神の栄光を映し出す

聖書:詩編8篇4-10節, コリントの信徒への手紙二 3章15-18節

 今日はこのようなお天気ですが、日本の秋は観光シーズン、美しい自然に親しむ季節であります。美しい自然に感動する。しかし今日読まれました旧約聖書詩編の編集者は、自然を拝むのではありません。わたしたちは美しい景色に心打たれ、それをお造りになった方を仰ぎ見ているのです。神は世界を、宇宙を良いものとしてお造りになったからです。造られた方は御自分の指の業を御覧になって、その作品を「良い、よくできた」と言われた。そして祝福しておられます。

それにしても、と詩人は驚いています。「その神さまが、すべての造られたものの中で、人間を特に顧みてくださるとは。」空に輝く星々に比べても月に比べても、人間は芥子粒のような小さなもの。取るに足らないもの。その神さまがこんなにちっぽけなわたしたち人間を顧みてくださるとは・・・!?本当にいくら驚いても、驚き足りないことです。人間とはどういう者なのでしょうか。人間とは、弱くもろいもの。また悲惨と貧困とを表すと言われます。人の子という言葉も使われていますが、英語ではモータルと訳されます。モータルとは死すべきもの。壊れやすい、はかないものを表します。そのような人間を、神は御心に留めてくださいます。顧みてくださいます。ここに神の御姿が描かれています。弱い人間に心を配って、絶え間なく、訪れてくださる神のお姿。

私たちがイメージできるとすれば、それはまるで病院か老人ホームでベッドに横たわっている人に「大丈夫?」「お元気?」「いかがですか?」と声を掛けに来る看護師、介護士、ヘルパーみたいに絶えず訪れてくださる神さま。詩人は神さまをそのような方と感じているようです。神は人間を御自分に似せて造られた。神のかたちに造られた、と聖書は告げているのですが、一人一人見れば、何とちっぽけな人間。空を見上げては壮大な星々が気の遠くなるような美しさでわたしたちを圧倒しています。このような天の偉大さと大きさに比べれば、なぜ神は一見、取るに足らない人間に心を用い、愛を抱かれるのだろうか、と思わずにはいられません。ちょうど長身の大人が小さな幼子の話を聞くために、身をかがめるように、神さまは御自分を低くされて、このちっぽけな被造物である人類を心に留めておられる。何いうと驚きでしょうか。

詩人は歌います。「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ」と。神は人を御自分の似姿に造られました。そして人間は他の被造物と比べても、明らかに取るに足らぬものであるのに、神は人間をこの世界で神の創造の御業の冠とされたのですが、最初の人間であるアダムは、神に背きました。その罪のために、全人類は生まれつき腐敗してしまったと聖書は告げています。その結果は悲しいことに、わたしたちの中に本来持っていた神の似姿は、ほとんど全面的に消えうせてしまいました。そして、その結果神に似ている性質がもたらす豊かな賜物は失われてしまい、人間は惨めで恥ずべき貧困に陥ったのです。その豊かな賜物を表す言葉が栄光と威光なのです。

ところで、このような悲惨な人間の救いのために、神の真の子であるキリストが人の子として天から降ってくださいました。すなわち、失われた神の似姿を人間に回復させるため、本来持っていた神の栄光を映し出す性質を人間に回復させるためです。主イエスは人間の代表として地上におられたのです。人間として、限られたいのちの者として、死の苦しみを受け、人間の罪を贖ってくださいました。ゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。主イエスは、(ヘブ2:9)「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださった方」なのです。そしてキリストは十字架の死から三日目に甦られ神の命によって豊かにされました。

実は、キリストが豊かにされたのも、わたしたちのためであり、キリストの卓越したご性質、また天の父の権威も、キリストの命に結ばれるわたしたちがいただくことができるようになるためです。教会の信仰は、「人類に失われていた神の似姿という性質は、主イエス・キリストによってわたしたちに回復される」と信じます。そのことが世界中に信じられるようになるための道筋は、神の深く隠されたご計画によるもので、大変遠く、長いものでありました。キリストが世に来てくださる何百年も、何千年も前から、人々は神の名を呼んでいました。すなわち、救いを求めていたのです。

本日読まれました新約聖書コリント第二の手紙3章には、旧約の律法とイエス・キリストの福音が対比的に述べられています。わたしたちは社会生活をするために日常的に法を守っております。人が人と共に平安に暮らすためには、公の規則や法律が必要なことは誰もが認めています。律法が国家、地域社会の法律や規則と異なっているのは、それが神によって与えられたというところです。律法の中心はモーセという預言者を通して神が与えられた十戒、十の戒めです。連合長老会の教会では十戒を毎週唱える礼拝が守られているところもあります。律法は、出エジプト記20章に書かれている通り、神に対する4つの戒めと、人々に対する6つの戒めから成り立っています。その内容は、非常に簡潔に言えば、第一には神に対する愛の戒めであり、第二には人々に対する愛の戒めであります。

神がお与えになった律法は本来良いものに違いありません。それを守ることができれば、その人は命を得ることができます。しかし、実際は守れませんでした。守れない人と守れた人がいたということではありません。人は誰も例外なく守れなかったと聖書は語ります。律法によっては、誰も救われなかったのです。特に神に対する戒めはより深刻です。神を信頼する心。神に従う心。神を愛し、敬う心。神に忠実な心について、誰が本当に律法を守ることができたでしょうか。

そういうわけで、律法の役割が明らかになりました。それは人を罪に定める働きです。律法はただ立派に生きるための規則を定めたものにすぎないのであって、人の心を悔い改めさせて良い道に従う者に導くわけではなく、その一方、律法に背くものに対しては永遠の罰を宣告することになります。けれども有り難いことに、律法は一時的のものに過ぎないのです。なぜなら人は律法があり、律法を守ろうとする時に初めて、本当に自分が行いによって正しい者となることができないことを自覚することになるからです。もし律法がなかったら、つまり、神の前にも、人の前にも、して良いことと、悪いことがあることを知らないとしたら、そういう人は罪の自覚は一切なく、神を神とも思わず、人を人とも思わない恐ろしい人であり、救いとは何の関係もないことになるでしょう。

従って、自分は律法を守ることができないという自覚は、神に救いを求めるためには、必要なことではないでしょうか。さて、律法の役割について述べましたが、それに対して、福音の役割は何でしょうか。それは、人間が一切の希望を失っているのを見て、救済の手を差し伸べることであります。福音は、人をキリストの御許に導くことによって、命に至る(救いに至る)道の門を開く務めを行うのです。

先程、律法は一時的なものと申しましたが、福音の務めはそれに対して永遠に続くのです。律法はモーセを通して与えられたのですが、イエス・キリストは来てくださり、モーセの果たした律法の務めに終止符を打たれました。すなわち、人は皆罪を犯して神の似姿、神の栄光を失っていましたが、ただキリストを救い主と信じる信仰によって、罪赦され、神の子イエス・キリストの命に与ることができるのです。先週、読みました使徒言行録8章でもエチオピアの宦官が言い表した信仰は、「私は、聖書の証しする苦難の僕、わたしたちの罪が赦されるために身代わりに苦しんでくださったイエス・キリストは神の子であると信じます」という告白でした。(使徒8:37)

