唇に良きおとずれを

成宗教会・聖霊降臨日聖餐礼拝

聖書:ヨエル2章23-3章2節, 使徒言行録2章1-11節

 今年も聖霊降臨日を記念する礼拝を捧げることができますことを、真に感謝します。成宗教会がこの地に礼拝を始めて、今年で78年。日本の地にプロテスタント教会が建てられて150年になります。(現在も残る横浜海岸教会です。) 今では全世界の津々浦々に教会があり、イエス・キリストの福音が宣べ伝えられていることを私たちは知っております。しかし、多くの人々は不思議に思うことでしょう。一体どのようにして教会が存在するようになったのか。かつては臆病だった弟子たちが、自分たちの言葉でキリストの真理を宣べ伝えることができるようになったのか、と。

毎年、教会が復活祭イースターを祝う時には、その前にわたしたちは、主が十字架にお掛かりになったご受難の道を振り返ります。そして、その中で、主の弟子たちがどんなに臆病であったかを思い出すのです。主は弟子たちを深く愛しておられ、弟子たちもまた主の愛を知っていました。それでも、主の十字架に従うことはできませんでした。ペトロをはじめ皆それぞれが逃げ出してしまったのです。

ところが、このような弟子たちが福音を宣べ伝えたのです。全世界に神の良い知らせを告げ知らせたのです。この世に奇跡が起こるとしたら、この不思議な出来事こそ、奇跡です。奇跡は人によって起こされるのではなく、神の力によって起こされるからです。これは宣教の奇跡です。それまでは、弟子たちは「神の偉大な業」を語るための「舌」(言葉)をもっていませんでした。しかし、その人々が、今や説教を語る者となりました。

創世記2章7節で語られている人間の創造の話を思い出しましょう。神は御自分の霊を、塵を吹き入れて、人間を創造しました。神の霊とは命の息であります。そして、使徒言行録2章4節では、神の霊はかつて臆病であった弟子に命を吹き入れられました。その結果、主は今や新しい人間を創造されました。新しい人間。それは伝道する弟子たちです。彼らは、大胆に語ることのできる賜物をもった新しい人間として造られたのでした。

最初に、主なる神は弟子たちに聖霊を、一度、耳に聞こえ、目に見える形でお示しになりました。2節。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」わたしたちは神の賜物について考えるには、あまり熱心ではなく、面倒くさがる傾向があります。だから、神の力がはっきりと分かるために、神が前もってわたしたちの感覚を目覚めさせてくださらなければならなかったのです。さもないと、神の力はわたしたちに見落とされてしまうことになるでしょう。

また。突然状況が変えられることについても、大きな意味があります。それは弟子たちが勇気を出して伝道する者になった理由を考えて、「偶然こうなった、」とか、「自分の努力のせいだ」と思わないために、必要だったのです。また、風の激しさも重要です。それは人々に恐れを与えるためなのです。人は自分の知恵や力、常識など自分の判断に頼っている間は、決して神の恵みを恵みとして受け入れるようにはならないのです。神の恵みによって立つのでなければ、決して福音を宣べ伝える教会は建てられないでしょう。ただ個々人の常識を信じ、力を信じるだけの教会は、決して主イエスの教会ではありません。わたしたちは自分の限界を知り、打ち砕かれる体験をして初めて直に神の恵みのすばらしさを受け入れるようになるのです。

神の霊は、聖霊、御霊とも言いますが、それは風を意味する言葉です。それは神の本質を表します。しかし、神の本質は私たち人間には測り知られないものです。聖霊降臨日とはペンテコステと呼ばれます。それは過越しの祭から50日目を表すギリシャ語です。主イエスが十字架にお掛かりになったその時も過越しの祭でありました。そして、もう一つのユダヤ教の祭が五旬祭というもう一つのユダヤの祭りでした。それは春の収穫の恵みを感謝する祭でありました。

主イエスに従う者たちは集まって祈り、待っていました。上からの力が与えられるのを待っていたのです。その時、新しい日は、風のような天からの音の噴出によって始まりました。最初は音だけを聞いたのでしたが、次に目に見えるものが現れました。それは、炎のような舌であります。舌とは何でしょう。英語でもそうですが、ギリシャ語でも、舌は同時に言語、言葉を表します。「炎のような舌」とは、5節以下に表現されているように、天下のあらゆる国の人々が使っているさまざまな言語を表しているのでしょう。一か国語ではなく、万国に神の恵み伝えるための万国の言語であります。

