東日本連合長老会教会修養会
2018.9.24
成宗教会 並木せつ子
聖書:マタイによる福音書9章35-37節(口語訳)
イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。そして弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。」
<はじめに>
この度の教会修養会において私に講演の機会が与えられたことを光栄に思います。私は成宗教会に赴任し牧会の務めを担って十七年目になります。その務めは結果的に高齢化社会の教会の牧会が中心になりました。これからお話しいたしますことは、事例の報告とそこから見えて来る課題です。そしてこのようなささやかな経験と考察も、これからの時代にわたしたちが共に教会を建てていくために、何かしらの参考にしていただけることを希望いたします。
Ⅰ 問題意識…一人の老婦人の願い…
私は東神大に編入学するまでの約二十年を、ある名古屋の教会で過ごしました。それは大変大きな教会で、またその頃から高齢化が特に進んでいた教会でもありました。その時代は敬老の日の行事が盛大に行われ、何十人もの教会員がお祝いに招待されていました。そういう会食の席でのことです。隣にいた老婦人は私に次のように語りました。「年を取って礼拝に出ることができなくなっているけれども、お葬儀は教会でしてほしいので、牧師先生が家に来てうちの息子に頼んでくれないだろうか」と。
そこで、私は長老会の席でこの方の希望を話しました。ところが全く牧師からは何の反応もありませんでした。そればかりか、長老の一人がはっはと笑って、私に「並木さん、あんたが行ったらいいでしょう」と言ったのです。私は衝撃を受けました。これは笑いごとなのだろうかと。長年、礼拝を守った古い教会員が高齢になり、教会まで足を運ぶことができなくなる。それをどうして他人事のように思うのかと。その時の長老会の構成員は多くが六十歳に近かったと思います。
そこは都会の中心部にある大きな教会で、礼拝には新しい来会者が次々に訪れていました。しかし、一方古くからの教会員は高齢になり、礼拝が守れなくなる。その人を連れて来てくれるような家族もいない人は、どうなって行くのか。忘れ去られて行くのか。心に掛かることでした。時代はバブル絶頂期の頃で、礼拝中は眠っている人々がいっぱいでした。物質的に満たされ、満足した心は眠っているような時代だったのだろうと思います。しかし、私の心に残る礼拝者の原点はもっとずっと昔、五十年も前の頃、私が洗礼を受けた仙台東一番町教会にあります。今から思えば終戦から二十数年しか経っていなかった時代。会堂の片隅に座って説教を聞いている老婦人が肩を震わせて泣いておられました。私は思います。あの時代の方たちはご無事で信仰生活を全うしたのだろうかと。
Ⅱ だれも自分の老後を考えなかった時代
私は五十歳になる年に献身しましたので、東神大を出て、成宗教会に赴任した時、私はこれが最初で最後の赴任地と何となく心に決めていました。アッという間に十七年が過ぎたという実感です。
さて、成宗教会もまた初めから高齢化の問題を抱えていました。教会に忠実に仕えて来たその当時の役員会のメンバーの一人は、私が赴任した年に認知症専門のグループホームに入居しました。また同じく役員だった別の人は、初めて礼拝で出会った日に、これから入院してガンの手術を受けますと言いました。成宗教会には、私の前々任者が作って残そうとしたカードがありました。今時の言葉で言うなら、いわゆる教会員の終活カードで、名前は『旅立ちの日のために』というアンケートでした。その目的は、教会の会員一人一人に、自分の最期についての要望を聞いておくことであったのだと思います。そのカードには、万一の場合、だれに連絡を取れば良いか。葬儀についての希望の有無。納骨する場所、家の宗教との関係等々、教会員の個々の実状や希望について、かなり詳しく書くことができるようになっていました。しかし、私はここでも衝撃を受けました。なぜなら、実際にそのアンケートに答えたという記録は、一人を除いてだれもいなかったからです。