福音の中にあってキリストの栄光は照り輝いています。もちろん、月も星も暗い夜には輝いて見えますが、それらが太陽の光に出会うならば、たちまちその光は薄くなり、影を潜めてしまうでしょう。そのように律法の栄光も、キリストの栄光とは比べものにはならないのです。キリストの栄光は太陽の輝きのように、福音の中にあって輝きわたります。しかしそれはだれにでも見ることのできる輝きではありません。ただ、信仰をもって神を仰ぎ望む人々に、神が人を造り人に与え給うた神の似姿が見えるのであります。それは、人々の力によるのではなく、人々に信仰を与え給う聖霊の働き、主の霊の働きです。聖霊は、父なる神と共に、御子イエス・キリストと共に働いてくださり、信じる者の心や精神を天にまで引き上げようとその威厳ある御力を発揮してくださいます。

キリストの霊の働きは天から降って、わたしたちに命を与えるものです。律法の光は目に光を与えるよりも、むしろ目をくらますものでありますが、キリストの福音の光は神の栄光を輝かせ、その光は人を怖がらせるようなものではなく、それどころか愛すべき、慕うべきものであります。神は福音が隠されることなく、すべての人に親しく現れることを心から喜ばれるでしょう。ですから、わたしたちは自分の弱さにも拘わらず、確信に満ちあふれて、福音がすべての人に親しく現れるために大胆に宣教したいものです。

聖書全体は、常にその唯一の目標であるキリストとの関連において読まなければなりません。そうでなければ正しい方向から全く外れてしまうでしょう。教会もキリストと結ばれて行動するのでなければ、どんな努力も正しい方向から外れて、ただ人間の業を競うだけの貧しいものになるでしょう。コリント二、3章17節を読みます。「ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられる(キリストの務めのある)ところに自由があります。」神を愛し、隣人を愛し合いなさいという最も大切な律法について言うならば、律法がキリストの霊を受ける時初めて、それは生きたものとなり、命を与えるものとなるのです。なぜなら、キリストこそは、律法の命であり、霊であり給うからです。

それではキリストはどのようにして律法に命を与え給うのでしょうか。それは、主がわたしたちに御自分の聖霊を与え給うことによってなされます。「主の霊のおられる(キリストの務めのある)ところに自由がある」からです。自由とは何でしょうか。それは、第一に罪への隷属からの解放です。そして自由とは第二に神の子とされることの保証なのです。アウグスチヌスの言葉です。「わたしたちは生まれながらにして罪の奴隷であるが、新生の恵みによって自由の身とされた。」聖霊によって新しく生まれること。神の栄光を映し出す者に変えられる希望をアウグスチヌスは語りました。

18節。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」わたしたちは皆と言われます。ひとりのこと、個人のことではありません。キリストに結ばれた人々、キリストの体の教会全体が含まれています。皆が自分の救いにおいて聖霊の御力を経験しています。そして、

これからもそうでありますように。

わたしたちは主イエスによって啓示されたこの方、神をひたすらに仰ぎ見ることによって、栄光から栄光へ神の似姿へと変えられて行くのです。以上のことはただ一瞬にわたしたちになされるようなものではなく、絶えず順を追って成長させられることです。それは絶えず、次第次第に増し加えられて行く恵みです。

本日行われるバザーの行事は、成宗教会の業の中でも、伝統的に力を入れて来たものです。これは教会の名によって行われて来ました。教会の名とは、主イエスのお名前です。もしもこのお名前がなかったら、またこのお名前を忘れたら、人の業になってしまうでしょう。このお名前による働きとなれば、それは主イエスの聖霊の業となるでしょう。わたしたちはひたすら聖霊の神の御名をほめたたえ、福音の業が力強くなされますように祈りましょう。

聖書はキリストを証しする

聖書:ホセア書6章1-3節, コリントの信徒への手紙一15章1-11節

 人が生きるために最も大切なこと、必要なことは神を知ることであります。神とはどなたであるか。神は命を与えられた方です。私たちは神に造られた、神の作品であります。私たちも子どもの頃は特にだれでも作品を作ります。うまく出来たらうれしい。学校で褒められた。いつまでも大事に取って置きたい。しかし、失敗作品もあります。気に入らない。もう見たくもないと思う。そういうのが人間の作品です。

神の作品はどうでしょうか。自分たちの秤で、物差しで神の作品を考えると、神さまも失敗作品をお造りになるのか、と考えるかもしれません。とんでもないことです。神はわたしたちを造られた。皆、良い作品として造られたのです。皆、よくできたと喜んでこの世界に生かしておられるのです。神のこのような喜び、神の愛は、もちろん自然の恵みを通しても感じられるでしょう。収穫の秋が巡って参りました。大地の実りをいただいて有り難いと思うでしょう。でも、大地に感謝することでとどまってしまうのでしょうか。海の産物、山の産物をいただいて、海に感謝する、山に感謝することにとどまってしまうのでしょうか。

しかし私たちの信仰は、すべての実りを与えてくださる神、すべてを造られ、すべてを養われておられる神を捜し求めます。神は、目に見えないお方です。しかし、私たちはイエス・キリストに出会うことによって、神を知ることができるのです。神はイエスさまをおよそ2000年前、パレスチナの地にお遣わしになりました。私たちから見れば西方の地に、そして西洋諸国から見れば、東方の始まるところであります。強大な国の偉大な王者として世に遣わされたのではない。強風に震える木の葉のような国民の中に名もない、貧しい人々の中に遣わされた方です。

実に不思議なことではないでしょうか。私たちの多くは世を去って数十年も経たないうちに忘れられてしまう者に過ぎません。しかしイエスさまのお名前は、2000年経った今も世界中に知られています。もちろん、人気歌手のように熱狂されることもないでしょう。あえて声高に語られることも少ないでしょう。それにもかかわらず、イエスさまのお名前によって捧げられる祈りは、言わず語らず、その声も聞こえないのに、日毎に、夜毎に、全地に満ちて天に上っているのです。それはなぜでしょうか。この方こそ、神を表す方、神の栄光を証しする方、神の愛をわたしたちに知らしめる方だからです。

それでは一体私たちは、どこでどのようにして、イエスさまのことを知ったのでしょう。日本では、プロテスタント教会が伝道を開始したのは、幕末からであります。そしてローマ・カトリック教会が日本に伝道したのは戦国時代、有名なフランシスコ・ザビエルによってであります。しかし、日本が中国の隋の国、唐の国に留学生を派遣していた奈良時代、平安時代には、すでに中国にはキリスト教の一派である景教が伝来しておりましたから、日本にもその影響が伝わっていたのではないか、と考える人々もいるようです。

そこで、イエスさまのことを宣べ伝える人々は、どのようにして宣べ伝えたか、と申しますと、日本の幕末以降のことに限定しても、聖書によって伝道したのです。聖書の翻訳に力を尽くしたのは明治学院の創立にも力のあったヘボン博士であります。聖書を教え、キリストにこそ、神の御心は表されていることを教えて、今日に至っております。

イエスさまはルカ24章で次のように言われました。これは復活されたイエスさまが弟子たちに現れ、説き明かした言葉であります。24章45節。「そしてイエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」161末。

さて、本日の聖書はコリントの信徒への手紙一の15章であります。ここからイエス・キリストについての証言を聞きましょう。コリント教会へ送られた手紙によって、使徒パウロは多くの勧め、というより、問題の指摘をなして、人々の間違いを正し、悔い改めを求めて来ました。それは第一に非常に具体的な問題、信者の生活についてでありました。パウロは何もこまごまと人々に干渉しているのではありません。教会の外でもめったにないような性生活の乱れ、不道徳が教会の中で見過ごされていたという驚くべき現実があったからです。また他にはキリストを信じる者が教会の外で、言ってみれば八百万の神々を礼拝している人々の間でどのように生活すべきか、という問題。これはわたしたちの時代にも社会にも無視できないことです。そして第三には教会の礼拝を守るということはどういうことかを問いました。これは具体的には聖餐を受ける人々の姿勢を問うているのです。

