幸いな人

聖書:申命記6章4-15節, マタイによる福音書5章1-11節

 主の年、すなわち西暦2018年が始まっています。世の中は大変好景気といわれております。1980年代のバブル期のようだという人もいます。しかし、東京の街中の様子を見ると、どうしてもあの頃とは違うと感じてしまいます。違いを感じることの一つは、車です。外国車の数が圧倒的に増えています。日本の車は性能が良いのに、どうして買わないのだろうかと思います。また、自動車産業は関連する産業のすそ野が大変広いのですから、国産車が売れると、日本の労働者の生活を安定的に支えることに繋がります。そうして多くの人々が恩恵を受けることが出来たのが、以前の好景気でした。

ところが、今車を買わない若い人々が多いと言われています。そして高収入の人々は外国車を買う傾向にあります。これが好景気なのか?と思いたくなるのは、昔と比較する私の考えが古いのでしょうか。しかし、車がなくても生活できるのは若い時代だからだ、と私は思います。遠くに出かけるのに、時間も体力も使うことが出来るからです。私が成宗教会に赴任してから16年。浴風園キリストの会という老人ホームでの集会に出かけたり、病院のお見舞いに遠出するのは、バスや電車を乗り継いで行けばよいのですが、より多くの時間と体力が必要です。教会の墓前礼拝について考えても、やはり車を出すことが出来なければ、なかなか困難です。

二十年前、三十年前と今を比べた時、明らかに分かるのは、好景気ではないでしょう。以前は体力があった。車もあるのが当然だった。時間も取ることが出来た。それが、今は大変乏しくなっています。これは何も私たちの教会に限って言えることではありません。日本の社会全体が、好景気といわれているにもかかわらず、いろいろな意味で貧しくなっているのではないでしょうか。そしてこれは日本だけの問題では決してない、世界の多くの地域でいろいろな貧しさが進んでしまっているのではないでしょうか。

とはいえ、私たちが過去を振り返って、現在と見比べるのは、せいぜい50年、100年のことでありましょう。私たちが知っている昔とは、その程度の長さだからです。主イエス・キリストが地上に来てくださった時、神の御子は神の国の限りない豊かさから、限りない貧しさの中に降り立って下さいました。しかし、主の地上での御使命は、私たちと同じ貧しさを共にするためではありません。もしそれが目的なら、ああ、イエスさまは私たちと同じ人間の苦労をして下さったということに尽きることになります。もしそれだけが目的なら、確かに感謝は生まれるかもしれませんが、それだけで、人は救われるでしょうか。

主イエスの目的は、私たちの貧しさの中にいらして、天の御国の豊かさを教えることではありました。神の国について教え、そして私たちを神の国の豊かさに招くことであったのです。ですから、今日の聖書、山上の説教として有名な教えを、主イエスは教えられたのです。主イエスは群衆を離れて山に登られました。そして近くに従っておりました弟子たちに教え始められました。弟子とは、どういう人々でしょうか。弟子とは先生の教えに聞き従う人であります。ここでは、キリストに従う人々であり、キリストを通して神に従う人々であります。神の御心を知った時、それは、「ちょうど私の考えて同じです。喜んで従いましょう」ということではないのです。「えーっ!」と驚き、「とても信じられない」と思いながらも、自分の考えを捨て、御心に従って行った人々です。

思えばマリアもそうでした。主イエスの誕生に先立って、マリアに天使が現れて、常識では考えられないことを告げた時、マリアはどうしたでしょうか。自分の考えを捨てて従ったのです。「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」またマリアの夫となるヨセフもそうでした。主イエスの誕生に先立って、ヨセフに天使が現れて、常識では考えられないことを告げた時、ヨセフはどうしたでしょうか。自分の考えを捨てて従ったのです。このように、キリストが世に生まれてくださるために、神は地上に従う人々をすでに備えてくださいました。

そのようにして人々の貧しさ、乏しさの中にキリストは来られました。そして従う者を集め、教え始められます。それは、幸いな人とはだれか、という教えです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」心の貧しい人々とはだれでしょう。それは、自らを空しくし、神の憐れみに頼る人。苦悩にさいなまされ、押しつぶされても、それでも神に全く服従し、そして、心から謙遜であり、神に救いを求めてやって来る人々。そういう人々は幸いだと主は言われます。そうです。母マリアがそうでした。ヨセフもそうでした。常識では考えられないことが起こった時、自分に頼らず、他人に頼らず、ただ神に全く服従する。私たちもそうでありたい。だから神に救いを求めて教会に集まるのです。

しかしこのことは、何か他の人々と比べて、「救われる」特権を持っているかのように得意になることではありません。主イエスは従う人々が天の国に入れることを確信させ、だからあらゆる困難を忍耐するようにと、励ましておられるのです。また主は教えられました。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」と。世間の常識では、悲しみは幸いとは程遠い。むしろ不幸なことではないでしょうか。しかし主は悲しみに暮れる人々は悲惨ではない、と仰るのです。それどころか、涙を流すことそのものが幸福な人生の助けとなる、と教えられました。

私は教会に在って、皆様と共に多くの悲しみを経験しました。それは、多くの方々が教会を去って行ったからです。ある方々は高齢になり、また遠くに行ってしまったので、教会に足を運ぶことが出来なくなりましたから。また、他の理由で教会に来られなくなった方々もおられます。その方々はどうしていることか、主がどこかの教会に招いておられるだろうか、などと思います。しかし、私たちはその他の方々を天に送りました。召された方々とのお別れには一番涙を流しましたけれど、それは不幸ではありません。私たちには愛する人々がいるからです。ですから愛する人々と別れる悲しみは確かに幸いなのです。この悲しみが天の国の希望に続いているからです。私たちの悲しみはただ神によって慰められると信じるなら幸いです。

主イエスはまた教えられました。「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」と。柔和な人々とはだれでしょうか。それは侮辱されてもすぐに立腹しない。人々にひどいことをされても同じことで仕返しをしない。何事にも忍耐強い、穏やかで温和な人々のことです。この教えもまた信じがたいのです。むしろやり返さないとますます相手は傲慢になって悪事を重ねるだろうと思うからです。その不安が争いに争いを巻き起こすのです。私たちは命じられています。主イエスだけが私たちをお守りくださると確信しなさいと。確信して、その救いの翼の陰に隠れなさいと。そうするためには、私たちは悪人に悪をもって報いる人であってはならないのです。主は羊飼い。そして、私たちは主のもの。主の羊なのですから。

多くの土地を所有するために力を振るう人々は、いかにも繁栄しているようですが、実は、他から力で奪われないように絶えず警戒しなければならない、従って絶えず不安なのです。反対に私たちは、地上に僅かなものしか持っていなくても、確かに地上に住むところが保証されています。なぜなら私たちは神の恵みをいただいているからです。そしてやがて地上を去る時、神の国に住まいが用意されていることを思えば、主に従って生きる者が地を受け継ぐのです。

6節。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」と主は教えられました。飢え渇くという言葉は、生活必需品にも事欠くような貧困に苦しんでいることを表します。さらに義に飢え渇いている人々は、大変な侮辱、屈辱を味わって苦悶にうめいているのですが、しかし彼らは、「生きて行くためには、もう何でもするより他はない」ということにはならない。どんなに苦しんでも道を踏み外さず、節操を守っている。そしてそのために苦しみ、弱り果ててしまっているのです。

人々の目には、このような人々は愚かに見えるかもしれません。しかし、主は言われます。これは、幸福への確かな準備であると。なぜならついに、彼らはついには幸福で満たされるようになるからです。母マリアは次のように神をほめたたえる賛歌を歌いました。ルカ1:53「(主は)飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」このことを神がなしてくださる。いつの日か神は彼らのうめきを聴き入れ、彼らの正しい願いを満たしてくださるからであります。

