何が見えるか

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌67番
讃美歌444番
讃美歌90番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 28章18節 (旧約聖書1,103ページ)

28:18 お前たちが死と結んだ契約は取り消され/陰府と定めた協定は実行されない。洪水がみなぎり、溢れるとき/お前たちは、それに踏みにじられる。」

新約聖書:マルコによる福音書 8章22-26節 (新約聖書77ページ)

8:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
8:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
8:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
8:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
8:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

《説教》『何が見えるか』

本日ご一緒に読むマルコによる福音書8章22節以下には、ガリラヤ湖畔の町ベトサイダで、主イエスが一人の盲人の目を開かれたという癒しの奇跡が語られています。

この癒しの出来事は、先々週8月1日にご一緒にお読みした7章31~37節の、耳が聞こえず舌の回らなかった人の癒しと対になっていると言えます。その7章31節から37節を振り返って読んでおきたいと思います。

7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
7:37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

先々週の、この聖書箇所と本日の聖書箇所との二つの癒しの御業には共通していることがいくつかあります。

先ず、どちらの御業も群衆の目の前でなされたのではなく、癒される人が外に連れ出されていることです。

またどちらの癒しにおいても、主イエスが手を触れ、唾を用いておられること、癒しが一瞬で行なわれたのではなくて、ある程度の時間が必要であったことも共通しています。それに、このどちらの話も、マルコ福音書のみが語っており、他の福音書には出てこないという共通点もあります。

これらのことから、この二つの癒しの話が一対のものであることが分かります。これらの話によってマルコが語ろうとしていることは、神様の救いの時には「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、口の利けなかった人が喜び歌う」、というイザヤ書35章5節以下の預言が、主イエスにおいて実現した、ということです。

主イエスがこの世に来られたことによって、目の見えない人が見えるようになり、耳の聞こえない人が聞こえるようになり、口の利けない人がしゃべれるようになる、という神様による救いが実現しているのです。

マルコ福音書は、他の福音書と比べて奇跡物語が多く、繰り返し奇跡物語を記しています。これまでにも、何人もの人々がキリストの御業によって救われたことが書かれていました。熱病に苦しむペトロの姑を初めとして、悪霊に憑かれた男、中風の男、片手の萎えた男、長血の女、死にかかっていた少女、耳の聞こえない男、皆、主イエスによって救われて来ました。そして今度は、眼の不自由な男が現れたのです。

マルコ福音書は、何故、これ程までに奇跡を繰り返して語るのでしょうか。「所詮、同じことの繰り返しではないか」、「また同じようなものか」と読み飛ばそうとする人に対し、奇跡物語は、その都度、もう一度立ち止まることを要求しているのです。ある意味では、常識的な世界観で聖書を読む人に、繰り返し挑戦しているとも言えるでしょう。これら奇跡物語は、イエスの生涯を軽い気持ちで読み通そうとする人に、「あなたは何者なのか」と問いかけているのです。

私たちは、何者なのでしょうか。私たちの何が、今、問われているのでしょうか。ヨハネ福音書には、次のように記されています。新約聖書186ページ、ヨハネによる福音書9章39節から41節をお読みします。

9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
9:40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
9:41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

次から次に、イエスの御前に連れて来られた病人や身体の不自由な人々は、心の底から主イエスの顧みを必要とする人々でした。彼らは、全て不幸の中にあり、「ナザレのイエスに頼る以外、普通の幸せな人になることは不可能である」ということを、自分自身で知っていた人々でした。

私たちに問われるのもこのことではないでしょうか。

あなたが、もし盲目であったなら、ここに現れて来た盲人の姿に、『またか』とは決して言わないでしょう。

福音書は、何時も、「このことを考えよ」と要求しているのです。

肉体の眼が不自由ではないとしても、真実に正しいものを見極める心の眼はどうでしょうか。罪に対し、救いに対し、如何に無知であったでしようか。キリストが来られなかったなら、どのように生きていたのでしょうか。

主イエス・キリストが顧みられる病人や障碍者の姿を見るたびに、私たちこそ、「死に至る病」に侵されていた者であり、自分の真実の姿すら見ることが出来なかった哀れな者であるということに、気付かなければなりません。ベトサイダの人々は、盲人を連れて来て「触れていただきたい」と願いました。古代の人々は、優れた能力を持つ人に触れると、その力で病気も治ると信じていたのです。それ故に、「触れる」ということは「治す」ということを意味していました。この「触れる」と訳されている言葉は、「縛り付ける」「結びつける」という意味の言葉であり、単なる「接触」のことではなく、「意図的に強く結びつく」ということです。それは、ある場合には、「すがりつく」という意味にも用いられます。この男への「癒し」即ち「救い」によって、彼へ「新しい人生への転換点」が示されています。「救いとは、ただひとつ」、主イエス・キリストに「強く結ばれる」ことなのです。

23節には、「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何か見えるか』とお尋ねになった。」とあります。村の外に連れ出したのは、恐らく、人々の興味本位の野次馬的眼差しを避けるためだったでしょう。しかしながら、このような記述の中に、救いを求める者を導かれる主イエスの御業を見ることが出来ます。全ての人間の救われる姿が、この短い物語の中に示されているとも言えます。主イエスは、先ず、「手を取って下さる」のです。未だ眼が開かれていない時に、「ナザレのイエスは神の子である」ということがはっきりと心の眼に映っていない時に、主イエスは、私たちの理解と告白に先立って、手を取って導いて下さるのです。主イエスのみが、御心のままに導いて下さるのです。

多くの場合、私たちが犯す過ちは、「自分でそこまで歩こう」とすることです。求める気持ちは変わらないとしても、眼が開かれる場所まで、「自分で歩いて行こう」とするのではないでしょうか。「歩いて行ける」と思い込んでいるのです。大きな間違いはまさにそこにあります。

救いとは、全てを主に委ねることから始まります。自分が進むべき道をキリストに委ねきった時、救いの御業が実現するのです。その時と場所をキリストに委ねることこそ、新しい人生に出発する大前提なのです。

23節で、主イエスは「その眼に唾をつけ、両手をその人の上に置いた」とあります。7章33節でも同じようなことが行われていました。そして「何か見えるか」と主イエスは言われました。これまでの癒しの奇跡でこのように主イエスご自身が尋ねられたのは初めてです。彼の手を取って歩まれるお姿と共に主イエスの心遣いの細やかさが、よく表されていると言えるでしょう。

24節には、「すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』」とあります。癒されていく男の気持ちが伝わって来るような言葉です。「人」とは彼の前にいる弟子たちの姿でしょう。この時、他の人々の物見高い視線を避けるために、わざわざ村の外に連れ出して癒しを行われたのですから、その場にいる人と言えば弟子たちだけであった筈です。主イエスによって眼が開かれた男が先ず最初に見たのが、弟子たちの姿であったということは、単なる偶然でしょうか。主イエスによって眼が開かれた人間が、山や川や村を見ず、「先ず弟子たちの姿を見た」ということは、まさに主イエス・キリストの御心に適うものであったと言えるでしょう。何故なら、キリストによって心の眼が開かれた時、私たちが最初に見るものは、キリストによって同じように救われた人々だからです。