教会は救いに入れられた人々の共同体です。主イエスがお招きになった人々は、実にいろいろな人々がいます。貧しい人々が多かったそうですが、金持ちもいました。奴隷の身分の人々もいました。老若男女あらゆる人々が一堂に会するということです。教会で問われることはただ一つ。本当にイエスさまを知りたいのか、本当にこの方によって神を知りたいのか、ということだけです。その一点で真剣であるなら、誠実であるなら、わたしたちはイエスさまを知るでしょう。神さまは御自分をこの方を通してわたしたちに示してくださるでありましょう。しかし、この一点が疎かになっていた。いい加減になっていた。分からなくなっていた。それがコリント教会の現状であったと思われます。パウロは言います。

「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。」

彼は教会の人々が以前確かに聞いていた福音を記憶に呼び戻そうとしているのです。あなたがたに告げ知らせた福音。福音とは、復活の教えです。イエスさまは死者の中から復活された。教会の人々はかつてこのことを知らされ、このことを受け入れたはずです。この方を信じるなら、わたしたちもイエスさまの復活の命に与るのです。元気に好きなことをして生きているけれど、だんだん年取れば動けなくなる。動けなくなったら、後は死んでお終い、という人生ではない。神の恵み、神の命に与る希望を誇りにして生きる人生です。

覚えていますか?覚えていればこの福音によって救われます。どうやら、その教会の人々は初めに受け入れた福音があやふやになっていたようです。その結果、生活の様々なところに恥ずかしいほどの問題が起こった。自分のことではなくても教会の他の人々のことを見過ごすしかなかった。それは正に、福音の中心をしっかり理解していなかったからなのです。キリストは死んで復活された。このことを否定する人は、いくらイエスさまは優しい人だった。立派な人格者だった。わたしたちを愛しておられるにちがいないと信じても、その信仰は空しいものになってしまう。このことははっきりと言わなければなりません。

そこでパウロは改めて、福音の中心を告げ知らせます。それは使徒が主から受けたことであって、自分では何一つ発明、発案したことではありません。それはすなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだことであります。キリストは死に給うた。それはわたしたちの罪をぬぐい去るための受難なのです。わたしたちに罪の赦しを得させるために、神の御子であるキリストがわたしたちと等しい者となってくださった。キリストの死はわたしたちの死であります。キリストはわたしたちと共に死に給うた。その目的はわたしたちが彼と共に復活するためである。

実に、キリストはわたしたちの呪いを御自身の上に引き受けられ、私たちのためにその贖いとなり給うた。この教えは聖書からの教えであるとパウロは告げています。聖書、この時代の聖書ですから旧約聖書の教えです。たとえばわたしたちは受難節に読まれるイザヤ53章の苦難の僕について教えられます。イザ53:5-12「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた(5節)。…多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった(12節b)」1149末。

また詩22篇に「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という祈りがあります。イエスさまは十字架の上でこの祈りを祈られました。今日読んでいただいたホセア書もキリストを指し示す預言ではないでしょうか。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、癒し、我々を撃たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」

教会の信仰は、実に、罪人の救いのために罪人の身代わりとなって贖ってくださる神がおられるという信仰です。4節以下。「葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」パウロがこうして弟子たちの名前や数を挙げるのは、復活が夢や幻、または誰かの発明ではなく、歴史の中に起こった事実であると証言するためです。ご復活の主は、最後に自分にも現れてくださったと証言します。月足らずに生まれたという表現。キリストに在って人は新たに生まれるのです。イエスさまは地上のご生涯に弟子と交わりを持たれました。そしてだんだんに教えて育ててくださって、弟子として生まれさせたのです。

ところがパウロについては違いました。彼は教会の迫害者、徹底的にイエスさまを迫害する者の側に居ました。そしてイエスさまを迫害することが神に反逆することだとは思っても見ませんでした。それどころか、教会をやっつけ、クリスチャンを根絶やしにすることこそ神に仕える奉仕だと信じて疑わなかったのです。このように、人間は自分の間違いに全く気が付くことさえ出来ないことが、私たちにも分かります。しかし、パウロがそうであったように、わたしたち自身もまた、他の人の間違いに気づくことができても、自分の罪に気づくことは非常に困難な者ではないでしょうか。

自分は罪人の中の罪人であった、とパウロは告白しておりますが、それを悟ったのはキリストが彼に現れてくださったからでした。気がつけば神に反逆していた自分、最も罪深い罪人の救いのために、キリストは死んでくださった。この罪人のために復活してくださった。それに気づかない哀れな者のために現れてくださった。そのためにパウロは瞬く間に別人のようになりました。キリストはパウロの罪に死んでくださった。そしてパウロはキリストの復活の命に生まれ変わったのです。十月(とつき)十日(とおか)お母さんのお腹の中に育てられて生まれたクリスチャンが他の弟子たち、使徒たちだとすれば、パウロは全く月足らずで生まれたクリスチャン。一人前だと誇ることもできない、一人前に認められなくても、全く仕方のない者であります。

本当に、誇るべきものは何もない。けれど、自分に誇るべきものが何一つないからこそ、自分のうちに人々が認めたもの、認めずにはいられないものがありました。それはただただ、神の恵み。神の栄光が彼の伝道によって輝いたのであります。ここにパウロをはじめとする使徒たちが宣べ伝えた福音。教会が受け継いで来た福音の著しい特徴があります。すなわち、キリストは死んでくださった。わたしたちの罪のために身代わりの死を死んでくださった。そして神はキリストを復活させてくださった。それは、わたしたちがキリストの死と結ばれて罪に死ぬなら、わたしたちはキリストの復活の命を生きることになるからです。教会は宣べ伝えます。イエス・キリストによって、神は死ぬ者をも生かす方であると。祈ります。

 

主イエス・キリストの父である神さま

恵みと憐れみに満ちた尊き御名をほめたたえます。

わたしたちに新たな主の日を与え給い、小さな集いですがここもまた豊かに祝福を与えられましたので、わたしたちは礼拝を捧げることができました。今日の御言葉を通して、福音の最も中心にあるキリストの死と復活の信仰を教えられました。

わたしたちはこの世に在って生活の糧を得、世の人々と交わり生きておりますが、あなたの尊い福音を受け入れて、真の救いを見上げ、求めて生きる信仰を与えられました。主よ、どうか、このことを片時も忘れることなく、心に来てくださった主なるキリストと御父によって聖霊によって生きる者と、生かされる者と、わたしたちを新たに造りかえてください。わたしたちは無力なものでありながら、あなたの御前に謙ることよりも、自分の業を誇ることに心を用い、その結果、神さまの恵み深さ、慈しみの深さ、罪人をも救おうとされる御心の麗しさを、身をもって証しすることが非常に少ない者でありました。

どうか、わたしたちに悔い改めの心をお与えください。わたしたちは教会に多くの計画をもっており、また個々人の家庭に多くの願いを持つ者です。しかし、わたしたちの願いを清めて、ご栄光のために豊かに用いられるために、わたしたちが貧しく弱い者であることを悟らせてください。わたしたちの活動のすべてが、ただあなたの御力によって支えられ、良い業が成し遂げられるために、わたしたちが感謝をもって献げられますように。

主よ、あなたの御心に適って、どうか今弱り果てている方々を守り、癒し、慰めをお与えください。私たちの活動が私たちの力によってではなく、あなたの目に見えない豊かな顧みによって、支えられていることが証しされますように。そしてイエス・キリストの父なる神の御名がほめたたえられますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

