キリストは謙(へりくだ)って人となられた

聖書:イザヤ45章22-24節, フィリピの信徒への手紙2章6-11節

 今年もクリスマスを待ち望む待降節が始まりました。「神はその独り子を世にお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」これはヨハネ福音書3章16節の御言葉です。神の愛は、イエス・キリストにおいて世に表されました。神はキリストを世にお遣わしになり、神の御心を私たちにお知らせくださいました。そこでようやく私たちは自分の罪について考えることができるようになりました。すなわち、私たちは神に祝福されて神の形に造られたのに、神を求めることなく、神を離れ、神に背いて生きていたことに気付かされるのです。イエス・キリストはこのような人間、すべての罪人のために神の御前に身代わりとなって犠牲を捧げ、私たちの罪の執り成しをするために、地上に来てくださいました。

キリストは人間となられたので、私たちの目には人間としてしか見えなかったと思います。クリスマスの物語によれば、イエスさまの両親となるヨセフもマリアも平凡な貧しい人々で、生まれた赤ちゃんのイエスさまも、本当に貧しく無力な幼子にしか見えなかったことでしょう。それでは、人の目には人間としてしか見えないイエスさまは、本当にただ人間に過ぎなかったのでしょうか。いいえ、そうではありません。今日読まれたフィリピの信徒への手紙は、キリストが天から降って人となられたことを証ししています。この手紙を書いた使徒パウロは、フィリピ教会の信徒たちに、謙遜を身をもって実践するように勧めました。今日の少し前、2章3節、4節を読みます。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」

そしてこのような謙遜の例の最も優れたものとして、パウロはキリストの証しを指し示すのです。「キリストは、神の身分(形=フォーム)でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」神の身分というのは、神の形という意味です。神の尊厳をもっておられるということです。キリストは本来、神の身分、神の形であられました。イザヤ書45章で、主なる神は次のように断言しておられます。今日読んでいただいた45章22節。「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」ですから、神以外のだれも神の身分であるはずがないので、キリストは本来神と等しい方であります。そうでなければ、神から身分を奪い取ったことになってしまうからです。

本来神の身分であられたキリストは、その輝きをもって、地上に来てくださっても当然なのであります。私たちは神の形を表すもの、というのは何かが分らなくても、例えば、王の身分を表すものは何か、ということはよく分かるでしょう。王を表す形は、王冠とか、笏とか、また王の座る玉座であり、それによって、その人が王であることが分かるのであります。しかし、キリストはその身分、形や尊厳を捨てて、世に来てくださいました。「捨てて」というのは違うかもしれません。とにかく肉の姿を取られたとき、神の形の尊厳はその人間の姿のうちに隠されたのです。ですから人の目には普通の人と変るところは見えませんでした。

では、イエス・キリストはなぜそのようになさったのでしょうか。そこに神の愛が表さています。キリストが自分を無にされたのは、一重に人間の救いのためであったのです。キリストは外見では神と等しいものとしての形を現さず、また、人々の前では目に見えて現れるべき神の形があからさまには見えなかったのですが、それでも、神はわたしたちにご自分をお示しになりました。なぜなら、神のご性質は何よりもその恵み深さにおいて知られるからです。キリストは貧しい世にあって、貧しい人々に福音をお語りになり、恵みの言葉と共に、人の知恵と力では助けることのできない病気を癒し、悪霊の力から人々を自由にして下さいました。このようにご自分の本来持っておられる輝かしいお姿を捨て、御自分を無に等しい者にして世に来てくださったからこそ、私たちの空しい人生に光が輝いたのです。神に従う者、神の僕としていらしてくださった、その目的は、人間の救いのために仕える僕となることでした。

神と人に仕える僕となられたキリストは、世に降って来られたこと自体、すでに大きな謙遜を示されました。しかしそればかりではありません。キリストは本来、神と等しいもの、不滅のご存在であったのです。そればかりでなく、神と等しいからには命をも、死をも御支配なさる主でもあられるのです。それなのに、キリストは十字架の死を耐え忍ぶまで、従順でした。そこまで、父なる神に従順の限りを尽くされました。キリストはいわば極限の無となられたのです。このようにキリストは死んで、人間の目から見て屈辱であったばかりでなく、神の呪いとなられました。これは確かに私たちの想像を絶する謙遜の手本であります。

私の記憶では半世紀も前の時代までは、謙遜とか、謙譲とかいうことが高い徳目の一つとされていたと思います。その証拠には、男の人の名前にも謙さんとか譲さんという名前の人がよくいました。しかし、人間社会全体で考えるならば、へりくだる、自分を低くする、ということが勧められているにも拘わらず、人々は人より低くされることを嫌うのが常であります。絶えず人と見比べ、自分の方が本当は上だと思う。そして、人前で自分を人よりも大きく優れたもののように見せることに心血を注ぐようなことが起こっているのであります。

しかし、聖書はここに証ししています。人間の心が非常に嫌う無や謙遜は、キリストに在っては、極めて望ましいことであることを。なぜなら、キリストは非常に卑しむべき状態から、最高の高さに引き上げられたからであります。2章9節。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」だれでもキリストの福音を聞き、キリストに従って自分を低くする者は、キリストと共に高められるのです。聖書はこのようにしてキリストの死の中に、神の純粋な恵みを見るようにと、私たちを招いておられます。キリストの死によって私たちがどのような利益を恵みとして受けたことかを知らせるのです。私たちの救いがたい現実に、キリストは御自分を忘れて私たちの救いのために御自分とその命を捧げてくださいました。その計り知れない愛を見上げましょう。その愛を味わい、愛について考え、知る者となりますように。

キリストは謙って人となられました。私たちはこれによって贖われ、神と和解し、神の形を回復していただき、不信仰の罪が清められ、神の永遠の命に至る門が開かれたのですから。神はキリストに「あらゆる名にまさる名を与えられた」と述べられています。名はその持ち主の尊厳を表します。キリストは地上のすべての人々の救いのために執り成す務めを果たされます。すなわち、私たちはイエス・キリストのお名前によって祈ることが許されるばかりでなく、求められているのです。神はこの名によって福音が宣べ伝えられ、真の礼拝が全世界にわたって捧げられることを求めておられます。