しかし、もっと大切なことは、見えるようになったその眼が「何を見るか」ということです。何でも見えれば良いというのではなく、本当に価値あるものを正しく見分けられるようになるということが大切なのです。「何かが見える」ではなく、「何が見えているのか」ということ、見えるようになった眼で「何を見分けているのか」ということが、彼のそれからの人生を決定して行くのです。主イエスは、「主によって結ばれた信仰の仲間がここにいる」ということを、先ず第一に教えられました。救いとは、主イエス・キリストを神と告白する「神の家族であることへの目覚め」とも表現することが出来るでしょう。続く25節には、「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」とあります。男は弟子たちの姿を見詰め続けていました。そしてその眼は、全てをはっきりと、即ち、この世界を初めて正しい姿で認識することが出来たのです。私たちキリスト者も、かつてはこのように救われたのであり、この癒しの過程は、まさしく救われて行く過程であると言えるでしょう。

主イエス・キリストは、私たちの心を少しずつ見えるようにして下さるのです。そしてその過程で、私たちは、あちらこちらを見回すのではなく、「キリストと共にいる人々」を見詰め続けることによって、全てがはっきりと正しく見えるようになるのです。そしてさらに、私たちの眼は、両手を私たちの眼にしっかりと当てて下さっているキリストの手の指の間から、あらゆる世界を見ているのだ、ということを忘れてはいけません。「本当に目を開かれる」とは、主イエス・キリストにおける神様の具体的な恵みを見詰める目を開かれることなのです。それを見詰めることができないうちは、私たちは「目があっても見えない」者なのです。これと同じことは、7章31節以下の、耳が聞こえず口の利けなかった人の癒しにおいても語られていました。

本当に耳が開かれているとは、主イエス・キリストが話される神様の恵みのみ言葉を聞く耳が開かれていることです。本当に口が利けるとは、その恵みに感謝し、神様をほめたたえる言葉を語り、祈りの言葉とすることができることです。

主イエス・キリストの愛と恵みを共に告白するのが神の家族であり、キリスト者の生活、教会の営み、です。

主イエス・キリストは、今日も私たちに向かい、「何が見えるか」と問い掛けられているのです。

お祈りを致しましょう。

思い出

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌23番
讃美歌138番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 7章9-11節 (旧約聖書1,071ページ)

7:9 エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」
7:10 主は更にアハズに向かって言われた。
7:11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」

新約聖書:マルコによる福音書 8章11-21節 (新約聖書76ページ)

8:11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。
8:12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」
8:13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。
8:15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。
8:16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。
8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、
8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

《説教》『思い出』

先週、ご一緒に読んだ「四千人の給食」の行われた場所は、ユダヤ人が住むガリラヤではなく、異邦人の住む土地でした。主イエスは、ユダヤ人に追われる様に弟子たちと共にダルマヌタ地方に来られました。

このダルマヌタ地方とは何処なのか、聖書では、このマルコ福音書の、この箇所にたった1回しか出て来ないのでハッキリとは分かりませんが、並行聖書箇所のマタイ福音書ではマガダン地方となっていることなどからガリラヤ湖西岸のマグダラの辺りではないかといった説が有力なようです。

ここに来られた主イエスの周りに、またまたファリサイ派の人々が現れました。彼らはここでも主イエスを陥れるために議論を仕掛けて来たのでした。

彼らは主イエスを試そうとして「天からのしるし」を求めたと書かれています。「天からのしるし」とは、「神による直接の証明」を示せということです。

彼らは、主イエスが各地で驚くべき御業・奇蹟をされたことを聞き、また、その出来事に出会って来た筈です。

しかし、それでも満足していませんでした。神の御子の大いなる御業に接し、その出来事を聞かされながら、それが信じられないのです。それは、自分自身の目で見て満足出来れば、自分たちの判断によって、「神を承認しよう」ということ、人間が神の上に立つということです。

既に、ご一緒に読んで来ましたように、五千人の人々に食事を与え、四千人の空腹を癒したパンの奇跡こそ、「神の国の食卓を表す」ということを私たちは学んで来ました。そこには神の御子の偉大な御業が現わされていました。

しかし、ファリサイ派の人々は、それらの出来事を何ひとつ正しく受け止めようとはしませんでした。深い知識と十分な経験を持ちながら、彼らは自分たちの持つ硬い殻を破れず、何も悟ることが出来なかったのです。

自分を虚しく出来ない人にとって、神の御業は全く無意味であることが、ここに示されたと言えます。「この世のものでないこと」に出会っていながら、なお自分の判断で理解しようとする人々。その人々は、たとえ「しるし」を示されても、それが「しるし」であることに気付かないのです。

主イエスの嘆きは、このような人間の愚かさに対するものでした。

「しるし」がないのではなく、無数に示された「しるし」を見ない「人間の惨めさ」への嘆きがここにあると言えるでしょう。

主イエスは「しるしがない」と言っておられるのではなく、神の御業を見ようともしない人間を悲しまれているのです。

主イエスは、ファリサイ派の人たちに背を向けられました。議論の相手になろうともせず、彼らの求めに応えようともせず、彼らを見捨てて去って行かれました。神の独り子を眼の前にしながら、なおそこに何も見ようとしなかった人々への「天からのしるし」は、もはや神の直接的な御手が下される終末の時を待つ以外ないからです。そして、そのような人々は、舟に乗って去る神の御子を「ただ岸辺で見送るだけ」なのです。

そして、このすぐ後、ガリラヤ湖を渡る舟の中で、主イエスと弟子たちとの間に交わされた会話こそ、私たちが心して聞かなければならないことなのです。

15節に、主イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められたとあります。

この時代、微生物はおろか、微生物の働きである「発酵」や「腐敗」についての原理は知る由もありませんでした。「パン種」とは、焼く前のイースト菌の入った生パンの一片を、次のパンを作るときに、新しいパン生地に加えて発酵させて、次のパンを作るときに用いていたことを現わしているのです。

ところで、皆さんは、微生物の働きである「発酵」と「腐敗」の違いをご存知でしょうか。実は「発酵」と「腐敗」は微生物による有機物の分解でまったく同じ働きを表わす言葉です。

「発酵」と「腐敗」の違いは、私たち人間の役に立つものが「発酵」で、役に立たないものが「腐敗」と呼ばれているだけです。

「発酵」と「腐敗」することはまったく同じであり、「パン種」とは作ろうとするパンに次々に微生物の働きが移って行くことです。このため、聖書では、この「パン種」という言葉は「腐敗」や「伝染」という悪い意味でも用いられました。ここに語られている「ファリサイ派のパン種」とは、悪い影響をもたらし、真実を歪める偽りの信仰という意味として理解出来ます。彼らは、外から見た目には、信仰には熱心であり、敬虔でありました。しかし内実は、自分を第一とし、神を「二の次」とする者として批判せざるを得ません。

