思ってくださっているのです。「今は讃美歌が歌われている頃、今は説教がなされている頃と、考えてお祈りします」と私は言われて、大変励まされます。

20年前、30年前には考えも及ばなかったことではなかったでしょうか。教会といえば、いろいろな行事でにぎやかに、忙しいところというイメージがありました。しかし、そういう目に見える教会の事がらの背後にある、目に見えない教会の姿があります。それはいろいろな困難に日々直面しながらも主を仰いでいる教会、いや、むしろ困難に直面しているからこそ、ますます主を仰ぐ教会です。

この世界は2千年前、主イエスによって差し出された福音を拒絶してこの方を死に追いやりました。そして教会が福音を宣べ伝えている間も、神の国を求めるより、この世の支配を追い求め続け、教会の主を悲しませ続けています。しかし、世の終わりの時に衝撃を受け、悲しみ、嘆くのは、主の教会ではありません。光よりも闇を愛し、神の国の宝よりも、この世の宝を愛すればするほど、主の日は恐ろしい日となるでしょう。主は救い主として世に来てくださいましたが、再び世に来てくださる時は神の力によって人々を正しくお裁きになります。

Ⅰテサ5:5「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは夜にも暗闇にも属していません。」378下。突然主の日、終わりの日が来るその時まで、わたしたちは闇の中に置かれているのではなくて、神の光に照らされているのです。わたしたちの救いは終わりの日に神御自身が判断されることで、わたしたちが勝手に決めることではありません。しかし、わたしたちがなすべき生活の姿勢が問われています。それは信仰によってキリストの再臨を希望のうちに目を覚まして待ち続けることであります。日々の困難の中で、キリストに表された神の愛を思い、御心を形に表したいと思います。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神様

尊き御名を賛美します。今年も暑い夏になりました。わたしたちを励まし、御言葉をいただき感謝を捧げるために礼拝を捧げさせていただきました。深く感謝申し上げます。本日の礼拝、世の終わりに再び来てくださる主を教会は告白していることを学びました。わたしたちは、世が裁かれるときにも、世を愛して身代わりの犠牲を捧げてくださったイエス・キリストによって、罪赦されたことを信じます。世の繁栄も含めて、すべてがわたしたちの人生に恵みとして与えられています。どうか、感謝を以て、主のご栄光のために用いる日々を送らせてください。人を愛して止まない主をわたしたちも愛して、隣人を愛し、教会を建てて行くことで、恵みに応えることが出来ますように。いつも終わりの時を目指し、心をあなたに高く上げて歩むことが出来ますようにお導きください。

わたしたちの社会を救うために、どうかこの教会を、全国全世界の主の教会と共にお用いください。あらゆる違いを越えて共に助け合って一つなる体の教会を建てることが出来ますように。特に連合長老会の交わりと学びを祝し、連なる教師、長老、信徒の上に豊かな顧みをお与えください。また新たな教師をこの教会にお与えくださいますようにお祈りいたします。わたしたちの祈りと必要な備えをお導きください。

本日は主の聖餐に恵みによって与ります。わたしたちに悔い改めと感謝を捧げさせてください。また、礼拝後の長老会議をお導きください。教会学校の上にあなたのお働きを感謝します。今日も病気に伏しておられる方、悩みの中にある方を聖霊の恵みによって慰め、励ましてください。

この感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神の右にいますキリスト

聖書:詩編1101節, エフェソの信徒への手紙12023

 先週は、教会の信仰告白使徒信条の中で、主イエス・キリストは天に昇られた、という告白について学びました。歴史のある時、ある所に神は人となり給いて、人の罪を負って罪の贖いを成し遂げられました。救いは、神の子イエス・キリストの十字架の死と復活によって成し遂げられたのです。こうして主イエスは御自分を信じる者に救いをもたらしてくださったのですが、ご復活の体をもって天に挙げられたと、弟子たちは証言しました。そして代々の教会は使徒たちの告白を受け継いで来たのです。主イエスはなぜ天に挙げられなければならなかったのか。それはこの救いが、ある時代の、ある人々の救いのためだけではなく、歴史を超えて、地域を超えて全人類の救いとなるためでありました。