「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」また、今日読まれたイザヤ書45章にもこう告げられています。23-24節。「わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみ、すべての舌は誓いを立て、恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。」これは公の礼拝での信仰の告白を表しています。真の神は御自身の名を決して他のものには与えられません。従って、この方から遣わされ、真の人となられたイエス・キリストも、真の神であられるのです。教会が受け継いで来た信仰は父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神の三つの名で呼ばれる一人なる神、三位一体の神に対する信仰です。

2017年は、1517年に開始されたルターの宗教改革に象徴される宗教改革運動から500周年ということを謳って多くの記念行事が超教派で行われて来ました。宗教と名を付けられたものについて一般的に寛容な社会が進んできたのですが、一方では、世界に非常に過激な宗教弾圧があります。その中で真の神を尋ね求める私たちは、真の救いが全世界の人々に告げ知らせられることを願うものです。神の御心を尋ね求め、その計り知れない愛を見い出す者は、数多くないというのは、イエス・キリストのお言葉であります(マタイ7:13-14)。そして、宗教改革者自身の言葉でもあります。私たちはクリスチャン人口が少ないことを嘆くことよりも、しなければならないことがあります。それは、まず自分が真心を込めてイエス・キリストによっていただいた福音を信じ、公に信仰を告白して、神の栄光を表す者とさせていただけるよう、自分のために、また教会に連なるすべての者のために祈ることではないでしょうか。

地上で教会につながっていることは、本当にありがたいことです。現実に主の助け、聖霊の導きを悟ること、感謝することができるのは、この現実に地上に建っている教会を通してであるからです。先日も他教会員の方と電話で話し合いました。最近、ガンの末期でホスピスで過ごされていた御夫君が地上の生涯を終えられたとのこと。介護の日々を主が守ってくださり、最期まで安らかであったことを伺い、主に感謝しました。いつも真の神を信頼し、この神のみに祈り、わき目もふらず一心に助けを求め、感謝と賛美を捧げることを忘れない。このことこそは、神の喜ばれることであり、神は御自分だけを見上げ、偶像のようなものを一切求めない人を、決してお見捨てにならないことを、互いに確認して私はその方と喜び合いました。

教会はこのような証しを受け、また他に与えて生きています。目に見えて礼拝を守る人々が多く集まることは、どの教会の願いでもありますが、一方、目に見えて教会に足を運ぶことのできない人々は日毎に多くなっております。その結果、私たちの目には隠されてしまうことが多くなるのですが、それは主の恵みから遠ざかることでは決してないのです。神はわたしたちの思いをはるかに超える方。思いをはるかに超えて、その愛をお示しになられる方であることをわたしたちは知らされています。

礼拝を守れる時には礼拝から離れてしまうことがある私たち。そして礼拝を守りたくても守れないことがある私たちです。主はこの両方をご存じです。そして今、一番弱さを感じている人々の叫びを聞いてくださっている。その時に真の神を、イエス・キリストの謙りに表された真の神を信じて、この方のみを真心から呼び求める人々に、神は応えてくださいます。しかし、だれがこの神を呼び求めるでしょう。若い時に、元気な時に、福音を聞いたからこそできるのです。この神の愛を知ることができたからこそ、神に心を向けることができるのです。使徒パウロが次のように述べるとおりです。ローマの信徒への手紙10章14節。(288)「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」だからこそ、この福音を誰もが聞くことができるために、教会を建てて参りましょう。祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま

待降節の礼拝を感謝し、尊き御名を賛美します。あなたは私たちの祈りを聞き給い、あなたに背いている生活を打ち破り、悔い改めの道を日々開いてくださいました。今日の御言葉を聴き、改めてあなたの御子イエス・キリストの御業を思い感謝をささげます。私たちは主の犠牲によって救われ、御前に立つ者とされました。どうか謙って主の心を心とし、主の愛と栄光を表す者になるように、私たちを作り変えてください。私たちの狭い心、低い望みを変えられて、あなたの愛を証しする者となりますように。

クリスマスに向かう今週の歩みを整え、備えさせてください。心からの感謝をささげることができるように。どうか主の愛がこの教会において証しされ、東日本の地域教会と共に主の体を形成するために心を一つにすることが出来ますように。また地方で孤立と困難のうちにある教会を特に覚えます。主の聖霊の助けが豊かにございますように。

私たちの教会のうちにある困難はもちろん、教会の家族、職場、学校の中にある様々な労苦を覚えます。この社会の隅々にまで、恵みの主の御支配を祈り願います。

今日の教会学校から今に至るまで、このように豊かな恵みを感謝いたします。成宗教会長老会、ナオミ会の働に祝福をお与えください。クリスマスの行事をはじめ、すべての教会の計画が、新しい時代の福音伝道に向けて整えられますように。

この感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

貧しい人に良い知らせを

聖書:イザヤ61章1-4節, ヘブライ人への手紙4章14-16節

 先週11月19日の主の日には、今村裕三先生ご夫妻がカンボジアから日本に一時帰国されている機会に、4年ぶりに成宗教会を訪れて下さり、礼拝説教と宣教報告会のご奉仕をいただきました。真に感謝でした。

この日、出席された方々はいろいろなことに心打たれたことと思いますが、私には、この教会の牧師として、責任者として特に印象に残ったことが一つあります。それは今村裕三先生が、説教の中で「日本の教会について心配していることは、今、伝道について内向きになって来ているように感じられること」と仰ったことです。このお言葉を聞いた直後は、私は「それは致し方ないことではないか。これだけ高齢化、少子化が進んでいる中で、私たちはそれぞれの教会がどうしたら次世代に教会を残していくことができるか、という問題に集中しない訳には行かないのだから」と感じていました。

しかし、今村先生は使徒言行録の中で福音がどのように伝えられて行ったか、を説き明かされました。新約聖書の時代にも国々がローマ帝国の支配を受け、平和な時には交易が進み、戦乱の時には国を越えて人々が移り住んでいくことが当然であったのでした。主イエスを迫害して十字架にかけた人々は、主のご復活後に生まれた教会をも迫害しました。教会の人々は故郷を追われ、散り散りになって行きましたが。教会は人々と共に消えてなくなってしまったのではありませんでした。それどころか、散って行った先々で福音を告げ知らせたというのです。真にありえない不思議です。さらに、主は最も強力な迫害者のサウロを取って、最も強力な福音伝道者、使徒パウロに生まれ変わらせました。このように真にありえない奇跡が起こったのです。