いつでも救ってくださる神様

聖書:コヘレト3:1-13, マタイ20:1-16

東京神学大学修士課程2年 齋藤 正

 

今日与えられましたマタイによる福音書全体を見る時、そこに見えてくるのは、物語としての記事と5大説教と呼ばれる説教が交互して書かれていることです。この今日の聖書箇所は、少し前の19章16節から22節にかけて書かれている記事、つまり金持ちの青年がイエス様に対して「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」(マタ19:16)と尋ねたのに対して、この青年が財産を持っているが故にイエス様から遠ざかった物語に続いています。

この23節から24節で、イエス様は弟子たちに「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(マタ19:23-24)と「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」との有名は譬えの言葉を言われます。

つまり、ここは「どうしたら天の国に入れるか」とのテーマに対するイエス様ご自身が話されたたとえ話の一つです。イエス様は続いて弟子たちに19章28節から30節にあるように「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」と、お話しになりました。この最後の「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」と弟子たちにも理解できない難しい譬えをお話しになりました。

今日の説教のテーマは、先程お読み頂いた20章1節のイエス様ご自身の「天の国は次のようにたとえられる。」と仰ったことからも分かりますが、「天の国」とはどんなところで、どうしたら行けるのかをイエス様がたとえをもって話されたことです。この『天の国』という言葉は、マタイによる福音書に特有の言葉で、マタイ福音書だけで32回も登場します。また、イエス様ご自身が「天の国」という言葉をしばしば使われておられます。またこの「天の国」という言葉は、マタイによる福音書以外の他の福音書の中では“神の国”と記されています。

ここで、「天の国」と言っても、単純にいわゆる“天国”のことを言っているのではありません。勿論、死後の世界、私たちが地上の生涯を終えて召されるところの死後の世界のことを言っているのでもありません。むしろ、私たちが生きている間の世界です。「天の国」と言うとき、それは地上の世界とは次元を異にする世界、価値観を異にする世界を表していると言えます。神様の御言葉を聴き、神様に従うことで、私たちは、目には見えない「天の国」を、この地上で生きることが出来るのです。つまり、「天の国」とは、信仰による価値観、人生観を持って生きるということなのです。イエス様は、この「天の国」を、様々な譬えで語りました。今日の聖書箇所では、イエス様ご自身の御言葉によって「ぶどう園」(1節)に譬えられているのです。

このイエス様ご自身による「ぶどう園」の譬え話の背後には、イエス様のおられた当時のパレスティナの厳しい労働事情があると言えましょう。仕事を探し求めても容易には得られない環境がありました。多くの労働者は毎朝、その日の働き場所を求めて決められた広場に集まって来ますが、働き場所を見つけることはなかなか困難でした。現代の日本でも、そしてこの世界の労働事情も決して良好であると言えませんが、この譬えのイエス様時代の背景もまた厳しいものでした。働きたくても働く場所がなくて、毎朝職を求めて広場に立たなければならない人も少なくなったのです。

こうした状況の中で本日の譬え話しに出てくる「ある家の主人」は自分から働き人を求めて、広場を訪ねます。詩編第104編22節以下にもありますが「太陽が輝き昇ると…。人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。」とあり、当時の1日の労働時間は、朝の6時頃から夕方の6時頃までほぼ12時間にも及んでいました。そのために、この「ある家の主人」は、朝早く殆ど夜明けの5時か6時前には家を出て、日雇いの労働者が仕事を求めて集まって来る広場に出掛けます。そして、そこに集まっている人々に呼びかけ、2節にありますように、この主人は「一日につき一デナリオン」の約束で、労働者をぶどう園に送りました。1日につき1デナリオンという賃金は当時の平均的な賃金でした。「ある家の主人」はそれだけの賃金の約束をして、労働者を雇いました。広場でその日の仕事を求めていた人々は喜んでぶどう園に働きに行きました。

8節にはこうあります。「夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。」そして、順序が逆とも思われますが、「最後に来た者」から「最初に来た者」までに順番に賃金を支払いました。ここで、人々が驚いたことは、その賃金の額でした。支払われる賃金は、最初に来て12時間にも及ぶ労働をした者にも、最後に来て1時間ばかりしか働かなかった者にも、等しく1デナリオンの賃金が支払われました。

12節にありますが、長時間働いた労働者にとっては不満でした。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』」と、この不満は当然のようにも思えます。この不満は二つの根拠を持っています。一つは労働時間の違いが無視されているということです。1時間の労働時間と10時間の労働を同じに扱うのは不当ではないか。また、この不満のもう1つの根拠は、労働の厳しさの差が考慮されていないということにありました。自分たちは日が照りつける厳しい暑さの日中に辛抱しながら一生懸命働いたのに、あの連中は夕方涼しくなってからやって来て、暑さ知らずに働いたのではないか。

すると、13節、14節にあるように「ある家の主人」は言います。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」、その理由は先ず第一に、この主人は少しも契約違反をしていないということです。他人のことをとやかく言わないで、自分の分を受け取ってさっさと帰りなさい、ということです。それは確かに契約違反ではありません。支払いの仕方は主人の「自由」であるのです。

しかし、だからと言って不平等な扱いをしても良い理由にはならないでしょう。そのように、最初から働いた人は考えました。恐らく、普通であれば私たちもそのように考えるのではないでしょうか。人の目は自分自身と他の人を比べて眺めます。そして、そこに不平等を見つけ出し、他人が厚遇され、自分が不当に扱われていると思って、不満を抱きます。あるいは、他人が不遇であっても、自分に良い扱いがなされているのを見たら、不満は抱かないかもしれません。このようにして、私たちは心の底に潜んでいる自分の利益、自己追求の「」が示されていくのです。ここで「人間の罪」を良く知っているこの「ある家の主人」は、神様に譬えられているのです。

その神様は人間の心の底にあるものを見抜いておられます。不平不満を言っている人々に対して15節にあるように「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」と問い返しているのです。人を雇う場合に、この様な報酬は私たちの常識では考えられません。なぜ、この主人は敢えてそのようなことをしたのでしょうか。この譬えを最後まで考えていきますと、そこにはこの主人の憐れみの深い思いから出ている行動なのだということが見えてきます。労賃は労働時間に比例して支払われるのが私たちの常識です。ここでは常識的に労働が評価されるのではなく、神の憐れみの心が基準となる世界といえるのではないでしょうか。その我々の常識で計れない、それが「天の国」なのです。これは信仰による基準であり、そこからこの世の常識や価値観とは違った、新しい考え方が始まると言えましょう。

15節には「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」とあります。もちろん、この主人の自由は個々人との契約に反していない限り、自由で、神様の憐れみの自由(いさお)が示されているのです。それは恵みの自由でもあります。神様は憐れみにおいて自由な方です。神様は私たちを自由に憐れんで下さり、自由に恵みを与えて下さるのです。

この主人は自分のとった処置がご自身の「自由」であり「正当」であると主張します。その理由は14節にあるように「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」という言葉に示されています。1デナリオンは当時の日雇いの労働者の1日分の平均の賃金です。主なる神様は「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と宣言なさるのです。1時間の労働には1単位の賃金、十時間の労働にはその十倍という形式的な平等を求めるのでありません。人は目に見える平等、形式的な平等というものを求めます。人の思いは互いを見比べて自分の利益、幸福を追求し、他者を妬みます。しかし、神様の目、神様の御心は違いました。