主は使徒たちに約束されました。使徒言行録1章8節。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(213下)そして主が天に昇られた後、この約束の通りに、教会は聖霊を受けました。そして聖霊の力を受けて全世界に福音を宣べ伝え、今日に至ったのです。

さて、今日はその後、主イエスは「全能の父である神の右に座しておられます」という教会の告白を学びます。わたしたちはこの告白が、新約聖書エフェソの信徒への手紙1章20節に語られていることを知りました。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」と記されています。「神は、この力をキリストに働かせて」と言われるこの力とは、その前の19節の言葉によれば、「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる」力と言われます。つまり信じる者に対して、神が絶大な働きをなさる力であります。

わたしたちの信じる神は、全能の神です。全能というと、何かスーパーマンとか、ドラえもんではありませんが、何でもわたしたちの願いを適えてくれる力なのかと思うかもしれませんが、それは神を知らない人間の願望に過ぎません。神の全能とはわたしたちがどこにいても、どんな時にも、わたしたちも愛し、わたしたちを育て、わたしたちを救ってくださるということなのです。だからこそ、わたしたちは、神の全能は、独り子を罪人の中にお遣わしになられるほどの愛の中に、表されたのだと信じるのです

さて、エフェソ1章20節の言葉は、今日同時にお読みいただいた詩編110篇1節を前提としています。「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」これはダビデの歌とされているものです。この詩の中で、ダビデは自分の子孫のことをなぜか「わが主」と呼んでいます。なぜでしょうか。その質問は主イエスからも出されました。マタイ22章41節-46節(44下)

「ファリサイ派の人々が集まっていた時、イエスはお尋ねになった。『あなたたちはメシア(ギリシャ語でキリスト)のことをどう思うか。だれの子だろうか。』彼らが、『ダビデの子です』と言うと、イエスは言われた。『では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。このようにダビデがメシア(キリスト)を主と呼んでいるのであれば、どうしてメシア(キリスト)がダビデの子なのか。』これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。」この問いの答は、それはダビデの子孫からメシア、すなわちキリストがお生れになったからです。ここで主イエスが自ら証ししておられるように、主イエスこそは、ダビデが「わが主」と呼んだキリストであり、天に昇られ、神の右にいます方なのです。

それでは、神の右とはどういう意味でしょうか。このことは先週も少しお話ししました。それは、主イエスが全能の神さまと等しい力をもって、あらゆる権威や勢力を御自分の御支配の下に従わせることを意味します。その御支配はこの世の勢力の支配とは全く違います。この世の勢力の支配しか、思い当たることがない人々は、支配と言えば、お金や暴力の支配などを考えてしまいます。しかし全能の父の右におられるキリストの御支配は全く違います。その支配は愛の支配に他ならない。悪霊どもでさえ、キリストの愛の力にたじろがざるを得ない。この愛を受け、この愛を信じ、この愛に支配されている人々を、彼らはどうすることもできないのです。

その愛は、神を裏切り、キリストを裏切った人々をさえ追い求めて、滅びの穴、絶望の淵から救い出そうとする熱意です。これが人間の力ではない、全能の父の右におられるキリストの力であるならば、だれが逆らうことが出来るでしょうか。主は地上を去る前にこう祈られました。ヨハネ福音書17章21節(203上)「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになります」と。この方が天におられるのですから、わたしたちがどこにいてもわたしたちを愛し続け、救いへと導いてくださる。教会が告白しているのは、正にこの信仰です。

わたしたちが常に立ち帰らなければならないのはこの信仰です。主イエスが神の右に座しておられ、わたしたちに全能の御力をもって聖霊を送り助けてくださっている、その絶大な力、お働きを、わたしたちは本当にどれだけ真剣に信じ、告白しているでしょうか。ただ、習慣的に(それでも、告白することが許されていることは、それだけでも真に幸いなことですが)、機械的に告白するのではなく、一字一句に込められた告白の言葉に込められている教会の信仰を、わたしたちは改めて心に深く受け留めましょう。