私たちが常々思うことは、明日をも知れない時代を生きているということです。ずーっとここに住んで、ずーっと同じように生きて行こうと思っても何の保証もない。それは昔も今も変わりなくそうなのです。しかし、それにも拘わらず、主イエス・キリストの福音は宣べ伝えられて来ました。なぜなら、それは聖霊の神の働きそのものだからです。今村先生ご夫妻が所属する宣教団体の母体はイギリスの宣教師ハドソン・テーラーという人によって設立されました。イエス・キリストの福音を地の果てまでも伝えよ、という宣教命令は19世紀にも、人々の心を神の愛で満たし、動かして、想像を絶する困難を乗り越えさせ、福音は中国をはじめとするアジア諸国に届けられたのです。

想像を絶する困難というのは、パウロも手紙に書いていることですが、嵐や戦乱、盗賊の危険に遭う旅行、病気、そして多くの迫害で、命を落とす人々が後を絶たないことでした。そういう日々の危険の中で、それでも人々は福音を伝えようとするなら、これは聖霊の働き以外の何ものでもありません。使徒パウロは、そのことを「神の愛が私たちを駆り立てている」(Ⅱコリント5章14節)と証ししています。なぜなら、私たちが生きていて様々な喜びがあるとしても、神の愛を知ることよりも大きな喜びはないからです。主イエスは聖書の中で私たちに放蕩息子の例え話を聞かせてくださいました。天の父は、私たちが神に背を向けた生活を悔い改めて、御自分のもとに立ち帰る時を今か、今かと待っておられる。父の愛する子として、神のかたちに造られたものとしての命を回復させるために待っていてくださることを教えられました。

それだけではありません。天の父は私たちの中のもう一つの息子にも限りない忍耐を示しておられます。それは自分では父の傍にいて正しく生きている親孝行息子と思い込んでいるけれども、実際は父の真実の心を知らないもう一人の親不孝な子であります。罪の生活から悔い改めて立ち帰る兄弟に怒りを持つ、あるいは妬みを持つからです。このことは、全く天の父を悲しませる以外の何ものでもありません。しかしこのようにして、わたしたちが神に背いているにもかかわらず、神はなお私たちを愛していてくださる。この天の父の御心こそが、神の愛なのです。

では、神の愛はどのようにして私たちに明らかになったのでしょうか。それは主イエス・キリストを私たちの世界にお遣わしになられたことによって明らかになりました。来週からクリスマスを迎える待降節が始まります。キリストは神の子でありながら、小さな幼子として世に来られ、私たちと同じ人間として地上の生涯を送られました。しかし、神はその愛を世に知らせるために、世に遣わされたキリストに、二つの務めをお与えになりました。その一つは、神の御心を教えることです。キリストは、私たちには見ることも聞くこともできない天の父の御心を教えるために、二千年前、私たちの世界に見える姿で現れ、私たちが聴くことのできる言葉で語ってくださいました。主は言われました。「わたしを見た者は、父を見たのだ」と(ヨハネ14:9)。また言われました。「わたしが父のうちにおり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい」と(ヨハネ14:11)。

そして、キリストが世に来られた第二の目的は、今日読んでいただいたヘブライ人への手紙の御言葉です。4章14節にこう書かれています。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。」主イエスは、ここで大祭司と呼ばれています。祭司の務めは神と人との間に立って執り成す務めであります。

神はキリストに二つの務めを与え給うたと申しました。それは、すなわち教える務めと執り成す務めです。この二つの務めは、どちらも私たちを天の父に近づけるためなのです。つまり、キリストはまず私たちに救いの教えを与え、御自分に従って(信じて、信頼してということと同じです)来るように招いておられるのです。あなたがキリストに従う者となるならば、そのとき初めてキリストは祭司として執り成す者として、神とあなたの間に立ってくださるのですから。

神の御前に立つということを、わたしたちは、また世の人々はどれだけ考えることがあるでしょうか。神は全知全能の神として、私たちのすべてを知っておられる、ということを真面目に考えるならば、私たちの誰もが恐れずにはいられないでしょう。旧約聖書でも預言者イザヤは神の栄光を見た時、次のように告白しております。イザヤ6:5(1069下)「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇のもの。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」しかし、私たちのために神の御前に立って執り成しをしてくださる方がおられる。イエス・キリストがその方であります。大祭司としてのキリストの務めを信頼することほど、幸いなことはありません。

聖書には、イスラエルの民の中で祭司の務めを果たすレビ族のことが書かれています。彼らは私たちと同じ人間に過ぎませんが、しかしレビ族の中から人が立てられ、祭司の務めに当たります。祭司は人間として、神と人の間に立ち、人々のために神に祈りを捧げました。ですから祭司は人間であることが重要でありました。そのためにも、神は御子を人間として生まれさせ、キリストは私たちと同じ肉体の姿、人間の性質をお持ちになられたのです。それはすべて、私たちのために取り成しの務めを果たされるためなのです。

キリストはこのようにわたしたちと同じ体のご性質を持たれた真の人であります。しかし同時に神の子であられるということ。これは、人間として執り成してくださると同時に神の力を持って執り成してくださるということなのです。私たちはこのことを真剣に受け止めなければなりません。ただの人間の執り成しに過ぎないとするならば、その執り成しはどのような力があるでしょうか。しかし一方、神の御子が執り成してくださるならば、私たちの全存在の一切を引き受けて救うために、ただ一度だけ十字架にかかり、罪の犠牲としてその命を捧げてくださったということなのです。その働きは絶大なものです。

この事を信じるか、信じないか。この信仰が改めて問われているのです。信じて洗礼を受けた者たちは、すでに公に信仰を言い表しました。洗礼は、一度限りの主の十字架の死と復活に対する、私たち一人一人のただ一度限りの応答なのです。ですから、本日のヘブライ人の手紙は私たちに呼びかけます。既に公に信仰を表したのならば、その信仰をしっかり保とうではありませんか!と。神の愛が私たちに迫って来た。私たちはその愛に応えた。それならば、何よりも大切なのは、私たちが神の愛を確信して生きることです。

神の子イエスは世に来て大祭司となってくださいました。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」神の栄光を表すキリストの御前に、私たちは恐れを抱くしかないものでありますが、真に感謝なことに、福音を信じる私たちは罪赦されて神の子とされ、キリストの兄弟とされました。キリストはその恵みを私たちに与えるために、私たちの弱さをもって試練に遭ってくださったのです。わたしたちの弱さに共感をもってくださることが目的でありました。ヘブライ人への手紙2:17に次のように言われた通りです。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての天で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」