「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」という教えもまた、4節の悲しむ人々と同様の幸いではないでしょうか。世の人々は、他人の不幸など顧みないで、彼ら自身の安楽を計っている人々を「幸いな人々」と思っているかもしれません。

しかし、キリストの言われる幸い違います。幸いな人とは、自分の不幸を担おうとするだけでなく、苦しんでいる貧しい人々を助けるために、他人の不幸をも担い、苦しんでいる人々を助けるために、喜んでその人々の中に進んで入り、その不幸を共有する人々であります。そういう人々は、神からばかりでなく、ついには人々の間でも憐れみを受けるだろうと言われるのです。争いが絶え間なく起こるこの世に在って、ついに人々は心に何のゆとりも無くなり、すべて恩知らずとなりかねないのです。その結果、親切な人々を利用し、受けた善意にも悪をもって報いるようなことも起こるでしょう。しかし、憐れみ深い人には神によって恩恵が備えられています。なぜなら神こそが恵み深く、憐れみに満ちておられるのを知るからです。それを知る人々は心満たされると、主は教えられるのです。

そして8節。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」と主は教えられました。清い心とは、何でしょうか。それは、人々の交わりにおいて常に純真であり、心の中に思っていること以外は、言葉にも表情にも全く表さない。すなわち二心がない。二枚舌を使わない、ということではないでしょうか。それは、だれもが「美しい心」だと一応認める性質でしょう。しかし軽蔑する人々は、このような純真な人のことをあたかも思慮が足りなくて、物事を十分見ることが出来ないかのように思っているのであります。ところがキリストは改めて心の清い人々を高く評価なさいました。二心がない、たとえ悪人に騙されることがあっても、人を欺くことが出来ない人々は、天の神の御前で神に喜ばれることだろうと。

そして「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と主は教えておられます。人々の間でも、あるいは組織、国家の間でも、不和の状態、戦争状態にある者たちを仲直りさせるのはやっかいな骨の折れる仕事であります。平和を作り出そうと努める善意の人々は、双方から侮辱されたり、不平不満や非難を受けても、それに耐えなければならないことがしばしばです。なぜなら、人々はだれもが、執り成す者に、まず自分を守ってくれるよう期待するからです。そこで主は何と言われたでしょうか。主は私たちが誰よりも、何よりも、父なる神の調停によって平和を作り出すように努めるように教えておられます。だから人々の平和のために働く者は、人の思いどおりにではなく、神の正しい裁きが行われるように祈り働く者となりなさい。そうすれば、あなたがたは、たとえ人々から良い評価は受けなくても、それどころか、いわれのない悪評を受けることになっても、大丈夫。主は私たちを御自身の子と数えてくださると約束して下さいました。

2018年最初の礼拝、私たちは主イエス・キリストの教えを聞きました。主イエスは、この世の人々の繁栄の幸いではなく、神に従う者の幸い、神と人を愛して生きる道を教えてくださいました。私たちは新しい年に改めて、主の教えに従い、幸いな人に数えられたいと思います。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神様

新年最初の礼拝を感謝し、御名をほめたたえます。あなたは私たち成宗教会の群れを守り導き、新しい年を迎えさせてくださいました。多くの方々が高齢となり、病気やお体の不調に悩み、仕事や家庭に困難があることをあなたはご存知です。しかし、目に見えてここに、あなたの御前に集まる者は少ない者ですが、その生活の所々に在って、あなたの御名を覚え、心を合わせて祈る群れであることを感謝します。

私たちは主が恵み深く、地上に在って、私たちの乏しさを神の国の豊かさに変えてくださるために教えてくださることを感謝します。今多くの悩みがある中で、あなたがどうぞ私たちになすべき務めを教えてくださいますように。あなたが聖書によって、主イエスによって、恵み深さを表してくださいました。今、私たちは聖餐によって、主イエス・キリストが私たちになしてくださった救いの恵みに与ります。主イエスは山上の説教の教えを身をもって生き、十字架にご自分を捧げ、私たちの罪を赦し、平和の礎となってくださいました。私たちは主に感謝し、主の御体の教会にしっかりと連なる者となりますように。

高齢化少子化が進む社会にあって、あなたの御心が成り、私たちの罪が赦され、福音が日本の社会に伝えられ続けるために、この年も私たちの教会を、連合長老会の教会と共に、また日本基督教団をはじめ、全国全世界の主の教会と共に、一つなる教会が形成されるために用いてくださいますように。成宗教会の長老会の働きを強め、教会学校、ナオミ会、ピアノ・オルガン教室の働きを豊かに祝して下さい。また明日行われる東日本の日曜学校研修会と長老会議から、2018年の連合長老会の諸行事が始まります。すべてを祝し導いてください。

この感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神の指の働き

聖書:出エジプト記8章12-15節, ルカ福音書11章14-23節

 2017年は1月1日の礼拝から始まり、12月31日の礼拝で終わるという、礼拝に始まり、礼拝に終わる年でした。そしてクリスマスの礼拝と行事が24日の主の日に集中する、という年でもありました。カレンダーが今年と全く同じになった年は、2006年ですから、今から11年前ということになります。その時の教会役員の方々で現在の長老職を担っている方々は今はおられません。ご高齢やお仕事で退かれた方もおられます。また、この10年ほどの間に受洗され、転入された方々が新しく長老に選ばれるようになりました。

成宗教会は2013年に東日本連合長老会に加盟して、長老教会の一員として歩み始めましたが、このことも非常に大きな決断でありました。教会はこうして大きく変化したことを、改めて振り返っております。ただ、この教会に私が赴任して以来、変わらないものもございます。その一つは週報の裏側にある諸報告です。よく申せばアットホーム的な、問題にするならば個人情報に関わるものも報告しています。これは成宗教会が月報とか、季刊誌とか、より教会活動の報告文集的なものを編集発行していないので、その補いとして、あらゆる活動、教会員の最小限の消息など、記録に残すためでありました。

そういうわけで、本日の週報にも24日のクリスマスの報告を感想文的に載せております。もっと客観的に、事実を淡々と報告するのが良いのかもしれません。しかし、今回はあえてお名前を上げさせていただいた方々もいます。これは、一番目立った人の順ではなく、神さまのご配慮のうちに、目に見えて活躍した方も、お顔を見せることさえ出来なかった方も、共に一つになってこのクリスマスを迎えたことを感謝したいと思ったからです。

今の時代に生きるわたしたちには、本当はいつの時代でもそうなのでしょうが、多くの悩みがあります。本人自身のことはもちろん、親の悩み、子孫の悩み、配偶者の悩み、兄弟や、家族の悩み、仕事の悩み等々です。しかし、だからこそ、イエス・キリストは来てくださいました。悩み多い世に。私たちは今年も御子のご降誕をお祝いすることができました。前年よりは少なかったですが、それでも多くの人々がこの教会のクリスマスに来て下さいました。小さな御子の誕生は、その人々の中に来てくださったでしょうか。あなたの心に、イエスさまは生まれたでしょうか。私はそう訊ねています。

主イエス・キリストが来てくださったなら、私たちの内に住んでくださったなら、それは大変大きな出来事です。なぜなら、神の御子は無力なお姿でいらして、私たち、無力な者の心に受け入れられるならば、決して無力なままではおられないからです。神の国は近づいたと、洗礼者ヨハネは告げました。主イエスも言われました。神の国は神の御支配です。世の光として来られる方は、世の闇を追い出す方なのです。それこそが神の御支配の表れです。ではどのようにして闇を追い払ったのでしょうか。今日の聖書、ルカ福音書11章14節がその一つの証しです。