更に21節に宣言されています。神はキリストの権威、力を「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」と。反省させられることは、わたしたちの視野があまりにも狭いということです。私達は、良い意味で一人一人の人権が尊重される時代を生きたと思っていましたが、自己実現型の人間の視野はひどく狭くなってしまいました。極端な言い方をすれば、自分のことしか考えない。自分で稼いだものは自分のものだという考えを良しとしましたが、自分の働きの成果を用いて社会全体の幸福のために還元することを考える人々がどんどん少なくなったのです。高額所得者は税金を逃れるためにこの世のあらゆる知恵を駆使する一方、貧しい人々は自分が仕事を奪われているから貧しいのだと考え、不満のはけ口を自分以外にぶつけようとする有様です。

教会の中には昔から多くの貧しい人々がいました。そして少数ではあったにせよ、豊かな人々、この世の力を持った人々もいたのです。また奴隷の身分(広い意味では労働者階級の人々)もいれば、自由人もいました。要するに、この世の身分、階級においては様々であったのです。そして教会の中でみんなが全く同じ身分、同じ力を持つということにはなりませんでした。貧しい人々への配慮ということは神のご命令と受け止められていたでしょうが、教会には当初から、いろいろな意味ででこぼこがあったのです。

しかし、すべての優劣、経済的優劣、健康の優劣、社会的優劣、能力的優劣に生まれる力関係の上にイエス・キリストの恵みの御支配があったということは間違いありません。その上に、この社会の変動がありました。今地中海を粗末な船で難民が押し寄せる様子がテレビで映し出される。昔、古代ローマ帝国の衰えと共にゲルマン民族が大移動して来たことを思いました。民族の大移動は決して過去のことではなく、また欧米に限られたことではないでしょう。絶え間なく、世界のどこかで戦争が起こり、また地震や山崩れなどの災害も起こります。人類の歴史には人口が激減したという疫病が、これからの時代には核施設の起こす人災の危険があるでしょう。

それにもかかわらず、この二千年、目に見える教会が地上に建てられているということです。わたしたちの視野の狭さ、取りあえず自分だけ生きられれば良い的な、貧弱な幸福感。自分の夢が叶えさえすれば良い的な、低いことこの上ない人生の目標。あるいはせいぜい自分の家族、自分の好きな仲間だけ守られれば良い的な視野の狭さが、わたしたちの社会の貧しさであり、その貧しさが教会の中にも浸透してきているのではないでしょうか。

そして気がつけば、超高齢化社会であります。少子化社会であります。ごく一部の人々をのぞけば、心身共にゆとりある人々はますます少なくなるばかりです。このような歴史の中の今、日本という社会の今、その中にわたしたちは生きています。狭いところで考えれば考えるほど、困難ばかりが見えます。希望が何も見えないように思われます。しかし、視野を広げましょう。この二千年の教会の旅路を。その歴史は嵐に荒れ狂う夜の闇にのみ込まれるばかりの漂流船のようであります。明日をも知れない。いつどうなるか。明るい日の光を果たして見ることが出来るのか。しかし、その時にも教会は信仰告白を唱え続けました。なぜなら、教会は主イエス・キリストの御支配の下にあるからです。

22節、23節。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」すべてのものとは神の造られたものすべてを意味します。嵐を鎮める主イエスのお姿を、地上のご生涯で弟子たちは見ておりました。その時は限られた所で、神の力を表してくださいました。天に挙げられ、神の右におられる主は、全世界の教会に、また昔も今も、そしてこれからも、その御力を表してくださる。わたしたちは、この信仰を受け継いでいるのです。

