恩寵

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌122番
讃美歌420番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 56章6-7節 (旧約聖書1,154ページ)

56:6 また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら
56:7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

新約聖書:マルコによる福音書 7章24-30節 (新約聖書75ページ)

7:24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。
7:25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。
7:26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。
7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
7:28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
7:29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

《説教》『恩寵』

本日の聖書箇所、7章24節以下には、主イエスが人々から身を隠すように、「ティルスの地方」に行かれたことが語られています。この新共同訳聖書の後ろにある緑色の地図の「6.新約時代のパレスチナ」というのを見ていただきますと、地中海沿岸を北にずっと上って行ったフェニキア地方にティルスという町があります。ここはユダヤ人の国ではなくて異邦人の地です。主イエスは「だれにも知られたくないと思っておられた」と24節にあるように、ユダヤ人たちの目を避けて、ゆっくり弟子たちと語り合い、交わるためにこの地に逃れて来られたのです。それなのに「人々に気づかれてしまった」とあります。これは「隠れていることが出来なかった」と読むべきでしょう。主イエスの評判がこのティルスの町にまで伝わっており「隠れようとしても隠れられなかった」のです。
そこに、一人の女性が訪ねて来ました。26節によれば「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」とあります。ユダヤ人ではなくてギリシア人、つまり異邦人です。

先週の「けがれ」と題した説教で、主イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わないことを律法学者たちが責めたことについてお話ししました。これは主イエス御自身による新しい時代の始まりを告げるものであり、もはや、全ての人間が一切の差別もなく、神の御前で「赦しの御言葉を聴く時が来た」という宣言でした。
しかし、これが、逆に律法を堅く守る伝統的なユダヤ人の憎しみと拒絶を生み出しました。何故なら、ナザレのイエスの評判は既にこの異邦人の地にまで響いており、大勢の人々が集まって来たからです。25節から「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」とあります。これまでと同じような、病気の癒しを求める物語とよく似ています。確かに、幾度も繰り返されて来たお姿です。しかしながら、今ここで、マルコ福音書は、これまでとは決定的に異なる「何か」を語ろうとしています。「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」と記されています。この女性はユダヤ人ではなく、異邦人のギリシア人だったのです。汚れた霊によって、この女性とその娘、そして家族全体が、大きな苦しみを負っていたことは確かです。そういう苦しみ悲しみをかかえていたからこそ彼女は、ユダヤ人たちの間で病気を癒し、悪霊を追い出しておられる力ある主イエスがこの町に来ていることを「すぐに聞きつけ」やって来たのです。彼女は主イエスのもとに来るとその足もとにひれ伏して、娘から悪霊を追い出してくださいと頼みました。これは随分大胆なことです。主イエスの足もとにひれ伏して願うことが大胆なのではなくて、異邦人である彼女が、ユダヤ人である主イエスにこのように救いを願うことがまことに大胆なことなのです。
ユダヤ人と異邦人の間には、私たちにはちょっと想像できないような深い隔たりがありました。それは主にユダヤ人側が、異邦人を汚れた者として付き合おうとしなかったこと、それがユダヤ人と異邦人との「分離」であると先週お話ししました。そのことから両者の間には基本的に敵意があったのです。だから、異邦人であるこの女性が、ユダヤ人である主イエスに救いを願うことは普通はあり得ないし、そもそも願ったとしても聞き入れられる筈はない、というのが当時の常識だったのです。彼女はそのことをよく知りながら、それでも主イエスに救いを求めました。それが彼女の大胆さでした。
遠い昔、父なる神は多くの人々の中からアブラハムを選び出されました。そして、アブラハムに連なるイスラエル民族を神の民として定め、歴史の中で守り続けられました。長い時の後に、イスラエル民族の中に、神の御子が「人として」お生まれになりました。これはただ、「恩寵」と言う以外、説明のしようがない出来事です。何故なら、何の優位も誉れもない「イスラエル民族の一人」として神の御子を迎えることが出来たからです。
しかし、その結果はどうであったでしょう。彼らは、世に来られた神の御子キリストを追い払ってしまったのです。神の御心に背を向け、自分たちの思いの中に閉じこもり、福音を自ら遠ざけてしまったのが、この時代のユダヤ人でした。
そして今、遠く離れた異教の地ティルスの町で、「神の選びの外に置かれたと見做されて来た異邦人の女が、キリストの足下にひれ伏した」という場面を語るマルコ福音書は何を伝えようとしているか。
ユダヤ人たちは、神から与えられた律法を自分たちの生き方の基準にして来ました。しかし、長い時の中で御心を忘れ、「神の民として生きよ」という律法本来の目的を忘れて、自分たちの社会生活を正当化するために利用し続けたのです。それ故に、今、その律法が「本来の役目を取り戻す時が来た」という、まさに歴史的な瞬間に遭遇しても、自分たちのこれ迄の生き方を守るために、新しい時の到来を告げる神の御子の言葉を聞かず、イスラエルの地での宣教を拒否したのです。
しかしながら、そこに予想外の出来事が生じました。神に選ばれたユダヤ人が追い出した御子キリストの前に、異邦人の女性、ユダヤ人から見れば救いの外に置かれ、哀れな民族と蔑まれて来た異邦人の女性が、「ひれ伏した」というのです。ユダヤ人の頑なさは、この世に来られた御子キリストを追い払って、かえって皮肉にも、福音を求める人間、キリストを求める人間を、新たに異邦人の中から生み出す結果となったのです。それが、27節にある主イエスの『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。』との御言葉です。このたとえでは、「子供たち」はイスラエルを表し、「子犬」が異邦人を表しています。ユダヤ人が異邦人を「犬」と呼んで軽蔑していたことは事実であり、そのため「イエスもそのような差別をするのか」と非難する人があります。ここでは、主イエスは異邦人を差別しておられるのではありません。長い歴史を貫く神の愛の確かさを語られたのです。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」。この言葉の中に父なる神の御心の実現に仕える主イエスの姿が示されていると言えるでしょう。かつて主なる神は、救いを実現するために、あらゆる人々の中からユダヤ人を選ばれたのであり、それが歴史を貫く神の御業でありました。
しかしユダヤ人は、選ばれた恩寵を、いつの間にか「恩寵として受け止めること」を忘れたのです。愛されたことに感謝を忘れる時、神の民は「神の民としての最も大切なあり方」を失ってしまいました。イスラエルの民は、「この世に来られた御子に導かれ、神の国に入る人々の先頭に立つ」という使命を捨ててしまったのです。