「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。」主イエスは人々の病気を癒されました。また悪霊を追い出されました。主イエスが人々の病気を癒され、悪霊を追い出されたのは何の目的のためなのでしょうか。主イエスが口の利けなかった人から悪霊を追い出すと、何とその人は話すことができるようになりました。そんなことはあり得ない。今まで見たことも聞いたこともない。その奇跡に、人々は驚嘆しました。では、主イエスの目的は人々を驚嘆させるためだったのでしょうか。

モーセの物語である出エジプト記には魔術師が登場します。モーセと兄弟アロンがエジプトの王、ファラオに交渉に行って、イスラエルの民をエジプトから去らせるように頼みました。ところがファラオは全く耳を貸しません。そこでモーセとアロンは神が命じられる通りに、禍の奇跡を行いました。神はこんな恐ろしい禍をファラオの国に下すことができると。ところが、そこにファラオに仕えている魔術師がいました。彼らはモーセに対抗してファラオに言ったことでしょう。「王様、あんな魔法私たちだってできますよ。」こうして魔術合戦が始まります。ナイル川を血に染める魔術。蛙大発生の魔術。

しかし、モーセが魔術を使ったのは魔術合戦をするためではありません。ファラオを驚かせて、神の力の前に屈服させ、神の命令に従わせるためでした。神はファラオに命じられます。「あなたの奴隷となっているわたしの民を解放せよ!」と。さて、主イエスのなさった奇跡にも、目的がありました。それは人々をびっくりさせるためではありません。もちろん、主イエスの奇跡の業を見た人々は、「この方はすごい!」とか、「この方は一体どなただろう」と驚嘆したことでしょう。しかし、そういうことが目的ではないのです。主イエスは罪人の救いのために来てくださいました。それは、罪人、すなわち罪の奴隷となっているすべての人間に対して神の憐れみ、神の愛の表れであります。

私たちは皆罪人なのですが、神さまがそんなにも私たちを憐れんでおられるとは、大部分の人々が知らないのであります。むしろ、「私は同情されるような惨めな者ではない」と、内心高ぶっているのではないでしょうか。本当は、神に背いているところは、皆同じ人間です。ですから、主イエスも誰に対しても愛情と同情をもっておられます。神は皆同じ人間と思っておられる。しかし、そう思っていないのは人間の方なのです。ですから、主イエスは金持ちの青年が近寄って来て、「先生、救われるためには何をしたらよいですか」と尋ねた時にも、この人を慈しんで声を掛けておられます。

そこで主イエスは、だれもが大変な悩みだと思うような病人、悪霊にとりつかれた人々に対して奇跡を行ってくださいました。こういう人々は、すべての罪人の苦しみを目に見える形で苦しんでいるのですから。ですから、この人々に対する主イエスの深い憐れみ、慈しみは、神の愛を目に見える形で証ししていることなのです。ですから、あんなに人を苦しめ、支配していた悪霊は、主イエスの命令で人から追い出されたとき、何の力も発揮できず、何の抵抗できず、出て行くより他はありませんでした。このように、神の愛の力がどんなに強いものであるか、私たちは知っているでしょうか。信じているでしょうか。

主イエスの奇跡にこそ、神の国の到来を見るべきではないでしょうか。人々は奇跡を見て驚いたけれども、中には疑い深い人々がいました。彼らは救いを待ち望んでいる人々の中にいながら、実は神の愛も、神の御支配も信じたくない。信じないためなら、どんな努力でもする。どんな屁理屈でも考えるのです。そこで「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、更に天からのしるしを求める者もいました。

主イエスは、人に同情し、悪霊を追い出して、その人を口の利けない苦しみから解放してくださいました。しかしその結果、言われたことは『悪霊の頭ベルゼブル』です。これがどんなに侮辱的な言葉であったか、想像できないと思います。ベルゼブルとは、本来はバアル・ゼブブという言葉で、ペリシテ人の偽の神々の頭に与えられた名でした。(列王下1:2)  この偶像に備えられた多くの供え物のために神殿にたくさんの蠅がいたので、蠅の守護神を意味しているとも言われています。あるいは食べ物に群がる蠅の害から救われるために、この偶像に助けを求めたのではないか(カルヴァン)という説もあり、とにかくイスラエルの人々は、偶像に対する憎悪と嫌悪を表すために、悪魔をバアル・ゼブブと呼んだのであります。

こういうわけですから、悪意ある人々は、キリストが一般の人々から嫌われるように、「悪魔」、つまり、最大の敵と呼ぶことによって、考えられる限り最大級の非難を与えようとしたのでした。私たちも善意をもって、同情をもって何かをしたのに、思いがけず、非難され、軽蔑されるという経験をすることがありますが、聖書は主イエスがどんなに私たちに同情して下さったか、ということと、その結果はほめたたえられるどころか、悪魔、サタン呼ばわりされるというこれ以上ない侮蔑を受けたことを語り伝えているのであります。

しかし、私たちががっかりして、力を失う時も、心を閉じてしまう時も、主イエスは人々にがっかりして心を閉ざされることはなさいませんでした。主は悪意ある人々に順序よく教え諭されます。それは、私たちが時を経ても、所を隔てても御言葉に教え諭されることができるためなのです。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立っていくだろうか。」

主イエスが悪霊を追い出したのは、悪霊の内輪もめの結果ではない。もしそうなら悪魔の支配は自己崩壊することでしょうが、実際には、悪魔は堅い一致団結によって、神の支配を来させないように、人々を自分の奴隷にしておくためにあらゆる手段を尽くして戦っているのです。主イエスが奇跡を行われたのは魔術合戦に勝つためではありません。モーセとアロンが魔術合戦を挑んで来るエジプトの魔術師たちと戦った時、ついに魔術師の力が及ばないところに達しました。魔術師たちは降参して、ファラオに言いました。『これは神の指の働きでございます』と。

その聖書にちなんで、主イエスは言われました。20節。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちの所に来ているのだ。」神の指は神の愛の力です。私たちは無力だと感じることが多い時代です。私たちの内に多くの悩みや課題を抱えています。しかし、私たちの内にキリストが来てくださっているなら、嘆くのは見当違いではないでしょうか。確かに私たちは弱い。しかし、キリストの愛は奇跡を行われる神の指の働きに他ならないのですから。

21節、22節の例えは興味深いものです。強い人が武装しているというのは、神さまのことではありません。悪魔のことなのです。武装して悪魔の支配領域を守っている。しかし悪魔よりもっと強い者が襲って来る。悪魔より強いのは人間ではありません。絶えず、悪魔に唆され、おだてられ、騙されて、疑いを持たされ、脅され、たやすく支配されてしまう私たちだからです。しかしついに強い者が襲ってきて悪魔に勝つ。その人はだれでしょう。私たちの主イエス・キリストに他なりません。

勝利者キリストは悪魔から分捕り品を奪い返します。悪魔の支配下に苦しんでいた人々を奪い返し、神の国の御支配の中に配置してくださるのです。この目に見えない、ひそやかな戦いが進行中です。私たちの多くが家族で、職場で、また施設でただひとりのクリスチャンかもしれません。しかし、考えてごらんください。神はイエス・キリストによって私たちの内に戦いの拠点をあちこちに作っておられるのではないでしょうか。皆が密かに私たちを見ています。私たちが幸せに生きているかどうかと。お金のことではない、能力のことではない、健康のことですらないのです。たとえ、「ない、ない、ない」の、私たちであっても神の愛が私たちに注がれていることを、周囲は見ているのです。ここに神の国が来ているかどうかと。ここに救いがあるかどうかと。