その力は、わたしたちの計り知ることのできる力をはるかに超えています。教会は全能の神と等しい御力をもって御支配くださるキリストの体である。この表現をわたしたちは初代教会から、使徒たちの信仰から受け継いで来ました。私は、今直面している困難な時代から、視野を広げて初代教会から今に至るまでの教会に、どんなに大きな恵みが注がれて来たかを考えていただきたいと申しました。そして、そこからわたしたちが理解すること。すなわち、神の右にいますキリストが、全能の父と同じ力、万物を支配する力が注がれていることを知るならば、わたしたちは教会として、キリストの体に結ばれる者として、しなければならないことがあります。

それは、この方の全能の御力を信じ、この方をいつも見上げることなのです。全能の力、それはわたしたちがどこにいても、どんな時にも、わたしたちも愛し、わたしたちを育て、わたしたちを救ってくださる力です。こんなにありがたい、慰めに満ちた信仰があるでしょうか。しかしこれは、信じなければ信仰告白にはならないのです。信じなくても信じても救われるということではありません。ですから、この信仰告白を受け入れ、いつも新たに信じることが大切です。キリストがわたしたちの頭であることをいつも告白して従って行くこと無しに、教会は建てられません。

わたしたちは人間の業、自分の業にこだわっています。しかし、わたしたちの救いはただ神の全能の御力、いつでもどこでもわたしたちを愛して救ってくださる神の力です。だからこそ、無力となった者も、貧しくなった者も、希望をいただいて、天の父の右にいます神の御子イエス・キリストを見上げ、その執り成し、その助けを待ち望むことが出来るのです。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神様

御名をほめたたえます。わたしたちは主イエス・キリストがわたしたちに先立って天に昇られ、わたしたちの罪を赦すために、執り成しの務めを担ってくださっていることを感謝します。そればかりでなく、地上で罪の誘惑、試練にさらされながら、困難な道を歩む教会を御自分のものとして助けるために、聖霊を送ってくださっていることを感謝します。

わたしたちは豊かにゆとりある生活をしている時には、理解が及ばなかったあなたの愛を日々教えられる思いです。生活の困難、仕事の困難、家族の困難、そして健康の困難を多く抱える度に、どうか教会の主に結ばれているわたしたちが心からあなたを信じ、あなたを愛し、あなたに従って行くことが出来ますように。

わたしたちは礼拝を思いながら、様々な事情で教会に来られない多くの方々のことを思います。どうか御心ならば、その困難を取り除き、教会に集まるために道を開いてください。また、わたしたちも福音を運んで行き、その方々のおられるところで礼拝を守り、聖餐式を行う事が許されますように。真に老いも若きも、明日はどうなるか分からないという思いを他人事としないで、あなたの御前に立つことが出来るように、主イエスの執り成しを受けることを切に望ませてください。

東日本連合長老会の一員として教会の歩みを与えられておりますことを感謝します。どうかこの教会が、この地で福音を宣べ伝えるために、次の世代への伝道を前進させることが出来ますように。そしてどうか新しい教師があなたの御旨によって与えられますように。

今日も教会学校から、ナオミ会の活動に至るまで、主の御導きを感謝し、御手に委ねます。どうか教会に与えられて来た伝統、恵みを受け継ぐ教会として、信仰者を増し加えてください。今、苦しんでいる兄弟姉妹を御力によって慰め、救い出してください。

この感謝と願いとを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主は天に昇られた

聖書:詩編6819節, エフェソの信徒への手紙4716

 あまり実感がないのですが、世の中は好景気なのだそうです。その証拠に今は人手不足だということで、若い人々の就職活動も順調と聞いて、まずは良かったと思っています。考えてみれば、少子高齢化社会では、人手不足は慢性的なものと思われます。私のおばあさんは、私の両親が結婚することになった時、「さあ、これからはご飯炊きから洗濯から縫物まで、全部嫁にしてもらって遊んで暮らしましょう」と言ったと聞いたことがありますが、その時祖母は40代前半だったのです。今頃それを思い出して驚きます。昔は40代半ばぐらいの年から何も労働をしないで老後を暮らそうと言えるほど人手があったのだ、と。