「神を求める」と言いながら、実は、神の名を借りて自分の立場を守っていたのがこの人々の特徴でした。彼らが示す信仰者の姿は、真実の自分を隠し、偽りの姿で惑わせる巧妙な偽装に過ぎませんでした。

ファリサイ派の人々に対する主イエスの厳しい批判は、マタイによる福音書23章1節以下の小見出し「律法学者とファリサイ派の人々を非難する」に詳しく記されています。後でお読み頂けると幸いです。また、15節にある「ヘロデのパン種」とは、当時の社会に存在していた「ヘロデ党」と呼ばれる政治的団体に代表される「この世中心主義」のことです。現実主義であり、「自分の生活が第一、神は第二」という世俗主義のことです。富の豊かさと社会的地位や権力を求める人間、それらに眼を奪われる人間。それがこの「ヘロデのパン種」に譬えられるタイプの人間です。

この二つの「パン種」という言葉によって表れされるのは、自分の考え、自分の生活を第一にする人間のことであり、神の御業に出会っても、何も見えない人とも言えます。自分の要求が満足させられるか否か、ただそれだけを求める人は、結局、「そこでは何も見なかった」のと同じことになってしまいます。

幸福を与えるために来られた神の御子に見捨てられ、舟に乗って遠ざかるキリストを岸で見送る虚しさ、これが神を第二とする人間の特徴と言えましょう。

私たちも、ファリサイ派の人々ほど極端ではないかもしれません。ヘロデ党の人々ほど世俗的ではないと言えるかもしれません。しかし、私たちの心の中に、自己中心主義の小さなかけらが一つもないと言えるでしょうか。

神の御業に目隠しをしてしまう力を秘めたものが、心の片隅にこびり付いていないでしょうか。このような自己中心主義の危険にさらされていることが、ファリサイ派の人々やヘロデ党の人々だけの問題でないことは、この舟の中に主イエスと共にいる弟子たちの姿を見れば明らかです。

14節に、「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。」とあります。弟子たちは弁当を持って来ることを忘れたのです。この時、彼ら全体でパンを「ひとつ」しか持っていませんでした。ですから、主イエスの御言葉を聞きながら、一番の心配事として、「パンがひとつしかない」ということに心を痛めていたというのです。余りにも馬鹿馬鹿しい勘違いだと笑う人がいるかもしれません。実に愚かなことだと私たちも思います。

しかしこれこそ、「常に、自分を第一」と考えさせる、あの「パン種」の仕業なのです。

主イエスはそれに気づいて言われました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」。弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを裂いたときには、集めたパン屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と弟子たちは答えました。主イエスは、何を言おうとされているのでしょうか。

五つのパンで五千人。七つのパンで四千人。「そこまで言うならば、ひとつのパンでも十分だったのではないか」と思うなら、その人もまた、この弟子たちを笑う資格はないでしょう。ここで問題になっていることは何でしょうか。

「僅かひとつのパン」で、「どうして全員が食事をすることが出来るか」ということでしょうか。

17節から18節の主イエスの言われた「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」 主イエスとしては珍しく強い言葉です、一言で言えば、「愚か者!」ということでしょう。まさに厳しい叱責であり、強烈な批判です。主イエスの御業をしっかりと見詰めておらず、そこで示された恩寵の素晴しさを思い出すことも出来ない愚かさが、ここに指摘されているのです。

あの「五千人の給食」と「四千人の給食」で「思い出さなければならないこと」とは何でしょうか。

あの時の飢えは、単なる肉体的な飢えではありませんでした。あの時の満腹は、単なる肉体的な満腹ではありませんでした。主イエスと共にいることで「時」を忘れ、主イエスご自身が解散させるまで離れようとしなかった人々。空腹を忘れ、飢えを忘れ、寒さを忘れ、家に帰るべき時間を忘れた人々。その人々に、主イエスは何をもって報いたでしょうか。その人々は、何を携えて家に帰って行ったのでしょうか。これらの「パンの奇跡」こそ、神の国の恵みの先取りであり、キリストと共にいることの喜びにすべてをささげ、飢えも寒さもあらゆる不安からも解放されたのが、あの時の人々の姿でした。まさしく、「神の国」が実現し、「キリストと共にある豊かさ」が全ての人々を満たしていました。たとえそれが、僅かなひと時であったとは言え、「来るべき神の国」を、主はあの奇跡によって示されたのでした。それにも拘らず、何故、弟子たちは「そのこと」を思い出さなかったのでしょう。主イエスは言われました。「まだ悟らないのか」(21)、「もう分かったであろう」ということです。「あの出来事を思い出したであろう」ということです。

私たちの信仰も、この主イエスの御言葉を正しく思い出すことにかかっているのです。

弟子たちは、「パンがひとつしかない」ということしか考えていませんでした。聖書は、「ひとつのパン」ということから「何を思い出せ」と言っているのでしょうか。それは、新約聖書312ページ、コリントの信徒への手紙第一 10章16節の中頃から17節に、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」とあります。

ここの「ひとつ」とは、ひとつ・ふたつと数える数字の「イチ」“ひとつ”ではなく、「掛け替えのない」“ひとつ:ファースト”ということなのです。主イエス・キリストこそ「生命のパン」であり、私たちの新しい生命のための「唯一のパン」なのです。

そして主イエス・キリストは、パンである「御自身のからだ」によって数知れない多くの人々を養われるのであり、この「偉大なパン」を、何よりも大切なものとしなければならないのです。

「たったひとつの生命のパン」、それこそ、主イエス・キリストと私たちを結ぶ信仰の絆なのです。その力を持つものこそが、「天からのしるしとしてのパン」なのです。

あの時、舟の中で弟子たちは、「パンがひとつしかない」と言って心配しました。しかし私たちは、「ここにひとつのパンがある!」ということを喜ぶべきなのです。

ガリラヤ湖に浮かぶ小さな舟。主イエス・キリストを中心とする舟の中の人々。それこそ、教会の姿を示しています。自己中心的、人間主義的な考えから自由になれないファリサイ派の人々やヘロデ派の人々から、主イエス・キリスト御自身が引き離して「湖の上に分け隔てられた群れ」こそ、教会の姿に他なりません。しかし、その教会の中にあっても、私たちは自分自身の力によって、自らの歩みを確かなものにしようとします。主イエス・キリストの十字架による罪の赦しを自分のものと悟ることが出来ず、聖書は赦しを語っているのに、自分で自分を裁いたり、隣人の過ちを裁いてしまうこともあります。

信仰の恵みを理解出来ず、目があっても見ない、耳があっても聞かない者のためにこそ、主イエス・キリストが十字架上で苦しまれているのです。私たちは、その主イエス・キリストの十字架の御苦しみが私たちのためであると理解できたとき、その一つのパンによって赦され、救われた者として歩むようになれるのです。

主イエス・キリストが十字架で苦しまれつつ自らの御体を裂かれたことを思い、その恵みが自分たち教会のためであり、共に信仰に生きる主イエス・キリストの家族のためだったと感謝できる時、救われてその恵みに生かされる者となっていくのです。

お祈りを致しましょう。

生命のパン

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌15番
讃美歌142番
讃美歌000番

《聖書箇所》

旧約聖書:列王記 下 4章42-44節 (旧約聖書583ページ)

