言(ことば)は神であった

クリスマスイヴ礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌98番
讃美歌121番
讃美歌109番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 9章1-5節 (旧約聖書1,074ページ)

9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
9:2 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。
9:3 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。
9:4 地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

新約聖書:ヨハネによる福音書 1章1-14節 (新約聖書163ページ)

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

《説教》『言(ことば)は神であった』

このヨハネによる福音書1章1節にある「初めに言があった」とは謎のような分かり難い言葉です。まず漢字で「言」と書いて、これを「ことば」と読みます。この読み方も初めから、この福音書を分かり難くしている理由かも知れません。そんな多くの謎も、先へ読み進んでいくと少しずつ解きほぐされ、語られていることが分かってきます。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」、これは、何のことを言っているのか、14節を読むとはっきりします。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。ここで「肉となって」とあるのは「肉なる人」つまり「人となって」という意味です。神と共にあり、それ自身が神である、初めにあった言、その言が肉となって私たちの間に宿られた。それは、まさに神の独り子イエス・キリストのことです。その栄光が父なる神の独り子としての栄光だったと言われていることからもそれが分かります。初めにあった言とは、神の独り子であられる主イエス・キリストのことなのです。神の子である主イエスが、全てのものの初めに、父である神と共におられたと語っているのです。2節にはもう一度、「この言は、初めに神と共にあった」と繰り返されています。そして3節には、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」とあります。父なる神と共におられた独り子主イエス、「言」であるその方によって、この世の全てのものは成ったのです。「成った」とは「創造された」ということです。父なる神と共におられ、ご自身も神であられる独り子主イエスによって、この世の全てのものは造られた、主イエスは、全てのものをお造りになった創造者なる神である、ということをこの福音書ははっきりと語っているのです。

それは、天地をお造りになったのは父なる神ではなくて主イエスだ、ということではありません。天地を創造なさったのは父なる神です。後に肉となって私たちの間に宿って下さり、人間となって、この世界に来て下さった主イエスは、世の初めから、父である神と共におられ、ご自身もまことの神として天地創造のみ業に関わっておられた、それが、この福音書が宣べ伝えようとしていることなのです。

1節、2節で使われている「初めに」という言葉は、旧約聖書の創世記第1章1節の「初めに神は天地を創造された」と連動しているのです。神による天地創造こそが、聖書が語るこの世界の「初め」なのです。

「言」による天地創造とは、天地創造においても、神の独り子である主イエス・キリストが神と共にあって、私たちに語りかけてくださっておられるということです。言葉というのは必ず語りかける相手があるものです。天地創造における神の言葉は、虚しい空間に向かって語られたのではありません。神は言葉によって天地をお造りになり、私たち人間が生きることのできる場としてこの世界をお造りになったのです。そして神は言葉によって私たち人間を造り、命を与えて下さり、私たちを、神の言葉を聞き、それに応答して生きるもの、人間として、神と交わりをもって生きる存在として下さったのです。

主イエスこそ、初めにあった「言」であり、その「言」によって全てのものは造られた。この言こそ命であり、光である。その光が世に来て、全ての人を照らして下さる光、救い主となって下さる。それが主イエス・キリストであると、ヨハネ福音書は語っています。

しかしそれは、誰が読んでも「その通りである」と理解でき、納得できるものではありません。そのことを信じるのか、信じないかの決断が私たちに求められているのです。主イエス・キリストのご生涯とは、まさにそのような歩みだったということが、10節以下で語られています。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。「言」は主イエス・キリストという一人の人となって、私たちのこの世界に来て下さいました。主イエスは、ご自分が創造し、命を与えたご自分の民のところに来られたのです。しかし人々は、その主イエスを認めず、受け入れなかった、主イエスを拒み、十字架につけて殺してしまったのです。この世の人々は、主イエスがまことの神であり救い主であることが分からなかったのです。

12節に、「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とあります。主イエスを受け入れ、そのみ名を信じる者に、主イエスは「神の子となる資格」を与えて下さるのです。ここで「資格」と訳されていますが、これは私たちが試験を受けて取るような資格とは全く違います。資格と訳されている言葉は「権威」という意味です。「権威」は、獲得するものではなくて与えられ、認められるものです。神の子となることも、私たちが自分の力でその資格を得るのではありません。神が子として認め、受け入れて下さるという恵みによって与えられるのです。生まれつきの私たちは、この世界と私たちを造り、生かして下さっている神に逆らい、神を神として認めずに拒んでいる罪人であって、神の子となることなど到底出来ない者です。神はその私たちをご自分の子としようとして、神はその独り子である主イエス・キリストを人間としてこの世に遣わし、その十字架の死によって私たちの罪を赦して下さいました。神が遣わして下さったこのただ一人のまことの神の子主イエス・キリストを救い主と信じて受け入れ、主イエスと共に生きるなら、神はその人をご自分の子として受け入れて下さるのです。それは13節に語られている、「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」ということが実現することです。主イエス・キリストを自分の救い主と信じるなら、神は私たちをご自分の子として生まれ変わらせて下さるのです。

神の「言」としての主イエスのご生涯を語っているのがこのヨハネ福音書です。主イエスのご生涯全体が、神の言、神から私たちへの恵みの言葉の語りかけなのです。3章16節に、この福音書を凝縮したような言葉があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。主イエスという「言」が私たちに語りかけているのはこの神の愛です。主イエスは、その愛のみ心を実現するために、神に背き逆らい、み言葉に応答しない私たち罪ある人間のところに来て共に生きて下さいました。そして、私たちの身代わりとなって、私たち罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。父なる神はその主イエスを復活させて下さいました。主イエスの復活によって、神の恵みのみ心が、人間の罪と死とに勝利したのです。私たちも今、神の「言」であられる主イエスとの出会いを与えられています。そして復活して今も生きて働いておられる主イエスが私たちに呼びかけておられるのです。その主イエスの呼びかけに私たちが応え、主イエスは神の子メシアであると信じて告白する時、神は私たちを神の国の愛と平安の中に入れてくださるのです。