ですから、この戦いは私たちの戦いです。私たちは、どちらの側について戦っているのかが問われています。主イエスは言われます。「わたしに味方しない者はわたしに敵対している」と。私は感じています。既に成宗教会の多くの方々が周囲から見られているだけでなく、当てにされていると。頼りにされていると。その家にとって、その職場にとって、その施設の中で、教会の皆さんが希望のもとになっていると。だから、私たちは、私たちの希望がどこにあるかをはっきりと自覚して生きる者となりましょう。主イエスによって神の愛が、神の指の働きが私たちと共にありますように。祈ります。

 

恵みと憐れみに富み給う教会の主、イエス・キリストの御父

2017年最後の主の日、私たちを御堂に集めて下さり、主の御名をほめたたえる礼拝を捧げさせていただいたことを感謝します。先週私たちは、クリスマスを無事にお祝いすることができ、恵み深い神の御名を世の人々にお知らせすることができました。

この年をも、私たちの不信仰と至らなさにも拘わらず、あなたは私たちを恵みで取り囲んでくださいました。私たちの言動によって教会の兄弟姉妹、家族、友人、また多くの人々を悲しませ、失望させることがございましたら、どうかその罪をお赦しください。あなたの御霊のお働きは罪人の救いのために人々を招くことでございますことを思う時、どうか私たちがあなたの喜ばしいお働きに賛同し、参加することができるために、私たちを新たに造りかえてください。どうか、私たちが家族、友人、社会に対して、あなたの愛と慈しみを、身をもって表す教会共同体となりますように。

成宗教会を地域連合長老会である東日本の諸教会と共に歩ませてくださったことを感謝します。また全国連合長老会を通して、日本基督教団を通して、全世界の主の教会を通して、主イエス・キリストの体の教会を建てるための戦いに参加させてくださったことを感謝します。目に見えて礼拝を守ることができるのは、真に小さな群れですが、あなたの目に大切に守られ、私たちの目の届かない所まで慈しみによって守られ導かれていることを感謝します。

どうか来る年も、主イエス・キリストを告白し、救われて主の体の肢に結ばれる人々を増し加えてください。また、私たちの貧しさを顧みてくださるあなたが、この教会の福音伝道のために、必要なすべてを備えてくださることを信じ、お願い致します。教会の礼拝と諸活動のすべてが福音のために清く用いられますように祈ります。そして今、お病気の方々、ご家族の労苦を負う方々の上に慰めと励ましと癒しをお与え下さい。

すべてを感謝し、御手に委ねて、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

天には栄光、地には平和

聖書:イザヤ書52章7-10節, ルカ福音書2章8-20節

 私たちは、クリスマスを祝うために、この年も、成宗教会の礼拝に集まることができました。私たちはしみじみ思うのです。礼拝に出席できる、ということは決して小さなことではない。むしろ大きな恵みなのだ、と。まず第一に元気がなければ来られない。そして元気があっても日曜日の朝にも、時間がない、休めない人々がいます。その上、出かけて来るにも電車賃も惜しまなければならない人々も増えているという社会であります。

しかし、健康がない、時間がない、お金がない、という人々が教会に多くなるにつれて、教会は活発になります。活発にならないではいられないはずです。なぜなら、私たちは主イエスがどのようなところにお生まれになったかを知らされているからです。主は馬小屋で生まれられました。世の人々でにぎわう街の宿屋に、母マリアとヨセフの滞在する場所がなかったからです。人々の日常茶飯事のてんやわんやの中には、主イエスの宿るゆとりはありませんでした。そこで、神はその御子を貧しい馬小屋、家畜の小屋に生まれさせました。ひっそりと、だれも顧みることもない者としてお生まれになったことは、私たちへの神様からのメッセージであります。主は貧しい者、小さな者の所に、まず来て下さったのだと。

私たちの社会が貧しくなり、健康に乏しい人々、時間に乏しい人々、経済的に乏しい人々が増えれば増えるほど、私たちは改めて思うのであります。救い主は王侯貴族の間にお生まれにはならなかった。貧しい人々、小さな者たちの所に来て、そこに宿ってくださったことを。教会はこのことを知らされています。だからこそ、教会は活発にならないではいられないのです。救い主がお生まれになったクリスマス。この良い知らせを、多くの人々に知っていただくために。

クリスマスの夜、救い主誕生の知らせを誰よりも早く聞いたのは、羊飼いたちでありました。彼らは野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。そこに主の天使が現れたのでした。主の天使は、神の御心を忠実に伝えます。その言葉が神の言葉として伝えられ、人々に聞かれるために、天使は神の威厳、神の栄光と共に現れたのでした。恐らくは圧倒的な輝き、この世の知恵では計り知ることのできない栄光の姿によって、天使は現れたので、羊飼いたちは非常に怖じ畏れました。

しかし、天使は彼らを労いました。「恐れるな」と。なぜなら、羊飼いたちに現れた天使の目的は、何も彼らを脅すためではなかったからです。それどころか、天使はクリスマスの知らせを、真っ先に彼らに伝えるために現れたのです。天使は彼らを励まして告げ知らせます。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

当時、羊飼いという職業は大変でした。羊は他の家畜もそうですが、人々の貴重な財産、多くの富を生み出す生き物でありますから、その世話をする羊飼いは、欠くことのできない仕事でした。しかし、それは当然非常な労苦を伴っていました。上野動物園のパンダなど、貴重な動物の飼育をする人々のことを考えれば、少しは分かるのですが、動物の健康を昼夜を問わず気遣うのは大変です。その上、この当時の牧畜の方法は、安全な囲いの中に常時いる訳ではなく、むしろ広い牧場というよりも山野を放牧して移動するわけです。昼も夜もですから、ある時は野獣の危険、ある時は羊泥棒の危険に立ち向かわなければなりません。

この仕事の苛酷さを考えれば、当然、これを担う人々は、金持ちではなく貧しい人であり、また身分の高い人ではなく、雇われて主人に仕える僕の仕事であったでしょう。しかし、不思議なことですが、神は御自身を私たちに理解させるために、何と言われたかと申しますと、御自身を羊飼いであると表現されたのです。この人間にとって苛酷な職業は、「わたしの務めである」と。イザヤ書40章11節にこう書かれています。1124頁。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

主は、羊の群れを養うように、小さな者、弱い者、無力な者を養ってくださる羊飼いとして世に来られました。旧約の預言のように、主イエス・キリスト御自身、こう言われたのです。ヨハネ福音書10章11節。186頁末。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」主イエスが命を捨てるのは何のためでしょうか。それは「羊が命を受けるため」に他なりません。これが、救い主が来てくださった真の目的であります。

もちろん、このクリスマスの夜、天使の言葉を聞いた羊飼いたちは、このようなことは何一つ知らなかったでしょう。ただ、彼らに理解出来たことがあったと思います。彼らに告げられた言葉は、彼らにだけ秘密に知らされたのではないこと。天使が告げる言葉は、民全体に、つまり皆に与えられた喜びとして、告げられたのだと。昔の王ダビデの出身の町ベツレヘムに救い主がお生まれになった。この方は皆の救い主なのだと。

では、救い主のしるしは何でしょうか。天使は言いました。「あなた方は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」何と、救い主は飼い葉桶の中に寝ておられると。限りない天から降って、人々の中に。王宮の中にではない。整えられた文化的な施設の中にではない。貧しい人々の塵芥(ちりあくた)の中に。これこそ、神の御心。人は見かけで人を見ることしかできなくても、神はそうであられるはずがない。こう天使が宣言したとき、思いがけない賛美が起こります。天の大群、きらめく満天の星座が天使と共に高らかに賛美したのです。