つまり、ただ一名の方だけが明確に、「成宗教会で葬儀を」と答え、自分の愛唱讃美歌など登録していたのですが、しかし、私は結局その方には全くお会いすることはできませんでした。なぜなら私が赴任した時、既に彼女はどこかの老人ホームに入居しており、その息子さんは自分も成宗教会員でありながら、教会の後任者である私に、母親のいる施設を知らせてはくれなかったからです。せっかく本人は自分の葬儀の時にこの讃美歌を、と希望しておられたのに、家族から知らせが届いたのは、彼女が亡くなってから、お骨の写真一枚だけという結末になりました。
だれにも間違いなく来る日は、地上での最後の日であります。それなのに、だれもそのことを考えないということに私は唖然としました。しかし、次第にだんだん分かって来ました。皆さん決して考えなかったのではない。けれども、実際どうすれば良いのか、考えが及ばないのだと。しかし、それは更に深刻なことです。なぜなら、だれも自分の最期について見通しがないということは、つまりだれもが明日も知れないということだからです。
わたしたちは、なぜこんなことになってしまったのか、と考える時、その理由のひとつは、まず自分が老いるということそのものが、受け入れられないからではないか、と私は思います。社会全体がそういう風潮であることは、高度経済成長期から少しずつ始まっていたと思いますが、こういう感情は当然教会の中にも入り込んで来ていました。私は教会の70代の方が、「おばあさん」と呼ばれたくないどころか、「おばさん」と呼ばれるのも嫌、と言っていたのを思い出します。また、成宗教会では、バブルの時代の敬老の日に、牧師が70歳の方にお祝いを渡そうとして拒絶されたという逸話も残っていました。高齢化は厳然とした事実なのに、それを認めたくない。人は例外なく皆老いて、終わりの日を迎えるのに、そのことを拒否していたのです。
これは深刻な問題だと思います。なぜなら、自分が老いていくことを受け入れない、ということは、老いている人を見ても自分に置き換えて考えないということになるからです。
つまり、イメージする能力がないということです。マタイ9章36節に言われます。「また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深く憐れまれた」と。しかし、このようにイエスさまが深く憐れまれた人々のことも、自分の現実の中ではイメージできないのではないでしょうか。なるほどイエスさまは憐れんでくださる。けれどもそれは、飼う者のいないかわいそうな羊だけだ。そして自分はかわいそうな羊ではない。自分はちゃんと教会の中にいて、イエスさまを信じている。だから飼う者のいない羊のようではない、という意識があったのではないでしょうか。
しかし、現実は違っていました。自分たちがいつまでも若いという意識と、現実との差。それなのに、教会の一員として生きて終わりの日を迎えるという決意は曖昧なのです。その結果、直面する突然の事態です。私が赴任して二年が経った時、ある教会員が突然召されました。七十一歳の独身の男性でした。大変忠実な礼拝者であり、教会役員として教会学校校長として長年奉仕していました。ところが彼は受難節に風邪を引き、ひどく痩せました。イースターを迎えたので、無理をしないでお休みくださいと私は申しました。同時に「寝込んだら、必ずお見舞いに行きます」とも言いました。すると彼は「いや却って熱が上がりますから来ないでください」と答え、笑いを交わしてお別れしました。実際この方は独り暮らしでお世話する人もいなかったので、万一の場合、教会としては入院のお世話も必要では、と私は思っていたのです。
次の週、彼は本当に欠席されたので、私は主人と共にお宅を訪ねました。そして彼が家の廊下にうずくまって冷たくなっているのを発見しました。警察も救急車も駆けつけましたが、駆け付けるべき役員は皆、高齢のため来られませんでした。そして連絡すべき身内はどこにいるのか、警察に捜してもらわなければなりませんでした。その人は中学生の時からそこに住み、成宗教会に通っていたのに、教会は身内の連絡先も、彼の長年の勤め先も知らなかったのです。そして教会の人々のショックは計り知れないものがありました。なぜなら、その当時、自分より若い人が先に逝くとはだれも予想しなかったからです。それは、また一緒に教会で奉仕して来た自分たちの仲間が突然いなくなったことに対する深い悲しみだったに違いありません。しかし、私はこの教会員の葬儀式を終えた時、教会の牧師としての(まだ補教師でしたが)大切な務めを一つ果たしたという感慨が致しました。