私たち一人ひとりもまた、神様のぶどう園に雇われている者といえましょう。広場に立っている私たちに神様は声を掛けて、神様のぶどう園へと招きに来てくださるのです。この物語はぶどう園に雇い入れられ、働いて、その賃金をもらう、という設定になっています。神様のぶどう園に雇われて働くとは、信仰を持って生きるということです。雇われて働くのは、賃金という報酬を得るためです。一日につき一デナリオンという雇用契約を結んで働く、それは、一デナリオンという報酬を求めてのことです。それが約束されているから、希望をもって働くのです。

イエス様に従い、神様を信じて生きるとはそういうことだとこのたとえ話は語っているのです。信仰には、報いが与えられるのです。その報いは勿論お金ではありません。一デナリオンは神様の救いです。この物語は、イエス様ご自身による「天の国」へ入るための譬えです。16節の「後にいる者を先に、先にいる者を後に」という言葉は、神様の恵みを表しています。神様は、「自分のものを自分のしたいようにする」その自由なみ心によって、そういう順序を越えて救いのみ業をなさるのです。時に私たちの理解を超えることがあります。それによって、私たちは不平不満を覚える時ことがあります。人間の思いと神様の思い、この両者の間には大きな隔たりがあります。

人の価値は、神様のためにどれだけ働いたかで、神様から評価されるものではありません。もう少し砕(くだ)いて言えば、私たちの人生は、どれだけのことを熱心に行い、結果を出したかで価値の決まるものではなく、また肯定されたり否定されたりするものではない、とうことなのです。この世は、行いと働き、その結果で、人を評価するけれど、人の本来の値打ちは、そんなことで決まらない。人生は、その働きに関わらず、等しく1デナリオンをいただくことのできる世界なのです。それが神様に認められる人の価値です。

私たちの中には幼児洗礼を受けて中学生で信仰告白した若い日からのクリスチャンもいますし、それと大きく異なって定年を迎えて洗礼を受けた晩生のクリスチャンも居ます。いや、もっと遅い方々もおられます。「ある家の主人」である神様は言います。「私は5時から働いた者たちにも『同じように』してやりたい」と。分け隔てなく、同じ恵みを与えたい。時間に比例して、働けば働いただけ増えていく歩合制ではなく、天の国とは、例え働きは少なくても、同じ救いの恵みが与えられる場所であり、それを今その通り与えたい。それがこの言葉に示された、神様の思いなのです。

ここで私たちは、考えたいのです。どうしてこの話が腑に落ちないのか。どうしてこの話が不公平に感じてしまうのか。それは私たちが朝6時から雇われている労働者である、働きの多い労働者とは私のことである、と思い込んでいるからではないでしょうか。実に、私たちは夕方5時に雇われた働きの少ない労働者であり、主人のために大きな貢献など出来ないどころか、この主人の愛する一人子を十字架に架けた罪人でしかないのです。それは自分が朝から働いた長時間労働をしたと思う高慢から出て来る罪なのです。

16節にあるように、「このように、(神の国では)後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」とイエス様は仰っているのです。この譬えは、神様が人をその働きに応じて扱うのでなく、分不相応に良くして下さること、神様の恵みの世界を明らかにしているのです。後から来て過分の報酬を受けた労働者ばかりでなく、朝早くから働いた者たちも主人の好意によって雇われ、賃金が約束されたのです。そういった意味で豊かな神様の恵みが与えられているのです。しかし、より多く働いた者と思う私たちはこの恵みを忘れ、自分の判断に基づいて報酬を要求してしまいます、そのような者は先の者でありながら後になるという経験をすることになるのではないでしょうか。

神様の思い、愛の思いは御子キリストの十字架において示されています。この十字架の出来事こそ、私たちへの自由な憐れみです。神様は自由なご意志によって独り子イエス様をこの世に遣わされました。その十字架の苦しみと死によって私たちの罪を赦して下さったのです。自分のことを、夕方5時に雇われた者なのではないかと感じた時、つまり、自分には誇るべき“働き”がないとへりくだる時にこの経験をするのです。信仰は年功序列ではありません。人の価値は、人生における働きと結果で決まるのではありません。人生とは自分の力ではなく、神の恵みの中に生かされてくるのです。

これが、老年になって信じる人のたとえならば、それは、老年になるまで福音に接する機会がなかった人たちを神様が憐れんでのことです。福音に接しなかったのですから、それまでには希望もなく、さまよいながらの人生を送っていたのです。神なしの人生はとても辛いものです。神様は、誰にも雇われなくて、ひもじい思いをしていたその人々をかわいそうに思っていたのです。このように、5時に雇われた人は、だれも雇う人がいない、とてもかわいそうな人たちであると、この主人は考えたのでした。

逆にいって、この世の物差しは、あまりにも不公平です。しかし、この主人は、この賃金を働いたことに対する報酬として払っていません。むしろ、労働者へのプレゼントのように払っています。この主人は、もともと利益を得るような動き方をしていないからです。

実は、この賃金は、永遠のいのちのプレゼント、つまり賜物です。新約聖書282ページローマの信徒への手紙6章23節をお読みします。6:23「 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

神様は、幼い時から神様を信じた人にも、老年になってから神様を信じた人にも、等しく永遠のいのちを与えられます。主人である神様は、「私が他の人に与える気前のよさをねたむな」と言っています。これは、天における報いが、他のクリスチャンと自分を比べるようなものではないことです。私たちが天国に入ったら、だれがー番いい地位についていて、だれが低い地位についているか比べ合いをすることはありません。今日の聖書箇所は人間の側から見れば、実に不公平な取り扱いかも知れませんが、神様の側から見れば実に理にかなったことなのです。このように、神は、惜しみなく恵みとしての報いを与えて下さる方なのです。そして、この神様の救いにはお一人お一人に適ったときがあるのです。その神様の救いの時も神様が自由に決められているのです。

最後に、本日お読み頂いた旧約聖書1036ページ、コヘレトの言葉3章1節から13節のうち、11節前半だけをお読み致します。3:11「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」

お祈りを致します。

 

神の愛に生かされるために

聖書:申命記7章6-8節, ヨハネの手紙一 4章7-12節

 わたしたちの誰にとっても、未知の体験があります。それは年を取ることです。年を取るとどうなるか、それは自分が予想できないことです。懐かしいF兄が生前言われた言葉を思い出します。「若い時は目が覚めると疲れも取れて爽快だったのだが、この頃は目が覚めると体のあちこちが痛い」と。聞いた時には分からなかったのですが、こちらも年を取って、なるほど本当だ」と実感します。そういう意味でも、年を取ることは日々新しい発見だと思います。

成宗教会に務めて16年になりますが、私が初めて体験したのは老人ホームの訪問でした。自分の親が入居しない限り、だれでも老人ホームは身近なものではないでしょう。しかし、この十年、二十年の間に大きな変化を感じています。所得の高い人、低い人によって、入る所は違うにしても、多くの人々が「もう最後まで自宅に住みたい」と希望するのは難しいと考えているのではないかと思うのです。自立して独り暮らしということも年齢的に限界があるからです。

私は教会の方々、そして私の母も、でしたが、介護施設に入居したことで、施設を訪れる機会が非常に多くありました。老人ホームは、十数年前は、介護の様子にいろいろな問題を感じることもありましたが、最近はどこの施設でもかなりサービスが改善されたように見えます。わたしの伺うところは限られた範囲ではありますが、人手の非常に限られる中で、職員の皆さんが一生懸命入居者に対応して下さっていることが感じられます。震災がありました。大雨が降ったり、いろいろな災害が起こるたびに、私たちは、家族が施設に入居していたからこそ、危険から守られたのですし、わたしたちも安心して自分たちの務めや働きに専念できると実感し、改めてそのことを感謝しています。

