呪いを祝福に

聖書:イザヤ書53章1-5節, ローマの信徒への手紙6章4-11節

 昨日は成宗教会の兄弟の結婚式が、恵比寿にある教会で行われました。それは中国語を中心に礼拝が行われている大きな教会で、集まっている人々は働き盛りの若い世代。昔の日本の高度成長期の教会はそうだったと懐かしく思いました。それに比べると、わたしたちの教会をはじめ、日本の多くの教会は人々が高齢化し、いかにも弱っているように感じるかもしれません。しかし、本当にそうなのでしょうか。人は必ず高齢化するのです。社会もそうでしょう。山だって火山活動が盛んな時代が過ぎると、だんだんとおとなしく丸くなる時代が来ると学校で習いました。

すると私たちは進んでいるのかもしれません。血気盛んな人々が集まっている国があり、教会がある。しかし、若者は決して若者のままではいない。だれもがだんだん高齢になって行く。もし教会に、全く同じ世代の人以外、一人もいないならば、その教会はいずれ立ち行かなくなるでしょう。しかし、神様が教会を建てるとお決めになったのであれば、決して人の予想通りにはなりません。私がこの教会に呼ばれたときも、役員会の記録には、高齢化のため、礼拝出席が減少した、と書かれていました。その時も教会員は自分より、年取った方々がほとんどであったのです。

けれども自分より先輩がいること。何十年年上の大先輩が自分の傍にいるということは実は思いがけない恵みです。人は多くの場合、同じ年代の人々といることを好むので、自分と同じ年頃の人々を仲間と感じるようです。しかし、人生の先輩、信仰の大先輩がここにいる恵みは大きい。実際、私も成宗教会の大先輩の方々から多くの恵みをいただきました。遠い星を見て、宇宙を学ぶように、高齢の教会員が共に生きているならば、その人を通して神様が学ばせてくださる恵みは計りしれません。

私は大学生の時、教会に通う者となりました。その頃の礼拝の様子は、今はほとんど記憶のかなたに行ってしまっています。しかし、思い出すのは、礼拝堂の片隅に座って肩を震わせて泣いていらした老婦人の後ろ姿です。なぜ泣いていたのでしょうか。それは1960年代後半。まだ多くの高齢者が戦争の悲しみ、悼みの中にあったことを、今更ながら思います。高齢者は悲惨な時代、悲惨な社会を記憶しているからこそ、礼拝説教に涙をもって自分たちの罪を社会の罪を証ししていたのでしょう。罪によって呪われたのだと。

ですが、それから数十年の内にわたしたちはすっかり変わってしまったことに気がつきませんでした。呪いなんて、何のことだろうか。漢字も忘れてしまっています。わたしたちの理想は衣食住に困らないこと。みんなと仲良く楽しく暮らすこと。いつまでも長生きすること。それだけでいい。その理想さえ実現すれば、神様のことは忘れてもいいではないか。実際、高度経済成長期にだれもが豊かになったと感じていた頃、教会の礼拝で泣く人はいなくなったと思います。そして礼拝で居眠りする人が増えました。皆、神の愛の話を聞きたいと思います。神の祝福を受けたいと思います。しかし、それではなぜ、キリストは十字架にお掛かりにならなければならなかったのでしょうか。そのことを知らせることは、教会にとって非常に困難な時代が来たのでした。

私は居眠りしている信者の一人ではありましたけれども、教会の人々が弱り果てていることを感じておりました。そして神さまは、私がどうしても伝道者として立たなければならないというところまで追い詰められました。しかし、伝道者として、教会の皆さんに神様の言葉を説き明かすことになった時、何と言っても一番困難であったのは、人間の罪について語ることでありました。ローマの信徒への手紙3章23-24節にある言葉です。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みに寄り無償で義とされるのです。」

このわずか3行ばかりの言葉です。読み上げるのは簡単ですが、一体だれが、自分のこととして納得するのでしょうか。説教者は、会衆の一人一人に「あなたは罪ある者です」と言わなければならない。これが大変困難だったのです。私は自分は足りない人間だという自覚があり、一方で教会の人々がたいそう立派に見えました。元々、学校の教師として上から目線で生徒を見ることの無い者でした。また生徒の方も大変おおらかに言いたい放題のことを私に言って来る、そういう教師でした。私には生徒も教師も神の御前に等しい者同士だったのです。

ところが教会の説教者は、自分の落ち度を差し置いて、人間が等しく神の御前に罪人であることを語らなければなりません。そして「あんたなんかにそんなことを言われたくない」と言われることも覚悟しなければなりません。教区総会の時期になると思い出すのですが、教会記録審査という仕事があり、私もそれを担当しました。ルールに従って審査をし、問題を指摘したときのことです。ある教会の会計役員が私を指さし、その指を振りながら、声を震わして言ったのです。「お前なんかに、お前なんかに、私の報告を直されて・・・。」それは高齢の男性でしたが、私が教会の教師であることを知った上でも、自分の書類が直された怒りが治まらないようでした。私の17年の教会の務めは、人間の罪とは何か、について学ばされる年月でありました。そして、そのことを、人々に向かって恐れず大胆に語れるようになることは非常に困難で、多くの時間を要したわけです。

今日読んでいただいたイザヤ書53章1節。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」こう言っている「わたしたち」とはだれでしょうか。それは諸国の王たちであります。人々の上に立って統治している王たちが、「実に驚きに堪えない」と言っているのです。わたしたちの聞いたことを、だれも信じられなかったし、これまでにだれもその意味が分からなかったというのであります。

それほどに、この福音を信じる者はいないというのです。だからイザヤ書はその不信仰を、悲しみ嘆かないではいられないのです。そう嘆いてから、彼らは苦難を受けた一人の方について語りはじめます。

「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」輝かしい風格、好ましい姿は美しさを表します。美しさは神の祝福のしるしです。ところがこの方は美しくなかった。だから、だれも彼を見たいと思わなかったのです。わたしたちはキリストの栄光を人間の見方によって判断してはならず、ただ聖霊の神がキリストについて教えてくださることを信仰によって理解しなければなりません。3節。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」ここでは、主の僕であるこの方のさらに詳しい状況が語られています。つまり、彼は社会から追放された者であり、侮られ、友もない。彼は悲しみと悲哀の人でありました。またこの方は、見るに堪えられないほど魅力のない、病の人であったのです。人は万事が好都合に行っていて、更に健康である時には、不健康で醜い病んでいる者をさげすみ、侮りやすいものです。だからこそわたしたちは自分のこうした傾向と戦わなければならないのです。

わたしたちは楽をして得して、その上で救われたいと考えたいのではないでしょうか。だから、キリストについて理解することができず、キリストを受け入れることができないのです。しかし、イースターの喜びについて語る前には、まず必ず、キリストの苦難と死について思わなければなりません。もし、キリストの苦難を思わず、復活から宣べ伝え始めるならば、それは弱い福音になるでしょう。預言者はキリストの悲しみ、病弱、見捨てられ、侮られ、死に至ったことから宣べ伝え始めたのです。