この方は亡くなる頃、身内から強く勧められ、家をたたんで沖縄に引っ越して一緒に暮らすことになっていました。大人しい性格で身内に逆らえない彼は、しかし生まれながらの地元の人。たとえ死んでも家を離れたくない、教会を離れたくないというのが本心だったと思います。それで私たちは思いました。神様は彼を、わたしたちの教会から、彼の住み慣れた家から、御許に召してくださったのだ、と。そして忠実に礼拝を守っていた彼だから、自分が礼拝を休んだら、伝道師が早速駆けつけて来ることを、彼は信じていたことでしょう。だから彼は自分の遺体がだれにも発見されず長く放置されることはない、と安んじて、息を引き取っただろうと思います。教会は悲しみの中にも、心から思うことができました。本当にこの方は苦労の多い人生を送ったけれども、私たちが考えられる限りの最良の最期を迎えたのだ、と。そこで初めて教会は慰めを受け、感謝が湧いて来ました。そして、いつまでも良い思い出が教会に残されました。
私たちがキリストの御名を信じて教会の一員となったということは、地上にある限り最後まで、地上の教会に所属するということです。もちろん天上の教会に名を記されていることは一番大切なことですけれども、だからこそ、地上でどのように最期を迎えるかが問題ではないでしょうか。クリスチャンの最期の姿は、貧しいとか、豊かだとかいう問題ではありません。病気がどうだとかこうだとか、という問題でさえないでしょう。ボケているとかいないとかさえ、問題にならないと私は思います。そのようなことは、人間としてはもちろん気にかかることではありますが。一番大切なことは、教会が、教会員を、教会員として教会から天に送ることだと思うのです。
Ⅲ 認知症でも忘れないこと
私が神学生としてお世話になった教会で、仰せつかった仕事の一つは、認知症で独り暮らしの教会員の訪問でした。都内の一等地にあるその方のお住まいは、治安も心配ないところでしたが、長年の独り暮らしの間に、ものみの塔の人が上がり込んで訳も分からないままに王国会館に連れて行かれたということがあり、その方を訪問し見守るのが私の役目でありました。しかしその方は、話の内容の記憶が大体15分もするとなくなるのです。だから何回訪問しても初対面のように挨拶するのは大変でしたが、その方も私を見て「この人は誰だろう。何しに来たのだろう」と、毎回、初対面のように緊張するのではないか、と思うと、実に痛ましい思いがしました。しかし、不思議なことに、全く何も記憶に残らないのではないようでした。彼女の心のどこかにうっすらと積もった雪のような淡い記憶が残るのではないかと、だんだん思うようになりました。たとえ名前は憶えてもらえなくても、回数を重ねるうちに、その方との間には何となく信頼関係が生れたからです。
このような経験が成宗教会でも役立ちました。教会の中で中心的に活躍していた教会員の何人かについて、お話することは、神さまの恵みを証しする光栄となります。そのお一人F姉は、亡くなるまでの三年間認知症専門の共同ホームで過ごしました。ご家族は礼儀正しい方々ですが、私に笑いながらこう言われるのです。「先生、わざわざいらしても、母は全然覚えていませんよ」と。私をがっかりさせるためにそう仰ったのではないのですが、ご家族は信仰を持っておられないので、「何でもすぐ忘れる人の所に訪問するのは無駄なことだ」と考えたようです。無理もないことですが、正直、私にはサタンの嘲笑う声を聞くような思いがしたものです。それは、私が認知症の教会員の訪問することを無駄だ、無駄だと言って私の気持ちを挫けさせようとする圧力です。
そこで私はこのような教会員に対して、名前を憶えてもらうことも、牧師であると分かってもらうことも、あきらめました。ただ、いつでも「成宗教会から来ました」と挨拶したのです。すると、不思議なことに、F姉の顔がほころびました。相手が誰か分からなくても、成宗教会と聞いた途端に彼女は笑顔になります。そして、このことは他の高齢者にも全く変わりなく言えることでした。