神はどんなに人を愛しておられることか。悲しむ人、傷む人、苦しむ人、悩む人を。罪の奴隷となり、人の支配に踏みにじられた魂をどんなに救おうとしておられることか。それは、何と愛する神の御子を世に降らせるほどに。しかも最も低くされた人々、低くされても黙々と耐え忍んでいる人々のところに。自ら幼子となって。飼い葉桶の馬草の中に、家畜の匂いと共に。ああ、神はどんなに人を愛しておられることか。神はどんなに褒め称えられるべきか、と、天の万軍は歌ったのではないでしょうか。

今日読まれたイザヤ書52章7節も高らかに歌います。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られるのを。歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。」良い知らせを伝える者の足は美しいと謳われる。褒められているのは足ではありません。良い知らせが美しいから、伝える者も美しくされる。その足、その労苦全体が美しくされるのです。良い知らせは何の知らせか、もう私たちは知っています。それは救いを求めている者への知らせです。

この知らせを待ち望む者すべてに平和が告げ知らせられます。なぜなら、救い主がその人々の王となってくださるからです。その声を、その知らせを今か今かと待っていた見張りがいます。教会は見張りの務めが与えられています。救い主の来られるのを待ち望み、いち早く告げ知らせ、皆共に喜び歌うために、教会は世の終わりまで建てられます。

ところで、ルカ2章14節に歌われています。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ。」私たちの地上の生活は、常に競争があり、人々は上を上をと目指して頑張っております。祝福がそこに与えられていると、工夫も進歩も生まれていることは、だれもが認めるところであります。しかし、もし他に与えられるべき栄誉を奪って自分のものとするなら、その悪行は良い結果を生まないようにでしょう。さらに、すべては神から与えられていることを否定し、自分に栄光を与え、自分をほめたたえようとするなら、そこから、あらゆる争いが起こるのではないでしょうか。

日本の社会は二十世紀後半、平和が与えられ、人々は繁栄を楽しみましたが、その間にも多くの国々が、人々が戦争と貧困に苦しんできました。戦争は政治の世界のことであり、力を持たない私たちには、一度始まった流れを止めることなど到底不可能に思われます。しかし、身近なところで起こる小さな争いに対しては平和のために何かができるのではないでしょうか。テレビで近隣住民との騒音トラブルの報道を見て、考えさせられました。騒音を出して近所を悩ませている人は、実は周囲の住民に悪意を持たれているという被害者意識を持っているというのです。「恐怖のあまり、対抗措置として騒音を出している」という言葉を聞いて、国と国との間でも同じではないか。自分がやられるのではないかという恐怖心が募る時、戦争は起こるのではないかと思いました。

どの人も救いを求めています。ただ傲慢な人々だけが平和に関心がないのです。恐るべき傲慢は、戦争で金儲けしようということかもしれません。しかし神は御子を遣わして、この方によって御心にかなう人々を救いに招いておられます。平和の王、イエス・キリストに招いておられるのです。御心に適う人々とはだれでしょうか。貧しい姿で世に来てくださったイエス様の低さに躓くことなく、「この方こそ、私の救い主です。私は長い間神さまに背いて生きていましたが、この方、イエス・キリストによって神さまが私を愛し、私の罪を赦してくださったことを私は信じます」と告白する人ではないでしょうか。

平和の主イエス・キリストは「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われました。私たちは自分の貧しい心を知っています。私たちの力では到底敵を愛することができない。迫害する者のために祈ることもできません。しかし、私たちが神に背いて敵となっていた時、キリストは私たちの罪のために死んで執り成してくださいました。キリストはこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです。」私たちは自分の力では到底こう祈ることはできない者だと認めます。

しかし、だからこそ、私たちはキリストに結ばれて生きなければなりません。赦せない者を赦し、神の国に招き入れてくださった方を信じ、救いの約束に結ばれて行きましょう。2017年クリスマス。今は家族の平和のために祈るべき時です。また友人、社会の平和のため、日本の平和のため、そして全世界の平和のために祈るべき時です。わたしたちが熱心に祈り、多くの人々の救いが全世界で実現するように。御心に適う人々に平和があるように、と天使は歌いました。地にある私たちは、この願いを多くの人々の願いとするために、祈ろうではありませんか。祈ります。

 

恵みの主、天の父なる神さま

2017年のクリスマス聖餐礼拝を感謝し、尊き御名をほめたたえます。私たちは会堂に集められ、主の喜ばしい訪れをほめ歌いました。どうか私たちの背きの罪を赦し、御子の救いの恵みに固く結んでください。御子が尊い救いの務めをもって世に来てくださったことを私たちは知りました。御子によって救われた私たちを、与えられた命を主の喜び、主の栄光を映し出すために貴くお用いください。そしてこの小さな者らのまことに小さな働きを喜び用いてくださり、目の前の人々との交わりの中に平和を築くために、そして世界の平和のために、聖霊の神様によってを私たちをお遣わしください。

今日の恵みの聖餐を感謝します。ここに集う方々、まだあなたを告白する決意に至っておられない方を深く顧みてください。教会の群れ、主の体に結ばれる日を待ち望みます。主と共に歩み、主と共に喜ぶ者とならせてください。

本日、礼拝に参加できない方々をあなたが特別に顧みてくださることを信じ、祈ります。特にご高齢の方々、ご病気の方々を慈しみ、クリスマスの祝福をお与えください。本日の礼拝後の祝会、そしてクリスマス・イヴ礼拝が真に主に喜ばれるものとなりますように。参加する方々、そしてこのために奉仕するすべての方々をお支えください。

心から感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主を待ち望む

聖書:イザヤ40章3-5節, マルコによる福音書1章1-8節

私たちはこの年も主イエス・キリストのご降誕を記念するクリスマスを迎えようとしています。救い主の到来は全世界が待ち望んでいることです。昔そうであったように、今も全世界が救いを求めているのではないでしょうか。一体。救いを待ち望まない人々が本当にいるのでしょうか。

旧約聖書の神の民に預言者たちは、長い間語りかけて来ました。彼ら預言者たちは、神の民でありながら、神の掟を守らない人々に、神の言葉を語り続けて来たのです。「主に立ち帰れ」と。神の掟を守り、神に捧げるならば、あなたがたは豊かな祝福を受けるだろう。そして、世界中の人々があなたがたを幸いな者と呼ぶだろう、と。しかし人々は、神に従っても、何の得もない。神の戒めを守って謙って歩いても何の利益があるだろうかと言いました。むしろ高慢な人々に従った方がいいではないか。彼らは悪事を行っても何の損もしない。むしろますます繁栄しているではないか。神を試みても罰を受けていないではないか、と。

私たちはどう思うでしょうか。この世界は貧しい者がますます貧しくなり、力ある者がその力を最大限に生かして富に富を積み上げ、力を増し加えているように見えます。戦争さえも、力を持つ者が起こしている。もっと力を持つために。そして戦いの最前線に出されるのは貧しい人々、戦争で家を失い、土地を追われるのも貧しい人々なのです。そのような人々と、多くの力を握り占めている人々とでは、命の値打ちが違うのでしょうか。権力者の命は金やダイヤモンド。そして貧しい人の命はゴミのようなものなのでしょうか。