ところが、多くの人々が彼の死に躓くのです。それはまるで彼が死によって打ち負かされ、死によって圧倒させられたかのように感じられるからです。しかしわたしたちは、死の力と支配を主が打ち破って復活してくださったことを告げるべきなのであります。主の強さとその力は、死を打ち破ることによってこそ、その本質が理解されるからです。

主の強さと力は、死と関係なくあるのではないのです。それは死の支配を打ち破った所に示されました。さて、諸国の王たちは、キリストが負われた苦難の本当の意味を悟らされて、次のように告白したのであります。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

これまでは彼らはこの方が単純に打たれ、苦しめられ、何かの理由で神に叩かれているのだ、と考えていたのでしたが、この時初めて理解しました。実はこの方は自分たちの悩みと、自分たちの悲しみを担っていることを。キリストは地上にいらして、その御言葉によって悪霊を追い出し、多くの病人を癒されましたが、その奇跡物語は、わたしたちの魂にもたらす救いを証しするものであったのです。キリストの地上の働きは、わたしたちの体を癒すためではなく、むしろ魂を癒すことにあるのではないでしょうか。

だからこそ、その癒しは体に対する癒しよりもはるかな大きな広がりを持っていたのです。主はわたしたちの魂の医者に任命された方でありますから。「わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と」いう告白は、人間がどんなに感謝がなく邪悪であるかを、預言者が示そうとしているのに違いありません。彼らはキリストがなぜそんなに激しく苦しんでいるのかを知らず、「ただ彼自身の罪のせいで、神が彼を打ち叩いたのだ」と勝手に解釈していたのです。

わたしたちも全く変わりないと思います。自分の身に何も苦労がない間は、苦労している人の気持ちがなかなか分からない。辛い戦争の体験が共通の苦しみだった時代を記憶している間は、キリストの苦難に救いを見い出す人々が教会に集まったのです。しかし、わたしたちも何とか福音を宣べ伝えようと思うならば、ご自分のためではなく、ただただ罪人を憐れまれたために苦難を負ってくださった方の労苦を僅かでも味わうことができるのではないでしょうか。そして神の御心を知ろうとしない人間の罪、自分の痛みには火がつくほど敏感なのに、人の苦しみには全く鈍感な人間の罪が思われるのです。罪を罪とも思わない生き方そのものが呪われているのです。しかし、それにもかかわらずキリストは、この罪の浅ましさにまみれた人間をなお憐れんで、呪いを祝福に変えてくださいました。キリストの苦難と死は、わたしたちの苦難を苦しみ、死を御自分のものとしてくださったのです。ローマ6章4節。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に与るものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」今日は、使徒信条の中で主は「十字架につけられた」ことがどのような意味を持つのかについてみ言葉に聞きました。「木に掛けられる者は呪われる」と聖書に書いてあります。イエス・キリストの十字架の意味は、わたしたちが神様に赦され、永遠に祝福されるために、キリストが神様に呪われたということです。最後にローマ6章7-8節を呼んで、祈ります。

「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架に付けられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」

 

父・御子・聖霊の三位一体の神様

尊き御名をほめたたえます。ペンテコステに聖霊を注いで下さり、教会の歩みが始まって以来、全世界の教会を励まして、主の体に結ばれるものとしてくださいました。わたしたちの教会もただあなたの恵みによって今日まで導かれたことを感謝します。

本日は使徒信条について、わたしたちの主が十字架にお掛かりになったことを告白して来た意義を学びました。わたしたちもあなたに立ち帰って生きるために、キリストの十字架の死に結ばれ、罪の贖いを受けました。このことを繰り返し思い起こし、新たに感謝を込めて、主の命と共に生きる者とならせてください。

教会の行事が守られ、東日本連合長老会の教会会議も恵みのうちに導かれたことを感謝します。本日は、西東京教区の総会が行われます。あなたの福音がこの小さな教会でも宣べ伝えられると同時に、全国、全世界の教会が手を携えて、福音を宣べ伝え、一つのキリストの体に結ばれるために、教区総会を清めてお用いください。そこで行われる選挙によって秋に行われる教団総会の議員が選ばれます。どうかこの選挙の上に御心が行われますように。

礼拝に来ることが困難になっている兄弟姉妹のために祈ります。多くの方々が主の日の礼拝を覚え、心を込めて祈っておられます。どうかその祈りが聴かれ、わたしたちの祈りと共に、あなたの喜びとされ、この教会が守られますように。主に連なる一人一人が共に主の恵みを受けますように。主はわたしたちをその死に結ばれ、わたしたちの呪いを御自身に受けてくださいました。その代わりにて御自分にある天の祝福に、わたしたちを結んでくださいました。わたしたちの多くが高齢となっておりますが、あなたがわたしたちに注いでくださった恵みを、年を重ねる毎にますます豊かに証しする者となりますように。

この感謝と願いとを、我らの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

我らを兄弟と呼ぶために

イザヤ7章10-14節, ヘブライ人への手紙2章10-18節

昨日は子供の日でしたので、ある俳優の方が、子どもたちを祝福するメッセージをラジオで語っていました。子どもたちよ、失敗を恐れず、勇敢に生きなさいと。そして私も85歳だが、もう少し頑張って楽しく仕事に打ち込み、それからあの世とやらに行くつもりだと。この方は一人の人間として、高齢者として、誠実に精いっぱい愛情を込めて語っていることだと感じました。しかし人が人に語ることとしては、これ以上のことは言えないと思います。

わたしたちは2018年度の教会標語を掲げました。それは週報の表紙に書かれています。(エフェソの信徒への手紙第3章18-19節)「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」

キリストの愛とは、キリストの内に表された神の愛を指しています。それはわたしたちの生きる土台となるものです。私たちの信仰の学びは「神とはどなたであるか?」を知ることから始まりました。この学びを続けることは、人の言葉ではなく、神の言葉を求めることです。人の励ましではなく、神の励ましを受けることによって、わたしたちは、これからあの世とやらに至る道ではなく、救いに至る道をしっかりと歩むことができるのです。

そこで、本日の使徒信条の学びは、使徒信条に「主は聖霊によって宿り、おとめマリヤから生まれ」と告白されていることについてです。これはどういうことでしょうか。答は、結論から言えば、イエスさまが、罪を別にすればわたしたちと同じ人間になってくださったということです。ここにこそ、神の愛が真っ先に人間に向けられていることが表されているのです。神は御自分に似せて人間を創造されました。ところが人は罪の支配を受けて以来、死を恐れるようになりました。アダムとエヴァは神との約束を破って、食べてはならないと言われた木の実を食べました。するとその直後、二人が取った行動は神の前にありのままの自分の姿を見せることではなく、神から自分の身を隠すことだったのです。