お一人でも多くの方が、このキリストの愛、キリストの救いへと導きいれられますよう、主イエス・キリストの愛と恵みに溢れた呼びかけに感謝して、お祈りを致します。 皆様、お祈りの姿勢をお取りください。

<<< 祈  祷 >>>

イエス様の誕生

主日CS合同クリスマス礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌94番
讃美歌108番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 9章5節 (旧約聖書1,074ページ)

9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

新約聖書:ルカによる福音書 2章1-7節 (新約聖書102ページ)

2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

《説教》『イエス様の誕生』

主イエスの誕生を語るこの箇所は、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」という書き出しで始まっています。皇帝アウグストゥスとは、ローマ帝国の最初の皇帝です。彼の時代から、ローマは共和国から皇帝の治める帝国になったのです。彼はオクタヴィアヌスという名前でしたが、紀元前44年に暗殺されたユリウス・カエサルの養子、後継者となり、カエサル亡き後の長い内戦に終止符を打ち、勝利者となりました。ローマの元老院は紀元前27年に彼に「アウグストゥス」という尊称を贈りました。権限を得た彼は次第に帝政を敷き、ローマは共和国から皇帝の治める帝国となったのです。このおよそ百年後にルカはこの福音書を書いたのです。

さてこの皇帝アウグストゥスが、「全領土の住民に、登録をせよとの勅令」を出したとあります。これは、人口調査のための住民登録です。人口調査はそれぞれの地域に住む人々の数や経済状態、生活の様子を調べることによって政策決定の基礎データを収集するために行われました。アウグストゥスはその治世の間に三度この調査を行いました。ルカが福音書を書いたこの時、ユダヤはヘロデが王である王国でした。形は独立国家の王国でしたが、ユダヤは既に事実上ローマの支配下にあり、ローマ帝国の住民登録の対象になっていたのです。1節には、この住民登録が「キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の」ものだったとあります。このキリニウスとは、長くローマ帝国シリア州の総督を務めた人です。ただし、主イエスがお生まれになった時の住民登録が、キリニウスがシリア州の総督であったということについては、歴史的に疑問がある様です。さらに、3節の「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った」ということも疑問です。果して当時の住民登録がここに語られているように、おのおのが先祖の町、いわば本籍地に行って登録するという仕方で行われたのかどうかはかなり疑問です。父のヨセフもそうであったように、本籍地を離れて暮らしていた人も多かった筈です。それらの人々がいっせいに本籍地に戻って登録をするなどというのは現実離れしているように思われます。むしろ、私たちの現在の国勢調査がそうであるように、今住んでいる所で登録をした方が現状が把握できてよい筈です。ですから、このような方法での住民登録が本当に行われたのかどうかは、かなり疑問があるのです。

ローマ皇帝アウグストゥスについて、そして主イエスがお生まれになった時のユダヤの状況について見てきましたが、それでは、本日のこの主イエス誕生の物語でルカは何を語ろうとしているのでしょうか。

当時の人々にとって、ローマ帝国こそが様々な民族を包み込むすべての世界でした。ローマ帝国が全世界であり、その外のことは人々に知られていなかったのです。ですから、ローマ皇帝は全世界の支配者だったのです。そのローマ皇帝の支配下でヨセフとマリアが旅をして、その旅先で主イエスがお生まれになったと語ることによって、主イエスの誕生が、この世界全体の政治的、経済的、軍事的な動き、支配と深く結びついた出来事であることを語ろうとしているのです。

しかしそれは主イエスもこれらの政治的支配に従属している、ということではありません。ルカは第1章で、生まれてくる主イエスが、いと高き方である神の子であり、神の民の王ダビデの王座を受け継ぎ、神様の救いにあずかる民を永遠に支配する方であることを語ってきました。神の子主イエスこそまことの王、支配者であられるのです。ですからルカはここで世界の支配者皇帝アウグストゥスの名を挙げることによって、主イエスとアウグストゥスとを並べて、いったいどちらが本当の王、支配者なのか、という問いを読む者に提起しているとも言えます。実際当時のローマ帝国では、アウグストゥスのことを「救い主」と呼び、その誕生日を「福音」救いをもたらす良い知らせとして祝うということがなされていたようです。ルカはそのような中で、本当の救い主は誰なのか、本当の良い知らせとは何なのか、誰の誕生をこそ本当に福音として喜ぶべきなのか、ということを問いかけているのです。