創世記8章には有名なバベルの塔の物語があります。かつて人間同士の言葉が通じなくなったのは、人間の傲慢に対する神の懲罰であったと言われています。しかし、この時、神はその懲罰を祝福に変えられました。人は互いに言葉が通じない、心が通じないために、ちりぢりバラバラにされてしまったのでありました。しかし、この人々を一つの祝福に入らせるために、神は主の福音を宣べ伝える使徒たちに各種の国語を語らせました。ここに集まっているのは、天下のあらゆる国々に散らされていたユダヤ人たち。彼らは他国で生まれ育った人々でした。

実にユダヤ人の国は何百年にもわたって、戦争に次ぐ戦争によって荒れ果て、その度に人々は他国に寄留する者とされたのでした。その苦難の歴史の中で彼らがどうして生きて行ったのか、それは奇跡としか言いようがないことです。中には、弱小国の民であることを捨てて、エジプトや、ペルシャや、マケドニア、ギリシャ、ローマに住み着き、地元の神々を拝み、自分たちのルーツを失ってしまった人々もいたかもしれません。しかし、しかし、他方では自分たちがアブラハムによって神の民とされた子孫であることを忘れない人々も全世界に散らばって存在していました。そして一方では、異なる国の言語を話し、異なる国の住民、市民でありながら、他方では、イスラエルの神を真の唯一の神として礼拝するために、ユダヤ教の祭にはエルサレムに集まって来るのを常としていたのです。そして、出エジプトの時も、それ以前も、このイスラエル人が神の許に帰って来る時には、その群れの中に異邦人たちもいたのでした。

今、大勢のユダヤ人と異教徒も含む全世界の人々がエルサレムに集まるこの祭りの時に、主はその霊を弟子たちに注いでくださいました。聖霊は、教会が福音を持って「民衆の場へ出て行く」力であり、教会に民衆をひきつける力であります。聖霊は教会に聞く価値のあることを語らしめる力を与えているのです。この霊の力こそが福音を宣べ伝えることを可能にします。その一方では、福音を宣べ伝えることは、人々に疑問を抱かせたり、戸惑いや嘲りとを呼び起こします。聖霊の力を受けて人々が力強く福音を宣べ伝え始めました。すると、そこには信じる者が起こされます。と同時に、意地悪くあざけっている人々が現れます。また真剣に尋ねている人々も現れます。このことの繰り返しが、最初の教会から始まっているのが分かります。決して一喜一憂すべきではありません。教会の働きは、すべて聖霊の力にかかっているのですから。

五旬祭、収穫の恵みの初穂をささげるこの日に、聖霊の恵みが人々にもたらされたことは大変大きな意味を表しています。旧約聖書では、聖霊が降ってくださるということは、神の預言が成就することを意味していました。それに対して新約聖書では、聖霊が来てくださるということは、復活の主・イエス・キリストの約束なさった救いの御業が、ここに完成したことを意味するのです。

神の驚くべき慈愛はここに輝き渡りました。では、この奇跡は何のために、だれのためになされたのでしょうか。これは皆、神の、わたしたちへの愛のためになされたことなのです。ところで、燃える炎のような舌、という表現の炎とは何を指し示すのでしょうか。使徒たちは元々、ただの人間、弱さと欠点を持った人間に過ぎません。しかし、彼らの上に聖霊の助けが降ったのは、彼らが全く新しい者として用いられるためです。ですから、彼ら、使徒、宣教者たちの声の中に、神の尊い力が示されることを、決して疑ってはならないのです。彼らの声、彼らが語った福音は、聖霊の臨在を証明するしるしでありました。このしるしは、わたしたちを真理に与らせるために、真理を示すのです。わたしたちの感覚によって理解できるように示しているのです。

主は彼らの語る神の偉大な業をほめたたえる言葉を、その声によって、人々の心を燃え立たせようとしておられます。ですから、彼らの言葉は、この世の虚栄を焼き尽くし、すべてのものを清め、一新するために燃える火に他なりません。使徒たちの教えは空気中で雷鳴のように鳴り響いたのではありません。そうではなくて、それらは人々の心に奥にまで入り込みました。心を天の熱い思いによって満たしたのです。そして、この力は、2000年前の使徒たちだけに与えられたのではありません。そうではなくて、今も日ごとに全世界の教会で証明されているのであります。