こうして人間は、光の源である神から身を隠すようになって以来、闇に支配されることになりました。闇を恐れ、死を恐れながら、しかし神に立ち帰ることができないのです。では、これに対して、神はどうされたでしょうか。神は人間の創造者であります。人間を造り人間に目標を与えられました。その目標とは、神の交わりに生きることです。神は、罪のためにその目標を失っている人間を御覧になりました。そこで悲惨な人間のために行動し給うたのです。それはまさに神にふさわしいことでありました。

今日のヘブライ人への手紙2章10節。「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。」ここで、「彼らの救いの創始者」と言われるのは、イエス・キリストその方です。創始者というより、救いに導く方という方がふさわしいと思います。わたしたち人間を神の子とするために、神の独り子をお遣わしになるほど、神は世を愛されたことを、わたしたちは繰り返し思うのです。神の御子である救い主も(11節には人を聖なる者とする方)、また私たち救われる者(聖なる者とされる人たちと言われています)も、その源は一つ、キリストは神から出た方であり、私たちは神に造られたものだからです。

神は人間を(しかも罪のために悲惨な状態に陥っている人間を)どんなに愛しておられることでしょうか。それで、御子であるイエスさまは、わたしたちを兄弟と呼ぶことを恥ずかしいと思われないのです。よく子供たちがいたずらをしたり、悪いことをすると、親は叱って、「こんな子はうちの子じゃない!」と言います。そりゃ、親にして見たら恥ずかしいと思うことがあるのです。しかし、神様はどうでしょう。恥ずかしいようなことをしでかす人間を、何とか救おうとなさるのであります。

それでイエスさまも、恥さらしのとんでもない人間を兄弟姉妹と呼ぶことを厭わないで、12節。「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と言い、また、「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。12節の引用は詩編22篇23節です。この詩人は、人から虫けらのように言われ、人間の屑と蔑まれるわたしを、主は救ってくださったと証ししています。だから私はこのことを兄弟たちに証ししたい。それはそれを知って、多くの人々が救われるようにと願うからです。

また13節後半には、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」が引用されています。ヘブライ人への手紙の著者は、これをキリストの言葉として私たちに聞かせているのです。ヨハネ福音書10章11節(186頁)に、主イエスは言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われた主の御言葉を思い出します。

そこで主イエスは、私たちを救いに招き、兄弟姉妹と呼ぶために、何をしてくださったでしょうか。私たちに目に見える姿で現れ、私たちの耳が聞くことのできる言葉を語るために、主はどうなさったでしょうか。主は謙って、私たちの世界に現れてくださいました。すなわち、主は血と肉を備えられたのです。血と肉とは地上の命のことです。血と肉とは、やがては死すべき人間を表します。私たちは皆、地上に血と肉をもって生きているので、私たちを救おうとなさるお方もまた、御自身に血と肉を備えられました。

今日の旧約聖書イザヤ7章11節「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」インマヌエル、すなわち、「神、我らと共にいまし給う」です。イザヤ書に登場するユダ王国の王アハズとその国民はイスラエル王国の滅亡の危機、大国アッシリアの攻撃の脅威にさらされ、風に震える木の葉のように動揺していたと言われます。その時、預言者イザヤは「主の救いを信じなさい」とアハズ王を励ましたのです。

ここに鋭く問われているのは、王と民の信仰であり、またわたしたち教会の民の信仰なのです。神に対して自己を完全に委ねること。そうすれば、どんな危機に直面したとしても、わたしたちは神の真実に堅く信頼して立つことができるのです。しかし、もし王にこのように委ね切ることがなく、かえって神が在さないかのように恐れおののくなら、王も民もその安全は確かに脅かされるだろうとイザヤは警告します。イスラエルの民は信仰においてのみ成り立っているからです。なぜなら、イスラエルは神の選びによって生まれたのでありますから、神に全面的に信頼している限りにおいてのみ、存続するのです。だから、もし信じることができなければ、イスラエルの王も貴族も神の民も消滅するでしょう。

イスラエルの不信仰。すなわち神に招かれ、その民とされながら、神に信頼し委ね切ることができない。そのイスラエルのために、イザヤは預言しました「主御自ら、あなたたちにしるしを与えられる」と。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と。こうして、神の御子、すべてを超越した存在であるイエスさまが、地上に生まれられました。このことによって、主はすべての人間と共通する存在であることを、御自分に受け入れたのであります。14節~15節を読みます。

「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらの者を備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」イエス・キリストは肉を裂き、血を流して我らの贖いとなってくださったことを思います。すなわち、わたしたちを死から解放するためにご自分を犠牲として捧げ、罪を断罪してくださいました。この目的のためにも、主は肉体を取ってくださったのです。

そして、わたしたちに、信じたくても信じることができず、信じ続けることがなお難しい人間のために、目に見える存在として、耳で聞くことのできる存在として、また不信仰なトマスと同じく、触ってみなければ信じない人間のためにも、地上にただ一度いらしてくださって、神の愛がどのようなものであるかを明らかにしてくださいました。この目的のためにも、救い主は限りある血と肉とを人間となってくださいました。

人々は神を知ることを真剣に求めない人でも、天使や悪魔に興味のある人は多いと思います。姿形まで想像して絵や彫像を造ったりします。彼らが霊的存在であることも興味が惹かれる理由の一つであると思います。お化け、幽霊とか、ハリーポッターなどの世界に登場する霊が好まれるところを見ると、どうも変幻自在であるとか、神出鬼没という存在が人間の憧れなのかもしれません。しかし、神の愛は人間に注がれている、ということを、最もユニークに表現しているのは、ヘブライ人への手紙ではないかと私は思います。16節に「確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫たちを助けられるのです。」とあるからです。

神は、限りある肉体をもって、地上に限定されて生きている人間を愛しておられます。ちょうど、植物が雨が降っても雨宿りもできず、日照りの時も川に移動することもできずに、一つところに根を下ろしたら、その場でいつの日にも一生懸命生きていくより他はないように、神は、私たちが日々の困難に耐えて精一杯生きてこそ、美しいと見給うのではないでしょうか。その所で、その時において、造り主を見上げ、その愛が造られた者に注がれていることを信じ、この神を私たちに教えてくださった救い主をほめたたえる命を今日も生きたいと願います。

植物の例えを出しましたが、私たちは空の鳥、野の花より価値あるものであると教えてくださったのも、また救い主イエス・キリストであります。私たちは神の形に造られた者。空の鳥、野の花を手本に生きるのではありません。それを造られ、守られる恵み深い神に立ち帰り、神をほめたたえるために、私たちは罪の赦しに結ばれなければならないのです。自然にそれができたのでは決してない。神を離れ、さ迷い出て苦しむ私たちのために、私たちと神との間に立ってくださり、壊れた関係を回復してくださるために、神の御前において憐れみ深い大祭司となってくださいました。憐れみ深い神の御心を表してくださいました。同時に忠実な大祭司となってくださいました。それは、神に対して忠実な人間の本当の姿を表してくださったということなのです。