しかし、長い間、そのような施設に住んでおられる教会員をお訪ねするうちに、気が付いたことがあります。それは至れりつくせりの老人ホームにも足りないものがあるということです。何が足りないか。入居している人々に神様についての話がないのです。やがて最期を迎える人々に、わたしたちが頼るべき方をお示しすることない。この命を与え、この命を養い守ってくださった方をお知らせすることがない。なぜ、わたしたちは造られたのか。なぜ、わたしたちは生かされているのか。それはわたしたちが神様に、わたしたちを造られた方に愛されているからではありませんか。弱り行く人々に(それはわたしたちのことでもあります)、健やかである時も、病気である時も、年老いた時も、変わらない神の愛を指し示すこと。これが老人ホームにはないのです。

もちろん、そのことを直接的に、間接的に指し示しているキリスト教の施設はあります。けれども数的には圧倒的に多数の老人ホームが、このことに対応できないのです。無理もないことだと思います。入居して来る人々の中には様々な宗教の人々がいる。けれども、熱心に信仰を持っている人々は非常に少ないように見えるのだから、どこかの宗教に偏ることはできないという訳です。そこで一番中立的な態度は宗教色をなるべく出さないように、ということになります。本当の神様を求めることはしないという態度を基本とするのです。

当然の結果は、神について、救いについて公に話をすることはタブーなのです。クリスマスになるとクリスマス会をしていただくことはうれしいのですが、それはイエス・キリストを曖昧にしたクリスマス会であります。秋ともなると、秋祭りのイベントがありましたが、何のお祭りなのかは分かりません。老人ホームに入居すると、すべての日常生活のお世話をしていただけるので、有り難いことだと思います。しかし、最期の時が近づいても、最期さえ曖昧にしながら、お別れを演出せざるを得ないのが実情であります。

神はどなたであるかを知らない。神は万物を創られた方であることを知らない、ということ。知らないままに生きて年取って行くということ。それは高齢の世代の人々にとって深刻なことであります。けれども実は深刻なのは高齢の世代ばかりでは決してないと思います。どの世代の人々にとっても非常に深刻な問題なのですが、高齢者とちがうのは取りあえず時間が迫っているようには感じないことです。「自分はどこから来て、どこに行くのか』とか、『自分の生きる目的は何か』とか真剣に考えることなく生きている。真剣に神を求める必要に気が付かないで生きている。あるいは気が付かないふりをして目の前にある生活に仕事に気晴らしに没頭している。そして深刻な問いを先送りにして済ませようとしているのが実情ではないでしょうか。

それで、突然降ってわいたような悲劇に社会が呆然となります。高齢者、障害者をまるで生きる価値がない者であるとして、この世界から強制排除しようとする狂気の考えが引き起こす恐ろしい犯罪、深刻な悲劇です。このような犯罪行為はごく一部の人々のものであるかもしれませんが、この悲劇、この希望の無さは社会全体のものです。神を知らない世界。神がどのようなお方かを知らない社会の悲劇なのです。だからこそ今、教会は福音を高く掲げなければならないと思います。何よりもまず、教会は福音を高く掲げることを怠ってきたことを悔い改めなければなりません。

教会は宣べ伝えます。すべてを創られた唯一の神。わたしたちにとって、価値あるものも、取るに足りないと見えるものも、美しいユリから虫に至るまで。わたしたちには益となるものも、わたしたちの敵と思われるものも。すべてを造られ、人間を神のかたちに造られたことを。次の言葉はコリントの信徒への手紙一、8章5節以下の聖句です。「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神に帰って行くのです。」(309上)唯一の神が造られた以上、すべてのものに本来、統一があり、ハーモニー、そして平和があるはずではありませんか。わたしたちは皆良いものとして存在させられた、それが教会の信仰です。

さて、それでは世界に唯一の神がおられることをわたしたちはどうしたら知ることができるのでしょうか。神は目に見えないお方です。それで昔の人々は、自然の美しさに感動した時、星や太陽や、あるいは山を拝むのではなく、それらを造られ方、美しい調和をもって配置された方がおられるに違いないと思ったことでしょう。そこから万物の造り主を思うことも出来たと思います。しかし、神は人の目に見ることもできない御自身のご性質を、イエス・キリストを通して知ることができるようにしてくださいました。聖書はそのことを証ししています。すなわち、神はわたしたち人間が「神はどなたであるか」を知ることができるために、キリストを人間の姿でわたしたちの世界にお遣わしになったのです。

今日はヨハネの手紙一4章によって、そのことを学びましょう。7節にこの書簡を送ったヨハネは次のように言います。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出る者で、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」ヨハネの手紙には、

ヨハネ福音書と同様に、「互いに愛し合う」愛の勧めが繰り返し語られます。この愛は、自分に親切にしてくれる人々に自分も恩返しをする(それはもちろん大事なことですが)とか、自分を愛してくれる人々を愛するということで済んでしまう愛ではありません。「互いに愛し合う」とヨハネが言う時、彼はすべてのキリスト教徒に対して共通に公平に語っているのです。なぜでしょうか。ここは大切なところです。

わたしたちが生きるために一番大切なことは、神を知ることでありますが、その真の神を知る知識をわたしたちが得るならば、それは必ずわたしたちの内に神への愛を生み出さずにはいられないからです。つまり、神がどのような方か分かれば分かるほど、ますます神を愛さずにはいられなくなるに違いないというのです。逆に言えば、「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」とヨハネは語ります。神は愛の源でありますから、この愛情は神の知識の達するところには、どこにでも、どこまでも広がって行くのです。

そして神はどなたであるかを本当に知る、この真の知識こそが、わたしたちを造り変えて新しい被造物とさせるのです。ヨハネ福音書には、ニコデモという人がイエス様に教えを受けた話が語られています。ヨハネ3:3-5「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』ニコデモは言った。『年を取った者がどうして生まれることができましょう。もう一度母の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」167頁上。

わたしたちの多くは、特に何も成功しなかった人ではなく、名誉ある仕事をした人ともなるとそうでしょうが、自分の罪については分からないのです。わたしたちはこのように、神から離れ、しかも、神からすべてをいただいているという事実を認めない罪人でありますが、水と霊とによって新たに生まれる希望、神の国に招き入れられる希望についてイエス様は教えられました。この救いを実現するためにイエス・キリストは地上に遣わされたのです。9節「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」

わたしたちが生きるようになるために、神はその独り子を死にさらしてまでわたしたちを愛されたのです。ここに神の愛がはっきりと明らかにされました。その愛がどんなに大きいかは、神の御子の十字架の贖いによってわたしたちに示されたのです。10節。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ヨハネの言葉によって、わたしたちは罪人であって、神に敵対する者であったことが語られます。それなのに、御自分の敵となっている人間のために、神はわたしたちに御子を賜ったというのです。これほど不思議なことがあるでしょうか。これこそ、神のわたしたちに対する愛の証しなのです。ローマ5:6「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心なもののために死んでくださった。」279下