4:42 一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人のもとに持って来た。神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、
4:43 召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」
4:44 召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。

新約聖書:マルコによる福音書 8章1-10節 (新約聖書76ページ)

◆四千人に食べ物を与える
8:1 そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
8:2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。
8:3 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」
8:4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」
8:5 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。
8:6 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
8:7 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。
8:8 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。
8:9 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。
8:10 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。

《説教》『生命のパン』

皆さんと御一緒に読んできたマルコによる福音書は本日から、8章に入ります。

1節の初めに「そのころ、また」とあります。「そのころ」とは直訳では「その直後」という言葉で、「前の物語のすぐ後」といった意味です。続く、「また」とあるギリシャ語は「パリン」という言葉ですが、これは「再び」という意味です。何故「再び」と言われているのでしょうか。それは、ここに語られる「パンの奇跡」が、既に6章30節以下で行われた「五千人の給食」と同じような奇蹟であるからでしょうか。

確かに本日の、「四千人の給食」物語は、6章の「五千人の給食」と非常に良く似ています。違いと言えば、6章が「五つのパンと二匹の魚」であり、本日の箇所は「七つのパンと少しの魚」ということくらいで、その他は似たようなものです。

そこで多くの人々は、この二つの物語は実際には同じものであったが、伝えられている間にパンの数が変わり、マルコは別々の物語として記録したのであろう、と考えるのです。

確かに、よく似ていることは事実です。しかし、ただ「似ているだけ」では、すぐそばに二つの物語を置く必要はなさそうです。マルコは、ここに「キリストの恵みに接する人間の傲慢さ」があると言っているのです。

私たちは、奇跡物語に出会うと「こんな奇跡はある筈はない」と思い、二度続けて出てくると「二度も起こる筈はない」と思うでしょう。それは、神の恵みの御業を、なるべく小さなものに、人間が合理的に理解できるものにしようとするのではないでしょうか。神の御業を人間の理解できるものにしようとする滑稽な努力が、この8章1節以下の物語の独立性を否定しようとしているのです。この奇跡は、繰り返される必要のないものなのでしょうか。

もし、本当に「渇きに耐えかねた動物が、谷川の水を求めて険しい崖を下るような思い」で、神の恵みの御業を求めているのであるならば、再び示されたこの奇跡を「増し加えられた恩寵」として喜ぶべきです。むしろ、「まだこのほかにも沢山行われた筈だ」と考えたくなるのではないでしょうか。

主イエス・キリストと共におり、キリストが自ら祝福して下さったパンを受け取ることこそ、神の国に生きる者の願いなら、この奇跡は、「繰り返されるべき恩寵の御業であった」と言うべきではないでしょうか。そして、現在の私たちが聖餐式で受ける恵みこそ、このパンの奇跡の繰り返しに他なりません。再び行われたこの奇跡は、「キリストと共にある時、何時も与えられる恵みのしるし」として受け止めるべきです。

奇跡の行われた、この場所は、ユダヤ人が住むガリラヤではなく、既に述べたように異邦人の住む土地でした。ですから、これらの二つの奇跡を単純に区別するならば、6章30節以下はガリラヤで行われた「ユダヤ人に対する恵み」、今日の8章1節以下は、主イエスがユダヤ人に追われて行った先で行われた「異邦人に対する奇跡」と言うことも出来ます。そう考える時、この奇跡が単なる繰り返しというものではなく、神の国が、ユダヤ人の境を越えて、神の民とは見做されていなかった異邦人のところまで広がっていることを示している、と見ることが出来るでしょう。

2節で「群衆がかわいそうだ。」と主イエスは言われました。ここが6章30節以下と決定的に異なるところです。この時まで救いから外されてきた異邦人、私たち日本人を含め、神の国の食卓に着くことが出来るようになったのは、この主イエス・キリストの憐れみに基づくものであるということを忘れてはなりません。

私たちも異邦人でした。罪の中にありながら、罪とは何であるかを知らず、神の国を求めることさえも知らなかった私たちが、今、このように教会に招かれ、恵みのパンを受け、永遠の生命を約束される神の国の民となったのは、このキリストの憐れみによるものです。

「群衆がかわいそうだ」と言われたキリストの御言葉が全ての人々の運命を変えて行くのです。「かわいそうである」と訳されている「スプラグコニゾマイ」という言葉は本来、ユダヤ人が感情の宿ると考えていた「腸(はらわた)」という言葉から派生した意味の言葉であり、別の岩波訳聖書では「腸(はらわた)のちぎれる想いがする」と訳しています。まさに心の想いが充満した状態を表して、単なる「かわいそう」という日本語の訳では人間の惨めさを見詰める主イエスの御心を表現するにはまことに不十分と言えましょう。御前に集まる人間の惨めさに対する主イエスの心からの思いが、この御言葉によって示されているからです。

主イエスは、彼らの何を見てそれほど心を揺り動かされたのでしょうか。全ての者を神の御国へ導く救い主キリストの御言葉は、何に基づいて語られているのでしょうか。

2節で主イエスは、「食べ物がない」と言われています。空腹が直接のキッカケであったことは確かです。しかし、単なる飢えがそれ程の問題になり得たでしょうか。家に帰れば食料はあり、ただ「今、この場に食べ物がない」というだけのことです。その程度の空腹に対し、「神の御子が心からの思いをもって憐れんだ」というのは少々大袈裟で、変ではないでしょうか。飢えにも様々なものがあり、求めるものも様々です。そして共通することは「飢えとは我慢できないものである」ということです。一切れのパンのために牢獄に繋がれる人もあり、創世記25章のイサクの長男エサウが空腹のために煮豆で長子の権利を弟ヤコブに譲ってしまうのは旧約聖書の有名な物語です。これは決して絵空事ではなく、人は飢えを満たすために生きているとも言えるでしょう。古い話ですが、昭和二〇年代前半、敗戦後の日本ではアメリカからの援助を期待してクリスマスには各地の教会は満員になり、教会の前には貧しい人々で列ができたと聞きました。しかし、社会が豊かになった時、人々は教会から離れました。

主イエスが群衆を見て「腸(はらわた)を揺り動かされた」のは、単に空腹であったからではなく、「その飢えとは何であるのか」ということを見透されたからなのです。「もう三日もわたしと一緒にいる」。即ち、群衆の空腹は「キリストと共にいた」ということから起こったのです。「主を追い求めた結果」として気付かされた「飢え」とは空腹とは違う飢えだったのです。

キリストと共にいて初めて覚える「飢え」とは何でしょうか。そこで気付く飢えとは、肉体の飢えではなく、日頃は忘れていた「魂の貧しさ」だったのです。敢えて言えば、主の御言葉を追い求め続けたことが「魂の飢えを呼び覚ました」ということなのです。そして、「三日の日々、主の御許に留まった」ということは、そのために空腹になったということを説明するのではなく、魂の飢えの満たされることを願って「食べることを忘れた」と言うべきでしよう。