主の憐れみが深ければ深いほど、主の怒りは火山のように高く、激しく燃え上がらないでしょうか。こうして戦争に次ぐ戦争が起こるのです。荒廃に次ぐ荒廃に人々は心も荒れ果てて行きます。それでも、地上に僅かな人々が残される。わずかな人々、それは主を畏れ敬う人々です。男であれ、女であれ、身分の高い者であれ、取るに足らない小さな者であれ、強い者であれ、力尽きて倒れる者であれ、主を畏れ敬う人々が残されています。そして、それも神の御業に違いありません。人は皆罪を犯して、神の恵みから遠く離れてしまっているので、神がその人を慈しんでくださらなければ、だれも神を仰ぎ見ることもできない。ですから、神を畏れ敬うことも、皆神から心にいただく賜物ではないでしょうか。

私たちもまた、こうして何の取り得もない者も、ある者も、こうして主の日の礼拝を守るために招かれました。いても立ってもいられないほど、忙しい時代に、また「何かしなければ明日が心配だ」という時代に、不思議にも私たちは神に従う者とされている。これこそは、私たちにとって福音の初めです。福音、神の喜ばしいメッセージを聞きましょう。

マルコ福音書は書き出しの言葉を次のように始めました。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」キリストは「ダビデの子」と呼ばれたり、「アブラハムの子孫」と呼ばれたりします。キリストは、アブラハムの子孫である神の民の中にお生まれになって、神に背いている罪人を救ってくださる救い主でありますが、マルコが強調しているのは、この方は神の子であるということです。なぜなら、罪人を救うことは神の力でなければできないことだからです。神は背く者の傲慢不遜を大目に見たり、甘やかしたり、なさる方では決してないのですが、その一方、ゴミのように打ち捨てられている小さい者を、お見捨てになっておられるのではありません。預言者たちが繰り返し語っているように、神は「不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜わる」方でありますから。

そこで、苦難の時に、何の希望も見いだせない時に、なお主を待ち望み、「あなたこそ主、正しくお裁きになり、私に落ち度があっても、どうぞ憐れんでお救いください」と祈り求める信仰こそ大切なのであります。神は荒れ野に使者を遣わすことを約束されました。荒れ野。わたしたちは、荒れ野というと、もちろん文字通りの厳しい気候風土で荒廃した場所を思い浮かべることもできましょう。しかし、むしろ荒廃しているのは、自然だけではなく、戦争によって、また人の強欲、傲慢、心無さによって破壊された自然や、農耕地や、建物なのではないでしょうか。さらに荒廃しているのは、人々の悪意に囲まれて、踏みにじられて、すっかり貶められてしまった心、自分の価値など全く見い出せないほど地に落ちた人間の魂の荒れ野ではないでしょうか。

神は悪事を決して見逃されない方であり、しかしまた、罪人を憐れんで救ってくださるために、私たちの思いをはるかに超えた恵みの業を備えてくださいます。この方が御子にこう言われたのです。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」と。そこで、神の子イエス・キリストの福音の初めに、語られるのは、キリストに先立って荒れ野に遣わされた使者。すなわち洗礼者ヨハネのことであります。

彼に与えられた使命は、救い主のために道を整えることでした。私たちの人生の荒れ野。そこにはいろいろな道があります。細い道、曲がった道、崖に沿った道、谷間の道、鬱蒼とした山中の道。救いに至る道はどこか、探すうちに迷路に入ってしまうかもしれない私たちの人生です。神から遣わされた者の声は、そのとき荒れ野に響き渡ります。その声は「主の道を整え、その道筋を真っすぐにせよ」と叫ぶのです。いろいろな道があるのです。しかし、主の道は一筋。それは救いに至る道です。その道を真っすぐにしなさい。

「救われるために何をしたらよいのですか。」それは複雑なことではありません。もったいぶって、「それはなかなか難しい」と言っている人がいます。ああでもない、こうでもない、とさんざん議論し、「あれをしなさい」、「これをしなさい」と勧めて人を引き回す人がいます。そうではない。そんなことは聖書には書いてないのです。主の道は真っすぐ、だれでも見出せる広い道に整えなさい、と命じられています。でこぼこもなくし、歩きやすくしなさいと言われているのです。

私たちは多くの人々が長命を生きる時代にいます。昔の人々と比較して、世の中何が変ったかというと、いろいろありますが、何と言っても多くの人々が長生きできるようになったことが100年前、200年前、500年前と全く違うところだと思います。昔の人は子供を沢山授かりましたが、育って成人になる確率は決して高くなかったと思います。戦争の危機に加えて、ペストのような疫病が突如猛威を振るったからです。宗教改革者ルターもカルヴァンも子供たちに先立たれました。そして本人は60代で亡くなりましたが、それでも長生きした方ではないかと思います。

自分はいつまでも生きられるわけではない、と思う時、私たちの心に一筋の道が与えられるなら、私たちは非常に幸いです。自分の救いのために最善の道を日々祈り、選ぶでしょう。また、自分が先立つ時に残される人々のために、最善の道を日々祈り、自分の力で出来ることはして、彼らのために真心を尽くすでしょう。それに対して、いつまでも生きられるという想定をするなら、一筋の真っすぐな道よりも、寄り道をしてみようと思うでしょう。面白いことの追及が最大の目的となり、迷路遊びに取りつかれ、ついに迷宮入りとなってしまわないでしょうか。真に残念なことです。

洗礼者ヨハネは、文字通り荒れ野に現れたと思われます。便利で華やかな都会ではなく、不便で生活も厳しい地方に生活しました。ヨハネの服装や食べ物については、預言者として禁欲的な生活を進んでしたのだと考えることもできますが、彼の生活ぶりはこの時代の農耕や牧畜をして生活する人々の生活と変わりなかったというかもしれません。ヨハネは人々に質素な禁欲的な生活を勧めようとしたのではないのです。ただ私たちもそうですが、立派な風貌の人が立派な身なり出で立ちで現れると、何となく偉い人のように思ったり、話を聞く値打ちがあるように思ったりするものです。しかし、ヨハネは普通の庶民の貧しい身なりをしていました。そしてそれにも拘わらず、人々が彼の許に集まるほど、ヨハネの宣教は力に満ちたものだったことが分かります。

彼は救いの道を真っすぐに整えます。救われるためにはどうしたらよいのか。ヨハネは罪の赦しを求めている人々に、悔い改めを迫りました。すなわち、「私は神さまに背いて罪を犯しました」と告白することを求めました。この告白を公に行った人々に、ヨハネは洗礼を授けたのでした。ですから、洗礼を受けるためにしなければならないことがある訳です。それは神と人の前で(公に、ということの意味です)罪を告白することです。こうして人々は彼の宣べ伝える言葉を受け入れました。その人々の数は、ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けたと言われますから、本当に相当な人数になったと思われます。

人々は神から遣わされたヨハネを非常に尊敬したと思われます。神から遣わされ、神の御心をその通り人々に教える預言者。洗礼者ヨハネもその通りの忠実な人でありましたから、人々は彼を尊敬したことは言うまでもありません。牧師が一生懸命福音を宣べ伝えているのは、聞く人に、福音の中心であるイエス・キリストを心に受け取っていただくためであります。別の言い方をすれば、福音を聞く人が福音を通して、主イエスが自分を救いに招いてくださっていることを知るためであります。ところが、聞く人は、イエス・キリストが自分を招いておられると感じないで、○○牧師が自分を招いておられると錯覚してしまうことがあるのではないでしょうか。

バプテスマのヨハネもそのような間違いを心配していました。救いの道は神の子イエス・キリストの御名にこそあるのに、「ヨハネ先生は素晴らしい。救いはヨハネ先生の言葉にある!」と勘違いしてしまい、「この先生について行こう」ということになってしまうのではないか。洗礼者ヨハネはそのことを大変心配しました。そこで、彼は救い主について、次のように予言したのであります。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