神の御子を追い出して福音を自ら締め出したユダヤ人。その現実にも拘らず、「選ばれた民を見詰める御心は変わっていない」と主イエスはこの譬えで言われているのです。ここが大切なところです。主イエスは、ティルスという遠く国境の彼方に追われながらも、そこで明らかにしたのは、御自身が選び出した者、即ち、ユダヤ人への変わることのない神の愛でした。神の愛は、何処までも愛する者への愛を変えない永遠の愛です。
それ故に、「まず、子供たち(イスラエル)のために」という「初めの愛」の神の御心を想う時、その愛を拒否する人間の罪が、更に、明らかにされて来ます。28節には、「女は答えて言った。『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。』」。
この女性は、主イエスの御言葉を正しく受け止め、御心に相応しく答えました。28節の女性の言葉は、原文では「主よ」という言葉の後ろに「そのとおりです」という意味のギリシャ語の「カイ」という言葉が記されています。この言葉は地味な言葉で、新共同訳聖書では省略されてしまっていますが、内容的には極めて重要であり、口語訳では「主よ、お言葉どおりです」と訳されています。彼女は、「主よ、お言葉どおりです」と御前にひれ伏した上で、憐れみを求めているのです。
27節で主イエスが言われたのは、今見て来たように、先ずユダヤ人への愛でした。病気に苦しむ幼い娘を抱えた女性を前にして、キリストは、父なる神が選ばれたユダヤ人への愛を、まず明らかにされたのです。病気で苦しむ娘を持つ親の気持ちを考えれば、冷たい仕打ちと思われるかもしれません。眼の前で助けを求める者を差し置いて、ユダヤ人のことを思っているからです。
しかし、驚くべきことは、その主イエスに対する女性の態度です。彼女は、それでもなお、「主よ、そのとおりです」と御心に服従し、自分の立場をへりくだっています。神への祈りは、「主よ、お言葉のとおりです」という「キリストへのまったき服従」の後に初めて意味を持つのです。この女性の告白した神の御心への服従こそ、本来、ユダヤ人が告白すべきことであった筈です。ユダヤ人は、その告白をするための民族として選ばれていたからです。
しかし、そのユダヤ人が御言葉に背を向け、異邦人の女がユダヤ人に代わって御心への服従を告白しているということこそ、実は、新しい神の民、新しいイスラエルの誕生が、ここに暗示されているのです
そして29節から30節で、主イエスは言われました。「『それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出て行ってしまった。』女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出て行ってしまっていた。」とあります。
奇跡は起こりました。そしてそこで起こった奇跡とは、「娘の病気が治った」という「出来事」だけではなく、「まず、ユダヤ人に」という「神の救いの御計画」に等しく異邦人も加えられたのです。神の恵みの御業が、等しく異邦人へも向けられたのです。マルコ福音書が告げるのは、29節の「それほど言うなら」という主イエスの御言葉が異邦人にも向けられるのだという大きな転換の出来事なのです。
キリストの愛に分け隔てはないのです。ただ、キリストを受け入れる者だけが、その愛を「驚くべき奇跡」として喜ぶことが出来るのです。救われた喜びを十分に受け止めることが出来るのです。
今、私たちは福音のもとにいます。救いの御業の中にあります。
私たちを憐れまれるキリストの愛が、私たち異邦人にも注がれたという事実を忘れてはなりません。ただ、キリストの愛に基く恩寵によってのみ、私たちは生きているのです。
悪霊から解放された娘を見詰める女性の喜びが、今、私たちの心にも甦って来るでしよう。その驚きと喜び、そして感謝を共有するのがキリスト者という者の姿なのです。
この素晴らしい救いの喜びを、教会の皆様共々に、お一人でも多くの方々と共にしようではありませんか。
お祈りを致します。

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けがれ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌 2番
讃美歌520番
讃美歌98番

《聖書箇所》

旧約聖書:出エジプト記 29章33-34節 (旧約聖書143ページ)

29:33 彼らは、自分たちの任職と聖別の儀式に際して、罪の贖いとして用いられた献げ物を食べる。それは聖なるものであるから、一般の人は食べてはならない。
29:34 もし、この任職の献げ物の肉やパンが翌朝まで残ったならば、焼き捨てる。それは聖なるものであるから、だれも食べてはならない。

新約聖書:マルコによる福音書 7章14-23節 (新約聖書74ページ)

7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
7:16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。
7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
7:20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

《説教》『けがれ』

本日の説教題を「けがれ」とつけました。本日はマルコによる福音書第7章14節以下をご一緒に読むのですが、ここには、本当に人を汚(けが)すものは何なのか、ということについての主イエスの教えが語られています。何が人を汚(けが)すのか、ということが、当時のユダヤ人たちにとって大変大きな問題だったのです。旧約聖書には、清いものと汚(けが)れたものとを区別するための大変細かい掟が記されています。汚(けが)れたものに触れて汚(けが)れを身に負ってしまうと神様の前に出ることができなくなるからです。この汚(けが)れは衛生的な問題ではなくて宗教的な意味での汚(けが)れのことを言っています。旧約聖書には、そのように汚(けが)れてしまった人が身を清めて再び神様の前に出るためになすべき儀式や捧げものについても細かく書かれています。この旧約聖書に語られている、清いものと汚(けが)れたものについての教えは私たちキリスト者においてはもう乗り越えられているのです。しかしそれはどのようにして乗り越えられたのでしょうか。時代が新しくなって合理的な考え方が定着してくると、そのような感覚は自然に乗り越えることができたのでしょうか。そんなことではありません。私たちが、日常の生活の中で「これは清いものか、汚(けが)れているか」などと気にすることなく生きていけるのは、本日語られている主イエスの教えがあるからです。

先週の説教では、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、「食事の前の手洗いという伝統的な宗教儀式を主イエスの弟子たちが守らない」ということを非難しました。それに対し、主イエスは、律法を与えて下さった神の御心に従うことを疎かにしている彼らの形式主義の誤りを指摘しました。

本日のこの14節以下では、律法学者たちが出した問題に対する答えを、律法学者たちに向かってではなく、主イエス御自身が呼び寄せた群衆に対して語られるのです。この主イエスのお姿は、ファリサイ派の人々や律法学者たちに対する神の裁きを示すと共に、古い時代との訣別と新しい歩みを明らかにしています。

14節にある、「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい」、これは当時の人々にとって大胆な驚くべき発言でした。何故なら、当時の人々にとって、ここにある「聞く」という言葉は「聖書に聞くこと」「聞き従うこと」を意味したからです。勿論、この場合の聖書とは旧約聖書のことです。

イスラエル最古の信仰告白と言える申命記6章4節以下の御言葉は、「聞け、イスラエルよ」という言葉で始まります。「シェマー・イスラエール」という呼びかけで始まるこの聖句を、現代でもイスラエルの人々は家の全ての戸口に貼り付けており、祈りの時には身体に付けます。神は語り、人はそれを聞く。それが神の民の生き方の基本であったからです。神は聖書を通して語り、人は聖書を通して御言葉を聴く。そしてその御言葉を解釈して語る律法学者たちの言葉がイスラエルの人々の生活を支配していました。