ユダヤ人にとって「穢れた者」であり「豚」とまで蔑まれた異邦人を、主イエスはその御言葉によって、神の国の民に変えて行ったのです。

主イエスの下に集まった多くの異邦人が「初めから特別に熱心であった」とは考えられません。彼らもほかの場合と同じように、「有名なナザレのイエスを見てみたい」という興味本位であったり、或いは「病気を治して欲しい」という自己中心的な理由であったかも知れません。しかし、集まった理由は様々であっても、そこで語られた主イエスの御言葉が、彼らに「時」を忘れさせたのです。

これは、私たち自身のことを考えれば明らかでしょう。多くの場合、教会へ足を踏み入れるきっかけは、極めて世俗的な理由によるものです。私たちは、決して信仰のエリートではありませんし、特別な熱心さを初めから持っていたわけでもありません。ただ、ふと足を踏み入れた教会で聞いた御言葉が、そこで初めて知った聖書に記された主イエス・キリストのお姿が、何故か、心を捉えて離さなかった、ということなのです。

「もう三日もわたしと一緒にいるのに」と主イエスは言われました。御言葉に捉えられて、初めて魂の飢えを知った者に、主イエス・キリストは生命のパンを与えて下さるのです。

4節には、「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」と弟子たちが言いました。場所は荒野です。パンを手に入れることが出来る場所ではありません。

自分自身で自分の飢えを満たすことは不可能だと気付かされる時、丁度、荒野の真ん中で途方にくれている弟子たちのように自分に絶望する時、キリストの手が差し伸べられていることを知るのです。神の御恵み「恩寵」とは、人間の努力の虚しさの彼方にあるものなのです。

5節から8節にあるように、主イエスはわずかに持ち合わせのあった7つのパンで四千人を満腹させる奇跡を行われました。この奇跡に何を見なければならないのかは、明らかです。「七つのパンで四千人の人が満腹した」ということは驚くことではないのです。この世に来られた独り子なる神が、「七つのパンで四千人を養った」からといって、不思議に思う必要はまったくないのです。

しかしながら、このことに躓く人が沢山います。「そんなことは不可能だ」と言い、「幼稚な作り話だ」と笑い捨てる人もいるでしょう。しかし、もしこの恵みを受けている群衆の中に自分がいることを考えるならば、どうでしょうか。「七つのパンで四千人を養うこと」と「私の罪を赦すこと」の、どちらが容易だと思いますか。

「本当の奇跡」とは、罪の中に苦しんで来た人間が「御言葉に捉えられる」ということです。神に背を向けて生きて来た人間が、「神の国に迎え入れられる」ということです。そしてなお、御言葉を十分に理解できない異邦人のためにも、主イエス・キリストの祝福が与えられたということです。

この時、神の国の食卓を示す奇跡に「七つのパン」が用いられました。この数は、たまたま弟子たちが持っていた数であったのかもしれません。しかし、聖書が教えることは、「七は聖なる数である」ということです。聖書はしばしば象徴によって恵みの真理を語ることを思い出してください。

ということは、この食事が、神の子キリストによって与えられる「聖なる食事である」ということを、「七つの」という言葉によって暗示しているのだということが出来るでしょう。キリストが与えて下さるパンは、単なる肉体の飢えをその場限りで満たすものではなく、永遠に連なる神の国の豊かさを、人間の魂に与えて下さっているのです。

さらに、「感謝の祈りを唱えてこれを裂き」と記されていますが、これは新約聖書314ページのコリントの信徒への手紙第一 11章24節でパウロが語る、「主の晩餐の制定」の言葉と全く同じです。そして、この6節の「感謝する」と訳されている言葉「ユーカリステオー」から「聖餐:ユーカリスティア」という言葉が生れました。主イエス・キリストの顧みによって与えられた聖なる食事、それこそ、驚くべき奇跡の始まりであり、今や、主の御許に集まった異邦人の群れの中に、「新しい神の民が誕生した」ということが、ここに宣言されているのです。

8節には、その四千人の人々を主イエスが解散させられたとあります。人々は主イエスから離れ、それぞれ自分の家に帰って行きました。神の御子と共に居り、御言葉を親しく聞いていた場から、再び現実の生活の場へと戻って行きました。そしてそれが、この時の主イエスの目的であったのです。

主イエス・キリストが与えて下さる生命のパンは、御言葉を聞いた人々が新しい力に満たされ、生活の場へ戻って行くためのものなのです。これこそが教会に許された聖餐の意味です。罪と戦い、永遠の御国へ向かう魂の旅路を支える生命のパンは、主の憐れみよって備えられているのです。

新約聖書176ページ、ヨハネによる福音書 6章35節の主イエスの言われた御言葉をお読みします。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことはない。」

主イエス・キリストは、魂の飢えを満たし、この世の日々を喜びのうちに全うするために、御自身を「新しい生命のパン」として、私たちに差し出されているのです。御言葉に捉えられ、キリストと共に喜ぶ者に、主イエス・キリストは、今もなお繰り返し「生命のパン」を与えて下さっています。

私たちが弱りきってしまわないために、与えられた御言葉を確かなものとして生活の中に持ち帰ることが出来るために、永遠の生命に至る長い道のりを歩き通すことが出来るために、主イエス・キリストは、今日も恵みの御手を差し伸べ、私たちに「生命のパン」を与えて下さり、この世の生活を支えて下さっているのです。

未だその「生命のパン」の味を知らないお一人でも多くの方々、ご家族の上に「救いの素晴しさ」を知ってほしいと祈り願い続けます。

お祈りを致します。

神のわざの素晴しさ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌166番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 35章5-6節 (旧約聖書1,116ページ)

35:5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。
35:6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。

新約聖書:マルコによる福音書 7章31-37節 (新約聖書75ページ)

7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
7:37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

《説教》『神のわざの素晴しさ』

先々週ご一緒に読んだ「シリア・フェニキアの女」の話と、本日の「デカポリスの耳が聞こえず舌の回らない男の物語」は、それぞれが全く異なって独立している様に見えますが、よく読んでみると、その二つの物語を結合している信仰的な背景があることが見えて来ると言えましょう。

31節に、「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」とあります。

これは驚くべき距離です。また、その経路は異常なものとしか言い様がありません。時間の関係から今日はご一緒にこの経路を辿ることはしませんが、地図を見ながらこの聖書箇所を読まれた方は、予想外の方向へ向かって歩まれるイエスのお姿を見出すでしょう。例えば、熱海へ行くのに日光街道を辿るようなものです。そこである人は、「マルコが地理を間違えた」と言い、またある人は「現在伝わっている聖書の文章が間違っているのではないのか」と考えてみたりします。そうでもしなければ説明し難い真に不思議な旅だということです。

この旅が、目的を持った旅ではなく、7章の初めから語られて来ましたように、主イエスがユダヤ人の憎しみに追われ、更にまた追われて行った先々で隠れることも出来ず、次々と留まるところを移して行かざるを得なかった結果であると考えられるのです。それ故に、この旅の道順は不自然で、常識では考えられないコースを辿っているのですが、大切なことは、この異常さを「地理の問題に終わらせてはならない」ということです。