加えてルカが、歴史的事実とは必ずしも一致しなくても、この住民登録の物語によって主イエスの誕生を語っているのは、主イエスがベツレヘムでお生まれになることが実現したことを語るためです。ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフとマリアがベツレヘムで出産をする必然性など少しもないのです。しかし皇帝アウグストゥスのあの勅令のために、彼らは身重の体でベツレヘムまで旅をすることになり、そしてベツレヘムで主イエスが生まれたのです。では、ベツレヘムで生まれるということにどういう意味があるのでしょうか。そのことが4節に語られています。ヨセフはダビデの家に属し、その血筋だった。ユダヤの繁栄の頂点だったダビデ王の子孫だったのです。ベツレヘムはダビデ王の出身地です。そこにヨセフの本籍もあり、彼は身ごもっていたいいなずけのマリアを連れて、そこへ登録に行ったのです。それによって、旧約聖書ミカ書5章1節の預言が成就したのです。そこにこうあります。「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」。神様の民イスラエルを治める者、本当の支配者であり救い主である方が、ベツレヘムで、ダビデの子孫から生まれるという預言です。また本日読まれましたイザヤ書9章5節には「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる」とあります。主イエスがベツレヘムでお生まれになったことによって、ダビデ王に優る統治者、いや、ローマ皇帝をも凌ぐ「救い主」が生まれるという、これらの預言が実現したのです。主イエスがベツレヘムでお生まれになったのは、主なる神様が前もって計画し、旧約聖書で告げておられたご計画の成就、み心の実現だったのです。皇帝アウグストゥスの勅令は、主なる神様の救いのご計画、み業の中にあり、ベツレへムでの救い主の誕生という預言の成就のために用いられたのです。主なる神様こそ、皇帝をも用いて私たちの救いのためのみ心を実現して下さる本当の支配者なのです。ルカが主イエスの誕生をこのように描いたのは、そのことを語るためであり、私たちがこの箇所から聞き取るべき最も大事なこともこのことなのです。

世界の歴史を本当に支配し、導き、用いておられたのは主なる神様です。神様はこの不安や悲しみに満ちた現実のこの世界の中に御子を誕生させ、飼い葉桶の中に寝かせて下さいました。この飼い葉桶は、御子イエスが歩まれるご生涯を、とりわけ私たちを救うための十字架の贖いの死を暗示しています。神様は主イエスの苦しみと十字架の死とによって私たちのための救いのみ業を成し遂げて下さり、復活によって私たちにも、死に勝利する新しい命の約束を与えて下さったのです。

今日のクリスマスに生まれて来られた御子、主イエス・キリストこそが私たちの「救い主」「メシア」「キリスト」です。お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>

イエス様が生れる約束

主日CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌2番
讃美歌142番
讃美歌320番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 9章1-6節 (旧約聖書1,073ページ)

8:23 先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
9:2 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。
9:3 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。
9:4 地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。
9:6 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

《説教》『イエス様が生れる約束』

今日から教会は、イエス様がお生まれになったクリスマスを待ち望むアドベント、漢字で降るのを待つと書く「待降節」を迎えます。私たちが待ち望むクリスマス、イエス様が2000年前に、お生まれになったことは誰でも知っています。

そのイエス様がお生まれになった更にずっと昔に、そのイエス様がお生まれになることが旧約聖書に書かれているのです。今日の旧約聖書イザヤ書9章1~6節は、同じイザヤ書11章1~5節と共に「メシア預言」と呼ばれ、ダビデの家系に王様が誕生し、イスラエルの民を救うことを預言していました。

5節に「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』と唱(とな)えられる」とあります。誕生する子供が王様となって、神様に導かれてイスラエルの民を救う計画を成し遂げ、その支配は、神様の代わりとして、公平さをもって永遠に治め、平和を実現すると書かれているのです。

このイザヤ書を残したイザヤは、イエス様がお生まれになる700年ほど昔にイスラエルで活躍した預言者です。このイザヤの時代のイスラエルの民は、とっても苦しくてつらい日々を過ごしていました。ダビデ王がイスラエル王国の王様のときには繁栄していたイスラエルも、北と南に分裂してしまい、そして、ついにシリア・エフライム戦争が起こってしまい北イスラエル王国はアッシリアに攻められ、紀元前722年に首都のサマリアが陥落し滅びてしまいます。何とか耐え忍んだ南王国も、再びアッシリアなど強い国がいつ攻め込んでくるか分からないという不安の中にありました。南王国も、そのアッシリアの属国として重税など大きな負担を払わなければなりませんでした。そのような大変苦しい現実を生きていたイスラエルの民に、預言者イザヤは「ひとりの男の赤ちゃんが生まれる」と告げたのです。その生まれてくる男の子は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」という名前で呼ばれる、と言われたのです。神様から特別な力を与えられている男の子は、神様の導きによってご自分の計画を成し遂げ、地上で神様のみ旨を行い、イスラエルを永遠に支配し、平和を実現する方です。「ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない」とも言われています。生まれてくる男の子は、王となってイスラエル王国をもう一度強くしてくれると期待されていました。ところが、北の王国だけでなく南の王国も紀元前587年には滅ぼされてしまいます。でも、国が滅んでしまったイスラエルの民は、このイザヤの預言がいつか来てくださる救い主・メシアのことを告げていると信じて期待するようになりました。

 

このイザヤ書では、真の希望とは何か。それは神様が預言者イザヤを通して、大国アッシリヤの勢力の圧迫下に心を惑わし、悩み苦しむご自身の民イスラエルと、イスラエルの王アハズと、後に続くすべての者に対して神様の啓示として、素晴らしい光である救い主・メシヤが来られることを「永遠の希望」として告げているのでした。歴史を造られ支配される神様の預言であれば、数年後の未来に実現することも、何百年もの幾世紀も先に実現することも同じであり、その神様の代弁者・預言者であるイザヤはただ示されるままに神様の啓示の伝達者としての役割を果したのでした。

ユダヤの民にとって大変暗い状況の中で、神の恵みの光が、民を救うために救い主・メシアとして、この世に来られることを、美しい詩を用いた文章の形でイザヤは預言しているのです。