成宗教会には九十代の信仰の友のK姉がいて会いたいというので、ある時、私はK姉をお嫁さんと共にお連れしました。F姉は大変喜んで最後にお祈りをしました。「神さま、今日は札幌教会の皆さんがお訪ねくださり、ありがとうございました。」F姉は若い頃、札幌教会の会員だったからです。でも、訪問したK姉の方もその間違いを全然気にしてもいませんでした。もはや教会は、札幌教会であろうと、成宗教会であろうとどちらでもよいのだろうと、私は感じました。そしてイエスさまの教会を信じるということはこういうことではないかと思わせられました。この方の最期は敬老の日の翌日でした。義理の娘さんとお嫁さんとお孫さんがお祝いに来て会食を楽しんだその晩に倒れ、丸一日も寝込むことなく召されました。
もう一人の教会員I姉は認知症だけでなく、リューマチも患いながら、自宅で最期を迎えました。私の二代前の牧師の時代に、会計役員だった彼女のご主人が急逝したのですが、その家のお墓は港区のお寺の中にあったので、教会で葬儀をしてからそこに埋葬したいと申し出たそうです。すると、お寺さんに激怒され、聞いた話によれば、「墓石を掘り返して、先祖の骨を全部放り出してやるから、持っていけ!」と怒鳴られたということでした。そのとき、当時の牧師はどんなに悔しい、悲しい思いをされたことか、と私は思うのです。そんなことの後で、その牧師は成宗教会に墓地を取得する計画を教会総会に提起したのだと思います。
私が残されたI姉の所に赴任の挨拶に行ったのは、それから10年後のことでした。家に入ると、居間には仏壇と位牌がありました。その時、I姉が開口一番「父ちゃん、あの世に行っちゃったよ…」と言ったのには呆然としました。さらに同居していた息子さんが自分の母親を指さして、私に「この人、ボケてるよ」と言ったことも思い出されます。真にこのご一家を襲った悲しみの大きさ、深さを思わされます。I姉もまた、私が成宗教会の先生の次の、次の先生であることは、最期まで分からなかったかもしれません。しかし、私はだんだん確信が湧いてきました。家の入口に立って、「教会から来ましたよーっ!」と叫ぶと、皆さん笑顔になることを。皆さん、教会を信じているのだと。
I姉の最期についても述べたいと思います。ある春の日にお宅を訪ねると、訪問介護の若いスタッフが三人も来ていました。その中の一人の青年が彼女に食事を介助しながら、話しかけていました。その時、私は教会から来た話をして、彼女の若い頃の活躍についてこう話したのです。「Iさんはお若い頃、友の会で家計簿の指導をされていたのです。素晴らしい方なんですよ」と。すると、彼女の顔に一瞬、パッと赤味が射しました。それは、ぼんやりした認知症の人の表情ではなく、昔の彼女が偲ばれるような理知的で輝くようなお顔でした。私は一瞬、彼女の溌剌と活動していた時代を垣間見た気がしました。すると、食事の介助をしていた青年はすかさず、「へえ、Iさん、すごいんだねえ。それじゃ、ご飯をしっかり食べて、一緒に教会に行きましょうね」と言ったのでした。それから二、三週が過ぎた穏やかな五月の夜明けに、彼女は美しい新緑に囲まれた自宅で静かな最期を迎えたのでした。
Ⅳ 「一緒に教会へ行きましょうね」
一緒に教会へ行きましょうね、という一言。このことをわたしたちはどんなに言いたい事でしょうか。しかし、実際には誘っても、誘っても来ない人が多いのです。また、うちの教会の会員なのに、なぜか来なくなっているという人が少なくありません。「この人は無理矢理勧められたから洗礼を受けたはずはないのに・・・。自分で神さまと会衆の前で誓ったことなのに・・・」といくら嘆いても、どうにもなりません。
しかし、この言葉にも私は主の御業の不思議さを思わずにはいられません。教会を知らない、行ったこともない青年が、何気なく言った一言、「一緒に教会へ行きましょうね」という一言に、どんな意味が込められているのかは、言った本人にも分かりません。私たちさえ、気がつかないのです。しかし、この言葉が掛けられたその直後に、召されて行った教会員は他にもいました。Sさんも昔、婦人会で大活躍したのですが、私が赴任して初めてお訪ねした時には、既に寝たきりになっていました。私は話の出来る方ならともかく、目も開かない病人を前にして、どうしてよいか分からない状態の、新米伝道師でしたから、寝ている本人も困ったのでしょう。いびきをかいて寝ているふりをしていたのかもしれません。そして娘さんもお嫁さんも信者でない方々でしたから、それを見てさぞ可笑しさをこらえていたことでしょう。