何故なら、ここに明らかにされた「本当に異常なこと」とは、この旅の経路ではなく、神の御子をこのように追い回した「人間の罪・そのもの」に見るべきだからです。この世に来られた神の独り子を、居所を定められぬ程に追い詰める憎しみこそ、神の秩序を乱した人間の罪の姿に他ならないからです。

この旅の経路が常識では有り得ないものであると言う前に、神の御子を十字架へまで追いやった人間の罪を、「まともには考えられない程に神の秩序を逸脱したもの」と認めなければならないのです。

31節に、「ガリラヤ湖へやって来られた」とあるのは、「ガリラヤ地方」ではなく「ガリラヤ湖畔」と思われます。また、8章10節では「舟に乗っている」ので、湖の東岸と考えるのが妥当でしょう。いずれにしても、この長い旅からガリラヤへ戻るのは次の8章に入ってからですので、この物語の場所は未だ異邦人の地域と思われます。ユダヤ人たちから異邦人として差別されていた人々は、皮肉なことに、神に愛されている筈のユダヤ人自身の罪により、「思いもかけず、神の御子に巡りあった」ということなのです。

そこで人々は「耳が聞こえず、舌の回らない人を」イエスの御前に連れて来て「手を置いてくださるように」と願いました。「手を置く」とは、明らかに癒しの奇跡を求めていることを表しています。この男の苦しみの解決は「耳が聞こえるようになること」でした。言葉の不自由さは耳が聞こえないことから生じているからです。そして人々は、有名なナザレのイエスなら「耳を治すことが出来るであろう」と考えたのでした。

「そこでイエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。」と、ここに書かれています。

実に不思議なことをなさっているのですが、当時の人は「唾」に「病気を癒す力があると信じていた」のです。イエス・キリストは、常にその時代の人々の考え方の中に身をおいて行動なさる方なのです。

従って、ここで大切なことは、「唾をつける」ということではありません。それはただ、不幸な人自身が「今、自分が癒されている」ということを実感として味わうことが出来るための、「キリストによる特別な配慮」と言えましょう。

さらに注目すべきは、この時、イエスがこの男を「群衆の中から連れ出した」ということであり、文字通りには、「彼一人を引き離した」ということでした。

二千年前のこの時代、魔術師と呼ばれた者達が不思議な業を行い、人々を驚かせていました。例えば新約聖書228ページ、使徒言行録 8章9節~10節には「この町には以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さい者から大きな者に至るまで皆、『この人こそ偉大なものといわれる神の力だ』と言って注目していた。」とあります。

また、同じ使徒言行録には、キプロスでパウロが魔術師を追放したということが記されており、エフェソでも各地を巡り歩く祈祷師たちがいたことも記されています。彼らは、自分たちの力を誇示するために何時も大勢の人々を集め、その人々を観客として不思議な業を行っていたのです。

それに反し、イエス・キリストは、御自分の力をことさら人々に示すことをなさらず、不幸な障害を持つ彼一人を御業の対象とされたのでした。

主イエスは魔術師でもなければ祈祷師でもありません。主イエスは大勢の人々の喝采を得ようとして御業を行われたのではありません。ですから単なる見物人は無意味でありました。主イエスは神を見失って生きる人間を苦しみや悲しみから救うためにやって来られた独り子なる神です。

ですから、主イエス・キリストと救われる者との関係は常に一対一なのです。主に苦しみを訴え、主が招いて下さる者だけが顧みを受け、神の恵みの下に立つのです。「キリストが私を呼んでおられる」ということに気付いた者だけがキリストとの交わりに入るのであり、その声を「私への呼びかけ」として聴かない者は、その関係が結ばれないのです。

私たちは、いったいどちらでしょうか。この男の友人たちは確かに彼をイエスの下に連れて来ました。「この不幸な男にはナザレのイエスが必要だ」と考えたのでしょう。しかし、そのイエスが「自分たちにも必要である」と考えていたでしょうか。

さらに、主イエスは御自分を必要とする人間をどう御覧になるでしょうか。34節には「天を仰いだ」と記されています。主イエスは先ず「天を仰いだ」のです。「天」に御顔を向けられたのです。「天」とは言うまでもなく「父なる神」のことです。「上を向いた」のではなく、「父なる神を仰いだ」のであり、「救いは神より来る」ということをハッキリと示されたのです。

旧約聖書968ページ、詩編121編1節と2節にこのように記されています。

121:1 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
121:2 わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。

主イエス・キリストは、救いを求める全ての者に「救いの根拠」を示されたのです。「救いは天地を造られた主のもとから来る」のです。

続いて、主イエスは「深く息をついた」と聖書は記しています。深呼吸されたのではありません。「深く息をつく」と訳されている言葉は、「苦痛や嘆きの感情が言葉にならず、聞き取れぬ程の音声となって出ること」と辞書にありますので、「深い息」と言うより「うめき」と訳し、理解すべきでしよう。

主イエスは、全てを顧みられる父なる神の御心を「うめき」によって示されたのです。「うめき」は、この不幸な男に対する愛の豊かさと言えましょう。一人の苦しむ人間に対する激しいまでの慈しみです。そしてこれこそが、主イエス・キリストが私たちに接して下さるお姿なのです。

主イエスは、私たちをこれ程までに大切に扱って下さるのです。一人の人間の苦しみに対し、この世の片隅で誰にも相手にされずに生きて来た一人の人間の苦しむ姿に対して、神の御子は、心からの慈しみをもって接して下さり、そして「エッファタ」と言われたのです。

主イエスが「うめき」と共に叫ばれた「エッファタ」という御言葉は、決して不思議な力を持つ呪文ではなく、「開け」という意味です。そしてこの短い言葉の中に、マルコは全ての人間を救われるキリストの決断を見たのではないでしょうか。それがこの御言葉を敢えてギリシア語に翻訳せず、イエスが語られたままのアラム語で書きとめた理由でした。「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになった」とあります。

この男の耳は聞こえるようになり、話をすることが出来るようになりました。そしてこの奇跡は、私たちにおいても、現実のものとなっているのです。

私たちの罪とは何処にあるのでしょうか。それは、私たちの心の耳が御言葉に対して閉じられている処にあるのです。罪が心の耳を塞ぎ、御言葉を聞くことが出来ないようにしているのです。そしてサタンが、さらに数々の誘惑の言葉を耳元でささやき続けるために、いっそう御言葉から遠ざけられるのです。

肉体の耳の不自由な人が言葉を正しく語れないように、神の御言葉に対して心の耳を閉じている者に、「まともな言葉」が語れる筈はありません。それ故に、この世界は「まともではない言葉」ばかりが満ち満ちているのです。そしてその「まともではない言葉」が人間の心を傷つけて行くのです。

教会の中でさえ、呼びかけられる神の御声に対して心の耳を塞ぐならば、その人の語る言葉は単なる自己主張であり、人間のわがままであり、神の栄光を表す「まともな言葉」ではなくなってしまうでしょう。