後に活躍することになる使徒パウロも5つの言葉で話すことができたと言われていますが、これを彼は勉学によって行ったのではなく、聖霊によって与えられたと言われています。これらの異なる言葉が用いられる目的は、もちろん、多くの異邦人に理解できるようにという配慮です。パウロは、ギリシャ人にはギリシャ語を、イタリア人にはラテン語を話したほど、言葉の多様さと理解力とを授かっていたからこそ、聴衆との真のふれあいが出来ていたのだと分かるのです。

ここに、離散していたユダヤ人たちの出身となる国々、地方の名前が並べられています。東はペルシャからカスピ海、南はアラビア、エジプトといった当時のほとんど全世界とも言える地方が書かれています。ユダヤ人は離散し、ほとんど全く滅ぼされたかのように見えるが、異国に在っても彼らの間に信仰の一致を保持したのは、神の奇跡であります。「ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」ここには二つの驚きが語られています。その一つは、最初の教会を形成した使徒たちが、実はガリラヤの無学な田舎出身者ばかりであったことでした。そしてもう一つは、それなのに彼らは、大勢の人々の前で一斉に異なった言葉の人々に理解できるように神の偉大な御業を語り出したことでした。ある者はラテン語を、ある者はギリシャ語を、他の者はアラビア語を話したと思われます。これこそ神の素晴らしい奇跡の御業ではなかったでしょうか。

わたしたちは、昨年、カンボジア伝道に召命を受けておられる今村宣教師ご夫妻をお招きして礼拝を守り、宣教活動を伺いましたが、やはり伝道をするために第一に取り組むことはその地方の人々の言語を学ぶことなのだと教えられ、感銘を新たにしました。明治の初めに日本に宣教した人々の傾けた努力もどんなであったことかと思います。しかし、改めて思いますことは、それは人々の努力によらず、聖霊の力強い助けによって遂げられたことです。聖霊は、主イエスの上には鳩のように降ってくださったと言われます。その姿はキリストの執り成しの職務を表すものであったでしょう。キリストはわたしたちの平和であります。キリストによって一つとされるところにこそ、平和が打ち建てられるのです。

わたしたちの努力では到底成し遂げられない、気の遠くなるような働きを、主は成し遂げてくださったのですから、わたしたちの努力すべきことはただ一つだけです。それは、キリストの執り成しに頼り、キリストに結ばれて平和を求めることです。家庭で。またそれぞれのいるところで。それぞれが与えられているこの地上の持ち場で。しっかりと主に結ばれて生きましょう。わたしたちの上に聖霊の助けを待ち望みましょう。炎のような舌に表される聖霊は、主の愛の炎です。わたしたちの汚れを清め、救いの福音を、神の賛美をこの唇に与えてくださる主の霊を待ち望みましょう。

ヨエル書は、打ちのめされた人々に神の救いを語ります。この救いは食い尽くすいなごからの解放。命を支える食糧をたちまち食い尽くすイナゴの大襲来からの解放に匹敵する救いなのです。この救いをあなたがたの子孫に語り伝えよとヨエルは叫びます。そのように、わたしたちにも主は命じておられるのではありませんか。神が主イエスの生涯と死と復活を通してなしとげてくださった神の力強い御業を彼らに語りなさい、と。

 

主なる父なる神様

聖霊降臨日の礼拝、あなたの尊き御業が成し遂げられたことを感謝します。わたしたちは、2000年前、主に従う民にあなたは主の霊をお遣わしくださいました。弱い者も力ない者も共に主の体の教会の肢とされ、あなたの霊で燃え立たせていただいたことを感謝します。多くの者にどのようにして救いの恵みを宣べ伝えることができるのか、それぞれの時代、それぞれの地方で、困難がございました。今、わたしたちに与えられている課題は少子高齢化の社会の課題です。しかし、あなたはいつでもどこでもあなたに信頼し、従う教会を助けてくださいました。わたしたちは自分の力を頼らず、あなたの恵みにより頼みます。どうぞ、わたしたちを用いて力強い御業を行ってください。この教会に新しい教師を遣わしてくださることを信じます。わたしたちに善き備えをする知恵をお与えください。

