何が見えるか

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌67番
讃美歌444番
讃美歌90番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 28章18節 (旧約聖書1,103ページ)

28:18 お前たちが死と結んだ契約は取り消され/陰府と定めた協定は実行されない。洪水がみなぎり、溢れるとき/お前たちは、それに踏みにじられる。」

新約聖書:マルコによる福音書 8章22-26節 (新約聖書77ページ)

8:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
8:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
8:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
8:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
8:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

《説教》『何が見えるか』

本日ご一緒に読むマルコによる福音書8章22節以下には、ガリラヤ湖畔の町ベトサイダで、主イエスが一人の盲人の目を開かれたという癒しの奇跡が語られています。

この癒しの出来事は、先々週8月1日にご一緒にお読みした7章31~37節の、耳が聞こえず舌の回らなかった人の癒しと対になっていると言えます。その7章31節から37節を振り返って読んでおきたいと思います。

7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
7:37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

先々週の、この聖書箇所と本日の聖書箇所との二つの癒しの御業には共通していることがいくつかあります。

先ず、どちらの御業も群衆の目の前でなされたのではなく、癒される人が外に連れ出されていることです。

またどちらの癒しにおいても、主イエスが手を触れ、唾を用いておられること、癒しが一瞬で行なわれたのではなくて、ある程度の時間が必要であったことも共通しています。それに、このどちらの話も、マルコ福音書のみが語っており、他の福音書には出てこないという共通点もあります。

これらのことから、この二つの癒しの話が一対のものであることが分かります。これらの話によってマルコが語ろうとしていることは、神様の救いの時には「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、口の利けなかった人が喜び歌う」、というイザヤ書35章5節以下の預言が、主イエスにおいて実現した、ということです。

主イエスがこの世に来られたことによって、目の見えない人が見えるようになり、耳の聞こえない人が聞こえるようになり、口の利けない人がしゃべれるようになる、という神様による救いが実現しているのです。

マルコ福音書は、他の福音書と比べて奇跡物語が多く、繰り返し奇跡物語を記しています。これまでにも、何人もの人々がキリストの御業によって救われたことが書かれていました。熱病に苦しむペトロの姑を初めとして、悪霊に憑かれた男、中風の男、片手の萎えた男、長血の女、死にかかっていた少女、耳の聞こえない男、皆、主イエスによって救われて来ました。そして今度は、眼の不自由な男が現れたのです。

マルコ福音書は、何故、これ程までに奇跡を繰り返して語るのでしょうか。「所詮、同じことの繰り返しではないか」、「また同じようなものか」と読み飛ばそうとする人に対し、奇跡物語は、その都度、もう一度立ち止まることを要求しているのです。ある意味では、常識的な世界観で聖書を読む人に、繰り返し挑戦しているとも言えるでしょう。これら奇跡物語は、イエスの生涯を軽い気持ちで読み通そうとする人に、「あなたは何者なのか」と問いかけているのです。

私たちは、何者なのでしょうか。私たちの何が、今、問われているのでしょうか。ヨハネ福音書には、次のように記されています。新約聖書186ページ、ヨハネによる福音書9章39節から41節をお読みします。

9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
9:40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
9:41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

次から次に、イエスの御前に連れて来られた病人や身体の不自由な人々は、心の底から主イエスの顧みを必要とする人々でした。彼らは、全て不幸の中にあり、「ナザレのイエスに頼る以外、普通の幸せな人になることは不可能である」ということを、自分自身で知っていた人々でした。

私たちに問われるのもこのことではないでしょうか。

あなたが、もし盲目であったなら、ここに現れて来た盲人の姿に、『またか』とは決して言わないでしょう。

福音書は、何時も、「このことを考えよ」と要求しているのです。

肉体の眼が不自由ではないとしても、真実に正しいものを見極める心の眼はどうでしょうか。罪に対し、救いに対し、如何に無知であったでしようか。キリストが来られなかったなら、どのように生きていたのでしょうか。

主イエス・キリストが顧みられる病人や障碍者の姿を見るたびに、私たちこそ、「死に至る病」に侵されていた者であり、自分の真実の姿すら見ることが出来なかった哀れな者であるということに、気付かなければなりません。ベトサイダの人々は、盲人を連れて来て「触れていただきたい」と願いました。古代の人々は、優れた能力を持つ人に触れると、その力で病気も治ると信じていたのです。それ故に、「触れる」ということは「治す」ということを意味していました。この「触れる」と訳されている言葉は、「縛り付ける」「結びつける」という意味の言葉であり、単なる「接触」のことではなく、「意図的に強く結びつく」ということです。それは、ある場合には、「すがりつく」という意味にも用いられます。この男への「癒し」即ち「救い」によって、彼へ「新しい人生への転換点」が示されています。「救いとは、ただひとつ」、主イエス・キリストに「強く結ばれる」ことなのです。