それから祖母は40年以上生きたのですが、今の高齢者はそうはいきません。「長生きするなら、だれにもあまりお世話をかけないように、自立した心構えで生きなくては」と互いに励まし合う時代です。そして、これからはますますそうなるでしょう。高齢になっても、できることは自分で何でもするようになります。このことは、教会の歩みに一番よく表れていると思います。地上の教会はその時代、その地域に建っているのですから、その時代、その地域の社会の姿を映し出さないはずはないからです。そしてその社会の中で、その社会が抱える問題のただ中で、教会は建てられて来たからです。

今日のエフェソの信徒への手紙4章7節は、教会のわたしたち一人一人にキリストの賜物が恵みとして与えられていることを語っています。教会もまた人手不足。奉仕する人々が足りない。礼拝に出席する人々が不足している。そういう不足を嘆くわたしたちに、子の手紙は語りかけています。キリストの賜物は、恵みとして与えられているのだよ、と。わたしたちの思い煩いにもかかわらず、わたしたちの努力を超えて、恵みとして与えられるのだよ、と諭されているのです。

8節の聖句は、旧約の詩編68篇19節の引用と思われます。「そこで、「高い所に昇るとき、捕われ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。」ここには主語が語られていませんが、イエス・キリストのことを証ししているのです。この方は高いところ、すなわち天に昇られた方であるというのですから、それなら、天に昇る前は地上におられたことになります。キリストは地上に来てくださり、福音を宣べ伝え、神の国、天の国にわたしたちを招いてくださった方です。そしてキリストはわたしたちが天の国に入るために、わたしたちの罪を清めてくださった。それが十字架の贖いであります。

主イエスさまはわたしたちの罪のために死なれ、陰府に降り、三日目に甦らされました。それによって、わたしたちの罪の贖いがなされたのです。キリストの死は、わたしたちの罪の死であります。そして、キリストの復活はわたしたちの罪が赦されることを証しするものにほかなりません。さて、主イエスは御復活の体をもって40日弟子たちと共におられました。それから、使徒言行録1章によれば、弟子たちの見ている前で天に上げられました。それならば、キリストは御自分の御体をもって天に行かれたということではないでしょうか。「主イエスが天に昇られた」という天、新共同訳聖書では「高い所」と言われているこの言葉は、空の果て、宇宙の果てという空間を意味しているのではありません。天とはご復活の主が神と共におられる所であり、神の御支配が行われている所なのです。

ところで、マグダラのマリアは、ご復活の主に出会った時、喜びのあまり主に駆け寄ってすがりつこうとしました。その時主イエスは彼女に言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」しかし弟子たちもまた、マリアと同じ思いだったかもしれません。地上で主イエスに出会った人々は、「いつまでも主と共に地上で暮らしていたい。今までのように、目で見て、耳で聞くことのできる先生と」と思うのは無理もないことではなかったでしょうか。

しかしキリストは、ご自身が弟子たちから離れて天に上げられることの利益について教え諭しておられます。その言葉は、ヨハネ16:7にあります。200上。「しかし、実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」主が天に上げられる意義は、何と言っても、その事がわたしたちのためになる。利益となるからなのです。主イエスが天に昇った時、主は地上に残っている弟子たちに、弁護者を送ると約束されました。弁護者とはだれでしょうか。弁護者とは聖霊の神であります。

主イエス・キリストは天に昇り、父なる神の右におられることによって、父なる神と共に、全能の力をもって、わたしたちを救いに導いてくださいます。そのために主イエスは父と共に聖霊の弁護者を送ってくださり、わたしたちと共にいてくださると約束してくださったのです。思えば、キリストの地上の生涯、十字架の死と復活は、パレスチナという世界のごくごく狭いところで起こったのでした。そして時間の限られた間に起こった出来事です。歴史の中に神がご自身を現わしてくださったということは、限られた時間と空間の中に限られた命の中に御自身を現わされたということに他なりません。しかし、御子イエス・キリストは限られた命に死んで限りなき命に復活されました。そうして主は天に昇られました。このことによって、主は全世界の信じる者すべてと共に生き、昔も今もそして今より後の時代にも、信じる者と共にいてくださるのです。聖霊が教会の人々に送られるのは、「すべてのものを満たすため」なのです。