御自身は神に忠実であり、神に全く背いておられないのに、試練を受けて苦しまれたのは、神に背いて試練を受けていた人たちを助けるためでした。これほどの愛をいただいているのは、天使ではないのです。限りある私たちなのです。この喜ばしい言葉を、神の恵みの言葉として聞きましょう。目に見える私たちは小さな群れ、しかし、主はこの群れを愛して、その証しを沢山残してくださいました。見ようと願うなら見ることができます。聞こうと願うなら聞くことができます。礼拝の民として、とどまることを願うなら、あなたがた自身、主の愛が注がれた者としての生涯を証しすることになるでしょう。

主がそのことを喜び助けられるからです。祈ります。

 

御在天の父なる神様

尊き救いの御名をほめたたえます。あなたは罪ある者の罪を憎み、それを決して見逃されない方です。しかしあなたは罪ある者を憐れみ、イエス・キリストにおいて、その愛の広さ、高さ、長さ、深さを表してくださいました。どうか、私たち地上の生涯の間に、その愛を少しでも多く知ることができ、知って喜び、感謝し、讃美礼拝の中に、あなたの御許に召される日まで、歩ませてください。

あなたの御心はまた、御子によって示された計り知れない愛を、地上に在って、主の兄弟姉妹とされた教会の方々と、共に分かち合うことにあると知りました。どうか、あなたの御心を全く知らずに、または信じられず、主にゆだねることができずに、不安の日々を生きている多くの人々に、主と共に生きる幸いを知らせてください。主が聖霊を送って共におらせてくださることを切に願います。20日にはペンテコステ礼拝を守ります。どうか私たちを清めて、聖霊の住み給うにふさわしいものとしてください。

多くの方々が高齢になっております。それぞれのご家庭をあなたの恵みの御支配のある所としてください。平安と必要な助けが日々与えられますように。また同様に、独り暮らしの方、ご病気の方、どうぞあなたのお守りと顧みが豊かにございますように。来週は墓前礼拝を予定しております。どうか、このために出かける旅路をあなたの恵みのうちにお守りください。感謝の礼拝を捧げることができますように。

本日は、長老会議が開かれます。どうぞ、来年度の主任担任教師の交代に向けて長老会を導いてください。すべての教会員が心を一つにして備えることができますように。また、教師ばかりでなく、長老、信徒についても新しい奉仕者が与えられますように切に祈ります。また、東日本連合長老会の交わり、その働きがあなたの御心にかなったものとなり、共に主の体の教会を建てて行くために、諸教会と心を合わせて進むことができますように、助け導いてください。善き働きのために奉仕する諸教会の教師、長老、信徒の皆様のご健康が祝されますように祈ります。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ

聖書:イザヤ53章6-12節, エフェソ3章14-19節

 本日は、成宗教会の教会総会が開かれます。そこに上程します議案については、日本基督教団の教会規則によって、既に公告がされております。私は2017年1月の長老会議に退任の希望を提出し、同年3月に長老会として承認されました。私は退任の期日を、2018年3月末と希望しましたので、今年度の教会総会に議案として上程されることになったわけです。教会総会の議員資格を持っておられる方々には、是非とも総会にご出席いただきたいのですが、皆様の中には健康上の理由から、礼拝後の会に継続して参加できない方々もおられます。そこで、礼拝のメッセージを通して主の御心が成宗教会に伝えられることを私は心から願い祈ります。

私が辞任することは、この教会の歴史の一ページが閉じられ、また新しいページが開かれることです。一人の教師、この教会の牧師であった者が辞任をします。しかし、牧師が辞任することは、教会にとって決して大きなことではありません。なぜなら牧師が辞任しても、しなくても変らないことがあるからです。それは変らない一つの願いです。わたしたちに一つの共通の願いがあります。それは何でしょうか。イエス・キリストが集めてくださった群れを守り、キリストの一つの体とすることです。

このただ一つの願いのために、私もここに務めさせていただきました。この一つの願いのことをわたしたちは最初から知っていたでしょうか。理解していたでしょうか。私自身については最初から十分知っていたとは言えません。ただ、献身の決意を与えた御言葉は次のものでした。マタイ9章36-38節。(17ページ)「イエスは(中略)また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」

私は教会が「ただ飼う者のない羊のように弱り果てている」ことを知っていました。それは何もこの教会がそうだというのではありません。私は、赴任するまで成宗教会を知らなかったし、教会の方々もわたしを知らなかったのですから。そして、この教会の方々も、自分たちは「飼う者のない羊のよう」だと思っておられたかどうかわかりません。

そもそも、私たちは皆、私たちには一つの願いあることを、共通の願いがあることを知らなかったのではないでしょうか。なぜなら、この願いは元々から私たち自身の願いではなかったからです。この願いは、私たちに与えられた願いであったのです。そして今は、私たちに与えられて、共通の一つの願いとなっていることを、私は確信しています。その願いとは元々、私たちが願ったものではなかった。では、それは誰の願いだったのでしょうか。それは主の願いだったのです。主が、父・御子・聖霊の神様が切に願っておられたので、主はその願いを私たちに与えて下さり、私たち自身の願いとしてくださるのです。

今日、読んでいただいたイザヤ書53章6節。「わたしたちは(われわれのすべてが)羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」ところが、道を誤り、散り散りになって行った私たちのすべてを、主は放置されたでしょうか。主は私たちが滅びに向かうことを望まれませんでした。だからそのままにされませんでした。主は、一人の僕を立てられました。御自分に全く忠実な僕を。そして道を誤った私たちの罪を負わせられ、苦しみと死を受けさせられました。一体それは何のためだったでしょうか。それは一重に、ただ一重に彼らを正しい道に呼び返すためではなかったでしょうか。

 イザヤ53章11節。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。」私たちは、主イエス・キリストの死によって贖われ、救われました。私たちは、正に主の苦しみの実りなのであります。ですから今、私たちは救われたものとして、主の道に立ち帰らなければならない。さまよい出た道から、主の導かれる道へと立ち帰るのです。主に立ち帰るならば、主に結ばれて、実を結ぶものとなるでしょう。主は御自分をぶどうの木に例えられました。私たちは主の体の肢。私たちの結ぶ実は何でしょうか。その実の名は「救い」です。私たちは主によって罪赦され、清められ、「永遠の救い」という実を結ぶのです。

 そのために、私たちは日々、主に立ち帰り、主に結ばれて生きるのです。この実りはまた自分自身のためになるばかりでは、決して終わりません。この実りは自分の救いを世に明らかに示し、そのことによって更に世の多くの人々を救いに招くために用いられるでしょう。世の多くの人々、その中に、私たちの隣人、身近な人々がいることを信じましょう。