来るべき救い主、キリストは、力と地位において自分よりはるかに優れているので、ヨハネは一般的な表現(ここでは、「履物の紐を解く」という奴隷の仕事を例にとりました)を用いて、自分との差が絶大なものであることを教えました。そうしてヨハネは、キリストの栄光をほめたたえ、キリストに比べれば自分は無に等しいものだと述べているのであります。ヨハネがこのように証しした通り、教会の牧師も罪を告白する者に対して、形式として、目に見える形でバプテスマを授けるのです。これはキリストが自ら定められた聖礼典であるので、教会は聖餐式と同様に、この形式を固く守っています。しかし、この形式に表された内容、内実をお与えになる方は救い主、イエス・キリストその方であります。

ヨハネは宣言しています。自分は外的な(目に見える形のことです)バプテスマを授ける者に過ぎない。けれども、やがて来られるキリストは聖霊によってバプテスマを授けてくださる方なのだと。

今成宗教会は、長村牧師以後、今に至るまでの時代の記録を編纂しようとしており、他の教会の記念誌にも目を通して参考を得ております。それらを見ると、今80歳前後の世代の方々がお若い頃は、日本は戦後のキリスト教ブームがあり、多くの人々が洗礼を受けたようでした。時代は変わって行きます。しかし、主の体の頭であるイエス・キリストは変わることがありません。だからこそ、私たちがよろよろしてもグラグラしても、この方に救いの望みをかけることができるのです。本当に主の教会に結ばれる人々は、移り行く時代の牧師に、ではなく、変らない主の体に結ばれているのです。この恵みに感謝してクリスマスを迎えましょう。

 

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。待降節第三主日の礼拝に私たちを呼び集めて下さり、ありがとうございました。この日も恵みの御言葉をいただき、讃美と感謝を捧げることができました。 クリスマスを迎えようとしているこの時、私たちの心と体と魂を、御子をお迎えするにふさわしく整えてください。日頃のあわただしい心、落ち着きのない考えを鎮め、感謝と祈りによって一週間を過ごすことができますように。

私たちの地上の命を永くしてくださり、主の恵みを証しする機会を日々与えてくださることを感謝します。どうか若い人々に、次の世代の人々に慰めと励ましと、生きる勇気と知恵の源であるあなたをイエス・キリストを通して紹介することができますように。

クリスマスの準備が沢山ございますが、奉仕者が限られた力を精いっぱい捧げております。どうかあなたが喜んで助けてくださいますように。健康を整え、クリスマス主日聖餐礼拝、祝会、そしてイヴ礼拝を捧げる私たちに、恵みを豊かにお与え下さい。多くの地域の方々の間に、あなたの御名が高く崇められますように。福音が宣べ伝えられますように。そして病気のため、ご高齢のため、礼拝に参加できない方々の上にもクリスマスの喜びと慰めをお与え下さいますように祈り願います。

最後に私たちの教会に集う者すべてのうちに、その背後にあるご家族のうちに、どうか福音の光が届きますように。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

キリストの権威は人を救う

聖書:イザヤ書9章5-6節, マルコによる福音書1章21-28節

 先週からクリスマスに向かう待降節が始まりました。世界中がイエス・キリストについて聞いたことがあり、お名前を知っています。その中にはただ名前だけ知っている人々も大勢いますが、この方を礼拝している人々も大勢なのです。キリストは神と等しい方、神の御子でいらっしゃいましたが、限りなく高いところから、御自身を低くされて、地上に降って来られました。人間の罪を負うために、人間として苦しみを受けてくださったのです。キリストには世に来られたことには、はっきりとした目的がございました。それは私たちの罪を贖って、私たちを自由にしてくださることでした。

イエス・キリストのお働き、職務について、教会は三つのことを信じて来ました。それは、第一に預言者の務めです。旧約聖書にはモーセ、イザヤ、エレミヤなど多くの預言者が登場します。神は見えないお方であり、私たちはその声を聞くこともできないのですが、神は御自分の御心を預言者の口を通してお知らせくださいました。その言葉を聞き、神に従う民となるためです。地上に来られた主イエスもユダヤ人の会堂に入ってしばしば人々を教えられました。旧約聖書を紐解いて神の御心を教えられたのです。今日読んでいただいたマルコ福音書の物語も、その一つの場面です。

安息日にはユダヤ教徒の人々は旧約聖書の教え通り、労働を止めて会堂に集まりました。そして聖書を読み、讃美と祈りを捧げていました。その時に会堂の責任者がこれと思う人々に話をすることを要請したと思われます。キリスト教会の礼拝のルーツもここに見られるでしょう。主イエスも促されて、人々の前に立たれました。すると人々はその教えに驚きました。主イエスの教えは他の人々の教えとは全く違っていたからです。それは、人々がいつも聞きなれていた律法学者のようではなかったというのです。律法学者は旧約聖書の専門家です。聖書の解釈が専門です。聖書に精通して、どこから聞いてもまちがい無く答えたと思います。しかし、そこには聖霊の神の力がなかったのです。

正しい教えであるはずなのに、それは心を動かす話ではなかった。魂を揺さぶる話ではなかったということでしょうか。人々はそういうお説教に聞き慣れてしまっていました。律法を守りなさい。そうすれば救われる、という教えです。その通りだ。しかし、実際、救われている実感がない。あれも出来ていない。これも出来ていない。出来ていないことが多い、どんどん増えていくように思われるのです。その一方罪の償いのために、しなければならないことがありました。人々は疲れ果てていたのではないでしょうか。

主イエスは権威ある者としてお語りになりました。主イエスは、律法学者のような経歴も無く、人から教えられて学んだのではなかったでしょう。それだけに、人々は驚きが大きかったこともあったでしょう。しかし、主イエスの権威は人からのものではなかった。それは天から与えられた権威であったのです。だからこそ、人々は主の御言葉に計り知れない威厳を感じたのであります。その御言葉は神の国が近づいたことを人々に告げ知らせるものでありました。すなわち、人間の側から何かをして、手柄を立て、点数を稼ぎ、積み上げて神の国を目指して這い上がって行くのではない。神の国が近づいたのは、神の方から恵みをもって近づいてくださるからに他なりません。

預言者イザヤが何百年も前に告げ知らせた御言葉を今日は読みました。9章5節。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」それは幼子誕生の預言です。そしてイザヤは、幼子キリストがやがて果たすべき職務について、この預言を信じる者に告げ知らせるのです。「驚くべき指導者」と。驚くべきとは、素晴らしいという意味です。「指導者Counselor」と呼んでいるのは、キリストがあらゆる角度から見て最高の完全な教師であるからです。

私たちの救いに必要なすべてのことは、このようにしてキリストよって道が開かれました。そのことを、キリストは人々に親しく教えられたのでありました。権威ある者として教えられたのですが、しかし同時に親しみをもって身近に教えられました。それはキリストが弟子たちを僕と呼ばず、友人と呼んでいる親しさなのです。ヨハネ福音書15章15節に主の御言葉を聞きましょう。(199上)「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」

幼子の名はまた、「力ある神」であるとイザヤは預言しました。人々は神を信じていると思いながらも、不安に揺らいでいました。それは昔も今も変わりありません。クリスマスが近づくこの時期、一度は行ってみたいベツレヘム生誕教会をはじめエルサレムは、クリスマスを祝う観光客でにぎわうはずですが、今年はただただ大きな戦争にならないことを祈るばかりです。何十年も前にパレスチナを訪れた友人からは、イスラム教徒が観光客にキリスト教徒の喜ぶ土産物を盛んに勧められたと言っていました。そのような平和な共存のためにこそ、私たちは力ある神を頼ります。「キリストは力ある神」と私たちが賛美するのは、この平和を実現してくださるキリストに全面的に頼っているからです。この方が全世界の主として執り成してくださる。キリストは私たち小さな者の日々の救いのためにも執り成しをして、大祭司の務めをも果たしておられます。これが、キリストが世に来てくださった第二の目的です。