ここで言われる弱さとは、イザヤ書61章1節に言われているあらゆる貧しさを表します。すなわち、貧困や外的な悲惨だけではなく、それらと共に、恐れ、悲しみ、死の恐怖、その他の心の諸々の動きを指しています。貧困、病気、その他の、私たちの外側にあるものはそれ自体が罪ではありません。しかし罪に近づく弱さは、人の心に湧き起こる様々な動きであります。人間はその弱さのゆえに、そうした心の動きに捕えられ支配されてしまうのです。キリストは、私たちの肉も心の動きもご自分の身につけ、その経験自体から教えられて、悩む者を助けてくださいました。しかし、このような手ほどきが御子に必要だったのではないのです。そうではなくて、私たちの救いのための御子のご配慮を、私たちは他の方法では理解することができないからなのです。

このように、キリストは人間の弱さを引き受けられた方です。進んでそれを引き受け、それらと戦おうとされたのです。それは単に私たちのために弱さに勝つためだけではない。私たちが自分の弱さを体験するときいつも、主が私たちの傍におられることを確信するためであります。ですから、宗教改革者も私たちに勧めます。「私たちは肉の弱さの元で苦しみあえぐときいつも、神の御子が同じ苦しみを経験し、感得されたのだということを覚えよう。御子がそうされたのは、その力と権能によって私たちを立ち上がらせ、そうして苦しみに私たちが押しつぶされないためである」と。16節。

「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」このように神はイエス・キリストを執り成す者としてお立てになり、この方の名によって御許に近づく者を招いておられるのです。私たちに求められていることはただ一つ。恐れず神に近づきましょう。この方の執り成しによって神の愛は明らかにされたのですから大祭司イエス・キリストの御名によって神に祈りましょう。必ず私たちに救いの約束を実現してくださる、という大きな確信、全き信頼をもって。神は天の御座に、御子イエス・キリストによって新たな旗印を掲げてくださいました。それは、私たちに対する恵み、父なる神の愛という旗印なのです。

最後に「時宜に適った助け」とは何かについて申し述べます。それは、「私たちの救いに必要なすべてのことを得ようとするならば」という意味なのです。「時宜にかなった助け」とは、神がわたしたちを招いておられる恵みの時のことですから、「いつの日か」とか「そのうちに」とかいうことではなく、正に今、「今日」のことです。「今日、福音を聞いたなら、今日、恵みの神に近づきなさい」とキリストは招いておられます。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

終末主日の礼拝を感謝し、尊き御名を賛美いたします。あなたは御子イエス・キリストを地上に遣わして、御自身の御旨をお知らせくださり、私たちが悔い改めて神の子とされる救いの道を開いてくださいました。

10月に続き、11月も行事に恵まれたことを感謝します。私たちは小さな群れですが、あなたは私たちをお用いくださり、福音の恵みを世に表してくださいました。先週の礼拝において、あなたの大きな働きを証ししてくださった今村先生の派遣を感謝いたします。どうか先生ご夫妻が健康を与えられ、善き働きが続けられるように道を整えてください。

今日はクリスマスの準備を始め、来週から待降節を迎えます。どうか心を一つにして準備をなし、2017年のクリスマスを迎えることができますように。何よりも私たちの心をあなたに向けて清め、悔い改めと感謝で満たしてください。私たちが謙って主の御姿を仰ぎ望み、ただ主の救いの恵みによってのみ、生き、福音を世に伝える者とされますように。

また、この教会のうちに、連合長老会、全国全世界の教会のうちに、主の福音に聞き悔い改めて主に従う者を起こし、キリストの命に結んでくださいますように祈ります。来週は成宗教会の長老会議が開かれます。この教会に進むべき道を示し、また教会を建てるために働く者を与えてください。いろいろなご事情で教会に来られない方々を、その働く場で、また休む場で、お恵みください。若い方々を祝し進むべき道を与えてください。ご病気や試練に遭っている兄弟姉妹やそのご家族を憐れみ、その困難から救い出してください。また、今日の御言葉に従い、私たち自身、あなたの恵みを確信して恐れず大胆に祈る者となり、多くの人々の救いのために執り成す務めを担う者となりますように。あなたの広い御心、深い愛の御旨を信じて、すべてのことを御手に委ねます。

この感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

送り出す教会

説教要旨

牧師:今村裕三 師

聖書:使徒13章1節から3節

この聖書箇所はパウロたちを宣教師として送り出すアンテオケ教会の姿が描かれています。アンテオケ教会は世界宣教に大きな貢献をした教会です。そのお陰で私たちにも福音が届けられたと言っても過言ではないでしょう。

 

1.アンテオケ教会の姿(1節)

(1) アンテオケ教会のはじまり(使徒11章19節から26節)

非ユダヤ人による宣教から始まり、多くの非ユダヤ人が救われた教会。

(2) 多国籍・多民族の国際的な教会であった。

人種や文化、生活背景が違う人たちの集まりでしたが、その多様性の中に一致を持っていました。

 

2.宣教は神の働きである。(2節)

(1) 主の御心を見極めること。

世界宣教は神様の働きであり、その働きに参加していくことが御心と見極める。「本当に、このことが神の私たちの教会への御心であるか?」

(2) 神様の召しに教会は従うか? 御霊による一致。

御霊の一致により教会の5人のリーダーうちの2人を気前よく世界宣教のために送り出しました。御心に従っていった姿。人間的な知恵や方策によらない御霊による一致は大きな信仰と力を教会に与えます。

 

3.教会の働きとしての宣教師派遣(3節)

パウロとバルナバを教会から按手を持って送り出すことで、教会の働きとして神様の働きに加わっていきました。

 

◎ 振り返りの質問

1.皆さんの教会で、もし多様性のなかの一致を妨げているものがあるとするとそれは何でしょうか?

2.神様の宣教の働きにこれからどのように関わっていきたいですか?2018年の具体的な計画を立ててください。(例)祈る、外国語を学ぶ、宣教地訪問をする、献金を捧げるなど。

3.私たちが神様の働きのために気前よくなれない原因は何でしょうか?