私が成宗教会に遣わされて来たのは、そのためでありました。そして私が去って行くのも、またそのためであります。私ばかりでなく、信者となり、教会の肢として結ばれている私たちは皆、生きる時も死ぬときも、来る時も去る時も、働くときも休む時も、皆すべてが祝され用いられます。病気や困難、苦難でさえもこの目的のために用いられるに違いないのです。主からわたしたちに与えられた願い、父・子・聖霊の神様の一つの願いが私たちにあるならば。その願い、キリストの体である教会を建て、キリストと結ばれたい。その願いを私たちは主に捧げて祈りましょう。

今日の聖書エフェソの信徒への手紙3章14節。「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。」自分たちの働きが多いとか少ないとか、苦労が多いとか少ないとか、考えるよりも、またこれまでのことを振り返って、自分で評価したり、人を評価したりするよりも、何よりも前に、天の父の御前に恐れをもって立ち、心を低くして祈りを捧げましょう。なぜなら、私たちを実りあるものにしてくださるのは、私たち自身ではなく、主の憐れみと慈しみなのですから。

15節。「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。」神さまの御国には、すべて天にある血縁的につながる人々から、地上の血縁的につながる一群の人々がその名が記されているというのです。こう言われているのは、キリストがそうしてくださったからに他なりません。キリストがおいでになる前は、ユダヤ人は神の民と自分たちを誇り、その一方、異邦人は救いとは関係のない人々でありました。ところがキリストは地上においでになって、すべての人間のために罪の贖いを成し遂げてくださいました。そうして、キリストによって救われる人々は、一つの家族、一つの同じ親族に帰せしめられたばかりでなく、天使とさえも同じ一つの家族にされました。ですから、私たちを結んで神の家族とする絆は、イエス・キリストなのです。

パウロは祈ります。16-17節。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」

「内なる人」とは、どういうことでしょうか。それは、私たちの魂と霊的、精神的な生活に関わる全てを表します。それに対して外なる人という表現もありますが、こちらの方は、体の健康、富、名声、若さ、信用、その他これに類するものであります。人々の関心は専ら、外なる人を強めることにあり、頑張っています。それに対し、内なる人は、神の国に関わることでありますから、神の力によって強くされるのです。

パウロのこの祈りは、キリストによって神に仕える福音伝道者に共通の祈りです。それぞれの信者が賜物を与えられ、御霊の働きによって内なる人を強くしていただけるようにと祈ります。これは、だれでも御霊によって信仰が強められる希望があるからです。つまり、私たちは幼い者から年老いた者まで、だれもが成長させていただける希望が与えられているということなのです。パウロはⅡコリ4:16でも次のように教えて人々をはげましています。「たといわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日ごとに新しくされていきます。」329下。

私たちは、何かと人を評価して、あの人は立派な信仰者であると、まるで完全な人のように言うことがあるかもしれません。しかし宗教改革者は言います。「信仰者というものは、これ以上常に成長する必要はない、と言い得る位にまで進歩することは決してないのだ」と。そうだとすれば、信仰者にとって地上の生活の完全とは何でしょうか。それは信仰者として成長を愛するようになることです。少しずつ少しずつ、主に向かって成長する。「キリストに倣う」と言います。キリスト御自身も言われました。「天の父は完全な方なのだから、あなたがたも完全な者になりなさい」と。使徒パウロも、皆が自分のようになってほしいと述べています。けれども、このようなことは聖霊の働きによらなければ、だれも決してできないのであって、人間の能力ではないのです。

あらゆる良いことの初めは、神の霊のお働きによって起こったのです。そのように、私たちが、神様に向かって成長することを、心から愛し、望むならば、その望みもまた聖霊の働きであることを確信しましょう。では、内なる人の成長は何によって分かるのでしょうか。キリストは言われました。ヨハネ福音書14章23節。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(197頁)キリストが聖霊によって私たちの内に住んでくださることの結果は、愛という実となって現れます。すなわちキリストによってわたしたちに示された神の恵み、神の愛がどんなに絶大なものであるか、ということが分かるようになるのです。

神の愛が、まるで立派な基礎を持った建て物のように、あるいは深い根を降ろした植物のように、わたしたちの内に深く在って堅固で不変のものとなるのです。そして、私たち人間はだれ一人、直接神を見ることはできないのですが、キリストが私たちと共におられることによって、人間に対するキリストの愛がどれ程大きいかを理解ようになるでしょう。18-19節。

「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれ程であるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」ここに聖徒の交わり、教会の姿が示され、祈られているのではないでしょうか。「すべての聖なる者たちと共に」と祈られているからです。罪ある者でありながら、共に罪赦され、罪の奴隷から解放され、キリストによって神のもの、神の家族とされた私たちであります。このことを日々信じる。心から信じる。そして互いに愛し合い、その弱さを忍び合い、助け合うことができるようにしてくださるのは、正に神の愛が、キリストの愛が、信じる群れに注がれているからに他なりません。

主の願いはただ一つの救い、ただ一つの教会を建てることです。そしてこの願いを主は私たちにもくださいました。この願いのために私は退任しますが、この願いのために、成宗教会に教師が新たに遣わされます。そして、新しい時代にも福音が宣べ伝えられる教会とされるのです。このことを皆さんと共に確信して祈りましょう。

独り子によって

聖書:イザヤ50章4-11節, ヨハネの手紙一、4章7-16節

新年度がスタートしています。幼い子は幼稚園、保育園に入り、小学生にも中学生にも入学と進級の季節であります。それぞれが親子で新しい目標をもってスタートしていることでしょう。社会人となる若い人々にとってはどのような春が巡っているのでしょうか。厳しい競争を勝ち抜いて希望する仕事や地位を得るという目標がスタートしている人々もいるでしょう。しかし、一方、わたしたちは社会の今を支える役割を果たしている人々を見る時、非常に苦労しても報われない姿を見ることがあります。またその反対に、高い目標を掲げて刻苦勉励した結果、高い地位を得、名を揚げた結果は、目標を失い、転落の道をたどる人々もいて、そのあまりに情けない姿を見て驚くことも多いのです。

しかし、本当はわたしたちには、年齢に関わりなく、幼子から老人に至るまで目標があるのです。それは幼稚園から小学校へという目標がある子供にも、学業を終えて仕事を選ぶという目標がある青年にも、結婚や子育てという目標がある壮年にも、そして、仕事をリタイアして年金生活者となる高齢の世代にも、共通の同じ目標です。それは神を知ることであります。カテキズム、信仰問答の最初の問でありました。つまり、教会が代々にわたって信じ告白して来た神とは、どのようなお方であるかを知ることこそ、わたしたちすべての人間に共通の目的であります。目的(ギリシャ語ではテロス、英語ではエンド)という言葉そのものが、ゴール、最後を表しているのであって、わたしたちは、このゴール、すなわち最後を目指して走るのですから、今歩き始めた幼子でも、いよいよゴールが近づいている高齢者でも、わたしたちは皆、共通の終わりを目指していることには、全く変わりがないのです。