神様が心を痛められたのは、神の民であるイスラエルが高慢になって、自分たちの力を信じて、神様に信頼することがなくなることでした。イザヤは、イスラエルが圧倒的に強力なアッシリヤの軍事力に圧迫されても、自分たちは自分たちの力で立ち上がり、守り抜けるのだ、とイスラエルが高ぶることをまず指摘したのです。このすぐ後の9節に「れんがが崩れるなら、切り石で家を築き 桑の木が倒されるなら、杉を代わりにしよう。」とあるように、れんがが駄目になったらもっと高価な切り石で、桑の木が駄目になったらもっと高価な杉の木で、という具合に自分たちは向上するのだと豪語し、北イスラエルは高慢になっていると厳しく責められます。万能なる神様はイスラエルの周囲の異邦の国々を用いて、そのような高慢で、神様を信頼しあがめることをしないご自身の民を打たれるのだ、とイザヤは告げるのです。神様は、それでもなお謙虚にへりくだらない高慢なイスラエルの民に対して厳しく迫られますが、民は神様の警告に耳を貸しません。そのような彼らをさばくために、この後更に、神様は指導者たちに混乱をもたらされますが、それでもなお謙虚にならないイスラエルの民に対する神様の審判は激しく広がるのです。

6節には「ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」と言われています。国家の滅亡を経験したイスラエルの民は、イザヤが、来るべき救い主の王なるメシアについて預言していることを信じるようになりました。

救い主・メシアが到来すれば、闇の中を歩んでいるイスラエルの民に光が差し込みます。1節の「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と言われているようになります。死を身近に感じて生きていたイスラエルの人々は、まさに「闇の中」を歩んでいました。イザヤは、そのような人たちが「大いなる光」を見るときが来る、彼らの上に「光が輝く」ときが来る、と告げたのです。

 

2節では、そのとき神様が「深い喜び」と「大きな楽しみ」を与えてくださり、人々が、収穫と戦利品の分配を祝うように、神様の前に喜び祝うことが語られています。現代を生きる私たちにとって、収穫の喜びはあまり実感のないものになっています。豊かな時代になったからだけでなく、収穫を目の当たりにし、その喜びを経験することがなくなったからかもしれません。しかし、当時の収穫は、窮乏の終わりを意味しました。もはや飢えに苦しむことも怯えることもないのです。

3節には「奴隷の軛が壊され」ること、4節には「戦いの武器が取り除かれ」ることが告げられています。奴隷の軛は、アッシリアが属国としたイスラエルの民に与えた課税などの大きな負担を示しています。また「地を踏み鳴らした兵士の靴」や「血にまみれた軍服」は、イスラエルの地で行われた戦争の現実を突きつけています。メシアの到来によって、そのような支配と戦争から解放されることが告げられているのです。

イスラエルの民はイザヤの預言が実現するのをずっと待っていました。それはいつ実現したのでしょうか。イエス様がこの世界に来てくださった時です。イエス様がこの世界に来てくださり、十字架で死んで復活してくださったことによって救いが実現しました。イエス様こそが、イザヤが預言した救い主・メシアなのです。

私たちもまた、自分が闇の中を歩んでいるように、死の陰の地に住んでいるように感じることがあります。また、この世界は戦争などの闇の中にある国や地域も多くあります。貧困、戦争、差別は、過去のことではなく、現在のこの世界を覆っています。

また、世界が闇に覆われているだけではありません。何よりも私たち白身が闇を抱えています。自分自身の力では取り除くことができない闇です。私たちは自分の闇に自分の力で光を灯すことはできません。イエス様は、そのような私たちの闇の中へ来てくださいます。罪に支配された世界へと来てくださったのです。そしてイエス様の十字架の死と復活によって、イザヤの預言が成就しました。イエス様こそイザヤが預言した救い主・メシアです。イエス様によって神様と私たちの間に平和が打ち立てられました。神の国が到来し、神様の恵みの支配が始まったのです。

 

ところで、最初に、イエス様の到来を待ち望むのがアドヴェントであると申しました。しかしよく考えてみると、イエス様は、2000年前にすでにお生まれになっています。ですから、私たちはイエス様のお誕生を待ち望む必要はありません。私たちが待ち望むのは、イエス様が再び来てくださること「再臨」です。預言者イザヤがメシアの到来を預言してからイエス様がお生まれになるまで700年が過ぎました。私たちが生きている間にイエス様の再臨が実現するかは分かりません。けれども私たちは、イスラエルの民が、メシアが救いに来られるのを待ち望み続けたように、クリスマスにお生まれになり、十字架と復活によって私たちの救いを実現してくださったイエス様が、再び来てくださり救いを完成してくださることを待ち望みつつ、自分に与えられた地上の人生を歩んでいくのです。この人生の歩みにこそ私たちの希望があることを共に分かち合いつつ、アドヴェントを過ごしていきたいと願います。

お祈りを致しましょう。

思い出

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌23番
讃美歌138番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 7章9-11節 (旧約聖書1,071ページ)

7:9 エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」
7:10 主は更にアハズに向かって言われた。
7:11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」

新約聖書:マルコによる福音書 8章11-21節 (新約聖書76ページ)

8:11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。
8:12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」
8:13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。
8:15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。
8:16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。
8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、
8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

《説教》『思い出』

先週、ご一緒に読んだ「四千人の給食」の行われた場所は、ユダヤ人が住むガリラヤではなく、異邦人の住む土地でした。主イエスは、ユダヤ人に追われる様に弟子たちと共にダルマヌタ地方に来られました。