不信心な者の救いのために御子をも惜しまなかった神。その愛をわたしたちは測り知ることができません。しかし、それでは神に気に入られようとする者たちが、いろいろ巧みな言動によって神に愛されようと近づいても、神はそういう人間の企てに一切左右されないのです。ただ純粋に御自身のご好意によって人を愛し慈しんでくださったのです。キリストが来られたのは、わたしたちの罪を償ういけにえとなるために他なりません。わたしたちは皆罪によって救いの道を閉ざされている者でしたが、神が御子の死によって和解され(宥められ)恩恵によって、わたしたちを受け入れてくださった時、その時にわたしたちの内に、御子と結ばれた新しい生(新しい命)が始まりました。ですから、わたしたちは、神に愛されていると確信できるためには、必ずその前にキリストの許に赴かなければなりません。ただキリストの働きによって、わたしたちは罪赦され、正しい者とされるのですから。

だからこそ、わたしたちは礼拝に集められ、主イエス・キリストによってわたしたちを救いに招いてくださった神の愛をほめたたえるのです。そして聖餐に与って、わたしたちのために犠牲となってくださったことを思い起こし、救いを確信する者となりましょう。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」教会に受け継がれた信仰を告白し、洗礼を受けて教会の中に入る者は、キリストの体のうちに生きる者とされます。神は聖霊を送ってわたしたちの内に住まわせ、聖霊によってわたしたちの心を新たに造り直して、隣人を愛する者としてくださるでしょう。わたしたちはこの希望に生きるのです。祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま

御子イエス・キリストを遣わされ、わたしたちの罪を赦して救いの道を開いてくださった、あなたの愛に感謝し、御名をほめたたえます。どうか、全国全世界の人々があなたの深い慈しみを知ることができますように。多くの困難に苦しみ、生きるに生きられないで苦しんでいる人々にこの良い知らせが届きますように。また人生の終わりに近づきながら、あなたの真に慈しみ深い御心を知ることがなく、自分をうやむやにし、人からもうやむやにされて生きるに生きられず、死ぬに死ねない思いでいる多くの高齢者の方々に、この良い知らせが届きますように。主よ、今苦しんでいる多くの高齢者、多くの子供たちが施設で暮らしています。そしてこれらの人々のお世話をする人々も、その苦しみを知りながら、どうすることもできず、苦しんでいると思います。

主よ、どうかわたしたちがわたしたちの救いだけで満足することがありませんように、あなたを知る知識が増し加わり、あなたの愛もわたしたちの心に増し加わりますように。どうぞ和解の使者として、救い主として世にいらしたキリストの恵みに応えて、わたしたちもまた、あなたの御心を宣べ伝える者となりますように。主よ、あなたが愛し、救おうと招いておられる方々の内、だれよりもまずわたしたちの身近な隣人に、親しい者たちに善き知らせを告げる者としてください。

10月に入りました。わたしたちに多くの行事計画をお与え下さり、真に感謝です。良い業は皆あなたの聖霊によっていただくものです。どうかわたしたちの内にある計画を良き業として造り上げてください。すべての人々が祈りをもって参加し、主の御名が崇められますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神は命を与えられた

聖書:創世記1章26-31節, 使徒言行録17章22-27節

 この夏、名古屋の動物園のサルが話題になりました。その鳴き声がおやじの叫び声そっくりというので、檻の前は人だかりが出来ました。忍耐強く待って聞くことができた人々は皆、「ほんとだ、そっくり」などと楽しそうに笑っていました。学校では人間はサルから進化したと教えられることが多いので、ああ、こんなにもサルに親近感もっているのかなあ、とわたしは思いました。

しかし、動物に親しみをもつことから大変な非難と人種差別が起こることもあります。随分前ですが、オーストラリアの動物愛護団体が、クジラを獲る日本の調査捕鯨船を攻撃する事件が話題となっていました。その頃、オーストラリアを観光している若い日本人女性たちに現地のマスコミがインタビューして、「クジラを殺す日本人は残酷だから、日本人を殺しても構わないと思いませんか?」と尋ねる場面を、わたしはテレビで見たことがあります。

生き物の命を尊ぶ、大変親近感を抱く。しかしその一方で、生き物を食物としている人間を生き物以下に見做すという転倒した考えはどこから来るのでしょうか。わたしたちの社会ばかりでなく世界中に、真の神を畏れない、真の神を知らない人々がいるからではないでしょうか。進化論的にサルは人間の祖先であると教えられても、わたしたちが感じることはせいぜい、サルに親近感を持つくらいですが、一方で牛を殺して食べているのに、クジラを食べるとは残忍非道な人間だという人々に親しみを持つという訳には行きません。

わたしたちが地上で平和に生きて幸せになるために、最も大切なことは神がおられることを知ることです。神とはどなたかを知ることが必要です。なぜなら、神はすべてのものをお造りになったからです。すべてのものを創造された方、何もない所からすべてのものを創造され、存在させられた方であります。そしてお創りになったすべてのものを良しとされた。祝福されたということは非常に重要なことです。さらに神は最後に人間を創造されました。「御自分にかたどって人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」と言われました。

人間は神のかたちに造られたのです。紀元前5~4世紀のギリシャ哲学者たちは人間のことをマイクロコスモス(小宇宙)と呼び始めたと言われます。人間は小宇宙。宗教改革者は述べています。「人間においては、神の栄光が輝いている。他のすべての被造物よりもいっそう輝いて、無数の奇跡に満たされている」と。神のかたちであることは、人間が動物と区別されたあるしるしを神から受けたことを意味します。もちろん、人間は他の動物と共通するものを多く持っていますが、ただ一つ、神との特別な関係のゆえに、動物よりはるかに優れているのです。その特別な関係とは何でしょうか。それは、人間は神と交わりを持つために造られているということです。そして人間は地上の生き物を治める権威を神から与えられているのです。

わたしたちに、このような信仰を与えられることは、大変な恵みであります。それは神の呼びかけを聞き、神に応える命を生きることだからです。そしてどのような時も、この命を造られた神が造り主としての責任を果たしてくださると信頼することだからです。このことは、サルは人間の先祖だなどと教えられるのとは決定的な違いを私たちにもたらします。なぜなら、わたしたちが求めているのは、サルとの関係ではないからです。またクジラとわたしたちとどっちが値打ちがあるかなどということではないからです。わたしたちが求めているのは、自分が日々、どうやって生きるか、ということです。

わたしがある教会の信者であった頃、児童養護施設に務めている教会員がいました。その人は何とかして施設に暮らす子供たちに教会学校の楽しさを体験してもらおうと、子供たちを連れて来ました。その子供たちを、教会学校の先生たちも生徒もその親たちも大変歓迎しました。家に連れて行って美味しいものをご馳走したり、贈り物をしたりしていたと思います。しかし、ある子はあまりうれしそうではありませんでした。なぜでしょう。そこには、自分にはいないお父さん、お母さんに囲まれている子共だち、いつも自分の家族を守っている教会の大人がいたからです。それを見て、彼女はいっそう寂しくなっていたのでした。自分にはない家族が一緒にいる。お父さん、お母さんがいる。どうして自分にはいないのだろう。この疑問にだれが答えられるでしょうか。

今、高齢化、少子化が深刻になっているというのに、このような辛い思いをしている子供たちがますます多くなっている社会の現実があります。今、私たちが生きるためには、私たちが人を活かすためには、「神とはどなたであるか」を知らなければなりません。なぜなら、わたしたちの命は神から与えられたものだからです。すべてのものをお創りになった神は、あなたをも、わたしをもお造りになって、良しとされた、祝福された、そうして世に私たちは送り出されたのです。これは、厳しい現実を生きるために教会が持っている、そして真剣に社会に提供しなければならない大切なメッセージです。神が命を与えられたということを知り、このことを信じ、日毎に夜毎に思い起こし心に刻む者は、どのような時にも生きる道を、この命を与えられた方に見い出すでしょう。