わたしたちの教会は小さな群れですが、うれしいことに、教会学校には毎週、にぎやかな生徒さんたちの声が聞こえます。そして近年は、生徒さんと一緒に親御さんも礼拝を守って、活動時間も親子一緒に参加する方々がいるようになりました。たくさんの子供がひしめいていた時代とは違って、若い世代は少数者になって来ました。このような時代に生きる若い人々に、教会は伝えたいと思います。神様はどのようなお方であるかを、しっかりと正しく伝える教会になりたいと思います。

さて、今日の聖書、ヨハネの手紙一において、神様について、次のように紹介されています。4章7節、8節。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」神とはどのようなお方でしょうか。それに対する答は、「神は愛である」というのです。だから、「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」と勧めています。

つまり、神のご性質は人間を愛することだというのです。そうであるならば、神を知れば知るほど、神の愛がわたしたちの内に神を愛する愛を生み出すことになるでしょう。反対に言えば、わたしたちの内にもし愛が見い出されないとすれば、わたしたちはまだまだ神とはどういうお方かを知らないということになります。「愛することのない者は神を知りません」と聖書ははっきりと述べているからです。すなわち、神様がわたしたちを愛してくださることは分かったけれども、わたしには神様を愛する気持ちが湧きませんということにはならない。そして、神様がわたしを愛してくださることは分かったけれども、わたしには隣人を愛する気持ちが湧きません、ということにもならないのです。

神を知る知識が増し加われば加わるほど、神を愛さずにはいられない。神を知る知識が増し加われば加わるほど、隣人を愛さずにはいられなくなるというのです。こう言われると、本当に自分を振り返って、わたしたちは本当に神が愛であることを知っているとは言えないと思わずにはいられません。少なくともわたしたちは隣人を愛することにおいて、いつも足りなかった。また、今も足りない者であることを思わずにはいられません。それどころか、わたしたちは自分自身でさえ、本当の意味で愛することができていないのではないでしょうか。隣人どころか、自分に対してさえ、最善のことをしているだろうか。自分を酷使したり、自分をいい加減に扱ったりしてはいないだろうか。自分を見捨ててしまうようなことがなかったか、と反省させられることも少なくないのではないでしょうか。

そのように、隣人を愛するどころか、自分さえも粗末に扱い、真心を尽くすことができないのは、最も深刻な問題を抱えているからではないでしょうか。それは、わたしたちは、神様が自分を愛してくださることを信じることが本当に出来ていないからです。また、ある時は信じられても、何か状況が変わって、思いがけない困難、苦難が起こるとすぐに不安になってしまう。神様はわたしをお忘れなのではないだろうか、とか、神様は本当に最良のことをしてくださるのだろうか、と疑ってしまうのではないでしょうか。

このようなグラグラした信仰者であるわたしたちに御言葉は語ります。神の愛の証しはこれである、と。9節。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」わたしたちは洗礼を受け、教会に入れられ、神の子と呼ばれます。しかし、わたしたちは生まれながらの神の子ではありません。本当に初めから神の子であられたのは、イエス・キリスト。この方お一人です。神様はわたしたちを愛しておられたので、わたしたちが生きる者となるために、御自分の独り子を世にお遣わしくださいました。愛する独り子であるイエス様を、わたしたちの救いのためにくださったのです。

それは、わたしたちが神さまを愛して従順な者だったので、「よし、それなら救ってあげよう」ということだったのではありません。ヨハネの手紙ははっきりと申します。10節。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」つまり、わたしたちは神を愛していなかった。それなのに、神はわたしたちを愛してくださったということです。愛していなかったということは、わたしたちは神に敵対する者であったということです。「神様なんか・・・と思っていた」か、あるいは神様を無視していた、ということです。そうであるのに、神はわたしたちに御子を賜ったのであります。

自然神学というものがあります。自然界を見る。するとその美しさ、その秩序によって、被造物、中でも人間がどれだけ神に愛されているかということを推察することができるというものです。しかし、神の驚くべき愛は御子において現わされました。ローマの信徒への手紙でも、次のように言われています。5章6節「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」279下。

わたしたちの目から見れば、より良い人、より正しい人がいます。また上に立つ人々に良く思われようと、お追従を言い、自分をよく見せようと鋭意奮闘する人もいます。しかし、神様はそういう人にも気を許すことも騙されることもありません。神様は人間のこうした愛情にも、あるいは偽善にも心惹かれることも動かされることもありません。ただ、御自分のご好意からその人を愛しておられるのです。それに対してわたしたちの心はしばしば神様から離れ、自分の力によっては、決してわき目も振らずに神様を愛し続けることはできないのです。

このことから教えられる重要なことは、神の愛は無償で、恵みによって注がれるということです。わたしたちは何か資格がある、値打ちがあるから、救われるのではありません。わたしたちは弱い者、神に背く罪人であって、神様に罪を赦していただかなければ、救いに入れられることはできません。本当にこのことを疎かにしては、あるいは無視したり、棚上げして考えないでままでは、わたしたちは目標、目的である終わりを迎えることはできないのではないでしょうか。子供たちが、受験の目標を達成することはできるかもしれません。あるいは若い人々が人生途上の具体的な目標を達成することはできるかもしれません。しかし、最後の目標、目的地を目指して行くことこそ、わたしたちに大切なことです。

教会は救いの目標を高く掲げて、福音を宣べ伝えます。わたしたちの生きる目的は神を知ることであると。そして神は愛であると告げ知らせます。この知識を本当に知るならば、わたしたちは、新たに造り変えられるのです。これは洗礼を受けたから一度に変えられるというのではありません。神は愛であるという知識を福音の言葉によって日々聞くことによって変えられて行くのです。どのように変えられるのかを申しましょう。それはもちろん、神に倣う者と変えられる。すなわち、神がわたしたちを愛されたのだから、わたしたちも互いに愛し合うように変えられることです。

ヨハネの手紙は更に勧めます。12節。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」わたしたちは日々の生活に大変な目標を与えられていることが分かります。これは受験勉強のような目標ではありません。世は超高齢化社会です。年を取り、今まで出来ていたことができなくなって行く。若い時なら、互いに愛し合うということは、何か奉仕活動に加わることだ、と解釈して頑張った人々もいたことでしょう。それはそれで大変幸いなことだったと思います。しかし、何もできないと感じても、まだまだ生きなければならない年月があります。否、むしろ、生きなさい、と命じられているのです。わたしたちはどうしたらよいのでしょうか。

しかし、ここにこそ、神がご自身を証しされる命があるのです。13節。「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。」わたしたちは神の愛をどこに見るでしょうか。教会は神の愛を、独り子であるキリストを世にお遣わしになったことに見るのです。この方によってわたしたちの罪が贖われ、清められ、罪赦された者として神の御前に出ることができるようにしてくださった。ここにこそ、神の愛が現れたのです。自分の罪を悔い改め、救いを求める者は、イエス・キリストによって知られるようになった神を愛し、慕い求めるでしょう。そしてその人には聖霊が来てくださり、とどまってくださるのです。