このダルマヌタ地方とは何処なのか、聖書では、このマルコ福音書の、この箇所にたった1回しか出て来ないのでハッキリとは分かりませんが、並行聖書箇所のマタイ福音書ではマガダン地方となっていることなどからガリラヤ湖西岸のマグダラの辺りではないかといった説が有力なようです。

ここに来られた主イエスの周りに、またまたファリサイ派の人々が現れました。彼らはここでも主イエスを陥れるために議論を仕掛けて来たのでした。

彼らは主イエスを試そうとして「天からのしるし」を求めたと書かれています。「天からのしるし」とは、「神による直接の証明」を示せということです。

彼らは、主イエスが各地で驚くべき御業・奇蹟をされたことを聞き、また、その出来事に出会って来た筈です。

しかし、それでも満足していませんでした。神の御子の大いなる御業に接し、その出来事を聞かされながら、それが信じられないのです。それは、自分自身の目で見て満足出来れば、自分たちの判断によって、「神を承認しよう」ということ、人間が神の上に立つということです。

既に、ご一緒に読んで来ましたように、五千人の人々に食事を与え、四千人の空腹を癒したパンの奇跡こそ、「神の国の食卓を表す」ということを私たちは学んで来ました。そこには神の御子の偉大な御業が現わされていました。

しかし、ファリサイ派の人々は、それらの出来事を何ひとつ正しく受け止めようとはしませんでした。深い知識と十分な経験を持ちながら、彼らは自分たちの持つ硬い殻を破れず、何も悟ることが出来なかったのです。

自分を虚しく出来ない人にとって、神の御業は全く無意味であることが、ここに示されたと言えます。「この世のものでないこと」に出会っていながら、なお自分の判断で理解しようとする人々。その人々は、たとえ「しるし」を示されても、それが「しるし」であることに気付かないのです。

主イエスの嘆きは、このような人間の愚かさに対するものでした。

「しるし」がないのではなく、無数に示された「しるし」を見ない「人間の惨めさ」への嘆きがここにあると言えるでしょう。

主イエスは「しるしがない」と言っておられるのではなく、神の御業を見ようともしない人間を悲しまれているのです。

主イエスは、ファリサイ派の人たちに背を向けられました。議論の相手になろうともせず、彼らの求めに応えようともせず、彼らを見捨てて去って行かれました。神の独り子を眼の前にしながら、なおそこに何も見ようとしなかった人々への「天からのしるし」は、もはや神の直接的な御手が下される終末の時を待つ以外ないからです。そして、そのような人々は、舟に乗って去る神の御子を「ただ岸辺で見送るだけ」なのです。

そして、このすぐ後、ガリラヤ湖を渡る舟の中で、主イエスと弟子たちとの間に交わされた会話こそ、私たちが心して聞かなければならないことなのです。

15節に、主イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められたとあります。

この時代、微生物はおろか、微生物の働きである「発酵」や「腐敗」についての原理は知る由もありませんでした。「パン種」とは、焼く前のイースト菌の入った生パンの一片を、次のパンを作るときに、新しいパン生地に加えて発酵させて、次のパンを作るときに用いていたことを現わしているのです。

ところで、皆さんは、微生物の働きである「発酵」と「腐敗」の違いをご存知でしょうか。実は「発酵」と「腐敗」は微生物による有機物の分解でまったく同じ働きを表わす言葉です。

「発酵」と「腐敗」の違いは、私たち人間の役に立つものが「発酵」で、役に立たないものが「腐敗」と呼ばれているだけです。

「発酵」と「腐敗」することはまったく同じであり、「パン種」とは作ろうとするパンに次々に微生物の働きが移って行くことです。このため、聖書では、この「パン種」という言葉は「腐敗」や「伝染」という悪い意味でも用いられました。ここに語られている「ファリサイ派のパン種」とは、悪い影響をもたらし、真実を歪める偽りの信仰という意味として理解出来ます。彼らは、外から見た目には、信仰には熱心であり、敬虔でありました。しかし内実は、自分を第一とし、神を「二の次」とする者として批判せざるを得ません。

「神を求める」と言いながら、実は、神の名を借りて自分の立場を守っていたのがこの人々の特徴でした。彼らが示す信仰者の姿は、真実の自分を隠し、偽りの姿で惑わせる巧妙な偽装に過ぎませんでした。

ファリサイ派の人々に対する主イエスの厳しい批判は、マタイによる福音書23章1節以下の小見出し「律法学者とファリサイ派の人々を非難する」に詳しく記されています。後でお読み頂けると幸いです。また、15節にある「ヘロデのパン種」とは、当時の社会に存在していた「ヘロデ党」と呼ばれる政治的団体に代表される「この世中心主義」のことです。現実主義であり、「自分の生活が第一、神は第二」という世俗主義のことです。富の豊かさと社会的地位や権力を求める人間、それらに眼を奪われる人間。それがこの「ヘロデのパン種」に譬えられるタイプの人間です。

この二つの「パン種」という言葉によって表れされるのは、自分の考え、自分の生活を第一にする人間のことであり、神の御業に出会っても、何も見えない人とも言えます。自分の要求が満足させられるか否か、ただそれだけを求める人は、結局、「そこでは何も見なかった」のと同じことになってしまいます。

幸福を与えるために来られた神の御子に見捨てられ、舟に乗って遠ざかるキリストを岸で見送る虚しさ、これが神を第二とする人間の特徴と言えましょう。

私たちも、ファリサイ派の人々ほど極端ではないかもしれません。ヘロデ党の人々ほど世俗的ではないと言えるかもしれません。しかし、私たちの心の中に、自己中心主義の小さなかけらが一つもないと言えるでしょうか。