それでも、主の憐れみの証しされないところはありませんでした。この方は足の指が壊疽になり、切断しなければならなくなりました。手術の後、この時もまた、私は彼女の友人であった教会員K姉とお嫁さんをお連れしてお見舞いに行きました。いつもは寝たふりをするのが常であったS姉は、懐かしい信仰の友が枕元に立っているのが分かりました。それで、見えない目を凝らして懸命に見ていました。その時お見舞いに来たK姉は言いました。「Sさん、早く良くなって一緒に教会に行きましょうよ」と。まあ、ここまで弱り果てては教会に行けるはずはないから、この人は気休めを言っているのか、と思うなら、それは本当に不信仰なことです。なぜなら、言われた当人は、心の底から安心したに違いなかったからです。「ああ、私は教会に行けるのだ」と。地上の教会に行けなくても、私たちは罪赦されて、天の教会に招かれているのですから。それから二日後に彼女は召されて行きました。
Ⅴ 訪問聖餐―その有難さと恐ろしさと―
(1) 初めての病床聖餐・・・T姉の最期の聖餐
高齢の教会員が礼拝から離れて久しい場合は、その多くが認知症的な状態になっていることは、私の経験上の事実です。こういう方々が聖餐の希望を自分から申し出るということはなかなかできない、またはしないのではないかと思います。礼拝の聖餐式でも、司式者が「ふさわしくないままで聖餐に与る者は・・・」という式文のところを読み上げると、明らかにギョッとして、それからしばらく姿を見せなくなる方がいました。「ふさわしい、ふさわしくない」という言葉を信仰的にどう理解するか?から、わたしたちは教育される必要があるのです。そして、自分は主に対してふさわしい者であるとは思えないという気持ちがあるわたしたちですが、それでも牧師に対して「聖餐を受けたいのでいらしてください」ときちんとお願いするように、わたしたちは教育されていなければならない。訪問聖餐を受ける立場になるまでにそうしなければならないと思います。
こうした意味でも、主は私を伝道者として大変恵んでくださいました。成宗教会には元牧師夫人であったT姉がおられました。既に九十歳を過ぎ、一人で教会に来られなくなっていましたが、ある日ご子息が来られ、母はもう長いことはないと知らせました。それは私が教区総会で按手礼を受けるその当日でした。私は次の日、病院を訪ねました。するとT姉はぐっすり眠っておられました。眠っている人にどうやって聖餐式を執行できるだろうかと心配でしたが、私は「明日の同じ時間に聖餐式に参ります」とお嫁さん方に話して、その足で訪問聖餐の用具を買いに教文館に行きました。そして次の日病床に伺うと、何とT姉はベッドの上に起きて、手を合わせて待っておられたのです。しっかりと感謝して彼女は聖餐に与ることができました。そして次の主の日の明け方に地上の生涯を終えられました。
(2) 家族の心配
T姉の聖餐式執行は私の牧師としての初めての務めとなりました。そして、ご家族が牧師の家の方々であったので、何の問題もなく恵まれました。しかし、年老いた親を持つ家族の方の中には、親の老い衰えた姿を人前にさらしたくない、という強い思いがあり、なかなか受け入れられない場合もあります。特に親が認知症の場合はそうでしょう。高齢になってから東京に引き取られて成宗教会に来たW姉は、大変信仰深い信者であるということを聞いていたので、亡くなる前に聖餐式を、と私は家族に伝えましたが、一番抵抗されたのはご子息でした。その方は、母が聖餐のパンと杯が分からなくなって、「なんじゃ、これは?」というのではないか、と心配されたのです。母はあんなに教会のことしか考えない母だっただけに、ボケてしまった姿を最後に見せたくないという子供の思い。本当に親が認知症になってみないと分からない苦しみであります。感謝なことに、ご子息の心配は杞憂に終わりました。私がご自宅のベッドの前で開口一番、「今日は聖餐式のために参りました」と言うと、彼女はすぐに布団の上に手を出して胸の前に組んだのでした。