放蕩息子と孝行息子

聖書:申命記7章6-7節, ルカによる福音書15章11-32節

 教会が告白してきました救い主、主イエスは、多くの例え話を語ってくださいました。ルカ15章の放蕩息子の話はその一つですが、15章にはその前にも、失われた羊の例え話、また無くした銀貨を探す話が収録されています。それらは皆、一つのテーマ、目的をもって語られています。そのテーマは、15章7節で主が語られておられます。「言っておくが、このように悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

全世界の教会が代々に言い表している信仰は、人間は皆、神から離れ、神に背を向けている罪人であるということです。しかし、実際には自分の罪を知らない、自分は人ではないと思う人々がおり、確かにこの世の法律から見れば、法を守っている人と、法を犯して犯罪者となる人との間には大きな隔たりと区別があります。しかし、教会が告白している信仰は、人と人との間のことを語る前に、人は神に対して背いたために恵みを受けられない状態を人自らが作り出している、ということなのです。

そこで、そういう人間を(つまり人々の目には互いに、あの人はひどい人だという、この人は素晴らしいと言う、比較をして裁いている訳ですが、実は皆、神に背いている罪人である人間をです)、神さまはどのように思われているのか、ということです。神さまはお姿が見えず、わたしたちの尺度で、推し量ることもできない方です。しかし、そこに主イエスが地上に来られた目的がありました。主イエスはヨハネ福音書でこう言われました。(ヨハネ5:19ー20)「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることは何でも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。」

すなわち、神さまは主イエスをわたしたちの所にお遣わしになり、その言葉と御業によって、神さまの御心、御旨をお知らせくださっているのです。その御心とは、「わたしたちが皆、神さまに背いていたにもかかわらず、神さまはなお私たちを愛していてくださる」という、信じがたいこと。これが神さまの御心なのです。主イエスが人々に今日の例え話を話されたのも、そのために他なりません。ですから、この話を聞いて、自分の親と自分との関係などを思い返すのは筋違いでありましょう。神さまと人間の関係を、この目に見えない、従って多くの人々には想像することもできない関係、むしろ想像なんかしようとも思わなかった関係を描き出すために、主イエスは神を父親に例えておられるのです。

本当に神さまを父親として持っていると考えるなら、父の財産は無限というより他はないはずです。ただ、わたしたちは自分に今与えられているものを数えると、いかにも少ししかない、そして自分がもらえるはずのものも限られている、と思うばかりであります。そこでとにかく漠然と父の財産をいくらあるのかと想像し、将来はもらえると想像するだけで、満足することができればよいのですが、弟息子は、そうおおらかに安らかに思うことができませんでした。それはとにかく父の許を離れたいという希望があるからです。父のことを頭にのしかかった重荷のように感じているので、とにかく父のちの字も感じないような遠くに離れたい、そこで好きなように自分のしたいことをして暮らしたい、と思ったのでした。

夜逃げ、駆け落ち、というのは個人的には昔からあります。出エジプトの物語でも、集団大脱走です。脱出して自由になりたい、ということです。しかし、同じ逃げ去ることに天国と地獄の違いがあります。父の許を逃げ去るということは、エジプトの王の奴隷状態から逃げ去ることだったのでしょうか。それとも、天の父なる神さまから逃げ去ることだったのでしょうか。その答は逃げて自由になった結果を見れば分かるでしょう。弟息子は自由になったと思ったとたん、放蕩の限りを尽くしました。そして何もかも使い果たしてしまいました。

この愚かで思慮の無い若者は神さまを信用できない、不信仰な人々の例えであります。せっかく神に豊かな持ち物で恵まれていたのに、神から離れて全く自由になるというありえない欲望を持った人々です。それは、まるであらゆる生き方の中で最も望ましいものは、父のような神さまの心遣いと御支配の下に生きないことであるかのようです。さて、それに対して神さまはどうなさったでしょうか。神さまである父は、この息子の行く先が必ず失敗であることを知っていました。わたしたちは親としても子としても愚かな者であって、行く末を知ることができませんが、主イエスが話された父は天の父です。

神さまを離れてしまっては立派に生きることができないとご存じでも、息子を引き止めることはなさらなかった。なぜでしょう。罪ある人間は本当に困り果てない限り、万事休すとならない限り、自分の間違いに気がつかない。それほど愚かであることを見ておられたのです。しかし、人間の愚かさ、罪がこの例え話のテーマではありません。そうではなくて、人が自分の愚かさに気付き、心から悔い改めるために立ち帰って来る。それを熱心に待ち望んでおられる天の父のお姿を、主イエスはお知らせくださっているのです。

父よ、わたしはあなたに罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありませんと謝罪を述べる子を赦そうと、今か今かと待っておられる。それが天の父なのだと。そして、息子を見つけると、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻してくださる。それが天の父なのだと。それだけではありません。子のこれまでの罪を赦すだけでなく、喜んで子を新たに支えようとしておられるのです。父は言います。「急いでいちばん良い服を持って来てこの子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と。

衣服は、それを身に付ける人の栄誉を表します。同様に指輪は権威を表します。そして、履物は、それを履いている者が、奴隷の子ではなく自由人であるのしるしでありました。奴隷は、はだしであって、自由人だけが靴を履いていたからです。こうして天の父は、わたしたちの罪の記憶を消し去ってくださり、我々から失われてしまっていた賜物を回復してくださるのです。神の憐れみがどのようなものであるかが、こうして示されました。そして、この物語の中で奇跡的に思うことは、この弟という罪人が自分で招いた困窮に苦しんでも、父の家に帰って、悔い改めの告白をするならば、父は赦してくださるという希望を持ったということではないでしょうか。ひどく背いていたと分かったとしても立ち帰るならば、必ず赦してくださるという希望を持たなければ、この人は決して惨めな姿で立ち帰って来ることはできなかったでしょう。罪人が自分を待っていてくださる天の父の憐れみを信じる。それは人間の能力を超えた信仰の賜物です。このことこそが、その人に注がれた恵みの第一歩なのではないでしょうか。

ところが、父親にはもう一人の息子、兄がいたと、主イエスはお語りになりました。いつも父の家に居て、家の仕事に勤しんでいた息子です。この兄は、いつも父の傍に居ながら、父の本当の心、すなわち子供たちに対する豊かな憐れみ、慈しみを、実は理解していませんでした。普段は忠実な者として天の父に仕えているようでも、罪人を憐れんでくださる父の御心は、全く分かっていなかった。放蕩息子が帰って来た時にそのことは実に赤裸々な感情として現れたのです。父は憐れんで、遠くから走り寄って「よくぞ、帰って来た、帰って来てくれた」と言って抱擁なさった。もうこれからは子ではなく奴隷の身分でも良いですから、と謙る弟の言葉に対して、直ちに父の息子としての身分と栄誉を回復させてくださったのです。