神の御業に目隠しをしてしまう力を秘めたものが、心の片隅にこびり付いていないでしょうか。このような自己中心主義の危険にさらされていることが、ファリサイ派の人々やヘロデ党の人々だけの問題でないことは、この舟の中に主イエスと共にいる弟子たちの姿を見れば明らかです。

14節に、「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。」とあります。弟子たちは弁当を持って来ることを忘れたのです。この時、彼ら全体でパンを「ひとつ」しか持っていませんでした。ですから、主イエスの御言葉を聞きながら、一番の心配事として、「パンがひとつしかない」ということに心を痛めていたというのです。余りにも馬鹿馬鹿しい勘違いだと笑う人がいるかもしれません。実に愚かなことだと私たちも思います。

しかしこれこそ、「常に、自分を第一」と考えさせる、あの「パン種」の仕業なのです。

主イエスはそれに気づいて言われました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」。弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを裂いたときには、集めたパン屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と弟子たちは答えました。主イエスは、何を言おうとされているのでしょうか。

五つのパンで五千人。七つのパンで四千人。「そこまで言うならば、ひとつのパンでも十分だったのではないか」と思うなら、その人もまた、この弟子たちを笑う資格はないでしょう。ここで問題になっていることは何でしょうか。

「僅かひとつのパン」で、「どうして全員が食事をすることが出来るか」ということでしょうか。

17節から18節の主イエスの言われた「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」 主イエスとしては珍しく強い言葉です、一言で言えば、「愚か者!」ということでしょう。まさに厳しい叱責であり、強烈な批判です。主イエスの御業をしっかりと見詰めておらず、そこで示された恩寵の素晴しさを思い出すことも出来ない愚かさが、ここに指摘されているのです。

あの「五千人の給食」と「四千人の給食」で「思い出さなければならないこと」とは何でしょうか。

あの時の飢えは、単なる肉体的な飢えではありませんでした。あの時の満腹は、単なる肉体的な満腹ではありませんでした。主イエスと共にいることで「時」を忘れ、主イエスご自身が解散させるまで離れようとしなかった人々。空腹を忘れ、飢えを忘れ、寒さを忘れ、家に帰るべき時間を忘れた人々。その人々に、主イエスは何をもって報いたでしょうか。その人々は、何を携えて家に帰って行ったのでしょうか。これらの「パンの奇跡」こそ、神の国の恵みの先取りであり、キリストと共にいることの喜びにすべてをささげ、飢えも寒さもあらゆる不安からも解放されたのが、あの時の人々の姿でした。まさしく、「神の国」が実現し、「キリストと共にある豊かさ」が全ての人々を満たしていました。たとえそれが、僅かなひと時であったとは言え、「来るべき神の国」を、主はあの奇跡によって示されたのでした。それにも拘らず、何故、弟子たちは「そのこと」を思い出さなかったのでしょう。主イエスは言われました。「まだ悟らないのか」(21)、「もう分かったであろう」ということです。「あの出来事を思い出したであろう」ということです。

私たちの信仰も、この主イエスの御言葉を正しく思い出すことにかかっているのです。

弟子たちは、「パンがひとつしかない」ということしか考えていませんでした。聖書は、「ひとつのパン」ということから「何を思い出せ」と言っているのでしょうか。それは、新約聖書312ページ、コリントの信徒への手紙第一 10章16節の中頃から17節に、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」とあります。

ここの「ひとつ」とは、ひとつ・ふたつと数える数字の「イチ」“ひとつ”ではなく、「掛け替えのない」“ひとつ:ファースト”ということなのです。主イエス・キリストこそ「生命のパン」であり、私たちの新しい生命のための「唯一のパン」なのです。

そして主イエス・キリストは、パンである「御自身のからだ」によって数知れない多くの人々を養われるのであり、この「偉大なパン」を、何よりも大切なものとしなければならないのです。

「たったひとつの生命のパン」、それこそ、主イエス・キリストと私たちを結ぶ信仰の絆なのです。その力を持つものこそが、「天からのしるしとしてのパン」なのです。

あの時、舟の中で弟子たちは、「パンがひとつしかない」と言って心配しました。しかし私たちは、「ここにひとつのパンがある!」ということを喜ぶべきなのです。

ガリラヤ湖に浮かぶ小さな舟。主イエス・キリストを中心とする舟の中の人々。それこそ、教会の姿を示しています。自己中心的、人間主義的な考えから自由になれないファリサイ派の人々やヘロデ派の人々から、主イエス・キリスト御自身が引き離して「湖の上に分け隔てられた群れ」こそ、教会の姿に他なりません。しかし、その教会の中にあっても、私たちは自分自身の力によって、自らの歩みを確かなものにしようとします。主イエス・キリストの十字架による罪の赦しを自分のものと悟ることが出来ず、聖書は赦しを語っているのに、自分で自分を裁いたり、隣人の過ちを裁いてしまうこともあります。

信仰の恵みを理解出来ず、目があっても見ない、耳があっても聞かない者のためにこそ、主イエス・キリストが十字架上で苦しまれているのです。私たちは、その主イエス・キリストの十字架の御苦しみが私たちのためであると理解できたとき、その一つのパンによって赦され、救われた者として歩むようになれるのです。

主イエス・キリストが十字架で苦しまれつつ自らの御体を裂かれたことを思い、その恵みが自分たち教会のためであり、共に信仰に生きる主イエス・キリストの家族のためだったと感謝できる時、救われてその恵みに生かされる者となっていくのです。

お祈りを致しましょう。

神のわざの素晴しさ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌166番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 35章5-6節 (旧約聖書1,116ページ)