神の国に生きる者の原則は、「私は何をしたいのか」「私に何が出来るのか」を考えることではなく、「キリストが、教会を通して、私に何を言われようとしておられるのか」を考えることでなければなりません。

この世界の歩みを正すものは何でしょうか。それはここに記されたキリストの御言葉のみです。「エッファタ」という御言葉によって私たちの耳が開かれ、御言葉を正しく聞くことが出来るようになったことこそが、「神様に造られた本来の人間」に立ち戻る第一歩なのです。

最後の36節から37節に、「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。『この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。』」とあります。「この方のなさったことはすべて、すばらしい」。この群衆の驚きは何であったのでしょうか。奇跡に対する驚きでしょうか。ここの「すっかり驚いた」とは変な日本語ですが、この言葉は、「雷にでも打たれたように、びっくり仰天して肝をつぶす」という意味であると辞書にあります。

マルコ福音書は、ここで何を語りたいのでしょうか。それほど人々が驚いたということを報告したいのでしょうか。しかし、先ほども触れましたように、この癒しの御業は人の眼を避けて行われた「隠された御業」であり、群衆の驚きを招くことに御心があったのではなかった筈です。マルコ福音書が語ることは、今、この出来事を「福音として聴く私たち」に、「驚け」と言っているのです。御子の御業の中に示された「神の御心に驚け」ということです。

旧約聖書2ページ、創世記1章31節は、天地創造の完成について、こう記しています。「神は御造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」

この「極めて良かった」。これが私たちの世界の本来の姿でした。

旧約聖書との関係を考えるならば、マルコによる福音書は、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という言葉を、単なる「人々の驚き」という側面から見るのではなく、かつて損なわれた神の創造の秩序が「ここに回復された」ということを告げているのです。神の創造の秩序「すべてを良しとされた」あの世界が、今、主イエス・キリストの愛によって、ここに回復されたということなのです。

ナザレのイエスこそメシア・キリストであり、罪の中で苦しむ者に「かつての幸福を取り戻して下さる方である」とマルコ福音書は語っています。

主イエス・キリストは、「失われた楽園の生活、神と共に生きる平和が回復された」という宣言を、罪の深みに沈む人間の心の耳を開いて「聴くことが出来るように」してくださったのです。

今、私たちの耳は、あの「エッファタ」という御言葉によって既に開かれ、御言葉を正しく聴き、御言葉をもとに語ることの出来る人間に造りかえられていくのです。

福音から遠く離れた異邦人さえも天の御国の交わりへ導くこと、それが御心であり、私たちはその中に生かされているのです。

お祈りを致します。

イエス様のお誕生

主日CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌90番
讃美歌96番
讃美歌234A

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 7章14節 (旧約聖書1,071ページ)

7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら
あなたたちにしるしを与えられる。
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。

新約聖書:マタイによる福音書 1章18-25節 (新約聖書1ページ)

1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

《説教》『イエス様のお誕生』

今日は、教会学校との合同礼拝ですので、教会学校のテキストからマタイによる福音書1章18節から25節のイエス様がお生まれになった時の大切なお話をしましょう。

私は去年の4月から、この成宗教会の牧師として皆さんとご一緒して来ましたが、昨年度2020年はクリスマスイヴ礼拝を含めて52回の礼拝中で皆様と集まって普通に礼拝できたのは32回でした。何と今年度2021年に至っては17回中のたった2回だけです。何としても神様の御言葉を皆様にお届けしようとライブ配信をしていますが、残念ながらキチンとはお届け出来ていないと反省しています。

ところが、この1年3ヵ月ほどの間に、何と5人の兄弟姉妹を神様の御許にお送りしています。そのお一人が野田妙子姉妹です。葬儀は明日午後、荻窪河南の葬儀社斎場で執り行われます。成宗教会で葬儀をと願いましたが、喪主様のご意向で教会ではなく、斎場に私が赴いての葬儀となりました。

葬儀は教会でないといけないとは言いませんが、天の神様に向かって旅立つに際して、葬儀とは、その方が、それまでどう生きて、どう神様を証してきたかを思う一つの大きな機会と思います。私たちにとってこの世の家でもある教会とは何なのかといった思いで今日のイエス様のお誕生物語を、「生まれる・誕生」の中からも「葬儀・死」を思って、お聞きいただければと思います。

実はイエス様の生誕物語は四つの福音書のうち、このマタイ福音書とルカ福音書の二つの福音書にしかありません。二つの福音書の生誕物語は、夫々特徴があります。主イエスの誕生を父親ヨセフの側から語り始める今日のマタイ福音書では母親マリアの言葉はなく、父親ヨセフと天使との夢の中でのやり取りが中心です。一方のルカ福音書では母親マリアを中心としたマリア賛歌も含まれた主イエスの生誕に関連する物語が母マリアの立場から長く記されているのとは大変対照的であると言えましょう。

当時のユダヤ人の結婚に関する決まりでは婚約中の2人はすでに夫婦とされていたので、20節と24節でマリヤは婚約者ではなく「妻」と呼ばれています。婚約者同士は通常1年程度の婚約期間を経て結婚生活に入りますが、その婚約期間中にマリヤの妊娠が明らかになりました。ルカ福音書では、マリヤ自身が大天使ガブリエルから妊娠は聖霊によるのであると告知を受けましたが、今日のマタイ福音書では、主の天使が父親ヨセフの夢に現れたとしています。ここに母マリヤの言葉はなく、マリアの沈黙を敢えて示そうとしているとも言えましょう。しかし、如何に聖霊によって身ごもったとしても、周囲の人々がマリアの妊娠に気付くのは時間の問題であった筈でした。

マリアが身ごもったことは、ヨセフにはまったく身に覚えがないことでした。そこで、マリアの妊娠を知ったヨセフは、密かに縁を切ろうと決心します。19節にあるように、夫ヨセフは、「正しい人」でした。しかし、その「正しさ」とは、マリアを疑い、それが表沙汰になることを恐れた、いわば世間体を気にしてのことでした。このことについて、神に御旨を尋ねようとすることなく、自分の考えだけでマリアと縁を切ろうとした、この時のヨセフの思いは、人間の「正しさ」の限界を示していると言えましょう。人間の「正しさ」とは、自分の罪について自覚できなくなる危険性をいつも孕んでいます。ヨセフはこの時、神の御旨を尋ねるべきでした。しかし、それをしないで、自分だけで判断してマリアと別れよう、縁を切ろうとしていたのです。絶対的な義の存在である神の前では、どんな人間でも一人の罪人に過ぎません。いくら私たちが正しさを主張したとしても、それは神の前に完全な「義」正しさとはなりません。私たちが「真の義」を求めるには、神の導きが必要なのです。