御言葉を解釈する権威を持つ律法学者たちの前で、彼らを無視して、今、主イエスは群衆に向って「わたしに聞け」と言われたのです。神の御子としての隠されている主イエスの御業の一端を、主イエス御自身がお示しになったのです。

15節の、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」、これが御言葉の中心であり、ここに「新しいこと」が語られているのです。ペトロを初めとする弟子たちがこの御言葉を理解出来なかったということは、17節でこの御言葉を弟子たちが「たとえ」として聞いたことからも明らかです。15節の何が「たとえ」なのでしようか。

「汚(けが)れ」については、既に7章1節以下の先週の説教で詳しく述べましたが、重要なことなので、もう一度、簡単に繰り返しておきます。先ず、ここでは「ケガレ」と読み、「ヨゴレ」とは読みません。食事の前の手洗いは、ユダヤ人にとって「ヨゴレ」の問題ではなかったからです。重要なことは「ケガレ」です。「神の御前に出られない状態」を「穢(けが)れ」と言います。

イスラエル民族は小さく弱い民族でした。他の民族と一緒になったら必ず飲み込まれてしまいます。そして周辺の人々は全て偶像礼拝の民族でした。偶像礼拝によって神の御名を「汚(けが)す」ことこそ避けなければなりません。それ故に、主なる神は異民族に近づくことを禁じられました。これを「分離」と言いました。偶像礼拝から引き離された民、それを「聖なる民」と言うのであり(出エジプト記29章33節~34節)、旧約聖書ヘブライ語で「分離」「聖別」を意味した“コーディシュ”という言葉が「聖なる者」(ギリシア語ではハギオス)という意味になったと先週お話しました。

しかし今、主イエスは全く新しいことを示されました。主イエスはその考え方を根本から否定されたのです。18節の、「外から人の体に入るもので、人を汚(けが)すことの出来るものは何もない」という御言葉は、異邦人という、神から遠ざけられた者を危険ではない受け入れなさいと肯定するものでした。19節では、「外から入って来るもの」の代表として食物があげられています。しかし勿論、主イエスが単なる食物のことを語っているのではないことも明らかです。

ユダヤ人にとっての食物は、レビ記11章に詳しく記されているように、食べてよいものと悪いものとが現代においても厳密に区別され、これまた分離の大切な「しるし」でありました。それ故に、ユダヤ人は「他の民族と一緒に食事をしない」ということが固く守られるようになりました。ですから、「全ての食物は清い」と主イエスが言われたことは、実は、現代のユダヤ人にとっても驚くべき宣言であるのです。

神様は、万物を創造された時、「それを見て、よしとされた」と創世記は祝福を語っています。神様が造られたものは「全て、よいもの」でありました。この世界は「清いもの」として造られたのです。

ですから、ここに語られた主イエスの御言葉は、今や、神様に造られた全てのものが「本来の姿を取り戻す時が来た」ということを告げているのです。

それでは「汚(けが)れ」は全く消滅したのでしようか。そうではありません。20節以下には、「人から出て来るものこそ、人を汚す」とあります。それは、「つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」と主イエスは言われました。

「汚(けが)れ」とは、「神の御前に出ることが出来ない状態」のことであり、私たちをそのような状態に引き落とすものが、「自分の心の中にある」というのです。この21節以下の悪のリストと言うべきものは、心の中から出る悪の代表的な例に過ぎません。

私たちは、何故、人を欺くのでしょうか。ねたみを抱き、悪口を言います。傲慢であり、無分別です。これらの醜い姿は心の中にあるのです。口から出る言葉が、目に見えない隠された心の罪を顕わにするのです。心の卑しい人は、口から出る言葉によって醜さを現し、言葉に棘のある人は、そのことによって、心に思いやりの少ないことを示すのです。

神に背を向けた人間の生きざまがさまざまな悪となって表面に現れて来ます。それは、赦されざる罪の結果であり、私たち全てが背負っている罪が「聖なる民」となることを妨げているのです。

「外からの汚(けが)れ」。即ち、異邦民族からの分離や食物などによる差別は、キリスト・イエスの一言によって消滅しました。イスラエルが長く守って来た分離の思想は、神の御子主イエスによって、それまでの意味を失いました。しかしながら、人の中に存在し続ける「汚(けが)れ」即ち「罪」は、御子の死「十字架」を待たなければ解決しなかったのです。

弟子たちはそれを理解できずに17節で主イエスに尋ねました。主イエスは、罪について実に明確に語ったのですが、弟子たちには、それが分からなかったのです。このことは、罪を背負って生きる人間、弟子たちでさえ罪の中にあれば、「汚(けが)れ」の意味が如何に理解できなかったのかに具体的な姿と言えるでしよう。

主イエスはこのように、人の汚(けが)れは外から入って来るのではなくて、人の心の中から生まれるのだとおっしゃいました。汚(けが)れは洗って落とせるような外側にあるものではない、あなたがたの心そのものが汚れの源なのだ、とおっしゃったのです。それはファリサイ派の人々や律法学者たちに対する批判であるだけではありません。私たちが、自分は清く正しい者であり、ある人を悪人であると差別しようとする時、その前提には、自分がもともと清い者であり、汚れは外から入って来る、という思いがあるのです。主イエスはそういう私たちに対して厳しい否をつきつけて、あなたがた自身の中に汚れがある、そこから悪い思いや行いが次々に外に出て来るのだと言っておられるのです。だから、外側をいくら一生懸命に清めても、私たちは清い者となることができないのです。

それでは私たちはどうすればよいのでしょうか。汚れは外側からではなく内側から、心の中から生じるのだから、外側ではなくて心の中をこそ洗い清めなさい、と主イエスは教えておられるのでしょうか。そうではありません。私たちが洗い清めることができるのはせいぜい外側だけです。心の中を自分で洗い清めることはできません。悪い思いを捨て、心を入れ替えて清い思いで生きようと決心しても、それは出来ることではありません。そのように決心する私たちの心そのものが汚れの源なのだと主イエスは言っておられるのです。

主イエスは、伝道の最初の時以来、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語って来られました。「神の国は近づいた」、つまり神様のご支配が今や実現し、あなたがたを捉えようとしている、それが主イエスの教えの根本です。この主イエスの宣言にこそ、私たちの心にある汚(けが)れ、罪からの解放、救いがあるのです。その解放、救いは、神様が私たちを支配して下さることによって実現し、与えられます。その神様のご支配が、今や主イエス・キリストによって実現しようとしている、それが「神の国は近づいた」ということです。私たちの、汚れからの、罪からの解放は、主イエス・キリストによって与えられるのです。それは、私たちを支配している罪、汚(けが)れをすべて、ご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さるためでした。キリストの十字架の死によって、神様が私たちの罪を赦し、汚れをぬぐい去り、清めて下さったのです。それが「福音」です。「悔い改めて福音を信じなさい」とは、自分の力で自分の心を洗い清めようとするのではなく、キリストの十字架による罪の赦しという福音、救いの知らせを信じ受け入れて、その神様の恵みのご支配の下に身を置くことです。お一人でも多くの方が、とりわけ身近なの人々が共々に罪から救われますよう、お祈りを致します。