35:5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。
35:6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。

新約聖書:マルコによる福音書 7章31-37節 (新約聖書75ページ)

7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
7:37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

《説教》『神のわざの素晴しさ』

先々週ご一緒に読んだ「シリア・フェニキアの女」の話と、本日の「デカポリスの耳が聞こえず舌の回らない男の物語」は、それぞれが全く異なって独立している様に見えますが、よく読んでみると、その二つの物語を結合している信仰的な背景があることが見えて来ると言えましょう。

31節に、「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」とあります。

これは驚くべき距離です。また、その経路は異常なものとしか言い様がありません。時間の関係から今日はご一緒にこの経路を辿ることはしませんが、地図を見ながらこの聖書箇所を読まれた方は、予想外の方向へ向かって歩まれるイエスのお姿を見出すでしょう。例えば、熱海へ行くのに日光街道を辿るようなものです。そこである人は、「マルコが地理を間違えた」と言い、またある人は「現在伝わっている聖書の文章が間違っているのではないのか」と考えてみたりします。そうでもしなければ説明し難い真に不思議な旅だということです。

この旅が、目的を持った旅ではなく、7章の初めから語られて来ましたように、主イエスがユダヤ人の憎しみに追われ、更にまた追われて行った先々で隠れることも出来ず、次々と留まるところを移して行かざるを得なかった結果であると考えられるのです。それ故に、この旅の道順は不自然で、常識では考えられないコースを辿っているのですが、大切なことは、この異常さを「地理の問題に終わらせてはならない」ということです。

何故なら、ここに明らかにされた「本当に異常なこと」とは、この旅の経路ではなく、神の御子をこのように追い回した「人間の罪・そのもの」に見るべきだからです。この世に来られた神の独り子を、居所を定められぬ程に追い詰める憎しみこそ、神の秩序を乱した人間の罪の姿に他ならないからです。

この旅の経路が常識では有り得ないものであると言う前に、神の御子を十字架へまで追いやった人間の罪を、「まともには考えられない程に神の秩序を逸脱したもの」と認めなければならないのです。

31節に、「ガリラヤ湖へやって来られた」とあるのは、「ガリラヤ地方」ではなく「ガリラヤ湖畔」と思われます。また、8章10節では「舟に乗っている」ので、湖の東岸と考えるのが妥当でしょう。いずれにしても、この長い旅からガリラヤへ戻るのは次の8章に入ってからですので、この物語の場所は未だ異邦人の地域と思われます。ユダヤ人たちから異邦人として差別されていた人々は、皮肉なことに、神に愛されている筈のユダヤ人自身の罪により、「思いもかけず、神の御子に巡りあった」ということなのです。

そこで人々は「耳が聞こえず、舌の回らない人を」イエスの御前に連れて来て「手を置いてくださるように」と願いました。「手を置く」とは、明らかに癒しの奇跡を求めていることを表しています。この男の苦しみの解決は「耳が聞こえるようになること」でした。言葉の不自由さは耳が聞こえないことから生じているからです。そして人々は、有名なナザレのイエスなら「耳を治すことが出来るであろう」と考えたのでした。

「そこでイエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。」と、ここに書かれています。

実に不思議なことをなさっているのですが、当時の人は「唾」に「病気を癒す力があると信じていた」のです。イエス・キリストは、常にその時代の人々の考え方の中に身をおいて行動なさる方なのです。

従って、ここで大切なことは、「唾をつける」ということではありません。それはただ、不幸な人自身が「今、自分が癒されている」ということを実感として味わうことが出来るための、「キリストによる特別な配慮」と言えましょう。

さらに注目すべきは、この時、イエスがこの男を「群衆の中から連れ出した」ということであり、文字通りには、「彼一人を引き離した」ということでした。

二千年前のこの時代、魔術師と呼ばれた者達が不思議な業を行い、人々を驚かせていました。例えば新約聖書228ページ、使徒言行録 8章9節~10節には「この町には以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さい者から大きな者に至るまで皆、『この人こそ偉大なものといわれる神の力だ』と言って注目していた。」とあります。

また、同じ使徒言行録には、キプロスでパウロが魔術師を追放したということが記されており、エフェソでも各地を巡り歩く祈祷師たちがいたことも記されています。彼らは、自分たちの力を誇示するために何時も大勢の人々を集め、その人々を観客として不思議な業を行っていたのです。

それに反し、イエス・キリストは、御自分の力をことさら人々に示すことをなさらず、不幸な障害を持つ彼一人を御業の対象とされたのでした。

主イエスは魔術師でもなければ祈祷師でもありません。主イエスは大勢の人々の喝采を得ようとして御業を行われたのではありません。ですから単なる見物人は無意味でありました。主イエスは神を見失って生きる人間を苦しみや悲しみから救うためにやって来られた独り子なる神です。

ですから、主イエス・キリストと救われる者との関係は常に一対一なのです。主に苦しみを訴え、主が招いて下さる者だけが顧みを受け、神の恵みの下に立つのです。「キリストが私を呼んでおられる」ということに気付いた者だけがキリストとの交わりに入るのであり、その声を「私への呼びかけ」として聴かない者は、その関係が結ばれないのです。

私たちは、いったいどちらでしょうか。この男の友人たちは確かに彼をイエスの下に連れて来ました。「この不幸な男にはナザレのイエスが必要だ」と考えたのでしょう。しかし、そのイエスが「自分たちにも必要である」と考えていたでしょうか。