ヨセフが、このようにマリアのことで思い悩んでいるとき、夢を見ます。それこそが、ヨセフにとっての「神の助け」でした。夢の中に天使が現れ、恐れないで妻マリアを迎え入れること、マリアの胎の子は聖霊によって宿ったこと、その子は男の子で、イエスと名付けること、イエスは自分の民を罪から救う救い主となることが天使から告げられます。夢の中で、今起こっていることの意味を、主なる神が天使を通して、ヨセフに告げ知らせたのです。それまで、ヨセフはマリアを妻とすることを恐れていました。しかし、マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのだから恐れることはないとの、天使の告げることを聞いて、全能の神の力によって、マリアの胎に男の子が宿ったことを知り、ヨセフは主なる神に信頼して安心することが出来たのです。また、生まれてくる男の子をイエスと名付けるように命じられました。命名は子供の認知を意味します。イエスとはギリシヤ語の呼び名です。ヘブライ語ではヨシュア、「神は救い」を意昧する名前で、よくあるユダヤ人男性の名前でした。「ヨシュア」と呼ばれた人物は主イエスの他に聖書に10人程登場しますが、最も有名なのはモーセの後継者でエリコを陥落させ、カナンの地を占領し、その地を12部族に分け与え、イスラエルの定住の地を確保したヨシュアでしょう。この「ヨシュア」という名は、自分だけの力ではどうしようもない罪の中にある人間を、確かに救ってくださる救い主の名前として、相応しいものでした。しかし、その「救い」とは「罪からの救い」であり、ローマ帝国の支配からの解放を望んでいた当時のユダヤ人の期待とは異なるものでした。従って、21節の「ご自分の民を」という表現は、「新しいイスラエルの民」、「新しい神の民の創造」という視点から理解されなければならないでしょう。ここにもイスラエルを「ご自分の民」とされた旧約の「主なる神」と主イエスの姿が重なってきます。マタイ福音書は主イエスの生涯が旧約聖書の預言の成就であることを示すため「主が預言者を通して言われた事が成就するためであった」という表現で旧約聖書を度々引用しています。

ここではマリヤの聖霊による妊娠がイザヤ書7章14節の「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」との旧約聖書の預言の成就とされています。

23節にあるように主イエスは「インマヌエル」という名で呼ばれるとありますが、ご生涯は「イエス」と名乗り、「イエス」と呼ばれ、「インマヌエル」というお名前では呼ばれませんでした。主イエスの人格とご生涯そのものが「インマヌエル:神は私たちとともにおられる」であったと、マタイ福音書全体を通して、現実の主イエスのお姿を現しているのです。

ヨセフは夢で告げられたことを主なる神の啓示と信じて、妊娠したマリヤを迎え入れました。場合によっては人の好奇の目を浴びるリスクも引き受けたと言えましょう。こうして主イエスはヨセフとマリヤという人間の両親のもとで、人として生れることになったのです。

ヨセフは、主の天使が夢で語った神の御言葉を聞いてから、劇的な変化を遂げています。ヨセフは、信じることができなかったものから、信じるものへと変えられ、受け入れることのできなかったものから、受け入れるものへと変えられたのです。

妻マリアのお腹の中に主イエスが宿ってから、夫ヨセフは愛する人も、主なる神も信じることのできない自分の弱さと罪を知りました。神様は、そのヨセフを見捨てることなく、言葉を投げかけて下さり、彼にその言葉を信じる信仰を与えてくださいました。ヨセフは、その神様を信じる信仰によって、自分からは受け入れられることのできなかったマリアを受け入れ、お腹の子に、名前を付け、自分の子として、受け入れることができるようになったのです。

この子、主イエス・キリストがマリアのお腹の中に来て下さった時から、救いが始まりました。この方が来られてから、闇は光に照らされ、闇の中にいた私たち人間が光に照らされ、罪が明らかになると同時に、その光がどんどん近づいてこられて、私たちの心の内側に入ってきてくださったのです。その光によって、私たちは、新たにされるのです。その希望の光が、私たちの内側に来てくださって、いつも共にいてくださる。「インマヌエル:神はわれわれと共におられる」というのは、このことです。

今日のこの聖書箇所に書かれている主イエスの誕生、キリストの受肉の神秘については、様々な批判や意見のあることは事実でしょう。私たち現代人の高度な科学的知識では、処女降誕など、考えられないといった意見や、妥協して生物界には雌雄両性生殖ではなく、単性生殖も見られるので人間の単性生殖もあり得るのではないかといった議論など、この出来事を無理矢理説明しようとする努力する人もいます。歴史上、数えきれない程の多くの憶測が述べられて来ました。聖書をよく読んでいるキリスト者でも、これは神話なので、実際に起こった事ではないと、この出来事を彼方に遠ざけてしまい、正面から取り上げようとしない人が少なくありません。

しかし、主イエスの生誕において起こったことは、今日のマタイ福音書によれば、神御自身が主イエスとして人となって、人々の間にとどまり「インマヌエル」、その民にとっての「救い主イエス」となるのであり、救い主・キリストが人々を救うためにここに生まれる、ということを述べているのです。

その中心をなしているものは、主イエスにおいて実現する神の人間に向けての救いの実現であり、人間はそれに応答することしかないのです。

信じて従う、それが信仰です。神の御業を信じることから信仰が始まるのです。主イエス・キリストを真の神であり救い主と信じる私たちはこの生誕物語を信仰として受け止め、神の救いの実現に際して、欠くことの出来ない大切な出来事として捉え、信じて伝え続けなければなりません。神の右に座して、神と等しいお方が、肉を取って、私たちと同じ人間となって下さったからこそ、私たちの救いがあるのです。

イエス様が救い主としてお生まれになることは、昔から旧約聖書の預言者によって伝えられて来たことでした。神様ご自身が創造され、何よりも愛された人間が、神様から離れて罪の中で悲しみ・苦しむのを見て、何とか人間を罪の中から救おうとされました。その神様の救いのご計画の中心がイエス様の誕生でした。

昔から、神様を信じる沢山の人々が、神様が一緒にいてくださることで励まされ、辛く苦しいことを乗り越えることが出来ました。乗り越えられれば乗り越えられる程、神様を信じる気持ちを強く持てるようになっていきました。このように神様が共にいて下さり、守ってくださることは、神様の働きとして、今も私たちにも向けられています。

私たちは、聖書を通して神様の御言葉を聞き「天のお父様」と、親しく神様にお祈りすると、神様は、「インマヌエル:神様が私たちと一緒にいてくださる」ために聖霊を私たちのもとに遣わして下さり、私たちが健やかに成長する力を下さいます。

このイエス様の生誕によって、人々が罪から救われて神の国に入るという、確かな救いへの希望が与えられるようになりました。

このようにして始まったイエス様のこの世でのご生涯は、私たちと同じ肉を取られ、私たちと同じ人としてお生まれになり、私たちの救いのために歩まれたものでした。仮の姿ではなく、真の人として、痛みを感じて、苦しみ、十字架にかかり、自分たちでは決して拭い去ることの出来ない私たちの罪を負って下さいました。それは、まさに私たちを愛してくださっている神の御計画そのものなのです。

今日のこの、イエス様の生誕物語「キリストの受肉の神秘」こそ、その内容と意味を、大切な信仰の事柄として、家族や子どもたち・孫たちに伝え続ける責務を、私たちは託されているのです。

そのおひとりお一人の家族への伝道の働きが、一生を通しての天国への旅立ちの準備を形作っていくのです。

お祈りを致します。

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