弟子たちの上に聖霊が降った最初の出来事は、ご存知のようにペンテコステの日として聖書に書かれ、人々に語り継がれました。すなわち、聖霊は、主を信じる者が皆集まって共に祈っている所に来てくださいました。聖霊によって聖書の言葉が神の言葉として与えられました。聖霊によって、語る者も聞く者もキリストが共にいらしてくださることを知る者とされたのです。このように聖霊は教会に降ったのでした。その頃は、教会堂も礼拝堂もなかったでしょう。人々は仲間の家に集まって聖書を読み、祈り、讃美しました。今も同じです。礼拝堂があれば教会なのではありません。礼拝堂に人々が集まって礼拝するから教会なのです。イエス・キリストの恵みを分かち合うために、聖霊の賜物が与えられました。

「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」キリストがもろもろの天よりも更に高く、つまり神の国にまで上られることで、主は今、わたしたちの目には今は見えない離れたお方となっておられるように思われますが、しかし実際は却ってそのために、聖霊の力によってすべての者を満たしてくださっています。つまり、キリストの霊的な力は、神の右に及ぶまで、広げられました。そして、キリストは天にあっても地上でも、その無限の力によって、至る所に現存しておられるのです。

「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」このように、教会のいろいろな役職、役割が書かれています。これは初代教会の話でありますから、今日の諸教会の教師や長老の役職とは一致しません。しかし中でも牧者は羊飼いを表す重要な役職でありまして、その務めは羊飼いです。常に先頭に立って羊の群れを導き、牧草地に連れて行って食物を与え、流れのほとりで水を飲ませ、野獣などの外敵から身をもって羊を守ることそのものであります。もちろん、絶対的な意味では、キリストがすべての信徒の牧者であることが前提となっています。

福音がその職務に遣わされたある一定の人々によって説かれるということは、教会が完全にこの世に存続して最後に全く完成されるに至るために、主が教会に、統治と、秩序を保つことを望んでおられるからです。わたしたちは自分に能力がない、力が不足していることを、大変痛感することがあります。特に高齢化社会の教会は、若い人が溢れ、我も我もと奉仕を申し出たような時代とは全く違っています。果たして自分に出来るだろうか、という思い。自分ばかりが大きな期待をかけられたらどうしようかといった不安や消極的な思いが先立つのです。

しかし、教会での奉仕においては、聖霊の助けによって賜物が与えられていることを信じることが大切です。人が神に奉仕するよう呼ばれる時には、必ずその務めに必要な賜物が与えられるのです。教会はキリストの体と呼ばれるのですから、その体は非常に多種多様な部分をもっていることは当然のことであります。もしも皆が同じ顔、同じ賜物、同じ特徴しかないなどという教会があるなら、それこそは異常なこと、異様なことではないでしょうか。キリストの体全体は多様性によって保たれております。このことによって、主イエス・キリストは求めておられるのは、おかしな競争意識、異常な妬み、世の人々が追い求める野心が蔓延らないように、教会から取り除かれることではないでしょうか。

そしてキリストの体である教会は、その部分の一部が大切にされたり、一部がないがしろにされたりすることはあり得ない。皆がキリストに呼び集められた者として大切なのですが、教会の統治については、はっきりと理解しておかなければならないことがあります。それは、教会を総べ治めるのは、キリストであるということです。キリストはみ言葉によって、統治なさるのです。この世のように鞭と飴によって、脅しとおだてによって統治されることはあり得ません。ですから教会の統治はみ言葉を語ること、聞くことによってなされることを常に覚えなければならないのです。