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みこころを思え

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌 6番
讃美歌352番
讃美歌79番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 28章20-22節 (旧約聖書46ページ)

28:20 ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、
28:21 無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、
28:22 わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」

新約聖書:マルコによる福音書 7章1-13節 (新約聖書74ページ)

7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』
7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
7:9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。
7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。
7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。
7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

《説教》『みこころを思え』

今日まで、マルコによる福音書を連続して、ご一緒にお読みして来ましたが、今日から7章に入ります。最初の1節に「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった」とあります。ファリサイ派と律法学者とは基本的に同じと考えてよいでしょう。旧約聖書に記されている神様の掟である律法を研究し、それを人一倍厳格に守り実践するという生活を送っていた人々です。そして彼らは一般の人々に、日々の生活の中で律法を守って生きることを具体的に教えていたのです。イスラエルの人々が、主なる神の民として相応しく、律法を守って生活するように指導していくことが彼らの働きでした。そういう人々が何人か、エルサレムから主イエスのもとに来たのです。主イエスが今活動しておられるのはガリラヤ地方です。ユダヤの北の方、ガリラヤ湖の周辺のこの地は、エルサレムからは100Km以上の距離がある「田舎」です。その田舎であるガリラヤにイエスという男が現れ、神の国の福音を宣べ伝え、癒しの奇跡を行い、多くの人々が彼の周りに集まっていることを伝え聞いたエルサレムのファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエスの語っていることと、行っていることを調べ、それが律法に適ったものかを確かめるためにやって来たのです。そのような時、主イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしているところを、たまたま見たのでした。食事の場にまで居合わせたということは、彼らは、これまでも主イエスと行動を共にしていたとみることが出来ます。主イエスと行動を共にし、御言葉を繰り返し聞きながら、何一つ自分の内に留めることなく、過ちを見出すことのみを考えていたのが、このファリサイ派の人々や律法学者たちでした。

この時の弟子たちの行動が、何故、ファリサイ派の人々にとって非難すべきことと思われたのかを、当時のユダヤの習慣を知らない人々のために、マルコはわざわざ3節と4節で説明をしています。そこには、「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人々の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台などを洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」とあります。これは聖書に記されているユダヤ人が守っていた「律法」ではなく、いわゆる「昔からの習慣」でした。

ここで「汚(けが)れ」と訳されている言葉についてですが、日本語の「ヨゴレ」と「ケガレ」とを明確に区別しておかなければなりません。特に注意しなければならないことは、「手を洗う」ということが、衛生上のことではなく、大切な宗教儀式であったということです。ユダヤ人の「手洗い」は、「汚(よご)れたから洗う」のではなく、厳密に言えば、「穢(けが)れたから潔める」ということなのです。2節に用いられている「汚(けが)れ(コイノス)」というギリシャ語の言葉は、「聖なる(ハギオス)]という言葉に対称する言葉です。「ヨゴレ」の問題ではなく、「ケガレ」の問題なのです。一言で言えば、「ケガレ」とは「神に近づくことが出来ない状態」と定義することが出来るでしょう。旧約聖書はこの「ケガレ」について数多くの戒めを記しており、それぞれに大切なことが決められていますが、全ての律法に共通する精神、それは「イスラエル民族を守る」ということでした。

イスラエルは小さく弱い民族でした。周辺の民族の中に埋没してしまう危険性が常にありました。特に周辺の諸民族は全て偶像礼拝をしています。ですから、彼らとの同化は信仰を失う危険を招く恐れが強かったと言えるでしょう。それ故に、旧約聖書をもって、イスラエル民族と他の民族を明確に分け、異民族から分け隔てる「分離の思想」というものが確立されていったのです。小さく弱いイスラエル民族を周囲の偶像礼拝から守るにはどうしたらよいのか。神様が教えられた方法は、危険から引き離すこと、危険に近寄らないこと、即ち「分離すること」でした。砂漠の民、遊牧の民として、質素で厳しい生活に耐えて来たイスラエルの民にとっては、地中海文明の覇者であるローマ帝国の下での都市生活は大きな誘惑でした。このため、神様は異民族との「分離」を御命じになったのです。神の民の歴史の中で「分離」が重要な主題となり、そしてヘブライ語の「分離(コーデシュ)」という言葉が旧約聖書の「聖」「聖い」という意味に用いられるようになりました。逆に言えば、私たちが聖書から用いる「聖」という言葉は、本来「分離する」「引き離す」という意味の言葉なのです。

それ故に、イスラエルは自分たちを自ら「分離された民族」、同じ意味で「聖なる民族」と呼び、他の民族と交わることを、「聖」の反対語を用いて「ケガレ」と呼びました。不潔なものや不衛生なものに触れたので「ヨゴレタ」というのではありません。偶像礼拝などによって、自分たちの信仰が危険に晒されることを、そこに感じたからです。ですから、ここで議論となった「手を洗う」という行為は、自分たちの信仰の純粋性を偶像礼拝の危険から守るという具体的な行動を表す言葉でした。

5節でファリサイ派の人々や律法学者たちは「なぜ手を洗わないのか」と非難しました。しかし彼らは、「それでは、なぜ、手を洗うのか」という問いが、改めて主イエスから返されたことを見落としているのです。「今や、手を洗わなくても良い時代が来た」という主イエスの大切なメッセージを聞き漏らしているのです。

マルコによる福音書に記された主イエスの最初の御言葉は何であったでしょうか。それは1章15節の「時は満ちた」でした。準備の時は終わり、遂に御業の完成の時が来たのです。マルコ福音書はこのことを宣言しているのです。

他の民族との接触を避け、自分たちの立場を「分離」して固く守る時代は終わったのです。主イエス・キリストの到来は、これまで「分離すること」で守られて来たイスラエル民族が、今や遂に、全ての人々のために、神の御業の証し人として出て行く「時の始まり」でした。