また、本日行われます東日本連合長老会教会会議の上に御心を行ってください。

この教会を今日まで守り導きくださったあなたの慈しみに感謝します。本当に小さな信仰しかない者をも憐れみ助けてくださいました。わたしたちは将来を見通すことはできませんが、これまでの歩みを振り返る時、たくさんの慎ましく美しい証しを残してくださった兄弟姉妹がいることを誇りに思います。あなたの恵みの足跡です。先週も江村姉の最愛のご家族が地上の生涯を終え、安らかな眠りについたことを伺いました。どうかご遺族の上に豊かな慰めと平安をお与えください。また今週26日に行われます焦 凝兄の結婚式に主の豊かな祝福を注いでください。あなたの恵みによってご家庭が導かれますように。

教会に集められた人々

聖書:ヨエル3章1-5節, 使徒言行録2章37-42節

 私たちの教会は只今、カテキズムによって教会が受け継いで来た信仰について学んでいます。カテキズムとは信仰問答とも訳されて来ましたが、必ずしも問と答えという形式をとるものではなかったようです。カテキズムという言葉の語源はカテケーシスという「響き合う」、「再び響かせる」という意味です。古代教会の時代から、洗礼志願者が洗礼を受け、聖餐に与るために、教会が伝えて来た信仰の言葉をくり返し学ぶことが熱心に行われて来ました。私たちはキリストの福音を宣べ伝えるために、共にキリストの救いの秘儀と信仰を伝え、共に救いに招かれていることを、繰り返し心に響き合いたいと思います。

さて、先週の新年礼拝では、「幸いな人」と題して、イエス・キリストの教えの一つ、山上の説教について学びました。主イエスは私たちに何を教えてくださったのでしょうか。それはこの世のことに忙殺され、目をくらまされ、この世の幸福と不幸を押しつけられて生きている人々には、――そして私たちもその中で苦しむことがしばしば、なのですが――驚くばかりの、そして信じがたい教えでありました。なぜなら、私たちを圧倒している価値観は、「豊かな人は幸いであり、喜んでいる人は幸いであり、あらゆる能力を発揮して人々を支配する人は幸いである」というものだからです。そしてそのような幸いを追い求める結果、身近なところから、全世界の隅々まで、不幸の種は尽きず、戦争の火種はつきません。

だから、それを見れば分かるのではないでしょうか。私たちの世界で通用している価値観がどれだけ間違っているかが。そして主イエスが教えられたことが、どんなに私たちにはそうは思えなくても、真に正しいのだと。キリストは神の御心を私たちに教えておられるのだと。神の御心は、私たちを御自身の国に招くことであると。神から遠く離れていた私たちを御自身の救いに招くことであると。神に造られた私たちであるのに、造り主を知らない私たち。人間は神に似る者として造られました。神の似姿に造られたのです。それなのに、神から離れ、神に背を向けて生きている人間は皆、罪人であります。

その人間を罪から解放するために、救い主は世に遣わされました。この方の贖いによって私たちの罪が赦されるためです。このようにまでして、罪人を愛しておられる神がおられる。キリストはこのことを知らせてくださいました。この愛の神を信じることが、どんなに幸いなことであるか。この神を、この愛を信じきって、神にすべてを委ね切って、神に従う人だけが、本当に幸いな人なのです。その人はだれでしょうか。それは主イエス御自身ではないでしょうか。主は本当に神の御心をご存じでした。主こそは本当に神を愛し、人を愛して愛し抜かれた方でした。

さて、今日の聖書は主イエスの弟子、ペトロが語った説教です。これはペンテコステの日、すなわち聖霊が弟子たちの上に降った日の説教です。主イエスは山上の説教をはじめ、たくさんの教えを下さり、その教えが真実であることを奇跡の御業で示してくださいました。しかし、弟子のうち、だれ一人として最後まで主イエスに従い切った人はいなかったのでした。皆、十字架に付けられた主から逃げ去ってしまいました。このことは、人間の力では、だれも主に従うことが出来なかったことを表しています。

しかし、十字架に死に三日目に甦った主イエスは、弟子たちを愛して、彼らに御自身を現してくださったのでした。では、弟子たちが本当に主イエスを神の子と、救い主と信じる者、本当に従う者となったのは、いつでしょうか。それは、ペンテコステの日、すなわち、聖霊が弟子たちの上に降った時だったのです。