23節には、「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何か見えるか』とお尋ねになった。」とあります。村の外に連れ出したのは、恐らく、人々の興味本位の野次馬的眼差しを避けるためだったでしょう。しかしながら、このような記述の中に、救いを求める者を導かれる主イエスの御業を見ることが出来ます。全ての人間の救われる姿が、この短い物語の中に示されているとも言えます。主イエスは、先ず、「手を取って下さる」のです。未だ眼が開かれていない時に、「ナザレのイエスは神の子である」ということがはっきりと心の眼に映っていない時に、主イエスは、私たちの理解と告白に先立って、手を取って導いて下さるのです。主イエスのみが、御心のままに導いて下さるのです。

多くの場合、私たちが犯す過ちは、「自分でそこまで歩こう」とすることです。求める気持ちは変わらないとしても、眼が開かれる場所まで、「自分で歩いて行こう」とするのではないでしょうか。「歩いて行ける」と思い込んでいるのです。大きな間違いはまさにそこにあります。

救いとは、全てを主に委ねることから始まります。自分が進むべき道をキリストに委ねきった時、救いの御業が実現するのです。その時と場所をキリストに委ねることこそ、新しい人生に出発する大前提なのです。

23節で、主イエスは「その眼に唾をつけ、両手をその人の上に置いた」とあります。7章33節でも同じようなことが行われていました。そして「何か見えるか」と主イエスは言われました。これまでの癒しの奇跡でこのように主イエスご自身が尋ねられたのは初めてです。彼の手を取って歩まれるお姿と共に主イエスの心遣いの細やかさが、よく表されていると言えるでしょう。

24節には、「すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』」とあります。癒されていく男の気持ちが伝わって来るような言葉です。「人」とは彼の前にいる弟子たちの姿でしょう。この時、他の人々の物見高い視線を避けるために、わざわざ村の外に連れ出して癒しを行われたのですから、その場にいる人と言えば弟子たちだけであった筈です。主イエスによって眼が開かれた男が先ず最初に見たのが、弟子たちの姿であったということは、単なる偶然でしょうか。主イエスによって眼が開かれた人間が、山や川や村を見ず、「先ず弟子たちの姿を見た」ということは、まさに主イエス・キリストの御心に適うものであったと言えるでしょう。何故なら、キリストによって心の眼が開かれた時、私たちが最初に見るものは、キリストによって同じように救われた人々だからです。

しかし、もっと大切なことは、見えるようになったその眼が「何を見るか」ということです。何でも見えれば良いというのではなく、本当に価値あるものを正しく見分けられるようになるということが大切なのです。「何かが見える」ではなく、「何が見えているのか」ということ、見えるようになった眼で「何を見分けているのか」ということが、彼のそれからの人生を決定して行くのです。主イエスは、「主によって結ばれた信仰の仲間がここにいる」ということを、先ず第一に教えられました。救いとは、主イエス・キリストを神と告白する「神の家族であることへの目覚め」とも表現することが出来るでしょう。続く25節には、「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」とあります。男は弟子たちの姿を見詰め続けていました。そしてその眼は、全てをはっきりと、即ち、この世界を初めて正しい姿で認識することが出来たのです。私たちキリスト者も、かつてはこのように救われたのであり、この癒しの過程は、まさしく救われて行く過程であると言えるでしょう。

主イエス・キリストは、私たちの心を少しずつ見えるようにして下さるのです。そしてその過程で、私たちは、あちらこちらを見回すのではなく、「キリストと共にいる人々」を見詰め続けることによって、全てがはっきりと正しく見えるようになるのです。そしてさらに、私たちの眼は、両手を私たちの眼にしっかりと当てて下さっているキリストの手の指の間から、あらゆる世界を見ているのだ、ということを忘れてはいけません。「本当に目を開かれる」とは、主イエス・キリストにおける神様の具体的な恵みを見詰める目を開かれることなのです。それを見詰めることができないうちは、私たちは「目があっても見えない」者なのです。これと同じことは、7章31節以下の、耳が聞こえず口の利けなかった人の癒しにおいても語られていました。

本当に耳が開かれているとは、主イエス・キリストが話される神様の恵みのみ言葉を聞く耳が開かれていることです。本当に口が利けるとは、その恵みに感謝し、神様をほめたたえる言葉を語り、祈りの言葉とすることができることです。

主イエス・キリストの愛と恵みを共に告白するのが神の家族であり、キリスト者の生活、教会の営み、です。

主イエス・キリストは、今日も私たちに向かい、「何が見えるか」と問い掛けられているのです。

お祈りを致しましょう。