聖餐に対する畏れ、その慰めに満ちた証しは、多くの高齢者、礼拝を守ろうとして守ることができなくなった人々によって、わたしたちに与えられています。特にリューマチのためにまっすぐに座っていることさえ困難だったI姉は、私が「聖餐を受けられますか」と声をかけると、座椅子に寄りかかっていた体が、まるで機械仕掛けの人形か何かがゆっくり移動するように少しずつ前に傾いて来ました。そして最後に彼女は、「謹んでお受けいたします」とゆっくり返答されたのでした。
(3) 物素について
聖餐のパンと杯の内容について、具体的にはどうするべきなのか、どこまでのことが許されるのかについては、私は未だかつて公の学びに参加したことはありません。パンについては、成宗教会ではカトリック教会のウェハースを四谷のドンボスコ社で入手していたことがありました。今は普通の食パンですが、教会の中には小麦アレルギーの方もいることが認識されるようになり、グルテンフリーのパンを探したこともありました。杯については、本来ぶどう酒なのですが、アルコールを禁じている教会の伝統があったり、未成年者やアル中の人をも考慮するということで、細かく配慮することが必要だと分かります。
成宗教会の50年記念誌には、有馬牧師が15歳で召天したご子息の最期の病床で、カステラとオレンジジュースで聖餐式を行ったというご家族の話が残されています。私の母は仙台の老人ホームで私が洗礼を授けましたが、そこは、大変キリスト教に理解のない施設で、私が家族であっても警戒されるような所でした。それで私としては、聖餐式も怪しまれないようにということもあり、旅行中で十分な準備ができないということもあって、いつもの訪問聖餐の道具を使わずに、普通のコップでぶどうジュースと丸いパンで聖餐式を行いました。96歳の母も立派な認知症と言われていましたが、やはり違いが分かるのか、「何だかこれはちがうじゃない?」という表情をしていました。
聖餐式では、物素も決しておろそかにできないことを実感したことです。
Ⅵ 教会を建てるのか、壊すのか
(1) 他教派との礼拝での聖餐
成宗教会が加盟させていただいた頃、東日本連合長老会の教会と違うところはいろいろありましたが、その一つに、浴風園キリストの会という超教派の老人ホーム伝道がありました。月一度の集会に、日本基督教団と福音派のそれぞれ二つの教会の牧師たち四人が交代で礼拝の説教を担当していました。ちょうど私が奉仕した頃は未受洗者陪餐が日本基督教団の中で大きな問題になっておりましたので、私自身も非常に神経をとがらせていました。なぜなら、聖餐については、他の教派でも一致していないことは耳にしていたからであります。
キリストの会ではクリスマスとイースターで聖餐式を執行していました。その司式も四つの教会の牧師が交代で行ったのです。ところがある時、某福音派の教会の牧師が聖餐を前にして未受洗者でも聖餐に招きたいような文言を皆の前で語ったのです。私は唖然としました。そして、すぐ隣にいた同じ教団の教会の牧師に耳打ちしました。「これは由々しい問題ではないですか」と。ところがその牧師は平然としてこう言ったのです。「問題なのは教憲教規なので、それを変えれば問題ではなくなる。」教師でさえ、聖餐を正しく理解しないのであれば、信徒は何が正しいのか分からないのは当然でありましょう。何よりも一致していなければならないことで一致できないのでは、心を合わせてイエス・キリストを宣べ伝えることはできないと実感させられました。
(2) 幼児洗礼のままの人々の陪餐の問題
ちょうど教団全体でも西東京教区でも未受洗者の陪餐が大きな問題になっていた頃、私は未陪餐会員が信仰告白をしないまま聖餐に与っているという問題に直面しました。東京神学大学では幼児洗礼の意味について、講義を受ける機会はなかったと思います。
そこで私は、とにかく幼児洗礼を受けている者は、信仰告白をしない限り、聖餐に与ることがあってはならないと思い、そのことは教会で徹底されているとばかり思っておりました。当然、私は幼児洗礼のままの未陪餐会員には、「信仰告白をするために学びましょう」と声をかけていましたが、教会員の中には自分の家の未陪餐の家族が牧師から誘いを受けることを嫌がる人がいるのには驚きました。そうかと思うと幼児洗礼のままでずっと陪餐していた会員もいて、誰もそのことに気づかなかったと思われ、私も本人から打ち明けられるまで全く想像もしていませんでした。これもまた私には深刻な問題と思われました。