今日、選ばれた新約聖書は使徒パウロが、アテネのアレパオパゴスの丘(今も観光名所になっていて、行かれた方もいらっしゃると思います)の多くのアテネ人や在留外国人を前に演説した時のものです。「パウロは、アレオバゴスの真ん中に立って言った。『アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。』」どんなものでも神として礼拝していれば、信仰だ、と考える人々は多いかもしれません。しかし、真の神を求めている人々にとっては、そうはとても考えられません。パウロはアテネではありとあらゆるものが偶像となり、拝まれているのを見て憤慨していました。現代人はこういう憤慨を、狭量だと思う傾向にあります。何を信じようと信じまいと自分の自由だ、という訳です。それは、言ってみれば、何かを信じてその結果生きようが、死のうが自分の勝手だ、構わないでくれ!と言っているのと同じなのですが。

こういうのが、自由という言葉の難しさであります。「人は生きる権利がある」ということは信仰の有る無しに関係なく万人に受け入れられています。しかし、では「死ぬ権利がある」とか、「滅びる権利がある」「自由がある」とは言えるのでしょうか。とにかく死にかけた人がいたら、みんなでよってたかって助けようとする、それがわたしたちの考えによれば、救いはここにある、ということのしるしであります。ですから神様もわたしたちを世に遣わしておられるのです。それなのに、「真の神を知らないで、訳の分からないものを礼拝しているとは、何と惨めなことか」とパウロは憤慨したのです。しかも、彼は名前のない神の祭壇まで見つけました。

名前に分からない神を礼拝する、ということがどういうことかお分かりでしょうか。それは、たくさんの神々を拝む人々の気持ちです。彼らは、神がおられることは信じている。しかし、どういう神なのかはよく分からない。分からないけれども、ある程度以上の力はもっているとなると、宥めの供え物をして祟られないようにしよう、という気持ちになります。あっちの神にも、こっちに神にもお参りして拝んだけれども、それだけではまだ不安なのです。まだ、知らない神がおられるかもしれない。としたら、その神を拝まないと祟りが起こるかもしれないということになるのでしょう。そこから見えてくるのは、神々を拝んでいても不安は消えない。いつ、どこから思いがけない祟りが来るかしれない。それを避けるためにどの神を頼れば良いのか分からない、ということなのではないでしょうか。多神教の悩みは深いのです。

どこの国、どこの地方にも地元の神々という信仰はありました。しかし、人がもし地元を離れたら、その神の勢力圏を離れることになります。また国同士、地域同士に争いがあった時にはどこに救いを求めたらよいのでしょうか。そして実際には、人々は昔から国同士別々に生きていて、交わりもなく鎖国状態で暮らしていたのではありません。聖書の時代にも、実に多くの人々が地域を移動し、他国の人々が移り住み、自分たちも他国に出かけて行くという商業貿易、交易、交流がありました。まして戦争や、飢饉が起こった時は、土地を追われ、奴隷にされ、また移民政策により、人々が移動を余儀なくされていたのです。21世紀を生きる私たちは、世界的に動乱の時代に入って来ていると感じていますが、そのような現実はむしろ、今も昔も変わりないと考えるべきではないかと思います。

さて今日の聖書を見ますと、使徒パウロは、アテネ人は少なくとも神はいないと思ってはいないのだ、と理解していました。そこで、よく分からないままでも礼拝を捧げているアテネ人の気持ちを、信仰心として受け入れることから話を始めました。23節。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしは知らせましょう。」こう言って彼は、唯一の神、天地創造の神を宣べ伝えました。

「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」ここに、わたしたちを活かすただ一つの神信仰があります。それは第一に、わたしたちが拝む神はどんな方であるかをはっきりと理解することです。神は万物の造り主。そして人間を御自分にかたどって造られた。これが教会の信仰です。次に神はどのように拝まれ敬意が払われるべきか、ということです。

この方に礼拝を捧げるために、人々は神殿や礼拝堂を建て、そしてそれを神の家と呼びます。しかし、神がそこにだけ住んでおられると考えることは愚かなことであり、人間の造ったものに神を閉じ込めようとすることになります。それは恐ろしい罪ではないでしょうか。しかし、この時代の人々は、神殿で壮大な儀式を献げ、動物、収穫物、金品を捧げ礼拝しました。ギリシャの神々の神殿では、人々は競技会や踊りや、今でいうイヴェントのような華やかなものを捧げることで満足していたようです。

しかし、真に礼拝については、イエスキリストは次のように話されました。ヨハネ4:24「神は霊である。だから、だから、礼拝する者は、霊と真理とをもって礼拝しなければならない。」このお言葉を言い換えれば、霊と真心をもって礼拝するのでなければ、人の目に見える儀式がどんなに豪華でも盛大でも、神は礼拝としてお認めにならないということになるでしょう。

人間は地上の生活に浸り切って楽しみたいとばかり思うならば、自分の欲望に対応し、満足させてくれるような神をもちたい。その結果、本末転倒というべきことが起こります。すなわち、神がすべてをお創りになったことが無視され、偽りとされる一方、神がお創りになったものが神のように崇められ、追い求められるのです。その悲しむべき、痛ましい結果は、本来祝福であるはずのものが転落して、呪われたものになるという警告を、私たちは受けているのではないでしょうか。

神を正しく認める第一歩は、世界の造られたものの中にではなく上に、神を見ることであり、神と神のお創りになったものをはっきりと区別することに始まります。そして私たちの能力を過信して、自分の限られた力によって神を測るようなことをしないこと、また私たちの感覚によって神を心に描くことをしないことが肝心であります。

神は、わたしたちが礼拝のために集まり、神の民としてキリストの体として目に見える形をとることを喜ばれます。しかし神御自身、神殿に縛られているはずがない方であります。と同時に神を礼拝する私たちに対しても、目に見える特定の場所に縛り付けたり、特定の形に縛り付けたりなさることはお考えにならないのであります。むしろ重要なのは、御自分の民を救うために、御自分のところまで引き上げるために神が何をなさったかを知ることです。神はご自分の民を御自分のところまで引き上げるために、救うために、むしろわたしたちのところにお降りになられてくださった。わたしたちは御子イエス・キリストによって、神がこのようなお方であることを教えられたのです。

今日は、なぜ神さまを知ることが最も大切なのですか、という問いを学びました。その答は、私たちの命は神さまによって与えられたものだからということです。命の源を知ることによって、わたしたちの命がどのようなものであるか、わたしたちに思い及ばなかったほど、尊く大切なものであることを教えられました。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

あなたの尊い御名を賛美します。私たちは本日も主の日の礼拝に招かれ、恵みに満ちたあなたの御心を教えられました。私たちは右も左もわきまえず、たださまようばかりの者でありましたが、あなたはキリストの贖いの十字架によって教会を建て、信じる者を救いに結んでくださいました。今日まで教会が受け継いで来た信仰の告白を、御言葉を通して今も後の世にも、私たちに知らせてくださることを感謝します。

今年は宗教改革から500年という時を迎えて、全世界が教会建設の志を新たにしていると思います。どうか激動の時代に生きる世界の教会と共に、日本の諸教会も奮い立って福音を宣べ伝えるために、聖霊の主よ、教会の上に降ってください。東日本連合長老会を通して、私たちは主の交わりによって励まし合い、助け合って行く者となりますように。小さな群れ、力弱い者たちの上に主の慈しみ、主の御力が注がれることを信じます。今、苦しんでいる者を特に顧みてください。また遠くにいて礼拝を守れない方々を慰めてください。この感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。