主イエス・キリストの宣言はこのことでした。そして、調べに来たファリサイ派の人々や律法学者たちもこの御言葉を聴き、その「しるし」を見た筈でした。それにも拘らず、単なる習慣上の形式に囚われ、律法が目指して来たことを見落とし、弟子たちのあら捜しをして、主イエスを陥れることしか考えていませんでした。既に述べたとおり、「手を洗う」ということは、確かにユダヤ人にとって、分離され保護されている自分たちの姿を確認することでした。さらに主イエスは具体的な例を挙げ、ファリサイ派によって代表されている人間の罪を指摘するのです。9節以下で、「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対し何もしないで済むのだ』」と言われました。ここで「コルバン」とは、ここに説明されているように、「神様への献げもの」という意味です。この時代のイスラエルでは、神様への献げものは絶対視されていました。人間は神様より与えられたものを受けているのであり、「その最初のものは神様にお返しするべきである」とされ、十分の一を先ず神様に献げ、残りの十分の九で生活すべきことが聖書に記され、固く守られて来ました(創世記28章22節、レビ記27章30節、申命記14章22節、アモス書4章4節、ルカ福音書18章12節)。「コルバン」とはこの「神様への献げもの」のことであり、ひとたび「コルバン」と宣告すれば、それは、如何なることがあっても自分の生活のために用いることは許されません。そのため、「コルバン」という言葉は「聖別」という意味にもなり、「完全な献身」をも表しました。ですから、この「コルバン」という言葉も「手を洗う」ことと同じく、信仰を守るために「自分自身の決断を表明する宣言」でもあったと言うべきでしょう。

人は、お金など持っていれば使いたくなります。それは人間共通の心理であり、欲望に限界はありません。そのため、この時代の人々は「コルバン」と自ら宣言することによって、自分の欲望を抑えたのです。しかし、それが悪用され、親を養わない理由として「献げものをしなければならないから」と言う人間が続出したというのです。神様への誓いは絶対的であり、取り消し不可能です。そのため、親を養う義務を放棄するとき、人は「コルバン」を悪用しました。さらにまた、借金の催促が来た時も、「この金はコルバンです」と言えば、その場の督促を逃れることも出来ました。

このような人々は、何よりも神様への献げものを優先しているようであり、一見、神様中心の生活を送っているように見えますが、実は、それを利用して自分の義務を免れようとしているに過ぎません。神様が与えた律法の精神を悪用した形式主義の醜さがここにありました。

既に見て来ましたように、「手を洗う」ということは、「信仰の純粋性を守る」ということであり、「コルバン」とは「神への感謝を忘れるな」ということでした。何のために守るのか。何のためにそれを行うのか。手段は目的に従うものに過ぎません。ファリサイ派は、主イエスの欠点を探し出そうとする愚かな努力の結果、かえって自分たちの生きる姿の虚しさを露呈してしまったのです。主イエスは、彼らに対して、8節では「あなたたちは神の掟を捨てた」と言い、13節では、「神の言葉を無にしている」と非難しておられます。御心は私たちを冷たい戒めの中に閉じ込めることではなく、福音の光の中で真実の自由を喜ぶことにあります。

主イエス・キリストの到来によって「時は満ちた」のです。戒めによって守られる時代は終わったのです。主イエス・キリストの来臨は、新しい時代の始まりを告げています。律法によってではなく福音によって、裁きによってではなく赦しの宣言によって生きる、新しい『自由の時代』です。「コルバン」という信仰的な言葉を、自分の欲望の隠れ蓑としてしまうような「偽善」から解放されるためには、私たち自身がコルバンとなること、神様への供えものとなることが必要なのです。

主イエス・キリストは、この私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。父なる神はこのようにして、私たちの罪を赦し、清くも正しくもない私たちをご自分のものとして下さっているのです。「自分は自分のものだ」と言い張っている私たちに、神様は、「私は独り子の命を与えてまであなたの罪を赦し、あなたを私のものとした。あなたはもう私のものだ。それゆえにあなたは神の民の一人として、私の愛の中で生きることができるのだ」と語りかけて下さっているのです。

私たちの信仰はもはや、自分が神様の前に正しく清い者であろうと努力することではありません。神様が、独り子主イエス・キリストによってこの私たちを愛して下さり、ご自分のものとして下さっている、それゆえに私は神様のもの、コルバンとされている、そのことを受け入れて生きることが私たちの信仰です。その信仰に生きることによって私たちは、昔の人の言い伝えから、人の評価を気にすることから解放され、自由になれるのです。

お祈りを致しましょう。

<<< 祈  祷 >>>

謙遜な神様

CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌19番
讃美歌183番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 45章23-25節 (旧約聖書1,137ページ)・

45:23 わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば/その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみ/すべての舌は誓いを立て
45:24 恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。主に対して怒りを燃やした者はことごとく/主に服し、恥を受ける。
45:25 イスラエルの子孫はすべて/主によって、正しい者とされて誇る。

新約聖書:フィリピの信徒への手紙 2章6-11節 (新約聖書363ページ)

2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえ

《説教》『謙遜な神様』

今日は「新型コロナウィルス感染症による緊急事態宣言」が解除されましたが、東京は引き続いて「まん延防止等重点措置」となってしまい、折角大変久し振りに礼拝堂に集い、教会学校の生徒さんや父母の方々を含めて教会学校との合同礼拝を守ることが、今日は出来ませんでしたが、ライブ配信を通しても、豊かな御言葉に出会えますことを感謝します。また、早く皆様と一堂に揃って礼拝・賛美の時が与えられます様、祈り願います。

今日の聖書箇所は、使徒パウロがキリスト・イエスの本当のお姿をフィリピ教会の信徒だけでなく私たちに熱く語られた『キリスト賛歌』と呼ばれているところです。

私たちは自分自身を省みる時、へりくだることは全く苦手な者であると言えるでしょう。とりわけ自分が目上であったり、自分が優位な立場にある相手に対しては、とてもへりくだることなどできません。そのような私たちに向かって、パウロは、少し前の5節から、へりくだることの大切さを語っているのです。そこには、「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」とあります。パウロは、信仰者がへりくだることの根拠は、キリスト・イエスのへりくだりにあると言うのです。「へりくだる」とは、自分で何か努力して、自分が頑張ってするのではなく、ただキリストを見つめることだと言うのです。

キリストを見つめるとは、キリストをお手本にして、その素晴らしい生き方を見倣うのではありません。キリストを見つめるとは、キリストを自らの救い主と受け入れ、キリストに救われ、キリストご自身の思いを、周りの人々に対して生かすことです。それは、私たちが自分の力で成し遂げられることではなく、キリストに救われた者が、その救いの恵みに感謝して行く時に自然と生まれてくることなのです。

キリスト信仰者が見つめるべき主イエスのお姿は6節から8節に記されています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で表れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。ここは、パウロ以前の初代教会時代で謳われていたキリスト讃歌として知られていました。その当時の教会でどのような礼拝讃美が行われていたか、また、パウロがこのキリスト讃歌にどのように手を加えたかなどが、大変よく研究されてきた聖書箇所と言えます。