毎年各教会に配布される連合長老会全国会議の資料の付録1には、洗礼、聖餐に関する基本的見解があって、その最後に「未陪餐会員の陪餐について」という項目があります。「未陪餐会員(幼児洗礼のみを受け、信仰告白をしていない者)は、各個教会長老会議による試問を受け、信仰告白式を経ることによって初めて聖餐にあずかることができる。我々は、幼児洗礼を、教会への入会のサクラメント(聖礼典)として認めるのであるから、未陪餐会員の陪餐を絶対的に否定するものではない。ただ、自覚的な信仰告白に生きる者の群れとしての教会形成を重んじて来た改革教会の教会理解においては、未陪餐会員の陪餐よりも、信仰告白へと導くことをこそ考えるべきである。」
私は当時、東部連合長老会に個人加盟したばかりでしたが勉強不足であり、連合長老教会としては、「未陪餐会員の陪餐を絶対的に否定するものではない」という立場であるということを後になって認識しました。当時は、日本基督教団は教会の信徒を陪餐会員と未陪餐会員に分けていることからして、未陪餐会員である幼児洗礼のみの会員は、当然聖餐に与らない。与ってはいけないはずだと思っておりました。この問題について適切な対応を取ることができなかったことは一重に私の責任であったと思います。しかし、一方、幼児洗礼の会員については、幼児洗礼を受けたということはどういう意味なのか、ということを当事者に教育することは、教会の務めではないかと思います。幼児洗礼を受けた者は自分がそうだという記憶も自覚も曖昧な人々が多いのではないでしょうか。その人々には洗礼が教会への入会式であることや、親と教会の信仰を学び、受け継ぐことが祈り求められているはずです。そうでないと幼児洗礼のままでいる本人はもちろん、親までが全く幼児洗礼について何も考えていないので、「牧師はうるさい」と思うというのは序の口で、場合によっては、ユニタリアンの信仰のように、「神は認めるけれどもキリストは認めない」ような人々を教会に連れて来て、無理に聖餐に与らせるという事件も、私の経験した事例にはありました。
Ⅶ 終わりに――飼う者のある羊のように――
教会の牧会について話を進めていくと、その結果は事件、発見のオンパレードのようになってしまいましたが、この辺でまとめなければなりません。私が伝道者としての務めた十七年(正確には十六年半)を振り返った時、確実に言えること、感謝せずにいられないことは、多くの教会員に支えられたということです。そしてその多くの方は高齢の方々でした。クリスチャンは自分に何かできると思っている時には、本当に主の御用に仕えているかどうかは分かりません。自分のすばらしさに思い上がって、実は飼う者のない羊状態になっているのに、主から心が離れてしまってもそのことに全く気がつかない。こういう状態では教会に奉仕しているつもりでも、主の教会を建てる働きからは程遠いことを痛感します。
ところが成宗教会には、今は活躍もできない高齢者が多くいました。私が赴任して最初の仕事は教会員の入院先に訪ねることでした。当然予告なしに訪ねたのですが、その方はやせ細ってベッドのスペース半分が空いていたことを思い出します。私が名乗ると彼女は枕の下から写真を取り出しました。それは何十年も前に若くして亡くなった成宗の婦人教職の写真でした。そして、その先生は私と同名だったので、「節先生が戻って来た」と言われたのです。この不思議な出会いと言葉は、赴任したばかりの私の背中をそっと押してくれました。
また、赴任した頃、「私は八十歳になりました」と言って話しかけて来た教会員がいました。それ以来、彼女はできる限り礼拝を守って、何かしら私に励ましの言葉をかけ続けてくださいました。女子大の教育に長く携わった方にふさわしく、私には未熟なところが沢山あったにも拘わらず、ひたすら良いところを探して励ましてくださいました。本当にありがたいことでした。私は、ガラテヤ3章28節の「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、・・・男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」という御言葉はそのまま受け入れていますが、それでも男性は男性を、女性は女性を教育し、保護し、支えることが大切だと思っています。私は、教会には女性の会員が多いので、女性教職も用いられるのではないかという思いもあって献身しましたが、このように自分が支えるよりも、年配の女性に支えられ、励まされて務めを果たすことができました。このことは、思いがけない、また何にも代えがたい恵みと感謝しています。