それを知った時、兄も喜ぶべきでした。父と共に暮らし、父の悲しみと喜びと痛みと慰めと、すべての根底にある天の父の偉大な善意とを一番理解しているはずではなかったでしょうか。何しろ、いつもそばにいて父に仕えていたのだから。ところがあろうことか、放蕩息子を失って以来悲しんでおられた天の父の喜びを見た時、思わず宴会を開こう、飲んだり食べたり、躍ったり、歌ったり、楽しもうではないか、と呼びかけている父を見た時、何とこの親孝行息子は激しく怒ったのでした。

この孝行息子とは、主イエスの時代のファリサイ派、また律法学者たちの例えでありましょう。しかし、この孝行息子はいつの時代にも、どこの地域にもいるでしょう。神殿にいて、教会にいて、日々神さまの御用に勤しんでいます。一方放蕩息子は非常に多く、神さまから遠ざかって生きることが、何よりの望みであると神さまを忘れて、自分の理想の実現に夢中になっています。ところが放蕩息子が困窮の末に悔い改めた時、孝行息子の怒りは爆発。彼の本心が暴露されてしまうのです。

放蕩息子の立ち帰りこそ、父にとって待ち望んだ喜びの時であったのに。父はしかし、この時、新たな慈しみをお示しになりました。それは、放蕩息子に注がれたのに優るとも劣らない慈しみであります。救い主キリストは、罪人を探し求めて救うために地上にいらしてくださいましたが、ファリサイ派、また律法学者たちは、そのことを快く思わなかったのです。しかしながら、父なる神さまは、この人々に対しても、父の心から離れ去った者、失われた者として、彼らを捜しに、家から出て来られる方なのです。

そして父は何をなさったのでしょうか。表向きの孝行息子の不平不満を聞いてやるほど忍耐してくださったのです。自分はいかに親孝行をして来たか、と神さまに自画自賛を並べるこの傲慢な態度を御覧ください。兄の息子は偉そうに言います。自分は「未だかって一度も背いたことはない」と。弟は父の御前に罪の告白をしました。それに対して兄の告白は「未だかって一度も背いたことはない」です。この傲慢こそ、神の戒めの最大のものに背いている証拠ではないでしょうか。天の父の戒め、それは愛の戒めであります。

申命記でモーセが民に証ししていることは、「あなたがたが神に選ばれたのは、数が多かったからでもなく、力があったからでも、豊かであったからでもない」ということです。むしろ他のどの人々よりも貧弱であったのだと。それでも主は心引かれてあなたがたを選ばれ、御自分の宝とされた、と。それはただ主の愛のゆえにそうされたのだ、と。わたしたちがもしこの方を天の父と呼ぶことが許されるとしたら、本当に謙って、ひれ伏して、喜んで、そう呼ばせていただくより他はありません。そして、この父の思いを知らせていただくならば、隣人を自分のように愛しなさい、という戒めを押しいただいて生きる者とされるでしょう。どうやら、自称親孝行息子はその戒めのことは全く知らなかったようであります。

この兄の方もまた、父をひどく悲しませている親不孝者であったのでした。しかし、父はこの、弟とは真逆のことを行う息子に対しても優しく忍耐強く「子よ」と呼びかけておられます。この天の父の御姿。優しさが深まれば深まる程、その御姿は自分の正しさを主張するあまり、弟を弟と呼ぶのも腹立たしい、父を父と呼ぶのも忌々しくなっていく兄の息子の罪の姿と対照的に際立っています。

これは放蕩息子の物語ではありません。放蕩息子の兄、自称孝行息子の物語でもあります。しかし、イエス・キリストの例え話によって、神さまがお知らせくださっているのは、人間の罪がいかに深いか、ということなのでもないのです。このように神さまを無視して生きようとする放蕩息子に対しても、神さまの傍にいて正しく生きているように見えながら、その心が神さまから遠く遠く離れて傲慢に生きている自称孝行息子に対しても、神さまは忍耐の限りを尽くして、悔い改めを待ち望んでおられる。その豊かな、深い神の愛、慈しみをほめたたえている。

この善い知らせをイエス・キリストはわたしたちにくださいました。そしてキリストはわたしたちが悔い改めて神に立ち帰るために道を開いてくださったのです。最も望ましい生き方を教会は提示致します。それは神がこのような方であることを知り、イエス・キリストを信じて神の子とされ、神を離れず、神の御支配の下に、神の子に対しての子のようなご配慮の下に生きることです。祈ります。

 

主なる父なる神さま

尊き救いの御名を賛美します。あなたはイエス・キリストの御言葉によって、尊き御旨を表してくださいました。わたしたちは真に心狭く、自分の物差しで兄弟姉妹を測り、あなた様の御心さえ、推し量ろうとする愚かで惨めな者です。しかし、このような罪にもかかわらず、あなたの慈しみは深く、御旨は天を超えて高く、正しい者も、正しくない者も、賢い者も、今日の放蕩息子のように後先を考えない愚かな者さえも、救いに入れようと待ち構えておられます。

本当に驚くべき恵みによってわたしたちの教会をも今日まで守り導いてくださいました。わたしたちは過去の方々に与えられた慈しみを思い起こすことで、また新たな道が開かれていることを感謝します。永眠者記念の聖餐礼拝も捧げることができました。来週は今村宣教師ご夫妻をお招きして、伝道礼拝と宣教報告会を計画しております。主よ、今村先生ご夫妻のお働きを祝して下さい。どうか小さな群れに知恵と力をお与えになり、あなたにお仕えし、福音を聞くことの喜び、伝えることの喜びを教えてください。わたしたちは家族、友人を招くことに消極的になりがちな時代、社会におります。しかし、わたしたちが目を使い、耳を使い、手足を使って人々をあなたの恵みにお招きするために、あなたが聖霊によって力をお与え下さいますように祈ります。

そして、どうぞこの教会を東日本連合長老会、また全国連合長老会と共に励まし合い、協力し合って教会を建てる務めへと励ましてください。今、ご高齢やご病気のため、いろいろな事情のため礼拝を守ることのできない方々に特別なお支えを祈ります。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