ここには、キリストがどのようなお方かが明確に示されています。教会は、ここに記されているキリストのお姿に触れて、讃美を歌わずにはいられなかったのです。ここで先ず、キリストが神の身分であったとあります。キリストは神と等しい方、神ご自身であったのです。しかし、それに固執せず、拘らずに、神の身分を捨てて、人間と同じ者になられたのです。キリスト・イエスとは、神でありながら人となられた方なのです。この世界を創られた創造主である神は、ご自身が造られた被造物である人間と同じではないと私たちは考えます。しかし、主イエスとは、創造主である神ご自身が人となられたのです。創造主なる神、父なる神が、人であるキリスト・イエスとなって世界に来て下さったのです。それも、ただ神が人となったというだけでなく、へりくだって、十字架の死に至るまで従順だったとあるのです。

主イエスが、人間となって、力強い御言葉を語り、人々を癒し、素晴らしい生き方の見本を見せたと言っているのではありません。「十字架の死」にまで従順だったというのです。ここに「十字架の死」という言葉が出てきます。聖書は主イエスが十字架刑によって死なれたことを記しますが、聖書の中でキリストの死を「十字架の死」と言う概念をもって示すのは、今日のこの箇所だけです。十字架刑は、当時のローマ帝国で、最も重い刑罰でした。しかし、ここでの「十字架の死」とは、神様の裁きとしての死のことです。

私たちは、死と聞くと、私たちがいずれ迎える肉体の滅びとしての死を考えます。しかし、聖書は死にもっともっと深い意味を込めているのです。エデンの園から追われた人間は神様から離れて、神様ではなく自分自身が、自分の主人として生きてしまいます。そのように神様から離れることを罪と呼びます。その罪に支配された人間が受けなくてはいけない神の裁きが「十字架の死」なのです。

その十字架の死をキリストが受けて下さったというのです。本来、罪人である人間が受けなくてはならなかった神の裁きとしての死を、人間の姿をとって世に来て下さった神である主イエスが受けて下さった。その刑罰を受けることを、抵抗することもなく、それが人間を救おうとする神の御心である「十字架の死」を受けて下さったのです。私たちすべての人間の行き着く「滅びとしての死」、人間が罪人である以上、避けることが出来ないものを、罪の無い主イエスが受けて下さった。そのように考えると、十字架において主イエスは、人間以上に人間の姿をとって下さったと言っても良いでしょう。罪人が行き着く悲惨な死が、主イエスの十字架の死にあるからです。この出来事こそ、キリストの「へりくだり」ということなのです。ここに、私たちが見つめるべき、へりくだることの原型と言うべきものがあるのです。それは、私たち人間の謙遜などとは全く異なるものであり、キリストの救いにあずかることなしには生まれて来ないものなのです。

今日の聖書箇所の直前の3節で、パウロは、教会の人々にへりくだることを勧める際に、「何事も利己心や虚栄心から」しないようにと語っています。これは、キリストが自分に固執せずにむしろ自分を無にしたというその姿勢が私たちの中に生じる時にはじめて、「利己心」とか「虚栄心」によって振る舞わないという姿勢が取れるというのです。「利己心」というのは、自分の利益のみを求めて行動することです。「虚栄心」とは、自分に栄光が帰されること、人から評価されることを求める思いです。これらのことは、私たち人間の感情においては、ごく自然なものと言って良いかもしれません。「利己心」や「虚栄心」は全ての人間の本質と言っても良いでしょう。私たちは、いつも自分が高められることを求めています。周囲の人々に正当に評価されたいと思いますし、自分が見下されることは耐えられないものです。

そのような私たちにとって、自らの振る舞い全てが、いつしか、自分が高められるということを求めて行われるようになってしまうのです。そこで、個人の業績だったり、学歴だったり、財産だったり自分に栄光を帰してくれるものを求め、それに依り頼んで歩むようになるのです。6節の「固執しようとは思わず」とある「固執する」とは「略奪する」という意味の言葉です、従ってここは「奪い取ろうとは思わず」という意味です。私たちは、本来、自分の身分を高めるために必要なものを獲得しようとします。時には奪い取るようにして獲得し、そして、そのようにして得たものにしがみつき、それを離したくないと思います。固執すると言うのは、しがみつき、離れないことです。自分が人々から誉められ、あがめられることを求めるようになるのです。しかし、私たちがキリストに救われた時に、生きる歩みの中に、自分に固執せず、自分を無にする歩み、言い替えれば、利己心や虚栄心から解放された歩みが生まれていくのです。

大切なことは、キリストのへりくだり、従順の極みである「十字架の死」とは、模範を示すためのものではないのです。「十字架の死」はへりくだりの模範の極みとも言えますが、それ以上に、人間の救いの出来事そのものなのです。このことが忘れられると、キリストの十字架を模範とすることのみが、ただ、私たちの行動を規定するものとなります。例えば、主イエスのお姿から、道徳の規範のみを倣おうとすることが起こります。偉大な教えを説き、人々に良い行いの模範となって下さった主イエスに倣うと言うことのみが強調されてしまいます。主イエスに倣って、少しでも清く正しい歩みをして行こうとするのです。そこからは、周囲の人々の振る舞いを見て、裁くということが起こります。それどころか、主イエスを偉大な革命家のように捉え、主イエスの姿に倣って、その意志を実現するための活動に奔走すると言うこともあるでしょう。そこでは、自分の身近にある社会問題に取り組むことが、キリストに従うことになってしまいます。主イエスを、道徳の教師や、政治的な指導者として考えてしまうとするならば、それは誤りです。そのような時には、キリストを語ることを通して、キリストにかたどった人間の主義主張や倫理観が説かれていくのです。それは、いつしか、それを行い、あるいは、その価値に従うことがキリスト者の務めであるかのように捉えられ、周囲の人々を自分が行っている特定の活動や、特定の価値観に巻き込んでいくことになるでしょう。そこには、本当に、へりくだり、他人を敬い、その賜物を尊重する歩みは生まれて来ません。それは、キリストのへりくだりの中にある、罪の赦しに生かされることが見失われているからです。しかし、ここでは、「キリストのへりくだり」だけを言っているのではありません。今日の後半部の9節には、「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。キリストが十字架に至るまでの従順を貫いたが故に天におられる神様のもとに高く挙げられたと言うのです。このことは、何を意味しているでしょうか。