人々はその時、弟子たちが言葉の壁を超えて神の偉大な業をほめたたえるのを聞きました。その時ペトロは立ち上がって旧約の預言書ヨエルの言葉を語り始めます。預言の言葉が実現したのだと。今日読んでいただいたヨエル3章1-5節です。「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように、シオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」1425頁。

聖霊の奇跡の御業は、言語の壁を乗り越えることばかりではありませんでした。聖霊は頑なな人々の心を打ち砕いて、ペトロの教えに耳を傾けさせたのです。だからこそ「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言ったのです。これこそ、悔い改めの始まりでした。なぜなら、ペトロが「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」と宣言し、「あなたがたは、この方を十字架に付けて殺してしまった」と追及したからです。しかし最後に、「神はあなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と証ししました。聞いていた人々は、自らの間違い、不幸に胸を突き刺されました。そして彼らは神への恐れに満たされたのです。それは、悔い改めの始まりであり、聞いていた人々に福音が訪れた瞬間でした。

ペトロは言います。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と。悔い改めとは、何よりも人が心において新たにされることです。ローマ12章2節「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えるようになりなさい。」291下。主に教えられ、主に従って、今までとは全く別人のように心新たにされたい人を、神は決して拒まれません。主イエスはまた、「門をたたきなさい、そうすれば、開かれる」(ルカ11章9節)と約束しておられます。

人々の言葉「わたしたちはどうしたらよいのですか」は、直ちに神に服従する彼らの志を意味します。一方では、聖霊が教えるものに神のご意志を与え、他方では聞く者に悔い改めを起こしてくださる。どちらにも聖霊の御業が働いているのです。福音の訪れの第一歩は、ペトロが人々に自らの罪に思い至らせ悔い改めを促したことです。しかし、それと同時にペトロは人々に罪の赦しの確信を与えました。罪を知らされただけでは救われる希望はありません。ですから罪の赦しがキリストによって備えられていると、ペトロは語りました。それによって伝道者は罪人を正しい道に立ち帰らせることが出来たのです。

ですから、悔い改めと赦しは、主イエス・キリストの名によって宣べ伝えられなければなりません。私たちのために死んでくださったキリストの死に、私たちも結ばれなければ、私たちは神と和解することが出来ない。すなわち、キリストの復活の命に結ばれることはできません。このことが教えられ、受け入れられる時、信じる者には、バプテスマを受けることが勧められます。バプテスマは救いの恵みを約束する保証であります。

そうすれば、賜物として聖霊を受けると、人々は教えられました。聖霊の恵みはイエス・キリストが天に在って父と共に私たちに与えられる賜物です。聖霊によって、私たちは心に信じていることを真心から告白することが出来るのです。聖霊によって私たちに賜物が与えられます。また聖霊によって私たちはサタンとこの世の誘惑や脅しに対して立ち向かうことが出来、勝利することが出来るのです。

このようにわたしたちは溢れるばかりの救いの恵みを受けるのですから、家族、友人、社会のあらゆる人々が、主イエスの福音を聞くことが出来るように、悔い改めに至り、罪の赦しの確信を得て、キリストを救い主と信じて、神に従う者としてバプテスマを受けることが出来るように、日々祈りを篤くしようではありませんか。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と宣言されているからです。

ペトロは、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めました。この勧めも、私たちはしっかりと心に留めなければなりません。神の愛を信じる者の一番の困難は、キリストに敵対する人々、また神に背いている者が絶えず仕掛けて来る有形無形の攻撃なのです。ペトロはこういう危険から離れることを命じました。私たちにも警戒が必要です。私たちが世に在って生きることは、邪悪な人々に従うか、それとも、善良な人々と共に神に従うか、という選択をしながら生きることなのですから。

ペンテコステの日、ペトロの初めての教えを受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わったということです。ここに聖霊の御支配により教会が始まりました。福音はイエス・キリストによる恵みの救いです。この主の死につながれ、主の命に結ばれ、主イエスが例えられたように、真のぶどうの木に接ぎ木された人々が教会であります。教会と訳されたギリシャ語エクレシアとは、元々は呼び集められた人々、のことでありました。招集された議会のことです。