隣人を愛することが十分でないと、わたしたちはまだまだ嘆いているかもしれません。しかし神様は聖霊によって、わたしたちを造り変えて、隣人を愛するようにしてくださいます。愛こそが、聖霊の結ぶ実であります。聖霊によらなければ、わたしたちは隣人を真の純粋な愛で愛することはできません。神は聖霊によってわたしたちの内にいまし給うのですから、わたしたちは若い者も、老いた者もこの希望、互いに愛し合う者となる、という希望の道の途上に生かされているのです。

この希望は大きな、ほとんど限りない希望です。「神がわたしたちを愛されたように、わたしたちも互いに愛し合う」という目標よりも大きな目標が一体あるのでしょうか。神の偉大さ、神の輝かしさ、神の美しさは何によって明らかにされたでしょうか。空に輝く星でしょうか、オーロラでしょうか。この頃の最先端の映像。目を奪い、息をのむような美しい壮大な自然の映像でしょうか。神の偉大さは、その輝き、その美しさは、貧しく弱い罪人のために命を捨てて、罪の縄目を断ち切ってくださった神の独り子、イエス・キリストに明らかにされた。これが教会の信仰です。15節。「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」祈ります。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神様

御名をほめたたえます。春の嵐が吹き荒れる日も、わたしたちに主の日を覚えさせ、御許に

を守るために集めてくださいましたことを感謝します。

本日は独り子を世に遣わしてくださったあなたの愛について学びました。わたしたちは御子によってわたしたちの罪が皆赦され、地上の生活を恐れなく歩むことができます。あなたが必ず助けてくださると信じ、ひたすらより頼みます。また地上を去る時もあなたの恵みによって安らかに感謝して守られますように祈ります。地上にある間、地上の教会の一員として、あなたを信頼し、あなたに従って参ります。どうか、わたしたちの拙い生活の中で、目だって良い業をすることもままならない生活の中で、しかし聖霊の神様の愛に溢れるお働きによって、わたしたちを満たしてください。

わたしたち自身の健康が守られ、今日、このように礼拝を守ることができました。しかし、わたしたちの群れの中に、また東日本の諸教会の中に、ご高齢のため、ご病気のため、礼拝に来られない困難な日々を送っている多くの方々を思います。どうぞ、あなたがみ言葉に与るために道を開いてください。また、わたしたちの家族に多くの困難があります。主よ、聖霊のお働きによってわたしたちが乏しい時にも助け合って主のご栄光を表す者とならせてください。主は罪の赦しのために苦しんでくださいました。わたしたちも何より、主に倣って互いにその罪を赦し合う者となりますように。聖霊の助けを常に祈り求めます。

来週は2018年度の教会総会が行われます。主よ、どうかこの総会に多くの教会員が覚えて出席できますように。そして、御心に従ってすべてのことが行われますように。上程されている議案を顧みてください。そして長老選挙が正しく行われ、この教会の長老会が真に主の御支配の下に整えられますように。

この感謝と願いとを我らの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

死から命へ!

イースター聖餐礼拝

聖書:イザヤ42章10-16節,  マルコ16章1-8節

 主の年2018年のイースターを迎え、主はわたしたちを成宗教会に集めてくださいました。日頃、主を覚え、礼拝を思いながらも、集まることのできない多くの人々のために、主は今日、特別な時を与え、必要なものをお与えくださって、わたしたちが取るものも取りあえず、集まって主を礼拝する心を備えてくださいました。復活の主が二千年前に人々にお知らせくださったように、今は全世界でご自分の復活をお知らせくださり、その命にわたしたちをも招いておられるのです。

しかし、わたしたちは日常の生活で、主のご復活を思うよりも先に、日日の出来事に深くかかわり、時間に追われるより他ないのが実情です。あれやこれやの急な出来事があり、心配事や、周囲の人々の言動に影響され、悩まないではいられないのです。そんなわたしたちが主の御言葉を思い出すと、弟子たちがうろたえた気持ちがよく分かるのではないでしょうか。彼らは主に従って来たのですが、主の御言葉の意味が分かりませんでした。マルコ10章33-34節です。82頁。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして人の子は三日の後に復活する。」

そしてお言葉通りになりました。エルサレム入城された時、喜び出迎えた群衆は、十字架を見て、イエス様を軽蔑し、呪う群衆と変ってしまいました。そして弟子たちも、「たとえイエス様と一緒に死ななければならなくなっても、イエス様を知らないなどとは決して申しません」と誓ったペトロは、「あの人は知らない」と激しく三度も言ってしまいましたし、他の弟子たちは逃げ去ってしまいました。みんなうろたえ、変ってしまった。それも本当に主の御言葉通りになったのです。

それならば、主の最後の一言もやっぱり、お言葉通りになるはずではなかったでしょうか。主の御言葉は次の通りです。「そして人の子は三日の後に復活する。」けれども、それについて思い出し、思いめぐらす者はだれもいなかったのでした。ご復活の朝、婦人たちは、主が葬られたお墓にやって来ました。彼女たちがやって来た訳は、ご復活を信じていたからではありません。しかし、絶望の時にも、彼女たちはてきぱきと行動しました。なぜなら、その当時の社会の習慣があったからです。それは死んだ人の遺体に香料を塗ることでした。彼女たちもイエス様の十字架の死に衝撃を受け、これからどうやって生きて行くのか、と途方に暮れていたでしょう。

しかし、そんな時にも彼女たちはできる限りのことをしました。出来る限り日常の生活を続けるのです。お腹がすいた者に食卓を整え、子を産み育てる者を助け、病気の者を気遣い、そして死者を大切に葬って、真心を尽くすのです。「一番偉くなりたい者は仕える者となりなさい」言われた主の言葉を思います。彼女たちは偉くなりたいと思わなかったかもしれません。そして実際男の弟子たちからも偉いとも思われてはおらず、むしろ、話をしても、「なんだ、女の言うことじゃないか」ということでしょうか、信じてももらえなかったようです。しかし彼女たちは、実はこのように主の言葉に従っているのです。たとえどんなに希望の見えない時にも。これからどうすれば良いのか、と途方に暮れる時も。取りあえずしたことは、イエス様に対する礼儀、感謝を具体的に表すことだったのです。

しかも、お墓に出かけたのは、冷静で計画的とも言えない行動であったようです。なぜなら、彼女たちはお墓の入り口に大きな石があるので、中には入れないことを知っていたのですから。ところがこのような女性たちを主は祝福しておられます。彼女たちは他の弟子たちと同様、主のご復活のことが分からなかった。覚えてもいませんでした。それでも主に対する愛を表して、お墓にやって来た。泣きに来たのかもしれません。その女性たちを祝福して、主は空っぽの墓を見せてくださいました。なぜご遺体は消えてしまったのだろうか。もしや泥棒が盗んだのだろうか。仰天した彼女たちが、あれこれ思い悩む前に、主は白い衣の若者を遣わされました。白い長い衣が天使を思わせます。