信仰者の原型となるキリストのへりくだりが語られ、それに続いて、キリストが天に高く挙げられる「キリストの高挙」が語られているのです。ここもそのように考えると、キリストのようにへりくだる歩みをした者は、キリストのように高く挙げられるのだと思ってしまうのではないでしょうか。しかし、ここは、従順を貫くことができた者は、そのご褒美としてキリストのように天に挙げてもらえると言うことではありません。このことは10節と11節では、「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストが主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」とあり、またまた、ちょっと理解しにくい話とも思われます。「天上」、「地上」、「地下」、と言われている通り、全ての被造物を含めた、この世界のあらゆるものが、イエスを主として、真に神を讃えるようになるために高く挙げられたと言われているのです。主なる神がキリストに全世界を支配する主権者としての地位を与えた、キリストは神の身分でありながらへりくだったのです。これは、私たちが「イエス・キリストは主である」と告白して、神をたたえつつ歩むことだけでしか、本当にへりくだった者となれないと言っているのです。

私たちは、この世にあって生きている限り、自分が評価されることに拘り続ける者です。何事も利己心や虚栄心から行ってしまう者です。他人のために尽くそうとする時でさえ、又、様々な奉仕に携わる時でさえ、利己心や虚栄心が潜んでいると言えましょう。困難な中にある人々のための活動も、社会の中で虐げられている人々のための奉仕も、自分の業績を評価されることのために行うのであれば、それは方向違いと言えるでしょう。

私たちは、先ず、「イエスの御名にひざまずき」、「『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえ」なければならないのです。主イエスこそが、私たちのためにへりくだって十字架の死を死んで下さったのです。ただ、主イエスのへりくだりに示された救いにあずかることを通してのみ、私たちは、自分に固執せずに、利己心や虚栄心からではなく、キリストを証しするための、愛の業に励むことが出来るのです。

今週も、神を讃美しつつ、新しい歩みを始めたいと思います。お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>

しっかりせよ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌68番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 107篇28-31節 (旧約聖書949ページ)

107:28 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らを苦しみから導き出された。
107:29 主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった。
107:30 彼らは波が静まったので喜び祝い/望みの港に導かれて行った。
107:31 主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。

新約聖書:マルコによる福音書 6章45-52節 (新約聖書73ページ)

6:45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。
6:46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
6:49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
6:51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
6:52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。

《説教》『しっかりせよ』

本日のテーマは、弟子たちが、主イエスとは、いかなるお方であるのかを、更にどこまで知ることが出来たかです。

様々な奇蹟を行われた主イエスが、群衆の過剰な興奮を避けるために、弟子たちをガリラヤ湖の向こう岸にあるベトサイダに行かせるために舟に乗り込ませました。そして、ご自分は群衆を解散させて、祈るために山に退かれました。

マルコは、主イエスがお一人で祈る場面を3回描いています。1章35節のカペナウムでの宣教開始の日、次に本日のこの6章、そして十字架を前にしての14章32節以下ゲッセマネの三場面です。そのいずれの祈りも群衆を避けて、純粋に父なる神の御心を求める大切な時でした。主イエスは父なる神と祈りによっていつも強く結ばれていたのです。

最初の45節は、「それからすぐ」という言葉で始まります。これはマルコ福音書の特徴的な書き方で、44節までの出来事と本日の物語とを強く結びつけており、時間的に「その後」ということだけではなく、五千人の給食という物語と強く結びついていることを表しています。

五つのパンと二匹の魚による五千人の食事、それはまさに偉大な出来事であり、奇跡そのものでした。集まった人々はその奇跡に驚きの声を上げたことでしょう。しかし、そこには、6章34節にあった、「飼い主のいない羊のような魂の飢え」を訴えていた者が、肉体の糧であるパンを与えられた結果、魂の飢えを訴えることを止めてしまった姿がありました。かつて、四十日四十夜、荒野で悪魔の試みを受けた主イエスに、三つの誘惑がありました。その第一が「石をパンに変えよ」でした。それは、「飢えた者にパンを与える社会経済的メシアになること」を意味していました。悪魔は、何故、「パンを与えるメシアになれ」と言ったのでしょうか。それは、経済的豊かさを得る時、人間は魂の飢えを忘れるということを悪魔はよく知っていたからです。

その意味から、主イエスの御言葉を中断し、「パンを与えましよう」と言った弟子たちは、まさに、かつての荒野における悪魔の役割を果たしていたとも言えるでしょう。主イエスの目的は、魂の飢えを訴える人々に応えることでした。満たされぬ魂の苦しみを忘れた人間は、救い主イエスを必要としていないのです。ここに、「弟子たちを舟に乗せ、群衆を解散させた」主イエスは、「もはや、人々は魂の満たされることを求めてはいない」ということを感じとられたことを示しているのです。

私たちは、「私たちを呼び集められる主イエス・キリスト」を知っています。「待っておられる主イエス・キリスト」を知っています。「心の扉を叩かれる主イエス・キリスト」を知っています。そのような主イエスのみが心に焼き付いているかもしれません。しかし、この「解散させる、追い散らす主イエス・キリスト」の御姿を見落としてはなりません。御子のこの厳しさを忘れていることこそ、私たちの信仰の甘さの大きな原因と言えるでしょう。

教会に人々を集められるのは主イエス・キリストであり、人々を散らされるのも主イエス・キリストなのです。何処の教会でも聖日礼拝の出席者の数「教勢」の増減を大きく問題にします。特に、この新型コロナウィルス感染症の世界的な流行下で教会のこの教勢は、大きく変化していると言えましょう。この教会に人々が集まるか否かは、世俗的なこととは根本的に違うのは言うまでもありません。「集め、散らされる」のが主イエス・キリストご自身だからです。「礼拝出席者が減少した」という問題は、その背景に「キリストの怒りと悲しみがある」ということなのです。

教会内では、「交わりの場のあり方が悪い」とか、「牧師の配慮が足りない」とか、いろいろ言われることもありますが、礼拝とは霊的な聖なる御業で、神様のみが導かれるのです。

最近の傾向として、礼拝に様々な試みが見られます。プロジェクターで聖句や讃美歌を投影したり、オルガンは時代遅れだからとギターやドラムを用いたり、礼拝をライブ配信するなど、礼拝出席者の減少に悩む教会の様々な試みが報告されています。しかし、そうではなく、むしろ、信仰告白を固く守り、キリストの福音のみを礼拝堂で語る教会が発展しているのも事実です。主イエス・キリストの救いを伝えることこそが教会の大切な働きなのです。

魂の飢えをキリストに求めて教会に集まる時、主イエス・キリストはいつもその真ん中に立たれるのです。しかし、福音の代わりに「人間が要求する何か他のこと」を置き換えたところからは、主イエスは人々を追い散らされるのです。

主イエス・キリストが山に退かれた時、何が起こるか、その恐ろしさを弟子たちの姿の中に見出さなければなりません。全ての人々を遠ざけ、祈るために山へ行かれる主イエス・キリストの御姿を何と見るべきなのでしょうか。