すなわち、教会の統治は御言葉への奉仕によって成り立っています。それは、人の考え、人の力によって造り出されるものではありません。ただ神の子イエス・キリストによって立てられるものなのです。この務めを果たすように教会に任命された者は、その務めを果たすのに十分な責任も能力も二つ同時に授けられることを信じましょう。厳しい言い方をするならば、御言葉の説教者であろうと、または御言葉を聴く会衆であろうと、この務めを拒否する者、あるいは軽蔑する者があれば、その人は、キリストを侮辱し、それに叛く者となってしまっているのです。なぜならキリストは、その務めを立てた方なのですから。

だからこそ、わたしたちの教会が後任の教師を招聘するために、連合長老会にお願いしている最も大切な条件はここにあります。それは、日本基督教団信仰告白にも唱えられている通り、御言葉を正しく宣べ伝え、聖礼典を正しく執り行うための教師です。教師が与えられる職務はキリストに励まされなければ、この務めを全うすることはあり得ないのですから、わたしたちはひたすら祈って主に委ねて参りましょう。祈りこそ、わたしたちに求められている第一の奉仕でありますから。

13-14節「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」

大変厳しいことに、今、礼拝を守るだけの体力がなくなっている信仰者がたくさんおられます。そしてそうなってますます礼拝に集まることの大切さを痛感しておられるのを、わたしたちは知っています。逆に教会に来ようと思えばいつでも来られる人々の中に、「教会に集まる必要はない、家で聖書を読んでいれば良い。教会の共同の奉仕などは全く必要ではない」と思っている人がいるとしたら、それは傲慢と言わなければなりません。

主が天の昇られたのは、教会に連なる人々に賜物を与えるためでした。互いに足りないところを助け合い、礼拝を捧げて御言葉を宣べ伝え、御言葉を聴くために、讃美の声を合わせるために、すべてが整えられるのです。教会は信仰者すべてに共通の母であります。信仰者はキリストの中に生まれ、大きい者も小さい者をも教会の主が養い始められます。それがみ言葉によって、説教と聖餐に与ることによってなされるのです。同じ教えに呼ばれ、集められるということは一致を保つための訓練なのですから。

わたしたちは本日、主が天に昇られたことの意味を学びました。「頭であるキリストに向かって成長していく」希望を与えられているのは天の昇られた主から教会に注がれている聖霊の賜物であります。主はこうしていつまでも教会と共にいてくださいます。祈ります。

 

主なる父なる神様

尊き御名をほめたたえます。今日の礼拝にもわたしたちに天から聖霊を注いで下さり、御言葉で養ってくださいました。小さな群れですが、あなたのお支えは決して小さくはなく、目に見える恵みと共に目に見えない恵みを豊かにいただいておりますことを感謝します。ここに集まる兄弟姉妹ばかりでなく、集まることのできない方々が、この礼拝を覚えて祈り、あなたの御前に静まっていることを私たちは思います。御言葉の恵み、主の愛を形に表すべく、わたしたちは今週も教会から出かけて行って働きたいと思います。

非常に苦しんでいる人々の苦しみがそれだけではないことを、どうかわたしたちに知らせてください。イエス・キリストが地上で非常に苦しまれましたが、その御苦しみがわたしたちの救いのためであったように、わたしたちは困難と向き合っている人々によってあなたを思い起こし、人々のために祈り、わたしたちも勇気と愛を主からいただけるように、祈ります。そしてどうぞ、教会に連なっている方々とあなたの恵みの下に再会することが出来ますように。

わたしたちの弱さ、思い煩いをご存じの主が、どうか絶えずわたしたちを励ますために聖霊を送ってくださいますよう。そして父、御子、御霊の豊かさに与り、喜びと感謝を以て従って、教会を建てて行くことが出来ますようにお助け下さい。本日も、遠くから困難を乗り越え、あなたに勇気を与えられて礼拝に集められ、奉仕された方々のゆえに感謝します。どうぞ帰りの道をも祝福の中にお守りお導きください。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。