また預言者イザヤは幼子を三つ目の名で呼びました。それは「永遠の父」です。父という名前は造り主を意味するものです。キリストは御自分をただ一度罪の犠牲、供え物として十字架に死なれました。そして三日目に復活され、御自分を信じる者を御自分の復活の命に結んでくださいました。こうしてキリストの体である教会を造られ、教会を世々限りなく保ってくださいます。だからこそ、主イエス・キリストは永遠の父と呼ばれているのであり、私たちは永遠の命であるこの方に心を高く挙げて生きるべきであります。

最後にキリストは「平和の君」と呼ばれています。私たちは戦争のない世界を一心に望んではおりますが、神の望まれる平和とは、戦争なしに世界を維持すること以上のものでしょう。平和とは、ヘブライ語では、繁栄prosperityを意味します。すなわち、すべての祝福のうちでも、よりよいもの、望ましいもの。それが平和なのであり、ただ争いがないという状態よりも豊かな内容を持っています。さらにその中に調和のある健全な姿を含んでいるというべきものではないでしょうか。

今、私たちの目には、世界中あまりにも平和がない、むしろますます争いと混乱と悲惨が増し加わって行くばかりのように見えるのではないでしょうか。しかし、それでもこの悩みに満ちた世界に、毎年クリスマスは巡って来ます。その度に私たちは祈り願わずにはいられません。平和の君がやがて完全な幸福の元となることを。または少なくとも平穏で祝福された平安の元となることを。キリストが私たちの世界に来てくださった目的の第三はそのことです。すなわち、キリストは王としての務めを果たすためにいらしたのです。

平和の君。それは、キリストが十字架に付けられる前、エルサレムに王として入城されたことでも知られることです。人を驚かせ、恐れさせるきらびやかな姿で軍隊によって先導されたこの世の権力者としての王ではなく、聖書の証しする平和の王としてキリストは来られました。その様子をマタイ福音書はイザヤの預言を引用して記しています。マタイ21章4節5節。(40上)「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前の所においでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

このように、イエス・キリストは三つの職務を果たすために世に来られました。それはすなわち預言者の務め、祭司の務め、王の務めであったのです。そしてその三つの働きはすべて、神に背いて敵となっていた人間が本来神に造られたとき持っていた姿、すなわち神の似姿を取り戻させるために、用いられたのです。

このような神のご意志に、私たちは私たちの理解をはるかに超える愛を知らされるのではないでしょうか。神のこの決意、この熱意こそ、本日読まれましたマルコ1章の21節以下に語られている権威なのです。その権威は神の権威、聖霊によって告げられた言葉となりました。それは人々を非常に驚かせました。そしてその権威はついにそのとき会衆の中にいた一人の男に叫び声を上げさせました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」

この人は汚れた霊に取りつかれた男と呼ばれています。どうしてそんなことが分かるのだろうか、と私たちは不思議に思いますが、汚れた霊、つまりサタンの力によって魂も身も心も強く押さえつけられているので、その話すこと、行うことすべてがサタンの思うままにされていると見做されていたのだと思います。よほど尋常でない言動をしていたから人々にそう言われたのでしょうが、神さまから御覧になれば、この男と他の人々とどれぐらい違いがあるのだろうかと疑問に思います。なぜなら、皆が神から遠ざかり、皆が神に従っていないとすれば、皆が神の敵であるサタンの近くにいるわけですから。

ところがこの汚れた霊に取りつかれていると言われる男は、他の人々とちがった行動に出ました。すなわちいきなり主イエスに向かって叫びました。「かまわないでくれ」と。サタンは、たとえ他の人々が知らなくても知っていました。キリストが神の聖者であることを。それを知っていても黙っていれば、他の人々には気づかれない。サタンには何の損害もないはずです。ところが、サタンはこの人を使ってわざわざ「あなたの正体は神の聖者だ」と言わせたのです。これはサタンの策略ではないでしょうか。

汚れた霊に取りつかれていると人々が思っている男の口から、主イエスを持ち上げる言葉を語らせる。そうすれば、あの男とナザレのイエスは知り合いだ、と印象を人々に与えるでしょう。何か深い関係があるのではないか。ひょっとしたら仲間なのではないか?という憶測さえ生まれるかもしれません。神の国を宣べ伝えようとされる主イエスを貶めるためにサタンは巧妙な手段を取っているのではないでしょうか。真に神の恵みから人々を遠ざけようとするサタンの策略は、実に底知れないことをわたしたちは知らなければなりません。

しかし、主イエスはお命じになります。「黙れ。この人から出て行け。」この命令はサタンに対するもの。サタンは神の権威に逆らうことはできません。そして汚れた霊に取りつかれている人に対しては、これは解放の言葉となりました。「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」からです。同じ出来事が記述されているルカ福音書では、「悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も追わせずに出て行った」のでした(ルカ4章35節)。サタンつまり悪霊によってこの人はさんざん苦しみました。この人とサタンは一体のように人々に見えていましたから、サタンを恐れる人々は当然この人を怖がっていたことでしょう。しかし、主イエスはおいでになり、御自分の前に姿を現わした悪霊を追い出して、この人を解放しました。

この人は人々の目に一目で分かるほど悪霊に取りつかれていましたが、罪の奴隷になっているのは、決してこの人ばかりではありません。人間のすべてが、神に従う道を見失っていたのです。何が良いのか、悪いのか、どれが正しい道なのか、そうでないのかさえ、しばしば分からなくなっているからこそ、この世界に多くの苦しみがあります。人は人を訴え、家族が親しい者が争い、憎み合い、殺し合う有様です。ましてや、遠い国と国の間に悪の応酬があり、真に無慈悲な戦争に発展するのは当然ではないでしょうか。

しかし、希望はイエス・キリストにあります。すっかりサタンの手先になってしまっていてどうにもならないこの男さえ、主の御前に叫んで救われました。真に主の御前に出ることがどんなに幸いなことであるか。この事を私たちは教えられました。なぜなら、キリストは神の権威を持って私たちを執り成してくださるからです。預言者の務め、祭司の務め、そして王の務めによって、私たちを罪から救ってくださることを知らされました。この救いに招かれてキリストの救いの木の枝に連なりましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。私たちは今日の礼拝で御子イエス・キリストの地上でのお働きについて教えを受けました。深く感謝いたします。悪霊に取りつかれた人が、自分では何もできなくなっているのに、ただ恵みによって罪から解放されました。ただキリストこそ、変らない希望であることを多くの若い人々に告げ知らせることができますように。私たちは何かできることによって救われるのではなく、ただただ、地上に来てくださった御子の働きの中に現れたあなたの尊い恵みと慈しみによって救われました。

どうかこのことをこの上ない喜びとし、感謝とし、今日この日から感謝と賛美の生活に入るよう、私たちを造り変えてください。そして、これから多くの重荷を負って生きて行こうとしている人々が、自分の働きによる救いではなく、イエスキリストの働きによる救いを信じ、身を委ねて、安らかに健やかに生きる者とされますように。

私たちの教会では、多くの方が高齢になり、健康に支障をきたすことが多くなりました。しかし、自由に何でも出来ていたとき以上に、あなたを思い、祈り、感謝して生きることの幸いを感じております。あなたの恵みを証しする生活を祝福して下さい。今、ご病気の方、入院されている方々を心に覚えます。どうかそれぞれの苦しみを取り去ってください。それぞれの困難を通して主の愛が新たに確信されますように。今週もクリスマスに向かう歩みを導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。