47節にあるように、「夕方」になって、弟子たちの乗った舟は湖の真ん中に出ていましたが、主イエスだけは祈るために山におられました。

まさに「時は夜」でした。暗い水の上で、キリストから離れた弟子たちが、「自分たちだけで」進もうとしているのです。闇の中にいる彼らの眼には主イエス・キリストが見えていません。ただ眼に入るのは、自分たちを取り囲む強い風と波だけでした

そこには平安がなく、恐れのみで、前も後ろも暗闇の世界でした。生命を脅かすもので周囲は満ち満ちていました。行くべき場所を明示するものも見えず、力の限り漕いでも、舟は進みませんでした。前へ行こうとする人間の意志を無視する力が如何に強いかを思い知らされました。

この「逆風」とは何であったのでしようか。「暗闇」とは何でしょうか。キリストから離れた人間、キリストによって追い散らされた人間を取り囲むのは、常に、この「逆風」と「暗闇」で表現される「恐れと虚しさ」だけなのです。そして、この「恐れと虚しさ」をもたらすものの満ちているところが、神なき世界であると聖書は語ります。福音を必要としない人生の苦しさを、聖書は、弟子たちの姿を通して語っているのです。

48節に、「夜が明けるころ」とあります。正しくは「夜明け前」であり、水の上は未だ暗い時間でした。しかし、主イエスは「弟子たちが逆風のために漕ぎ悩んでいるのを見た」と記されています。弟子たちには何も見えない夜明け前の暗黒の中で主イエスは、ここに弟子たちの姿を見ているのです。一方では、主イエスから遠く離れた荒れる湖の上で、神と断絶する弟子たちの厳しさが依然として「ここにある」と言えるでしょう。

主イエスは、御自身を求めない者たちを追い散らしました。しかし、決して、見捨てられたということではないのです。散らされた者を、御心の外へ追いやってはいないのです。主イエス・キリストは、悩み苦しむ人間を見詰めておられるのです。

ここにこそ救い主としてのお姿が明確に告げられているのではないでしょうか。平安と希望を見失い、絶望の中を虚しく努力する人間を救うため、主は再び近づかれるのです。

さらに、このキリストの御業が如何に私たちの予想を超えているかということは、主イエスが「水の上を歩いて来られた」ということに尽きるでしょう。

「水の上を歩く」。それは人間にとって全く不可能なことであり、考えることも出来ないことです。それ故に、「キリストに救われる」ということは、このように「私たちには不可能と思われることが実現することである」と言えるのです。愚かさ故に遠く神から離れ、神なき世界に苦しむ者に対し、主イエス・キリストはあらゆる隔たりを除かれるのです。「私たちの苦しみを見過ごしに出来ないという愛」によって、不可能を可能にされるのです。

聖書は、この時の弟子たちの心を正直に伝えています。「そばを通り過ぎようとされた」。この物語は、ペトロの思い出に基づいて書かれたものであり、ペトロの立場から主イエスを見て書かれています。ですから、「イエスが通り過ぎようとした」のではなく、「イエスが通り過ぎてしまうように思えた」ということなのです。しかも、こともあろうに「幽霊だと思った」と記されています。何故なら、それはペトロにとっては、予想することも出来ない「有り得ないことであった」からです。

しかし51節の後半から52節には「弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」とあります。弟子たちは、主イエスが水の上を歩いて来て、舟に乗り込んで下さったら逆風が止んだことを、驚いたけれども、その本当の意味を捉えることはできなかったのです。彼らは「パンの出来事」も理解していませんでした。彼らが持っていた五つのパンと二匹の魚で主イエスが五千人を越える人々を養って下さったあの奇跡によって、弱く貧しく罪深い自分たちと、自分たちが持っているちっぽけなものを用いて、主イエスが人間の力をはるかに越える救いのみ業を行って下さったのに、彼らは心が鈍くなっていて、その恵みを受け止め、主イエスに信頼して生きることができていなかったのです。だからこそ、水の上を歩いて来て下さった主イエスのことを幽霊だと思って騒いだのです。弟子たちですら主イエスのことをこのように分かっていないのですから、他の人々が主イエスが何者であるかが分からないのは当然です。

ペトロは、主イエスが、嵐の湖を渡ってまで自分を救いに来て下さるとは、考えてもいませんでした。そしてまた、「主イエスが私のところにやって来られる筈はない」と思い込んでおり、期待もしていなかったのです。

自分を救うために近づいて来られるキリストの御姿を見ながら、なお、このように戸惑わざるを得ないのが、神なき世界に生きる人間の姿なのです。

50節の主イエスの語りかけ、「安心しなさい」と訳されたギリシャ語の“サルセオー”とは、「しっかりしなさい」と訳すべき言葉です。しかもすぐ後に続く「わたしだ」という言葉は、ギリシャ語では、“エゴー エイミー”「この私だ」という最も強く自分を指し示す言葉で、主イエスがご自身を表されるときに用いられる言葉です。ですから、あえて直訳すれば、「しっかりしなさい。この私が、あなたのところに来たのだ。恐れるな」という言葉です。そして自ら舟に乗り込み、それと同時に嵐は止みました。

神なき世界をさ迷う人間の中にも、御子キリストは入って来られるのであり、キリストの臨在と共に嵐は止むのです。そしてキリストの「私が共にいるではないか」という御言葉と共に、私たちは初めて平安を取り戻すのです。

キリストなき世界にあったペトロの不信仰の理由が、52節にある、「心が鈍くなっていた」という言葉です。この言葉は本来「石のように硬くなる」という意味であり、霊的な感受性を失うことを示しています。「鈍い・鋭い」という感覚の問題ではなく、「心が霊的なものを完全に受け付けなくなっている」という「魂のあり方」の問題なのです。

祈りを忘れた人間。御言葉を求めることを忘れた人間。魂の飢えより肉体の飢えが気になる人間。霊的豊かさよりこの世的経済性を問題にする人間。そのような人間の惨めさがここにあると言えるでしょう。

「しっかりしなさい。この私が、あなたのところに来たのだ。恐れるな」という御言葉の持つ真の意味が、弟子たちの心の中で、未だ本当の力になっていませんでした。キリストによって与えられた平安の中にありながら、キリストと共にいることの素晴しさに気がつかない弟子たちの姿は、私たちの姿でもあるのです。

主イエス・キリストは私たちを選び、召し出して、教会という舟に乗り込ませ、この世へと漕ぎ出させておられるのです。主イエス・キリストの促しによって教会という舟に乗り込み、漕ぎ出していく私たちの信仰の歩みも、逆風によって漕ぎ悩むことがしばしばです。主イエス・キリストは私たちの霊的鈍さ・頑なさにも拘わらず共に進まれるのです。この「キリストを中心にした舟」、即ち「教会」において、目には見えないけれども聖霊によって共にいて下さる主イエス・キリストが、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけ、私たちを守り導いて下さっているのです。

お祈りを致します。