さらに、主イエスは御自分を必要とする人間をどう御覧になるでしょうか。34節には「天を仰いだ」と記されています。主イエスは先ず「天を仰いだ」のです。「天」に御顔を向けられたのです。「天」とは言うまでもなく「父なる神」のことです。「上を向いた」のではなく、「父なる神を仰いだ」のであり、「救いは神より来る」ということをハッキリと示されたのです。

旧約聖書968ページ、詩編121編1節と2節にこのように記されています。

121:1 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
121:2 わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。

主イエス・キリストは、救いを求める全ての者に「救いの根拠」を示されたのです。「救いは天地を造られた主のもとから来る」のです。

続いて、主イエスは「深く息をついた」と聖書は記しています。深呼吸されたのではありません。「深く息をつく」と訳されている言葉は、「苦痛や嘆きの感情が言葉にならず、聞き取れぬ程の音声となって出ること」と辞書にありますので、「深い息」と言うより「うめき」と訳し、理解すべきでしよう。

主イエスは、全てを顧みられる父なる神の御心を「うめき」によって示されたのです。「うめき」は、この不幸な男に対する愛の豊かさと言えましょう。一人の苦しむ人間に対する激しいまでの慈しみです。そしてこれこそが、主イエス・キリストが私たちに接して下さるお姿なのです。

主イエスは、私たちをこれ程までに大切に扱って下さるのです。一人の人間の苦しみに対し、この世の片隅で誰にも相手にされずに生きて来た一人の人間の苦しむ姿に対して、神の御子は、心からの慈しみをもって接して下さり、そして「エッファタ」と言われたのです。

主イエスが「うめき」と共に叫ばれた「エッファタ」という御言葉は、決して不思議な力を持つ呪文ではなく、「開け」という意味です。そしてこの短い言葉の中に、マルコは全ての人間を救われるキリストの決断を見たのではないでしょうか。それがこの御言葉を敢えてギリシア語に翻訳せず、イエスが語られたままのアラム語で書きとめた理由でした。「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになった」とあります。

この男の耳は聞こえるようになり、話をすることが出来るようになりました。そしてこの奇跡は、私たちにおいても、現実のものとなっているのです。

私たちの罪とは何処にあるのでしょうか。それは、私たちの心の耳が御言葉に対して閉じられている処にあるのです。罪が心の耳を塞ぎ、御言葉を聞くことが出来ないようにしているのです。そしてサタンが、さらに数々の誘惑の言葉を耳元でささやき続けるために、いっそう御言葉から遠ざけられるのです。

肉体の耳の不自由な人が言葉を正しく語れないように、神の御言葉に対して心の耳を閉じている者に、「まともな言葉」が語れる筈はありません。それ故に、この世界は「まともではない言葉」ばかりが満ち満ちているのです。そしてその「まともではない言葉」が人間の心を傷つけて行くのです。

教会の中でさえ、呼びかけられる神の御声に対して心の耳を塞ぐならば、その人の語る言葉は単なる自己主張であり、人間のわがままであり、神の栄光を表す「まともな言葉」ではなくなってしまうでしょう。

神の国に生きる者の原則は、「私は何をしたいのか」「私に何が出来るのか」を考えることではなく、「キリストが、教会を通して、私に何を言われようとしておられるのか」を考えることでなければなりません。

この世界の歩みを正すものは何でしょうか。それはここに記されたキリストの御言葉のみです。「エッファタ」という御言葉によって私たちの耳が開かれ、御言葉を正しく聞くことが出来るようになったことこそが、「神様に造られた本来の人間」に立ち戻る第一歩なのです。

最後の36節から37節に、「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。『この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。』」とあります。「この方のなさったことはすべて、すばらしい」。この群衆の驚きは何であったのでしょうか。奇跡に対する驚きでしょうか。ここの「すっかり驚いた」とは変な日本語ですが、この言葉は、「雷にでも打たれたように、びっくり仰天して肝をつぶす」という意味であると辞書にあります。

マルコ福音書は、ここで何を語りたいのでしょうか。それほど人々が驚いたということを報告したいのでしょうか。しかし、先ほども触れましたように、この癒しの御業は人の眼を避けて行われた「隠された御業」であり、群衆の驚きを招くことに御心があったのではなかった筈です。マルコ福音書が語ることは、今、この出来事を「福音として聴く私たち」に、「驚け」と言っているのです。御子の御業の中に示された「神の御心に驚け」ということです。

旧約聖書2ページ、創世記1章31節は、天地創造の完成について、こう記しています。「神は御造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」

この「極めて良かった」。これが私たちの世界の本来の姿でした。

旧約聖書との関係を考えるならば、マルコによる福音書は、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という言葉を、単なる「人々の驚き」という側面から見るのではなく、かつて損なわれた神の創造の秩序が「ここに回復された」ということを告げているのです。神の創造の秩序「すべてを良しとされた」あの世界が、今、主イエス・キリストの愛によって、ここに回復されたということなのです。

ナザレのイエスこそメシア・キリストであり、罪の中で苦しむ者に「かつての幸福を取り戻して下さる方である」とマルコ福音書は語っています。

主イエス・キリストは、「失われた楽園の生活、神と共に生きる平和が回復された」という宣言を、罪の深みに沈む人間の心の耳を開いて「聴くことが出来るように」してくださったのです。

今、私たちの耳は、あの「エッファタ」という御言葉によって既に開かれ、御言葉を正しく聴き、御言葉をもとに語ることの出来る人間に造りかえられていくのです。

福音から遠く離れた異邦人さえも天の御国の交わりへ導くこと、それが御心であり、私たちはその中に生かされているのです。

お祈りを致します。