それでは最初の教会、キリストに呼び集められた人々は何をしたでしょうか。そのことが、2章42節に書かれています。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」最初の教会は、自分たちの信仰を確かなものにするために役立つことを絶えず熱心に努力することでありました。説教者の教えを聞きました。なぜなら、教会の魂がここにあるからです。神の御子が使徒たちを通して与えてくださった教えがあるからです。人々は教えを聞いて自分たちの生活に役立たせることに努めました。

次に信徒同士熱心に交わりをし、共にパンを裂いたとあります。パンを裂いたのは、一緒に食事をしたということよりもむしろ、聖餐式を執り行って主の体の教会を建てていることを意味します。信徒同士の交わりは、教えを聞いている結果、起こっていることです。共に集まっているところに、キリストを通して祈りの扉が開かれるのです。ここでは当然のことながら、共通の信仰の告白も整えられて行ったことでしょう。最初の告白は、「イエスは主である」という短いものであったそうです。それを皆で唱える。そして皆で祈るのです。もし皆が共に祈るために集まらないとしたら、一人一人が特に自分の家の中で祈りを捧げても、それは十分であるとは言えないのです。

今日の聖書から、私たちは教会にはどのような人々が集まって、何をしていたかを学びました。それは二千年経った今日の教会と変りありません。建物とか、規模とか、言葉とか、讃美歌とか、そういうことを別にすれば、変わりないのです。なぜなら私たちもまた真の教会を建てることを目指しているからです。真の教会のしるしとは何でしょうか。少なくとも、そこには、教え、聖餐、交わり、祈りがなければなりません。それは、共に集まり、教えを受け、聖餐に与り、主に在る交わりの中で祈る教会です。

わたしたちは今、厳しい時代にいると言わなければなりません。教会に集まることが難しくなかった時代と比べているからですが、子どもたちや若い世代が大勢いた平和な時代がありました。家が狭いので、日曜日は親が子供たちを教会に追い出してくれ、教会は溢れるばかりでした。また、大人も日曜日は休みという職業も多かったのではないでしょうか。今は介護、養護、病院、など24時間、365日の交代勤務。休日があってないような仕事も増えました。高齢者が出来なくなった仕事を下の世代が担って行く。本当にゆとりのない時代。しかしそういう時代でも教会は続いて行きます。それは、「続いて行かなければならない」という義務ではなく、たとえ私たちには非常に困難でも、主が続けてくださるからです。集まることが困難な人々が増える度に、私たちは改めて思います。主に在る交わりの尊さを。互いに祈り合うのは、主が私たちを恵みによって集めてくださったからです。主が大切に思ってくださる兄弟姉妹だから私たちもそう思うのは当然です。私たちは弱い。しかし、主は私たちを励まして聖霊の助けによって支えておられます。私たちは困難の中にこそ、主が幸いだと言ってくださる教会の交わりの喜びが生れているのを感じるのではないでしょうか。祈ります。

 

恵み深き主イエス・キリストの父なる神様

本日の礼拝を感謝し、あなたの尊き御名をほめたたえます。今日も私たちを呼び集めて下さり、恵みの礼拝に与りましたことを感謝いたします。真の教会の姿を、私たちは追い求めながら、日々困難と向き合っています。しかし、あなたが私たちに御言葉を聴き、交わりを持ち、祈りをささげる教会としてくださいました。どうか、今、力弱くなっている方々をお支えください。共に御前に出ることが出来ますように。また、どうか、私たちに与えられた福音を後の時代にも伝えるために、この教会を用いてくださいますように祈ります。成宗教会が東日本連合長老会に加盟して以来、共に学び合い、助け合って歩んでいる諸教会を覚え感謝いたします。小金井西ノ台教会の引退教師の青戸歌子先生が召されました。残された青戸宏史先生の上に慰めが豊かにございますように。

本日は今年最初の長老会を開きます。この教会、また東日本の教会の諸行事を通して、また長老、信徒の方々を通して、主の恵みの御業が現れますように、生かし用いてください。特に少子化の時代に教会を建てようと、連合長老会のみならず、教区、教団、更には他の教派との間にも協力が生れていると聞きます。主よ、どうか心を低くして共に祈るこれらの働きを祝福して下さい。

今、病気やお怪我のため、療養しておられる兄弟姉妹を特に顧み、またご家族を祝して下さい。癒しの御手を祈り求めます。

この感謝と願いとを、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。