人は神を忘れるけれども

永眠者記念礼拝説教

聖書: 創世記4章1-16節, マタイ27章15-26節

 成宗教会は本日の礼拝を、永眠者記念礼拝として守ります。写真の大きさで区別しているのではありませんが、1940年にこの教会が創立されて以来、この教会に仕えて地上の生涯を終えた教職の方々の姿を、私たちは大きな写真によって思い出しております。太平洋戦争の起こる前から始まった集会です。欧米の宗教であると敵視された時代も、戦後のキリスト教ブームの時代も経験しました。そしてまた人々が物質的に豊かになり、心の豊かさを求めなくなり、魂が飢え渇いて行く時代をも経験してきました。

ここに写真によって見ることができる方々は、そういう時代を経験したのでした。そういう激動の時代を生きて、福音に出会った方々。そして福音から遠ざからなかった方々です。教会にとどまり、教会の主であるイエス・キリストを仰いで、生涯を終えた方々です。

福音とは、イエス・キリストがわたしたちの罪の身代わりとなって死んでくださったことです。私たちの身代わりであるということは、わたしたちはもう罪は問われない。罪赦されたということに他なりません。罪人にとってこれより良い知らせがあるでしょうか。イエス・キリストは御復活され、わたしたちのために成し遂げた救いの御業を、全世界の人々に告げ知らせるために、信じる者を世に遣わし、福音を宣べ伝えさせてくださいました。キリストは天に昇り、今もわたしたちの祈りを聞き上げて、主なる父なる神様に私たちを執り成して下さいます。私たちの日々の過ち、小さな罪から大きな罪まで、わたしたちの救いの妨げになるものを、取り除いてくださるのです。

この福音を信じて教会にいるということは、どんなに計り知れない恵みであるであることでしょうか。私たちは、今、先に召された方々と兄弟姉妹とされています。それは主イエスを信じて神の子とされ、主の兄弟姉妹とされているからです。しかし、わたしたちの内には、先に召された方々と血縁の関係、または姻戚関係の子孫もいることでしょう。そのような方々は、特別な恵みを受けている喜ばしい方々です。わたしたちは家族を看取り、見送り、神さまの御許に召されるために、できるだけのことをすることができますが、しかし、わたしたち自身についてはどうなるのか、自分で決めた通りにできるという保証はありません。私たちがそれぞれ、召される日まで歩み、生涯を安らかに全うすることができるのは、一重に家族、隣人、社会の人々の誠実さによって支えられてのことなのです。そのために、わたしたち自身が主の御前に誠実に立ち、人々を執り成して祈り続けることがどんなに必要であることでしょうか。

今日読まれました創世記4章はカインとアベルの物語。彼らはアダムとエバの最初の子らです。最初の人アダムは神に禁止された実を食べた結果、神との隔てない交わりを避けるようになりました。すなわち、罪とは人が神に背を向ける。呼びかけに答えない、ということです。出来れば神を忘れて好きなように暮らしたい、ということであります。

そのような罪に陥った二人は楽園から追放され、苦しんで働き、苦しんで子を産むことになりました。それでも彼らは神から子孫を与えられたと言って感謝しました。神は背いた人を滅ぼさなかったのです。そして彼らは息子たちに教えたのでしょう。カインとアベルは成人してそれぞれ働きの成果、収穫を手にしたとき、神に献げ物をしたのでありました。すなわち収穫感謝の礼拝です。感謝を捧げることは、「わたしたちが受けているものは皆あなたからいただいたものです」と告白するその言葉を形に表すことです。

ところが聖書は、「主はアベルとその献げ物には目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」と語ります。人は見た目でいろいろと評価しますが、神は人の心を見る方です。献げ物を捧げるアベルとカインの心を見ておられたのです。主イエスは礼拝についてヨハネ福音書でこのように語られました。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:24…170上)「霊と真理をもって」とは、「心から」、「真心を込めて」、「誠実の限りを尽くして」、という意味です。また、ヘブライ人への手紙の記者はアベルについて次のように述べました。「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」(ヘブライ11:4…414下)

そうすると、神に目を留められなかったカインの方は、献げ物に問題があったというより(そういうところにも表れたのかもしれませんが)、彼の、神に献げる態度に問題があったと考えなければならないでしょう。形式的にはいかにも整って立派な礼拝を捧げているようであっても、その心を神は問うておられます。すなわち、礼拝者が神を畏れ、喜んで神に従う心をもっているのかどうかです。世に偽りの礼拝というものは後を絶ちません。それは、表向き神を敬っているように見えながら、心の中では神を侮り、何とか宥めすかして、自分の思いどおりに神を動かそうとするのです。

カインの献げ物は正にそのようなものであったのでしょう。ところが、彼は自分の心の罪に気がつかない。従って自分を反省するどころではありません。神に対して激しい怒りを発するのでした。神は不公平だ、自分は不当な扱いを受けている!と。常日頃、真の神を尋ね求めることをせず、まして聞き従おうなどとは夢にも思わず、全く神を無視して生きているのに、何か悪いことが起こると、神などあるものか、神はひどい!と罵詈雑言の数々を並べたてる人々がいます。彼らは自分を顧みず、間違いに気がつかず、悔い改めからは程遠いのであります。

恐ろしいのはその次です。そういう人々は神に対する怒りを、隣人にぶつける。罪もない隣人に猛烈に当たり散らすのです。その結果であるアベルの死は人間が神から離れることの恐ろしい結末を表します。もし、わたしたちにこの世界のことしか希望がないならば、アベルのように悪の犠牲となる人々に慰めは全くないことになるでしょう。

それでも神はカインがしたように、カインを不意に襲って滅ぼすなどということはされませんでした。カインは神を忘れ、神を無視して行動しました。しかし、神はそうではありません。カインを思い、カインの心に語り掛けます。「お前の弟アベルはどこにいるのか。」カインは答えます。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」恐ろしい居直りであります。まるで「わたしは弟を守るように頼まれたことはない。だから殺そうが何をしようが構わないでしょう」と言わぬばかりです。そう口答えしながらも、彼は気がついて行きます。これは人と人との問題ではない。自分と神との問題なのだと。神が言われたひと言、「お前の弟の血が土の中から叫ぶ」この一言によって、神は彼のしたことを赤裸々に示し、その犯罪の恐ろしさを強調し給うたのです。