彼は次の言葉を告げます。「驚くことはない。あなたがたは十字架に付けられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」「驚くことはない。あなたがたは十字架に付けられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」復活!彼女たちも知っていました。イスラエルの人々は皆、死者の復活を信じていたからです。わたしたちは皆終わりの日に復活させられ、神の裁きを受けなければならないことを。

イエス様は人間の罪を借金に例えられました。神様に借金しているその負債額は天文学的数字にも上ると言われたのです。人は神様に、きっと自分で払いますから待って下さいと願っていますが、到底自分で返すことはできないのです。そこで、神様は人をかわいそうに思い、負債を免除して上げました。天文学的数字の負債をゼロにしてくださる神。その方はどんなにありがたい方でしょうか。終わりの日にどんなに感謝してもしきれるものではないでしょう。ところが罪の赦しを約束された人は、何と、自分に対する人の罪が赦せません。大きな深刻な罪から小さな些細な罪に至るまで、どれもこれも赦せないのです。

神様がお怒りになるのはこのことです。神様は御子を世に遣わして、大きな罪も小さな罪も決して免れない世の人々を憐れんでくださいました。そして人の罪がどれだけ大きいかをまざまざと目の前に見せてくださいました。それが御子の十字架の死です。何の罪もない真心溢れる方を、残虐な死に追いやったのは、力ある者、世の指導者たちではありませんか。それを止めることもできない民衆は、ただ力ある者に追随するばかりなのです。この方の誠実を知り、その隠れた愛の力を知っている弟子たちさえ、逃げ出してしまった。一体だれが、神の恵みに与るにふさわしいでしょうか。全くだれ一人いないのです。

罪が赦されるにふさわしい人はいない。救われる値打ちのある人はいない。しかし、イエス・キリストはそのような罪人を愛して、救いに招くために世に来られ、十字架に死んでくださいました。そして三日目に復活してくださった。それが神の御心であったからです。終わりの日に死者が復活して裁かれる前に、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じて、罪の赦しと永遠の命に結ばれるために、神は救いの道を開いてくださったのです。

では、この救いに与るために、わたしたちに必要なことは何でしょうか。この世の借金を返済するために一生懸命働くように、神様からお借りしている積りに積もった負債を返済しようと、良い業に励むことでしょうか。実際、そうしようとする人々は少なくないのです。そして大威張りで、「神様、わたしはあなたにお借りしているものは何一つありません」と言いたい人は多いのです。神様はこのような傲慢な人々にも忍耐しておられます。また、全くだらしがなく、人々にも神様にも重荷を負わせ、平気な顔をしている人々にもじっと我慢をしておられます。しかし、そこに、その人々に救いはあるでしょうか。

空っぽの墓を指し示して、天使は婦人たちに命じます。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かけて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」これが婦人たちに与えられた使命でした。福音を宣べ伝える者たち、弟子たちとペトロ。ここで特にペトロの名が挙げられているのは、ペトロが誰よりも強くキリストを否定して裏切ったからです。主は、ペトロに復活を知らせて、罪に苦しんでいるペトロを特別に慰めようとしておられるのです。こうして彼らに福音を運んだのが、女性たちでありました。それは、彼女たちに対する主の特別な祝福であり、励ましです。もっとも、彼女たちはただただ恐ろしくて、すぐにはその役割を果たすことができなかったようですが。このように、復活の知らせは、聞いても俄かには信じられなかったのです。主のご復活の喜ばしい知らせが、初めは恐ろしいこととしか思えなかったのです。

わたしたちは思います。人間は一方ではどんなに高慢であり、他方ではどんなに弱い者であるかを。そしてどんなに自分にこだわっているかを。自分はどのように生きて、どのようにして死を迎えるか、にばかりこだわり、自分を中心にすべてを考えるのです。しかし、本当にこだわらなくてはならないことは、キリストの死と復活であります。一体、キリストは、あなたと関わりなく十字架に死なれ、あなたと関わりなく復活されたのでしょうか。この答を考えてください。神はキリストによってわたしたちにその答を与えておられます。「そうではない」と。キリストはあなたのためにも十字架に死なれ、あなたのためにも復活されたと。

これを信じるならば、あなたの人生は変えられます。自分にこだわる者から、イエス・キリストによって、神様との関係にこだわるものに変えられる。キリストに結ばれたあなたは生きる時も、死ぬときも、神に属する者と変えられます。その時、あなたの命は神のもの。神の中に隠されていると知るでしょう。その時、あなたはキリストと共に死んで、キリストと共に神の永遠の命に移って行くでしょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神様

主のご復活を祝い、感謝を捧げる礼拝に、わたしたちをお招き下さり、真に感謝申し上げます。わたしたちは小さな群れですが、あなたを仰ぎ見、天にも地にも一つである

キリストの体なる教会を見上げ、主の御心に適った教会を建てようとわたしたちはみ言葉を聞き、聖餐に与って、主の聖霊がわたしたちの心を照らしてくださることを切に願っております。

本日あなたは、わたしたちの群れに1人の信仰者を興してくださいました。真に感謝申し上げます。どうか、今日洗礼の恵みに与った齋藤倫子姉妹を豊かに祝し、ご主人齋藤眞兄と共に助け合って、主に仕えることができますように。遠くから通って来られますので、あなたがその道々を顧みてくださいますよう、お願いいたします。また、教会のすべてのものがこの洗礼式を通して改めて自分に与えられた計り知れない救いの恵みを再認識し、主と結ばれた者としての自覚、信仰を増し加えていただけますよう、お願い申し上げます。

変わりゆく時代の中で、変ることのない主の御言葉による主の御支配が、この教会の上に、そして共に学び、歩んでいる東日本連合長老会の諸教会の上に、また志を同じくする全国連合長老会、また改革長老教会の諸教会の上に豊かにございますように祈ります。

人口減少が進むこの国で、次世代にもとこしえに残る神の言葉を伝えるために、どうかわたしたちをお用いくださり、知恵と力と、何よりもイエス・キリストに現れた計り知れないあなたの愛をお与えください。新年度が始まりました。どうか、今月行われる成宗教会総会にあなたのご計画を表すことができますように。議案の準備、また長老選挙を導いてください。私たちはそれぞれが多くの課題、多くの困難を抱えています。その中で日々の信仰の戦いを立派に戦うために、自分中心を捨て去り、主に従って、主の御支配を仰ぐものとならせてください。そして、わたしたちの死を打ち破り、あなたの永遠の命をいただくために、それぞれの戦いを主の戦いとしてください。教会の戦いをキリストの命が現れるための戦いとしてください。

ご病気のために、また様々な弱さのために苦しんでいる方々を覚えます。今日いただく聖餐、あなたの計り知れない恵みを感謝し、共にこの救いの恵みに与る人々を覚え、祈ります。この感謝と願いをわたしたちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。