さて、その一方、次世代を担う若い人々への伝道と牧会について、私の失敗や限界の話の方は、言い出したらきりがありません。今、この務めは次の時代へと引き継がれることがふさわしいと思っております。七十歳で退くということは、超高齢化社会にあっては、早いとか言われることもあるでしょう。しかし、超高齢化社会というのは、少数の若い人々にとっては多くの務めを果たさなければならない超多忙な社会でもあり、教会においては、更にその状態は深刻です。わたしたちは若い世代に譲ってしまえば、それでお終いではありません。わたしたちは、今年バッタリ倒れるかもしれないし、また百歳以上生きるかもしれない。どちらにしても「後はどうなっても宜しく」という訳には行かないのです。私たち先に年を取るものは、ひたすら後から来る世代に後始末を頼むのではない、そうではなく、若い世代に慰めと励ましとなるように、生きなければならない。またそのように死ななければならないのです。
今日の私の話は教会の未来に、特に若い方々には明るい話という訳には行かなかったかもしれませんが、しかし、私は決して暗い話をしたつもりはありません。「収穫は多いが」と主イエスが言われているからです。自分に自信満々になって御言葉を聴かないような人生もわたしたちに長続きはしません。「収穫は多いが」という主の御言葉は、福音を受け入れる気持ちになっている多くの人々がいることを示唆しています。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と主は言われます。働き手とはだれでしょうか。福音伝道者でしょうか。牧会者でしょうか。それももちろんでしょうが、しかし伝道者、牧会者を送ってくださる大本の方は、聖霊を送ってくださいます。わたしたちが願うことは、期待することは、聖霊の主の働きそのものです。
私が証しさせていただきたい一番のことは、何の力もなくなった人々こそが主イエス・キリストの死を証しするために用いられていることです。最後に再び聖餐の話を致しますが、中村恵太先生が伝道師でいらしたころ、私も聖餐式のために十貫坂教会に伺い、そしてご高齢の教会員のお宅に訪問聖餐に伺いました。この話は十貫坂の礼拝でもさせていただいたのですが、その方は本当にご高齢でしたので、私は何よりも誤嚥性肺炎のことを心配しました。そこで私が遠慮して少しだけ、その方の唇に触れるだけにとどめようとしたときに、この方は渾身の力で杯にかぶりついて与ろうとなさいました。そうして三日目に召されて行きました。聖餐を受けることの有難さ、死を超えて主の命と結ばれるご自分を証しされたのです。
キリストに結ばれた命を証しする生涯。わたしたちの生きる目標はここにあります。主がわたしたちを用いてくださるのは正にこれからです。牧師であろうと、長老であろうと、信徒であろうと、何の区別もありません。等しくこの目標に向かってどのように生きるか。元気なうちは張り切って教会に通った。しかし、礼拝に出られなくなる。すると気が弱くなって、「私は何のお役にも立たなくなった」と思う。遠慮して牧師先生に来てくださいとも言えない。言えない理由はいくらでも出て来るでしょう。こんな遠くまで来てくださいと言うのは申し訳ない等々。そういうことで聖餐にも与ることができないのです。献金も自分の足で郵便局から送れるうちは良いのですが、それもできなくなる。家族にも頼めない。こういう困難が沢山出て来ます。しかし「私なんかいなくても教会は成り立っていくから良いのだろう・・・」と思うなら、それこそ自分から飼う者のない羊を目指していることになるのではないでしょうか。
そうではなく、わたしたちは飼う者のある羊を目指しましょう。主に結ばれた自分を証しして最期を迎えるために、(それは長い長い道のりになるか、短い道のりになるか、分かりませんが)牧師を招いて、御言葉を聴き、聖餐に与り、献金を捧げて主を賛美する生活を目指しましょう。人生にこれ以上高い目標はないと思います。これは主の教会の形成にわたしたちも最期まで参加させていただけるという実に喜ばしい目標ですから。