神と争って神から離れて生きようとする者の至る不幸な結末がここに示されました。彼は地上を放浪する者となりました。神を信頼せず、神を離れ、神を忘れて勝手に生きたいのですから、自分の都合で生きるより他はありません。聖書は、それでも神はカインが殺されないように守ってくださったと語ります。ひどい犯罪、理不尽な殺人事件などが社会に後を絶ちません。裁判員裁判で裁かれると一般に量刑が重くなる傾向が報告されています。無理もないことで、素人の目にはこんなひどい人が平然と生きているとは許せない、という思いがあるでしょう。

しかし、神の思いは計り知れません。神はカインが犯罪者として打ち殺されないように、しるしをつけられたのでした。神から離れてさまよう人生。従って神の御許に安らう希望を持たない人生。彼のそのものが、神の厳しい裁きであったのでしょう。しかし、重ねて申しますが、神の思いは計りしれません。このような人の子孫にも救いの道が開かれたのです。私たちは今日、マタイ福音書27章を読みました。主イエスを十字架につけようとする人々は一体誰でしょう。私たちは皆、自分はカインのようではない、と思いたいのです。まして、世の人々は、自分は違うと言うことでしょう。

カインは形の上では、立派に献げ物を捧げて礼拝したように見えます。そして自分でもそうした、と信じています。主イエスを十字架につけようとした人々、そのために画策をした人々も同じではなかったでしょうか。彼らは表向き、神を礼拝していました。立派に献げ物を捧げ、人々から尊敬されていました。ところが心は神から遠く離れていました。救い主、メシアを待っている人々の指導者であったのに、実はメシアを待っていなかった。神の恵みが現れる時、自分たちの権威を捨て、神にひれ伏さなければならないことを知っていたからです。神が遠く離れていてくださる方が良い。神が遠くにおられるなら、自分たちが神に成り代わって権威ある支配者として人々の上に君臨出来たからです。

そのためには、今自分たちを属国として支配しているローマ帝国に対しても、お世辞を言い、うまく取り入り、宥めすかして、自分たちの要求を実現するために利用することもやってのける。本当に神を畏れ、神を礼拝することとは程遠い偽善がそこにありました。

ローマ帝国の役人であるポンテオ・ピラトは、この彼らの醜い企てを見抜いていました。彼らはメシア・イエスを十字架に付けるためには、犯罪者、殺人者であるバラバ・イエスを解放することを要求したのです。ここで起こった本末転倒は、人間の罪の深さを証しします。異邦人であるピラトが理不尽だと、できれば阻止したいと思ったこと。異邦人であるピラトの妻が夢によって(当時夢は神の啓示として重んじられた)義しい人と証言したことが、偽善の罪の深さを示しています。

しかし、だれも主イエスの十字架を止めることはできませんでした。弟子たちもできませんでした。だれもが主イエスに罪はないと知りながら妨げることはできなかったのです。それは、だれもが神の差し出された真心を受け止めることができなかった罪を表しています。そして同時に、だれもが阻止できなかった十字架の死こそ、わたしたちの罪を贖う尊い犠牲でありました。私たちはこの主の福音を受け入れて、教会を建てた方々と共に、主の罪の赦し、復活の体に結ばれています。今、わたしたちが永眠者として思い起こしている方々の多くは、戦争の時代、復興の時代、いろいろな時代を生きて、教会にとどまっていました。それは主の霊がわたしたちと共にいらしてくださったからです。

人間は、神の被造物として造られ、神に似たもの、神のかたちとして造られました。善いものとして、祝福されたものなのです。神さまが呼びかけ、人が応える関係、本当に親しく喜ばしい関係に生きるために、人は造られました。しかし、人は神さまから離れてしまいました。神さまのことを忘れてしまいました。神さまに背を向けて生きている結果は、人と比べ、人を妬み、人を憎み、孤独になりました。すべての人と人との善い関係は、本当は神との関係を回復すること無しには築けないのです。なぜなら、人が与えられている持ち物も、能力も、健康もすべては神から与えられているように、人との善い交わりも神から与えられるものだからです。

人は神を忘れ、神を無視して生きていようとも、神は人をお忘れにならず、イエス・キリストを救い主と信じて執り成される者の罪を赦してくださいます。罪人をお忘れにならず、罪から救ってくださる神をほめたたえましょう。祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。本日は地上での働きを終えて御許に召された成宗教会に連なる永眠者の方々を御前に覚えて、感謝の礼拝を捧げました。私たちは目の前の悩みに日々を過ごして折る、貧しい者でありますが、あなたはここに主に仕えて生涯を全うされた教職の方々、信仰の先輩の兄姉を憶えて、わたしたちを励まし、慰めてくださいました。時代が移り変わり、わたしたちの力も知恵も移り変わりますが、わたしたちはただ代わることのないあなたの慈しみとその御力に信頼して参ります。

真に自分の背きの罪に気づくこと遅く、日日の小さな事にとらわれて思い煩ううちに年月が飛ぶように去っていきます。主よ、どうか私たちに自分に残された時を数える知恵をお与えください。真にご高齢の方々が示してくださった善い歩みを見上げ、信仰の道を歩み、あなたから与えられた務めを家族の中で、職場で、病院や施設においても果たすために、わたしたちをお用いください。それぞれの年代の人々に対して、慰めとなり、励ましとなる生き方を私たちにお与え下さい。

なによりも、主イエス・キリストの良い知らせ、福音によって教会が立てられますように、どうか成宗教会を東日本連合長老会の諸教会と共に伝道する群れとしてください。あなたの御旨は広く深く、全世界に広がっています。どうか主の平和を教会に打ち立て、全国全世界の教会と共に、主イエス・キリストの御支配の下に、世界の平和を実現して下さい。今、東アジアの政情が緊迫していると伝えられます。貧しい人々を顧み、主よ、憐れんでください。戦争の悲惨から人々を救ってください。国々の為政者が主の御支配の下により良い道を選ぶことができますように助けてください。

本日のすべてを感謝し、主の聖餐に与ります。どうか、主の聖霊によって私たちの隣人である家族、友人が福音を聞き、キリストを救い主と告白する日が来ますように。特に召天者の方々のご家族のために、豊かな祝福と顧みをお願い致します。

最後に、2週間後に迫りました、今村宣教師ご夫妻の上に、主の豊かな助けが聖霊によって与えられますように。ご健康とご準備が祝されることを祈ります。

この感謝と願いとを、我らの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。